三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝29より、「司馬越伝」を翻訳(1)
東海孝獻王越,字元超,高密王泰之次子也。少有令名,謙虛持布衣之操,為中外所宗。初以世子為騎都尉,與駙馬都尉楊邈及琅邪王伷子繇俱侍講東宮,拜散騎侍郎,曆左衛將軍,加侍中。討楊駿有功,封五千戶侯。遷散騎常侍、輔國將軍、尚書右僕射,領遊擊將軍。複為侍中,加奉車都尉,給溫信五十人,別封東海王,食六縣。永康初,為中書令,徙侍中,遷司空,領中書監。

東海孝獻王の司馬越は、あざなを元超という。高密王の司馬泰の次子である。若くして令名があり、謙虚で、庶民なみに質素で摂生した。中外(一族とそれ以外)に、指導的立場になる人物だと見られていた。はじめ、父の世子として、騎都尉となった。駙馬都尉の楊邈と、琅邪王の司馬伷の子である司馬繇とともに、東宮(司馬遹)を侍講した。散騎侍郎を拝し、左衛將軍を歴任し、侍中を加えられた。
楊駿を討った功績により、五千戶侯に封じられた。散騎常侍に遷り、輔國將軍・尚書右僕射となり、遊擊將軍を兼任した。再び侍中となり、奉車都尉を加えられ、50人の温信を給い、別に東海王に封じられて、6県の食邑を与えられた。
永康初(300年=司馬遹の廃嫡)、中書令となり、侍中に移り、司空に遷り、中書監を兼ねた。


成都王穎攻長沙王乂,乂固守洛陽,殿中諸將及三部司馬疲于戰守,密與左衛將軍硃默夜收乂別省,逼越為主,啟惠帝免乂官。事定,越稱疾遜位。帝不許,加守尚書令。太安初,帝北征鄴,以越為大都督。六軍敗,越奔下邳,徐州都督、東平王楙不納,越徑還東海。成都王穎以越兄弟宗室之美,下寬令招之,越不應命。帝西幸,以越為太傅,與太宰顒夾輔朝政,讓不受。東海中尉劉洽勸越發兵以備穎,越以洽為左司馬,尚書曹馥為軍司。

成都王の司馬頴が、長沙王の司馬乂を攻めた。司馬乂は洛陽を固守した。殿中の諸将と三部司馬は、防戦に疲れた。ひそかに左将軍の硃默は、司馬乂を別省の建物に収容した。迫って司馬越を主とし、恵帝に申請して司馬乂を免官させた。
ことが定まると、司馬越は病と称して、位を返上した。恵帝は許さず、司馬越に守尚書令を加えた。
太安初(302年)、恵帝は鄴に北征し、司馬越を大都督にした。六軍は破れ、司馬越は下邳に奔走した。だが、徐州都督ので東平王の司馬楙は、司馬越を受け容れなかった。司馬越は、東海(任国)に引き返した。成都王・司馬頴は、司馬越の兄弟が「宗室ノ美」であるとして、寛大に許して招いたが、司馬越は命令に従わなかった。恵帝が西(長安)に行幸すると、司馬越を太傅にして、太宰の司馬顒とともに2人で朝政を助けさせようとした。だが司馬越は受けなかった。
東海国の中尉・劉洽は、司馬越に兵を発して司馬頴に備えることを勧めた。司馬越は、劉洽を左司馬にして、尚書の曹馥を軍司にした。

既起兵,楙懼,乃以州與越。越以司空領徐州都督,以楙領兗州刺史。越三弟並據方任征伐,輒選刺史守相,朝士多赴越。而河間王顒挾天子,發詔罷越等,皆令就國。越唱義奉迎大駕,還復舊都,率甲卒三萬,西次蕭縣。豫州刺史劉喬不受越命,遣子祐距之,越軍敗。范陽王虓遣督護田徽以突騎八百迎越,遇祐於譙,祐眾潰,越進屯陽武。山東兵盛,關中大懼,顒斬送張方首求和,尋變計距越。越率諸侯及鮮卑許扶曆、駒次宿歸等步騎迎惠帝反洛陽。詔越乙太傅錄尚書,以下邳、濟陽二郡增封。

