三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝12より「王渾&王済伝」を邦訳(1)
王渾,字玄沖,太原晉陽人也。父昶,魏司空。渾沈雅有器量。襲父爵京陵侯,辟大將軍曹爽掾。爽誅,隨例免。起為懷令,參文帝安東軍事,累遷散騎黃門侍郎、散騎常侍。咸熙中為越騎校尉。武帝受禪,加揚烈將軍,遷徐州刺史。時年荒歲饑,渾開倉振贍,百姓賴之。泰始初,增封邑千八百戶。久之,遷東中郎將,監淮北諸軍事,鎮許昌。數陳損益,多見納用。

王渾はあざなを玄沖といい、太原郡晉陽県の人である。父の王昶は魏の司空だった。王渾は沈雅で、器量があった。父の爵位である京陵侯を継ぎ、大将軍・曹爽に辟召されて掾となった。曹爽が誅殺されると、掾を免職になった。
司馬昭の懐令により、彼の軍事に参じた。散騎黃門侍郎・散騎常侍に累進した。咸熙年間に、越騎校尉となった。司馬炎が受禅すると、揚烈將軍を加えられ、徐州刺史に遷った。飢饉の年には、王渾は倉を開けて振恤したので、万民はこれを頼った。泰始年間のはじめ、邑千八百戶を增封された。(徐州刺史にあることが)久しく、東中郎將・監淮北諸軍事に遷り、許昌に鎮した。しばしば損益を陳べ、多く納用を見た。(経済政策が得意だった)


轉征虜將軍、監豫州諸軍事、假節,領豫州刺史。渾與吳接境,宣佈威信,前後降附甚多。吳將薛瑩、魯淑眾號十萬,淑向弋陽,瑩向新息。時州兵並放休息,眾裁一旅,浮淮潛濟,出其不意,瑩等不虞晉師之至。渾擊破之,以功封次子尚為關內侯。遷安東將軍、都督揚州諸軍事,鎮壽春。吳人大佃皖城,圖為邊害。渾遣揚州刺史應綽督淮南諸軍攻破之,並破諸別屯,焚其積谷百八十余萬斛、稻苗四千餘頃、船六百餘艘。渾遂陳兵東彊,視其地形險易,曆觀敵城,察攻取之勢。

征虜將軍に転じ、豫州の諸軍事を監し、假節として豫州刺史を兼任した。王渾は呉と国境を接しており、呉に威信を思い知らせ、降伏してくる人が多かった。呉将の薛瑩(薛綜の子)と 魯淑(魯粛の子)は、10万を率いると号していた。魯淑は弋陽に向かい、薛瑩は新息に向かった。このとき(豫州の)州兵は休息を取って守備位置から離れていた。呉軍が責めてくると、浮き足立った。その動揺を突き、薛瑩らは晋の軍が防衛しに来ることを虞れなかった。だが、王渾は呉軍を破り、その功績で、次子の王尚は関内侯となった。
王渾は、安東將軍に遷り、揚州の諸軍事を都督し、壽春に鎮した。呉の人が皖城でさかんに屯田して、晋との国境を侵そうとした。王渾は、楊州刺史の應綽に命じて、淮南諸軍を督させ、皖城を破らせ、別の場所の屯所も破らせ、180余万石の兵糧と苗4000余頃と舟600余双に火をかけた。王渾は呉との国境に兵を進め、地形の特徴を調査し、敵の城を攻めるための偵察をした。

及大舉伐吳,渾率師出橫江,遣參軍陳慎、都尉張喬攻尋陽瀨鄉,又擊吳牙門將孔忠,皆破之,獲吳將周興等五人。又遣殄吳護軍李純據高望城,討吳將俞恭,破之,多所斬獲。吳曆武將軍陳代、平虜將軍硃明懼而來降。吳丞相張悌、大將軍孫震等率眾數萬指城陽,渾遣司馬孫疇、揚州刺史周浚擊破之,臨陣斬二將,及首虜七千八百級,吳人大震。

