三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝13より「王戎&王衍伝」を訳出(1)
王戎,字濬沖,琅邪臨沂人也。祖雄,幽州刺史。父渾,涼州刺史、貞陵亭侯。戎幼而穎悟,神彩秀徹。視日不眩,裴楷見而目之曰:「戎眼燦燦,如岩下電。」年六七歲,于宣武場觀戲,猛獸在檻中虓吼震地,眾皆奔走,戎獨立不動,神色自若。魏明帝於閣上見而奇之。又嘗與群兒嬉於道側,見李樹多實,等輩兢趣之,戎獨不往。或問其故,其曰:「樹在道邊而多子,必苦李也。」取之信然。

王戎は、あざなを濬沖という。瑯邪郡の臨沂の人。祖父の王雄は幽州刺史(232~235)だった。父の王渾は涼州刺史で、貞陵亭侯だった。
王戎は幼い頃から穎悟で、神彩秀徹だった。太陽を視ても、目が眩まなかった。裴楷は王戎の目にコメントした。「王戎の眼光は燦燦としており、岩に雷が落ちたようだ」と。
6歳か7歳のとき、王戎は戯れに、宣武場を見物に行った。猛獣が折の中で吼えて地を震わしており、見物客たちは逃げたが、王戎だけは動かず、 神色自若(眉ひとつ動かさなかった)。魏の明帝(曹叡)が、閣上から王戎が逃げない様子を見ており、これをとした。※オリの中にいるから平気だと、冷静に判断したのか。
またかつて、ガキ連中が道路わきで喜び、スモモがたわわに実っているのを見上げ、競って食べたがった。しかし王戎だけは、李樹のところへ行かなかった。ある人が「なぜ行かないのかね」と問うと、王戎は答えた。「樹は道辺にあり、たくさんの子が欲しがっています。きっとあのスモモは苦いに違いありません」と。
スモモを取ってみると、王戎の言うとおり苦かった。


阮籍與渾為友。戎年十五,隨渾在郎舍。戎少籍二十歲,而籍與之交。籍每適渾,俄頃輒去,過視戎,良久然後出。謂渾曰:「濬沖清賞,非卿倫也。共卿言,不如共阿戎談。」及渾卒於涼州,故吏賻贈數百萬,戎辭而不受,由是顯名。為人短小,任率不修威儀,善發談端,賞其要會。朝賢嘗上巳禊洛,或問王濟曰:「昨游有何言談?」濟曰:「張華善說《史》《漢》;裴頠論前言往行,袞袞可聽;王戎談子房、季劄之間,超然玄著。」其為識鑒者所賞如此。

阮籍と王渾は、友人だった。王戎が15歳のとき、父の王渾にしたがって、阮籍のいる郎舍に行った。王戎は阮籍より20歳下だったが、阮籍と王戎は交友した。阮籍は、王渾に会うといつも、短時間で王渾の前を去り、王戎とは長時間を共に過ごしてから帰った。阮籍は、王渾に行った。
「濬沖(王戎)は清賞で、あなた(王渾)は倫直ではない。あなた(王渾)と話すよりも、(あなたの小さな子である)戎ちゃんと話したほうが楽しい」と。
王渾が涼州で死ぬと、故吏(王渾に恩を受けた官吏)たちは、数百万を遺児の王戎に贈ったが、王戎は辞して受け取らなかった。これによって、王戎の名は顕らかになった。王戎は、背丈が短小で、率直でありのままに任せ、威儀を修めず、よく談端を発し(ゲラで)交流相手を賞賛した。朝賢(賢吏)はかつて上巳禊洛し、ある人が王済に問うた。「先日洛陽に行ったとき、何の話をしてきたのかね」
王済は答えた。「張華は『史』『漢』を語らせると上手だ。裴頠に前言往行を論じさせると、聴く価値がある。王戎が子房(張良)と季劄を談じると、超然として玄(ふかく)著(分かりやすい)」と。王戎が、ひとからの識鑑(コメント)で褒められるのは、このような様子だった。


戎嘗與阮籍飲,時兗州刺史劉昶字公榮在坐,籍以酒少,酌不及昶,昶無恨色。戎異之,他日問籍曰:「彼何如人也?」答曰:「勝公榮,不可不與飲;若減公榮,則不敢不共飲;惟公榮可不與飲。」戎每與籍為竹林之遊,戎嘗後至。籍曰:「俗物已複來敗人意。」戎笑曰:「卿輩意亦複易敗耳!

