いつか書きたい『三国志』
三国志キャラ伝
登場人物の素顔を憶測します
『晋書』と『後漢書』和訳
他サイトに翻訳がない列伝に挑戦
三国志旅行記
史跡や観光地などの訪問エッセイ
三国志雑感
正史や小説から、想像を膨らます
三国志を考察する
正史や論文から、仮説を試みる
自作資料おきば
三国志の情報を図や表にしました
企画もの、卒論、小説
『通俗三国志』の卒業論文など
春秋戦国の手習い
英雄たちが範とした歴史を学ぶ
掲示板
足あとや感想をお待ちしています
トップへ戻る

(C)2007-2009 ひろお
All rights reserved. since 070331
『晋書』列伝70、反逆者の列伝 4)陳敏-上
陳敏
陳敏,字令通,廬江人也。少有幹能,以郡廉吏補尚書倉部令史。及趙王篡逆,三王起義兵,久屯不散,京師倉廩空虛,敏建議曰:「南方米穀皆積數十年,時將欲腐敗,而不漕運以濟中州,非所以救患周急也。」朝廷從之,以敏為合肥度支,遷廣陵度支。

陳敏は、あざなを令通といい、廬江郡の人である。
若くして幹能があった。郡廉吏から、尚書倉部令史に任じられた。趙王の司馬倫が簒逆すると、三王は起義した。三王の兵は(洛陽を包囲して)長く駐屯して散らなかった。京師の倉廩は、(防御に費やされて)空虚になった。
陳敏は建議した。
「南方の米穀は、みな數十年分も備蓄があり、腐敗しようとしています。しかし中原に水運で中原に輸送されていません。中原に補給し、洛陽を救済して下さい」
朝廷はこれに従った。陳敏を合肥度支とし、廣陵度支に遷した。
〈訳注〉司馬倫との抗争の時点で、洛陽は後がなかったこと、揚州は潤沢だったことが分かる。

張昌之亂,遣其將石冰等趣壽春,都督劉准憂惶計無所出。時敏統大軍在壽春,謂准曰:「此等本不樂遠戍,故逼迫成賊。烏合之眾,其勢易離。敏請合率運兵,公分配眾力,破之必矣。」准乃益敏兵擊之,破吳弘、石冰等,敏遂乘勝逐北,戰數十合。時冰眾十倍,敏以少擊眾,每戰皆克,遂至揚州。回討徐州賊封雲,雲將張統斬雲降。敏以功為廣陵相。時惠帝幸長安,四方交爭,敏遂有割據江東之志。其父聞之,怒曰:「滅我門者,必此兒也!」父亡,去職。東海王越當西迎大駕,承制起敏為右將軍、假節、前鋒都督,致書於敏曰:

張昌之亂のとき、張昌は部将の石冰らを寿春に行かせた。(寿春の)都督の劉准は憂惶し、計略を何も思いつかなかった。このとき陳敏は、大軍を統べて寿春にいた。陳敏は劉准に言った。
「反乱軍はもとより遠征を楽しまず、逼迫して賊になったのです。烏合之眾は、軍勢が崩れやすいものです。この陳敏に、あなたの指揮権を分け与えて下さい。必ず破ってみせます」
〈訳注〉張昌や石冰の従ったのは、益州の李流の討伐に徴用された人たちだ。陳敏は、そのことを言っている。
劉准は、陳敏の兵を増やした。陳敏は賊を撃ち、呉弘、石冰らを破った。陳敏は勝ちに乗じて北上し、數十回戦った。石冰の兵数は10倍だったが、陳敏は少数で攻撃し、戦うごとに勝った。ついに陳敏は揚州に至った。
旋回して、徐州の賊の封雲を討伐した。封雲の部将の張統は、封雲を斬って投降した。陳敏は、この功績によって廣陵相となった。
ときに惠帝は長安に行幸していて、四方は交爭していた。陳敏は、江東に割拠する志を抱いた。
陳敏の父が聞くと、怒った。
「私の一門を滅するのは、必ずこのガキだ」
父が死ぬと、陳敏は職を去った。
東海王の司馬越が、長安に大駕(恵帝)を迎えに行こうとしていた。司馬越は承制して、陳敏を右將軍、假節、前鋒都督とした。司馬越は、陳敏に書面を送った。

