-後漢 > 『資治通鑑』和訳/巻11 前202年-前200年

全章
開閉

高帝五年(前202年)

冬10月

冬,十月,漢王追項羽至固陵,與齊王信、魏相國越期會擊楚;信、越不至,楚擊漢軍,大破之。漢王復堅壁自守,謂張良曰:「諸侯不從,奈何?」對曰:「楚兵且破,二人未有分地,其不至固宜。君王能與共天下,可立致也。齊王信之立,非君王意,信亦不自堅;彭越本定梁地,始,君王以魏豹故拜越為相國,今豹死,越亦望王,而君王不早定。今能取睢陽以北至穀城皆以王彭越,從陳以東傅海與齊王信。信家在楚,其意欲復得故邑。能出捐此地以許兩人,使各自為戰,則楚易破也。」漢王從之。於是韓信、彭越皆引兵來。

冬10月、漢王は項羽を追って固陵に至り、齊王の韓信・魏相國の彭越と会するのを待ち、楚を撃つ。韓信・彭越がこず、漢軍はおおいに破られた。漢王は壁を堅め自守し、張良にいう。「諸侯はなぜ従わない(来てくれない)のか」。張良「(韓信・彭越が)楚兵を破ったのに、2人はまだ地を分け与えられていないからです。

韓信を楚王にしたことと矛盾する件について、佐竹氏が論じてた。

彼らと天下を共にするなら、王に立てるべきです。斉王の韓信を立てたのが、あなたの意に沿わないことであり、韓信は満足していない。彭越はもとは梁地を定めたので、あなたは当時、魏豹を魏王にして、彭越を魏相国にしました。魏王豹が死んだのだから、彭越は魏王になりたがっているが、あなたは王爵を与えていない。睢陽より以北、穀城までを彭越が王たる領土とせよ。陳より以東、海までを斉王の韓信に与えよ。韓信は家が楚にあるから、故郷を領邑にしたいはず。この地を捐てて2人に与えたら、楚と戦ってくれる」と。漢王はこれに従う。韓信・彭越は、兵を引きて来る。

11月

十一月,劉賈南渡淮,圍壽春,遣人誘楚大司馬周殷。殷畔楚,以舒屠六,舉九江兵迎黥布,並行屠城父,隨劉賈皆會。

11月、劉賈は南して淮水を渡り、壽春を囲む。人に楚の大司馬である周殷を誘わせる。周殷は楚にそむき、舒(廬江郡)を以て六を屠り、九江の兵を挙げて黥布を迎える。あわせて城父を屠り、劉賈に随って(周殷と鯨布が劉賈に)会する。

12月

十二月,項王至垓下,兵少,食盡,與漢戰不勝,入壁;漢軍及諸侯兵圍之數重。項王夜聞漢軍四面皆楚歌,乃大驚曰:「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也?」則夜起,飲帳中,悲歌慷慨,泣數行下;左右皆泣,莫能仰視。於是項王乘其駿馬名騅,麾下壯士騎從者八百餘人,直夜,潰圍南出馳走。平明,漢軍乃覺之,令騎將灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能屬者才百餘人。至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陷大澤中,以故漢追及之。

12月、項王は垓下に至り、兵は少なく、食は尽く。漢と戦って勝たず、壁に入る。漢軍および諸侯の兵は、囲むこと數重。項王は夜に漢軍の四面が皆 楚歌するを聞き、大いに驚き、「漢 皆 已に楚を得るや。是れ何と楚人の多きや」と。夜に起ち、帳中に飲み、悲歌・慷慨し、泣くこと数行 下る。左右も皆 泣き、仰視できない。
項王は駿馬の騅に乗り、麾下の壯士・騎從者8百餘人とともに、夜に直たり、圍を潰り南のかた出でて馳走す。平明、漢軍は覚り、騎將の灌嬰に5千騎で追わせる。項王は淮水に渡り、属する騎は1百余人ばかり。陰陵(九江郡)に至り、迷って道を失ひ、一田父に問ふ。田父はあざむき「左」という。左すると、大澤のなかに陥ち、漢に追いつかれた。

項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者數千人,項王自度不得脫,謂其騎曰:「吾起兵至今,八歲矣;身七十餘戰,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願為諸君快戰,必潰圍,斬將,刈旗,三勝之,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」乃分其騎以為四隊,四鄉。漢軍圍之數重。項王謂其騎曰:「吾為公取彼一將。」令四面騎馳下,期山東為三處。於是項王大呼馳下,漢軍皆披靡,遂斬漢一將。是時,郎中騎楊喜追項王,項王瞋目而叱之,喜人馬俱驚,辟易數里。項王與其騎會為三處,漢軍不知項王所在,乃分軍為三,復圍之。項王乃馳,復斬漢一都尉,殺數十百人。復聚其騎,亡其兩騎耳。乃謂其騎曰:「何如?」騎皆伏曰:「如大王言!」