大挙して呉を攻めたとき、王渾は兵を率いて橫江(津)を出陣した。參軍の陳慎、都尉の張喬を遣わして、尋陽の瀨郷を攻めた。また呉の牙門將である孔忠と戦い、全滅させた。呉将の周興ら5人を捕虜とした。殄吳護軍の李純を、高望城に據らせて、吳將の俞恭と戦い、大勢を斬獲した。吳の曆武將軍である陳代と、平虜將軍である硃明は、王渾に来降した。呉の丞相である張悌と、大将軍である孫震らは、数万を率いて城陽を目指した。王渾は、司馬の孫疇と、揚州刺史の周浚を遣わして、張悌と孫震の軍を斬り、首級を7800あげた。呉の人は、王渾の武に大いに震えた。


孫皓司徒何植、建威將軍孫晏送印節詣渾降。既而王濬破石頭,降孫皓,威名益振。明日,渾始濟江,登建鄴宮,釃酒高會。自以先據江上,破皓中軍,案甲不進,致在王濬之後。意甚愧恨,有不平之色,頻奏濬罪狀,時人譏之。

孫皓は、司徒の何植と建威將軍の孫晏を遣って、印と節を王渾に提出させて降伏を申し出た。このときすでに王濬は石頭城を破り、孫皓を降伏させており、威名はますます振るった。
翌日、王渾は長江を平定し、建業の宮殿に登り、うまい酒を酌み交わした。王渾はこれより先に長江上にあり、孫皓の主力軍と戦っていたので、なかなか進むことが出来ず、王濬に後れを取った。王渾はこれをとても愧恨し、(王濬の手柄に)不平の心を持った。しきりに王濬の罪状を奏上したので、当時の人は(王渾の女々しさを)そしった。


帝下詔曰:「使持節、都督揚州諸軍事、安東將軍、京陵侯王渾,督率所統,遂逼秣陵,令賊孫皓救死自衛,不得分兵上赴,以成西軍之功,又摧大敵,獲張悌,使皓途窮勢盡,面縛乞降。遂平定秣陵,功勳茂著。其增封八千戶,進爵為公,封子澄為亭侯、弟湛為關內侯,賜絹八千匹。」轉征東大將軍,複鎮壽陽。渾不尚刑名,處斷明允。時吳人新附,頗懷畏懼。渾撫循羈旅,虛懷綏納,座無空席,門不停賓。於是江東之士莫不悅附。

司馬炎は詔を降した。「使持節、都督揚州諸軍事、安東將軍、京陵侯である王渾よ。キミは兵を統率して、ついに秣陵(建業)に迫った。賊たる孫皓は抗戦したが、大勝して張悌を生け捕り、孫皓を追い詰めて面縛して乞降させた。秣陵を平定した功勲は、とても顕著である。八千戶を増封し、爵を進めて公とする。子の王澄を亭侯とし、弟の王湛を関内侯にして、絹8000匹を賜る」と。
王渾は征東大將軍に転じ、これまでどおり壽陽に鎮した。王渾は刑名をたっとばず、裁判は明允であった。呉の人が新しく晋の体制に組み込まれたとき、とても畏懼した。王渾は、撫循羈旅・虛懷綏納(手を尽して治めた)。王渾の周りに空席はなく、王渾の家の門には賓客が途絶えなかった。(王渾の態度と政策により)江東の士大夫で、悦んで晋に帰服しない人はいなかった。

征拜尚書左僕射,加散騎常侍。會朝臣立議齊王攸當之籓,渾上書諫曰:「伏承聖詔,憲章古典,進齊王攸為上公,崇其禮儀,遣攸之國。昔周氏建國,大封諸姬,以籓帝室,永世作憲。至於公旦,武王之弟,左右王事,輔濟大業,不使歸籓。明至親義著,不可遠朝故也。是故周公得以聖德光弼幼主,忠誠著于《金縢》,光述文武仁聖之德。攸于大晉,姬旦之親也。宜贊皇朝,與聞政事,實為陛下腹心不貳之臣。且攸為人,修潔義信,加以懿親,志存忠貞。今陛下出攸之國,假以都督虛號,而無典戎幹方之實,去離天朝,不預王政。傷母弟至親之體,虧友于款篤之義,懼非陛下追述先帝、文明太后待攸之宿意也。若以攸望重,於事宜出者,今以汝南王亮代攸。

