■『通俗三国志』考(09/10)>第三章の前編
第3章 『通俗三国志』と近世の三国志文化   ■前章の振り返り ここで前章までの要点を整理する。 湖南ノ文山は、中世以来五山に蓄積された漢文及び『易経』等の学術的知識を活かして『三国志演義』を翻訳した。その際に同書を『春秋』の大義を学べる歴史教養書として編成し、日本人には理解しがたい道教的呪術や関帝信仰等について、外交交渉で得られる豊富な知識と国際感覚を活かして解説を加えた。 文山個人の人生哲学や政治思想は雄弁に語らず、客観的に『三国志演義』を紹介することに徹した。   サイトを作っている現在、文山が行ったことを再度整理しました。 (1)合理的な教養書の体裁で、日中文化の違いを糊塗。 (2)『演義』の儒教要素を、深く洞察せぬまま踏襲した。 (3)得意な『易経』を的確に引用して、解説に箔をつけた。 (4)宋学の日本化に並行して、中国文化の輸入に貢献した。 (5)寺院が行った庶民教化活動の一環で、翻訳したんだ。 (6)外交の現場で得た情報、親隣の国際感覚が背景にあった。
  ■「通俗物」の発展  以上のようにして成立した『通俗三国志』は、近世社会で大流行した。それは次のことから判断できる。 まず『通俗三国志』の成功を受けて「通俗物」が立て続けに出版された。 文山と彼の弟による『通俗漢楚軍談』『通俗唐太宗軍鑑』『通俗両漢紀事』を始め、『通俗三国志』の続編である『通俗続三国志』さらにその続編『通俗続後三国志』まで出版されている。 数多く出版された「通俗物」は早稲田大学編輯部『通俗二十一史』一~一二 早稲田大学出版部1911年に収録されている。   ■大ヒット御礼! 『通俗三国志』は順調に版を重ね全国に流通し、藩校にも所蔵された。 管見でも以下が確認されている。『国書総目録』岩波書店1989-1991及び前掲長尾論文によって作成した。 元禄四年(1691)版  島原松平文庫所蔵本、元禄五年(1692)版 大坂女子大(五十一冊)、岡山大小野(五十巻首一巻、五十 一冊)、島根大桑原(「通俗三國誌」一~五十、十七冊)、玉川大(五十巻二十二冊)、伝習館高対山(五十巻、十七冊)、加賀聖藩(五 十巻、巻三十一欠、五十冊)、鹿沼大欅(「通俗三國志」五十巻首一巻、十七冊)、北九州中央(五十巻、一・五・八・九巻欠、四十六冊 )、正徳年間(1710s)版  長尾直茂氏所蔵、寛延三年(1750)版  新潟大佐野(「通俗三國志」五十巻、五十一冊)、宮内庁 書陵部(御府本)、天明三年(1783)版  弘前(五十巻首一巻、巻十一~十五、二十一~二十四欠、四十二冊)、天明五年(178 5)版 伊達開拓記念館(十九冊欠、三十三冊)、弘前(巻四十九・五十存、一冊)(五十巻首一巻、五十冊、後刷)、国会図書館所蔵本 、その他(年代不明)茨城大管(「通俗三國志」、第一~七、十偏存、八冊)(「通俗三國志」巻四存)、加賀聖藩(「通俗三國志」、巻 三、四、十六~二十四存、十一冊)、弘前(五十巻、明治刊、二十六冊天明五年版)(巻二十九、四十一存、二冊)、秋月郷土館(目録・ 巻一~十二、二十九、三十一~四十六存、二十九冊)(五十巻首一首、江戸時代刊、巻十三~二十八存、十六冊) うざー!うざー!うざー!   これだけじゃなくて、神戸の商店街の古本屋でも、江戸時代に発行された『通俗三国志』を見ましたよ。南京街の近くです。古本屋の店長さんに「これ、いつの版ですか」と聞いた。「分かりません」という答え。 出版年を知るために確認する場所なんて、限られているんだ。本の初めと終わり、綴じられている紙の真ん中あたり。ぼくはそこを確認して分からなかったから聞いたのにさ、店長も同じ場所を確認しただけだったよ。 10000円くらいだったから買おうと思ったけど、保管場所に困るから断念した。 それがさ、その『通俗三国志』を見たら、「通俗三国志或問」が載ってないわけ。落丁しちゃったか、実は「或問」が幻だったのか。後者だったら、ぼくの卒論が脅かされるよ笑   ■教養書として定着 明和年間に京都の儒者である江村北梅が著した『授業編』には、 世ニ通俗モノト称スル。漢楚軍談、三国志演義ナド云フタグヒ。上ニイフ如ク。童蒙素読ノ余暇ニ、他ノナグサミニカエテ渉猟シオケバ。後来歴史ヲヨムノタスケニナル事多シ。 とあって、歴史の入門書として『通俗三国志』が受け容れられていたことが解る。間違っても、道術の奇跡を楽しむ本じゃないんだ。『授業編二』より。山住正己編注『子育ての書2』東洋文庫一九七八年に所収。
