三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝5より、「裴秀伝」を翻訳(1)
裴秀,字季彥,河東聞喜人也。祖茂,漢尚書令。父潛,魏尚書令。秀少好學,有風操,八歲能屬文。叔父徽有盛名,賓客甚衆。秀年十餘歲,有詣徽者,出則過秀。
然秀母賤,嫡母宣氏不之禮,嘗使進饌於客,見者皆為之起。秀母曰:「微賤如此,當應為小兒故也。」宣氏知之,後遂止。時人為之語曰:「後進領袖有裴秀。」


裴秀、あざなは季彦。河東郡、聞喜県の人。
先祖の裴茂は、漢代に尚書令だった。父の裴潛は、魏代に尚書令だった。裴秀は幼いころから学を好み、風操があり、8歳で立派に文章を作った。叔父の裴徽は盛名があり、賓客がとても多かった。裴秀が10余歳のとき、(叔父)裴徽を訪ねた人は、(裴徽との交流が済んで)退出したら、裴秀に会わずに帰った。
なぜなら裴秀の母の出自は卑賤だったからだ。嫡母(裴潛の正室)宣氏は、裴秀の母に無礼を働いた。かつて宣氏は裴秀の母に命じ、賓客にお膳を出させた。これを見たものは皆が(宣氏の仕打ちに)色めきたった。裴秀の母は言った。「私の生まれが卑しいのは、このとおりです。ですが、小兒(裴秀)のためにご指示に従っているのです」と。これを知った宣氏は、裴秀の母に給仕を辞めさせた。これを聞いた当時の人は、「後年、領袖(一族の長)に進むのは、裴秀だ」と言った。


渡遼將軍毌丘儉嘗薦秀于大將軍曹爽,曰:「生而岐嶷,長蹈自然,玄靜守真,性入道奧;博學強記,無文不該;孝友著于鄉党,高聲聞於遠近。誠宜弼佐謨明,助和鼎味,毗贊大府,光昭盛化。非徒子奇、甘羅之儔,兼包顏、冉、游、夏之美。」爽乃辟為掾,襲父爵清陽亭侯,遷黃門侍郎。爽誅,以故吏免。頃之,為廷尉正,曆文帝安東及衛將軍司馬,軍國之政,多見信納。遷散騎常侍。

渡遼將軍の毌丘儉が、かつて大将軍の曹爽に裴秀を推薦した。
毌丘倹曰く「生まれながらに堂々としており、成長しては自然(あるがまま)に踏み行い、玄靜守真、性質は道奥に入っております(老荘の観点から評価できます)。博学強記で、知らない書物はありません。孝友は鄉党に著しく(地縁の人脈が充実しており)、遠近に名声が響き渡っております。誠に政務を補佐し、三国を和親に導き、大府(曹爽さま)を助け、国を守り立てる人材です。(故事に例えて)子奇や甘羅の類いではなく、かねて顔・冉・游・夏の美徳をかね備えております」
曹爽は辟召して、裴秀を自らの掾とし、父の爵位である清陽亭侯を継がせ、黃門侍郎に異動させた。曹爽が(司馬懿に)誅されると、罷免された。
このころ、廷尉正となり、司馬昭に仕えて、安東将軍および衛將軍の司馬を歴任し、軍政を見て、多いに信用を得た。散騎常侍に遷った。

帝之討諸葛誕也,秀與尚書僕射陳泰、黃門侍郎鍾會以行台從,豫參謀略。及誕平,轉尚書,進封魯陽鄉侯,增邑千戶。常道鄉公立,以豫議定策,進爵縣侯,增邑七百戶,遷尚書僕射。魏咸熙初,厘革憲司。時荀顗定禮儀,賈充正法律,而秀改官制焉。秀議五等之爵,自騎督已上六百余人皆封。於是秀封濟川侯,地方六十裏,邑千四百戶,以高苑縣濟川墟為侯國。

司馬昭が諸葛誕を討伐したとき、裴秀と尚書僕射の陳泰黃門侍郎の鍾會は軍勢に従い、謀略に参与した。諸葛誕を平定するに及び、裴秀は尚書に転任し、魯陽鄉侯に進められ、邑千戶を追加された。
曹髦が決起したとき、定策に参与し、爵縣侯に進められ、邑七百戶を追加され、尚書僕射に転任した。
魏咸熙初(264年)、裴秀は厘革憲司(晋を建国するために制度を改革した)。このとき荀顗は礼儀を定め、賈充は法律を正し、裴秀は官制を改めた。裴秀は五等の爵を提案し、(魏の)騎督以上の官吏は、漏れなく600余人を封じられた。この新制度を作った功績で、裴秀は、濟川侯に封じられ、地方六十裏と邑千四百戶を与えられた。高苑県の濟川墟が、裴秀の侯國となった。


