表紙 > 漢文和訳 > 『晋書』帝紀10、安帝と恭帝の翻訳

396-398年、東晋末期の様相

もうついでなので、東晋の本紀を最後まで見てしまいます。
ぼくがが読みやすいレベルに、白文をいじっただけです。厳密には、翻訳ではないのですが・・・本紀は定型文が多いので、こんなかたちに留めます。

東晋の3国分裂

安皇帝諱德宗,字德宗,孝武帝長子也。太元十二年八月辛巳,立為皇太子。二十一年九月庚申,孝武帝崩。辛酉,太子即皇帝位,大赦。癸亥,以司徒、會稽王道子為太傅,攝政。冬十月甲申。葬孝武皇帝于隆平陵。大雪。

安皇帝諱德宗,字德宗,孝武帝長子也。
太元十二(387)年八月辛巳,立為皇太子。
二十一(396)年九月庚申,孝武帝崩。辛酉,太子即皇帝位,大赦。
癸亥,以司徒、會稽王道子為太傅,攝政。
冬十月甲申。葬孝武皇帝于隆平陵。大雪。

隆安元年春正月己亥朔,帝加元服,改元,增文武位一等。太傅、會稽王道子稽首歸政。以尚書右僕射王珣為尚書令,領軍將軍王國寶為尚書左僕射。二月,呂光將禿發烏孤自稱大都督、大單于,國號南涼。擊光將竇苟于金昌,大破之。甲寅,尊皇太后李氏為皇太后。戊午,立皇后王氏。三月,呂光子纂為乞伏乾歸所敗。光建康太守段業自號涼州牧。慕容寶敗魏師於薊。夏四月甲戌,兗州刺史王恭,豫州刺史庾楷舉兵,以討尚書左僕射王國寶、建威將軍王緒為名。甲申,殺國寶及緒以悅於恭,恭乃罷兵。戊子,大赦。五月,前司徒長史王廞以吳郡反,王恭討平之。慕容寶將慕容詳僭即皇帝位於中山,寶奔黃龍。秋八月,呂光為其僕射楊軌、散騎常侍郭黁所攻,光子纂擊走之。九月,慕容寶將慕容麟斬慕容祥於中山,因僭即皇帝位。冬十月,慕容麟為魏師所敗。

隆安元(397)年春正月己亥朔,帝加元服,改元,增文武位一等。太傅、會稽王道子稽首歸政。
以尚書右僕射王珣為尚書令,領軍將軍王國寶為尚書左僕射。
二月,呂光將禿發烏孤自稱大都督、大單于,國號南涼。

研究者は、後涼と便宜的に呼んでいる国です。

擊光將竇苟于金昌,大破之。
甲寅,尊皇太后李氏為皇太后。戊午,立皇后王氏。
三月,呂光子纂為乞伏乾歸所敗。光建康太守段業自號涼州牧。慕容寶敗魏師於薊。
夏四月甲戌,兗州刺史王恭,豫州刺史庾楷舉兵,以討尚書左僕射王國寶、建威將軍王緒為名。

北府が自己主張しています。

甲申,殺國寶及緒以悅於恭,恭乃罷兵。戊子,大赦。
五月,前司徒長史王廞以吳郡反,王恭討平之。
慕容寶將慕容詳僭即皇帝位於中山,寶奔黃龍。
秋八月,呂光為其僕射楊軌、散騎常侍郭黁所攻,光子纂擊走之。
九月,慕容寶將慕容麟斬慕容祥於中山,因僭即皇帝位。
冬十月,慕容麟為魏師所敗。

二年春三月,龍舟二災。夏五月,蘭汗弑慕容寶而自稱大將軍、昌黎王。秋七月,慕容寶子盛斬蘭汗,僭稱長樂王,攝天子位。兗州刺史王恭、豫州刺史庾楷、荊州刺史殷仲堪、廣州刺史桓玄、南蠻校尉楊佺期等舉兵反。八月,江州刺史王愉奔於臨川。丙子,甯朔將軍鄧啟方及慕容德將慕容法戰于管城,王師敗績。丙戌,慕容盛僭即皇帝位於黃龍。桓玄大敗王師于白石。九月辛卯,加太傅、會稽王道子黃鉞。遣征虜將軍會稽王世子元顯、前將軍王珣、右將軍謝琰討桓玄等。己亥,破庾楷于牛渚。丙午,會稽王道子屯中堂,元顯守石頭。己酉,前將軍王珣守北郊,右將軍謝琰備宣陽門。輔國將軍劉牢之次新亭,使子敬宣擊敗恭,恭奔曲阿長塘湖,湖尉收送京師,斬之。於是遣太常殷茂喻仲堪及玄,玄等走于尋陽。冬十月,新野言騶虞見。丙子,大赦。壬午,仲堪等盟于尋陽,推桓玄為盟主。十一月,以琅邪王德文為衛將軍、開府儀同三司,領軍將軍王雅為尚書左僕射。十二月己醜,魏王珪即尊位,年號天興。京兆人韋禮帥襄陽流人叛,降于姚興。己酉,前新安太守杜炯反於京口,會稽王世子元顯討斬之。禿發烏孤自稱武威王。

