-後漢 > 『資治通鑑』和訳/巻12 前199年-前188年

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高帝八~十二年(前199~195年)

高帝八年(前199年)冬・春

冬,上東擊韓王信餘寇於東垣,過柏人。貫高等壁人於廁中,欲以要上。上欲宿,心動,問曰:「縣名為何?」曰:「柏人。」上曰:「柏人者,迫於人也。」遂不宿而去。十二月,帝行自東垣至。

冬、高帝は東して韓王信の餘寇を東垣(真定国)で撃ち、柏人を過ぎる。貫高らの壁人は廁中で、高帝を襲撃しようと待ち構える。
高帝は宿そうと思うが、心が動き、「この県はなんという名だ」と問う。「柏人です」。高帝「柏人とは『人に迫る』だ(暗殺されるかも知れない)」。ついに宿せず去る。12月、高帝は自ら東垣に至る。

春,三月,行如洛陽。
令賈人毋得衣錦、繡、綺、縠、絺、紵、罽,操兵、乘、騎馬。

春3月,洛陽にゆく。
賈人(商人)に、衣錦、繡、綺、縠、絺、紵、罽,操兵、乘、騎馬を得させない。

高帝八年(前199年)秋

秋,九月,行自洛陽至;淮南王、梁王、趙王、楚王皆從。

秋9月、高帝が洛陽に至る。淮南王・梁王・趙王・楚王が、みな従う。

匈奴冒頓數苦北邊。上患之,問劉敬,劉敬曰:「天下初定,士卒罷於兵,未可以武服也。冒頓殺父代立,妻群母,以力為威,未可以仁義說也。獨可以計久遠,子孫為臣耳;然恐陛下不能為。」上曰:「奈何?」對曰:「陛下誠能以適長公主妻之,厚奉遺之,彼必慕,以為閼氏,生子,必為太子。陛下以歲時漢所餘,彼所鮮,數問遺,因使辨士風諭以禮節。冒頓在,固為子婿;死,則外孫為單于;豈嘗聞外孫敢與大父抗禮者哉!可無戰以漸臣也。若陛下不能遣長公主,而令宗室及後宮詐稱公主,彼知,不肯貴近,無益也。」帝曰:「善!」欲遣長公主。呂後日夜泣曰:「妾唯太子、一女,奈何棄之匈奴!」上竟不能遣。

匈奴の冒頓は、しばしば北辺を苦しめる。高帝は患い、劉敬に問う。
劉敬「天下が初めて定まり、士卒は兵事に疲れる。まだ匈奴を武力で服せしめられない。冒頓は父を殺して立ち、群母を妻とし(父の妻たちを妻とし)力で威をなす。仁義では説けない。久遠を計り(冒頓の)子孫を漢臣にする方法がある。しかしきっと陛下は実行できない」
高帝「どんな?」。劉敬「長公主を単于の妻とすれば、きっと閼氏(皇后)となって単于の太子を生む。太子が単于となれば、単于が高帝の外孫となる。もし(長公主ではなく)宗室や後宮の女で代用すれば失敗する」。
高帝は同意したが、呂后に泣かれて諦めた。「私の子は、太子(のちの恵帝)と、ひとりの娘(長公主)しかいないのに、なぜ匈奴に棄てるのですか」

高帝九年(前198年)冬

冬,上取家人子名為長公主,以妻單于;使劉敬往結和親約。

冬、高帝は家人の子をもらって「長公主」と名づけ、単于の妻とする。劉敬をゆかせ、和親の約を結ばせる。

長公主でなければ失敗するといった劉敬その人に、代理をつれて外交交渉に行かせる。高帝はひどいな。


劉敬從匈奴來,因言:「匈奴河南白羊、樓煩王,去長安近者七百里,輕騎一日一夜可以至秦中。秦中新破,少民,地肥饒,可益實。夫諸侯初起時,非齊諸田、楚昭、屈、景莫能興。今陛下雖都關中,實少民,東有六國之強族,一日有變,陛下亦未得高枕而臥也。臣願陛下徙六國後及豪桀、名家居關中,無事可以備胡,諸侯有變,亦足率以東伐。此強本弱末之術也。」上曰:「善!」十一月,徙齊、楚大族昭氏、屈氏、景氏、懷氏、田氏五族及豪桀於關中,與利田、宅,凡十餘萬口。

劉敬は匈奴から帰ってきて、高帝にいう。
「匈奴である河南の白羊・樓煩王は、長安から近いもので7百里。軽騎が1日1夜で、秦中に至ることができる。秦中は新たに破れ(秦末の戦いで疲弊し)民は少なく、地は肥饒で、実りも増えてる。諸侯がはじめて(秦に対して)起兵したとき、斉には、諸田(田氏の諸家)、楚の昭氏・屈氏・景氏は興れなかった(兵を挙げて戦闘に参加できなかった)。いま陛下が関中に都するが、実は民が少ない。東に六国の強族がいて、一日に変あれば(匈奴が秦地を軽騎で攻めれば)陛下は枕を高くして眠れない。戦国六国の子孫および豪傑・名家を、関中に移住させ、胡族に備えろ。諸侯に変があれば(豪傑・名家の力をつかって)東伐できる。これが本を強くし末を弱くするの術です」。高帝「善し」

張良が引退して、名臣をたくさん殺してから、劉敬の働きは極めて大きい。長安に遷都するところからデビューし、まだまだ活躍する。

11月、斉・楚の大族である昭氏・屈氏・景氏・懷氏・田氏の5族および豪桀を関中に徙して、利田・宅を与えた。凡そ10餘萬口。

十二月,上行如洛陽。
貫高怨家知其謀,上變告之。於是上逮捕趙王及諸反者。趙午等十餘人皆爭自剄,貫高獨怒罵曰:「誰令公為之?今王實無謀,而並捕王。公等皆死,誰白王不反者?」乃轞車膠致,與王詣長安。高對獄曰:「獨吾屬為之,王實不知。」吏治,搒笞數千,刺剟,身無可擊者,終不復言。呂後數言:「張王以公主故,不宜有此。」上怒曰:「使張敖據天下,豈少而女乎!」不聽。

12月、上行如洛陽。
貫高を怨む家のものが、その謀(高帝の殺害)を知り、高帝に告げた。ここにおいて、趙王および諸々の反する者を逮捕した。趙午ら10餘人は、みな争って自剄し、貫高だけが怒り罵った。「だれがあなたたちをそうさせた(なぜ趙午らは自殺するのだ)。まことに趙王は謀なく(高帝の暗殺計画に関与していないが)王は捕らわれた。あなたたちが皆で死ねば、だれが趙王のために弁明するのだ」。乃ち轞車を密閉して、王とともに長安にいたる。貫高は獄吏にこたえた。「私だけが考えた暗殺計画であり、趙王は知らない」。獄吏は治め、笞うつこと數千、刺剟(とがった鉄で刺した)。身体じゅうに撃たない部位はないが、ついに復た(これ以上のことは)言わず。呂后はしばしばいう。「張敖は公主の夫だから、罰を与えるな」。高帝は怒ってゆるさず。

廷尉以貫高事辭聞。上曰:「壯士!誰知者?以私問之。」中大夫洩公曰:「臣之邑子,素知之,此固趙國立義不侵,為然諾者也。」上使洩公持節往問之箯輿前。洩公與相勞苦,如生平歡,因問:「張王果有計謀不?」高曰:「人情寧不各愛其父母、妻子乎?今吾三族皆以論死,豈愛王過於吾親哉?顧為王實不反,獨吾等為之。」具道本指所以為者、王不知狀。於是洩公入,具以報上。春,正月,上赦趙王敖,廢為宣平侯,徒代王如意為趙王。

貫高がねばり、趙王の張敖が暗殺計画を知らないことを証明できた。春正月、張敖を赦して、趙王を廃して宣平侯とし、代王の如意を趙王とした。

上賢貫高為人,使洩公具告之曰:「張王已出。」因赦貫高。貫高喜曰:「吾王審出乎?」洩公曰:「然。」洩公曰:「上多足下,故赦足下。」貫高曰:「所以不死,一身無餘者,白張王不反也。今王已出,吾責已塞,死不恨矣。且人臣有篡弒之名,何面目復事上哉!縱上不殺我,我不愧於心乎!」乃仰絕亢,遂死。

張敖の無事を確かめると、貫高は自殺した。

貫高はすぐれた趙臣だなあ!という話でした。張敖が、高帝の姻族だから、どのように扱うかがむずかしい


詔:「丙寅前有罪,殊死已下,皆赦之。」 二月,行自洛陽至。
初,上詔:「趙群臣賓客敢從張王者,皆族。」郎中田叔、客孟舒皆處髡鉗為王家奴以從。及張敖既免,上賢田叔、孟舒等。召見,與語,漢廷臣無能出其右者。上盡拜為郡守、諸侯相。