王渾は、尚書左僕射と拝し、散騎常侍を加えられた。朝臣が集り、司馬攸を斉に帰藩させるか議論をした。王渾は上書して司馬炎を諌めた。
「(回りくどい言い方をしているので大意を訳すと)司馬攸を、任国に飛ばすと聞きました。むかし周が建国したとき、皇族の姫氏を諸国に封じて、帝室の藩屏としました。例外として、周公旦のとき、武王の弟は王政を補佐し、大業を助け、任国には行きませんでした。政治は輝かしい成功を収めました。司馬攸は晋にとって、中央で補佐に当てるべき人物です。司馬攸ではなく、司馬亮を出鎮させればよいでしょう。


亮,宣皇帝子,文皇帝弟,伷、駿各處方任,有內外之資,論以後慮,亦不為輕。攸今之國,適足長異同之論,以損仁慈之美耳。而令天下窺陛下有不崇親親之情,臣竊為陛下不取也。若以妃後外親,任以朝政,則有王氏傾漢之權,呂產專朝之禍。若以同姓至親,則有吳楚七國逆亂之殃。曆觀古今,苟事輕重,所在無不為害也。不可事事曲設疑防,慮方來之患者也。唯當任正道而求忠良。若以智計猜物,雖親見疑,至於疏遠者亦何能自保乎!人懷危懼,非為安之理。此最有國有家者之深忌也。愚以為太子太保缺,宜留攸居之,與太尉汝南王亮、衛將軍楊珧共為保傅,幹理朝事。三人齊位,足相持正,進有輔納廣義之益,退無偏重相傾之勢。令陛下有篤親親之恩,使攸蒙仁覆之惠。臣同國休戚,義在盡言,心之所見,不能默已。私慕魯女存國之志,敢陳愚見,觸犯天威。欲陛下事每盡善,冀萬分之助。臣而不言,誰當言者。」帝不納。

司馬亮は、司馬懿の子で、司馬師の弟です。(司馬亮の同母弟)司馬伷と、司馬駿は、地方に出ていて、内外を治める資質があり、後慮を論じ、軽んじられておりません。司馬攸を斉に赴任させては、反論を誘い、陛下の仁慈ノ美を損なってしまうだけです。天下の人は、陛下が親親ノ情(儒教の徳目)を崇ばないのだと思うでしょう。陛下のために、私は司馬攸を行かせることに反対しているのです。もし、氏の異なる外戚に朝政を任せてしまっては、劉邦の漢が呂氏の専権を許した禍いと同じことが起きます。もし同姓の人に任せれば、(漢の武帝のときの)呉楚七国ノ乱と同じことが起きます。古今の例によれば、事の軽重を見誤れば、かならず害があります。(くどいので中略)司馬攸を洛陽にとどめ、大尉の司馬亮と、衛将軍の楊珧に補佐させ、政治を執らせて下さい。3人(司馬攸・司馬亮・楊珧)の位が等しければ、牽制が働き、国政は安定するでしょう。どうか、親親ノ恩を発揮し、司馬攸に仁覆ノ惠を与えてあげて下さい。(要点だけ訳せば)どうかお聞き届け下さい」と。
司馬炎は、受け容れず、司馬攸を斉に行かせた。


太熙初,遷司徒。惠帝即位,加侍中,又京陵置士官,如睢陵比。及誅楊駿,崇重舊臣,乃加渾兵。渾以司徒文官,主史不持兵,持兵乃吏屬絳衣。自以偶因時寵,權得持兵,非是舊典,皆令皁服。論者美其謙而識體。

