■『通俗三国志』考(05/10)>第二章の前編
第二章 湖南ノ文山と「通俗三国志或問」   湖南ノ文山の思想及び執筆意図を主に「通俗三国志或問」から読み解く。 以後この論文で『通俗三国志』より引用する際は、湖南文山『通俗三國志』有朋堂書店 1912を使用する。   この章は、6つの論点で構成されてます。ネットにアップするにあたり、いくつ目の話をしてるか、論点の冒頭に分数で表示しました。
   ■教養書として読ませたい(1/6) 1点目は、文山が『三国志演義』を教養書と位置付けて執筆したことである。 『三国志演義』は、清代の歴史学者である章学誠に「七分実事、三分虚構」と指弾された文章であるが、文山は歴史を学べる書物としての態度を崩さなかった。   『三国志演義』はルーツが講談本なので、全120の章回小説として構成され、各回の末尾には「且聴下文分解」という、次回への期待をあおる講談師の常套句が附けられていた。 文山はこれを全50巻に再構成し、「且聴下文分解」を省略して講談的要素を排した。それに伴って、事象の時系列を整理した。 『三国志演義』が物語を盛り上げるために、出来事の前後関係を入れ替えていることは、金文京『三国志演義の世界』に詳しい。 元来『三国志演義』は陳寿が著した正史『三国志』を噛み砕いた内容であったが、その娯楽的要素を薄めて『通俗三国志』に仕立て直したのだ。   書名から、演義(解りやすい説明という意味の語)を除いたことも彼の思惑を伺わせる。中国で流行したスタイルの講談本ではなく、教養書として出版した方が流行するという読みがあったのかも知れない。   ■正史『三国志』を見たか 文山は序文で陳寿の『三国志』を参照したと書いたが、その信憑性を疑う論調が先行研究では説得力を持っている。 諸葛恪(諸葛亮の甥)の死後に江南の小児が歌った童謡の歌詞等で、文山は『三国志演義』が犯した正史の誤読を踏襲してしまった。正史と付き合わせたのならば、底本の誤りは訂正されて然るべきだという議論である。 長尾氏前掲論文より。   だがこれは、余りに文山に対して厳しい見方だと言わざるを得ない。短期間で翻訳書を出していた文山達が、史学的手法でテキストを詳細に検討出来たとは考えにくいからだ。 17世紀には『三国志』がたびたび貿易品目に入っているので、碩学僧としての文山ならば目を通す機会は充分にあったはずだ。 前出の阿部吉雄『日本朱子学と朝鮮』東京大学出版会1965年、大庭脩『中国文化受容の研究』同朋舎出版1985年など   ■東南風も史実とゴリ押し 赤壁の戦いで『三国志演義』では諸葛亮が七星壇に祈って東南風を起こす。 これは中国の道教文化を背景とする創作であるが「通俗三国志或問」はこれにも、合理的で日本人が納得できる解釈を付けようと企図する。 孔明が風を祈るは、これ婦女の妄言、なんぞ信ずるに足らん(中略)答えて曰く(中略)時冬の末に至って北風烈しとは申しながら、風雲の盤旋須臾の間に変ず。いわんや大江の上、颶風測りがたし。いずくんぞ北風のみならん。 冬で北風が激しいものの、風や雲の動きは短時間でも変化するものである。ましてや長江のような広大な場所では強風を予測しがたい。なぜ北風以外の風が吹かないことがあろうか。   この箇所からも、『通俗三国志』を過去の事実を描いた教養書として世に送り出すことを狙った、文山もしくは書肆の徹底した意思が読み取れる。   ■後日注 文化的なバックグラウンドが違うと、紹介者は苦労するんだ。 三国演義には、中国庶民の長い文化的軌跡が刻まれている。道教の魔術を演出すれば、観客にウケる!とかね。もはや皮膚感覚に染み付いた感性だ。しかし日本人は、そんな軌跡を関知しないわけ。 だから文山は、あくまで合理的に解釈して、ギャップを埋めようとした。   YouTubeで日本のアニメが見れる。英語で、字幕が付いている。この字幕は、実に行き届いたものだ。台詞の訳に加え、日本独自の慣用句とか仕草があると、画面の別のところに注記されるんだよね。 例えば、子供がこいのぼりを上げてもらって喜んでるとする。訳語で「イエイ!ザッツ、マイ、コイノボリ」なんて表示しても、英語圏の視聴者には意味が分からないわけじゃん。だから「日本では5月5日に子供の立身出世を願って、コイノボリというものを上げます」と同時に表示される。   文山だって諸葛亮が風を祈ってるシーンで「中国では…」と書けば済んだ。でもそんな邪魔くさいことは回避した。だから、合理化してごまかした。 教養書っぽく粉飾して、体裁を整えた。日本化した。
