■三国志雑感>劉備が主役キャラになった日(1)
『秘本三国志』は、何でもかんでも「八百長」にしてしまう三国志の話なんですが、読み返していて1つだけ納得できるものがあった。劉備と曹操の地下同盟というやつ。 この本の力を借りて、劉備の自立について考えます。 以下に『秘本三国志』の該当部分のあらましをまとめると。
  ■徐州での謀反 劉備が許にいるとき曹操が言う。 「その者と組めば、あるいは天下がとれるのではないかという人物の顔が、あのとき(呂布を殺したとき)わしの脳裡に浮かんできた」 曹操は劉備を、「敵の陣営にいなければならん」2つ目の頭脳として、指名する。すなわち、敵陣営に潜り込んで、こちらの都合よく操れ、というのだ。落雷にかき消されつつ、曹操が劉備に求めたのは「謀反だ」。   劉備はこの同盟を、曹操と天下を二分し、最後の決戦で自分が勝つためのもの、と理解した。これは劉備が、関羽にさえ漏らすことを許されず、参謀&指揮官を1人で兼ねて全てを片付けるミッションだ。 劉備の最初の任務は、北上する袁術を止める合戦のどさくさで曹操に謀反し、袁紹のもとに走ること。だが袁術の死で流れた。 ※曹操が劉備を徐州に派遣したとき、追わなかった。家臣に「劉備は縦すべからず」と言われ、後を追わせたが間に合わなかった。曹操らしくない。作者はそれを根拠に、曹操が同盟を意識してたと考えたらしい。   次に劉備は、徐州で自立するという計画を立てた。関羽が城を枕に討ち死にしてはダメなので、真意を隠して根回しした。 「陶謙に譲られた徐州が恋しい。徐州を得るには、曹操への謀反しかない。袁曹の合戦はどちらに転ぶか分からないから、二手に分かれよう。どちらが勝っても命乞いができる」 これにより、関羽の曹操への降伏の打ち合わせが完了した。   劉備は車冑を切った。劉岱と王忠を追い返し「曹公に告げよ。曹公みずから兵を率いて戦うのでなければ、小沛は陥ちぬと、な。は、は、は…」なんて伝言した。 曹操は「劉備は人傑だ」なんて言って、親征を決行した。郭嘉が袁紹を酷評して、後押しした。「劉備との戦いは、なれあいであるから」袁紹に背後を突かれたら、すぐに戻れば良かった。 劉備は曹操を確認して、徐州を放棄。曹操に徐州を返上して、冀州に移った。袁紹に入り込んだ。 ※乱戦でもないのに、劉備の妻子が曹操の虜となった。これは、曹操に妻子が殺されないと信じる根拠があったからだと、作者は考えたらしい。   ■袁紹の撹乱 袁紹は「目先のきく」「時代にたいする嗅覚のするどさは抜群」の劉備が、曹操を棄てて自分についたことを評価した。虚名の効果に期待した。   袁紹が大動員による南下を提案したら、田豊が反対した。「奇兵を用いて、奔命に疲れさせるのが上策でございます」と。 劉備は、田豊を容れると曹操が負けるので、董承と自分の造反をネタにして「曹操という巨木の根は、岩に半ば壊されております」と、大動員を支持した。袁紹は「わが意を得たり」と喜んだ。 劉備は、田豊の弁舌で袁紹の決意が「いつひっくり返るかわからない」ので、田豊の束縛を求めた。袁紹は、田豊を監禁した。   沮授が白馬城攻撃のとき、顔良は不適任だと言った。しかし劉備が代えさえさせなかった。沮授は財産を分けた。 劉備は顔良に、関羽が寝返るから極秘に帰順させるよう、耳打ちした。顔良は「手品師が種を明かさないのとおなじ」で、味方に何も伝えず、関羽を単騎で迎えた。顔良は、関羽に斬られた。 関羽は曹操から「顔良の馬鹿は、こちらが進んで行くと、ただ一騎でとび出してくる。それを斬ってすてれば、もう勝ったも同然ぞ」と言われていた。曹操の予想は的中した。 曹操は、関羽を追うというポーズは残しつつ、解放した。   劉備は、バレたらいけないので、袁紹に不利な進言を控えた。内部の対立を助長すればよかった。沮授が下野を申し出ると、劉備は沮授を引き止めた。「よく燃える燃料を、取り去られては困るのだ」というのが理由だ。 沮授は郭図の下に付けられた。実質上の降格だ。   劉備と文醜が、延津に向った。機密情報は、劉備から曹操に流れる。 文醜は曹操の輜重隊を攻めたが、劉備は後続を引き止めた。劉備は「文醜との同意がないので、権限がない」と言って、退却の太鼓を打たなかった。少数の文醜は孤立し、曹操に蹴散らされた。 劉備は「曹操の罠を見破り、四千の兵を救ったということで、評価は高まった」という結果になった。   劉備は汝南に回され、袁紹を内側から操ることが出来なくなった。韓猛が守る兵糧の輸送の話を、曹操に送るくらいだ。劉備は、汝南で劉辟と組んだが「うまく手を抜いたので、曹操も彼らに撹乱されずにすんだ」と。 劉備は戻り、「曹操はしぶとうございますから、荊州の劉表と結んで、はさみ撃ちをするのが最善の策」だと提案し、自らが引き受けた。   ■劉表引止め 官渡と倉亭で勝った曹操は、汝南の劉備を討つべく自ら出陣した。しかし「特別な関係がある」ため、劉備も「あわてふためいたふりをして、荊州の劉表のところへ逃げ込んだ」と。 「袁紹はもうすんだ。曹操と劉備のあいだには、つぎの目標を、劉表にしぼるという密約ができていた」そうだ。 「曹操と劉備の八百長は、いつも曹操が勝っていてはあやしまれる。建安七年の葉の戦いでは、劉備が曹操軍を破った」んだそうで。劉備は、劉表に曹操の背後を襲わせないように、導いた。 しかし、劉表に意気がないので、「この役目は楽だった」と。   劉備は、孫権と劉表を潰し合わせて「泥沼の中に沈めて」、漁夫の利を得るつもりだった。「曹操もしばらく、その成果があがるのを待ってくれるであろう。―劉備はそう信じていた」と。 しかし諸葛亮は、「曹公はもはや、玄徳さまの力を必要といたしません。役に立たぬものは、躊躇なく棄てるのが、これまでの曹公のやり方でした」と指摘した。 丞相になり、玄武池で演習したことで、曹操が本気で軍事行動を開始すると、諸葛亮は判断した。荊州が、後継者争いで瓦解寸前なのも、劉備の目論見を否定する根拠だった。 孫権と結び、曹操と当たることとした。   曹操は「劉備が江陵めざして逃げたときいて、(あの大耳との秘密提携も、これで終りかな。……)と腕組みをした」と。 以後、赤壁の戦いへと突入していく。地下同盟は消滅ですね。
  うまく書かれているなあ、と思う部分と、せっかくの三国志の迫力を削いでしまっているなあ、と思われる部分がまざっている。 次から、劉備の主役キャラへの転機を、勝手に描いて推測します。
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