三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(1)
時代区分論を持ち出すと、歴史学者が1000年かかっても解決できないディベートが始まってしまう。今回の話は、そんなじゃありません。
どこから書き起こせば、『三国志』という時代の背景(乱世に到る経緯)が、省き過ぎではなく、かつクド過ぎず、物語に出来るかというテーマです。
完全な説明を狙うなら、司馬遷と同じように、伝説級の時代から書き起こせばいいわけで。でも、『三国志』じゃなくなってしまってる笑

『真・三國無双』から入ったぼくとしては、自分のファン歴の記念碑的な意味から、また、『演義』にギリギリ準拠させようとしたゲームの趣旨からも、「怒るのじゃ、黄巾の子らよ!」が、三国志のオープニングだ。しかし、素直に疑問を口にすれば、「おっさんたち、なんで怒ってるの?」ということに。
張角の個人的来歴(こと神秘性)に理由付けられても、壮大な『三国志』の語り起こしとしては、軽すぎる。何代にも渡る抗争を、読み続けるモチベーションとしては、弱すぎる。

後漢末は、「幼帝が連続し、宦官と外戚と官僚の三つ巴バトルをした」と総括されることが多い。このニュアンスを、実例を追いながらドラマチックに、かと言ってクド過ぎず(反復してるが、これはかなり重要)織り込むには、どこからスタートしたらいいものか。
『後漢書』原書の本紀を読みながら唸ってもいいのだが、そんな教養は持っていないので、宮城谷昌光氏の『三国志』の内容をなぞりながら、ぼく的なスタートを探してみたいと思います。「小説や漫画で歴史を勉強するなんて、小人のやることだ」という批判はごもっともなんだが、まあ、いいじゃん、ということで笑
宮城谷さんは、2巻末のタイトルがやっと「黄巾」という引っ張りっぷり。最初の主人公の楊震が生まれたのは、光武帝のとき。
すっかり『後漢書演義』になってもうとるやん、という遡り方が、この小説の特徴です。これに勝とうとしてはいけません笑
現時点で雑誌になっているのは、張魯降伏あたりのようです。

■楊震
「四知」
とは、四者が知る、ということである。


いきなりここから始まります。これは楊震の遺した訓言で、彼の生死が「きたるべき時代の祅変と祉福とを予感させているようにおもわれるが、どうであろう」と、問いかけられる。ぼくが、まさに取り組もうとしているテーマの、宮城谷さんなりの回答が、これのようです。
まだ準備がないからさあ、「どうであろう」と言われても、困るんだよねえ。ちなみに「祅変」はマイナスの出来事で、「祉福」はプラスの出来事という意味。わざわざ、もって回った言い方をするのが、語彙が豊かな人の困ったクセだ。

楊震、あざなは伯起。
彼の8世の祖が、楊喜。項羽の死体に取り付いて、執念で侯に封じられた人らしい。
楊震の父は、楊宝。平帝(王莽に殺される)のときに隠居し、「尚書」のレクチャーを垂れていた。王莽に招かれたとき、行方を眩ました。光武帝のときに、弘農郡華陰県に戻ってきた。
光武帝は王莽の偽善に懲りて、博識多聞よりも孝廉清尚な人物を求めた。楊宝は口説かれたが、「老いたので」と口実して、断った。
楊震は、太常(礼儀と祭祀を司る)の桓郁に学び、「明経博覧」「関西の孔子だ」とう評判を得た。

2代は明帝で、在位は18年間。子の3代は章帝で、20歳で即位して、33歳で死んだ。4代の和帝が10歳で即位した。
「壮年の皇帝を奉戴することのできない後漢王朝に、このあたりから、衰微のかげがしのび寄ってきた」って、早っ!まだ西暦88年。
4代和帝のときの「三公は、記憶しておいてよいかもしれない」と宮城谷氏が言うので、書き移す。
 大尉(軍事の大臣): 宋由
 司徒(教育・行政、首相格): 袁安(袁紹の祖父の祖父=高祖)
 司空(建設、副首相格): 任隗

楊震は50歳に近づいたが、公務に就かない。人々に「晩暮だね(人生の夕暮れを迎えちゃったね)」と言われた。
楊震は、孝廉とは名ばかりで、貪欲な豪族の子弟が高官になっている現実に絶望した。
「私は敢えて官界を無視しているのに、過去に皇帝に招かれた賢者が羨ましい。かと言って、清く正しく我が道を通して、民の心に残るわけでもない。田舎の学者として尊敬されて、それで満足か?オレの生き方って超ビミョー」
宮城谷氏はこれを、「浮沈する顕示欲」と表現した。

