三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
今度は「三国志÷11」で全貌を覗く。(1)
1年以上前に、「三国時代÷9」で全体像を掴む。と題して、三国志の時代区分を試みたことがありましたが、今回はその続編です。あれからいろいろ知識も増えたはずなので、仕切りなおしです。
いま11で割ろうとしていますが、細分化というよりは、三国志をより知るために前後の時代にも眼を向けたということで。黄巾から平呉までは、むしろ分割が粗くなっています。
(01)梁冀跋扈(144-159)
順帝の死から、梁冀が死ぬまでです。順帝の生前も梁冀が暴れていますが、遡り始めるとキリがないので、ぼくの『三国志』の起点は順帝の死です。順帝は、曹騰と昔話に花を咲かせ、この世を去ります。
「朕が皇帝になれたのは、宦官のおかげ。代々、列侯を継げ」と。
順帝が死に、子の冲帝が3歳で病没、質帝は梁冀を「跋扈将軍」とからかって毒殺され、強引に梁氏が嫁いでいる劉志が即位した(桓帝)。
この目まぐるしい皇帝交代は、梁冀のワガママ以外の何でもない。しかし梁冀は、桓帝の意を受けた宦官に追放され、自殺した。

(02)桓霊呆諍(159-189)
桓帝後期と、霊帝の治世です。桓帝・霊帝は宦官を重んじ、第1次・第2次、党錮ノ禁があった。儒教的理想主義者の話はツマランので、皇帝は享楽や趣味に逃げ込みます。
そんな皇帝を「哀しや、嘆かわしや」と呪いつつ、正義を自任する硬骨漢たちが、抽象論を振り回しながら、滑稽に転倒していくのです。
鮮卑には檀石槐が登場し、羌に涼州ばかりか三輔まで侵される始末。王朝内の対立は、黄巾の乱で全土に拡大し、国政の破綻を露呈。
袁紹が宦官を全滅させ、新時代を築くかと思いきや、董卓が掠奪!

(03)分虎牢関(189-199)
山西の董卓と、山東の袁紹に、王朝が二分されます。地理的な条件から、もともと秦漢帝国でも、東西で分裂してしまう傾向は強かったが。
董卓は、山東である洛陽を焼き払い、山西の長安に移ります。ここで、東西の二極対立が尖鋭になれば、再統一の可能性もあったはずなんだが、それぞれ自派内で争いを始めて、泥沼&乱世に。
董卓は呂布に討たれ、李傕と郭氾がつかみ合いを始めた。袁紹は袁術と対立し、その空隙を突き、袁紹の子分・曹操が青州黄巾を吸収した。

(04)官渡赤壁(199-209)
曹操が袁紹に宣戦布告してから、合肥攻めを中断するまで。
袁術が死んだ後、曹操は袁紹を離反し、奇跡的に官渡で勝利した。北伐して烏桓・遼東を下し、天下統一の総仕上げに入った。しかし、光武帝の時代には一大勢力を築くに到らなかった江東は、予想外に生産力を増し、「国」の態を成しつつあった。
孫権は揚州をますます固め、劉備は荊州の南を拾い集めた。フロンティアが、中原に対抗できる拠点になり得ることが、初めて証明された。

(05)天下三分(209-222)
陸遜が夷陵で劉備を破ったかと思えば、曹丕が征呉の兵を起こし、呉蜀が和解して鼎立が膠着するまで。
曹操は、光武帝を律儀に踏襲し、隴(隗囂=韓遂)と蜀(公孫述=劉璋)を平定しようとするが、誤算に終わる。 諸葛亮の「隆中対」が、曹操に光武帝の模倣を許さなかった。
劉備は、中原の裏手から荊州と益州を合わせ、曹操を漢中から押し戻した。ついに関羽が勝手に北伐し、洛陽占領を試みる。しかし、鼎立特有の牽制が早くも働き始め、呂蒙に背後を取られた。
曹操が死ぬと曹丕は「禅譲」を受け、劉備も皇帝を僭称。孫権は曹丕から、呉王に封じられた。ここに三国が出現した。