項王は復た兵を引き東し、東城(九江郡)に至る。28騎。である。漢騎の追う者は數千人、項王は自ら度して脱するを得ず。その騎にいう。「起兵から8年。身づから70余戦をやり、1度も破れずに天下に覇となる。しかし今、追いつめられたのは天が我を亡すからだ。戦の(戦って負けた)罪でない」。騎を4隊に分け、4方向に向ける。
項王「きみらのために漢将1人を取ろう」。四面の騎を馳下させ、山の東で3集団に分かれて集まることにした。項王は漢将を1人斬った。
このとき郎中騎の楊喜(楊震の祖先ともいわれる)は、項羽ににらまれ、数里の距離をおいた。項王と騎は3つに別れ、漢軍は項王の居場所が分からない。また包囲したら、項王が都尉1人を斬り、数十百人を殺した。項王軍は2騎を失っただけ。項王「どうだ」。騎「項王の言ったとおり(漢将を斬れた)」

於是項王欲東渡烏江,烏江亭長艤船待,謂項王曰:「江東雖小,地方千里,眾數十萬人,亦足王也。願大王急渡!今獨臣有船,漢軍至,無以渡。」項王笑曰:「天之亡我,我何渡為!且籍與江東子弟八千人渡江而西,今無一人還;縱江東父兄憐而王我,我何面目見之!縱彼不言,籍獨不愧於心乎!」乃以所乘騅馬賜亭長,令騎皆下馬步行,持短兵接戰。獨籍所殺漢軍數百人,身亦被十餘創。顧見漢騎司馬呂馬童,曰:「若非吾故人乎?」馬童面之,指示中郎騎王翳曰:「此項王也!」項王乃曰:「吾聞漢購我頭千金,邑萬戶,吾為若德。」乃刎而死。王翳取其頭,餘騎相蹂踐爭項王,相殺者數十人。最其後,楊喜、呂馬童及郎中呂勝、楊武各得其一體;五人共會其體,皆是,故分其戶,封五人皆為列侯。

ここにおいて項王は東のかた烏江(牛渚)を渉ろうとする。烏江の亭長は船を着岸させて待ち、項王にいう。「江東は小と雖も、地は方千里、衆は数十萬人、亦た王たるに足る。願はくは大王 急ぎ渡れ。今、独り臣のみ船あり、漢軍 至るも、以て渡ること無し」
項王 笑いて曰く、「天の我を亡す。我 なんすれぞ渡るや。且つ籍 江東の子弟 八千人とともに江を渡りて西するも、今 一人とて還るものなし。縱ひ江東の父兄 憐みて我を王とするも、我 何の面目にて之に見ゆるか。縱ひ彼 言はずとも、籍 獨り心に愧じざらんや」

孫策の最期や、よく負ける孫権の撤退時に比べると、秦末の江東には魅力がなく、いちど出たら、帰ってきて勢力を立て直すような基盤とならない。項羽のキャラが逆境に弱いのではなく、「南方から再起する」ことができない、当時の地勢に原因があるのでは。これが孫権なら、余裕で引き返して割拠する。

乗っている馬の騅を亭長に賜ひ、騎には下馬して歩行させ、短兵を持って接戰す。項羽だけで数百人を殺し、身に10餘創を受ける。漢騎の司馬の呂馬童は、「あなたは私の故人ではないか」という。馬童は項羽と向きあい、中郎騎の王翳に指し示して、「此れ項王なり」という。項王「聞けば我が頭は千金・邑萬戸で、漢が買うと。お前の功績にしてやろう」。刎して死す。王翳はその頭を取り、餘騎は蹂踐しあって項王を争い(漢兵同士で)相ひ殺す者は数十人。最後には、楊喜・呂馬童および郎中の呂勝・楊武が、パーツを得た。5人の戦利品を組み合わせると、項王1人分となった。懸賞の戸数を分け、5人を列侯とした。

楊奇は赤泉侯で……と胡三省が封名を書いてる。


楚地悉定,獨魯不下;漢王引天下兵欲屠之。至其城下,猶聞弦誦之聲,為其守禮義之國,為主死節,乃持項王頭以示魯父兄,魯乃降。漢王以魯公禮葬項王於穀城,親為發哀,哭之而去。諸項氏枝屬皆不誅。封項伯等四人皆為列侯,賜姓劉氏;諸民略在楚者皆歸之。

楚地が悉く定まり、魯だけが下らず。漢王は天下の兵をひき、魯を屠ろうとする。城下に至るが、まだ弦誦の聲を聞く。魯は禮義を守るの國であり、主(項王)のために死節する。項王の頭を持して魯の父兄に示すと、魯は乃ち降る。漢王は魯公が項王を穀城(薄県・穀陽県)で禮葬させ、親づから項王のために哀を發し、哭して去る。諸々の項氏の枝屬は、みな誅せず。項伯ら4人を列侯に封じ、劉氏を賜ふ。諸民は楚にいるものは、みな(漢に)帰した。

