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『「三国志」軍師34選』を読む 1)軍師とは何か
渡邉義浩氏の 『「三国志」軍師34選』を読んで、要約+感想を書き留めるという、読書メモです。

◆中級者が楽しめる本
タイトルだけ見ると、小説愛好者が楽しむ人物紹介本のようですが、中級者向けのやや歯ごたえのある、名士論です。
前に務めていた会社の、隣の課長から、
「つまらなかったから、あげる」
と言って、この本をもらいました。課長は、初心者向けだと期待して購入したが、難解で飽きたらしい。ぼくも初級者向けの本だと思ったから、逆に購入を避けていた。
今回の場合、大阪のとある会社の事務所内で、読者層の調整が行なわれたから結果オーライ。でも、タイトルと内容の乖離は、販売戦術として失敗でしたね。

ぼくにとっては面白く、すごく発見が多かったから、ここに要約を記しておこうと思っています。
けっこう恣意的に省略・短縮しますし、文章を台無しにするので、面白そうだと思われた方は、本屋に行かれることをお勧めします(笑)
◆序章 軍師とは何か
軍師は中国の官職名。
後漢成立期に、官職として現れたが、光武帝の軍備縮小政策で姿を消した。後漢末に、群雄の私設官として、ふたたび出現した。
名士(名声の高い知識人)が任命された。軍師の名声は、群雄の権力を正当化した。
軍師将軍の諸葛亮が、「軍師」観に大きな影響を与えた。戦闘における戦術を示す、単なる参謀ではない。時代の全体像を見通して、政権の全般の指針を定められる人が、軍師に就くべきだ。

曹操は、軍師の制度的な整備を進めた。1人で戦略を練り、群雄に「師」と仰がれた人はいない。たとえば荀彧は、後漢の侍中・守尚書令であり、軍師ではない。曹操が誰より兵法に精通したから、「師」が必要なかったのだ。
曹操が丞相になると、丞相符を私設して、軍師の階層組織(軍師-軍師祭酒-軍謀掾)を下に付けた。軍師のトップは、荀攸だった。曹魏政権の首脳部に横滑りし、新しい政府の中核を構成した。

軍師は、正規の軍制の外にある。君主権力を脅かす危険な存在でもある。
だから曹魏政権が確立すると、軍師は、都督(方面軍司令官)に随行する監察官に役割を変えられた。やがて同じ職務の「御史」に吸収され、 梁(502-557)を最後に、軍師という官職は消滅した。

◆後漢末の略史
後漢を乱したのは、外戚と宦官。
後漢は、中国で最初に儒教を支配理念として掲げた国家。最高徳目の仁とともに、孝を高く位置づけた。子孫を残せず、祖先の祭りを絶やす宦官は、儒教を修めた官僚から見ると、親不孝の典型だ。官僚は、宦官の政治介入が許しがたい。
だが宦官は皇帝の家内奴隷だから、ついつい皇帝は宦官の味方をする。宦官が儒教官僚を締め出したのが、党錮の禁だ。後漢の政治は、大土地所有者である豪族を出身階層とする儒教官僚たちが担っていたので、混乱した。
混乱に乗じた太平道が起こした黄巾の乱により、後漢の支配は事実上崩壊した。

董卓が洛陽に入り、後漢の政治を私物化した。
袁紹は、全国にいる袁氏の恩を受けた人に支えられた。曹操は、その他大勢の群雄の1人に過ぎない。だが曹操は、漢のために先頭に立って董卓と戦ったので、知識人層から高く評価された。
荀淑を祖父に、荀爽を叔父にもつ荀彧が加入してから、曹操は名士に味方された。荀彧は、宦官の血筋であるという曹操の欠点を補った。献帝を擁立して、他の群雄に命令を下せるようになった。