詔した。「丙寅より前に罪ある者は、殊死より已下は、みな赦す」
2月、洛陽に至る。
はじめ詔した。「趙の群臣・賓客で、あえて張敖に従うものは、みな族殺せよ」。郎中の田叔・客の孟舒らは、髡鉗に処せられ王家の奴として従った。張敖が免じられると、高帝は田叔・孟舒らを賢と評価した。召して見え、ともに語ると、漢の廷臣に彼らより優れた人材がいない。高帝は2人を郡守・諸侯相とした。

夏,六月,乙未晦,日有食之。
是歲,更以丞相何為相國。

夏6月、乙未晦、日食あり。
この歳、丞相の蕭何を相國とする。150809


高帝十年(前197年)

夏,五月,太上皇崩於櫟陽宮。秋,七月,癸卯,葬太上皇於萬年。楚王、梁王皆來送葬。赦櫟陽囚。
定陶戚姬有寵於上,生趙王如意。上以太子仁弱,謂如意類己;雖封為趙王,常留之長安。上之關東,戚姬常從,日夜啼泣,欲立其子。呂後年長,常留守,益疏。上欲廢太子而立趙王,大臣爭之,皆莫能得。御史大夫周昌廷爭之強,上問其說。昌為人吃,又盛怒,曰:「臣口不能言,然臣期期知其不可!陛下欲廢太子,臣期期不奉詔!」上欣然而笑。呂後側耳於東廂聽,既罷,見昌,為跪謝,曰:「微君,太子幾廢!」

夏5月、太上皇が櫟陽宮で崩じた。秋7月の癸卯、太上皇を萬年に葬る。楚王・梁王は、送葬した。櫟陽の囚を赦した。
定陶の戚姬は、高帝に寵愛されて、趙王の如意を生む。太子が仁弱であり、如意こそ己に似てると思った。趙王に封じたが、つねに長安に留めた。高帝が関東にゆくと、戚姬が常に従い、日夜に啼泣して、如意を太子に立ててくれと哀願した。呂后は年長で、つねに留守で、ますます疎遠となる。高帝は太子を代えたいが、大臣が論争して実現せず。
御史大夫の周昌が、太子の交替に強く反対するから、高帝はその言説をきく。周昌は吃音があるが、盛んに怒り、「臣の口はうまく言えないが、ダメなことは、ダダダ、ダメと知る。陛下が太子を廃するなら、私はミミミミ、詔を奉じない」と。高帝は欣然として笑う。呂后は東廂聽で聞いており、周昌に跪いて謝した。「あなたがいないと、太子は廃されただろう」

時趙王年十歲,上憂萬歲之後不全也;符璽御史趙堯請為趙王置貴強相,及呂後、太子、群臣素所敬憚者。上曰:「誰可者?」堯曰:「御史大夫昌,其人也。」上乃以昌相趙,而以堯代昌為御史大夫。

ときに趙王は年10歳、高帝は将来のこと(呂后に殺されること)を心配した。符璽御史の趙堯は、趙王のために(呂后から襲われたときに如意を救ってくれるような)貴強の相を置くように請うた。呂后・太子・郡臣が、敬憚するものが(国相になると)いい。高帝「だれがいい」。趙堯「御史大夫の周昌がその人材です」。高帝は周昌を趙国に相とした。趙堯を周昌に代えて御史大夫とした。

初,上以陽夏侯陳豨為相國,監趙、代邊兵;豨過辭淮陰侯。淮陰侯挈其手,辟左右,與之步於庭,仰天歎曰:「子可與言乎?」豨曰:「唯將軍令之!」淮陰侯曰:「公之所居,天下精兵處也;而公,陛下之信幸臣也。人言公之畔,陛下必不信;再至,陛下乃疑矣;三至,必怒而自將。吾為公從中起,天下可圖也。」陳豨素知其能也,信之,曰:「謹奉教!」

はじめ高帝は、陽夏侯の陳豨相國として、趙・代の邊兵を監させた。陳豨は、淮南侯(韓信)のところをとおり、挨拶した。韓信はその手を挈し、左右を辟し、ともに庭を歩き、天を仰いで歎じた。「話してもいいか」。陳豨「お好きなように」。韓信「陳豨の赴任地は、天下の精兵の処だ。陳豨が反したという人がおり、陛下は必ずしも1回だけ聞いても信じないが、2回で疑い、3回で怒って自らひきいる(陳豨の討伐に向かう)だろう。私はあなたに従うから、ともに天下をねらわないか」。
陳豨は、韓信の有能さを知っていたから、これを信じて「謹みて教を奉らん」といった。

豨常慕魏無忌之養士,及為相守邊,告歸,過趙,賓客隨之者千餘乘,邯鄲官舍皆滿。趙相周昌求入見上,具言豨賓客甚盛,擅兵於外數歲,恐有變。上令人覆案豨客居代者諸不法事,多連引豨。豨恐,韓王信因使王黃、曼丘臣等說誘之。

陳豨は魏無忌(信陵君)を慕って(マネをして)士を養なった。辺境に帰任するとき、趙国を通り過ぎた。賓客で隨う者は千餘乘おり、(趙国の)邯鄲の官舍は、みな満員となり溢れた。趙相の周昌が「陳豨は、賓客がとてもおおく、辺境で兵をほしいままにして数年。変事を恐れる」とチクった。高帝は陳豨が、法令に違反したといい、長安にめした。陳豨は恐れた。
(匈奴に逃亡中の)韓王信が、王黄・曼丘臣らを送って、陳豨を(漢からの離反に)誘った。

太上皇崩,上使人召豨,豨稱病不至;九月,遂與王黃等反,自立為代王,劫略趙、代。上自東擊之。至邯鄲,喜曰:「豨不南據邯鄲而阻漳水,吾知其無能為矣。」
周昌奏:「常山二十五城,亡其二十城;請誅守、尉。」上曰:「守、尉反乎?」對曰:「不。」上曰:「是力不足,亡罪。」

太上皇が崩じると、高帝は人をやって陳豨を召す。陳豨は病といい(長安に)至らず。9月、ついに(韓王信の配下の)王黄らと反して、自立して代王となる。趙・代を劫略す。高帝は東して撃つ。邯鄲に至ると喜んだ。「陳豨は南して邯鄲に拠らず(趙国の軍に防がれて)漳水で阻まれた。陳豨が成功できないことが分かった」
(趙相の)周昌が奏した。「常山に25城あり、その20城を亡った。守・尉を誅せんことを誅ふ」。高帝「守・尉は、反けるや」。周昌「いいえ」。高帝「力が不足しただけで、罪はない」。

秦だったら、破れただけで死刑だった。胡三省は何もいってないが、ここは秦と漢を対比すべき、おもしろいところ。


上令周昌選趙壯士可令將者,白見四人。上嫚罵曰:「豎子能為將乎?」四人慚,皆伏地;上封各千戶,以為將。左右諫曰;「從入蜀、漢,伐楚,賞未遍行;今封此,何功?」上曰:「非汝所知。陳豨反,趙、代地皆豨有。吾以羽檄征天下兵,未有至者,今計唯獨邯鄲中兵耳。吾何愛四千戶,不以慰趙子弟!」皆曰:「善!」
又聞豨將皆故賈人,上曰:「吾知所以與之矣。」乃多以金購豨將,豨將多降。

高帝は、周昌に趙の壮士のうち將が務まるものを選ばせ、4人と会う。高帝は嫚罵した。「豎子に将が務まるのかな」。4人は慚じ、みな地に伏した。4人に千戸ずつを封じ、将とした。左右が諌めた。「統一戦争の論功行賞もまだ完全ではない。いま4人を封じたのは何の功か」。高帝「お前には分からん。陳豨が反して、趙・代の地は、みな陳豨のもの。羽檄で天下の兵を征したが、まだ到着しない。いま漢軍とは、邯鄲のなかの兵(趙兵)のみ。なぜ4千十を惜しみ、趙の子弟を慰めないことがあろうか」

きわめて利己的な理由から、封じたのでした。

また陳豨の將が、もと商人と聞き、高帝は金品で買収した。おおくの陳豨の将が、金品につられて漢に降った。

高帝十一年(前196年)

冬,上在邯鄲。陳豨將侯敞將萬餘人遊行,王黃將騎千餘軍曲逆,張春將卒萬餘人渡河攻聊城。漢將軍郭蒙與齊將擊,大破之。太尉周勃道太原入定代地,至馬邑,不下,攻殘之。趙利守東垣,帝攻拔之,更命曰真定。帝購王黃、曼丘臣以千金,其麾下皆生致之。於是陳豨軍遂敗。