50歳になったとき、コウノトリの群れが3匹のウミヘビを落とした。塾長が「楊震さん、三公になれますよ」と祝った。楊震は「これが(孔子が言う)天命か」と知り、出仕した。
楊震が勤めて7年目の12月、和帝が27歳で死んだ。

■鄧騭
鄧太后が「長子の勝くんは、病気だ。次子の隆くんがいい」と言った。劉隆が即位したが、生後100日余の赤児で、翌年8月に死んだ(殤帝)。「天下をあずかったという意識の重さにおしつぶされた」と。
鄧太后は、兄で車騎将軍の鄧騭に相談した。和帝の兄(廃太子の慶)の子、すなわち殤帝の従兄の劉祜が、13歳で即位した(安帝)。
鄧太后が手元で養育しており、「鄧太后の予知能力の高さと用心深さが、最悪の事態を乗り切った」と。
鄧騭が大将軍を拝命した。

羌族の大反乱に負けてきた鄧騭は、材幹の不足を感じ、群英を辟召した。楊震や、同門の朱寵など、60歳近い俊才の4人が鄧騭の下に付いた。楊震は、(頴川郡の)襄城令、荊州刺史、ついで東莱太守。
東莱郡に向うとき、荊州で茂才に挙げてやった王密が訪ねてきて、黄金十斤を差し出し「暮夜のことです。分かりゃしません」と言った。
楊震は「天知る、地知る、我知る、子知る」と言い、王密は「下手こいた」と言って退出した。

117年に楊震は中央に戻った。「このころひとりの少年が黄門(宦官)の従官になっていた。氏名を、曹騰という。かれの孫こそ、戦乱の世に雄張した曹操である」と。
すげー引っ張り方で、小説の初回が終わったねえ。「いちおうこれは『三国志』なんですよ」と、言い訳したみたいだ。
しかし、注意深く見てると、117年までは、かなり省略しまくっていることに気づく。楊震の人生を説明するために、光武帝のあたりをウロウロしたが、存外に特急だった。初読では気づかなかった。
宮城谷版で『三国志』の起点を探す。(2)
■諸賢
曹参の話から、第2回はスタート。
相国となった曹参は、酒ばかり飲んでいた。2代の恵帝が「もっと政治に関心を持ってくれ」と突っついたら、言い返された。
曹参「陛下は、先帝(劉邦)に及びますか」
恵帝「もちろん、NO」
曹参「私は、前任の蕭何に及びますか」
恵帝「答えにくいが、NOだね」
曹参「ですよね。先帝と蕭何が敷いたレールに従うのがBESTです」
人材の優劣論争は、劉邦が臣下の顔を立てるためにブチかましたのが有名ですが、曹参もこんなことを言っていたとは。隅の置けない!
宮城谷氏は、曹参が呂太后から身を守るための処世術だと説明する。

貧しい曹節の家は、子沢山だった。「男が男でなくなればよいのさ」と、曹節に知恵をつけた者がいたのであろう。ということで、その子は宦人になった。
3代章帝に仕えた宦官、鄭衆(あざなは季産)は、10歳で即位した和帝を助けて、外戚で大将軍の竇憲一族を殺して列侯になった。
同じく和帝の105年に、蔡倫が「蔡侯紙」を発明した。和帝は「めっちゃ使いやすい」と喜んだ。実は蔡倫は、和帝の兄(慶、安帝の父)の生母、宋貴人を誣告して自殺させてる。
宦官でも鄭衆のような傑人がいる。そう思っただけであろう。「不憫だが…」曹節は幼児の騰から小さな生殖器を殺ぐことに同意した。
宮城谷氏は、沛国の王室を経由して、安帝の子、劉保(3歳)に宛がわれたと推測した。答える曹騰のあいらしさと賢さにおどろいた。 なんて、見てきたようなスカウト秘話が創作されている笑
劉保は生母を嫉妬で殺され、鄧太后が養った。またこのパタンか笑