王戎はかつて阮籍と飲んでいたとき、当時の兗州刺史である劉昶(あざなは公榮)が同席した。阮籍はあまり酒を飲まず、劉昶に酌の量で及ばなかった。劉昶は恨みの色がなくなった(上機嫌になった)。王戎はおかしいと思い、他日に阮籍に質問をした。
「劉昶さまとは、どんな人ですか」と。阮籍は答えた。訳し方が分かりませんでした。二重否定で、とんちの利いたことを言っているのだと思いますが。
王戎はいつも阮籍と一緒に、竹林ノ遊に加わった。王戎はかつて遅刻したことがあった。阮籍が言った。「俗物がやって来たので、人の気分をぶち壊す」と。王戎は笑って言った。「あなた方の(竹林ノ遊の)気分は、そんな簡単に壊れるようなものですか」と。


鐘會伐蜀,過與戎別,問計將安出。戎曰:「道家有言,'為而不恃',非成功難,保之難也。」及會敗,議者以為知言。

鍾会が蜀を伐ちにいくとき、王戎と別れを惜しんだ。鍾会は王戎に「私の(独立)計画は、易く成し遂げられるか」と問うた。王戎は言った。「道家の言に『なして、たのまず』というのがある。功を成すのが難しいのではない。功を保つのが難しいのだ」と。鍾会が敗れると、人々は王戎の言葉の真意を知った。

襲父爵,辟相國掾,曆吏部黃門郎、散騎常侍、河東太守、荊州刺史,坐遣吏修園宅,應免官,詔以贖論。遷豫州刺史,加建威將軍,受詔伐吳。戎遣參軍羅尚、劉喬領前鋒,進攻武昌,吳將楊雍、孫述、江夏太守劉朗各率眾詣戎降。戎督大軍臨江,吳牙門將孟泰以蘄春、邾二縣降。吳平,進爵安豐侯,增邑六千戶,賜絹六千匹。

王戎は父の爵位を継ぎ、相國掾に招かれ、以下の仕事を歴任した。吏部黃門郎、散騎常侍、河東太守、荊州刺史などである。自分は何もせず、役人を遣わして園宅を修繕させたため(咎められて?)免官された。政府は(王戎を庇う?)論調を受け入れ、王戎を豫州刺史に遷し、建威將軍を加えられ、呉を討てとの詔を受けた。王戎は、參軍である羅尚&劉喬に先鋒を任せ、武昌に進攻した。呉将の楊雍と孫述、江夏太守である劉朗は、それぞれ軍勢を率いて王戎に降伏した。王戎は大軍を督して長江に臨み、吳の牙門將である孟泰を、蘄春と邾の2県で降した。呉が平定されると、安豐侯に進み、邑六千戶と絹六千匹を賜った。


戎渡江,綏慰新附,宣揚威惠。吳光祿勳石偉方直,不容皓朝,稱疾歸家。戎嘉其清節,表薦之。詔拜偉為議郎,以二千石祿終其身。荊土悅服。征為侍中。南郡太守劉肇賂戎筒中細布五十端,為司隸所糾,以知而未納,故得不坐,然議者尤之。
帝謂朝臣曰:「戎之為行,豈懷私苟得,正當不欲為異耳!」帝雖以是言釋之,然為清慎者所鄙,由是損名。


王戎が長江を渡ると、(敵を)綏慰して新たに服属させ、(晋の)威惠を宣揚した。呉の光祿勳である石偉は人柄が方直で、晋の支配を受け容れず、病と称して自宅に籠もった。王戎はその清節をよみし、上表して石偉を推薦した。詔があり、石偉は議郎となり、二千石の俸給を死ぬまで保障された。 荊州は、王戎の新しい支配に悅服した。その功績で、王戎は侍中となった。
南郡太守の劉肇は、王戎の袖の下に布五十端をワイロとして差し出した。司隷校尉はこの行為を糾弾したが、王戎が受け取らなかったことが知られると王戎は罪を問われなかった。世論はもっともな判決だと言った。皇帝は朝臣に言った。
「王戎の行いは、どうして私服を肥やすものであろうか。欲を出さなかったことは、異例なほどすばらしいぞ」と。


戎在職雖無殊能,而庶績修理。後遷光祿勳、吏部尚書,以母憂去職。性至孝,不拘禮制,飲酒食肉,或觀弈棋,而容貌毀悴,杖然後起。裴頠往吊之,謂人曰:「若使一慟能傷人,濬沖不免滅性之譏也。」時和嶠亦居父喪,以禮法自持,量米而食,哀毀不逾於戎。帝謂劉毅曰:「和嶠毀頓過禮,使人憂之。」毅曰:「嶠 雖寢苫食粥,乃生孝耳。至於王戎,所謂死孝,陛下當先憂之。」戎先有吐疾,居喪增甚。帝遣醫療之,並賜藥物,又斷賓客。