冬、高帝は邯鄲にいる。太尉の周勃は、太原から代地に入って定め、馬邑に至って、攻殘する。趙利は東垣を守るが、高帝はこれを抜いて「真定」と改名した。帝は、(韓王信の部下の)王黄・曼丘臣を千金で購い、麾下が生きたまま差し出した。陳豨の軍は敗れた。

淮陰侯信稱病,不從擊豨,陰使人至豨所,與通謀。信謀與家臣夜詐詔赦諸官徒、奴,欲發以襲呂後、太子;部署已定,待豨報。其舍人得罪於信,信囚,欲殺之。春,正月,舍人弟上變,告信欲反狀於呂後。呂後欲召,恐其儻不就,乃與蕭相國謀,詐令人從上所來,言豨已得,死,列侯、群臣皆賀。相國紿信曰:「雖疾,強入賀。」信入,呂後使武士縛信,斬之長樂鐘室。信方斬,曰:「吾悔不用蒯徹之計,乃為兒女子所詐,豈非天哉!」遂夷信三族。

韓信は病と称して、陳豨を撃つのに従わず、ひそかに陳豨に通謀した。(代地の陳豨から連絡があれば、呼応して長安で)韓信が、呂后・太子を捕らえる計画である。ところが陳豨は破れた。列侯・郡臣は、陳豨の敗北を祝賀した。
相国の蕭何は、韓信に「病でも入朝して祝賀せよ」といった。韓信は、出てきたところを捕らわれた。「蒯徹の計を用いて(漢王・項王と鼎立しておけばなあ)」と。韓信は夷三族。

將軍柴武斬韓王信於參合。
上還洛陽,聞淮陰侯之死,且喜且憐之,問呂後曰:「信死亦何言?」呂後曰:「信言恨不用蒯徹計。」上曰:「是齊辯士蒯徹也。」乃詔齊捕蒯徹。蒯徹至,上曰:「若教淮陰侯反乎?」對曰:「然,臣固教之。豎子不用臣之策,故令自夷於此;如用臣之計,陛下安得而夷之乎!」上怒曰;「烹之!」徹曰:「嗟乎!冤哉烹也!」上曰:「君教韓信反,何冤?」對曰:「秦失其鹿,天下共逐之,高材疾足者先得焉。跖之狗吠堯,堯非不仁,狗固吠非其主。當是時,臣唯獨知韓信,非知陛下也。且天下銳精持鋒欲為陛下所為者甚眾,顧力不能耳,又可盡烹之邪?」上曰:「置之。」

将軍の紫武が、韓王信を参合(代郡)で斬る。
高帝は洛陽に還り、韓信の死を知る。且つ喜び且つ憐れみ、呂后に問う。「韓信は何か言わなかったか」。呂后「蒯徹の計を用いればよかった」。高帝「斉の弁士の蒯徹だな」。
蒯徹を捕らえた。蒯徹「韓信がオレの策を用いていればなあ」。高帝「烹ろ」。蒯徹「冤罪で烹られるとは」。高帝「きみは韓信に向けて(オレに)背くことを教えた。どうして冤罪か」。蒯徹「秦末の混乱を収められるのは、陛下ではなく韓信だと思ったのだ」。高帝「赦す」

立子恆為代王,都晉陽。
大赦天下。

子の劉恒を大王として、晋陽に都せしむ。大赦。

上之擊陳豨也,徵兵於梁;梁王稱病,使將將兵詣邯鄲。上怒,使人讓之。梁王恐,欲自往謝。其將扈輒曰:「王始不往,見讓而往,往則為禽矣。不如遂發兵反。」梁王不聽。梁太僕得罪,亡走漢,告梁王與扈輒謀反。於是上使使掩梁王,梁王不覺,遂囚之洛陽。有司治「反形已具,請論如法」,上赦以為庶人,傳處蜀青衣。西至鄭,逢呂後從長安來。彭王為呂後泣涕,自言無罪,願處故昌邑。呂後許諾,與俱東。至洛陽,呂後白上曰:「彭王壯士,今徙之蜀,此自遺患;不如遂誅之。妾謹與俱來。」於是呂後乃令其舍人告彭越復謀反。廷尉王恬關奏請族之,上可其奏。三月,夷越三族。梟越首洛陽,下詔:「有收視者,輒捕之。」

陳豨が反したとき、梁王の彭越は、高帝に召集されても駆けつけない。3月、夷三族された。彭越の首をさらして、「首を収容にきたら、捕らえる」と詔す。

梁大夫欒布使於齊,還,奏事越頭下,祠而哭之。吏捕以聞。上召布,罵,欲烹之。方提趨湯,布顧曰:「願一言而死。」上曰:「何言?」布曰:「方上之困於彭城,敗滎陽、成皋間,項王所以遂不能西者,徒以彭王居梁地,與漢合從苦楚也。當是之時,王一顧,與楚則漢破,與漢則楚破。且垓下之會,微彭王,項氏不亡。天下已定,彭王剖符受封,亦欲傳之萬世。今陛下一徵兵於梁,彭王病不行。而陛下疑以為反;反形未具,以苛小案誅滅之。臣恐功臣人人自危也。今彭王已死,臣生不如死,請就烹。」於是上乃釋布罪,拜為都尉。

梁の大夫である欒布は、彭越の首を回収したが、ゆるされた。

段落2つ、彭越の最期について。よくある話にまとまってます。韓信と彭越が、ほぼ同時期に殺されているというのがおもしろい。『漢書』と『史記』で混乱が見られ、胡三省がいろいろ注釈してはいるが。


丙午,立皇子恢為梁王。丙寅,立皇子友為淮陽王。罷東郡,頗益梁;罷穎川郡,頗益淮陽。
夏,四月,行自洛陽至。
五月,詔立秦南海尉趙佗為南粵王,使陸賈即授璽綬,與剖符通使,使和集百越,無為南邊患害。

丙午(彭越の跡地において)皇子の留恢を梁王にした。丙寅、劉友を淮陽王にした。東郡を罷めて梁にあわせる。穎川郡を罷めて、淮陽にあわせる。
夏4月、洛陽に至る。
5月、詔して秦の南海尉の趙佗を南粵王にした。陸賈をして即ち璽綬を授けしめ、剖符を与え使を通じ、百越を和集せしめ、南邊の為に患害を無からしむ。

◆趙佗と陸賈のこと

初,秦二世時,南海尉任囂病且死。召龍川令趙佗,語曰:「秦為無道,天下苦之。聞陳勝等作亂,天下未知所安。南海僻遠,吾恐盜兵侵地至此,欲興兵絕新道自備,待諸侯變;會病甚。且番禺負山險,阻南海,東西數千里,頗有中國人相輔;此亦一州之主也,可以立國。郡中長吏,無足與言者,故召公告之。」即被佗書,行南海尉事。囂死,佗即移檄告橫浦、陽山、湟谿關曰:「盜兵且至,急絕道,聚兵自守!」因稍以法誅秦所置長吏,以其黨為假守。秦已破滅,佗即擊並桂林、象郡,自立為南越武王。
陸生至,尉佗魋結、箕倨見陸生。陸生說佗曰:「足下中國人,親戚、昆弟、墳墓在真定。今足下反天性,棄冠帶,欲以區區之越與天子抗衡為敵國,禍且及身矣!且夫秦失其政,諸族、豪桀並起,唯漢王先入關,據咸陽。項羽倍約,自立為西楚霸王,諸侯皆屬,可謂至強。然漢王起巴、蜀,鞭笞天下,遂誅項羽,滅之。五年之間,海內平定。此非人力,天之所建也。天子聞君王王南越,不助天下誅暴逆,將相欲移兵而誅王。天子憐百姓新勞苦,故且休之,遣臣授君王印,剖符通使。君王宜郊迎,北面稱臣;乃欲以新造未集之越,屈強於此!漢誠聞之,掘燒王先人塚,夷滅宗族,使一偏將將十萬眾臨越,則越殺王降漢如反覆手耳!」於是尉佗乃蹶然起坐,謝陸生曰:「居蠻夷中久,殊失禮義!」因問陸生曰:「我孰與蕭何、曹參、韓信賢?」陸生曰:「王似賢也。」復曰:「我孰與皇帝賢?」陸生曰:「皇帝繼五帝、三皇之業,統理中國;中國之人以億計,地方萬里,萬物殷富;政由一家,自天地剖判未始有也。今王眾不過十萬,皆蠻夷,崎嶇山海間,譬若漢一郡耳,何乃比於漢!」尉佗大笑曰:「吾不起中國,故王此;使我居中國,何遽不若漢!」乃留陸生與飲。數月,曰:「越中無足與語。至生來,令我日聞所不聞。」賜陸生橐中裝直千金,他送亦千金。陸生卒拜尉佗為南越王,令稱臣,奉漢約。歸報,帝大悅,拜賈為太中大夫。