漢王還,至定陶,馳入齊王信壁,奪其軍。
臨江王共尉不降,遣盧綰、劉賈擊虜之。

漢王は還り、定陶(済陰郡)に至る。馳せて齊王の韓信の壁に入り、その軍を奪ふ。臨江王の共尉(共敖の子;項王に封ぜらる)は降ら。盧綰・劉賈つかわして撃ち、虜とする。

春正月

春,正月,更立齊王信為楚王,王淮北,都下邳。封魏相國建城侯彭越為梁王,王魏故地,都定陶。
令曰:「兵不得休八年,萬民與苦甚。今天下事畢,其赦天下殊死以下。」

春正月、更めて齊王の信を立てて楚王とし、淮北の王とし、下邳に都せしむ。魏相國の建城侯の彭越を梁王として、戦国魏の故地の王とし、定陶に都せしむ。
令した。「兵は8年、休むことを得ず。萬民 苦甚をともにす。今、天下の事は畢れり。天下の殊死(死罪が明白なもの)より以下(罪の軽いもの)を赦す」

2月

諸侯王皆上疏請尊漢王為皇帝。二月甲午,王即皇帝位於汜水之陽。更王后曰皇后,太子曰皇太子;追尊先媼曰昭靈夫人。
詔曰:「故衡山王吳芮,從百粵之兵,佐諸侯,誅暴秦,有大功;諸侯立以為王,項羽侵奪之地,謂之番君。其以芮為長沙王。」又曰:「故粵王無諸,世奉粵祀;秦侵奪其地,使其社稷不得血食。諸侯伐秦,無諸身率閩中兵以佐滅秦,項羽廢而弗立。今以為閩粵王,王閩中地。」
帝西都洛陽。

諸侯王は、みな上疏して、漢王を尊んで皇帝にしたい。2月甲午、漢王は皇帝の位に汜水(済陰の境)の陽で即く。王后を皇后、太子を皇太子とする。先媼(劉邦の母)を昭霊夫人という。
詔に曰く、「もと衡山王の吳芮は、百粵の兵を従え、諸侯を佐け、暴秦を誅して大功あり。諸侯が立って王となると、項羽は(呉芮から)地を侵奪して『番君』とした。(項羽による封建をリセットして)呉芮を長沙王とする」と。また詔に曰く、「もと粵王の無諸(句践の子孫)は、世々粵祀を奉ず。秦 その地を侵奪し(閩中郡をおき)その社稷をして血食を得しめず。諸侯は秦を伐つや、無諸 身づから閩中の兵を率ゐて以て滅秦を佐く。項羽 廢して立てず。いま『閩粵王』として、閩中の地の王とする」
高帝は西して洛陽に都す。

夏5月

夏,五月,兵皆罷歸家。
詔:「民前或相聚保山澤,不書名數。今天下已定,令各歸其縣,復故爵、田宅;吏以文法教訓辨告,勿笞辱軍吏卒;爵及七大夫以上,皆令食邑,非七大夫已下,皆復其身及戶,勿事。」

夏5月、兵をみな罷めて家に帰す。
詔「民は前にあるものは相ひ聚まり山澤を保ち、名・數を(戸籍に)書かず。いま天下すでに定まり、各その県に帰り、故爵・田宅に復せ。吏は文法を以て教訓・辨告し(分別・義理をさとし)、軍の吏卒を笞もて辱しむるなかれ。爵の七大夫(第七の公大夫)以上は、みな邑を食ましめ(食邑からの収入を全て得させ)、七大夫にあらざるより已下は、みなその身および戸に復せ(収穫物を返せ=租税を免除せよ)。勿事(労役をさせるな)」

帝置酒洛陽南宮,上曰:「徹侯、諸將毋敢隱朕,皆言其情。吾所以有天下者何?項氏之所以失天下者何?」高起、王陵對曰:「陛下使人攻城略地,因以與之,與天下同其利;項羽不然,有功者害之,賢者疑之,此其所以失天下也。」上曰:「公知其一,未知其二。夫運籌帷幄之中,決勝千里之外,吾不如子房;填國家,撫百姓,給餉饋,不絕糧道,吾不如蕭何;連百萬之眾,戰必勝,攻必取,吾不如韓信。三者皆人傑,吾能用之,此吾所以取天下者也。項羽有一范增而不能用,此所以為我禽也。」群臣說服。

高帝は洛陽の南宮で置酒した。高帝「徹侯(通侯)・諸將は、あえてオレに隠さず、思うまま言え。オレが天下を取れた理由はなにか。項氏が天下を失った理由はなにか」。高起・王陵「陛下は攻城・略地すると、部下に分け与え、天下と利を同じくした。項羽は逆で、功があれば害し、賢ければ疑った。だから天下を失った」。
高帝「1を知って2を知らん。帷幄の中で籌を運らせ、千里の外で勝を決するなら、オレは子房にかなわん。國家を填め、百姓を撫で、餉饋を給し、糧道を絶やさぬなら、オレは蕭何にかなわん。百萬の衆を連ね、戰えば必ず勝ち、攻めれば必ず取るなら、オレは韓信に及ばん。張良・蕭何・韓信は、3人とも人傑だが、オレは彼らを用いることができて、天下を取った。項羽には范増だけがおり、しかもうまく用いられなかった。だからオレに禽われた」。群臣は悦び服す。