王戎は職にあっては、特殊な能力はなかったが、地味な結果を重ね、正しいことをした。のちに光祿勳に遷り、吏部尚書となった。だが母が病に倒れたので、職を去った。
王戎は性質は至孝だったが、儒教の礼制を守らず、飲酒食肉し、囲碁を観戦した。ただし、容貌は見る影もなく憔悴しており、杖を使わないと立てなかった。裴頠は王戎の様子を話題にし、人に言った。
「もし、ひと握りの慟(かなしみ)が人を傷つけるものなら、(母の死後も平然と暮らす)王戎は、滅性(人でなし)のそしりを免れないだろう」
同じころ、和嶠も父の喪に服していた。和嶠は礼法を遵守し、食事制限もルールどおりだったが、哀毀(精神的なダメージを受けている容子)は、王戎ほどではなかった。
皇帝は、劉毅に言った。「和嶠は父の死を、マナー以上に悲しんでいる。見舞いをやれ」と。劉毅は言った。「和嶠は寝食を制限していますが、『生孝』です。王戎に到っては、『死孝』とでも言うべき衰えようです。陛下は先に、王戎の心配をして下さい」と。
王戎は嘔吐の症状があり、喪の服し方はますます激しくなった。皇帝は医者を遣って治療させ、薬物を賜り、賓客を断たせて(王戎が体力回復に専念できるようにした)。
『晋書』列伝13より「王戎&王衍伝」を訳出(2)
楊駿執政,拜太子太傅。駿誅之後,東安公繇專斷刑賞,威震外內。戎誡繇曰:「大事之後,宜深遠之。」繇不從,果得罪。轉中書令,加光祿大夫,給恩信五十人。遷尚書左僕射,領吏部。

楊駿が執政すると、王浚は太子太傅になった。楊駿が誅殺されたあと、東安公の司馬繇は、刑賞を專斷した。王戎は、司馬繇を戒めて言った。「大事を成し遂げた後は、慎重であるべきです」と。司馬繇は王戎の話を聞かず、罪を得て(流刑された)。王戎は、中書令に転じ、光祿大夫を加えられ、恩信を50人給わった。尚書左僕射に遷り、吏部を領した。


戎始為甲午制,凡選舉皆先治百姓,然後授用。司隸傅鹹奏戎,曰:「《書》稱'三載考績,三考黜陟幽明'。今內外群官,居職未期而戎奏還,既未定其優劣,且送故迎新,相望道路,巧詐由生,傷農害政。戎不仰依堯舜典謨,而驅動浮華,虧敗風俗,非徒無益,乃有大損。宜免戎官,以敦風俗。」戎與賈、郭通親,竟得不坐。尋轉司徒。以王政將圮,苟媚取容,屬湣懷太子之廢,竟無一言匡諫。

王戎ははじめ甲午制をなし、役人を全て選出して先に万民を治め、その後に授用した。司隷の傅鹹は、王戎について朝廷に上奏した。「『書』には『三載考績,三考黜陟幽明』(3たび政治の実績を記録し、3たび昇格と降格に関する、抽象論と具体論を考えよ。主観的な人事をするな、ということか)と書いてあります。いま内外の郡官は、職にあり、いまだ王戎が(治世の成績を)奏還することを期しておらず、優劣は定まっておりません。古きを送り出し、新しきを迎え、道路を望み、巧詐が生まれ、農民を傷つけ政治を害しています。王戎は堯舜の記録に依拠して仰ぐことをせず、驅動は浮華で、風俗を虧敗し、非徒無益、大損があります。王戎を免官し、風俗を敦くして下さい」※「甲午制」が何かが分からないと、王戎が何を批判されているのか分かりません。
王戎は、賈氏と郭氏と親しみを通じ、不坐を得た。司徒に転じた。王政はまさに崩壊しようとしており、王戎はいやしく媚びて取り容った。王戎は司馬遹の廃太子に加担し、一言も(賈皇后を)匡し諌めるおkとはしなかった。


