表紙 > 漢文和訳 > 『宋書』本紀第三「文帝紀」をバラす

1)少帝を排除した余韻

429年に裴松之が『三国志』に註をつけて提出します。これが宋の文帝の時代。本紀を見てみます。
本紀にありがちな、定型文で出来事を記録したところは、訳しません。改行と色づけをして、読みやすくするに止めます。あんまり原文の面影を消すことはしないので、原文を載せません。

文人皇帝の素質

太祖文皇帝、諱義隆、小字車兒、武帝第三子也。
晉安帝義熙三(407)年、生於京口。

『晋書』は生年が分かっていても書いてくれず、没年と享年から計算するしかなかった。『宋書』は叮嚀です。
ちなみに武帝(劉裕)の長男で、2代皇帝になった少帝は、406年生まれ。晩年まで男子に恵まれなかった劉裕は、両年で男子が生まれまくった。

盧循が叛乱したとき、劉義隆は4歳だった。高祖は、諮議參軍の劉粹に輔けさせ、劉義隆が鎮京城。
十一年(415)、封彭城縣公。高祖が、伐羌至彭城、

南燕を攻め滅ぼしたときのこと。

將進路、劉義隆は冠軍將軍を行(か)ねて、留守した。 晉朝は劉義隆に、加授使持節、監徐兗青冀四州諸軍事、徐州刺史、將軍如故。
高祖が、關中平定、

後秦を滅ぼして、洛陽と長安を奪い返したときだ。

高祖還彭城、また東晋は劉義隆に、授監司州豫州之淮西兗州之陳留諸軍事、前將軍、司州刺史、持節如故、將鎮洛陽。仍改授都督荊益甯雍梁秦六州豫州之河南廣平揚州之義成松滋四郡諸軍事、西中郎將、荊州刺史、持節如故。
永初元(420)年、封宜都王、食邑三千戶。進督北秦、並前七州。進號鎮西將軍、給鼓吹一部。又進督湘州。
この歳、劉義隆は宋室に入朝した。14歳だった。身長は、七尺五寸。経書と史書に博く精通し、隷書をうまく書けた。

1尺が23センチとすると、172センチ。英雄のシルエットとしては少し小さいが、14歳ならば、まだ伸びるよな?
文人皇帝である。父の劉裕とは正反対である。


文帝の即位

景平二(424)年七月中、少帝が廢された。
百官は、備法駕奉迎、劉義隆は、入奉皇統。行台至江陵、進璽紱。
侍中臣琇、散騎常侍臣嶷之、中書監尚書令護軍將軍建城縣公臣亮、左衛將軍臣景仁、給事中遊擊將軍龍鄉縣侯臣隆、越騎校尉都亭侯臣綱、給事黃門侍郎臣孔璩之、散騎侍郎臣劉思考、員外散騎侍郎臣潘盛、中書侍郎臣何尚之、羽林監封陽縣開國侯臣蕭思話、長兼尚書左丞德陽縣侯臣孫康、吏部郎中騎都尉臣張茂度、儀曹郎中臣徐長琳、倉部郎中臣庾俊之、都官郎中臣袁洵らが上表して曰く、

宋の臣が勢ぞろいです。彼らの列伝を見ていくのは、いつの日になるのやら。


「臣聞否泰相革、數窮則變、天道所以不謟、蔔世所以靈長。乃者運距陵夷、王室艱晦、九服之命、靡所適歸;高祖之業、將墜於地。賴基厚德深、人神同獎、社稷以寧、有生獲乂。伏惟陛下君德自然、聖明在禦、孝悌著於家邦、風猷宣於蕃牧。是以征祥雜遝、符瑞輝。宗廟神靈、乃眷西顧;萬邦黎獻、望景托生。臣等忝荷朝列、豫充將命、複集休明之運、再睹太平之業。行台至止、瞻望城闕、不勝喜說鳧藻之情、謹詣門拜表以聞。」

