三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!(1)
自分の無学さを省みずに挑戦する、翻訳シリーズ第2回。前回の司馬攸で、正直ボロボロでしたが、数をこなせば、いつの日にか。
読みたいのに、ネットで検索しても、日本語訳が出てこない!という『晋書』の列伝を、自前で訳してみようという無謀な企画です。
今回は、非業の死を遂げた、恵帝(司馬衷)の皇太子、司馬遹です。
列傳第二十三 愍懐太子伝

湣懷太子遹,字熙祖,惠帝長子,母曰謝才人。幼而聰慧,武帝愛之,恆在左右。嘗與諸皇子共戲殿上,惠帝來朝,執諸皇子手,次至太子,帝曰:「是汝兒也。」惠帝乃止。


愍懐太子。司馬遹、あざなは熙祖。恵帝(司馬衷)の長子で、母は謝才人という。
幼いときから聰慧で、武帝(司馬炎)に愛され、つねに側に置かれた。かって諸皇子とともに、殿上で遊んでいたとき、司馬衷(司馬遹の父、即位前だから名で記す)が来て、諸皇子の手を取った。司馬衷が司馬遹の手を取ったとき、武帝は言った。「それはお前の子だ」と。
司馬衷は(武帝のそばで他の皇子に混じっていたので、自分の子だと気づかなかったことに恥じて、皇子たちの手を取るのを)やめた。


宮中嘗夜失火,武帝登樓望之。太子時年五歲,牽帝裾入暗中。帝問其故,太子曰:「暮夜倉卒,宜備非常,不宜令照見人君也。」由是奇之。

宮中でかつて夜に失火があったとき、武帝は楼に登って、眺めていた。司馬遹はまだ5歳だったが、武帝の裾を引っ張って、(失火に照らされていない)暗中に戻した。武帝は「なぜそんなことをするのかね」と聞くと、司馬遹は答えて曰く。「暮夜には、卒(下級役人)に待機させ、非常時に供えるべきです。人君(皇帝)に、わざわざ視察させ、火に照らさせてはいけません」と。由々しく奇抜で、素晴らしい返答だ。


嘗從帝觀豕牢,言於帝曰:「豕甚肥,何不殺以享士,而使久費五穀」帝嘉其意,即使烹之。因撫其背,謂廷尉傅祗曰:「此兒當興我家。」嘗對群臣稱太子似宣帝,於是令譽流於天下。

かつて武帝に従って、豕牢(ブタ小屋)を見に行ったとき、司馬遹は武帝に言った。「ブタはとても太っています。なぜ享士に命じて殺さずに、久しく(余計に)五穀を食べさせているんですか」と。武帝は、司馬遹の意見を嘉し、すぐにブタを殺させた。
武帝は、司馬遹の背を撫でて、廷尉の傅祗に言った。「この子は、まさに我が一族を繁栄させてくれる」と。かつて郡臣を封じ(任命し)たとき、司馬遹は宣帝(司馬懿)に似ていると称したことは行き渡り、司馬遹は天下のあちこちで誉められた。

時望氣者言廣陵有天子氣,故封為廣陵王,邑五萬戶。以劉寔為師,孟珩為友,楊准、馮蓀為文學。惠帝即位,立為皇太子。盛選德望以為師傅,以何劭為太師,王戎為太傅,楊濟為太保,裴楷為少師,張華為少傅,和嶠為少保。

望気(天命を占う)者が、「廣陵(徐州)に天子の気があります」と言ったため、司馬遹は広陵王に封じられ、邑五萬戶を与えられた。劉寔を教師とし、孟珩を学友とし、楊准と馮蓀を文学とした。
司馬衷が即位すると(恵帝)、司馬遹は皇太子に立てられた。盛んに徳望ある人物を選出して(太子の)師傅にした。何劭を太師に、王戎を太傅に、楊濟を太保に、裴楷を少師に、張華を少傅に、和嶠を少保にして、司馬遹に仕えさせた。


元康元年,出就東宮,又詔曰:「遹尚幼蒙,今出東宮,惟當賴師傅群賢之訓。其遊處左右,宜得正人使共周旋,能相長益者。」於是使太保衛瓘息庭、司空泰息略、太子太傅楊濟息毖、太子少師裴楷息憲、太子少傅張華息禕、尚書令華暠息恆與太子游處,以相輔導焉。

