表紙 > 漢文和訳 > 『魏書』列伝84「僭晉司馬叡」を翻訳/北魏目線の東晋

1)司馬睿のウソくささ

拓跋部が建国し、五胡十六国を終息させたのが、北魏。その北魏の正史のタイトルが『魏書』です。陳寿の作ったのとは、別物です。
『魏書』によれば、司馬睿は、
「僭越にも、統一王朝の晋の名前を騙った、辺境の逆賊」
となるわけです。
東晋がどれだけケチな盗賊に過ぎないのか、『魏書』に立てられた司馬睿の列伝を読んでみようと思います。東晋史の概説として、『晋書』の本紀の復習にも使うつもり。

司馬睿の父は、牛氏である

僭晉司馬叡,字景文,晉將牛金子也。初晉宣帝生大將軍、琅邪武王伷,伷生冗從僕射、琅邪恭王覲。覲妃譙國夏侯氏,字銅環,與金奸通,遂生叡,因冒姓司馬,仍為覲子。由是自言河內溫人。

僭越にも晉の国号を名乗った司馬叡は、あざなを景文という。晋の武将の牛金の子である。

諱が「叡」とありますが、『晋書』では「睿」なので、改めます(漢字変換ソフトの都合でもある)。どちらも同じで「さとい」という意味だ。また、天子の行動を貴ぶときに、熟語の頭にくっつける字でもある。
そして新説!司馬睿は、司馬氏の血を引かない。そりゃ彼に、東晋を立てる正当性はないよな・・・という話。残念ながら、『魏書』の方が怪しい。。

晋の宣帝・司馬懿は、大将軍・琅邪武王の司馬伷を生んだ。司馬伷は、冗從僕射・琅邪恭王の司馬覲を生んだ。

男は子供を生まないけどさ(笑)原文をシンプルに訳せば、そうなるんだもん。

司馬覲の妃は、譙國の夏侯氏である。妃は、あざなを銅環という。妃の夏侯銅環は、牛金と奸通して、司馬睿を産み落とした。
奸通がバレるとまずいので、夏侯銅環は司馬覲の子だと偽り、牛氏の子に司馬姓を冒させた。司馬氏の本貫は、河内郡の温県である。牛氏の子・司馬睿は、河内郡の温県の人ということになった。

初為王世子,又襲爵,拜散騎常侍,頻遷射聲、越騎校尉,左、右軍將軍。從晉惠帝幸臨漳,其叔繇為成都王潁所殺,叡懼禍,遂走至洛,迎其母俱歸陳國。

牛氏の子は、養父の司馬覲の爵位を継ぎ、散騎常侍となり、つぎつぎと射聲校尉、越騎校尉を遷り、左将軍、右軍將軍となった。
西晋の恵帝の行幸に従って、臨漳に行った。司馬睿の叔父・司馬繇が、成都王・司馬潁に殺された。

劉淵をこき使って離反させたのは、成都王・司馬頴。司馬睿を局外に逃がしたのも、成都王・司馬頴。五胡十六国を作った主犯だ。

司馬睿は禍いを懼れて、洛陽から逃げ出した。司馬睿は、母を迎えて、陳國に帰した。

局外で傍観するセコさ

東海王越收兵下邳,假叡輔國將軍。越謀迎惠帝于長安,複假叡平東將軍、監徐州諸軍事,使鎮下邳。尋加安東將軍、都督揚州諸軍事、假節,當鎮壽陽,且留下邳。及越西迎惠帝,留叡鎮後,平東府事。當遷鎮江東,屬陳敏作亂,叡以兵少因留下邳。永嘉元年春,敏死,秋,叡始到建業。

東海王・司馬越は、下邳で兵を収容した。司馬睿は、司馬越から、輔國將軍に任命された。

西晋の公認がないから、司馬睿の官位は「假」と書かれる。

司馬越は、謀略をめぐらし、恵帝を長安に迎えようと考えた。司馬睿は、平東將軍、監徐州諸軍事に任じられ、下邳に出鎮した。司馬睿は、安東將軍を加えられ、都督揚州諸軍事、假節となり、壽陽に出鎮することになった。だが壽陽に着任せずに、下邳に留まった。
司馬越が恵帝を長安に迎えることに成功した。司馬睿は、そのまま下邳に留まり、中原の東方で、公務を取り仕切った。
司馬睿が江東に遷ろうとしたとき、ちょうど陳敏が叛乱を起こした。司馬睿は、手持ちの兵が少ないから、下邳に留まった。永嘉元年春、陳敏が死んだ。秋、司馬睿ははじめて、建業に到った。

