三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(1)
前回は、福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』で、司馬炎について追いかけたのですが。今回は、西晋の滅亡までの粗筋を、本を見ながら書いてみようと思います。ほぼ知識ゼロなので、丸写ししてる感98%ですが、自分メモということで、お見逃し下さい。

■司馬衷
290年4月20日、武帝が死んだ日に、司馬衷は即位した。恵帝と諡される。あざなは正度、父は司馬炎で母は楊艶。皇后は賈南風。

男性ユニット「羞恥心」の4人目候補(おバカキャラ)で、庶民の飢えを聞いたとき、「穀物がないなら、肉を食えばいいじゃん」と言った。
淩雲台で宴席を持ったとき、衛瓘が酔ったふりをして武帝のイスを叩き、「この席が(あのバカ皇子には)惜しうござる」と嘆いた。
様子を見に行った和嶠は「進歩ナシ」と報告し、夏侯和は、「司馬攸くんも血の濃さは同じじゃん。代えちゃえば?」と言った。

だが、司馬遹(衷の子、皇孫)が聡明なので、「衷は、あくまで中継ぎ。孫が成長したら、退かせるからさ。今さら廃太子とか、物騒だしね」と、武帝は妥協した。そして、司馬攸を憤死させた。
武帝は、皇子の実力を見るために、尚書の決済をさせてみた。
母の賈皇后が替え玉受験させたが、答案がパーフェクトすぎた。宦官の張オウが「皇子がバカなのは、周知。あんまりインテリぶって、古典を引用したら、インチキがバレます」と助言した。そこそこのレベルのドラフトを用意し、司馬衷に書き写させた。

■楊駿の専権
外戚の楊駿は、太極殿にデーンと腰をすえ、虎賁100人を率いて武帝の棺を守った。後漢の外戚政治、復活か。
楊駿と双璧をなすのは、宗師(司馬さん家のリーダー)の司馬亮(司馬昭の弟、汝南王)さん。彼は、門外で哭礼し、楊駿との接触を避けた。司馬亮の大人な対応で、一触即発の内戦の危機は回避された。
楊駿の側近は、「外戚と宗室のアライアンスが大切でしょうに」と言ったが、楊駿は無視った。

自分が執政者の器じゃないことを承知の楊駿は、人気取りに、爵位をバラまいた。石崇が「位がインフレしてます。これじゃあ、スーパーサイヤ人のバーゲンセール(数世の後には公侯に非ざる者なし)になってしまいます」と諫言したが、却下された。
楊駿は、気心知れた身内で、周りを固めた。ちっさ!

■賈南風のクーデター
賈南風は、残虐で嫉妬深い人だったようだ。
司馬衷の子を身ごもった側室にホコを投げつけた。妊婦の腹が破れて、ホコに刺さった胎児が落ちた。
バカキャラの司馬衷もさすがに怒ったが、馮紞・荀勖らが取り成した。楊珧(楊駿の弟)は、「賈充どのの功績をお忘れか」と賈南風を弁護した。賈南風は許された。
そういう人が、権力を握るために動き出しますよ。

賈南風は、(楊珧に弁護してもらった恩も忘れて)楊氏を除きたい。楊駿に恨みを持つものが、賈南風の側近にいた。
彼らは、司馬亮に「楊駿を片付けましょう」と持ちかけたが、却下された。いつも司馬亮は、分別ある判断をする人らしい。
次に司馬瑋(司馬衷の弟、楚王)に持ちかけたら、快諾された。
楊駿は、司馬瑋が驍鋭なので、警戒していた。司馬瑋を近くの宛城に置き、入朝の申出があれば「監視下に置くチャンスだ」と、叛乱されるのも知らずに許諾した。