韓信至楚,召漂母,賜千金。召辱己少年令出胯下者,以為中尉,告諸將相曰:「此壯士也。方辱我時,我寧不能殺之邪?殺之無名,故忍而就此。」

韓信は楚に至り(封地に故郷が含まれる)、(若いとき食料を恵んでくれた)漂母に千金を賜わった。
またをくぐらせた悪少年を召して中尉にした。諸々の將相に告げた。「彼は壯士である。彼が私を辱めたとき、なぜ殺せなかったか(またをくぐるか殺すかの二択だった)。殺す名分(理由)がなく、殺すに忍びなかったからだ」

◆田横の最期

彭越既受漢封,田橫懼誅,與其徒屬五百餘人入海,居島中。帝以田橫兄弟本定齊地,齊賢者多附焉;今在海中,不取,後恐為亂。乃使使赦橫罪,召之。橫謝曰:「臣烹陛下之使酈生,今聞其弟商為漢將;臣恐懼,不敢奉詔,請為庶人,守海島中。」使還報,帝乃詔衛尉酈商曰:「齊王田橫即至,人馬從者敢動搖者,致族夷!」乃復使使持節具告以詔商狀,曰:「田橫來,大者王,小者乃侯耳;不來,且舉兵加誅焉!」

彭越はすでに漢に封じられた。田橫は誅せらるるを懼れ、その徒属5百餘人とともに海に入り、島中に居る。田横の兄弟はもとは斉地を定めたから、斉の賢者はおおくが田横に付く(海中に同行する)。海中にいて乱を起こさないかと、高帝は恐れた。使者をやって田横の罪を赦し、召した。
田横は謝した。「わたしは陛下の使者の酈食其を烹た。聞けば弟の酈商は、漢将となってる(酈商に復讐されるのが恐いから)詔を奉じない(洛陽にゆかない)。庶人にして海島の中に居らせてくれ」
使者が還りて報ずと、高帝は衛尉の酈商に詔した。「斉王の田橫がきたとき、人馬・従者が動くそぶりを見せたら、族殺するぞ(田横への復讐を禁じる)」。使者に持節させ、酈商への詔を説明した。「田横が来たら、大なる者(田氏のなかで地位が高いもの)は王とし、小なる者は侯とする。来ねば、兵を挙げて誅を加える」

橫乃與其客二人乘傳詣洛陽。未至三十里,至屍鄉廄置。橫謝使者曰:「人臣見天子,當洗沐。」因此留,謂其客曰:「橫始與漢王俱南面稱孤;今漢王為天子,而橫乃為亡虜,北面事之,其恥固已甚矣。且吾烹人之兄,與其弟並肩而事主,縱彼畏天子之詔不敢動,我獨不愧於心乎!且陛下所以欲見我者,不過欲一見吾面貌耳。今斬吾頭,馳三十里間,形容尚未能敗,猶可觀也。」遂自剄,令客奉其頭,從使者馳奏之。帝曰:「嗟乎!起自布衣,兄弟三人更王,豈不賢哉!」為之流涕,而拜其二客為都尉;發卒二千人,以王者禮葬之。既葬,二客穿其塚傍孔,皆自剄,下從之。帝聞之,大驚。以橫客皆賢,餘五百人尚在海中,使使召之;至,則聞田死,亦皆自殺。

田横は客2人と、傳(4頭ひきの馬車)に乘り洛陽に至る。30里の手前で、尸郷(偃師城の西)の廐に馬を置く。田横は使者に謝す。「人臣が天子にあうなら、洗沐しないと」。ここに留まり、客にいう。「私は漢王とともに(王として)南面して(諸侯の自称である)孤を称した。いま漢王は天子となり、私は亡虜となった。漢王に北面するのは恥である。ひとの兄(酈食其)を烹て、その弟と肩をならべて漢帝に仕えるのは、もし詔で復讐が禁じられてても、わが心に愧じないものか。陛下は私に会いたがるが、ちらっと面貌を見たいだけ(反乱のリスクを除きたいだけ)。いま頭を斬っても、30里を馳せれば、腐敗して型崩れせず、面貌を確認できる」
ついに田横は自剄し、客に頭を運ばせた。高帝「ああ。布衣より起ち、兄弟3人がつぎつぎと王になった。豈に賢ならざらんや(『香乱記』参照)」。高帝は田氏のために流涕し、田横の2人の客を都尉とした。卒2千人を發し、王として禮葬した。葬がすむと、2客は田横の塚のとなりに穴をほり、自剄した。田横の客は、みな賢なので、海中にいる残りの5百人も、田横の死を聞いたら自殺した。

◆季布が赦される

初,楚人季布為項籍將,數窘辱帝。項籍滅,帝購求布千金;敢有舍匿,罪三族。布乃髡鉗為奴,自賣於硃家。硃家心知其季布也,買置田舍,身之洛陽見籐公,說曰;「季布何罪!臣各為其主用,職耳;項氏臣豈可盡誅邪?今上始得天下,而以私怨求一人,何示不廣也!且以季布之賢,漢求之急,此不北走胡,南走越耳。夫忌壯士以資敵國,此伍子胥所以鞭荊平之墓也。君何不從容為上言之!」滕公待間言於上,如硃家指。上乃赦布,召拜郎中,硃家遂不復見之。