太熙年間のはじめ、王渾は司徒になった。恵帝が即位すると、侍中を加えられた。王渾が京陵に士官を置くことは、睢陵のようだった(徐州刺史のときと同じやり方だった)。
楊駿が誅殺されると、旧い臣が尊ばれ、王渾は配下の兵を増やしてもらった。王渾は、司徒という文官であるから、主史(司徒府の役人)は兵を率いず、兵は絳衣(将軍)に管理させた。王渾はたまたま時流に乗ったので、兵を率いる権限を得たが、旧典に例がないとして、兵を持たなかった。人々は、王渾の謙虚さと見識を褒めた。


楚王瑋將害汝南王亮等也。公孫宏說瑋曰:「昔宣帝廢曹爽,引太尉蔣濟參乘,以增威重。大王今舉非常事,宜得宿望,鎮厭眾心。司徒王渾宿有威名,為三軍所信服,可請同乘,使物情有憑也。」瑋從之。渾辭疾歸第,以家兵千餘人閉門距瑋。瑋不敢逼。俄而瑋以矯詔伏誅,渾乃率兵赴官。

楚王(司馬)瑋が、汝南王(司馬)亮らを殺害しようとした。公孫宏は、司馬瑋に言った。
「むかし司馬懿さまが曹爽を廃したとき、大尉の蒋済に協力をさせ、威重を増しました。あなたはイレギュラーなことを決行するのですから、宿望を得て、人々が厭う心を鎮めなければなりません。司徒の王渾は威名があり、三軍の信服を得ています。彼に協力を請い、世論を味方につけましょう」と。司馬瑋はこれに随った。
王渾は、病気だと言って自宅に帰り、私兵1000余人は門を閉ざして司馬瑋を拒んだ。司馬瑋は、敢えて迫らなかった。にわかに司馬瑋は詔を偽作して、王渾とその兵を動かした。
『晋書』列伝12より「王渾&王済伝」を邦訳(2)
帝嘗訪渾元會問郡國計吏方俗之宜,渾奏曰:「陛下欽明聖哲,光於遠近,明詔沖虛,詢及芻蕘,斯乃周文疇咨之求,仲尼不恥下問也。舊三朝元會前計吏詣軒下,侍中讀詔,計吏跪受。臣以詔文相承已久,無他新聲,非陛下留心方國之意也。可令中書指宣明詔,問方土異同,賢才秀異,風俗好尚,農桑本務,刑獄得無冤濫,守長得無侵虐。其勤心政化興利除害者,授以紙筆,盡意陳聞。以明聖指垂心四遠,不復因循常辭。且察其答對文義,以觀計吏人才之實。又先帝時,正會後東堂見征鎮長史司馬、諸王國卿、諸州別駕。今若不能別見,可前詣軒下,使侍中宣問,以審察方國,於事為便。」帝然之。
又詔渾錄尚書事。


かつて恵帝が王渾を訪問した。郡国の計吏をどのように管理すべきか聞いた。王渾は奏した。 ※皇帝が下問する姿勢を聖人に例えて褒めてから、地方官制や地方政策のあり方についてコメントしてます。珍しいことを言っていないので、翻訳は省略。
恵帝は、王渾に賛同した。王渾は、錄尚書事になった。


渾所曆之職,前後著稱,及居台輔,聲望日減。元康七年薨,時年七十五,諡曰元。長子尚早亡,次子濟嗣。

王渾は職務を歴任し、名は知れ渡ったが、台輔にいるに及び(輔政のトップとなり)、声望は日に日に減じた。元康七(297)年、死んだ。75歳だった。元とおくりなされた。長子の王尚は亡くなっていたので、次子の王済が継いだ。