司馬越が兵を起こすと、司馬楙は(徐州入を拒んだので)司馬越を懼れ、徐州を司馬越に与えた。司馬越は司空で、徐州都督を兼任し、司馬楙には兗州刺史を兼任させた。越と3人の弟は、方任征伐を行い、刺史や太守・相を選挙したため、朝士の多くが司馬越のもとに赴いた。司馬顒は天子を我が物とし、詔を発して司馬越らを罷免して、任地に帰国させようとした。越は義を唱えて、大駕(恵帝)を迎え奉り、洛陽に呼び戻した。率いた軍団は3万で、西へ蕭県にを次に攻めた。
豫州刺史の劉喬は、司馬越の命令を受けず、子の劉祐を派遣して防がせた。司馬越の軍は、敗れた。范陽王・司馬虓は、督護・田徽を遣わして、突騎800で司馬越を迎えさせた。劉祐と田徽は譙県で会戦した。劉祐の軍は壊滅し、司馬越は進んで陽武県に駐屯した。
山東(司馬越)の兵は盛んで、関中(司馬顒)は大いに懼れた。司馬顒は、(彼の腹臣の)張方の首を切って和睦を求め、変計を企てて司馬越を防ごうとした。司馬越は、諸侯と鮮卑の許扶曆・駒次宿歸らの歩兵と騎兵を率い、恵帝を洛陽に迎え戻した。詔により、司馬越は太傅・録尚書となり、下邳郡・濟陽郡の2郡を増封された。


及懷帝即位,委政於越。吏部郎周穆,清河王覃舅,越之姑子也,與其妹夫諸葛玫共說越曰:「主上之為太弟,張方意也。清河王本太子,為群凶所廢。先帝暴崩,多疑東宮。公盍思伊、霍之舉,以寧社稷乎?」言未卒,越曰:「此豈宜言邪!」遂叱左右斬之。以玫、穆世家,罪止其身,因此表除三族之法。帝始親萬機,留心庶事,越不悅,求出籓,帝不許。越遂出鎮許昌。

懐帝が即位すると、司馬越に政治を委ねた。吏部郎・周穆は、清河王・司馬覃の舅で、司馬越の姑の子だった。その妹の夫である諸葛玫とともに司馬越に言った。
「主上(司馬熾)を皇太弟とするのは、張方の意見でした。清河王・司馬覃はもとの太子でしたが、群凶に拝されておりました。先帝(恵帝)が暴崩(不審死)したとき、大いに東宮(司馬熾)を疑いました。公(あなた=司馬越)は、伊尹・霍光の行いを思い出し、社稷を平寧にして下さいませんか」と。
まだ言い終わる前に、司馬越は「何を言うのか!」と叱り、左右(周穆と諸葛玫)を斬ってしまった。周穆と諸葛玫の家系は、代々の名門だったので、罪は本人だけに止め、三族にまでは及ぼされなかった。
懐帝ははじめ、万機を親政し、庶事を心に留めた。司馬越はこれを喜ばず、帰藩を願い出たが、懐帝は許さなかった。だが司馬越は、許昌に出鎮してしまった。

永嘉初,自許昌率苟晞及冀州刺史丁劭討汲桑,破之。越還于許,長史潘滔說之曰:「兗州天下樞要,公宜自牧。」及轉苟晞為青州刺史,由是與晞有隙。
尋詔越為丞相,領兗州牧,督兗、豫、司、冀、幽、並六州。越辭丞相不受,自許遷於鄄城。越恐清河王覃終為儲副,矯詔收付金墉城,尋害之。


永嘉初(307年)司馬越は、許昌から荀晞と冀州刺史・丁劭を率いて、汲桑を討ち破った。許昌に還るとき、長史の潘滔が司馬越に言った。
「兗州は天下の枢要です。公(司馬越)が自ら牧とおなりなさい」と。苟晞を青州刺史に転任させると、荀晞と司馬越の関係に隙間ができた。
詔が出て、司馬越を丞相とし、兗州牧を兼ねさせ、兗州・豫州・司州・冀州・幽州・并州の6州を督させようとした。司馬越は丞相を辞退して受けず、許昌から鄄城に遷った。司馬越は、清河王司馬覃を恐れ、終に副を儲け、詔を偽って金墉城に収容し、司馬覃を殺害した。