二(398)年春三月,龍舟二災。
夏五月,蘭汗が慕容寶を弑して、自稱大將軍、昌黎王。
秋七月,慕容寶子斬蘭汗,僭稱長樂王,攝天子位。
兗州刺史王恭、豫州刺史庾楷、荊州刺史殷仲堪、廣州刺史桓玄、南蠻校尉楊佺期等舉兵反。八月,江州刺史王愉奔於臨川。

東晋側には、どの鎮台の誰が、味方として残っているんだ?もう華南も、華北同様、小国に分裂していると見たほうが正確か。西府と北府と建康の3つが、華北よりはまだ強めに同盟しているだけ。
ネタバレすると、西府(桓玄)が建康を乗っ取ろうとして、失敗。北府(劉裕)は、建康の力を借りて西府を滅ぼした。最後に北府は、建康を滅ぼした。桓玄も劉裕も「禅譲」と言っているが、ただの華南・漢族同盟の主導権争いだ。
孫呉は君主権の弱いバランス政権だったが、それが進むと東晋のようになる。孫呉は、軍閥が明確に形成される前に、西晋の外圧で滅びたが・・・揚州の独立志向は西晋下でも成長を続けていたんだね。
東晋末は、孫呉が長続きしたとき現実化したかも知れないイフ物語である。
また、劉裕はこれから関中に北伐して、戦果を収めて、君主権力を上回る。もう1人の周瑜の姿かも知れない。

丙子,甯朔將軍鄧啟方及慕容德將慕容法戰于管城,王師敗績。丙戌,慕容盛僭即皇帝位於黃龍。桓玄大敗王師于白石。
九月辛卯,加太傅、會稽王道子黃鉞。遣征虜將軍會稽王世子元顯、前將軍王珣、右將軍謝琰討桓玄等。

建康の有力将軍の顔ぶれが確認できました。 司馬道子は「東晋で、皇族の権力を強めた」と言っているが、厳密には違う。東晋ではなく、北府と西府を除く、建康のみの小国を主宰しているだけだ。
劉裕への「禅譲」が完了したとき、司馬氏は皆殺しにされた。なぜこんなことが起きたか。宋への革命は、東晋の臣である劉裕が、帝位を譲られたのではない。脅し取ったのでもない。北府という独立国が、建康というもう1つの独立国に勝っただけだ。だから、こんなやり方になった。
禅譲は、王莽が発明した。曲がりなりにも理想的なイベントだ。曹丕と司馬炎は、王莽を踏襲しつつ、紳士的なイベントにアレンジした。だが劉裕に到って初めて、単なる軍事的な勝利を正当化する変質した。
曹操も劉備も孫権も、前王朝への気づかいに、脳のキャパの半分以上を割いた。だから、三国鼎立が数十年も続くという、奇跡的な均衡が生まれた。司馬氏も、曹氏の女子供を騙したという責めを、負わねばならなかった。だが劉裕は、ドライに前王朝を殺戮した。『三国志』の気風の消滅だ。
・・・本文と直接関係ない長い注です。でも、史料を読んでて何かを思いつくって、カタルシスだ。いかんなあ。

己亥,破庾楷于牛渚。丙午,會稽王道子屯中堂,元顯守石頭。己酉,前將軍王珣守北郊,右將軍謝琰備宣陽門。輔國將軍劉牢之次新亭,使子敬宣擊敗恭,恭奔曲阿長塘湖,湖尉收送京師,斬之。

北府が、建康をやり込めた。

於是遣太常殷茂喻仲堪及玄,玄等走于尋陽。
冬十月,新野言騶虞見。丙子,大赦。壬午,仲堪等盟于尋陽,推桓玄為盟主。
十一月,以琅邪王德文為衛將軍、開府儀同三司,領軍將軍王雅為尚書左僕射。

皇族は、建康側の大切な戦力だ。皇族というより、1人の将軍として動く。

十二月己醜,魏王珪即尊位,年號天興。

北魏がついに正式に成立。次の華北統一者だ。

京兆人韋禮帥襄陽流人叛,降于姚興。己酉,前新安太守杜炯反於京口,會稽王世子元顯討斬之。禿發烏孤自稱武威王。

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