司馬瑋は、司馬允(司馬瑋の異母弟、淮南王)と、291年3月8日に決起した。まだ外戚政治、1年もやってませんが。
楊駿は、太傅府にいたが、ここはかつて曹爽がいた場所。不吉なシンクロに、持ち前の臆病さを発揮して、楊駿は何も出来ない。
「雲竜門を焼き払って、目晦まししましょう」と提案されたが、「雲竜門は明帝(曹叡)が、莫大な工費で建てたもの。勿体ない」と二の足を踏んだ。結果、楊駿たちは一味三族、皆殺し。

■司馬繇のウサ晴らし
司馬繇(司馬炎の従弟、東安公)は美髯の持ち主で、雲竜門を守っていた。焼き払われなくて良かったねー。彼はクーデター側に味方し、散騎常侍として動員できる400人を駐屯させた。
楊珧(先述の楊駿の弟)は、司馬繇に「上表文が、石箱の中にあります。張華にお尋ね下さい」と、頭が叩き潰されるまで叫び続けた。
何が書いてあったんだろう?楊氏の無実の証明か何か?ちょっと福原氏の本だけでは、分かりませんでした。

諸葛誕を裏切った文鴦も、楊駿の一味と見なされて、司馬繇に殺された。司馬繇は、諸葛誕の外孫に当たるので、私怨を晴らしたのか。
この夜の誅賞はすべて東安公繇から出、その威信は内外を圧した。
福原氏は、そう締めくくっています。司馬繇、ダークホースですね。存在すら、知らなかった。

■楊太后の死
どうしても父・楊駿を救いたかった太后ですが、力及ばず。
太后は庶人に落とされ、母とともに幽閉された。賈南風は「太后の母を処刑せよ」と、朝論を導いた。楊太后は食を断ち、8日目に餓死した。
武帝にとって、2人目の楊皇后だったから、まだ34歳でした。
司馬衷は、皇后に実母を殺されちゃったんだね。292年2月1日。

賈南風は妖巫を信じた。あの世で武帝に告げ口されるのを恐れ、太后の顔を覆い、おふだや薬物を加えた。後ろめたいなら、やるなよ。
袁紹のところの劉氏、曹丕の甄氏に対する仕打ちも、たいがいでしたが、権力者の妻の末路は恐ろしいねえ笑
福原啓郎『西晋の武帝』で西晋末を知る。(2)
■司馬亮と衛瓘
291年3月19日、許昌から司馬亮がきて、退休していた衛瓘と仕切り始めた。宗室諸王と、賈皇后の一派で要職を占めた。
司馬亮は、「楊駿を討ったことは素晴らしい」と、爵位のバラ撒きを始めた。督将となる者がなんと1081人にも登り、汝南王亮の太宰府の門前には車馬が引きも切らず、街路をも埋め尽くすほどだとさ。あんたも、楊駿と一緒やん笑
傅咸は「司馬繇が、節操なく爵位を与えるから、司馬亮さんが軌道修正するかと思いきや、ちゃうんかいな。がっかりや」と言った。

3月27日、司馬繇が職を解かれ、王から公に降ろされ、帯方郡に流された。司馬澹(司馬繇の兄 、東武公)の嫉妬を受けたとか、賈皇后を廃そうと企んだとかで、司馬亮におしおきを受けてしまった。いいキャラだったのに。
司馬亮と衛瓘は、つぎに司馬瑋(司馬衷の弟、楚王)を警戒した。楊駿へのクーデターの主役で、若くて果断で気鋭、強情で人に従わず、殺人を好んだ。良識あるおじさんは、封国に帰そうとしたが、賈皇后に接近し、司馬瑋は太子太傅として洛陽に残った。

■司馬瑋の裏目ちゃん
司馬瑋は賈皇后に、「司馬亮と衛瓘は、恵帝(バカな衷)を廃そうとしています」と吹き込んだ。賈南風は、せっかく皇后になれたのに、邪魔されてたまるか、と憤った。
もともと、武帝の1人目の楊皇后が死んだとき、次の皇后は衛瓘の娘になるはずだった。その娘が子を産めば、皇后としての地位はキャンセルになっていたところだ。
賈皇后は、司馬衷を操って詔書を書かせた。
「司馬亮と衛瓘は免官だ。司馬允(淮南王)・司馬乂(長沙王)・司馬頴(成都王)に宮門を守らせよ」と。ここに登場した3人は、全員が武帝の子。すなわち、司馬衷と司馬瑋の弟たち。