  ■三国文化の確立 18世紀以降、三国志に関連する作品も多数生み出された。どの作品も独特のパロディーが施されており、『通俗三国志』を熟知していないと楽しめない趣向に富む。二次的な作品が流行するには、大衆もまた三国志の知識を持っていたことが前提となろう。 『通俗三国志』の浸透の深さを確認するため、諸作品を概観したい。   享保9年(1724年)竹田出雲は浄瑠璃『諸葛孔明鼎軍談』を発表した。 (校訂代表)平田澄子『叢書江戸文庫⑨竹本座浄瑠璃集〔一〕』国書刊行会1987年。台詞に『通俗三国志』からの引用があることは、同書の「解題」で述べられている。 台詞に『通俗三国志』からの引用がある反面、「通俗三国志或問」の域を出た物語の捉え方もしている。 霊帝下の大傅=陳蕃(松平定信が『宇下人言』で清流派として絶賛)を活躍させて宦官・外戚の悪政を批判し、曹操への降伏に際して関羽の「信義」に疑義を提出する弟「関良」を登場させた。 諸葛亮の道術は姿を変え、彼が羽扇を上げると庇が落ちて楯となり、数百の鉄砲が曹操と司馬懿に乱射されるシーンが設けられた。 『通俗三国志』を踏まえ、竹田出雲は中国の『三国志演義』をさらに消化していたと言える。 最後は三国が五丈原で和解してしまうのだが、それを面白いと感じるには司馬炎の再統一までの歴史を知らねばなるまい。   享保19年(1737年)に大坂河原崎座で藤本斗文作の歌舞伎『閏月二人景清』が、寛保2年(1742年)に大坂佐渡嶋座で安田蛙文作、市川海老蔵主演の歌舞伎『東山殿旭扇』が公演を開始した。 蜀野柳眉「歌舞伎十八番の内 関羽―昭和四年十一月歌舞伎座所演」『演芸画報』1929年、渥美清太郎「〈系統別歌舞伎戯曲〉関羽」『芸能』1963年 役者が関羽や張飛に扮して登場するが、ストーリーは『三国志演義』と全く関係ない。舞台に現れるだけで観客を沸かせるキャラクターとして、関羽らが庶民に定着していたのだ。   天明9年(1789年)に書かれた『江戸容気団十郎贔屓』には、 立川焉馬曰く「かヽる乱世の時に、おくびやうものも、あはうもなければならぬ。玄徳并孔明がはかりごとじやとのはね、四ばんめ、かけぢの関羽の霊像となり(後略)」と見え、関帝廟に納められた関羽像の容姿が一般に知れていたことが伺える。 石塚豊芥子「〈寿十八番歌舞伎狂言考〉関羽」『歌舞伎十八番の内 関羽』国立劇場1985年   ■和風三国志の登場 天明元年(1781年)夢中楽介は中本一冊『通人三国師』を著し、「諸借金」孔明が「食王」劉備らと日本の吉原に出稼ぎにきて、彼らが「毛唐人」にも関わらず「通人」を気取る物語を展開した。 『洒落本大成』十九巻(通人三国師を収録)、中央公論社1981年 彼らは名前を日本風に改める。登場人物を日本の風土に同化させてしまったのは、『三国志演義』受容に於いて極めて象徴的な出来事だろう。ちなみにこの本の題名は『通俗三国志』をもじった物である。   寛政7年(1795年)以降成立の洒落本『讃極史』は松風の里、千代丘草庵主人の筆である。 『洒落本大成』十一巻(讃極史を収録)中央公論社1981年 徳玄さん(劉備)が孔明の別荘「南陽の臥竜岡」で、孫権・曹操と、茶や菓子を嗜む。 「白河の険約攻め」に呉魏蜀の三ツ布団に籠城して財布は「薄望坡の火の車」という三国志を踏まえた政治風刺から始まり、「孟徳新書」「鶏鹿」「許田」「鉾を横たえて詩を賦す」「青梅酒煮」や曹操の短いひげ(馬超からの逃亡時に自ら切断)を題材にとり、三国志に通暁していないと笑えない趣向を散りばめた。 赤壁の東南風の真相を聞かれた劉備が「いヽ時に風がふいたのさ、あれて孔明も名をあげやした」と答えるが、これは「通俗三国志或問」と類似した解釈だ。 一方で「びんほう」な蜀主(劉備)は曹操を「先生」と呼び、孫権は曹操を「曹公」と呼ぶ。逆に曹操は「徳さん」「孫ぼう」と彼らを見下す。「通俗三国志或問」では劉備達の活躍が脚光を浴びたが、『讃極史』は曹操を軸に回る歴史を見据えていた。
  次は19世紀のお話。そして、結語へと向かいます。 
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