三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
八王の乱の本質を、八卦で占ってみた(1)
八王というのは、『晋書』列伝29に載っている8人の司馬氏を指します。彼らは、権力闘争に明け暮れて、王朝を滅ぼした罪人の罰として、不名誉な列伝の括られ方をしているのですが。
ぼくは八王のメンバーを入れ替えたいと思います。
というのも、はじめの2人、司馬亮と司馬瑋は、290年代に死んでいる。「広義の八王の乱」というときに彼らの闘争が含まれるが、「狭義の八王の乱」のときはすでに故人。
「広義」が片付いてから「狭義」が始まるまでの間は、賈皇后のもと、張華と裴頠が均衡を保った10年が挟まっている。一緒くたに同じ乱と称してしまうには違和感があるのです。
このページで「八王の乱」というときは、つねにいわゆる「狭義」の定義で使います。
じゃあ、この2人の代わりに誰を入れるか。ずばり、司馬衷と司馬熾です。これでは名前に通りが悪いかも知れないので、別の呼び名で彼らを称すれば、恵帝と懐帝です。
本紀に格上げされて、帝号まで送られてしまっているから、イメージがわかない。でも彼らは八王の兄弟で血縁はとても近く、恐らく顔も育った環境も似ていて、家族写真を撮ったら区別が付かないような、ふつうの司馬氏です。飯も食うし、睡眠も取るふつうの人間だったのです。彼らこそ、「狭義」の張本人に他ならないので、八王にカウントさせてもらいます。恵帝は9歳で皇太子になり、「王」に封じられたことがないから、違和感は残ってしまうけれど。

8は、すべてを包含するとされる大切な数字で、「陽」の象徴でもあります。八王を、森羅万象のすべてを著す八卦になぞらえて、8人のキャラクターを設定して行きたいと思います。けっこう都合よく当てはまって行くので、びっくりです。「八王の乱」とは、ナイスなネーミングです。1000年以上も、呼称が残ってきたわけです。

司馬衷(孝恵皇帝)
八王の乱の張本人。彼が暗愚で、補佐を必要とする皇帝だったせいで、ごちゃごちゃになってしまったと言われる。司馬炎も心得ていて、司馬衷の子で聡明な司馬遹のための繋ぎだったんだが、その司馬遹が賈皇后に殺されてしまったことで、八王の乱は開幕する。司馬倫が動き出した。
恵帝が即位した根拠が失われてしまったんだから、彼を皇帝から降ろそうという動きが出てくることは、(大逆だとか良し悪しは別にして)仕方がない流れでした。
鄴に北伐して、目の前で忠臣が斬り殺されて血を浴びた。頬を斬りつけられた。最後は司馬越に毒餅で殺された。日本の戦国時代の天皇のように、超然とした存在ではなく、つねに当事者として八王の乱に関わってきた人物。この人がしっかりすれば、執政のポストを巡る争いは止まったんだろうしね。
易に例えるなら、全てが陰の「地」でしょう。あらゆるもの受け容れる包容力を示す。司馬衷のキャパがあったというわけじゃないが、皇帝という立場上、政争の土壌として、乱を育んだんだから、これでいいでしょう。全てが陰爻というのも、バカ皇帝にふさわしい。

司馬倫(趙王)
八王の乱を始めた人。寒門出身の孫秀の傀儡となり、「無学」のくせに活躍した。もっとも特筆すべきことは、彼が数ヶ月だけでも皇帝になっているということ。すぐに司馬衷が復帰しているから、歴代皇帝には数えられていないが、彼が即位した時点では、無理やりの「禅譲」だったとは言え、3代皇帝だった。
賈皇后にへつらい、賈皇后の旗色が悪くなると、賈皇后を討つ側になった。張華と裴頠も殺した。10年間の小康状態の担い手は、主導者も異分子もいなくなってしまった。権力は空白。孫秀が邪悪な頭を少し巡らせば、たちまちトップの座が転がり込んでくるわけです。
淮南王・司馬允(司馬衷の弟)が、司馬倫に対して挙兵した。「司馬倫の簒奪の志を察知して」ということになっているが、彼自身が皇太弟に就きたかったのかも知れない。それほどに、既存の秩序がリセットされてしまっていた。司馬允は敗死するんだが、八王じゃなく九王を設定するならば、間違いなく彼を入れてあげたい。司馬遹のあと、皇太弟に推す声もあったらしい。
こんな司馬倫は、険難を意味する「水」の卦が相応しいでしょう。まんなかの陽爻は、邪悪なブレインの孫秀を象徴しているような気がします。上下の陰爻に隠れて、企みごとをしています。