陸生時時前說稱《詩》、《書》,帝罵之曰:「乃公居馬上而得之,安事《詩》、《書》!」陸生曰:「居馬上得之,寧可以馬上治之乎?且湯、武逆取而以順守之;文武並用,長久之術也。昔者吳王夫差、智伯、秦始皇,皆以極武而亡。鄉使秦已並天下,行仁義,法先聖,陛下安得而有之!」帝有慚色,曰:「試為我著秦所以失天下、吾所以得之者及古成敗之國。」陸生乃粗述存亡之征,凡著十二篇。每奏一篇,帝未嘗不稱善,左右呼萬歲;號其書曰《新語》。

まえに陸賈は、『詩』『書』が重要だと説いた。高帝は罵る。「馬上で天下を取ったのだ。どうして『詩』『書』を重視するものか」。陸賈「馬上で天下を取っても、馬上で天下を治められるか。文武を併用せよ。始皇帝は武ばかり使って滅びた」。高帝は慚色あり。陸賈が存亡の征を粗述し、12篇を著す(楚漢春秋)。1篇ができるごとに、高帝は称賛して、『新語』といった。

帝有疾,惡見人,臥禁中,詔戶者無得入群臣,群臣絳、灌等莫敢入,十餘日。舞陽侯樊噲排闥直入,大臣隨之。上獨枕一宦者臥。噲等見上,流涕曰:「始陛下與臣等起豐、沛,定天下,何其壯也!今天下已定,又何憊也!且陛下病甚,大臣震恐;不見臣等計事,顧獨與一宦者絕乎?且陛下獨不見趙高之事乎?」帝笑而起。

高帝が病気になり、人を近づけないので、樊噲が「始皇帝と同じだ。趙高のことを忘れたか」という。高帝は笑って起きた。

◆鯨布の反乱

秋,七月,淮南王布反。
初,淮陰侯死,布已心恐。及彭越誅,醢其肉以賜諸侯。使者至淮南,淮南王方獵,見醢,因大恐,陰令人部聚兵,候伺旁郡警急。布所幸姬病就醫,醫家與中大夫賁赫對門,赫乃厚饋遺,從姬飲醫家;王疑其與亂,欲捕赫。赫乘傳詣長安上變,言:「布謀反有端,可先未發誅也。」上讀其書,語蕭相國,相國曰:「布不宜有此,恐仇怨妄誣之。請系赫,使人微驗淮南王。」淮南王布見赫以罪亡上變,固已疑其言國陰事;漢使又來,頗有所驗;遂族赫家,發兵反。反書聞,上乃赦賁赫,以為將軍。
上召諸將問計,皆曰:「發兵擊之,坑豎子耳,何能為乎!」汝陰侯滕公召故楚令尹薛公問之。令尹曰:「是固當反。」滕公曰:「上裂地而封之,疏爵而王之;其反何也?」令尹曰:「往年殺彭越,前年殺韓信;此三人者,同功一體之人也,自疑禍及身,故反耳。」滕公言之上,上乃召見,問薛公,薛公對曰:「布反不足怪也。使布出於上計,山東非漢之有也;出於中計,勝敗之數未可知也;出於下計,陛下安枕而臥矣。」上曰:「何謂上計?」對曰:「東取吳,西取楚,並齊,取魯,傳檄燕、趙,固守其所,山東非漢之有也。」「何謂中計?」「東取吳,西取楚,並韓,取魏,據敖倉之粟,塞成皋之口,勝敗之數未可行也。」「何謂下計?」「東取吳,西取下蔡,歸重於越,身歸長沙,陛下安枕而臥,漢無事矣。」上曰:「是計將安出?」對曰:「出下計。」上曰:「何謂廢上、中計而出下計?」對曰:「布,故麗山之徒也,自致萬乘之主,此皆為身,不顧後、為百姓萬世慮者也。故曰出下計。」上曰:「善!」封薛公千戶。乃立皇子長為淮南王。


◆太子に鯨布を撃たせるか

是時,上有疾,欲使太子往擊黥布。太子客東園公、綺里季、夏黃公、角里先生說建成侯呂釋之曰:「太子將兵,有功則位不益,無功則從此受禍矣。君何不急請呂後,承間為上泣言:『黥布,天下猛將也,善用兵。今諸將皆陛下故等夷,乃令太子將此屬,無異使羊將狼,莫肯為用;且使布聞之,則鼓行而西耳!上雖病,強載輜車,臥而護之,諸將不敢不盡力。上雖苦,為妻子自強!』」於是呂釋之立夜見呂後。呂後承間為上泣涕而言,如四人意。上曰:「吾惟豎子固不足遣,而公自行耳。」

このとき、高帝は病気なので、太子に鯨布を撃たせたい。太子の客の東園公・綺里季・夏黄公・角里先生は、建成侯の呂釈之に説く。「太子が兵をひきいれば、功績があっても位が上がらず、功績がないと(敗戦により)禍いを受ける。なぜ(呂后から高帝に)泣きつかせて(太子の出陣を)中止させなさいか。呂后は、『黥布は天下の猛將であり、用兵がうまい。諸将はみな陛下とともに戦ったもので、もし太子に諸将を指揮させたら、ヒツジがオオカミを率いるようなもの。鯨布がこれを聞けば(漢軍を破るチャンスなので)鼓を打って西に進んでくる。寝ながらでもいいから、高帝に諸将を率いさせろ』と泣きつけ」と。
呂釈之は立ちどころに夜に呂后にあい、呂后が高帝に泣きつく。

この事情について、胡三省が299頁に注釈がおおい。というか、呂釈之にこの話をした4人の姓名は何なんだ、というのも検討の対象。

高帝「豎子には務まらんと思っていた。公けに自ら行こう」

於是上自將兵而東,群臣居守,皆送至霸上。留侯病,自強起,至曲郵,見上曰:「臣宜從,病甚。楚人剽疾,願上無與爭鋒!」因說上令太子為將軍,監關中兵。上曰:「子房雖病,強臥而傅太子。」是時,叔孫通為太傅,留侯行少傅事。發上郡、北地、隴西車騎、巴蜀材官及中尉卒三萬人為皇太子衛,軍霸上。

ここにおいて高帝は、みずから兵をひきいて東し、群臣は居守す。みな送って霸上に至る。留侯(張良)は病だが、むりに起きて曲郵(長安の東、新豊の西)に至り、高帝にあう。
「私は従うべきですが、病気がひどい。楚人は剽疾なので、高帝は爭鋒しないでね」。張良は高帝にすすめ、太子を将軍に任じて、關中の兵を監させる。高帝「子房は病だが、臥を強して太子の面倒をみてくれ」と。このとき叔孫通は太傅となり、張良は少傅事を行す。上郡・北地・隴西から車騎を発し、巴蜀の材官および中尉卒の三萬人を、皇太子の護衛として、覇上に軍する。

布之初反,謂其將曰:「上老矣,厭兵,必不能來。使諸將,諸將獨患淮陰、彭越,今皆已死,餘不足畏也。」故遂反。果如薛公之言,東擊荊。荊王賈走死富陵;盡劫其兵,渡淮擊楚。楚發兵與戰徐、僮間。為三軍,欲以相救為奇。或說楚將曰:「布善用兵,民素畏之。且兵法:『諸侯自戰其地為散地』,今別為三,彼敗吾一軍,餘皆走,安能相救!」不聽。布果破其一軍,其二軍散走;布遂引兵而西。

鯨布が反した当初、諸将にいう。「高帝は老い、兵事に厭い、きっと来られない。諸将を使わすだろうが、諸将のうちで脅威だったのは、淮陰(韓信)・彭越だけ。2人とも死んでおり、残りは畏れるに足らない」と。ゆえに鯨布は反した。
はたして薛公の言うとおり、東して荊を撃つ。荊王の劉賈は、逃げて富陵(臨淮郡)で死ぬ。鯨布は、淮水を渡って楚を撃つ。楚は兵を発して、徐県・僮県(ともに臨淮郡)の間で戦う。三軍をつくり、たがいに救いながら奇をなす(という戦法である)。
あるひとが楚将にいう。「鯨布は用兵がうまく、民が畏れる。兵法に『諸侯 自らその地で戦はば(遠征軍と違って、自領内のため逃げ場があり)地に散ずることと為る』という。いま自軍は3つに分けたが、もし1軍が敗れたら、のこり2つも逃げる。互いに救うなんてムリ」と。楚王はゆるさず。果たして鯨布に1軍を破られると、のこり2軍は散走した。鯨布は、西にすすむ。

高帝十二年(前195年)