王彌入許,越遣左司馬王斌率甲士五千人入衛京都。鄄城自壞,越惡之,移屯濮陽,又遷于滎陽。召田甄等六率,甄不受命,越遣監軍劉望討甄。初,東嬴公騰之鎮鄴也,攜並州將田甄、甄弟蘭、任祉、祁濟、李惲、薄盛等部眾萬餘人至鄴,遣就谷冀州,號為乞活。及騰敗,甄等邀破汲桑於赤橋,越以甄為汲郡,蘭為钜鹿大守。甄求魏郡,越不許,甄怒,故召不至。望既渡河,甄退。李惲、薄盛斬田蘭,率其眾降,甄、祉、濟棄軍奔上黨。

王弥が許昌に入ると、司馬越は左司馬・王斌を遣わして、武装した兵士5000人を洛陽防衛に回した。鄄城の守兵が(王弥を懼れて)自壊してしまうと、司馬越はこれを憎んだ。濮陽に移動し、また滎陽に遷った。田甄ら6軍を徴発したが、田甄は命令を受けなかった。司馬越は、監軍・劉望を遣わして、田甄を討った。
はじめ東嬴公・司馬騰は、鄴を守っていた。司馬騰は、并州の将である田甄と、田甄の弟の田蘭、任祉、祁濟、李惲、薄盛らを携えた。彼らの部曲の万余人が鄴に到ったので、就谷を冀州中に遣って、食料を集めさせた。司馬騰が敗れると、田甄らは汲桑を赤橋で破った。司馬越は、田甄を汲郡太守に、田蘭を鉅鹿太守にした。田甄は魏郡太守を望んだが、司馬越は許さなかった。田甄は怒って、司馬越の呼びかけに応じなかったのだ。(司馬越が討伐に差し向けた)劉望が黄河を渡ったのち、田甄は撤退した。李惲と薄盛は、田蘭を斬り、軍勢を率いて投降した。田甄、任祉、祁濟は軍を棄てて、(故郷の并州)上党郡に逃げた。   
『晋書』列伝29より、「司馬越伝」を翻訳(2)
越自滎陽還洛陽,以太學為府。疑朝臣貳己,乃誣帝舅王延等為亂,遣王景率甲士三千人入宮收延等,付廷尉殺之。越解兗州牧,領司徒。越既與苟晞構怨,又以頃興事多由殿省,乃奏宿衛有侯爵者皆罷之。時殿中武官並封侯,由是出者略盡,皆泣涕而去。乃以東海國上軍將軍何倫為右衛將軍,王景為左衛將軍,領國兵數百人宿衛。

司馬越が滎陽から洛陽に還ると、太学を府(政治拠点)とした。朝臣は司馬越の二心を疑った。懐帝の舅の王延らが、呪いで乱を起こそうと企んだとして、司馬越は王景に3000人を率いさせて宮に入らせ、王延らを収容し、廷尉に引き渡して殺した。司馬越は兗州牧を解任され、司徒を兼ねることになった。
司馬越と荀顗は怨み合っていた。このころ、決裁事項がよく発生したので、司馬越は殿省によく行った。司馬越は、宿衛を持つ侯爵たちを全て罷免するように奏上した。そのため、殿中の武官と封侯らは、役所から出たときに略奪を受け、みな涙を流して去った。
司馬越は、東海國の上軍將軍である何倫を右衛將軍にし、王景を左衛將軍にした。司馬越は、領国の兵・数百人を宿衛に置いた。
※荀晞が宿衛と称して兵を率いているので、司馬越は役所を出入りするたびに脅威に感じた。だが荀晞だけから兵を取り上げることは出来ないので、全員から護衛を取り上げるというスタイルにした。その飛ばっちりで、略奪を受ける羽目になった人が多かった。司馬越本人だけは、抜け目なく護衛を充実させた。そういう解釈でいいのか?