司馬冏(斉王)
司馬倫を討つことを言い出し、次に政権をとった人。司馬顒・司馬頴とともに「三王起義」で挙兵し、司馬倫政権を倒した。 懐かしむべし。司馬攸の遺児。父の司馬攸は司馬炎の同母帝で、2代皇帝は彼だと言われていた。だが無念の死を遂げさせられる。司馬冏は、父が仮病なんかじゃないことを訴えて、当時の人たちの評価と哀れみを手に入れた。司馬衷がバカ過ぎるものだから、「ああ、司馬攸が継いでいればなあ」と嘆かない人はいなかっただろう。だが、司馬攸が2代皇帝ならば、3代皇帝はこの司馬冏だったはず。彼の為政者としての力量が、イフ西晋史です。

河南方面で司馬倫の軍と戦ったが、膠着した。その間に司馬頴が洛陽を占領してしまったので、いいとこなし。だが司馬頴がなぜか身を引いてくれたので、トップとして君臨することになった。司馬冏の自負としては、司馬衷を呼び戻したものの、司馬衷の血統からの皇帝は1代で終わらしてやれ、と考えていたのだろう。司馬遹の子が死ぬと、司馬衷の甥で、8歳の司馬覃を皇太孫に立てた。
注目の政治ぶりですが、火の卦を割り当てたように、驕奢で華々しく、しかし中身がないものだった。父の司馬攸からして、度の過ぎた感動屋だった。その血を引き継いだのでしょう。自分より軍功のある司馬頴が国に帰ると泣いて追いかけた。権力を持つや、発揮せずにはいられない。はたから見れば、浪費家や情実人事マンになってしまうのです。

司馬乂(長沙王)
司馬冏を倒した人。全く期待されていなかったのに、予想外に強すぎて逆に混乱を巻き起こした、皮肉な役回りの人。「司馬冏を討ちなさい」という詔を受けるが、この詔の狙いは額面どおりではなかった。「どうせ司馬乂は弱い。司馬冏に噛み付かせ、返り討ちに遭ってもらおう。それを司馬冏の罪状に数えて、本格的な戦闘を始めよう」というのが、司馬顒の読みだった。だが、司馬冏に3日の市街戦で勝ってしまった。

そもそも司馬乂は、命じられて立ち上がったのだから、「三王」だった司馬顒・司馬頴の指示を仰いでいた。だが、飼いならしにくいと判断されるや、司馬顒と司馬頴に攻められた。司馬顒は東から70000、司馬頴は西から200000で進攻。漢魏より未曾有の大軍だと言われる。
洛陽は、あの董卓が防禦を諦めた土地で、とても守りにくい。勝てるわけがないのだが、なぜか勝ってしまう。だが地勢の不利は拭えない。洛陽の内側では食料も水も枯渇したので、司馬越が鎮静を図るために、司馬乂を捕えた。煮て殺された。

こんな司馬乂は「雷」です。陽が下から突き動かして、動乱を作り出すかたち。陰のなかに埋もれていた陽が芽を出して、強い影響力を発揮します。
純粋な性格で、下手な思慮を好まない武人だったのかも。戦略らしきものは他人から借りてくるが、目の前の戦となれば超人的な集中力を発揮できるんだ。司馬氏から武将タイプの人材は出ていないから、腕っ節よりは指揮能力が高かったのだろう。
八王の乱の本質を、八卦で占ってみた(2)