冬,十月,上與布兵遇於蘄西,布兵精甚。上壁庸城,望布軍置陳如項籍軍,上惡之。與布相望見,遙謂布曰:「何苦而反?」布曰:「欲為帝耳!」上怒罵之,遂大戰。布軍敗走,渡淮,數止戰,不利,與百餘人走江南,上令別將追之。
上還,過沛,留,置酒沛宮,悉召故人、父老、諸母、子弟佐酒,道舊故為笑樂。酒酣,上自為歌,起舞,慷慨傷懷,泣數行下,謂沛父兄曰:「遊子悲故鄉。朕自沛公以誅暴逆,遂有天下;其以沛為朕湯沐邑,復其民,世世無有所與。」樂飲十餘日,乃去。

冬10月、高帝と鯨布は、蘄西(沛郡)でぶつかった。鯨布の兵は精甚である。高帝は庸城に壁し、

胡三省はいう。鯨布の軍の勢いが強いので、庸城の堅壁により、勢いを挫こうとした。

鯨布の軍の布陣が、項羽軍に似ているので、高帝はこれをにくむ。鯨布と望見しあい、はるかに鯨布にいう。
高帝「何がいやで反したのか」。鯨布「皇帝になりたいんだよ」。高帝は怒り罵って、大いに戦った。鯨布は敗走して、淮水をわたり、しばしば止まって戦うが勝てない。1百余人と江南ににげた。高帝は別将に追わせた。
高帝は還り、沛を過ぎて留まり、沛宮で置酒して、悉く故人・父老・諸母・子弟を召して、酒をのんで昔話をして楽しんだ。酒が酣となり、高帝は歌い、起舞した。傷懷を慷慨し、涙の数行が下り、沛の父兄にいう。
「遊子は故郷を悲しむ(念ふ)。朕は沛公から始めて暴逆を誅し、遂に天下を有てり。沛を朕の湯沐の邑として、その民に復す(租税を免除する)」と。楽飲すること十餘日、乃ち去る。

漢別將擊英布軍洮水南、北,皆大破之。布故與番君婚,以故長沙成王臣使人誘布,偽欲與亡走越,布信而隨之。番陽人殺布茲鄉民田舍。
周勃悉定代郡、雁門、雲中地,斬陳豨於當城。
上以荊王賈無後,更以荊為吳國。辛丑,立兄仲之子濞為吳王,王三郡、五十三城。 十一月,上過魯,以太牢祠孔子。

漢の別將は、英布の軍を洮水の南・北で撃ち、すべてを大破した。英布は番君と婚姻している。もと長沙成王の臣は、人をやって英布を誘い、偽って「ともに越に逃げよう」と誘う。英布が信じて従った。番陽のひとが英布を茲郷(豫章郡、番陽の境)の民の田舍で殺した。
周勃は、ことごとく代郡・雁門・雲中の地を定め、陳豨を當城で斬る。
高帝は、荊王の賈に子孫がないから、荊を「呉国」とした。辛丑、兄の仲の子である劉濞を、呉王とした。3郡・53城に王たり。

呉楚七国の乱の張本である。

11月、高帝は魯を過ぎ、太牢を孔子に祠る。

上從破黥布歸,疾益甚,愈欲易太子。張良諫不聽,因疾不視事。叔孫通諫曰:「昔者晉獻公以驪姬之故,廢太子,立奚齊,晉國亂者數十年,為天下笑。秦以不蚤定扶蘇,令趙高得以詐立胡亥,自使滅祀,此陛下所親見。今太子仁孝,天下皆聞之。呂後與陛下攻苦食淡,其可背哉!陛下必欲廢適而立少,臣願先伏誅,以頸血污地!」帝曰:「公罷矣,吾直戲耳!」叔孫通曰:「太子,天下本,本一搖,天下振動;奈何以天下為戲乎!」時大臣固爭者多;上知群臣心皆不附趙王,乃止不立。

高帝は、鯨布を破って帰ってから、ますます病気がひどい。太子を変えたい。張良が諌めて赦さないが、(張良の病気のため)政事を看ない。叔孫通が諌めた。
叔孫通「晋献公は太子を廃して乱れた。秦は趙高が胡亥を立てて滅びた。太子は仁孝であり、(太子の母の)呂后は陛下とともに苦労してきた。廃太子はダメ」
高帝「戯れに言っただけ」。叔孫通「太子のことで戯れると、天下が振動する(軽口でも禁止)」。大臣の反対者が多く、郡臣の心が趙王(如意;高帝のお気に入り)にないから、太子を代えず。

相國何以長安地狹,上林中多空地,棄;願令民得入田,毋收蒿,為禽獸食。上大怒曰:「相國多受賈人財物,乃為請吾苑!」下相國廷尉,械系之。數日,王衛尉侍,前問曰:「相國何大罪,陛下系之暴也?」上曰:「吾聞李斯相秦皇帝,有善歸主,有惡自與。今相國多受賈豎金,而為之請吾苑以媚於民,故系治之。」王衛尉曰:「夫職事苟有便於民而請之,真宰相事;陛下奈何乃疑相國受賈人錢乎?且陛下距楚數歲,陳豨、黥布反,陛下自將而往;當是時,相國守關中,關中搖足,則關以西非陛下有也!相國不以此時為利,今乃利賈人之金乎?且秦以不聞其過亡天下;李斯之分過,又何足法哉!陛下何疑宰相之淺也!」帝不懌。是日,使使持節赦出相國。相國年老,素恭謹,入,徒跣謝。帝曰:「相國休矣!相國為民請苑,吾不許,我不過為桀、紂王,而相國為賢相。吾故系相國,欲令百姓聞吾過也。」

相国の蕭何は、「長安の地が狭く、上林のなかに空地がおおいから、放棄して(自由に民が耕作できる)田地として、(この田地からの収穫には)税を取らずに禽獣に食わせろ」という。高帝は大怒して、蕭何を廷尉に下して拘束した。
数日後、王衛尉がきく。「蕭何どんな大罪があったのか」
高帝「李斯は秦始皇に仕えると、善事は始皇に帰して、悪事は自分に帰したそうだ。蕭何は、民間の商人からカネを受け取り(その見返りに)オレには土地を手放して民に媚びよという。(蕭何は、善事を自分に帰して、悪事をオレに帰そうとしている。李斯のほうが優れている)」
王衛尉「蕭何が民の利益を訴える理由は、彼が民間からカネを受けたからだと思いますか。項羽との数年の戦いや、鯨布・陳豨との戦いのとき、蕭何は関中を守りました。関西は陛下でなく蕭何のものでした。(私利を得ようと思えば、いくらでも得られた)当時は私利を求めず、いま商人からカネをもらうものですか。秦が滅びたのは李斯が分を過ぎたからであり、なぜ李斯を模範にして(蕭何を批判して)良いものか。陛下が蕭何を疑うとは、なんと浅はかな」
高帝は悦ばず。この日、使者に持節させ、蕭何を赦した。蕭何は裸足で謝った。
高帝「相国が民のために耕地をつくれと言ったが、オレは赦さなかった。オレは桀紂のような君主だが、相国は賢相である。だから相国を獄につなぎ、オレの過ちを百姓に聞かせてしまった

陳豨之反也,燕王綰發兵擊其東北。當是時,陳豨使王黃求救匈奴;燕王綰亦使其臣張勝於匈奴,言豨等軍破。張勝至胡,故燕王藏荼子衍出亡在胡,見張勝曰:「公所以重於燕者,以習胡事也;燕所以久存者,以諸侯數反,兵連不決也。今公為燕,欲急滅豨等;豨等已盡,次亦至燕,公等亦且為虜矣。公何不令燕且緩陳豨,而與胡和!事寬,得長王燕;即有漢急,可以安國。」張勝以為然,乃私令匈奴助豨等擊燕。燕王綰疑張勝與胡反,上書請族張勝。勝還,具道所以為者;燕王乃詐論他人,脫勝家屬,使得為匈奴間。而陰使范齊之陳豨所,欲令久亡,連兵勿決。