元康元(291)年、司馬遹は、東宮に入った。詔があった。「司馬遹はまだ幼蒙だ。いま東宮に移ったが、ただ師傅や群賢の訓えを頼りなさい。司馬遹と遊ぶ側近には、正しい(心を持った)人を置いて、協力して世話をさせ、立派に成長させよ」と。この詔を受けて、太保の衛瓘を息庭に、司空の(司馬)泰を息略に、太子太傅の楊濟を息毖に、太子少師の裴楷を息憲に、太子少傅の張華を息禕に、尚書令の華暠を息恆に迎えた。彼らは司馬遹と交友し、互いに助けて導いた。
「息」という接頭語は、「太子の」という意味だろうか。「息」に続く2文字目は、司馬遹との関係性を表したものでしょうか。


及長,不好學,惟與左右嬉戲,不能尊敬保傅。賈後素忌太子有令譽,因此密敕黃門閹宦媚諛于太子曰:「殿下誠可及壯時極意所欲,何為恆自拘束?」每見喜怒之際,輒歎曰:「殿下不知用威刑,天下豈得畏服!」太子所幸蔣美人生男,又言宜隆其賞賜,多為皇孫造玩弄之器,太子從之。

司馬遹は成長し、学を好まず、ただ側近と嬉び戯れ、保傅(恵帝の詔で配置された教育役たち)を尊敬しなかった。賈后(南風)は、もとより司馬遹が誉められているのを(自分に男子が出来ないから)忌み、ひそかに黃門閹宦(宦官)に命じて、司馬遹に媚びさせた。宦官は、司馬遹に言った。「殿下(あなた)はまことに成長なさり、思いのままを極めておられます。(それなのに)なぜいつも、自ら拘束する(我慢なさっておられる)のでしょうか」と。
司馬遹が喜んだり怒ったりするたび、いつも宦官は嘆いて言った。「殿下は、威刑を用いることをご存知ありません(もっと思いどおりに裁可して良いのですよ)。天下に畏服を得ないことがありましょうか(あなたは、天下にひれ伏されて当然のお方です)」と。
司馬遹に寵愛された蔣美人は、男子を産んだ。また蔣美人は言った。「私に賞賜をたっぷり下さい。多いに皇孫(司馬遹と蔣美人の男子)のために、玩弄之器(おもちゃ)を造って下さい」と。司馬遹は、蔣美人の願いを聞いてやった。
『晋書』列伝23、司馬遹「愍懐太子伝」翻訳!(2)
於是慢弛益彰。或廢朝侍,恆在後園遊戲。愛埤車小馬,令左右馳騎,斷其鞅勒,使墮地為樂。或有犯忤者,手自捶擊之。性拘小忌,不許繕壁修牆,正瓦動屋。而于宮中為市,使人屠酤,手揣斤兩,輕重不差。其母本屠家女也,故太子好之。

司馬遹の乱行のせいで、彼への益彰(よい評価)は徐々に失われた。司馬遹は、朝侍(教育役)をクビにして、つねに後園で遊んだ。埤車小馬を愛し、臣下に小馬に乗ってくるように命じ、鞅勒(馬具)を切り落として、臣下が落馬するのを楽しんだ。またあるとき、罪を犯して逆らう者があれば、司馬遹は自らムチで撃った(これは非常識な享楽らしい)。司馬遹は、自分に向けられた些細な悪感情にこだわる性格だった。壁を繕い、牆を修し、瓦を正し、屋を動かすことを、どれも許さなかった(ボロ家を好むのは変人の趣味ということか)。
宮中で市場を作り、家畜を屠殺させた。司馬遹が、両手で肉の重さを計ると、ぴったり正確だった。母はもとは肉屋の娘だったので、司馬遹は肉屋ごっこを好んだ。


又令西園賣葵菜、藍子、雞、面之屬,而收其利。東宮舊制,月請錢五十萬,備於衆用,太子恆探取二月,以供嬖寵。洗馬江統陳五事以諫之,太子不納,語在《統傳》中。舍人杜錫以太子非賈後所生,而後性兇暴,深以為憂,每盡忠規勸太子修德進善,遠於讒謗。太子怒,使人以針著錫常所坐氈中而剌之。