將軍建謀富國,則有大漕之勳。及遭冰昌之亂,則首率義徒,以寡敵眾。(中略)今羯賊屯結,遊魂河濟(以下略)

「陳敏將軍は、謀を建て國を富ませ、大漕之勳がある。
〈訳注〉司馬倫のとき、揚州から洛陽に食料を送った話だ。
石冰と張昌が乱を起こすと、あなたは義徒の先頭に立って率い、少数で大軍を破った。国土が回復されたのは、あなたのおかげだ。いま羯賊が集結し、黄河や済水のあたりを脅かしている。解決してくれ」
〈訳注〉陳敏への賞賛、現状への危惧などが、訳し方の分からない漢文の修辞が並んでいました。省きました。

時越討豫州刺史劉喬,敏引兵會之,與越俱敗于蕭。敏因中國大亂,遂請東歸,收兵據曆陽。會吳王常侍甘卓自洛至,教卓假稱皇太弟命,拜敏為揚州刺史,並假江東首望顧榮等四十余人為將軍、郡守,榮並偽從之。敏為息娶卓女,遂相為表裏。揚州刺史劉機、丹陽太守王廣等皆棄官奔走。敏弟昶知顧榮等有貳心,勸敏殺之,敏不從。昶將精兵數萬據烏江,弟恢率錢端等南寇江州,刺史應邈奔走,弟斌東略諸郡,遂據有吳越之地。敏命寮佐以己為都督江東軍事、大司馬、楚公,封十郡,加九錫,列上尚書,稱自江入河,奉迎鑾駕。

司馬越が豫州刺史の劉喬を討つとき、陳敏は兵を率いて合流した。だが司馬越と陳敏は、蕭県で敗れた。陳敏は、中原が大乱しているので、東(揚州)に帰ることを司馬越に請い、兵を収容して暦陽に拠った。
呉王の常侍である甘卓が洛陽に至った。陳敏は甘卓に「皇太弟の命令だ」とウソを言わせ、自分(陳敏)を揚州刺史に拝させた。同じようにウソを言わせ、江東の首望(トップの名望をもつ人)の顧榮ら40余人を将軍や郡守にした。顧榮らは、陳敏が作ったウソの命令に従った。
陳敏の息子は、甘卓の娘を娶った。陳敏と甘卓は、お互いに助け合う関係を固めた。
揚州刺史の劉機と、丹陽太守の王廣らは、(陳敏に抵抗して)みな官位を棄てて奔走した。陳敏の弟の陳昶は、顧榮らに二心があることを知っていたから、
「顧榮らを殺しましょう」
と陳敏に勧めた。だが陳敏は従わなかった。
弟の陳昶は、精兵の數万を率いて烏江に拠った。弟の陳恢は錢端(人名)らを率いて、南方の江州を寇した。江州刺史の應邈は奔走した。弟の陳斌は、東方の諸郡を攻略して、呉越の地に拠った。
陳敏は寮佐し、自らを都督江東軍事、大司馬、楚公とし、十郡を封じ、九錫を加え、上尚書に列した。
「長江から黄河に入り、私が天子の車を迎えよう」
と自ら称した。
〈訳注〉「鑾」は、天子の馬車のくびき、ながえの先につける鈴。「駕」は、馬や牛に引かせる乗り物。陳敏は「私が臣下のトップとして、皇帝を輔佐するぞ」と言ったのだ。
次回、陳敏が滅びます。
前頁 表紙 次頁
このコンテンツの目次
『晋書』列伝70、反逆者の列伝
1)王弥-上
2)王弥-下
3)張昌
4)陳敏-上
5)陳敏-下
6)王如
7)杜曾
8)杜弢
9)王機、王矩、その他
inserted by FC2 system