陳豨が(代で)反すると、燕王の盧綰は、兵を発して東北にゆく(燕から東北にゆくと代がある)。このとき、陳豨は王黄を使者にして、匈奴に救いを求める。盧綰もまた臣の張勝を匈奴にゆかせ、「陳豨らの軍は敗れた」という。張勝が胡地(匈奴の領域)に至ると、もと燕王の藏荼の子である藏衍がいて、張勝に会っていう。「あなたが燕で重んじられるのは、胡事(匈奴の事情)に詳しいから。燕が久しく存する(異姓王でも盧綰が粛清されない)理由は、諸侯がしばしば反し、兵事が連なって決着がつかないから。あなたが燕のために急ぎ、もしも陳豨を滅ぼせば、つぎは燕が滅ぼされ、あなたがたが(漢によって)虜となる。あなたは、燕王と陳豨の決着がつかぬよう仕向け、そして匈奴と和しなさい。陳豨・匈奴との戦いが長引けば、燕王は長く存続できる。漢の国内で返事があれば、燕は国が安定する」
張勝はその通りだと思い、ひそかに匈奴に「陳豨を助けて燕を撃て」と頼んだ(弱いほうの陳豨を助けて、戦局を泥沼化させようとした)。
燕王の盧綰は、張勝が匈奴と結んで反したと思い、上書して張勝を族殺しようとした。張勝が還り、計画を話した。燕王は(自身を存続させる方法として、意図的に泥沼化させることに同意して)いつわって張勝の家属を脱出させ(るように便宜を図り)匈奴の間に行かせた。ひそかに范齊を陳豨の所にゆかせ、戦況を膠着させ、勝負が付かないように(密約の締結を)した。

春2月

漢擊黥布,豨常將兵居代;漢擊斬豨,其裨將降,言燕王綰使范齊通計謀於豨所。帝使使召盧綰,綰稱病;上又使辟陽侯審食其、御史大夫趙堯往迎燕王,因驗問左右。綰愈恐,閉匿,謂其幸臣曰:「非劉氏而王,獨我與長沙耳。往年春,漢族淮陰,夏,誅彭越,皆呂氏計。令上病,屬任呂後;呂後婦人,專欲以事誅異姓王者及大功臣。」乃遂稱病不行,其左右皆亡匿。語頗洩,辟陽侯聞之,歸,具報上,上益怒。又得匈奴降者,言張勝亡在匈奴為燕使。於是上曰:「盧綰果反矣!」春,二月,使樊噲以相國將兵擊綰,立皇子建為燕王。

漢が鯨布を撃ち、陳豨はつねに兵をひきいて代地にいる。漢が陳豨を斬ると、その裨將が降り、「燕王の盧綰は、范齊をつかわして陳豨と計謀を通じた」と教えた。高帝は使者をやり盧綰を召した。盧綰は病気といつわる。高帝は、辟陽侯の審食其・御史大夫の趙堯に迎えにゆかせ、左右を驗問する。盧綰はいよいよ恐れ、閉じ匿れ、その幸臣にいう。
劉氏に非ずして王たるは、独り我と長沙のみ。往年の春、漢は淮陰(韓信)を族殺し、夏、彭越を誅した。みな呂氏の計である。高帝を病気にして、呂后が仕切っている。呂后は、異姓王・大功の臣を誅する」
病と称してゆかず、左右はみな亡匿した。語が洩れて、辟陽侯の審食其はこれを聞き、高帝に報告した。高帝はますます怒った。匈奴から降った者を得て、張勝がにげて匈奴の間におり、燕王の使者をやったこともバレた。ここにおいて高帝は、「盧綰が果たして反した」と決めつけた。
春2月、樊噲が相國として兵をひきい、盧綰を撃つ。皇子の劉建を燕王とした。

詔曰:「南武侯織,亦粵之世也,立以為南海王。」
上擊布時,為流矢所中,行道,疾甚。呂後迎良醫。醫入見,曰:「疾可治。」上嫚罵之曰:「吾以布衣提三尺取天下,此非天命乎!命乃在天,雖扁鵲何益!」遂不使治疾,賜黃金五十斤,罷之。
呂後問曰:「陛下百歲後,蕭相國既死,誰令代之?」上曰:「曹參可。」問其次,曰:「王陵可,然少戇,陳平可以助之。陳平知有餘,然難獨任。周勃重厚少文,然安劉氏者必勃也,可令為太尉。」呂後復問其次,上曰:「此後亦非乃所知也。」

詔す。「南武侯の織もまた、亦粵の世である。南海王に立てる」

尉佗の領土から、南海を切りとって与えた。

高帝は鯨布を撃ったとき、流矢に当たった。道を行くにつれ、傷がひどくなる。呂后が良医を迎える。医者が入見して、「病気は治せる」という。高帝は嫚罵した。「吾は布衣を以て三尺を提げて天下を取る。此れ天命に非ざるか。命は乃ち天に在り。扁鵲を雖も何ぞ益せん(古代の名医だって、天命を操作できんぞ)」と。ついに治療させず、黄金五十斤を与えて帰した。
呂后は問う。「陛下が百歲の後(死後)、相国の蕭何が死ねば、誰に代わらせるか」。高帝「曹参だ」。呂后「その次は」。高帝「王陵がよいが、少しだけ素質が足りないので、陳平に助けさせよ。陳平は有餘を知るが、独任は難しい。周勃は重厚・少文であるが、劉氏を安んじる者は必ず周勃なり。周勃なら太尉が務まる」。呂后「さらにその次は」。高帝「その後のことは、お前の知ったことではない(周勃が呂氏を滅ぼして劉氏を安んじるから)」

話ができすぎている。後世の創作である。


夏4月・5月

夏,四月,甲辰,帝崩於長樂宮。丁未,發喪,大赦天下。
盧綰與數千人居塞下候伺,幸上疾愈,自入謝。聞帝崩,遂亡入匈奴。
五月,丙寅,葬高帝於長陵。

夏4月の甲辰、帝は長樂宮で崩ず。丁未、喪を發し、天下を大赦す。
盧綰と數千人は、塞下に居して候伺す。幸いにも高帝の病がよくなり、自ら入りて謝す。帝が崩じたと聞き、遂に亡して匈奴に入る。
5月丙寅、高帝を長陵に葬る。

初,高祖不修文學,而性明達,好謀,能聽,自監門、戍卒,見之如舊。初順民心作三章之約。天下既定,命蕭何次律、令,韓信申軍法,張蒼定章程,叔孫通制禮儀;又與功臣剖符作誓,丹書、鐵契,金匱、石室,藏之宗廟。雖日不暇給,規摹弘遠矣。
己巳,太子即皇帝位,尊皇后曰皇太后。

はじめ高祖は文學を修めないが、性は明達で謀を好み、能く聽き、監門・戍卒より会うことは初期と変わらず。民の心に順ひ、三章の約を作る。天下が既に定まると(高帝の指示で)蕭何が律・令をつくり、韓信が軍法を論じ、張蒼が章程を定め、叔孫通が禮儀を制した。功臣と符を剖ちて誓を作し、丹書・鐵契・金匱・石室(に誓約の内容を書いて)宗廟にしまった。みながバラバラのことを言っても、定規ではかったように模範を示した(判断がブレなかった)。

高帝のキャラクターの総括です。

己巳、太子が皇帝の位に即く。皇后を尊び皇太后とする。

初,高帝病甚,人有惡樊噲,云:「黨於呂氏,即一日上晏駕,欲以兵誅趙王如意之屬。」帝大怒,用陳平謀,召絳侯周勃受詔床下,曰:「陳平亟馳傳載勃代噲將;平至軍中,即斬噲頭!」二人既受詔,馳傳,未至軍,行計之曰:「樊噲,帝之故人也,功多,且又呂後弟呂嬃之夫,有親且貴。帝以仇怒故欲斬之,則恐後悔;寧囚而致上,上自誅之。」未至軍,為壇,以節召樊噲。噲受詔,即反接,載檻車傳詣長安;而令絳侯勃代將,將兵定燕反縣。
平行,聞帝崩,畏呂嬃讒之於太后,乃馳傳先去。逢使者,詔平與灌嬰屯滎陽。平受詔,立復馳至宮,哭殊悲;因固請得宿衛中。太后乃以為郎中令,使傅教惠帝。是後呂嬃讒乃不得行。樊噲至,則赦,復爵邑。

はじめ高帝の病がひどくなると、樊噲をそしる人がいた。「呂氏の味方すれば、1日で晏駕に上れる。(樊噲が)趙王の如意の属を誅しそう」と。高帝は大怒して、陳平の謀を用い、絳侯の周勃に病床で詔を受けさせた。詔に曰く、「陳平は、樊噲と周勃を交替させろといっている。陳平が軍中に至れば、すぐに樊噲の頭を斬れ」と。