司馬頴(成都王)
司馬乂の次に洛陽で主導権を握った人。「三王起義」のとき、いちばんの功績があったけれども、盧志の意見を聞いて、謙譲して任地に帰った。臣下に、陸機・陸雲(陸遜の孫)と盧志(盧植の曾孫)を抱えているというのが、三国志ファン的には重要なポイント。もっとも、陸氏と盧氏は仲が悪かったんだけれど笑
宦官の孟玖という人が臣下にいて、足の引っ張り合いを始めるところが、また三国志らしくて良いじゃないですか。
文字が読めなかったらしく、臣下の諍いをのさばらせ、活躍させる(跋扈させてしまう)のが持ち味。だから卦は「沢」としました。血筋の尊さと知的レベルの低さから、必然的にそういう位置になってしまった。後漢末期の皇帝と似ています。つくづく三国志的な人だ。

司馬乂を駆逐すると、皇太弟となった。しかし派閥争いを制御しきれず、名門の陸機・陸雲を殺してしまうなど、人望を失い始める。
鄴にいたが、司馬衷を擁した司馬越に、北伐を受けた(蕩陰の戦)。
これで負ければ話は簡単なんだが、勝ってしまう。司馬衷は嵇紹に庇われて、鮮血の飛沫を衣に受けた。司馬昭のときのように、傀儡皇帝を連れて遠征した側が、かなりの大差をつけて勝つと相場が決まっているのだが、それが通じないのが西晋クオリティ。司馬越は落ち延び、司馬衷は司馬頴の手中に収まった。
安心したのも束の間、幽州から異民族兵を率いた王浚が、鄴を陥落させた。司馬頴は、司馬衷を挟んで洛陽に帰り、尻すぼみになっていく。

司馬顒(河間王)
「三王」の最後の1人で、自分の根拠地の長安に、司馬衷を連れ込んだ。やったことは董卓と同じだが、スケールはずっと小さい。西涼と縁があるわけでもない。
消去法で残ってしまったが、司馬顒は日和見の人で、明確な主張も戦略もない。司馬倫に色気を見せたときもあった。風見鶏の彼には、不安定さを表す「風」の卦を割り当てました。
李含・張方という強力な武将が下にいて、それなりの存在感を司馬顒に与えてくれる。だが2人とも、司馬顒が手のひらを返すためのコストとして、切り捨てられていく。
失墜した司馬頴を皇太弟から降ろして、これまた消去法で、生き残っていた数少ない皇族の、司馬熾を皇太弟に立てた。司馬越を懐柔して均衡を取ろうとしたが、そもそも長安に皇帝がいる時点で不安定。函谷関の東西を分けて、一大決戦が始まります。
敗れた後に一時的に長安城を奪還するなど、とことん切れ味の悪いイライラさせる生き方をした人でした。

司馬越(東海王)
八王の乱をいちおうは終結させた人。その手段は、皇帝・司馬衷の暗殺でした。穏やかじゃないが、これによって一連の争いが少し落ち着くのだから、いちおうの最終勝者として良いか。卦では、陽が押さえ込んで安定を生み出す「山」です。
前に、予想外に強かった司馬乂を片付けたのも、司馬越でした。
司馬顒が力を持つと、皇帝が長安にいてアンバランスなのことを咎め、中原の東半分から挙兵。勝ったことは素晴らしいが、どうやら唯我独尊的に物事を仕切りたいらしく、次の皇帝・司馬熾との対立を深めます。

八王の乱を治めたのが異民族兵の戦闘力ならば、それ以後の心配ごとも異民族兵の存在で。皇帝を守る洛陽の兵を引き剥がし、皇族をずらっと連れ出して北伐をするが、進軍中に病没。敗れた軍は皆殺しに遭い、司馬越の棺は焼かれて「見たことか」と石勒に仕打ちされます。
司馬熾は、司馬越を討つように詔を出していた。皇族同士が憎しんで権力を奪い合う様子は、八王の乱と何も変わっていないと思う。だから司馬熾も八王の1人に今回カウントしたわけで。2人の決定的な衝突が見られたら、史官による「乱」の定義が変わったんだろうが、司馬越が機先を制して(笑)病没したので、対決は見られませんでした。

