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『晋書』列20より、曹操の「孫」 1)あの曹植の子、曹志
列傳第二十
曹志庾峻(子瑉敳)郭象庾純(子旉)秦秀
列伝20から、曹志(曹植の子)と、秦秀(秦朗の子)の列伝を翻訳します。曹志は曹操の正真正銘の孫だ。秦秀の父は、曹操に子同然に可愛がられた。つまり広義の「孫」なのかなあ、と思って翻訳を始めました。
曹志
曹志,字允恭,譙國譙人,魏陳思王植之孽子也。少好學,以才行稱,夷簡有大度,兼善騎射。植曰:「此保家主也。」立以為嗣。後改封濟北王。武帝為撫軍將軍,迎陳留王於鄴,志夜謁見,帝與語,自暮達旦,甚奇之。

曹志は、あざなを允恭という。譙國譙県の人で、魏代の陳思王である曹植の子である。
若くして学を好み、才能と行動を称えられた。大らかで度量があり、騎射が上手かった。曹植は、
「この子が、我が血統を保ってくれる」
と言った。 曹志は後嗣に立てられた。のちに濟北王に改封された。
武帝は撫軍將軍になると、陳留王(曹奐)を鄴に迎えに行った。曹志は夜に武帝と謁見して、朝まで語り合った。
「曹志は奇特な人物だ」
と、武帝は感心した。

及帝受禪,降為鄄城縣公。詔曰:「昔在前世,雖曆運迭興,至於先代苗裔,傳祚不替,或列籓九服,式序王官。選眾命賢,惟德是與,蓋至公之道也。魏氏諸王公養德藏器,壅滯曠久,前雖有詔,當須簡授,而自頃眾職少缺,未得式敘。前濟北王曹志履德清純,才高行潔,好古博物,為魏宗英,朕甚嘉之。其以志為樂平太守。」志在郡上書,以為宜尊儒重道,請為博士置吏卒。遷章武、趙郡太守。雖累郡職,不以政事為意,晝則遊獵,夜誦《詩》《書》,以聲色自娛,當時見者未能審其量也。

武帝が禅譲を受けると、曹志は鄄城縣公に降格された。
詔に曰く、
「むかし禅譲で皇帝の姓が代わっても、前代の皇族に家を継がせ、藩国に列して九服を与え、式は王官に序した。
〈訳注〉前代の皇族も、次の王朝に参加する権利がある、と。
前代の皇族から賢者を選んで、徳のある人に家を継がせることをは、至公之道と言えよう。
魏の曹氏の諸王公は、仁徳を養い器量を持っているものの、役職に欠員がないために、充分に取り立てられていない。さきの濟北王である曹志は、仁徳を実践して清純で、才は高くて潔く行動する。古い博物を好み、魏の皇族でも英邁な人だ。曹志が優れた人物であるから、朕はこれを嘉して、彼を樂平太守にしよう」
曹志は郡で上書した。
「儒学を尊び、道理を重んじるべきです。博士のために吏卒を設置して下さい」
曹志は、章武太守、趙郡太守に遷った。曹志は、郡太守の職位を重ねたが、政事に意欲を注がずに、遊猟に明け暮れた。夜になると、《詩》《書》を音読した。音読する声は、心から楽しそうだった。(郡での勤務ぶりが、どこまで本気なのか分からないから)曹志の器量を詳しく見積もることはできなかった。

咸甯初,詔曰:「鄄城公曹志,篤行履素,達學通識,宜在儒林,以弘胄子之教。其以志為散騎常侍、國子博士。」帝嘗閱《六代論》,問志曰:「是卿先王所作邪?」志對曰:「先王有手所作目錄,請歸尋按。」還奏曰:「按錄無此。」帝曰:「誰作?」志曰:「以臣所聞,是臣族父冏所作。以先王文高名著,欲令書傳於後,是以假託。」帝曰:「古來亦多有是。」顧謂公卿曰:「父子證明,足以為審。自今已後,可無複疑。」

