三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』載記より、「李流・李庠・李雄伝」を翻訳(1)
李特伝は、『解体晋書』さまのサイトで翻訳が読めますので、ぼくが未熟な挑戦をする必要はないと思います。ネットで検索した限りでは読めなかった、李特伝の次に書かれている人たちの列伝を翻訳します。

李流,字玄通,特第四弟也。少好學,便弓馬,東羌校尉何攀稱流有賁育之勇,舉為東羌督。及避地益州,刺史趙廞器異之。廞之使庠合部眾也,流亦招鄉里子弟得數千人。庠為廞所殺,流從特安慰流人,破常俊於綿竹,平趙廞于成都。朝廷論功,拜奮威將軍,封武陽侯。

李流は、あざなを玄通という。李特の4番目の弟である。若いときから学を好み、弓馬が巧みだった。東羌校尉の何攀に、「賁育ノ勇」があると言われ、東羌督に推挙された。益州に避難したとき、益州刺史の趙廞は、李流の器量が特異だと認めた。趙廞は、李庠と率いる人民を合流させた。李流は、郷里の子弟を招き、数千人を得た。
李庠が趙廞に殺されると、李流は李特に従って、流民を安んじ慰めた。常俊を緜竹で破ると、趙廞を成都で平らげた。晋の朝廷は、趙廞を討った功を論じ、李流を奮威將軍にし、武陽侯に封じた。


特之承制也,以流為鎮東將軍,居東營,號為東督護。特常使流督銳眾,與羅尚相持。特之陷成都小城,使六郡流人分口入城,壯勇督領村堡。流言於特曰:「殿下神武,已克小城,然山藪未集,糧仗不多,宜錄州郡大姓子弟以為質任,送付廣漢,縶之二營,收集猛銳,嚴為防衛。」又書與特司馬上官惇,深陳納降若待敵之義。特不納。

李特が王朝を作ると、李流は鎮東將軍となり、東営を担当し、東督護を号した。李特はつねに李流に軍隊を厳しく調練をさせ、羅尚と軍隊を共有した。李特が成都の小城を陥落させると、六郡の流民を分割して入城させ、壯勇な人は、村堡を管轄した。李流は李特に言った。
「殿下の神のごとき武は、すでに小城に勝ちました。しかし山からの収穫は集らず、食料は多くありません。州郡の有力豪族の子弟を人質として差し出させ、広漢と縶の2ヶ所に移動させ、猛銳な人を集めて厳しく防衛させましょう」と。また李流は、李特の司馬を務める上官惇とともに上書し、降伏者を受け容れることを深く申し述べ、敵を待遇すべきだという考え方を説明したが、認められなかった。


特既死,蜀人多叛,流人大懼。流與兄子蕩、雄收遺眾,還赤祖,流保東營,蕩、雄保北營。流自稱大將軍、大都督、益州牧。

李特が死ぬと、蜀の人は多くが離反した。流民は大いに懼れた。李流と、彼の兄の子である李蕩と李雄は、人々を治めて、赤祖(緜竹の東)に帰還した。李流は東営を保った。李蕩と李雄は、北営を保った。李流は自ら大将軍・大都督・益州牧を称した。

時宋岱水軍三萬,次於墊江,前鋒孫阜破德陽,獲特所置守將騫碩,太守任臧等退屯涪陵縣。羅尚遣督護常深軍毗橋,牙門左氾、黃訇、何沖三道攻北營。流身率蕩、雄攻深柵,克之,深士眾星散。追至成都,尚閉門自守,蕩馳馬追擊,觸倚矛被傷死。流以特、蕩並死,而岱、阜又至,甚懼。太守李含又勸流降,流將從之。雄與李驤迭諫,不納,流遣子世及含子胡質於阜軍。