周勃は、呂氏と婚姻関係があるから、「外戚」権力に親和することができる。呂后の時代を黙然にして、みんなが身の振り方を考えていたことが分かる。

陳平・周勃は詔を受けて(樊噲のいる北方に向かいつつ)話した。「樊噲は高帝の旧知であり、呂后の妹である呂嬃の夫である。(間柄が)親しいし(血筋が)貴い。もし(われらが)樊噲を斬れば、高帝はきっと後悔するだろう(われらを怨むかも)。むしろ樊噲を捕らえて、高帝自身に誅させよう
陳平・周勃の軍が至る前に、樊噲を召した。樊噲は両手をしばって長安に送られた。絳侯の周勃が(樊噲に)交替して、燕の反乱する県を平定した。
陳平が(樊噲をつれて)長安に行くと、高帝が崩じたと聞いた。陳平は、呂嬃が太后に(「陳平が、夫の樊噲を陥れた」と)讒言するのを畏れ、傳を馳せて先に去る。使者に遭うと、詔により「陳平と灌嬰は、滎陽に屯せよ」という。陳平は詔を受けたが(滎陽にゆかず)すぐに馳せて宮に至り(高帝の崩御を)哭して殊に悲しんだ。つよく頼んで、宿衛の禁中に入れてもらう。太后は陳平を郎中令として、惠帝を傅教させる。のちに呂嬃が(陳平を)讒言したが、効果なし。樊噲が(長安に)至ると、赦されて爵邑を復す。

太后令永巷囚戚夫人,髡鉗,衣赭衣,令舂。遣使召趙王如意。使者三反,趙相周昌謂使者曰:「高帝屬臣趙王,趙王年少,竊聞太后怨戚夫人,欲召趙王並誅之,臣不敢遣王。王且亦病,不能奉詔。」太后怒,先使人召昌。昌至長安,乃使人復召趙王。王來,未到;帝知太后怒,自迎趙王霸上,與入宮,自挾與起居飲食。太后欲殺之,不得間。

太后は永巷に戚夫人を囚えさせ、髡鉗し赭衣(赤土で汚れた囚人服)を着せ、舂させた。使者をやり趙王の如意を召した。使者が3往復して、趙相の周昌が使者にいう。「高帝は私を趙王に属させた。趙王は年が少く、ひそかに聞けば、呂太后が(趙王の母の)戚夫人を怨み、趙王を召して母子とも誅したいとか。臣はあえて趙王を行かせない。王はちょうど病気になった。詔を奉じ(長安にゆけ)ない」。
太后は怒り、先に(如意を守ってる)趙相の召昌を召した。召昌が長安に至ると、人をやって再び趙王を召させた。趙王が長安にむかい、到着する前に、恵帝は(実母の)太后の怒りを知り、みずから趙王を覇上に迎えて、ともに入宮した。みずから密着して、ともに起居・飲食した。太后は(趙王を)殺そうとしたが、隙がない。

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孝恵皇帝(前194-188年)

惠帝元年(前194年)

冬,十二月,帝晨出射。趙王少,不能蚤起;太后使人持鴆飲之。犁明,帝還,趙王已死。
太后遂斷戚夫人手足,去眼,煇耳,飲喑藥,使居廁中,命日「人彘」。居數日,乃召帝觀人彘。帝見,問知其戚夫人,乃大哭,因病,歲餘不能起。使人請太后曰:「此非人所為。臣為太后子,終不能治天下。」帝以此日飲為淫樂,不聽政。

冬12月、帝は晨に射に出づ。趙王は若いので、早起きできない。太后が人に鴆を持たせ、趙王に飲ませた。犁明、恵帝が射から還ると、すでに趙王は死んでる。
太后は戚夫人の手足を断ち、眼を去り耳を煇り、喑藥を飲ませ、廁中に居らしめ「人彘」と名づける。居ること数日、帝を召して人彘を観せる。帝は見て、問うてそれが戚夫人と知り、大哭して病になる。歲餘しても起てず。人をやり太后に請う。「これは人のやることでない。臣は太后の子だから、終に能く天下を治めず」と。帝は日中から酒を飲み、淫樂をなして聽政せず。

司馬光はいう。子とは、父母に過ちがあれば諌めるが、諌めを聞いてもらえねば号泣して従うしかない。『記 曲礼』より。恵帝が母の残酷さを見て酒色におぼれたのは、小仁というべきで、まだ大誼を知らない。


徙淮陽王友為趙王。
春,正月,始作長安城西北方。

淮陽王の友を徙して、趙王とする。
春正月、はじめて長安城の西北方をつくる。

胡三省はいう。漢の長安は蕭何が宮室を治めたが、築城する余裕がなかった。だから恵帝が建築をして、5年で完成する。杜佑はいう。恵帝がつくった長安城は、いまの大興城の西北苑中である。


惠帝二年(前193年)

冬,十月,齊悼惠王來朝,飲於太后前。帝以齊王,兄也,置之上坐。太后怒,酌鴆酒置前,賜齊王為壽。齊王起,帝亦起取卮;太后恐,自起泛帝卮。齊王怪之,因不敢飲,佯醉去;問知其鴆,大恐。齊內史士說王,使獻城陽郡為魯元公主湯沐邑。太后喜,乃罷歸齊王。

冬10月、斉悼恵王が來朝して、太后の前で飲む。帝は齊王が兄なので、上坐に置く。

高祖の庶長子の劉肥である。

太后は怒り、鴆酒を酌して前に置き、齊王に賜はり長寿を祝った。齊王は起ち、恵帝もまた立って、鴆酒を手に取ろうとしたから、太后が恐れて妨害した。斉王は怪しみ、鴆酒を飲まなかった。酔ったふりをして去った。斉王は鴆酒だったと知り、多いに恐れた。
齊內史の士(名)が斉王に説く。「城陽郡を、魯元公主の湯沐邑として献上せよ。太后が喜び、領国に帰れるだろう」

春,正月,癸酉,有兩龍見蘭陵家人井中。隴西地震。
夏,旱。郃陽侯仲薨。
酇文終侯蕭何病,上親自臨視,因問曰:「君即百歲後,誰可代君者?」對曰:「知臣莫如主。」帝曰:「曹參何如?」何頓首曰:「帝得之矣,臣死不恨!」

春正月の癸酉、両龍が、蘭陵(東海郡)の庶人(の温陵さん)の家の井中にあらわれる。隴西で地が震ふ。
夏、旱あり。郃陽侯の仲が薨じた。

仲とは、代王の劉喜である。高祖7年に封じられた。

酇文終侯の蕭何が病み、恵帝はみずから臨視して問ふ。「君が百歳になった後(死んだ後)だれが代わりになるか」と。蕭何「臣下のことは、主君のほうがよくご存知(私が名を出すのはおかしい)」。恵帝「曹参はどうかな」。蕭何は頓首した。「帝が彼を(宰相に)得られるなら、私は死んでも恨みず」

秋,七月,辛未,何薨。何置田宅,必居窮僻處,為家,不治垣屋。曰:「後世賢,師吾儉;不賢,毋為勢家所奪。」
癸巳,以曹參為相國。參聞何薨,告舍人:「趣治行!吾將入相。」居無何,使者果召參。始,參微時,與蕭何善;及為將相,有隙;至何且死,所推賢唯參。參代何為相,舉事無所變更,一遵何約束:擇郡國吏木訥於文辭、重厚長者,即召除為丞相史;吏之言文刻深、欲務聲名者,輒斥去之。
日夜飲醇酒。卿、大夫以下吏及賓客見參不事事,來者皆欲有言,參輒飲以醇酒;間欲有所言,復飲之,醉而後去,終莫得開說,以為常。見人有細過,專掩匿覆蓋之,府中無事。

秋7月の辛未、蕭何が薨じた。蕭何の田宅は、窮に居りて處を隠し、家のつくりは垣屋を治めず(質素だった)。蕭何「後世の賢よ、吾が倹を師とせよ。賢ならざれば、勢のために家は奪はれる」と。
癸巳、曹参を相國とした。曹参が蕭何が薨じたと聞き、舍人(私的な属官で、家事を司る)に告げた。「はやく治行(上京の装い)の準備をしろ。吾 將に入りて相たらんとす」と。すぐに使者がきて、曹参を召した。
曹参の身分が低いとき、蕭何と仲がよかった。将・相となると(官職が上がると)仲がわるい。死にかけた蕭何が推薦した賢者とは、曹参だけだった。曹参が蕭何の代わりに相国になると、なにも変更せず、蕭何の決定を継承した。(蕭何と同じように、曹参は)郡國の吏から、文辞に質朴で、重厚な長者をえらび、召して丞相史とした。吏に作成させる言文は刻深であり、聲名に務めたいもの(仕事のなかで派手な文章をつくって目立ちたいもの)は、ただちに斥去した。
曹参は、日夜 醇酒を飲む。卿・大夫より以下、吏および賓客は、曹参がきちんと丞相の仕事をしないので、来たものは(自説を)言いたい。しかし曹参は飲みまくる。飲んでる合間に言おうにも、また飲みまくる。酔って帰されるから、なにも言えない。ひとの小さな過失を見つけても、曹参がカバーしたので、丞相府のなかは無事である。