司馬瑋は殺人が好きなので、司馬亮と衛瓘を殺した。
「この勢いで、賈皇后も討っちゃいましょう」と言うものがあったが、司馬瑋は迷った。そうこうしてるうちに、張華の入れ知恵で、賈皇后が司馬瑋を討った。これが291年6月13日。

■ここまでのまとめ
291年3月と6月に、楊駿・楊太后・司馬繇・司馬亮・衛瓘・司馬瑋が滅びて、賈皇后だけが残った。しかし、賈充は既に死んで、賈皇后には兄弟もいないので、外戚としては輔政ノ任には就いていない。
他に、宗室が関わった(亮と瑋は八王にカウントされる)こと、濫賞を二衛に属する殿中の武官に行ったことが特徴らしい。武帝が、殿内の武官を大切にしたことが伏線なのだが、やがて八王ノ乱のキーになる。

■張華の奮闘
実家がショボい(寒門)で、賈皇后を脅かさない張華が中書監としてトップになった。平呉ノ役を推進し、司馬瑋を討った功績が認められた。竹林ノ七賢の王戎は、山濤を継いで吏部を掌握した。
291-300年(元康年間)は、「闇主虐后」を頂きながらも安定した。

この時期、魯褒『銭神論』は拝金主義を批判し、王沈『釈時論』は門閥主義を皮肉った。
猟官運動は過熱し、固定化しつつある権門(貴族の萌芽)に賄賂が流れ込んだ。賈氏や、賈皇后の母方の郭氏が強くなりつつあったが、武帝の佐命ノ臣の氏は、いっぱい並び立っていた。
※223ページから230ページまでの、宗室の動きは後日熟読します。
匈奴の郝散・郝度元、氐の斉万年の乱があったが、平穏。

■司馬遹の受難
4人女子を産んだだけの賈皇后は、謝氏の子の皇太子・司馬遹を憎んだ。司馬遹は、司馬懿にそっくりで、剛毅であった。

賈皇后の母は、賈皇后の姪(妹の賈午の子)を皇太子妃にしようとしてが、賈午の不仲で中止。安定した外戚としてのキープに失敗した。
子のいない賈皇后は、賈氏そのものより、自分の権勢に興味があったらしい。 296年、賈皇后の母は「司馬遹を大切にね」と言って60歳で死んだが、無視。

賈氏は男子に恵まれず、賈皇后の甥(賈午の子)の賈謐(韓寿の子なので、もと韓謐)を、夭折した男子の養子という建前で迎えていた。
この賈謐は、司馬遹をキライだった。せっかく東宮を訪問したとき、放置プレイを食らったからだ。司馬遹は後庭で遊んでいた。
別のとき、賈謐と司馬遹は囲碁をした。ケンカになったところ、居合わせた司馬頴(成都王、司馬遹の叔父)は賈謐を叱り付けた。賈謐は「皇后さま(伯母さん)、ボクはハジをかかされました 」と告げ口した。賈皇后はムカついて、司馬遹の短所を言いふらした。
また、宮中に韓慰祖(賈謐の姉)をこっそり入れて、腹にワラを入れて膨らませ「皇太子に孕まされました」とウソをついた。

司馬遹は、宮中に市場を作り、肉屋をやった。手で肉の重さを計量したが、1ミリグラムの狂いもなかった。西園の葵菜や藍子などを売って、モウケを手に入れていた。江統や杜錫(杜預の子)が諌めたが、杜錫を逆恨みして、いつも座る毛氈に針を潜ませた。
まるで後漢の霊帝だが、賈皇后から身を守るための演技だという解釈を、万人に抱かせ得るよね。
次回、司馬遹が殺されます。
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