宋岱の水軍3万が、墊江に進出した。先鋒の孫阜が德陽(地名)を破り、配置されていた守将の騫碩を捕獲した。太守の任臧らは後退して、涪陵県に駐屯した。羅尚は、督護である常深の軍に毗橋させ、牙門の左氾・黃訇・何沖を遣わして、3つの経路から北営をを攻撃した。李流は(甥の)李蕩と李雄を自ら率いて、深い柵を攻め、これに勝った。常深が率いた軍勢は、星のように蹴散らされた。常深を追って李流は成都に到った。羅尚は閉門して守りを固めた。李蕩は、馬を馳せて追撃したが、(守備用に設けられた)倚矛に触れて傷つけられ、死んだ。李流は、李特・李蕩が2人とも死んでしまい、宋岱と孫阜が到着したので、はなはだ懼れた。太守の李含は、李流に投降を勧めた。李流はこれに従った。李雄と李驤が厳しく諌めたが、これを認めなかった。李流は、李流の子である李世と、李含の子である李胡を、孫阜に人質として差し出した。


胡兄含子離聞父欲降,自梓潼馳還,欲諫不及,退與雄謀襲阜軍,曰:「若功成事濟,約與君三年迭為主。」雄曰:「今計可定,二翁不從,將若之何?」離曰:「今當制之,若不可制,便行大事。翁雖是君叔,勢不得已,老父在君,夫複何言!」雄大喜,乃攻尚軍。尚保大城。雄渡江害汶山太守陳圖,遂入郫城,流移營據之。三蜀百姓並保險結塢,城邑皆空,流野無所略,士眾饑困。涪陵人范長生率千餘家依青城山,尚參軍涪陵徐轝求為汶山太守,欲要結長生等,與尚掎角討流。尚不許,轝怨之,求使江西,遂降於流,說長生等使資給流軍糧。長生從之,故流軍複振。

李胡の兄で、李含の子である李離は、父が投降するつもりだと聞き、梓潼郡より馳せ戻ってきて、投降を思いとどまるように諌めたいと願った。李離は退いて、李雄とはかりごとをし、孫阜の軍勢を騙し討ちにしようとした。李離は言った。「もし成功したら、きみ(李雄)を3年で君主に祭り上げることを約束しよう」と。李雄は言った。「いまの計画が成功したら、2人の翁(李流と李含)は従わないだろう。どうしようか」と。李離は答えた。「今まさに翁たちは、孫阜に制圧されようとしている。もし制圧されてはいけないと思うなら、大きな事業を行うのが良い。翁はきみの叔父であるが、時勢はやむをえないものだ。君はまだ老父が生きているだろう。今さら何を言い出すのか」と。※血縁者の命よりも、大きな志を優先させよという説得なのでしょう。
李雄は大喜びして、羅尚の軍を攻めた。羅尚は大城を保った。李雄は長江を渡り、汶山太守の陳圖を殺害し、郫城に入った。活動の拠点を、郫城に移動させた。
三蜀の万民は、険しい地形を守って、塢(小さな城)を築いていたが、城邑の備蓄はどこも空で、野に流れてよりどころがなく、士人も民衆も飢えて腹を空かせていた。涪陵の人である范長生は、1000余の家族を率いて、青城山に依っていた。
徐轝は、羅尚の参軍を務める、涪陵の人である。徐轝は、(李雄に敗れた)汶山太守を救援するために、范長生らと同盟することを望んだ。徐轝は、羅尚の軍を動員して、李流を包囲して討つことを提案した。羅尚が許さなかったので、徐轝はこれを怨んだ。徐轝は、江西に使者を出して、李流に投降した。徐轝は、范長生らを説得した。「物資を李流に提供し、彼らに軍糧として使わせないか」と。范長生は同意した。ゆえに、李流の軍は、息を吹き返した。


流素重雄有長者之德,每雲:「興吾家者,必此人也。」敕諸子尊奉之。流疾篤,謂諸將曰:「驍騎高明仁愛,識斷多奇,固足以濟大事,然前軍英武,殆天所相,可共受事於前軍,以為成都王。」遂死,時年五十六。諸將共立雄為主。雄僭號,追諡流秦文王。

