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東晋次『王莽』を読む 1)若き不遇は、誤差のうち
これは読書メモです。本の内容を要約して、三国志の観点から、後から自分なりに感じたことを書き留めるための準備です。
いつも以上に、閲覧されている方には、何が書いてあるか分からないコンテンツになりそうですが・・・
ここが王莽の入門ページになればと思います。
「王莽って誰?」
という人には面白くないと思いますが、
漢王朝を分断して、新王朝を立てた人だと聞いているが、それ以上はよく知らない。知る機会もない」
という人には、楽しんでいただけるんじゃないかと思います。

◆王莽を知る目的
曹丕は、史上初めて格好のつく禅譲を受けた人です。
わざわざこんな書き方をしたのは、曹丕よりも前に禅譲を受け、格好のつかなかった前例があるからで。それが王莽。魏の曹丕は二番煎じなのです。
王莽は、魏王朝にモデルを提供した。これは紛れもない真実。ほら、三国志を知るためには、王莽を知らなければならなくなってきた(笑)
東晋次『王莽/儒家の理想に憑かれた男』白帝社2003
京都のジュンク堂でゴールデンウィークに買いました。以下より要約。

◆はじめに
王莽は、『平家物語』の冒頭に「驕って久しからざる人」の例として紹介されている。前王朝を倒した君主はいくらでもいるのに、なぜ王莽は、とりわけ非難されるか。
後漢の正統性を主張するため、新が負の王朝として位置づけられたからだ。後漢初に書かれた、王充『論衡』、桓譚『新論』は、王莽に辛い。唐代も辛く、日本に王莽への悪評が輸入された。
王莽が悪罵される論拠は、王莽が前漢の平帝を毒殺したこと。『漢書』も『後漢書』も、王莽に敵対した人が作った檄文から、毒殺したことを引用した。だが事実とは限らない。
近代になると、王莽は国家社会主義の政策を打ったと理解されたが、現代のテーマを押し付けだ。
1970年代に吉田虎雄氏が、政権論をやったが、王莽の人格まで研究が及ばない。 だから著者は、「王莽ははたして悪逆非道な偽善的簒奪者なりしや否や?」をこの本で考えたいと。

◆第1章 生い立ちと王氏一族
王莽は、紀元前45年生まれ。伯母はときの元帝の皇后。
父は、影が薄くて史料がなく、
「王莽は、王氏の一族じゃないかも知れない。父の王曼は病気がちで、母の某渠は酒飲みだから
と従弟から言われた。王莽は、10代前半で父を失った。

伯母について。元帝がまだ皇太子のとき、寵愛する女性が、
「私は他の女官に嫉妬され、呪い殺されました」
と言い残して死んだ。元帝は気分が塞いだ。気を紛らわすために女が5人並べられたが、元帝は興味なし。誰でも良くて、
「この中の1人が宜しい」
と、曖昧な返事をした。側近は、一番近くに座っていた王氏が選ばれたと勘違いした。一度のお召しで、王氏は皇太孫を身ごもった。偶然に味方された、幸運な人だった。
前33年、元帝が崩じて、王氏の子である成帝が即位。外戚の王氏は続々と人臣最高の「侯」に封じられ、繁栄が始まった。

◆第2章 青春の屈折
王莽のオジやイトコは権勢を得て、贅沢した。だが王莽は、兄も父も死別していたから、「弧貧」な生活だった。「恭倹」に生きて、学問に活路を見出した。15歳の決断である。
王莽は礼経を受け、沛郡の陳参に師事した。

礼とは、吉川幸次郎氏の解釈では、「欲望を圧迫し、縮小するための法則ではなくして、欲望を黄金律的なかたちへ拡大する法則」だ。
王莽が専攻した礼は、当時3つの政治問題を抱えていた。このうち後ろ2つは、王莽が決着をつけるから、儒教的能力はとても高かったはず。
その3つとは、
1)高祖のとき各地に設置された郡国廟が、儒家の礼に妥当するか
2)皇帝陵の宗廟を、古礼の「天子七廟制」にどう合致させるか
3)南北郊祀(長安の都城郊外の南北で天地神を祭るべきだ)

王莽の交友関係は、よく分からない。友達は多くなく、なかなか任官できない焦燥感と不遇感に苛まれた青春だった。
『漢書』を書いた班固の祖父の世代のとき、3人の兄弟が王莽と交わった。王莽は親類でもないのに、班氏のために喪服を着けた。
班固の祖父は、王莽政権に非協力的だったから、冷遇された。班固が『漢書』に王莽を記すとき、心証に影響しただろう。

◆官界入仕
前22年、大司馬・大将軍の王鳳が病気で倒れた。王莽が1ヶ月、誠意ある看病をしたので、
「王莽のことを宜しく頼む」
と遺言して、死んでくれた。おかげで王莽は、24歳で初めて黄門郎に就職できた。黄色く塗られた宮中の禁門を守衛する仕事だ。
王鳳は王莽のオジで、オジのうち最年長者(世父)だ。看病するのは当たり前だ。看病するとき、就職のための下心があったかは、詮索しても仕方ない。
王莽はすぐに射声校尉に移った。弓術に巧みな人を率いる仕事。黄門郎の比四百石(四百石に準ず)から、いきなり二千石になったから、あまりに異例の昇進だ。外戚だからだ。
ちなみに石は27キログラムで、給与の穀物の重さ。
「王莽の父だけ、列侯でない。不憫だ。王莽を列侯にしよう」
というわけで、前16年に南陽郡の新野県を封邑として、王莽は新都侯とされた。

偉くなっても、王莽は暮らしぶりを変えず、旧恩ある人や部下に財産を分け与えた。王莽夫人は、来客した公卿から召使と間違えられるほど汚い格好をした。
班固は『漢書』で、王莽の謙虚な生活態度を分析した。
「同輩を追い抜いて、皇帝を輔佐した。4人の叔父よりも、高い名誉を狙っていたから、私欲を抑えてもイヤにならなかった」
著者の東氏も班固と同じ意見で、慎ましい生活態度が己の社会的地位を高めると、王莽が若くして自覚していると考えた。官界のみならず、庶民の生活世界まで、名声を高めようとした。
人々は、王莽に「幻想」を抱いてしまった。
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このコンテンツの目次
東晋次『王莽』を読む
1)若き不遇は、誤差のうち
2)早すぎる絶頂と失脚
3)漢を再生する大改革
4)平帝を毒殺したか
5)王莽、「禅譲」される
6)高祖・劉邦を畏れる
7)王莽の伝記がない理由
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