叔父の仇を討たずに洛陽から逃げた。下邳から動かず、寿陽を守らないし、陳敏を攻めない。東晋から見れば「慎重という美徳」だし、北魏から見れば「帝王の資格がない臆病」である。陳敏の死後を掠め取った。


五年,進鎮東將軍、開府儀同三司,又以會稽戶二萬增封,加督揚、江、湘、交、廣五州諸軍事。六月,王彌、劉曜寇洛陽,懷帝幸平陽,晉司空荀蕃、司隸校尉荀組推叡為盟主。於是輒改易郡縣,假置名號。江州刺史華軼、北中郎將裴憲並不從之。憲自稱鎮東將軍、都督江北五郡軍事,與軼連和。叡遣左將軍王敦、將軍甘卓、周訪等擊軼,斬之。憲奔于石勒。六年,叡檄四方,稱與穆帝俱討劉淵,大會平陽。

五年、司馬睿は、鎮東將軍、開府儀同三司に進んだ。また司馬睿は、會稽郡に20000戸を增封された。督揚、江、湘、交、廣五州諸軍事を加えられた。
6月、王彌と劉曜が、洛陽を寇した。懷帝は、平陽に御幸した。

同じ五胡だが、北魏は前趙の味方ではない。語彙がとげとげしい。むしろ統一王朝として、西晋を敬っています。

西晋の司空の荀蕃、司隸校尉の荀組は、司馬睿を推戴して、盟主とした。 ここにおいて司馬睿は、郡縣の名前を変更し、王を名乗った。
江州刺史の華軼と、北中郎將の裴憲は、どちらも司馬睿に従わなかった。裴憲は、みずから鎮東將軍、都督江北五郡軍事を称して、華軼と手を組んだ。司馬睿は、左將軍の王敦、將軍の甘卓、周訪らを遣わして、華軼を斬った。裴憲は逃げて、石勒を頼った。

司馬睿が独立した宣言文は、載せない。晋王即位に関しては、華軼や裴憲が逆らったことが、記述の分量の比率として目立つ。司馬睿もまた、数ある僭称した勢力の1つに過ぎないことが、強調されちゃった。まして牛氏だし(笑)

六年、司馬睿は四方に檄を飛ばして、穆帝とともに劉淵を討つため、前趙の都・平陽に集まれと呼びかけた。

穆帝とは、北魏の祖先・拓跋猗盧のことでOK?

司馬睿、西晋に謀反す

建興元年,晉湣帝以叡為侍中、左丞相、大都督、陝東諸軍事,持節、王如故。叡改建業為建康。七月,叡以晉室將滅,潛有他志,乃自大赦,為大都督、都督中外諸軍事,又為丞相。叡號令不行,政刑淫虐,殺督運令史淳于伯,行刑者以刀拭柱,血流上柱二丈三尺,僅頭流下四尺五寸,其直如弦。時人怨之。

建興元年、西晋の愍帝は、司馬睿を侍中、左丞相、大都督、陝東諸軍事とし、持節を与えた。、司馬睿の自称した王号を、愍帝が追認した。
司馬睿は、愍帝の名を忌んで、建業を「建康」と改めた。
7月、司馬睿は、西晋王朝がまさに滅びようとしているのを見て、ひそかに他志を抱いた。

『魏書』の立場からすれば、司馬睿は、玉砕覚悟で、長安の愍帝をお救い申し上げるべきである。長安を無視して、建康で繁栄を狙っているから、それは裏切りである。

司馬睿は自ら大赦した。司馬睿は、大都督、都督中外諸軍事となり、また丞相となった。司馬睿の号令は行き届かず、政事も刑罰も淫虐であった。
司馬睿は、督運令史の淳于伯を殺した。死刑を執行する人は、刀で柱を拭った。淳于伯の流血は、胴体から二丈三尺(5メートル強)も立ち上り、頭からは四尺五寸(1メートル)血が流れただけだった。血の軌跡は、弦のように真っ直ぐだった。世間の人は、司馬睿のやり方を怨んだ。

映像化できるほどに、正しく訳せたとは思いません。ただ、死刑執行の理由も、死刑執行のやり方も、人心を得ないものだった。死に様のおかしさが、司馬睿への批判である・・・ということだと、分かった気になりました。


『晋書』が見せてくれない、司馬睿の欺瞞が描かれていて、面白い。『春秋』の筆法は、読む人を楽しませてくれます。

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