司馬熾(豫章王・孝懐皇帝)
八王の乱の真の勝者。司馬炎の25男。あまり表に出ずに、嵐が過ぎ去るのを待っていたら、やっと順番が回ってきた。乱の展開に合わせてたびたび皇太孫になった司馬覃と、微妙な皇位継承争いを抱えるが、未発で円滑に即位できました。
司馬越があまりに強くなったので抑えようとしたが、病没されてしまった。とりあえずの皇族の殺し合いは終わったかと思いきや、司馬越が死んだ年に洛陽が陥落し、劉曜の捕虜となってしまった。諸王との権力争いに敗れたわけじゃなかったが、外圧に屈してしまった。
やっと、三国を統一した司馬炎の正統な後継者として、洛陽で政治を執ろうとしていた矢先だけに、無念で驚かざるを得ない。
三国の覇者・司馬炎の跡継ぎとして、「天」の卦を与えました。だが、陽が極まると陰に転じるもの。易というのは、本当によく出来ています。

■八王の乱とは
乱の本質は、遅れてやってきた司馬炎の後継者争いではないかと思うのです。このページを作っていて、思いついたことですが。

司馬炎の後継者は、司馬衷という中継ぎを挟んで、司馬遹に決定していた。司馬炎の晩年に決定的な失点を加えてしまったのが、司馬攸を斉に帰藩させようとした事件。あれは、司馬衷と司馬攸の選択ではなく、司馬遹と司馬攸の選択でした。
このゴタゴタで王朝が早くも人望を失うのですが、司馬炎が生前にきちんと結論を出していたのは評価できる。孫権みたいに、両成敗にしてリセットしなかったのも、良し。いたずらに人材を失わなくて済んだからね。だが、司馬遹が殺されることで問題が再燃する。

司馬懿の弟で、世代が上の司馬倫がリアルに「即位」をしたが、これが始まりのホイッスル。司馬倫本人には内容がなかったので(孫秀の独壇場だった)、次に名乗りをあげたのは、司馬攸の亡霊・司馬冏。彼が「起義」して輔政を目指したことから、司馬炎の晩年の懸案が再浮上したことが確認できる。
司馬冏は、司馬攸ゆずりの欠点で運命的に失脚した。司馬乂という予想外の花火キャラが登場する。遠目の利かない司馬乂が見境もなく死力を尽してしまうほど、何が正解で何が正統か分からない時代になっていた。この暴走児を、影からこっそりと間引いて状況を変えたのが、司馬越。だが、彼の活躍はもう少し後。

もと「三王」だった2人を軸に、時代が動く。2人とも洛陽を顧みず、自分の出鎮エリアに皇帝を連れ込んだ。もう、天下の中心である洛陽に皇帝を頂くという大原則が、実現されなくなっていた。洛陽にいなければ、皇帝じゃない。司馬頴・司馬顒の執政期は、司馬炎の後継者不在の時代と言えるだろう。
司馬衷を洛陽に取り戻したのは司馬越で、彼は「司馬衷は司馬炎の後継者ではない」という宣言を、毒餅を使って実行した。司馬越は、残念ながら血筋が遠かったので、自ら即位はしなかった。
司馬越は、司馬倫以降の潰しあいを冷静に見つめながら、あるべき王朝の姿に戻すために、陰に陽に行動していた人かも知れない。司馬熾に収まると、自分が設計図を引いた人間だという誇りから、僭越になったのでしょう。後世的な評価では、キズには違いないが、それを咎めるのはコクだ。1人の人間に、求めすぎだ。

司馬熾が帝位を全うしてくれれば、争った甲斐もあるんだが。。
司馬頴の鄴、司馬顒の長安を落したのは、異民族の兵だった。分かりやすいほど明確にほのめかされた物語の伏線に、司馬越は気づいていて、司馬熾は気づいていなかったのかも知れない。司馬越は、手早く(と言ってもかなり後手だが)異民族征圧せよと提案して、自ら出陣を願った。司馬熾は、「洛陽守備が優先だ」反対をしていたから。そういう意味では、司馬熾は極めて典型的な「中華の皇帝」と言えるだろう。漢民族は、全てにおいて異民族に勝り、最優先されるべきものなのだ。
懐帝・司馬熾という人は、秦漢帝国・三国晋の最後を締めくくる役に相応しくて良いですね。080814
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