濟字武子。少有逸才,風姿英爽,氣蓋一時,好弓馬,勇力絕人,善《易》及《莊》、《老》,文詞俊茂,伎藝過人,有名當世,與姊夫和嶠及裴楷齊名。尚常山公主。年二十,起家拜中書郎,以母憂去官。起為驍騎將軍,累遷侍中,與侍中孔恂、王恂、楊濟同列,為一時秀彥。武帝嘗會公卿籓牧於式乾殿,顧濟、恂而謂諸公曰:「朕左右可謂恂恂濟濟矣!」每侍見,未嘗不諮論人物及萬機得失。濟善於清言,修飾辭令,諷議將順,朝臣莫能尚焉。帝益親貴之。仕進雖速,論者不以主婿之故,鹹謂才能致之。然外雖弘雅,而內多忌刻,好以言傷物,儕類以此少之。以其父之故,每排王濬,時議譏焉。

王済はあざなを武子という。若くして逸才があり、風姿は英爽で、気は当世を蓋い、弓馬を好み、王済の勇力には誰も敵わなかった。『易経』『老子』『荘子』をよく読み、文詞は俊茂で、伎藝は人より優れ、世間に有名で、姉の夫である和嶠や裴楷と並び称された。
常山公主(司馬炎の娘)を妻として、貴んだ。20歳のとき、起家して中書郎を拝し、母の喪で官を去った。
驍騎將軍となり、侍中に進んだ。侍中の孔恂・王恂・楊濟と同列で、時代の有望株だと言われた。司馬炎が、公卿や皇族を式乾殿に集めたとき、王済たちを顧みて諸公に言った。「私の左右は、恂恂済済であると言うべきだな」と。 ※孔恂・王恂・王済・楊済がいるから安心だな、というジョーク。
武帝に謁見するたび、いつも王済は人物や万機の得失を申し述べた。王済の言葉遣いは綺麗で巧みだったので、朝臣たちは評価した。武帝は王済をますます可愛がった。王済は昇進が早かったが、それは皇帝の親戚だからではなく、才能があるからだと人々は言った。
王済は外面は弘雅だったが、内面は大いに忌刻で、悪口を言うのが好きだった。そのため友人は少なかった。父の王渾と一緒になって、王濬を除け者にしたので、世論は王済を批判した。


齊王攸當之籓,濟既陳請,又累使公主與甄德妻長廣公主俱入,稽顙泣請帝留攸。帝怒謂侍中王戎曰:「兄弟至親,今出齊王,自是朕家事,而甄德、王濟連遣婦來生哭人!」以忤旨,左遷國子祭酒,常侍如故。數年,入為侍中。時渾為僕射,主者處事或不當,濟性峻厲,明法繩之。素與從兄佑不平,佑黨頗謂濟不能顧其父,由是長同異之言。出為河南尹,未拜,坐鞭王官吏免官。而王佑始見委任。而濟遂被斥外,於是乃移第北芒山下。

司馬攸を斉に飛ばすことになったとき、王済は反対し、公主(妻で司馬炎の娘)と甄德の妻である長広公とともに武帝の前に出て、司馬攸を留めるように泣いて頼んだ。武帝は怒って、侍中の王戎に言った。「兄弟は最も血縁が深いものだ。いま司馬攸を斉に出すのは、私の一族内の問題である。それなのに、甄德と王済は、夫人まで連れ出してきて泣かせるか」と。王済の陳情は却下され、國子祭酒に左遷された。常侍であることは、元のままだった。数年して、侍中になった。
王渾が王済を僕射にしたとき、王済は公主への態度が悪く、性格は峻厲で、法を明らかにして縄で捉えた。 もとより従兄の王佑は王済のやり方に不満があり、王佑の与党たちも「王済は父を顧みることが出来ない」と口を極めて、異口同音に言った。王済は河南尹に赴任することになっていたが、拝命せず、王氏の官吏を鞭打ってクビにしていた。王佑ははじめ王済に委任していたが、王済が排斥されて外に出されると、家を北芒山のふもとに移した。 ※よく分かりません


性豪侈,麗服玉食。時洛京地甚貴,濟買地為馬埒,編錢滿之,時人謂為「金溝」。王愷以帝舅奢豪,有牛名「八百里駁」,常瑩其蹄角。濟請以錢千萬與牛對射而賭之。愷亦自恃其能,令濟先射。一發破的,因據胡床,叱左右速探牛心來,須臾而至,一割便去。和嶠性至儉,家有好李,帝求之,不過數十。濟候其上直,率少年詣園,共啖畢,伐樹而去。帝嘗幸其宅,供饌甚豐,悉貯琉璃器中。蒸肫甚美,帝問其故,答曰:「以人乳蒸之。」帝色甚不平,食未畢而去。

