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『「三国志」軍師34選』を読む 7)司馬懿、王粛
漢魏の次は、晋の「軍師」の章を読みます。渡邉氏の本では、次は蜀・呉の「軍師」が登場するが、内容の繋がりを優先します。

司馬懿
河内郡の人。同じ郡の楊俊から「非常の器」と呼ばれ、崔琰から「兄に勝る」と評価されたから、孔融を頂く「北海グループ」の一員だ。
のちに荀彧の推挙を受け、「頴川グループ」の一員にもなる。二大名士グループの評価を得たが、見合った地位や役割を与えられなかった。曹操に警戒されたからだ。

◆軍事権をもらう
曹丕のときは、撫軍大将軍だったが5000しか兵を持たず。
明帝の227年、都督荊豫二州諸軍事となり、孟達を斬った。翌年、諸葛亮が天水郡に入ると、都督雍梁二州諸軍事となった。
宗室が独占した軍事権を、名士が握った。
君主権力の衰退した。 諸葛亮を防ぎ、公孫淵を討った。

◆司馬氏政権へ
正始の政変で、尚書系統を握った宗室たちを倒した。
盧毓(盧植の子)、『孔子家語』を著した王粛は、司馬懿を支持した。
王淩が曹彪を擁立しようとしたのをキッカケに、宗室の曹氏を鄴に集めて監視し、外部との連絡を遮断した。魏の朝廷は、「完全に司馬懿に制圧された」。

司馬師は死士3000を養い、急進的に権力を拡張。夏侯玄と李豊と曹芳を除いた。
曹髦は、司馬昭から兵を奪おうとするが、失敗した。

◆五等爵制と貴族制の成立
尚書左僕射の陳泰のように、同僚名士の存在感を除くのが課題。軍事力を見せ付けることで、名士のライバルから抜き出ようとした。蜀漢を討伐したのは、それが目的だ。
五品以上の名士に、司馬氏との関係の深さに応じて、公侯伯子男の爵位を与えた。世襲できる。五等爵制と州大中正が結合し、名士は貴族に変貌した。

◆感想
司馬懿は明帝のとき、初めて軍事権を持つ。蜀ファンには、司馬懿の登場が憎らしいが、話が盛り上がるから嬉しくもあり、複雑な心地だ。
いま君主と名士のせめぎ合いという文脈で捉えると、
「曹丕が存命ならば、宗室以外の人が、方面司令官を任されることはなかった。司馬懿は登場できない。曹丕も曹真も、戦さが上手くない。諸葛亮があと少し早く国力を整え、曹丕の存命中に北伐をしていたら、長安を抜けたかも知れない」
という、とんでも議論が成立する?
曹丕は司馬懿をとても信頼していたが、軍事力を与えていない。
「腹心としての信頼と、軍事権の付与は別のこと」
と、冷徹に計算し尽していたかも知れない。融通の利かない者同士、諸葛亮VS曹丕が見たかった。

世襲と禅譲の話に似ているが、名士のリーダーの座は、どうやって決めるのが正解なのか?
郭泰や許劭に始まり、荀彧から陳羣、陳羣から司馬懿に渡ったように、仲間内で空気を読み、腹芸で賢者を選出するというのが、正解ではなかったか。荀彧は、荀顗(というか荀攸)への引継ぎに拘らなかった。陳羣は、陳泰を捻じ込まなかった。
そういう意味では、皇帝という称号こそないが、神話の時代の理想的な禅譲劇が、名士の間で行なわれていたことになる。渡邉氏の言う「自律的に理想的な国家を作り、自ら政治をやる」という名士の目標は、達成していた。
これを壊したのは司馬師で、
「伊尹が死んだら、子の伊陟が継いだ」
という故事を引き合いに出して、亡父の位をなぞった。『晋書』に出てくる伊尹の一節を見ても、
「は?いちいち何を言ってるの?」
と思っただけだが、実は、
「後漢末以来の、名士の良き暗黙ルールを破りますよ。名士のリーダーは他氏に譲らず、司馬氏が世襲させてもらいますよ」
という開き直り宣言だったわけだ。当たり前じゃないから、いちいち理由付けが必要だったんだね。
王粛
東海郡の人、王朗の子。王朗は、寛治を正当化した後漢の儒教に基づいて献策したが、猛政を尊重する魏では尊重されなかった。
王粛は、荊州学の宋忠に学んだ。西晋の正統となる経書解釈を、鄭玄の訓詁学への批判により、作り上げた。

◆鄭玄は何をした人か?
後漢のとき、経典は種類が多くて、細分化していた。まず古文と今文で分かれ、同じ本でも違う解釈が言われた。鄭玄は、古文のテキストに今文的な解釈を行い、本の間の矛盾を解決した。矛盾の辻褄合わせをするため、現実と乖離した饒舌な学問になった。

鄭玄は蔡邕が殺されると、後漢を見捨てた。後漢を改革するためではなく、漢代の価値観を後世に伝えるための学問だから、観念的になった。
鄭玄の注は早く伝播し、魏の国制に採用された。天を祭るのは、後漢では南郊、曹魏では南郊と円丘だ。

◆鄭玄への批判
鄭玄への反発もまた、早い時期に始まった。荊州学だ。
鄭玄は『周礼』を尊重するが、荊州学は『春秋左氏伝』を中心とした。諸葛亮は荊州学の流れを汲むから、『春秋左氏伝』を重んじた。
王粛も宋忠から学んだから、鄭玄と異なる注を付けた。

◆司馬氏の正当化
王粛は『孔子家語』を書き、曹爽・夏侯玄・曹芳を除いたことを正当化した。孔子の言動を、偽作して並べ替えた。カッコの中は、王粛が言いたいこと。
孔子曰く、宰相たる人は、①法律を定めるが用いない(曹操から曹叡への法家主義批判)、②会盟のとき無礼な芸人がいたら、殺す(芸人を可愛がった曹芳は、君主失格だ)、③宗室であっても、生活態度が淫らなら都城を壊す(曹芳廃位は正しい)と。
じつは、 ③の魯の宗室3人を追放したことは、史実と異なる。『春秋左氏伝』では、都城を壊せずに終わった。すなわち、史実を捻じ曲げてまで、王粛は司馬氏におもねったことになる。
王粛が継承したのは、「儒教の現実への適応性」だ。

◆感想
学生時代に「文学史」の勉強と称して、作者と書名と、10字くらいのキャッチフレーズを覚えさせられた。当時もそう思っていたし、今ますますそう思うが、あの方法では、文学について何も分からない(笑)
下らない暗記物に割いた時間を、たとえ1作品でも読むことに充てたほうが、まだマシだったんじゃないか。
いまの鄭玄学と荊州学も同じことで、実際の史料を読まねば、何がなにやら分からん・・・またの機会に。

王朗の提案が、曹魏で却下されまくったというのは、面白い話で、いい発見でしたが。
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預
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