(06)諸葛北伐(222-234)
諸葛亮が北伐をくり返し、五丈原で没するまで。
『演義』が描く神算鬼謀を差し引いても、狂ったように国力を振り絞って、連年攻められては、無視できない。曹叡が長安に赴いているし、呉も諸葛亮を横目で見ながら、兵を動かしている。
「漢の復興」という国是を保つためには、攻めるしかなかった。常に攻勢を見せておかないと、益州のみの弱小勢力なので、すぐに踏み潰される。理由は何にせよ、この時代は諸葛亮のためにある。
今度は「三国志÷11」で全貌を覗く。(2)
(07)権臣相討(234-251)
251年は、司馬懿と孫権が死んだ年です。三国とも熟れてきて、国内の権力争いに明け暮れます。
天の時を得たはずの魏は、曹爽が漢中を攻めきれない。地の利を得たはずの呉は、山越を併呑する作業で身動きが取れない。人の和を得たはずの蜀は、劉関張も諸葛もなく、降将・姜維が暴走し始めた。
魏では曹叡が土木建築に凝り、司馬懿が曹爽を駆逐した。呉は二宮ノ変が置き、臣下が真っ二つになった。司馬懿のクーデター、孫和派・孫覇派の対立、姜維の孤立が、同時代なのがポイント。ついに三国志の第一世代が死に絶え、鼎立は転機を迎えます。

(08)成都落日(251-264)
蜀が滅亡するまで。蜀の滅亡の理由は、蜀にないのがポイント。
簒奪の意志が(おそらくは)なかった司馬懿が死に、司馬師・司馬昭は露骨に魏帝に牙を剥く。曹芳を追放し、曹髦を貫き殺した。
簒奪の階梯として司馬昭が晋王に進むために、容易に刈り取れる手柄として、蜀は標的にされた。鍾会の暴発などの事故はあったが、受容できる程度のリスクだったので、黙認した様子だ。
毌丘倹と諸葛誕が、司馬氏に対抗して寿春で叛乱し、呉に働きかけた。しかし呉は、諸葛恪・孫峻・孫綝らと、皇帝の孫亮・孫休が子供じみた叩き合いを始めたので、対外戦略を組み立てるどころじゃない。

(09)孫皓発狂(265-280)
呉が滅亡するまで。呉の滅亡の理由は、呉にないのがポイント。
司馬昭から司馬炎に移り、時を同じくして孫休から孫皓に移った。降伏後に「昔は隣同士~」なんてジョークを孫皓が言ってる。
涼州で大乱が起きて、何人も刺史が殺された。晋はそちらにかかり切りで、陸抗と羊祜が友情を育めるような、微妙な均衡があった。
孫皓は「オレを見たな」と眼を抉り、「オレが洛陽で即位するという神託があったぞ」と寒空を行進した。そんな亡国の狂気を冷笑し、晋の朝廷では、呉平定の皮算用で争っていた。生殺しは残酷ですよ。

(10)西晋統一(280-299)
天下が1つになってから、斉万年ノ乱を鎮めるために、西晋が挙国一致を辛うじて維持しているところまで。
司馬炎は州の軍隊を廃止し、屯田も廃止し、占田・課田法を施行した。曹氏とは対極的に、諸王を重んじ、旧敵の子孫を重んじ、恩愛に満ち溢れた名族らしい政治を全土に浸透させた。
司馬炎の女遊びがあり、「後事を託したい。亮はまだか」と司馬炎が泣いて無念の内に死んだり、外戚の楊駿一族が誅殺されたり、司馬亮・司馬瑋が片付けられたり、広義の八王ノ乱は始まっている。でも、まだ統一王朝内の「宮廷内の闘争」というレベルでしょう。亡国の重大なダメージとしてカウントせず、三国の後日談として平穏であってほしい

(11)中華瓦解(300-311)
司馬倫が賈皇后を倒し、狭義の八王ノ乱が始まってから、懐帝が降伏するまで。
司馬冏、司馬乂、司馬頴、司馬顒、司馬越が、権力を握っては破れ、恵帝は長安と洛陽を往復した。
李特・李雄による成の建国、劉淵・劉聡による漢の建国、石勒(後趙を建国)、劉曜(前趙を建国)が活躍し、ついに洛陽が陥落して、司馬熾(懐帝)が捕えられた。ここに、秦漢帝国からずっと漢民族が引き継いできて、三国が取り合いをした「皇帝」という「共同幻想」は打ち砕かれた。司馬熾は屈辱的な待遇に晒され、313年に毒殺れた。ここに、『三国志』が本当に終わる。
だいたい1つの時代は10年から15年くらいを目安に区切りましたが、あんまりネタがなさそうな時代(桓帝霊帝の治世、西晋の統一が安定していそうな時期)は、それほど紙幅を割いても面白くなさそうなので、大雑把にくくっています。
この11の分け方で、各章とも均等くらいのボリュームのお話がありそうな気がします。また思いついたら、リニュアルをするかも知れませんが、現段階の頭の中はこんな感じです。080516
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