李流はもとより、李雄には長者ノ德があると言って、重んじた。いつも李流は言った。「わが一族を栄えさせるのは、必ずこの人(李雄)だ」と。李流の病が篤くなると、李流は諸将に言った。「(李雄は)驍騎で高明で仁愛で、大いに奇抜な見識と判断力があり、もとより大きな事業を達成するために、資質は充分だ。李雄の軍は英武で、ほとんど天意と通じ合っているようだ。軍を率いて天命を受け、成都王となれ」と。
李流は死んだ。56歳だった。諸将はともに、李雄を主となした。李雄は成都王を名乗り、李流には「秦文王」とおくりなした。
『晋書』載記より、「李流・李庠・李雄伝」を翻訳(2)
李庠,字玄序,特第三弟也。少以烈氣聞。仕郡督郵、主簿,皆有當官之稱。元康四年,察孝廉,不就。後以善騎射,舉良將,亦不就。州以庠才兼文武,舉秀異,固以疾辭。州郡不聽,以其名上聞,中護軍切征,不得已而應之,拜中軍騎督。弓馬便捷,膂力過人,時論方之文鴦。以洛陽方亂,稱疾去官。性在任俠,好濟人之難,州黨爭附之。

李庠は、あざなを玄序という。李特の第3の弟である。若いときから、烈気によって有名だった。郡の督郵・主簿に仕えた。どこに仕えても、(補佐している)官職に匹敵する働きをすると称された。
元康四(294)年、孝廉に察挙されたが、就かなかった。のちに、騎射が上手なので、良将に推挙されたが、また就かなかった。益州府は、李庠が文武の才能を併せ持っているため、秀異に選挙したが、病いだと称して固く辞した。州郡は許さず、李庠の名を朝廷にチクった。中護軍が切迫して要求したので、やむを得ず李庠は官途に就き、中軍騎督を拝した。弓馬は敏捷で、膂力は人より強かった。当時の人は「李庠は文鴦のようだ」と論じた。
洛陽で乱が起きると、病気だと称して官を去った。李庠の性格には任侠が宿り、争いごとを仲裁することが好きだった。益州の徒党は、争って李庠に付き従った。


與六郡流人避難梁、益,道路有饑病者,庠常營護隱恤,振施窮乏,大收眾心。至蜀,趙廞深器之,與論兵法,無不稱善,每謂所親曰:「李玄序蓋亦一時之關、張也。」及將有異志,委以心膂之任,乃表庠為部曲督,使招合六郡壯勇,至萬餘人。以討叛羌功,表庠為威寇將軍,假赤幢曲蓋,封陽泉亭侯,賜錢百萬,馬五十匹。被誅之日,六郡士庶莫不流涕,時年五十五。


李庠は、六郡の流民とともに、梁州・益州に避難した。道路には、飢えた人や病気のものが溢れた。李庠は、いつも困窮している人を守って施し、大衆の支持を得た。蜀に到ると、趙廞は、李庠の器量を高く評価し、兵法をともに論じ、善いことを言わないことはなかった。趙廞が李庠に親しみを込めて言った。「李庠は、かつての関羽・張飛のようである」
趙廞に(独立しようという)異志が芽生えたとき、李庠に心膂(心と体=全て)の任を委ねた。上表して李庠を、趙廞の部曲督とした。趙廞は李庠に、6郡の壯勇を招いて集合させ、その人数は10000余人となった。叛乱した羌族を討った功により、趙廞は上表して、李庠を威寇將軍とし、赤幢曲蓋を仮に与え、陽泉亭侯に封じて、錢百萬と馬50匹を賜った。李庠が誅されたとき、6郡の士人と庶民で、流涕しな人はいなかった。李庠は、55歳だった。

李雄,字仲俊,特第三子也。母羅氏,夢雙虹自門升天,一虹中斷,既而生蕩。後羅氏因汲水,忽然如寐,又夢大蛇繞其身,遂有孕,十四月而生雄。常言吾二子若有先亡,在者必大貴。蕩竟前死。雄身長八尺三寸,美容貌。少以烈氣聞,每周旋鄉里,識達之士皆器重之。有劉化者,道術士也,每謂人曰:「關、隴之士皆當南移,李氏子中惟仲俊有奇表,終為人主。」