◆呉蜀の略史
孫堅も、陽人の戦いで董卓と果敢に戦った。
孫策は、揚州の名家出身の周瑜の助けを受けた。だが、かつて袁術の命令で滅ぼした陸康が、呉郡の名家だったので、孫策は反発を受け、暗殺された。孫策は、陸康を手にかけた自分への反発に悩み、死後を孫権に託した。
江東名士から忠誠心を引き出せない孫権は、程普・黄蓋などを信頼した。周瑜や魯粛とは、個人的に結ばれた。周瑜の支えにより、陸康の兄の孫・陸遜が、孫策の娘を娶って、孫権に出仕した。孫氏と江東名士は、和解した。
孫策を支えた張昭は、北方の名士。曹操への降伏を主張し、江東の名士も張昭に同調した。だが赤壁の勝利により、孫権の君主権力が確立した。
周瑜、魯粛、呂蒙が死んだ。曹操に降伏を唱えた人しか残っていない。孫権は側近を重用し、二宮事件を招き、陸遜を死に追いやった。陸遜は、孫氏と江東名士の和解の象徴だ。陸遜の死により、再び関係が悪化し、孫呉政権の寿命は尽きた。

劉備を支えたのは、一族の代わりに集団の中核を構成した、関羽・張飛や趙雲。だが、根拠地を維持するための行政能力を持つ名士は、社会階層が異なる劉備集団に、とどまらない。
いちど豫州で劉備は陳羣を得たが、関羽・張飛を差し置いてまで名士を尊重することはできず、陳羣の建策を退けた。劉備は豫州を失った。客将として彷徨った。
劉表は、蔡瑁などの荊州名士に支えられ、安定支配していた。荊州学の1人、司馬徽は、諸葛亮を推薦した。劉備は、諸葛亮からグランドデザインを授かり、従った。三顧の礼は、劉備集団が傭兵集団から、名士を中心とする集団に変わったことを、内外に知らせた。荊州人士は、劉備を注目した。

赤壁では、歴戦の傭兵隊長の劉備は、周瑜の実力を信頼しないから、巻き込まれないように遠くに布陣した。赤壁後、諸葛亮が荊州名士に呼びかけたから、劉備は荊州南部を領有できた。

◆魏晋の略史
赤壁に敗れた曹操は、中国の統一より、漢を滅ぼし魏を建てることに注力した。名士の反発を買った。儒教は、漢を聖なる国家と位置づけ、名士は漢の復興を願っていた。
曹操の魏公就任に反対した荀彧は、自殺に追い込まれた。曹操は名士の抵抗を弾圧したが、名士を恐れて建国せずに死んだ。
君主権力を強化した曹操・曹丕に、陳羣は九品中正で対抗した。名士の巻き返しだ。曹爽は、九品中正を君主に有利な制度に改めようとしたが、名士を束ねた司馬懿に倒された。
司馬氏の権力基盤になった名士は、高官を世襲する貴族へと変貌し、貴族制へと移行する。

◆名士=軍師の必要性と怖さ
三国時代は、名士の時代。政権を維持・運用するためには、名士が必要だった。
豪族の支配力は、郷里にしか及ばない。だが、名士に変質すれば、郷里以外でも活躍できる。襄陽で歓迎された諸葛亮がその例。
躍進したいから、豪族は名士になろうとし、名士を支持した。君主は、豪族を味方につけ、領土を円滑に支配するため、名士を必要とした。
名士は、仲間社会で情報を独占した。随一の兵法家の曹操が名士を必要としたのは、情報を得るため。

名士は、絶対服従の君臣関係を持たない。君主の不当な命令に従えば、名声が地に堕ちるから、名士は背く。徐州虐殺を支持しなかった陳宮しかり。
名士は君主に、対等に近い協力者であろうとした。だから軍「師」という官職名が流行した。だが、君主権力と名士尊重は両立しない。有力な名士である軍師をどう扱うかが、三国の命運を決した。
◆感想
渡邉氏が「名士」という概念で、三国時代を説明しようとされている方だというのは、知っています。歴史学の常として、
「こういう物差を使えば、史実をすっきり説明できるよ」
と提案することが、使命であり、喜びです。
論者が設定した物差でカバーできることが多く、矛盾やコジツケや反例が少なければ、それは優れた学説となります。

次回から、渡邉氏の名士論に、34人をはめ込んでいく仕事の始まりです。初めは、郭泰。いきなりライトなファンを振り落とす気だ(笑)
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このコンテンツの目次
『「三国志」軍師34選』を読む
1)軍師とは何か
2)郭泰と許劭
3)盧植、蔡邕、田豊
4)程昱、許攸、郭嘉、孔融
5)荀彧、呉質、陳羣
6)何晏、鄧艾、鍾会
7)司馬懿、王粛
8)阮籍、嵇康、杜預
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