三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(1)
本当に、読んで、気になった部分を残しておくだけです。ときどき、思いついたら感想を挟むかも知れませんが。
タイトルが司馬炎になってますが、司馬懿から説き起こして、西晋の滅亡までを「伝記」というスタイルで書いた本のようです。著者に無礼を承知で言えば、『晋書』の本紀を、研究成果を肉付けしながら焼きなおしたものという感じかも。

■プロローグ
『三国志』の終幕なんていう、ファンの心をくすぐる副題が付いているのですが。
280年5月4日、大極前殿で、孫皓に引見する儀式が行われた。文武百官、外国の使節や国子学の学生が見守る。孫皓は、泥を首から上に塗り付け、両手を後ろ手に縛り、司馬炎に稽顙ノ礼を行った。すなわち、座ってしばらく頭を地に付けた。
三国志のファンなら、涙せずに居られないよね。孫皓が可哀想とか、特にそういうわけでもないんだが笑

280年9月、郡臣は封禅ノ儀を勧めた。泰山の裾野の梁父で、天地の神に天下の安定を報告する祭祀らしい。秦ノ始皇帝、前漢ノ武帝、後漢ノ光武帝がやっている。しかし司馬炎は断った。。
李世民は『晋書』に、「司馬炎は帝王ノ量あり」と言っているが、司馬炎はなぜ遠慮したか。懿・師・昭の功績を継いだだけ、呉は自壊しただけ、と福原氏は予想している。
まあ、目新しいことを言ってるわけじゃなく、曹髦の言葉を借りるなら、「道行く人はみな知っている」という話だね笑

統一後の司馬炎は、謙譲から驕慢に変わった。後宮で羊車に乗った。西晋の滅亡の遠因を作ったのは、司馬炎だ。だから、例えば劉徹(前漢ノ武帝)に比べると、知名度も印象もいまいちなんだろう、と福原氏は言う。ここまでは月並み。
■母方の王氏
236年に生まれた。母は、王元姫
母は王朗の孫。王朗は寛恕で、「疑わしいなら、刑罰は軽めで」という論者。鍾繇と、肉刑の復活を巡って対立。228年没。つまり、王朗は司馬炎の誕生を見てない。まあ、曾孫の顔が見れなくても、不幸じゃなかろう笑
王朗の子は、王粛。中領軍、散騎常侍。256年に没。鄭玄に対抗し、五経に注を付けた。『聖証論』を著し、『孔子家語』を偽作した。王粛は西晋で重んじられた。王粛の妻は、司馬師の妻と同じ泰山の羊氏だった。

王朗も王粛も、対抗することが好きなんだね。
変に空気を読むよりも、自分の探究心に忠実に生きたんだろう。そういう家風は、ぼくはけっこう好きです。諸葛亮にイビられて、落馬して死ぬというフィクションも、王氏の対抗心を(意図せずとも)滑稽にディフォルメしてて、ご愛嬌。

王元姫の兄弟のうち、王恂は二学を建立し、王愷はどっちが贅沢で派手かを石崇と争った
「王愷が麦芽の飴や乾飯を燃料にして釜を炊くと、石崇は蝋燭で飯を炊いた。王愷が青の綾を裏地とした、紫の絹の幔幕を17キロメートル作ると、石崇は錦の幔幕を20キロ以上作った。石祟が山椒を壁土に混ぜると、王愷は赤石脂を壁に塗った」だそうです。
引用するだけでヘトヘトだが、大正時代の成金が「足元が暗かろう」と言って、お札に火を点けたのと同じレベルの話だね。
司馬炎は、舅の王愷を応援し、48センチの珊瑚をプレゼントした。それを見せびらかされた石祟は、鉄の棒で砕いてしまった。王愷が怒ると、石崇は「弁償するからさあ」と言った。石崇は、1メートルを超える珊瑚をいっぱい持っていた。