楊震は、鄧太后と鄧騭に太常(九卿)となった。
朱寵は「和帝のときの竇氏は、ひどい外戚だった。でも、鄧氏はいい外戚だ。光武帝を助けた、初代大司徒の鄧禹の孫だし」と言った。
楊震は「そうじゃない。尚書に照らすと、鄧氏がどうこうじゃなく、外戚が力を持つのがダメなんだ」と言った。
先零羌が猛威を振るい、国庫がカラになった。この災難を受けて、楊震は考えた。「失政があった。この王朝は、どこかが狂っている」と。

ここから少し長めに、宮城谷節を引きますが笑、
組織は創立者の全人格が投影されるものであるとすれば、前漢の高祖より人格的にはるかに高いとおもわれる後漢の光武帝に、高祖にはない異常さがあったというべきで、それが王朝の狂いとなって今日にいたっているというべきか。くどいようだが、その狂いは甚大ではないのに、なかなか修正しにくい。
鄧騭の人材施策は素晴らしいが、彼が外戚であるがゆえに、権力を持っているのは良くない。これが、作者が楊震に代弁させつつ、主張したいことのようです。
言い換えれば、光武帝は、功臣である鄧禹の一族と通婚せず、あくまで他人として末代まで付き合い倒すべきだった、ということか。このページを書きながら、やっとぼくなりに解ってきた。作者を真似て、自分の意見を書いた後に、こう付け加えてみましょうか。どうだろうか、と笑

鄧騭が登用して、司空になった李郃にスポットライト。
彼も宮城谷好みのする「賢人」だ。「竇憲はパワフルな外戚ですが、専権驕恣です。彼の結婚なんて、祝わなくていいです」と漢中太守に助言した。だが太守は「無視したら、後が怖い」と言うので、李郃が代理で出かけた。トロトロ進むうちに、竇氏が族滅したので、サッサと帰った。竇憲の与党は誅されたが、漢中太守は助かった。

せっかく大絶賛の鄧氏ですが、宮城谷先生のお眼鏡に適うかどうか、試される日が来ました。
羌にトドメを刺したのは、度遼将軍の鄧遵(鄧騭、鄧太后の従弟)だった。しかし先年から国費を使いまくって、羌と死闘していた護羌校尉の仁尚が、本当の手柄は自分だと言った。鄧騭は、仁尚が首級を水増しして報告し、銭を横領していたことを突き止めた。死刑。
だが鄧騭に、子の鄧鳳が「仁尚から馬を受け取ってしまいました」と自首してきた。鄧騭は、妻と鄧鳳の髪を剃って謝罪した。
この兄妹は、まがりなりにも善政を実現している。後漢という時代を通してみれば、これが最後の善政であるといえる。
というわけで、鄧騭は、怖い宮城谷先生を落胆させるようなことは、ありませんでした笑

鄧太后は、166センチの才媛。
容姿の美麗さは超絶し、38歳になった今でも容姿にむざんな頽弛はみられない。っていうか、難しい言葉を使いたいのは分かるが、けっこう女性を敵に回すような表現じゃないか。35歳で羊水が腐るどころの騒ぎじゃないよ笑
彼女は、皇族の5歳以上の男女40余人と、鄧氏の30余人を集めて、経書を教えた。これって、宮城谷氏が嫌う、公私混同って奴じゃねえのか。ここでは、批判めいた口調はないから、スルーなのか。
安帝の従兄弟たちを、鄧太后は眺めた。
「なんと容儀の美しい…」と、河間王(開)の子の劉翼を見初めた。
しかし、劉翼は次男なので、王位を継げないという。鄧太后は「次の河間王は、こっちがいいと思うわ。評判の悪い長男なんか、捨てておしまい」と言ったが、「ひとん家の事情に、口出ししないでくれ」と断られた。鄧太后は「王朝の損失だ」とムカついたが、平原王が断絶しているのを思い出し、そっちに劉翼を置いた。

この太后のえり好みが、皇位継承の伏線らしい。もう次の展開を忘れてしまったので(ぼくはバカです)楽しみだなあ。
『演義』みたいに、無理やりにハラハラ感を作らなくても、こうやって理知的に引っ張る方法があるのだね。

忘れがちだから、西暦をメモっておくと、120年。
このとき楊震が70歳で、運命の転機が近いらしい。無名で賎微の曹騰も、運命の転機が近いらしい。この書き方から、楊震の次の狂言回しは、曹騰になるようです。
一気に2つか3つくらい、世代をジャンプしちゃったね。トリックだ笑

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