裴頠,戎之婿也,頠誅,戎坐免官。齊王冏起義,孫秀祿戎於城內,趙王倫子欲取戎為軍司。博士王繇曰:「濬沖譎詐多端,安肯為少年用?」乃止。惠帝反宮,以戎為尚書令。既而河間王顒遣使就說成都王穎,將誅齊王冏。檄書至,冏謂戎曰:「孫秀作逆,天子幽逼。孤糾合義兵,掃除元惡,臣子之節,信著神明。二王聽讒,造構大難,當賴忠謀,以和不協。卿其善為我籌之。」戎曰:「公首舉義眾,匡定大業,開闢以來,未始有也。然論功報嘗,不及有勞,朝野失望,人懷貳志。今二王帶甲百萬,其鋒不可當,若以王就第,不失故爵。委權崇讓,此求安之計也。」冏謀臣葛旟怒曰:「漢魏以來,王公就第,甯有得保妻子乎!議者可斬。」於是百官震悚,戎偽藥發墮廁,得不及禍。

裴頠は、王戎のムコだった。裴頠が誅殺されると、王戎は連座して免官した。斉王司馬冏が起義すると、孫秀は王戎を城内に招いた。(孫秀の主君である)趙王司馬倫の子の軍司に、王戎を迎えたいと考えた。博士の王繇が言った。「王戎は、譎詐多端な人物です。なぜ(司馬倫さまの)お子の軍司に用いていいものでしょうか」と。王戎を用いる件は、取り消された。
(司馬倫が誅されて)恵帝が宮に帰ると、王戎は尚書令となった。すでに、司馬顒は司馬頴に使者を送り、司馬冏を誅殺しようと説得していた。檄書が手に入ると、司馬冏は王戎に言った。 「孫秀が大逆をなしたとき、天子は幽逼なさった。オレは義兵を糾合し(顒と頴とともに)元惡を掃除した。オレは臣子ノ節をくっきり明らかにした。二王(顒と頴)は言いがかりをつけ、オレとの間に大難を構えた。オレは忠なる謀に頼り、二王との不協を和平させよう。王戎よ、オレのために作戦を立ててくれ」と。王戎は言った。「司馬冏さまは、司馬倫の討伐の言いだしっぺで、大業を匡定されました。これは開闢以来、例のないことです。しかし、論功は恣意的で、労に見合わないものでしたから、朝野は失望し、人々の心は二志(顒と頴)に懐きました。いま二王は百万の甲(鎧)を帯び、その鋒に当たる(戦う)べきではありません。もし二王を第(宮殿)に就かせたら、司馬冏さまはいまの爵位を失わないでしょう。二王に権限委譲してしまうことが、安全を求めるための計略です」と。司馬冏のブレインである葛旟は、王戎の言葉を聴いて怒った。
「漢魏から今まで、王公が政権を握ったとき、妻子を安全に保てたことがあったか。(王戎のような、非現実的な楽観論を)議す奴は、斬ってしまえ」と。葛旟の言葉を聴いて、百官は震悚した。王戎は偽って藥發墮廁し、禍いから逃れることができた。


戎以晉室方亂,慕蘧伯玉之為人,與時舒卷,無蹇諤之節。自經典選,未嘗進寒素,退虛名,但與時浮沈,戶調門選而已。尋拜司徒,雖位總鼎司,而委事僚采。間乘小馬,從便門而出遊,見者不知其三公也。故吏多至大官,道路相遇輒避之。性好興利,廣收八方園田水碓,周遍天下。積實聚錢,不知紀極,每自執牙籌,晝夜算計,恆若不足。而又儉嗇,不自奉養,天下人謂之膏肓之疾。女適裴頠,貸錢數萬,久而未還。女後歸寧,戎色不悅,女遽還直,然後乃歡。從子將婚,戎遣其一單衣,婚訖而更責取。家有好李,常出貨之,恐人得種,恆鑽其核。以此獲譏於世。

王戎は、晋の皇族が方乱したので、蘧伯玉の人となりを慕い、書物を音読して過ごし、つっかえる部分はなかった。自分で音読する經典を選び、寒素にはすすまず、虚名を退けた。ただ時とともに浮沈し、戶調門選するのみだった。
司徒を拝し、三公の全てを経験したが、自分では政治を執らず、官僚に采配を委ねた。小馬に乗って、便門から出て遊んだ。王戎の姿を見たものは、彼が三公だと知らなかった。故吏(王戎が引っ張り上げた官人)は多くが高い位に登り、道路で遭うと、王戎を遠慮して避けた。
王戎は利を好む性格で、広く八方に園田水碓(私有生産地)を持っており、天下のいたるところにあった。貯蓄が好きで、際限を知らず、自ら牙籌(計算機)を執って、夜毎に収支を計算して、つねに「まだ儲け足りない」と思っていた。ひどいケチで、それを改めようとしなかったから、天下の人は王戎の性分を「膏肓之疾」だと言った。
娘が裴頠に嫁ぐとき、数万銭を借りて、久しく帰省しなかった。娘が後に帰ってきて王戎に丁寧に挨拶したが、王戎は喜ばなかった。娘が金を返すと、王戎はたちまち娘を歓待した。従子が結婚するとき、王戎はひとえの衣だけを遣り、離婚すると責めて返還を求めた。
家にはスモモの木があって、王戎はこれを売っていたが、買い手がタネを手に入れ(自前で栽培す)ることを恐れ、キリで実の中央を削ってから売った。こんな風なので、王戎は世間からそしられた。