はじめ楚人の季布は、項羽の將となり、しばしば高帝を窘辱す(戦場で困らせ辱めた)。項羽が滅ぶと、高帝は千金で季布を購い求めた。あえて匿ったら、罪は三族。季布は髡鉗して奴となり、朱家(魯の大侠)に身売りした。朱家は季布と気づいていたが、田舍に置いて奴として使った。身づから洛陽にゆき、朱氏は夏侯嬰にいう。「季布に何の罪がある。臣は主のために働くのが、つねの職分である。項氏の臣を全て誅すなんておかしいよね。いま高帝は天下を得たが、私怨により1人を求める。あまりに季布を追いつめたら、彼は北の胡族や南の越族に逃げこみ、敵国のために働くだろう。伍子胥が楚平王の墓に鞭うったのと同じことが起きる。

楚平王は、伍子胥の父を殺した。伍子胥は怨みに思い、楚から呉に出奔した。伍子胥は、呉軍をひきいて楚を攻め、楚の都に入って、楚平王の墓をあばいて死体に鞭うった。伍子胥=季布

夏侯淵は、間をおいて高帝に、朱家に言われたことを話した。高帝は季布を赦し、郎中とした。朱家のひとは、ついに季布を再び見ることはなかった(ちゃんと漢に就職できた)。

布母弟丁公,亦為項羽將,逐窘帝彭城西。短兵接,帝急,顧謂丁公曰:「兩賢相厄哉!」丁公引兵而還。及項王滅,丁公謁見。帝以丁公徇軍中,曰:「丁公為項王臣不忠,使項王失天下者也。」遂斬之,曰:「使後為人臣無效丁公也!」

季布の母の弟は、丁公である。丁公もまた項羽の將で、彭城の西で高帝を追いつめた。短兵(剣)が接し、高帝はあせって、丁公に顧みて、「両賢 相ひ厄(くる)しむや」。

孟康によると、両賢とは、彭城の頼キと丁公である。高帝を追いつめている将軍。師古は孟康を否定して、高帝自身と丁公(丁固)の2人を指すとする。

丁公は兵をひき還る。項王が滅ぶと、丁公は高帝に謁見した。高帝は丁公を軍中にしたがえ、「丁公は項王の臣として不忠である。(わざとオレを逃がして)項王に天下を失わせたのはお前だ」といって斬った。「のちの人臣が丁公を見習わないように(漢の敵をわざと逃がすことがないように)した」

◆長安に遷都する

齊人婁敬戍隴西,過洛陽,脫輓輅,衣羊裘,因齊人虞將軍求見上。虞將軍欲與之鮮衣,婁敬曰:「臣衣帛,衣帛見;衣褐,衣褐見,終不敢易衣。」於是虞將軍入言上,上召見,問之。婁敬曰:「陛下都洛陽,豈欲與周室比隆哉?」上曰:「然。」

斉ひとの婁敬は隴西を戍り、洛陽を過ぎ、輓輅(馬車の前の横木)を抜き、羊裘をきて(粗末な身なりで)、(同郷である)斉ひとの虞將軍のつてを頼って高帝への謁見を求めた。虞將軍は鮮衣を与えた(高帝に会うのに相応の、綺麗な服に着替えさせたい)。婁敬「私は帛を着てきたから、帛を着て(このままの格好で)謁見する。褐を着ていれば、褐を着て謁見する。あえて着替えないぞ」。
虞將軍は、婁敬を高帝につないだ。婁敬「陛下は洛陽に都していますが、周室のように隆盛したいからでしょうか」。高帝「そうだよ」

婁敬曰:「陛下取天下與周異。周之先,自後稷封邰,積德累善,十有餘世,至於太王、王季、文王、武王而諸侯自歸之,遂滅殷為天子。及成王即位,周公相焉,乃營洛邑,以為此天下之中也,諸侯四方納貢職,道里均矣。有德則易以王,無德則易以亡。故周之盛時,天下和洽,諸侯、四夷莫不賓服,效其貢職。及其衰也,天下莫朝,周不能制也;非唯其德薄也,形勢弱也。
今陛下起豐、沛,卷蜀、漢,定三秦,與項羽戰滎陽、成皋之間,大戰七十,小戰四十;使天下之民,肝腦塗地,父子暴骨中野,不可勝數,哭泣之聲未絕,傷夷者未起;而欲比隆於成、康之時,臣竊以為不侔也。且夫秦地被山帶河,四塞以為固,卒然有急,百萬之眾可立具也。因秦之故,資甚美膏腴之地,此所謂天府者也。陛下入關而都之,山東雖亂,秦之故地可全而有也。夫與人斗,不搤其亢,拊其背,未能全其勝也。今陛下案秦之故地,此亦扼天下之亢而拊其背也。」