   ■儒教的要素の継承(2/6) 2点目に指摘できるのが、文山が『三国志演義』に含まれた儒教的な要素を継承していることである。   金文京『三国志演義の世界』によれば、『三国志演義』は『春秋』の大義をテーマとした物語である。覇道の具現者・曹操を悪役とし、劉備を王道の体現者として主役に据える。 この儒教的色彩は、前身である元代の『全相三国志平話』と対比することで際立つ。『全相三国志平話』は雑劇・民間説話を収集したもので、仏教的因果論がストーリの軸にあり、愛すべき荒くれ者「莽張飛」の逸話が多かった。 対して『三国志演義』では、勧善懲悪・義の体現者である関羽が活躍する。汜水関での華雄撃破、文醜の討ち取り、五関突破と千里行、赤壁に敗れた曹操逃亡の援助、魯粛との単刀赴会等、関羽の武勇と人柄を強調したエピソードが付け加えられている。   文山は『通俗三国志』の序文に於いて「君臣ノ善悪」「政事ノ得失」「邦家ノ治乱」「人材ノ可否」「忠」「孝」「勧懲警懼ノ心」の物語だと導入する。 これらの語句は『李卓吾先生批評三国志』からの引用だ。同じ言葉が、底本の序文にある。底本の姿勢を全面的に踏襲した根拠となろう。    ■劉備たちを重視 しかし底本との違いも見られる。 底本では呼び捨てにされた劉備を、文山は「昭烈皇帝」という敬称で呼んだ。劉備と同じように皇帝を名乗った孫権や、死語に帝号を贈られた曹操・司馬懿(太祖武帝・高祖宣帝)などが呼び捨てにされている。文山が底本以上に劉備を重視したことが伺える。   次に「通俗三国志或問」に立てられた十の設問は、全て蜀漢に関係するものであった。 底本の「読三国志答問」には蜀漢に縁の薄い文化人・政治家(法真・孔融・王允・禰衡)についての考察も載せられていたのに、文山はそれを採用しなった。文山は劉備たちに注目し、読者が理解しやすいように問答のテーマを絞り込んだのだろう。 文山は李卓吾(の名で批評を書いた人物)よりも、羅貫中の「劉備物語」という趣向を積極的かつ単純化して取り入れたと結論付けたい。   ■キーワードは「義」 「通俗三国志或問」では、人物の評価基準を漢帝国への奉仕(=義)という一点に集約している。それと表裏をなしてか、軍事的な洞察は非常に表面的である。 この傾向は、例えば諸葛亮の北伐に関する考察に顕著に表れている。   満州では中国侵攻のため『三国志演義』を軍事教科書として採用し、『通俗三国志』に先んじて1650年に『三国志演義』の翻訳を完成させた。彼らは実際に作戦を諸葛亮の故事から学んでいたとされるから、湖南ノ文山の姿勢とは好対照を成している。 立間祥介「座談会・世紀末に『三国志』」/『月刊朝日1990年10月号』 ※ここに新世紀になっても『三国志』をやってる馬鹿がいますが、何か。   「通俗三国志或問」では、諸葛亮が北伐において魏延の献策を却下した理由は魏延への不信感ゆえか、兵法に疎かったゆえかという問いに対して、以下のように答えた。 みな非なり。曹操すでに死して、天下又孔明に敵する者なし。天もし漢を昌にせんとならば、孔明いづくより出でたりとも、曹叡を擒にし仲達を馘るに足らん。(中略) 孔明は節制の師を用ふ。何ぞ僥倖で勝つことを望まん。是まさに明道正義の人と論ずべし。近攻小利を急にする人の知るところにあらず。   諸葛亮が丞相であった蜀漢の国力は、曹氏の魏に遥かに及ばなかった。 別の箇所で文山は司馬懿について「仲達よく兵法に通ず」と書いているから、諸葛亮の天才ぶりを引き立てるために司馬懿を貶めた『三国志演義』の筆法を、無批判に受け容れていた訳ではない。 にも関わらず諸葛亮の戦術・戦略の巧みさを「明道正義の人」であることに帰着させて説いたのは、文山が『三国志演義』の儒教的側面に軸足を置いていた証であろう。   ■自分つっこみ 文山は、それほど儒教・軍事について真剣に考えてなかった。ぼくはそう思っちゃう。 卒論では思わせぶりなことを書いてるけど、ジョークだ。 序文は、平たく言えばただの丸写しなんだ。「忠」や「孝」なんて、国語の辞典くらいの深さでしか理解していなかったんじゃないか。   諸葛亮の戦法に対する考察は、面倒だから放棄しただけだ笑 羅貫中でさえ、秦嶺山脈の地理に詳しくなかったそうだ。「六出祁山」みたいな単純化で、細かな戦況の描写を回避した。 ましてや文山が、漢中や関中のことを知るわけがない。元禄日本の読者も、分からなかろう。ぼくが『歴史群像』シリーズを熟読しても、よく分からんままなんだ。 文山は諦めたんだ。えいやー!もう全部「義」のせいにしちゃえ!と。そんな感じだと思うよ。平和な江戸時代の人々が、血眼になって戦術に興味を持つとは思えない。だから手を抜いた。 卒論にも、そうやって素直に書けばよかった笑   次回は3点目ですね。『易経』の話をします。
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