越自誅王延等,大失眾望,而多有猜嫌。散騎侍郎高韜有憂國之言,越誣以訕謗時政害之,而不自安。乃戎服入見,請討石勒,且鎮集兗、豫以援京師。帝曰:「今逆虜侵逼郊畿,王室蠢蠢,莫有固心。朝廷社稷,倚賴於公,豈可遠出以孤根本!」對曰:「臣今率眾邀賊,勢必滅之。賊滅則不逞消殄,已東諸州職貢流通。此所以宣暢國威,籓屏之宜也。若端坐京輦以失機會,則釁弊日滋,所憂逾重。」遂行。留妃裴氏,世子、鎮軍將軍毗,及龍驤將軍李惲並何倫等守衛京都。

司馬越が(懐帝の舅)王延らを誅すると、大いに衆望を失った。司馬越は、猜嫌の感情を抱くようになった。散騎侍郎の高韜は、国を憂う発言をした。「司馬越は、悪意のあるでっち上げをやり、政治を害している。この国は安定しない」と。
異民族が服属して入見し、石勒を討ってくれと請うた。洛陽の兵を援軍として、兗州・豫州を鎮圧しようとした。懐帝は言った。
「いま逆虜は郊畿を侵逼し、王室は蠢蠢となり、心もとない。朝廷社稷は、司馬越を頼りとしている。なぜ遠征して、皇帝である私の守備を薄くするのか」と。司馬越は答えた。「私はいま軍を率いて賊を討ち、必ず滅ぼして参ります。賊が滅べば、不逞の奴らが消殄し、東方の諸州の職貢は流通するようになるでしょう。これにより、國威は宣暢し、(東方の州は)藩屏のあるべき機能を果たせるのです。もし洛陽にとどまって機会を喪えば、賊の弊害は日に日に強くなり、いよいよ憂うべき重大事となるでしょう」と。
司馬越は出征した。司馬越の妃・裴氏と、世子の鎮軍將軍・司馬毗と、龍驤將軍・李惲ならびに何倫らは、洛陽に残って守衛した。


表以行台隨軍,率甲士四萬東屯于項,王公卿士隨從者甚眾。詔加九錫。越乃羽檄四方曰:「皇綱失禦,社稷多難,孤以弱才,備當大任。自頃胡寇內逼,偏裨失利,帝鄉便為戎州,冠帶奄成殊域,朝廷上下,以為憂懼。皆由諸侯蹉跎,遂及此難。投袂忘履,討之已晚。人情奉本,莫不義奮。當須合會之眾,以俟戰守之備。宗廟主上,相賴匡救。檄至之日,便望風奮發,忠臣戰士效誠之秋也。」所征皆不至。而苟晞又表討越,語在《晞傳》。越以豫州刺史馮嵩為左司馬,自領豫州牧。

上表して、行台(尚書の出張官)に従軍させ、兵士40000を率いて東郡の項県に駐屯した。王公卿士で従軍する人は、とても多かった。詔して、司馬越に九錫を加えた。司馬越は、四方に羽檄を放って言った。
「(大意は)国の危機だが、私は大任を預かった。異民族の侵攻が内外で暴れている。この檄を読んだら、合流して私に協力せよ。ふんばりどきだ」と。司馬越は攻めたが、全く勝てなかった。荀晞は上表して、司馬越を討つように言った。その言葉は「荀晞伝」にある。司馬越は、豫州刺史・馮嵩を左司馬にした。豫州牧には、司馬越自身が就いた。
※「忠臣戰士效誠之秋也」とは、かっこいい表現です。効力はないが笑


越專擅威權,圖為霸業,朝賢素望,選為佐吏,名將勁卒,充於己府,不臣之跡,四海所知。而公私罄乏,所在寇亂,州郡攜貳,上下崩離,禍結釁深,遂憂懼成疾。永嘉五年,薨于項。秘不發喪。以襄陽王范為大將軍,統其眾。還葬東海。石勒追及于苦縣甯平城,將軍錢端出兵距勒,戰死,軍潰。勒命焚越柩曰:「此人亂天下,吾為天下報之,故燒其骨以告天地。」於是數十萬眾,勒以騎圍而射之,相踐如山。王公士庶死者十余萬。王彌弟璋焚其餘眾,並食之。天下歸罪於越。帝發詔貶越為縣王。