其後從帝北伐,王師敗績于蕩陰,戎複詣鄴,隨帝還洛陽。車駕之西遷也,戎出奔於郟。在危難之間,親接鋒刃,談笑自若,未嘗有懼容。時召親賓,歡娛永日。永興二年,薨於郟縣,時年七十二,諡曰元。

その後、恵帝に従軍して北伐し、蕩陰で皇帝側が敗れると、王戎は鄴に再び戻り、皇帝の供をして洛陽に還った。恵帝が長安に移されると、王戎は郟に出奔した。敗戦で危難のとき、鋒刃が間近に迫っても、王戎は談笑して自若とし、懼れる容子はなかった。親しい賓客を侍らせ、終日歓娯していた。永興二(302)年、郟県で王戎は死んだ。72歳だった。元とおくりなされた。


戎有人倫鑒識,嘗目山濤如璞玉渾金,人皆欽其寶,莫知名其器;王衍神姿高徹,如瑤林瓊樹,自然是風塵表物。謂裴頠拙於用長,荀勖工於用短,陳道寧糸畟糸畟如束長竿。族弟敦有高名,戎惡之。敦每候戎,輒托疾不見。敦後果為逆亂。其鑒嘗先見如此。嘗經黃公酒壚下過,顧謂後車客曰:「吾昔與嵇叔夜、阮嗣宗酣暢于此,竹林之遊亦預其末。自嵇、阮雲亡,吾便為時之所羈絏。今日視之雖近,邈若山河!」初,孫秀為琅邪郡吏,求品於鄉議。戎從弟衍將不許,戎勸品之。及秀得志,朝士有宿怨者皆被誅,而戎、衍獲濟焉。

王戎は人倫鑑識があった(人物評を述べることができた)。
かつて(竹林七賢の筆頭)山濤を見たとき、「山濤は、璞玉渾金のようだ。人々は皆その宝物を敬うだろうが、誰もその宝物の名を知らない」と言った。※山濤がなぜ素晴らしいかを、誰も理解していない、私だけは理解しているぞ、ということか。
また「王衍は神姿高徹な人で、瑤林瓊樹のようだ。自ら風塵は表物する」、「裴頠はできは悪いが使いやすく、荀勖はできは良いが使いにくい。陳道寧は長竿を束ねるように、糸畟糸畟としている」と言った。王戎の族弟である王敦には、高名があったが、王戎は王敦を憎んだ。王敦が王戎を訪ねてくると、王戎は仮病を使って会わなかった。王敦が後に逆乱をなした。王戎の人物を見る目は、このように先を見通した。
かつて黃公酒壚を王戎が通過したとき、王戎は顧みて、車に同乗している賓客に言った。「私はむかし嵇康や阮籍と、ここで酣暢(酒宴)したとき、竹林ノ遊の末席に加わったものだ。嵇康や阮籍が亡くなり、私は時事に縛られる人間になってしまった。今日でも酒壚は近くに見えるけれども、遥かな山河のようだ」と。
はじめ孫秀は琅邪郡吏となり、求品(九品の制度の特例として昇進させてくれ)と鄉議に諮った。王戎の従弟である王衍は許さなかったが、王戎は「昇進させてあげれば良い」と許した。これによって孫秀は志を得て、朝士で孫秀が宿怨を抱いていた人は、みな孫秀に誅された。王戎は、王衍が正しかったことを思い知った。


子萬,有美名。少而大肥,戎令食穅,而肥愈甚。年十九卒。有庶子興,戎所不齒。以從弟陽平太守愔子為嗣。

王戎の子は、王萬といい、美名があった。若くして太っていたので、王戎はヌカを食べさせて(ダイエットを命じたが)ますます太った。19歳で死んだ。庶子がいて王興といったが、王戎は一族の人として数えなかった。そのため、從弟で陽平太守の王愔の子に後を継がせた。
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