初,文帝未定嗣,而屬意舞陽侯攸。武帝懼不得立,問秀曰:「人有相否?」因以奇表示之。秀後言于文帝曰:「中撫軍人望既茂,天表如此,固非人臣之相也。」由是世子乃定。武帝既即王位,拜尚書令、右光祿大夫,與御史大夫王沈、衛將軍賈充俱開府,加給事中。及帝受禪,加左光祿大夫,封钜鹿郡公,邑三千戶。

はじめ司馬昭は後継者を決めておらず、心では舞陽侯(司馬)攸に継がせようと思っていた。司馬炎は、自分が後を継げないのを懼れ、裴秀に問うた。「人有相否?(私は継げるだろうか)」と。(司馬攸を後継者に選ぶことは)奇(めずらしい、あってはならぬ)ことだと裴秀は思い、上表した。
裴秀が司馬昭に上表して曰く。 「中撫軍(司馬炎)は、すでに人望を盛んに得ております。天意はこのように表れており、もとより(司馬炎)は人臣に留まる相(顔つき、雰囲気)ではありません」と。裴秀の上表によって、司馬昭は世子(跡継ぎ)を定めた。
司馬炎が晋王に即くと、裴秀は尚書令、右光祿大夫となり、御史大夫の王沈衛將軍の賈充とともに開府を許され、給事中を加えられた。司馬炎が受禅するに及び、左光祿大夫を加えられ、钜鹿郡公・邑三千戶に封じられた。

時安遠護軍郝詡與故人書云:「與尚書令裴秀相知,望其為益。」有司奏免秀官,詔曰:「不能使人之不加諸我,此古人所難。交關人事,詡之罪耳,豈尚書令能防乎!其勿有所問。」司隸校尉李憙複上言,騎都尉劉尚為尚書令裴秀占官稻田,求禁止秀。詔又以秀幹翼朝政,有勳績於王室,不可以小疵掩大德,使推正尚罪而解秀禁止焉。

安遠護軍の郝詡と故人(旧知の人)が、書して曰く、「私たちは、尚書令の裴秀と知り合いです。便宜を図って下さい」と。(不正があったので)裴秀を免官せよと上奏した人がいた。これを受けて詔があった。
「他人が自分のことをどう利用するか、思いどおりにならない。これは古来より、難しいとされてきたことだ。人と交わり関わり、名が知れ渡ったという罪しか(裴秀には)ない。どうして裴秀が(不正な口利きを)防げただろうか。罪に問うてはいけない」と。
司隸校尉の李憙が復た上言して曰く、「騎都尉の劉尚は、尚書令裴秀のために、官稻田を占めています。裴秀にこれを禁じて、やめさせて下さい」と。詔曰く、「裴秀は朝政を幹翼しており、王室に対して勳績がある。小さな疵(スキャンダル)で、裴秀の大德を台無しにさせてはいけない。劉尚に罪を正させ、裴秀への取り締まりは解くように」と。
『晋書』列伝5より、「裴秀伝」を翻訳(2)
久之,詔曰:「夫三司之任,以翼宣皇極,弼成王事者也。故經國論道,賴之明喆,苟非其人,官不虛備。尚書令、左光祿大夫裴秀,雅量弘博,思心通遠,先帝登庸,贊事前朝。朕受明命,光佐大業,勳德茂著,配蹤元凱。宜正位居體,以康庶績。其以秀為司空。」

しばらく経過して、詔曰く、「そもそも三司の任は、皇極を翼宣し、王事を弼成することだ。もとより經國論道は、明喆(明哲、賢人)を頼る。たとえ明喆でなくても、職務に虛備があってはならない。
尚書令で左光祿大夫の裴秀は、雅量が弘博で、思心は遠に通ず。先帝(司馬昭)のとき登用され、前朝(司馬昭政権)に贊事した。朕が明命を受け(禅譲され)てからも、大業を立派に補佐し、勳德は茂著で、配蹤元凱だ。正位居體し、以康庶績する(三公任命ために書かれた褒め殺しのレトリックなので、訳しません)。そこで、裴秀を司空にする

秀儒學洽聞,且留心政事,當禪代之際,總納言之要,其所裁當,禮無違者。又以職在地官,以《禹貢》山川地名,從來久遠,多有變易。後世說者或強牽引,漸以暗昧。於是甄摘舊文,疑者則闕,古有名而今無者,皆隨事注列,作《禹貢地域圖》十八篇,奏之,藏于秘府。其序曰:

裴秀は儒学を広く学び、かつ政事にも心を留めた。(魏から晋への)禪代のとき、納言した趣旨は全て、適確な要点を得ており、礼に違う箇所はなかった。
また、地方官に就いていたとき、《禹貢》を参考に、太古の呼び名にちなんで、多くの山川の地名を変更した。後から(裴秀の地名変更は)強引だと批判する人がいたが、物を知らない馬鹿の指摘である。裴秀は批判を受け、旧聞(根拠文書)を甄摘した。裴秀を疑うものはいなくなった。昔はあったが今は残っていない地名を、裴秀は全て書き連ねて、『禹貢地域圖』18篇を作成し、朝廷に提出した。この本は秘府に保管された。『禹貢地域圖』の序文に曰く、


