■『通俗三国志』考(10/10)>第三章の後編・結語
引き続き、第三章 『通俗三国志』と近世の三国志文化   ■19世紀の三国文化 19世紀に入っても三国志文化は隆盛を続けた。   十返舎一九が本文と挿入画を書いた全一冊『玄徳武勇伝』は、黄巾の乱から劉備の漢中王即位までを「徳」の有無による「正邪」をキーワードに概説した黄表紙である。 十返舎一九『玄徳武勇伝』享和2年(1802年)初版だが、大阪大学所蔵の文化5年(1808年)版を参照した。 全51冊の『通俗三国志』に比べると分量も少なく絵入りなので、三国志を手軽に知ることが出来る。 十返舎一九は他に『三国志』(挿絵は勝川春信)『三国志画伝』(挿絵は歌川国安)を著しており、三国志購読層の底辺が大幅に広がっていたと推測できる。   ついに天保7年(1836年)から天保12年(1841年)にかけ、合巻『絵本通俗三国志』が出版された。 落合清彦校訂『絵本通俗三国志』一~十二巻、第三文明社1983年、落合清彦「解題」『絵本通俗三国志 第一巻』第三文明社1982年 天保年間は出版業界が閉塞感に覆われ、読本界では「続き物」が流行し、書肆は定番の本の続編・焼き直しを多数発売していた時期である。 横山邦治『読本の研究』風間書房1974年 書肆は「通俗三国志或問」を含んだ湖南ノ文山の文章を池田東籬亭に校正させて流用し、挿絵四百点以上を葛飾北斎の高弟である葛飾戴斗に描かせて売上向上を図った。葛飾戴斗は、日本的情景を反映させて三国志の名シーンを描いた。   諸葛亮は七星壇ではなく寺の鐘突き堂のような場所で風を祈り、蜀の桟道で補給を支えた木牛流馬は木挽きで作っている。 七星壇は『通俗三国志』で以下のように描写された。しかし描画のときには、まるで反映されなかった。 南屏山にいたり、地形を見定め、東南の方の赤土をとって、方円二十四丈にして、高さ三尺三重の壇を築いて、下の一重には二十八宿の旗を建てて、東の方には青き旗、角、亢、□、房、心、尾、箕、蒼竜の形を布き、北の方には□き旗、斗、牛、女、虚、危、室、璧、玄武の勢いをなし、西の方には白き旗、奎、婁、胃、昴、畢、觜、参、白虎の威を振るい、南の方には紅の旗、井、鬼、柳、星、張、翼、軫、朱雀の状をなし、ともに四七、二十八面なり。二重には六十四面の黄なる旗を立てて、六十四卦を書いて八位に定め、上の三重には束髪の冠を戴きて□き羅の袍を著し(以下略) ちょっと虚しい。。 文山が中国文化を紹介すべく心を砕いた「通俗三国志或問」は、葛飾戴斗の日本的な版画と一つの本に収録されて世に送り出されたのだ。   第三章は、たったこれだけで終わり。おまけですから。 当初は、近世全体の三国文化を深く扱う予定があった。だから、資料集めをしていた。この章は、そのときに集めた情報の供養のために立てられた章なんだ。書き手の都合がうるさい論文ですわ笑
  結 語   ■隠元隆琦の来日フィーバー 承応3年(1654年)清初の中国から隠元隆琦が来日した。長崎の興福寺において隠元に参じた了翁道覚が、当時の状況を以下のように回想している。了翁道覚『了翁祖休禅師行業記』より。 隠老ノ来朝必定近ニ有ト、四方ノ群口日々ニ喧動ス。(中略)今茲秋七月六日着岸ス。肥之前後両州ノ男女老少路傍ニ羅拝シ、僧俗貴賎堂上ニ雙迎シテ直ニ東明山興福禅院ニ安座セラル。   この史料から、隠元の来朝を聞きつけて騒ぎが広がり、来朝後は肥前・肥後から拝む者が殺到したことが知れる。次に隠元が移った摂津富田の普門寺に於いても近在の僧俗が詰めかけ、幕府が対応策を打ち出すほどだった。 仏教僧は宗派を越えて隠元と交渉を持ち、後水尾法皇、裏松資清や近衛基煕ら公家、徳川家綱、酒井忠勝や松平信綱ら諸大名も隠元に接した。 