咸甯初(275年)、詔に曰く、
「鄄城公の曹志は、行いが篤くて博識である。儒林にいて、孔子の教えを広めよ。曹志を散騎常侍、國子博士とする」と。
かつて武帝は《六代論》を閲覧していて、曹志に問うた。
「これはあなたの父(曹植)が書いたのか?」
曹志は答えた。
「父が書いたものは、目録を作ってあります。帰って確かめます」
曹志は家から戻り、上奏した。
「目録に《六代論》は載っていませんでした」
武帝は聞いた。
「では《六代論》は、誰が書いたのか?」
曹志は答えた。
「私が聞くところでは、私の族父(父と同世代の親族)である曹冏が書いたそうです。父の曹植の文は、高く評価されています。曹冏は、自分が書いたものを後世に伝えたいと思い、父が書いたように装ったのでしょう
「古代から、こんな類いのことは多いよな」
武帝は公卿たちを顧みて言った。
「父が遺した目録で、子が《六代論》の作者を証明したのだ。これ以後、《六代論》の作者について疑うな」

後遷祭酒。齊王攸將之國,下太常議崇錫文物。時博士秦秀等以為齊王宜內匡朝政,不可之籓。志又常恨其父不得志于魏,因愴然歎曰:「安有如此之才,如此之親,不得樹本助化,而遠出海隅?晉朝之隆,其殆乎哉!」乃奏議曰:「伏聞大司馬齊王當出籓東夏,備物盡禮,同之二伯。今陛下為聖君,稷、契為賢臣,內有魯、衛之親,外有齊、晉之輔,坐而守安,此萬世之基也。古之夾輔王室,同姓則周公其人也,異姓則太公其人也,皆身在內,五世反葬。後雖有五霸代興,桓、文譎主,下有請隧之僭,上有九錫之禮,終於譎而不正,驗於尾大不掉,豈與召公之歌《棠棣》,周詩之詠《鴟鴞》同日論哉!

のちに曹志は、祭酒に遷った。
齊王の司馬攸が任国に行かされようとすると、司馬攸にどんな文物を持たせるべきか、太常に議論させた。
〈訳注〉よく分からないが、格式について諮問したんだろう。
博士の秦秀らは、
「司馬攸は洛陽で朝政を助けるべきで、斉に行かせてはいけない」
と考えた。曹志はつねに父の曹植が魏代に志を得なかったことを恨んだ。そのため愴然として、嘆じた。
司馬攸のように、才能がある皇族が、どこにいるだろうか。その司馬攸が中央で政治を輔けず、遠い海隅の斉国に行かされるとは。晋の興隆は、危ういぞ」
〈訳注〉曹志が言いたいのは、「曹植のように才能のある皇族が、他にいただろうか」です。たしかに魏朝で、曹植を上回る皇族は出なかった。曹植を虐げた魏朝は、皇族の人材に恵まれずに短期で滅びた。
曹志は上奏した。
「大司馬で齊王の司馬攸さまが、東方の藩国に出られると聞きました。持たせる文物には礼を尽くし、(周の)二伯と同じ待遇にしてはいかがですか。いま陛下は聖君となられ、賢臣を使っておられます。西晋は古代の周のように、内には魯国や衛国と親しみ、外には斉国や晋国に輔けられています。だから陛下は洛陽に座したまま、国家は安定します。これは、王朝が萬世に続く基礎でございます。
古代の周で王室を輔佐したのは、王と同姓では周公旦で、王と異姓では太公望でした。どちらも首都に身を置き、五世に渡って中央に葬られました。
のちに春秋の五覇が登場し、斉の桓公や晋の文公は、周王をだましました。下には請隧之僭があり、上には九錫之禮があり、ついに終於譎而不正、驗於尾大不掉。どうして《棠棣》と《鴟鴞》とを同日に論じられましょうか。 〈訳注〉分かりませんでした。

今聖朝創業之始,始之不諒,後事難工。幹植不強,枝葉不茂;骨骾不存,皮膚不充。自羲皇以來,豈是一姓之獨有!欲結其心者,當有磐石之固。夫欲享萬世之利者,當與天下議之。故天之聰明,自我人之聰明。秦、魏欲獨擅其威,而財得沒其身;周、漢能分其利,而親疏為之用。此自聖主之深慮,日月之所照。事雖淺,當深謀之;言雖輕,當重思之。志備位儒官,若言不及禮,是志寇竊。知忠不言,議所不敢。志以為當如博士等議。」