平たく言えば、「劉義符には宋帝が務まらない。宋の国運は傾いた。皇弟のあなた=劉義隆は、適任である。皇帝になってくれ」です。

劉義隆は答えた。
「皇運艱弊、數鐘屯夷、仰惟崇基、感尋國故、永慕厥躬、悲慨交集。賴七百祚永、股肱忠賢、故能休否以泰、天人式序。猥以不德、謬降大命、顧己兢悸、何以克堪。輒當暫歸朝庭、展哀陵寢、並與賢彥申寫所懷。望體其心、勿為辭費。」

「宋の国運が傾いたのは確かだが、私は不適任である」だ。しかし、禅譲を受けて、まだ4年目じゃないか。宋の国運は、初めから蓄えのないことだ(笑)

府州佐史並稱臣、請題枿諸門、一依宮省、劉義隆は許さなかった。
甲戌、發江陵。八月丙申、車駕至京城。丁酉、謁初寧陵、還于中堂即皇帝位。(劉義隆が文帝になった)

どういう経緯で、皇位継承を受諾したか書いてない。だが少帝紀と合わせて読めば、想像がつく。少帝が幽閉先で殺されたから、宋帝を空位のままにできず、即位したんだろう。ムリヤリだな。


親政の始まり

元嘉元(424)年秋八月丁酉、大赦天下、改景平二年為元嘉元年。
文武賜位二等、逋租宿債勿複收。
庚子、以行撫軍將軍、荊州刺史謝晦を、為撫軍將軍、荊州刺史。癸卯、司空、録尚書事、揚州刺史徐羨之を、進位司徒、衛將軍。江州刺史王弘を、進位司空、中書監。護軍將軍の傅亮を、加左光祿大夫、開府儀同三司。撫軍將軍、荊州刺史謝晦を、進號衛將軍。鎮北將軍、南兗州刺史檀道濟を、進號征北將軍。

即位の手助けをした人への褒賞でしょう。

甲辰、追尊所生胡婕妤為皇太后、諡曰章後。
衛將軍、南徐州刺史彭城王の劉義康を、進號驃騎將軍、冠軍將軍。南豫州刺史の劉義恭を、進號撫軍將軍、封江夏王。立第六皇弟の劉義宣を、為竟陵王、第七皇弟の劉義季を、為衡陽王。

皇族が重要拠点を押さえろ。初代の劉裕の遺言どおり。

戊申、以豫州刺史の劉粹を、為雍州刺史。驍騎將軍の管義之を、為豫州刺史。南蠻校尉到彦之を、為中領軍。
己酉、減荊、湘二州今年稅布之半。九月丙子、立妃袁氏為皇后。

二(425)年春正月丙寅、司徒の徐羨之と、尚書令の傅亮が、奉表歸政、劉義隆は親政を始めた。
車駕祠南郊、大赦天下。
三月乙丑、左將軍、徐州刺史の王仲德を、進號安北將軍。
夏五月戊寅、特進の謝澹が卒した。
秋八月甲申、関中の流民が、漢水に沿って荊州北部に逃げてきた。京兆、扶風、馮翊などの郡を設置した。

いわゆる「僑立」です。逃げてきた人の故郷の地名を、避難先につけた。

乙酉、驃騎將軍、南徐州刺史で彭城王の劉義康に、為開府儀同三司。新除司空の王弘を、為車騎大將軍、開府儀同三司。以右軍長史の江恆を、為廣州刺史。
冬十一月癸酉、以前將軍の楊玄為征西將軍、北秦州刺史。

本紀がちっとも面白くないんだが・・・何も動きがないのか?