婁敬「陛下は天下の取り方が周とちがう。周は先に、后稷のときから10余世も徳を積み、諸侯が帰してから、殷の天子を滅ぼした。周成王が即位するに及び、周公旦が相となり、天下の中心として洛陽に都した。諸侯が四方から貢献するとき、道程がひとしい。徳があれば王になり、徳がなければ亡ぶ。ゆえに周は徳を失って滅びた。
いま陛下は、戦って勝ったが、天下の民を巻きこみ、死傷者は数え切れず、恨みを買っている。今日の状況は、(徳を積んだ後で、満を持して洛邑に都した)周成王のときと違う。(地政学的にリアルな判断をして)秦地の豊かさと守りやすさを活用せよ」

痛烈かつ正確な、漢の建国史に対する批評。『漢書』にもちゃんと載っているのかな。『史記』から『漢書』に写すとき、オブラートが挟まってたらおもしろい。


帝問群臣,群臣皆山東人,爭言:「周王數百年,秦二世即亡。洛陽東有成皋,西有殽、澠,倍河,鄉伊、洛,其固亦足恃也。」上問張良。良曰:「洛陽雖有此固,其中小不過數百里,田地薄,四面受敵,此非用武之國也。關中左殽、函,右隴、蜀,沃野千里。南有巴、蜀之饒,北有胡苑之利。阻三面而守,獨以一面東制諸侯;諸侯安定,河、渭漕輓天下,西給京師;諸侯有變,順流而下,足以委輸。此所謂金城千里,天府之國也。婁敬說是也。」上即日車駕西,都長安。拜婁敬為郎中,號曰奉春君,賜姓劉氏。

高帝は郡臣に問う。郡臣は、みな山東のひとだから、洛陽を推す。張良だけが、婁敬に賛同して、長安を推した。

洛陽・長安の地理的な条件は、ここを見れば詳しくわかる。

即日、車駕を西にむけ、長安に都した。婁敬を郎中とし、「奉春君」と号して、劉氏を賜う。

張良素多病,從上入關,即道引,不食穀,杜門不出,曰:「家世相韓,及韓滅,不愛萬金之資,為韓報讎強秦,天下振動。今以三寸舌為帝者師,封萬戶侯,此布衣之極,於良足矣。願棄人間事,欲從赤松子游耳。」
六月,壬辰,大赦天下。

もとより張良は病気がち。高帝に従って関中に入るが、道引して(薬を飲み静かに過ごして気を整え)穀を食せず、門を閉ざして出ない。「家は世々、韓の国の相だった。漢が滅ぶと、萬金の資を愛せず(財産を投げ出し)漢のために秦に復讐をしようとした。三寸の舌で、帝者の師となり、萬戶侯に封ぜられた。これは布衣の極であり、もう充分です。世俗のことを棄て、赤松子(仙人)のように游びたい」

秋,七月,燕王臧荼反;上自將征之。
趙景王耳、長沙文王芮皆薨。

秋7月、燕王の臧荼が反した。高帝はみずから征伐する。
趙景王の張耳・長沙文王の呉芮が薨じた。

ほんとうに自然死なんだろうか。


九月,虜藏荼。壬子,立太尉長安侯盧綰為燕王。綰家與上同里□,綰生又與上同日;上寵幸綰,群臣莫敢望,故特王之。
項羽故將利幾反,上自擊破之。
後九月,治長樂宮。
項王將鐘離昧,素與楚王信善。項王死後,亡歸信。漢王怨昧,聞其在楚,詔楚捕昧。信初之國,行縣邑,陳兵出入。

9月、藏荼を虜とす。壬子、太尉である長安侯の盧綰を燕王とした。

『正義』はいう。秦の咸陽は渭水の北にあり、漢の長安は渭水の南にある。蕭何は未央宮が建つあたりに封ぜられていた。

盧綰の家は、高帝と里門を同じくし、高帝と同じ日に生まれた。だから高帝は盧綰をとくに寵幸して、とくべつに王にしてもらった。
項羽の故將である利幾が反し、高帝が自ら撃破した。

利幾は、陳令として降り、頴川におく。高帝が(長安から)洛陽にくるとき、利幾を召した。利幾は恐れて反した。

閏9月、長樂宮(もとは秦の興楽宮で、高帝が改修)を治む。
項王の將の鐘離昧は、楚王の韓信と仲がよい。項王の死後、亡して韓信に帰す。漢王は鐘離昧を怨み、楚のいると聞き、楚に詔して捕らえさせる。韓信ははじめ国にゆき、県邑をめぐり、陣兵を出入させる(翌年につづく)150806

閉じる

高帝六年(前201年)

冬10月

冬,十月,人有上書告楚王信反者。帝以問諸將,皆曰:「亟發兵,坑豎子耳!」帝默然。又問陳平。陳平曰:「人上書言信反,信知之乎?」曰:「不知。」陳平曰:「陛下精兵孰與楚?」上曰:「不能過。」平曰:「陛下諸將,用兵有能過韓信者乎?」上曰:「莫及也。」平曰:「今兵不如楚精而將不及,舉兵攻之,是趣之戰也,竊為陛下危之。」上曰:「為之奈何?」平曰:「古者天子有巡狩,會諸侯。陛下第出,偽游雲夢,會諸侯於陳。陳,楚之西界;信聞天子以好出遊,其勢必無事而郊迎謁;謁而陛下因禽之,此特一力士之事耳。」帝以為然,乃發使告諸侯會陳,「吾將南遊雲夢。」上因隨以行。