いま聖朝(西晋)は、創業を始めたところです。しかし始まりに誠実さを欠けば、後事は難工するものです。まだ西晋は、幹植が強くなく、枝葉は茂っていません。骨髄がなければ、皮膚が充ちることはありません。古代の羲皇のとき以来、皇帝は一姓が独占してきたのでしょうか。
〈訳注〉西晋はまだ基礎が弱い。もし司馬攸を斉に行かせるような不誠実を行なえば、すぐに滅びるぞと脅している。
心を結束させたいと願えば、磐石に固まるものです。萬世之利を享受したいならば、天下の人と議論を行なうべきです。
〈訳注〉「司馬攸を斉に行かせるな」という世論を聞け!と言ってる。
天が聡明ならば、おのずと我ら人も聡明になるものです。
秦や魏は、威勢を独りでほしいままにし、財を得ましたが、身を滅ぼしました。周や漢は、利権を分け与えることができ、親疏を任用しました。周や漢のように皇族を優遇するやり方は、聖主の深慮であり、日月が照らすところです。
浅いことでも、深く考えるべきです。言葉は軽くとも、思考は重いものです。私(曹志)は儒官に就いているくせに、発言に礼が及んでいません。これは私の寇竊(落ち度)です。忠を知っていても黙るのが正解なら、私は今回の問題に口出しをしませんでした。・・・私が博士らと話し合ったのは、このような内容でした」

議成當上,見其從弟高邑公嘉。嘉曰:「兄議甚切,百年之後必書晉史,目下將見責邪。」帝覽議,大怒曰:「曹志尚不明吾心,況四海乎!」以議者不指答所問,橫造異論,策免太常鄭默。於是有司奏收志等結罪,詔惟免志官,以公還第,其餘皆付廷尉。


曹志がこの論議を提出する直前に、従弟で高邑公の曹嘉と会った。曹嘉は言った。
「従兄(曹志)の論語は、とても切実なものです。100年後に晋の歴史に必ず記録されるでしょうが、目下のところは譴責を受けるのではありませんか」
武帝は、曹志の意見書を読んで、大いに怒った。
「曹志は、私の心さえ理解していない。どうして四海(天下の心)を理解できようか!」
曹志らの意見は、武帝が聞きたかったことに答えておらず、全然違うテーマをでっちあげたものだった。
〈訳注〉武帝の宿題は、斉に行く司馬攸に何を持たせるかだった。
武帝は、太常の鄭黙を罷免にした。
有司らは、
「曹志らを捕らえて、罪に問いましょう」
と上奏した。しかし武帝は曹志をクビにして、自宅に帰らせただけだった。鄭黙と曹志以外の人は、みな廷尉に引き渡された。

頃之,志複為散騎常侍。遭母憂,居喪過禮,因此篤病,喜怒失常。九年卒,太常奏以惡諡。崔褒歎曰:「魏顆不從亂,以病為亂故也。今諡曹志而諡其病,豈謂其病不為亂乎!」於是諡為定。

このころ曹志は、ふたたび散騎常侍となった。曹志の母が死に、喪で過剰に哀しみを表現したから、曹志は病気が篤くなった。喜怒の感情に振り回され、平常心を失った。
九年(283年)に曹志は死んだ。
太常は上奏して、曹志に惡諡を送ろうとした。崔褒は歎じて言った。
「むかし魏顆は、病気で乱心した父に従いませんでした。いま曹志その人ではなく、病気による曹志の乱心に対してに諡号を贈ろうとしています。それではいけません」
〈訳注〉「罪を憎んで人を憎まず」と同じ思考法だ。乱心は当人の人格と切り離せと。
これにより曹志には「定」が贈られた。
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『晋書』列20より、曹操の「孫」
1)あの曹植の子、曹志
2)連れ子の秦朗の子、秦秀
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