また、西園(の役人)に葵菜、藍子、雞、面之屬(メリケン粉)を買って来させ、それを売って利益を得た。東宮の古い制度では、月に50万銭を徴収し、民衆が用いるために備蓄することになっていた。司馬遹はいつも2か月分(100万銭)を巻きあげ、気に入った女に貢いだ。
洗馬の江統が、5箇条で司馬遹を諌めたが、受け取らなかった。「江統伝」に、その内容を掲載している。舍人の杜錫(杜預の子)は、司馬遹が賈皇后の子ではなく、賈皇后の性格が兇暴であるため、深く司馬遹のことを心配した。杜錫は忠規をつくして、つねに司馬遹に修德進善を勧め、讒謗(悪口=宦官の追従)を遠ざけさせた。司馬遹は怒り、杜錫がいつも座る坐氈の中に、針を仕込ませた。

太子性剛,知賈謐恃後之貴,不能假借之。謐至東宮,或舍之而於後庭遊戲。詹事裴權諫曰:「賈謐甚有寵于中宮,而有不順之色,若一旦交構,大事去矣。宜深自謙屈,以防其變,廣延賢士,用自輔翼。」太子不能從。

司馬遹は意志が強くて頑固な性格だった。
賈謐が(伯母の)賈皇后の地位をたのみにしているのを知り、司馬遹は、賈謐を仮借(ゆるす)ことが出来なかった。賈謐は東宮に到り、あるいは舎に行き、後庭で遊び戯れた。
詹事の裴權が諌めていった。「賈謐は、中宮(賈皇后)に甚だ可愛がられ、不順(秩序に逆らう)様子があります。もし一旦、賈謐とことを構えれば、大事(即位のチャンス、もしくは外戚賈氏を葬るチャンス)は去ってしまいます。どうか深く自重なされ、賈謐が引き起こすかも知れない変事を防ぎ、賢士を広く侍らせ、補佐として用いて下さい」と。司馬遹はその諫言に従わなかった。


初,賈後母郭槐欲以韓壽女為太子妃,太子亦欲婚韓氏以自固。而壽妻賈午及後皆不聽,而為太子聘王衍小女惠風。太子聞衍長女美,而賈後為謐聘之,心不能平,頗以為言。

はじめ賈皇后の母・郭槐は、韓壽の娘(賈皇后の姪、賈謐の妹)を太子妃にしたいと思った。司馬遹もまた、韓壽の娘を妃にしたいと思っていた。しかし、韓壽の妻・賈午(賈皇后の妹)と賈皇后がみな許さなかったので、司馬遹のために(韓壽の娘の代わりとして)王衍の年少の娘・恵風を招いた。司馬遹は、王衍の長女が美しいと聞いていたが、賈南風が賈謐の(権勢を保つ)ために、王衍の娘を招いたと知り、心は静まらず、ひどく(賈謐への)不満を口にした。


謐嘗與太子圍棋,爭道,成都王穎見而訶謐,謐意愈不平,因此譖太子于後曰:「太子廣買田業,多畜私財以結小人者,為賈氏故也。密聞其言雲:'皇后萬歲後,吾當魚肉之。'

賈謐はかつて、司馬遹と囲碁をして、勝敗の判定で口論した。成都王(司馬)頴はこれを見て、賈謐を大声で叱った。賈謐はいよいよ不満が鬱屈した。このことがあって、賈謐は司馬遹をそしって言った。
「司馬遹が広く私田を買占め、多く私財を蓄え、取るに足らない人たちを囲んでいることは、賈氏にとって災いです。密かに司馬遹の発言を漏れ聞くには『賈皇后が死んだら、その屍肉を(黄河に捨てて)魚に食わせよう』とのこと。(賈謐の台詞は続きます)


非但如是也,若宮車晏駕,彼居大位,依楊氏故事,誅臣等而廢後於金墉,如反手耳。不如早為之所,更立慈順者以自防衛。」後納其言,又宣揚太子之短,布諸遠近。于時朝野咸知賈後有害太子意。中護軍趙俊請太子廢後,太子不聽。

それだけではありません。もし宮車が晏駕し、司馬遹が皇帝になったら、(10年前に滅ぼされた外戚の)楊氏のように、彼が私たちを誅し、賈皇后を廃して金墉城に閉じ込めることなど、手のひらを返すように簡単です。(司馬遹を廃すことを)急ぐに越したことはなく、さらに(賈氏にとって)慈順な者を立てて、自衛するのが良いでしょう」と。
賈皇后は、賈謐の発言を容れ、また司馬遹の短所を宣揚し、遠近に触れ回った。役人も在野の士も、誰もが賈皇后が司馬遹に害意があることを知っていた。中護軍の趙俊は、司馬遹に「賈皇后を廃しなさい」と願い出たが、司馬遹は許さなかった。
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