平久保章『隠元』吉川弘文館1962年 隠元は万治3年(1660年)山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年黄檗山萬福寺を開創した。この動向が後に、詩文書画から諸芸能・文芸など広い分野で花開いた黄檗文化をもたらす。 黄檗文化の特徴は、明清文化を日本の風土や実情に融合させ、多彩且つ個性的な展開させた点にある。 京都国立博物館編『十八世紀の日本美術-葛藤する美意識-』1990年   ■17世紀と中国 段階1)西川嘉長は『三国志演義』の講釈に興味を持ち、翻訳を頼んだ。 段階2)『通俗三国志』は、高い関心を持って読まれた。 段階3)日本の文化的背景に沿ってアレンジされた三国志文化が隆盛!   この一七世紀に基点を置く三国志(中国文化)にまつわる三段階の反応は、隠元への来朝要請・隠元と黄檗宗への熱狂的な反応・黄檗文化成立という過程と類似している。 藤原惺窩が朱子学を大陸から学んで紹介し、古学派等が日本社会に適合的な思想に編成し直すというプロセスを歩んでいたのも同じ一七世紀である。   一七世紀とは、明が滅亡して清が成立し(華夷変態)、それに伴って日本で新たな自国認識が形成された時期である。 柴田純氏は藤原惺窩の高弟である那波活所(1595-1648)の思想を検討し、中国に対する劣等感を克服して、両国を相対化する意識を読み取った。柴田純「宋明学の受容と日本型中華意識」『思想史における近世』 思文閣出版一九九一年 湖南ノ文山が中国文化に検討を加えながら受容した姿勢は、中国の客観化を主張した同時代の那波活所に通ずる。   ちょっと注記です。柴田純氏は、私が第二章で扱った藤原惺窩や雨森芳洲が唱えた相互の独立性を認めた「誠信」の立場に基づく外交姿勢を「理想主義的」で「ごく少数派」として、東アジア世界の緊張によって放棄されたと論じた。 柴田氏は中国の相対化と日本の独自性の自覚を「日本型中華思想」の形成と考え、自国優越の思想に結びつけたが、私はこれには論理の飛躍があると考える。惺窩や芳洲は相互の相違点を正しく知ることに主眼を置いており、国家間の優劣を論じているわけではない。 湖南ノ文山は日本と諸外国の違いをリアルに認識していたが、「通俗三国志或問」から柴田氏が唱えた自国優越の意識は伺われない。   ■むすび 長大な『李卓吾先生批評三国志』の翻訳本である『通俗三国志』の制作に当たり、文山が唯一「読三国志答問」のみを書き直したのは、彼が日本と中国やその他周辺諸国との文化的相違を正確に自覚していたからだ。 「通俗三国志或問」が独自に執筆されたという一点にこそ、一七世紀における中国文化受容スタイルの典型と、後世に受け継がれる三国志文化の隆盛の原点を発見できる。
  おつかれさまでした。 ぼくはこの論文で、大学を卒業させてもらいました笑 教授のコメント「文章はよく書けている。しかし内容は、うま~く煙に巻いてごまかされてしまった、という感じだな。はははは」 終始、論点がブレるんだよね。三国志をやりたいのか、近世文化史をやりたいのか。期待されているのは後者だけど、前者への好奇心だけで動いているんだ。だから、微っ妙な文章なんだ。   ここまで読んでくださった皆さまへ。 日本に『三国演義』が伝わってきた時代のことを少しでもご理解頂ければ、恥を忍んでパンドラの箱を開けた意味はあったと思います。 ご興味を持たれましたら、近所の図書館で『通俗三国志』があるか聞いてみて下さい。少し大きめの図書館になら、置いてあると思います。 今日の「三国文化」の記念碑みたいな作品です。吉川英治『三国志』が出る以前の、日本人のスタンダードでした。いちど触れてみて下さい。 ありがとうございました。
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