■ぜいたくな時代
王朗の血筋の特徴である対抗意識が、王愷で面白おかしく結実したという感じだね。福原氏は、王愷らの贅沢な行動を以下のように意味づけしている。
 ○「公」の場での挫折を、家において発散させている。
 ○「豪」という名声を得るための、政治的手段。
1つ目は、例えば石崇は、権貴の賈謐に阿った処世をして、たいそう不本意だった。他にも、何曾の親子三代、王済(王渾の子)、羊琇(羊祜の従弟)、任愷も同じだそうだ。
2つ目は、後漢の「軽財好施」が矮小化して屈折したものだと言う。「公」のために散ずるのではなく、「私」のために散ずるように、変わってきたらしい。
奢侈吝嗇、拝金主義は、魏晋ずっとあったもの。司馬炎も、何度か倹約令を出したが、黙認・助成したのが実際のところ、と。

官渡ノ戦で曹操が「荀彧さん、兵糧がない。もうダメじゃ」なんて言ってたかと思えば、魏朝はたいそう贅沢ができたんだね。なんか、隔世の感があるわ笑 巨視的に見れば、そんな風に余裕をこいてる場合じゃないだが。異民族の足音が…

■母のこと
王元姫は、217年生まれ。8歳で『詩』『論語』を暗誦した。15歳で司馬昭に嫁ぎ、5男1女を設けたが、成人した男子のは司馬炎と司馬攸のみ
福原氏は計算してないけど、王元姫は、司馬昭より6つ年下。嫁いだのは231年で、曹真が死んで司馬懿が諸葛亮との戦いに借り出されたとき。やっと司馬氏が力を持ち始めようとする時期かな。
司馬炎が生まれたのは、236年。嫁いでからちょっとブランクがあるけど、それでも20歳での初産なんだね。
福原啓郎『西晋の武帝/司馬炎』を読む。(2)
■生い立ち
司馬炎は、郷里の河内郡では比較すべき同輩がいなかった。州大中正を提唱するのが司馬懿なので、ちょっとヤラセ臭いんだが、そこは福原氏はノータッチ。
さて、中正さんが州内を見渡すと、滎陽郡の鄭黙が並んだ。
っていうか、そうまでして見つけてきた、シンデレラボーイの鄭黙って誰やねん?と思うわけです。

■鄭氏のこと
陳寿は、『魏書』に「鄭渾伝」を立てている。
ちくま訳を、それなりに読み込んでいるはずなのに、気づかなかったよ。知らなかったよ。恥ずかしいねえ。

鄭渾の高祖父の鄭衆、鄭衆の父鄭興は、名儒だった。
鄭渾の兄は、鄭泰。何進に用いられ、荀攸とグルで董卓暗殺を目論んだ。揚州刺史になって死んだ。
鄭渾は、兄の遺児鄭袤を連れて、袁術を頼った。見限って、鄭泰と仲良しだった華歆を頼った。鄭渾は、庶民の中絶・間引を、厳しく取り締まった。左馮翊(太守)になり、梁興の妨害を防いだ。曹操だけでなく、曹丕・曹叡の覚えもめでたかったが、倹約家でいつも家が寒かった
ザックリとまとめすぎなのだが、「鄭渾伝」はこんな感じ。

鄭渾の甥が鄭袤で、鄭袤の子が、司馬炎と並び証された鄭黙。っていうか、遠回りし過ぎてしまった笑
裴注『晋陽秋』曰く、鄭渾に守られた鄭袤は、字を材叔という。曹植の文学となり、光禄大夫。271年、司空を固辞して死去。

鄭袤の子が、鄭黙くん。裴注『晋諸公賛』曰く、家業を守り、篤実で評判があり、太常にまで昇った。うーん、これだけじゃ、どんな人物だか、分からん。もの足りん。

『晋書』列伝14に、「鄭袤(子黙、黙子球)伝」がある。荻生徂徠が返り点を付けてくれたものを入手してあるけど、ここから鄭黙のことを知るのは、軽くイジメですよ。しかし、モノはついでだ!現代語訳をする。