參子窋為中大夫。帝怪相國不治事,以為「豈少朕與?」使窋歸,以其私問參。參怒,笞窋二百,曰:「趣入侍!天下事非若所當言也!」至朝時,帝讓參曰:「乃者我使諫君也。」參免冠謝曰:「陛下自察聖武孰與高帝?」上曰:「朕乃安敢望先帝!」又曰:「陛下觀臣能孰與蕭何賢?」上曰:「君似不及也。」參曰:「陛下言之是也。高帝與蕭何定天下,法令既明。今陛下垂拱,參等守職,遵而勿失,不亦可乎?」帝曰:「善!」
參為相國,出入三年,百姓歌之曰:「蕭何為法,較若畫一;曹參代之,守而勿失。載其清淨,民以寧壹。」

曹参の子の曹窋は中大夫となる。恵帝は、相国(曹参)が治事しないから、「私が年少だから(曹参は手を抜いているの)か」と考え、ひそかに(公式の場を使わず)曹窋から問わせた。曹参は怒り、曹窋を笞うつこと2百、「早く入侍せよ(恵帝のもとに還れ)。天下のことは、お前が口出しするな」という。
朝廷で、恵帝が曹参を責めた。「(曹窋が曹参を)諌めたのは、私がさせたことだ(曹窋を笞うつなんてヒドいな)」と。曹参は免冠して謝す。「陛下の聖武は、高帝と比べてどうですか」と。恵帝「どうして高帝に及ぶなんて思えよう」と。曹参「私の職務遂行能力は、蕭何と比べてどうですか」と。恵帝「きみは蕭何に及ばないだろう」と。曹参「陛下の言うとおり。高帝と蕭何が天下を定め、法令はすでに明らか。陛下も私も現状維持するのがベストでは」。恵帝「そうね」。
曹参は相国となり、出入すること3年、百姓はこれを歌う。「蕭何は法をつくり、整理整頓されたものである。曹参がこれに代わり、守って失わず。その清淨に載り(清浄な政治のおかげで)民は寧壹である」

恵帝2年は、蕭何から曹参に交替した以外、特に何もないあkら、2人の列伝のための年紀になっている。


惠帝三年(前192年)

春,發長安六百里內男女十四萬六千人城長安,三十日罷。
以宗室女為公主,嫁匈奴冒頓單于。是時,冒頓方強,為書,使使遺高後,辭極褻嫚。高後大怒,召將相大臣,議斬其使者,發兵擊之。樊噲曰:「臣願得十萬眾橫行匈奴中!」中郎將季布曰:「噲可斬也!前匈奴圍高帝於平城,漢兵三十二萬,噲為上將軍,不能解圍。今歌吟之聲未絕,傷夷者甫起,而噲欲搖動天下,妄言以十萬眾橫行,是面謾也。且夷狄譬如禽獸,得其善言不足喜,惡言不足怒也。」高後曰:「善!」令大謁者張釋報書,深自謙遜以謝之,並遺以車二乘,馬二駟。冒頓復使使來謝,曰:「未嘗聞中國禮義,陛下幸而赦之。」因獻馬,遂和親。

春、長安の6百里内から、男女14萬6千人を発して、長安を城きずかせ、30日で罷む。
宗室の女を公主として、匈奴の冒頓單于に嫁がす。このとき冒頓からの文書は褻嫚なので、太后は大怒し、將相・大臣を召して、匈奴の使者を斬って、兵を発するか議す。
樊噲「私に10万をくれたら匈奴をやぶる」
中郎將の季布「樊噲を斬れ。さきの匈奴が高帝を平城で囲んだとき、漢兵は32万おり、樊噲は上将軍だったが、囲みを解けなかった。(32万よりも少ない)10万で破れるとは妄言である。匈奴は禽獣なので、あまい言葉で喜ばせておけばいい」
太后「よし」
大謁者の張釋が返事をかき、謙遜した文面をつくり、馬車とともに運ぶ。冒頓単于は喜んで、「いまだ中国の礼義を聞いたことがないが、陛下は幸にして之を赦す(身の程を弁えて、匈奴に遜ってきた。大変よくできました)」と。馬を献じて和親した。

夏,五月,立閩越君搖為東海王。搖與無諸,皆越王句踐之後也,從諸侯滅秦,功多,其民便附,故立之。都東甌,世號東甌王。
六月,發諸侯王、列侯徒隸二萬人城長安。
秋,七月,都廄災。是歲,蜀湔氐反,擊平之。

夏5月、閩越君の搖が東海王となる。搖と無諸とは、どちらも越王の句踐の子孫である。諸侯に従って秦を滅し、功が多く、その民が便附したから、王に立てられた。東甌に都し、世々「東甌王」と号した。
6月、諸侯王・列侯のもとから、徒隸2萬人を発して、長安に城きずく。

今年の春、長安の内6百里から男女を調発したが、彼らがもう働きたくないので、王侯から労働者を調発した。

秋7月、都廄(大厩;太僕に属す)が災けた。この歳、蜀の湔氐が反し、撃ち平らぐ。

惠帝四年(前191年)

冬,十月,立皇后張氏。后,帝姊魯元公主女也,太后欲為重親,故以配帝。
春,正月,舉民孝、弟、力田者,復其身。三月,甲子,皇帝冠,赦天下。省法令妨吏民者;除挾書律。

冬10月、皇后の張氏を立てた。皇后は(張敖の娘であり)恵帝の姉である魯元公主(太后の娘)の娘である。太后は(外戚として)血を濃くしたいので、彼女を皇后とした。
春正月、郡国に、民の孝・弟・力田する者を挙げさせ、天下に奨励した。
3月の甲子、皇帝が(17歳で成人して)冠し、天下を赦す。法令のうち吏民を妨げるものを省き、挾書律(非公認の蔵書をしたら族殺という秦律)を除いた。

帝以朝太后於長樂宮及間往,數蹕煩民,乃築覆道於武庫南。奉常叔孫通諫曰:「此高帝月出遊衣冠之道也,子孫奈何乘宗廟道上行哉!」帝懼曰:「急壞之!」通曰:「人主無過舉。今已作,百姓皆知之矣。願陛下為原廟渭北,衣冠月出遊之,益廣宗廟,大孝之本。」上乃詔有司立原廟。

恵帝は、長楽宮の太后に会うとき、通行制限をして民を煩わせるので、覆道を武庫の南につくった。彭城の叔孫通は諌めた。「高帝の宗廟の上に、覆道をつくるな」と。恵帝は懼れ「急ぎ壊せ」と。叔孫通「もう覆道をつくってしまい、百姓はこれを知る。宗廟を別のところに増築して(過ちを直せ)」と。恵帝は原廟をつくらせた。

長樂宮鴻台災。
秋,七月,乙亥,未央宮凌室災;丙子,織室災。

長樂宮の鴻台が災えた。
秋7月の乙亥、未央宮の凌室(氷をしまう室)が災え、丙子、織室(織物する室)が災えた。

惠帝五年(前190年)

冬,雷;桃李華,棗實。
春,正月,復發長安六百里內男女十四萬五千人城長安,三十日罷。
夏,大旱,江河水少,谿谷水絕。
秋,八月,己丑,平陽懿侯曹參薨。

冬、雷あり。桃李が華さき、棗が実る。
春正月、復た長安6百里内の男女14萬5千人を発して、長安を城きずく。30日で罷む。
夏、大いに旱あり。江河は水が少なく、谿谷は水が絶ゆ。
秋8月の己丑、平陽懿侯の曹参が薨じた。

惠帝六年(前189年)

冬,十月,以王陵為右丞相,陳平為左丞相。
齊悼惠王肥薨。
夏,留文成侯張良薨。以周勃為太尉。

冬10月、王陵が右丞相、陳平が左丞相となる。
齊悼惠王の劉肥が薨じた。 夏、留文成侯の張良が薨じた。周勃を太尉とする。

前年に曹参、今年は張良が死ぬ。高帝の時代が終わってく。


惠帝七年(前188年)

冬,發車騎、材官詣滎陽,太尉灌嬰將。
春,正月,辛丑朔,日有食之。
夏,五月,丁卯,日有食之,既。
秋,八月,戊寅,帝崩於未央宮。大赦天下。九月,辛丑,葬安陵。

冬、車騎・材官を発して滎陽に詣らしめ、太尉の灌嬰が將ゐる。
春正月の辛丑朔、日の之を食する有り。
夏5月の丁卯、日の之を食する有り、既。
秋8月の戊寅、帝が未央宮で崩ず(24歳)。天下を大赦す。九月の辛丑、安陵に葬る。

初,呂太后命張惶後取他人子養之,而殺其母,以為太子。既葬,太子即皇帝位,年幼;太后臨朝稱制。

はじめ呂太后は、張皇后に命じて、他人の子を取って養わせる。その母を殺して太子とする。既に恵帝を葬ると、太子が皇帝の位に即く。年は幼く、太后が臨朝・稱制した。150802

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