李雄は、あざなを仲俊という。李特の3番目の子である。母は羅氏という。母は夢をみた。2本の虹が自宅の門から天にかかっており、1本は途中で切れていた。まず羅氏は、李蕩を生んだ。のちに羅氏は、水を汲みに行ったとき、忽然と寝てしまった。また夢を見て、大蛇が羅氏の身体の周りをまとわった。のちに妊娠し、14ヶ月して李雄を生んだ。つねに羅氏は言っていた。
「私の2人の子供は、もしどちらかが先に死んでも、生き残った方は必ず大貴となる」と。
李蕩は先に死んだ。李雄は、身長が8尺3寸(191センチ)で、容貌が美しかった。若いとき烈氣があると評判で(李庠と表現が全く同じで『晋書』は芸がないですね)、いつも周囲の郷里をほっつき歩き、識達ノ士は、みな李雄の器量を重んじた。劉化という人がいて、道術士だった。劉化はいつも「関中・隴右の士は、みな南に移ろうとしている。李氏(李特)の子供の中では、ただ李雄だけが特別に優れ、ついには人の主となるだろう」と言った。


特起兵於蜀,承制,以雄為前將軍。流死,雄自稱大都督、大將軍、益州牧,都於郫城。羅尚遣將攻雄,雄擊走之。李驤攻犍為,斷尚運道,尚軍大餒,攻之又急,遂留牙門羅特固守,尚委城夜遁。特開門內雄,遂克成都。于時雄軍饑甚,乃率眾就谷於郪,掘野芋而食之。蜀人流散,東下江陽,南入七郡。雄以西山范長生岩居穴處,求道養志,欲迎立為君而臣之。長生固辭。雄乃深自挹損,不敢稱制,事無巨細,皆決于李國、李離兄弟。國等事雄彌謹。

李特が蜀で兵を起こし、王朝を開くと、李雄は前将軍となった。李流が死ぬと、李雄はみずから大都督・大将軍・益州牧を称した。都を郫城に置いた。羅尚は、将軍を遣わして李雄を攻めたが、李雄が撃破して敗走させた。李驤が犍為郡を攻め、羅尚の兵站線を切断した。羅尚の軍は、大いに飢えて、李驤を鋭く攻めた。牙門の羅特は、固守して留まったため、羅尚は城を人に委ねて夜に遁走した。羅特は開門して李雄を内に入れた。成都を陥落させたのである。
李雄の軍の兵糧がひどく不足したとき、群衆を率いて郪(地名)の谷に取り付き、野生の芋を掘って食べた。蜀人が流散すると、東に長江を下って、江陽につき、南の7郡を支配下に入れた。李雄は、西山の岩穴に住んでいる范長生を訪ねた。李雄は范長生に、道を求めて志を養った。范長生を主君に迎えて立て、李雄は臣となりたいと申し出た。范長生は固辞した。李雄は、深くへりくだって、あえて王朝を開かず、事案の大小に関わらず、李國・李離の兄弟とともに決定した。李國らは、李雄に仕えて、いよいよ謹んだ。


諸將固請雄即尊位,以永興元年僭稱成都王,赦其境內,建元為建興,除晉法,約法七章。以其叔父驤為太傅,兄始為太保,折沖李離為太尉,建威李雲為司徙,翊軍李璜為司空,材官李國為太宰,其餘拜授各有差。追尊其曾祖武曰巴郡桓公,祖慕隴西襄王,父特成都景王,母羅氏曰王太后。范長生自西山乘素輿詣成都,雄迎之於門,執版延坐,拜丞相,尊曰範賢。

諸将は、強く李雄に即位することを求めた。永興元(304)年、李雄は成都王を名乗り、版図に大赦をし、年号を「建興」とした。
晋の法を除き、法7章を定めた。李雄は、叔父の李驤を太傅とした。兄ははじめ太保となったが、李離と折り合わせ、大尉とした。建威(将軍)の李雲は、司徒となった。翊軍(将軍)の李璜は司空となった。材官だった李國は、太宰となった。その他、いろいろな官位を拝受した。曾祖父の李武を巴郡桓公とし、祖父の慕を隴西襄王とし、父の李特を成都景王とし、母の羅氏を王太后とした。范長生は、西山から質素な輿に乗って出てきて、成都にきた。李雄は門で出迎え、版を執って延坐し、范長生に丞相に就いてもらった。范長生を尊んで、賢者の模範とした。
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