■鄭黙伝の訳
鄭黙、字は思元。秘書郎より起家(官界デビュー)。古い文書のミスを正した(学問的素養の話?)。中書令の虞松曰く「今も後も、朱紫が別れる」と。なんのこっちゃ。
尚書考功郎に転じ、専ら蜀を討ったことを記録した。関大侯になり、司徒府の左長吏に遷った。
司馬炎が受禅すると、太原郡の郭奕とともに中庶子となり、太子(司馬衷?)の陪臣となった。鄭黙は、太子に上言した。「皇帝は尊さを体現するもので、天下に私心なく、臣下は皆が天朝に命を受けるものです。藩国(呉?)に天命は下りません」と。
東郡太守となり、飢饉なので蔵を開いて、民を救った。国を憂いて「罪をちゃんと裁こう?」と上表した。朝廷はこれを褒め、「もし郡県で同じようなケースがあるなら、申し出ろ」と布令た。散騎常侍となった。

はじめ、司馬炎に匹敵する若者がいなかったので、州内12郡を探した。中正は、鄭黙の名前を挙げた。(福田氏が引用したエピソード)
司馬昭は、鄭袤に書を与えた。「小児は、賢子の流に厠るふを得て、愧じるのは賢を竊の累あり(すみません、意味が分かりませんでした)」。

司馬炎が南郊を祭るとき、鄭黙を車に同乗させた。
司馬炎は、鄭黙に聞いた。「卿(きみ)は、なぜオレと一緒に乗れたか、分かっているか。むかし州里で、卿とオレがセットで論じられたからだ。常に愧じるのは、清談を累はし、遂に政事を問うことだ(司馬昭の書面に呼応してるのは分かるが、やはり意味不明)」と。
鄭黙は答えた。「農事に勤めるのは、国の基礎です。人を選び才を得るのは、済世の道です。官人として働くのは、政事の宜です。慎みを明らかにするのは、勧戒の由です。儒学を崇うのは、化導の本です」と。
司馬炎は、鄭黙の提言を守って、善政を布いた。

鄭黙は父の喪に服し、延尉として復帰した。鬲県令の袁毅が、賄賂を送っていたので、処刑した。太常のとき、山濤が立派な人を博士に推薦し、鄭黙も協力した?
曹志(曹植の子)と共に、「斉王(司馬攸)を洛陽から飛ばすのは反対だ」と議論し、鄭黙は司馬炎の怒りに触れて、大鴻臚 に移された。左遷ですね。
母の喪に旧制で服した。喪の新しいスタイルを、自ら始めた(ちゃんと訳せなくてすみません)。太司農となり、光禄勲に転じた。
太康元(280)年、68歳で死んだ。「成」と諡された。尚書令の衛瓘は、「鄭黙は、才行名望、論道に優れた人だったなあ」と言った。

あるとき、皇后の父の楊駿が「鄭黙の娘を妻としたい」と言った。
しかし鄭黙は「いつも雋不疑の伝を読んでいます。雋不疑のように、権貴を遠ざけて自衛するのがいい」と言って、楊駿の申出を断った。楊駿は、ひどく恨んだ。
鄭黙は、心が広くて謙虚だったが、権勢にへつらわなかったので、処世に苦労した。
以上で、おそらく2割も意味が分かってない訳文が終わりです。。

■鄭黙の位置づけ
世の中が、カネと権力でドロドロに腐っていった。司馬炎も流され、呉討伐後はダラけていった。
しかし、司馬炎の初心をそのまま貫いた同輩として、鄭黙がいた。そんな評価でいいんじゃないかなあ。

それにしても、司馬昭のレターの内容が気になる。これが、司馬炎と鄭黙の関係性を、かなあり強く規定するものなのに、そこが読めないとは。自分の無知を怨みます。
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