司馬越が威權を專擅し、覇業を為そうと図り、朝賢をもとより望み、佐吏を選出し、名将を動かし、自分の役所を充実させ、臣下らしくない行動をしていることは、四海の誰もが知っていた。ゆえに国家も各族も欠乏し、寇亂が起き、州郡は統治が分裂し、上下の秩序が崩離し、禍は釁深に結び、憂懼は疾と成った。
永嘉五(311)年、項県で司馬越は死んだ。死は秘されて、喪を発しなかった。襄陽王・司馬范を大将軍として、司馬越の代わりに軍を統べた。石勒に苦県甯平城へ追い詰められると、将軍・錢端が出兵して石勒を防いだが、戦死して軍は壊滅した。石勒は、司馬越の棺を焼いて言った。
「この人が天下を乱した。オレは天下のために、これに報いよう。ゆえに司馬越の骨を燒いて、天地に告げるのだ」と。数十万人が、石勒の騎兵に包囲されて射られ、混乱して山のように折り重なった。王公・士庶の死者は、10余万人だった。王弥の弟の王璋は、生き残った人を焚いて食べた。天下は、司馬越にこの敗戦の罪を帰させた。懐帝は詔を出して、司馬越を県王に貶めた。

何倫、李惲聞越之死,秘不發喪,奉妃裴氏及毗出自京邑,從者傾城,所經暴掠。至洧倉,又為勒所敗,毗及宗室三十六王俱沒於賊。李惲殺妻子奔廣宗,何倫走下邳。裴妃為人所略,賣于吳氏,太興中,得渡江,欲招魂葬越。元帝詔有司詳議,博士傅純曰:「聖人制禮,以事緣情,設塚槨以藏形,而事之以凶;立廟祧以安神,而奉之以吉。送形而往,迎精而還。此墓廟之大分,形神之異制也。至於室廟寢廟祊祭非一處,所以廣求神之道,而獨不祭於墓,明非神之所處也。今亂形神之別,錯廟墓之宜,違禮制義,莫大於此。」於是下詔不許。裴妃不奉詔,遂葬越於廣陵。太興末,墓毀,改葬丹徒。

(洛陽に残った)何倫と李惲は、司馬越の死を聞いたが、秘して喪を発せず、妃・裴氏と司馬毗を奉じて洛陽を脱出した。従うものは、城を傾け、暴掠を受けた。洧倉に到達し、石勒に敗れた。司馬毗と宗室36王は、ともに賊に殺された。李惲は妻子を殺して広宗に逃げ、何倫は下邳へ逃げた。裴妃は人に略されることとなり、吳氏に売られた。裴妃は、太興年間(318-321年)に長江を渡ることができ、司馬越の魂を招いて葬りたいと言った。司馬睿は詔して、有司に詳細を議論させた。博士の傅純が反対した(発言は省略)。
詔は許さなかったが、裴妃は詔を守らず、広陵郡で司馬越を祭った。太興年間の末(321年)、司馬越の墓は壊され、丹徒郡に改葬された。


初,元帝鎮建鄴,裴妃之意也,帝深德之,數幸其第,以第三子沖奉越後。薨,無子,成帝以少子奕繼之。哀帝徙奕為琅邪王,而東海無嗣。隆安初,安帝更以會稽忠王次子彥璋為東海王,繼沖為曾孫。為桓玄所害,國除。

はじめ司馬睿が建業を鎮圧したのは、裴妃の意見だった。司馬睿は裴妃を深く認め、しばしば裴妃の家に赴いた。第3子の司馬沖を、司馬越の跡継ぎとした。
司馬沖が死んだとき、子がいなかった。成帝は幼子の司馬奕に継がせた。哀帝は、司馬奕を瑯邪王に移し、東海王は継ぐ人がいなくなった。隆安年間(397-402年)、安帝は会稽忠王の次子の司馬彦璋を東海王とし、司馬沖の曾孫として継がせた。司馬彦璋は桓玄に殺され、東海国は除かれた。080810
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