冬10月、楚王の韓信が反したと、上書する人がいた。帝は諸将に問う。みな「すみやかに兵を発し、豎子を坑そう」。高帝は默然とした。また陳平に問う。
陳平「この上書のことを韓信は知ってますか」。高帝「知らん」。陳平「陛下の精兵は、楚(韓信)と比べてどうですか」。高帝「負けてる」。陳平「陛下の諸將に、韓信よりも用兵がうまいひとはいますか」。高帝「いない」。関平「精兵・諸将が韓信にかなわないのに戦えば、陛下があぶない」。
高帝「どうしたら?」。陳平「いにしえより天子は巡狩して、諸侯に会するもの(『白虎通』参照)。陛下がただ(軍事行動ではなく)出て、雲夢に游ぶと偽り、諸侯を陳・楚の境界に集めよ。韓信は、天子が出遊を好むと聞けば、軍勢をかまえずに迎謁にくる。謁したとき禽えれば、一力士の仕事ですみます」
高帝は納得して、使者を諸侯に発して陳に集め、「オレは南のかた雲夢に遊ぼうと思う」といった。高帝は出発した。

12月

楚王信聞之,自疑懼,不知所為。或說信曰:「斬鐘離昧以謁上,上必喜,無患。」信從之。十二月,上會諸侯於陳,信持昧首謁上;上令武士縛信,載後車。信曰:「果若人言:『狡兔死,走狗烹;飛鳥盡,良弓藏;敵國破,謀臣亡。』天下已定,我固當烹!」上曰:「人告公反。」遂械系信以歸,因赦天下。

韓信は疑懼し、どうしたら良いか分からない。あるひとが説く。「鐘離昧を斬って高帝に謁せば、高帝は必ず喜び、患いなし」韓信は従う。
12月、高帝は諸侯と陳で会する。韓信は鐘離昧の首をもって謁す。高帝は武士に韓信を縛らせ、後車に載せる。韓信「果して人の言うとおり。『狡兔 死せば、走狗 烹られ、飛鳥 盡くれば、良弓 藏はる。敵國 破るれば、謀臣 亡ぶ』と。天下はすでに定れり。我 固より當に烹らるべし」と。
高帝「人(誰やねん)が、韓信が反したと告げたのだ」。韓信を械系して(器具で拘束して)帰り、天下を赦す。

田肯賀上曰:「陛下得韓信,又治秦中。秦,形勝之國也,帶河阻山,地勢便利;其以下兵於諸侯,譬猶居高屋之上建瓴水也。夫齊,東有琅邪、即墨之饒,南有泰山之固,西有濁河之限,北有勃海之利;地方二千里,持戟百萬,此東西秦也,非親子弟,莫可使王齊者。」上曰:「善!」賜金五百斤。

田肯が高帝を賀した。「韓信を捕らえることができて、よかったです。秦は形勝の國であり、ここから諸侯を兵で攻めれば、まるで高屋の上に水を満たした瓶を立てたように(もし瓶を倒せば、水が重力に従って下に零れるように)制することができる。斉地も重要な土地であり、秦地にならんで重要です。劉氏の親族でなければ、斉王にしてはいけない

田姓ということは、斉地のひとだろう。秦地のことを論じるのは、斉地を持ちあげるための前振り。そして、韓信という最大勢力(いちおう藩王)が滅びたので、もうなるべく抵抗勢力を増やさない方向で……という趨勢に一致した発言である。


上還,至洛陽,赦韓信,封為淮陰侯。信知漢王畏惡其能,多稱病,不朝從;居常鞅鞅,羞與絳、灌等列。嘗過樊將軍噲,噲跪拜送迎,言稱臣,曰:「大王乃肯臨臣!」信出門,笑曰:「生乃與噲等為伍!」
上嘗從容與信言諸將能將兵多少。上問曰:「如我能將幾何?」信曰:「陛下不過能將十萬。」上曰:「於君何如?」曰:「臣多多而益善耳。」上笑曰:「多多益善,何為為我禽?」信曰:「陛下不能將兵而善將將,此乃信之所以為陛下禽也。且陛下,所謂天授,非人力也。」

高帝は洛陽に還り、韓信を赦して、淮陰侯に封ず。韓信は、能力をにくまれていると知るから、病と称して朝從せず。つねに鞅鞅として(満たされず)、絳・灌(周勃・灌嬰)と列を等しくすることを羞じた。
かつて樊噲は韓信に跪拜して送迎して、韓信に対して「臣」と称した。(韓信が楚王でなく淮陰侯となると)樊噲は、「大王が(ともに漢臣として)私と臨むことを肯んじた」といった。韓信は門を出て笑い、「生きて(生き延びて)樊噲らと対等になるとはな」といった。
かつて高帝は、韓信と諸将の用兵能力を論じたことがある。高帝「わたしは何人を将ゐることができる」。韓信「陛下は10万の将を過ぎません」。高帝「きみは?」。韓信「多ければ多いほど善い(どれだけ多くても使いこなせる)」。高帝は笑い「多ければ多いほど…、と言うわりには、なぜオレに禽われた?」という。韓信「陛下は兵をひきいる将としては私に及ばなくても、将をひきいる将ができる。だから捕らわれた。いはゆる天授、人力じゃない」。