反対派の粛清

三(426)年春正月丙寅、司徒、録尚書事、揚州刺史の徐羨之と、尚書令、護軍將軍、左光祿大夫の傅亮が、有罪伏誅。
遣中領軍の到彦之と、征北將軍の檀道濟が、荊州刺史謝晦を討った。劉義隆は、親率六師西征、大赦天下。

治世初期の政権争いです。少帝を片付けたときも、含みがありそうだったし。劉義隆が、自ら兵を率いたのは、目ぼしい動きかな。

丁卯、以車騎大將軍、江州刺史の王弘を、為司徒、錄尚書事、揚州刺史。驃騎將軍、南徐州刺史で彭城王の劉義康を、改為荊州刺史、撫軍將軍。南豫州刺史で江夏王の劉義恭を、改為南徐州刺史。
己巳、以前護軍將軍の趙倫之を、為鎮軍將軍。
閏月丙戌、皇子劭生。

ここで生まれた劉劭に、劉義隆は殺される!親殺し!

二月乙卯、系囚見徒、一皆原赦。
戊午、以金紫光祿大夫王敬弘為尚書左僕射。豫章太守の鄭鮮之を、為尚書右僕射。建安太守の潘盛は、有罪伏誅。

また殺してしまった・・・

庚申、特進の範泰に、加光郤大夫。
是日、劉義隆の車駕が、京師を發した。
戊辰、到彥之檀道濟は、大破謝晦於隱磯。丙子、劉義隆の車駕は、自蕪湖反旆。己卯、謝晦を延頭で擒えて、送京師伏誅。

劉義隆は「親ら討つ」をやらない。車駕が移動するだけ。劉裕のときは、遠慮なく軍人としての働きを書いてた『宋書』だ。車駕の移動に、戦闘を象徴させてるわけじゃあるまい。文人皇帝だから、キャラが壊れることを怖れて戦わない?

三月辛巳、車駕還宮。
夏五月乙未、以征北將軍、南兗州刺史の檀道濟を、為征南大將軍、江州刺史。中領軍の到彦之を、為南豫州刺史。戊戌、以後將軍で長沙王の劉義欣を、為南兗州刺史。
乙巳、驃騎大將軍、涼州牧の大沮渠蒙遜を、改為車騎大將軍。
詔に曰く、
「夫哲王宰世、廣達四聰、猶巡岳省方、采風觀政。所以情偽必審、幽遐罔滯、王澤無擁、九皋有聞者也。朕以寡薄、猥纂洪緒。雖永念治道、志存昧旦、願言傅岩、發想宵寐、而丘園之秀、藏器未臻、物情民隱、尚隔視聽。乃眷區域、輟寐忘餐。今氛昆祛蕩、宇內甯晏、旌賢弘化、於是乎始。可遣大使巡行四方。其宰守稱職之良、閨蓽一介之善、詳悉列奏、勿或有遺。若刑獄不恤、政治乖謬、傷民害教者、具以事聞。其高年、鰥寡、幼孤、六疾不能自存者、可與郡縣優量賑給。博采輿誦、廣納嘉謀、務盡銜命之旨、俾若朕親覽焉。」

斬新な政策はない。いわゆる善政をやる心構えを謳っただけ。臣下のなかで邪魔者を排除したから、あとは本腰を入れますよー!と。

丙午、劉義隆の車駕は延賢堂に臨み、訴訟を聴いた。
六月己未、以鎮軍將軍の趙倫之為左光祿大夫、領軍將軍。
丙寅、車駕はふたたび於延賢堂聽訟。丙子、又聽訟。以右衛の王華を、為中護軍。
冬十一月戊寅、以梁、南秦二州刺史の吉翰を、為益州刺史。驃騎參軍の劉道產を、為梁、南秦二州刺史。己亥、以南蠻校尉の劉遵考を、為雍州刺史。
十二月癸丑、以中書侍郎の蕭思話を、為青州刺史。壬戌、前吳郡太守の徐佩之が謀反し、及黨與皆伏誅。

ちょっと考察

文帝(劉義隆)初期の朝廷では、臣下の殺し合いが多い。少帝を殺した人たちが、功の大きさを競っている。
いちど手荒なことをしたら、どれだけ完璧な勝利をしたつもりでも、余生を平穏に過ごせない。手荒な風潮はクセになるようです。
そもそも初代・劉裕は、露骨な反対者の掃討をやったからね。この王朝の人は、みんなそうなんだ。

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