圖書之設,由來尚矣。自古立象垂制,而賴其用。三代置其官,國史掌厥職。暨漢屠咸陽,丞相蕭何盡收秦之圖籍。今秘書既無古之地圖,又無蕭何所得,惟有漢氏《輿地》及《括地》諸雜圖。各不設分率,又不考正准望,亦不備載名山大川。雖有粗形,皆不精審,不可依據。或荒外迂誕之言,不合事實,於義無取。

「この図書を作成したのは、もともと尚(とうとい)ことだ。古代より、象垂制を立てて、これを頼り利用してきた。三代(堯舜禹)は、(地名を司る)官職を設置し、国史は厥職を掌す。かつて漢は咸陽を屠り、丞相の蕭何は全ての秦朝が貯蔵する圖籍(図書・書籍)を手に入れた。いま古代の地図は散逸してしまい、また蕭何が手に入れた書籍も、『輿地』と『括地』とその他のいくらかしか残っていない。(作図法に)分率を設けず、また 准望を考正せず(不正確で)、また名山・大川の名前が載っていない。粗形(おおまかな正確さ)はあるが、どれも細部がいい加減で、依拠できたものではない。ある荒外迂誕の言(いい加減な諸説)は、事実に合わないので、意味を取り入れない。(まだ序文は続きます)


大晉龍興,混一六合,以清宇宙,始於庸蜀,冞入其岨。文皇帝乃命有司,撰訪吳蜀地圖。蜀土既定,六軍所經,地域遠近,山川險易,征路迂直,校驗圖記,罔或有差。今上考《禹貢》山海川流,原隰陂澤,古之九州,及今之十六州,郡國縣邑,疆界鄉陬,及古國盟會舊名,水陸徑路,為地圖十八篇。

大いなる晋が龍興し、六合は混一し、宇宙を清めた。庸蜀(蜀漢の卑称)を始めとして、其岨に分け入って攻めた。文皇帝(司馬昭)は有司に命じ、吳蜀の地圖を撰訪(編纂と収集)した。蜀土はすでに定まり(晋が平定し)、六軍が通った経路で、地域の遠近、山川の險易、征路の迂直を校験が図記したが、間違っていたり、地図と実際に差があったりした。いま『禹貢』に記された山海川流、原(原野)隰(湿地)陂(堤防)澤(沢)と古代の9州(行政区画)を参考にして、現代の16州、郡国県邑、鄉の四隅や境界を旧名・水陸の経路と照合し、地圖十八篇を私は作成した。(序文は続きます)


製圖之體有六焉。一曰分率,所以辨廣輪之度也。二曰准望,所以正彼此之體也。三曰道裏,所以定所由之數也。四曰高下,五曰方邪,六曰迂直,此三者各因地而制宜,所以校夷險之異也。

製図には6つの體(体裁、構成要素)がある。1つ目は分率(縮尺の方眼)で、廣輪の度(面積の大小)である。2つ目は准望で、正に彼此の體(あれとこれの体裁。すなわち方角の作図方法か)に規定される。
3つ目は道里で、数(道程の距離)に規定される。4つ目が高下(高低)、5つ目が方邪(四角く整っているか、捩じ曲がっているか)、6つ目が迂直(曲がってるか真っ直ぐか)である。この3つは、地形に規定され、校夷險之異(細部を間違えがちで難しい要素)である。


有圖像而無分率,則無以審遠近之差;有分率而無准望,雖得之於一隅,必失之于他方;有准望而無道裏,則施於山海絕隔之地,不能以相通;有道裏而無高下、方邪、迂直之校,則徑路之數必與遠近之實相違,失准望之正矣,故以此六者參而考之。然遠近之實定於分率,彼此之實定於道裏,度數之實定于高下、方邪、迂直之算。故雖有峻山钜海之隔,絕域殊方之迥,登降詭曲之因,皆可得舉而定者。准望之法既正,則曲直遠近無所隱其形也。

もし図像に分率(縮尺)が正しくないと、遠近の差をつまびらかに表現できない。もし縮尺が正しくても准望がない(方角の描き方が不適切だ)と、ある地点を把握はできても、他のところを見落とす。准望(方角の作図法)が正しくても、道里(通行路)が不正確なら、山海に絕隔されて通れないところが、通れるように見える。もし、道里が正しくても、高低・方邪(地形の整った度合い)・迂直(曲がりくねった度合い)がいい加減なら、必ず経路の距離を間違え、方角を見失う。だから、6つの要素を、よく検討しなければならない。
実際の遠近は縮尺から算出でき、実際の位置関係はロードマップから理解でき、実際の度數(地形の様子)は、高下・方邪・迂直から割り出すことが可能だ。ゆえに、もし峻山钜海が道を阻んでも、絕域殊方之迥登降詭曲(がんばって隈なく踏破する)理由は、地形を学んで(地図上で)実地形を把握できるようにするためだ。方角の作図はすでに正確で、曲直遠近も漏れなく地形を書き表せる。
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