王済の性格は豪侈で、衣食は派手だった。洛陽の地価が高騰していたが、王済は土地を買って仕切りで囲い、銭を繋いでその中に貯蔵した。当時の人は「金溝」と呼んだ。王愷は皇帝の舅で、奢豪だった。牛を「八百里駁」と名づけ、蹄や角を宝で装飾した。王済は、銭千萬を出し、牛を賭けて弓の腕を競いたいと頼んだ。王愷は腕に自信があったので、先に王済に射させた。王済は、一発で的を破った。王済は胡床に腰掛けたまま、左右の者を「速く牛を探して連れてこい(所有権が移ったぞ)」と叱った。牛はしばらくして到着し、一割して去った。
和嶠の性格は至儉(ケチ)だった。和嶠の家に美味しいスモモの木があった。皇帝がスモモを欲しがると、数十個だけ持ってきた。王済がそのやりとりを見て、若者を率いて和嶠の庭に行き、大騒ぎしてスモモの樹を切ってしまった。
かつて皇帝が王済の家に来たことがあり、多くの賜り物があった。王済は、瑠璃の器に全て貯めた。蒸した肫(トリやブタの肉)が美味しかったので、皇帝は調理法を聞いた。王済は「人の母乳で蒸したからです」と答えた。皇帝は気分を害し、食べずに帰った。


濟善解馬性,嘗乘一馬,著連乾鄣泥,前有水,終不肯渡。濟雲:「此必是惜鄣泥。」使人解去,便渡。故杜預謂濟有馬癖。
帝嘗謂和嶠曰:「我將罵濟而後官爵之,何如?」嶠曰:「濟俊爽,恐不可屈。」帝因召濟,切讓之,既而曰:「知愧不?」濟答曰:「尺布鬥粟之謠,常為陛下恥之。他人能令親疏,臣不能使親親,以此愧陛下耳。」帝默然。
帝嘗與濟弈棋,而孫皓在側,謂皓曰:「何以好剝人面皮?」皓曰:「見無禮於君者則剝之。」濟時伸腳局下,而皓譏焉。

王済は馬の性質をよく理解した。かつて馬に乗っていると、乾いて道を塞ぐ泥が連なっており、前方には川があった。ついに王済は、馬に川を渡らせなかった。王済は「馬が泥で汚れるとイヤだ」と言った。人に(泥の障壁を)壊させてから、渡った。ゆえに杜預は「王済には馬癖がある」と言われた。
司馬炎がかつて和嶠に言った。「王済を罵って、反省させてから官爵を与えようと思うが、どうか」と。和嶠は言った。「王済は俊爽な男なので、恐らく罵っても屈さないでしょう」と。皇帝は王済を召して、王済を批判してから「キミは恥を知っているか」と聞いた。王済は答えた。「尺布鬥粟之謠、つねに陛下のために私はこれを恥じています。他の家では親戚づきあいが成立しているのに、私は親(あなた=義父=司馬炎)と親しくすることができません。これを以って陛下に恥じるのみです」皇帝は黙ってしまった。
司馬炎はかつて王済と囲碁をしていた。側に孫皓がいた。王済は孫皓に聞いた。「なぜ顔面の皮を好んで剥いだのか」と。孫皓は、「キミのように無礼な人間がいたら、剥いだのだ」と答えた。王済はこのとき脚を囲碁板の下に伸ばしており、孫皓はそれを無礼だと文句をつけたのだ。


尋使白衣領太僕。年四十六,先渾卒,追贈驃騎將軍。及其將葬,時賢無不畢至。孫楚雅敬濟,而後來,哭之甚悲,賓客莫不垂涕。哭畢,向靈床曰:「卿常好我作驢鳴,我為卿作之。」體似聲真,賓客皆笑。楚顧曰:「諸君不死,而令王濟死乎!」
初,濟尚主,主兩目失明,而妒忌尤甚,然終無子,有庶子二人。卓字文宣,嗣渾爵,拜給事中。次聿,字茂宣,襲公主封敏陽侯。濟二弟,澄字道深,汶字茂深,皆辯慧有才藻,並曆清顯。


使白衣、太僕を領した。46歳のとき、父の王渾より先に死んだ。驃騎將軍が送られた。葬られんとするとき、時の賢人で参列しない人はいなかった。孫楚は王済を雅敬し、遅れてきて哭いて悲しがった。賓客で涙を流さない人はいなかった。孫楚は哭礼を終え、王済の霊床に向けて言った。「あなたは私がロバの泣き声を真似るのが好きだった。あなたのために泣きまねをしよう」と。ロバの声はそっくりで、賓客はみな笑った。孫楚は振り返って言った。「諸君が死なないものだから、王済は死ぬ羽目になったのだ」と。
はじめ王済は公主(司馬炎の娘)を大切にした。公主は両目を失明し、嫉妬深くった。王済は、ついに子を作らなかった。王済には、庶子が2人いた。王卓(あざなは文宣)が王渾を継ぎ、給事中になった。次子の王聿(あざなは茂宣)は公主の爵を継いで、敏陽侯に封じられた。王済には2人の弟がおり、王澄(あざなは道深)、王汶(あざなは茂深)は、どちらも賢くて顕職についた。
■翻訳後の感想
王渾は呉を討った将軍として、三国志ファンに名前だけは知られてる。徐州・豫州・揚州を治めた手腕は立派だったのでしょう。でも、王濬を妬んだおかげでキャラが立ったというところか。自分が大将じゃないと気がすまないから、地方のトップとして成功した。旧呉の名士を手なずけたのも、そういう気質によるか。旧呉の人にしてみれば、晋に併呑されたとは言え、司馬炎といきなり接点があるわけじゃない。晋が派遣した、都督揚州諸軍事が帰順の対象だ。孫皓の代わりに揚州のトップになったようなものだから、さぞかし実力が発揮されたのだね。
司馬攸の事件は、いろんな人が引きとめを試みてるから、王渾のオリジナリティはない。それよりも、洛陽で孤高(孤立ともいう)を保ったのが、王渾らしい。司馬瑋の協力を突っぱねた。武帝が洛陽に兵を置き、それが八王ノ乱に発展する。王渾は兵を持ちたがらなかったのは、人間交際や権力闘争が面倒くさかったからだ。恵帝に、地方行政について説教するご意見番がお似合いだ。部下を可愛がるわけでもなく、どこかに加担するわけでもないから、名声が落ちていったのは当然かな。刺史として実績があっても、人当たりが悪ければ、人気はでない。

王済は、ただの性悪男だ。司馬炎の娘をもらったが、可愛くないムコ殿だったようで。囲碁のときは脚癖が悪く、妻に泣かせて司馬攸の件に反対し、場を弁えない母乳発言で不愉快を招いた。司馬炎がお灸をすえようとしたが、小賢しさを発揮して切り抜けた。
孫楚がロバの真似をして、ゲタゲタと少人数で大受けしている席を想像すると、人徳らしいものは感じられない。寄ってたかって悪口を言って。孫楚は葬儀の席で浮きまくっていたが、仲間内のノリが公式の場で通じずに逆切れしたという構図だろう。類は友を呼ぶから、王済のKYぶりは同じようだっただろう。そんな男が、失明した司馬炎の娘を労わらなかったのは、よく分かる話で。列伝には残っていないが、目が見えないことをからかう遊びでも、やってそうだ。困った人です。
孫皓は王済に含むところがあったようだが、父・王渾への恨みが根底にあるのかも。王渾は伏呉の張本人だ。『演義』みたく、賈充への皮肉に付け替えてしまっては、面白みが半減しますね。080802
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