甲申,始剖符封諸功臣為徹侯。蕭何封酇侯,所食邑獨多。功臣皆曰:「臣等身被堅執銳,多者百餘戰,小者數十合。今蕭何未嘗有汗馬之勞,徒持文墨議論,顧反居臣等上,何也?」帝曰:「諸君知獵乎?夫獵,追殺獸兔者,狗也;而發縱指示獸處者,人也。今諸君徒能得走獸耳,功狗也;至如蕭何,發縱指示,功人也。」群臣皆不敢言。
張良為謀臣,亦無戰鬥功;帝使自擇齊三萬戶。良曰:「始,臣起下邳,與上會留,此天以臣授陛下。陛下用臣計,幸而時中。臣願封留足矣,不敢當三萬戶。」乃封張良為留侯。
封陳平為戶牖侯。平辭曰:「此非臣之功也。」上曰:「吾用先生謀計,戰勝克敵,非功而何?」平曰:「非魏無知,臣安得進?」上曰:「若子,可謂不背本矣!」乃復賞魏無知。

甲申、はじめて剖符して(割符を割って)功臣を徹侯に封ず。蕭何を酇侯に封じ、食邑がひとりだけ多い。功臣は、みな「われらは戦闘をがんばったのに、蕭何は汗馬之勞がなく、徒だ文墨を持って議論しただけなのに、どうしてオレたちの上か」と問う。
高帝「諸君は狩猟を知るか。獣を殺した狗より、狗に指示した人のほうが偉い。いま諸君は狗で、蕭何は人の功績がある」。郡臣「…」。
張良も謀臣として、戦闘の功績がないが、高帝が斉3万戸を選んで与える。「私は下邳で起ち、留で陛下とあった。天が私に陛下を授けたのだ。留に封じてもらえば充分で、3万戸も要らない」。張良は留侯となる。
陳平を戶牖侯とする。陳平は辞した。「(天下取りは)私の功ではない」。高帝「先生の謀計を用いたから、敵に戦って勝てたのだ。どうして功じゃないの?」。陳平「魏無知がいなければ(人格攻撃から庇ってくれなければ)どうして私は謀計ができたか」。高帝「おまえは、本に背かないと謂うべきだ」。魏無知を賞した。

帝以天下初定,子幼,昆弟少,懲秦孤立而亡,欲大封同姓以填撫天下。
春,正月,丙午,分楚王信地為二國,以淮東五十三縣立從兄將軍賈為荊王,以薛郡、東海、彭城三十六縣立弟文信君交為楚王。壬子,以雲中、雁門、代郡五十三縣立兄宜信侯喜為代王;以膠東、膠西、臨淄、濟北、博陽、城陽郡七十三縣立微時外婦之子肥為齊王,諸民能齊言者皆以與齊。

高帝は、子が幼く、弟が少ないから、秦のように孤立して亡びることを防ぐため、同姓をおおいに封じて、天下を填撫した。
春正月、……封地と封王は原文参照。

上以韓王信材武,所王北近鞏、洛,南迫宛、葉,東有淮陽,皆天下勁兵處;乃以太原郡三十一縣為韓國,徙韓王信王太原以北,備御胡,都晉陽。信上書曰:「國被邊,匈奴數入寇;晉陽去塞遠,請治馬邑。」上許之。

高帝は、韓王信に材武(武の才能)があり、彼が王として領有するのが天下の強兵の産地なので、(漢にとって脅威にならぬよう)異動させた。太原郡31県を「韓国」として、太原の北に移して、胡族に備えさせた。晋陽に都する。
韓王信「国境を接して、匈奴がしばしば入寇する。晉陽では塞(国境の長城)から遠い。馬邑を治所としたい」。高帝は赦した。

上已封大功臣二十餘人,其餘日夜爭功不決,未得行封。上在洛陽南宮,從覆道望見諸將,往往相與坐沙中語。上曰:「此何語?」留侯曰:「陛下不知乎?此謀反耳!」上曰:「天下屬安定,何故反乎?」留侯曰:「陛下起布衣,以此屬取天下。今陛下為天子,而所封皆故人所親愛,所誅皆平生所仇怨。今軍吏計功,以天下不足遍封;此屬畏陛下不能盡封,恐又見疑平生過失及誅,故即相聚謀反耳。」上乃憂曰:「為之奈何?」留侯曰:「上平生所憎、群臣所共知,誰最甚者?」上曰:「雍齒與我有故怨,數嘗窘辱我;我欲殺之,為其功多,故不忍。」留侯曰:「今急先封雍齒,則群臣人人自堅矣。」於是上乃置酒,封雍齒為什方侯;而急趨丞相、御史定功行封。群臣罷酒,皆喜,曰:「雍齒尚為侯,我屬無患矣!」

すでに大功の臣20余人を封じたが、その後も日夜、功を争って決せず、封を行えない。高帝が洛陽南宮にいるとき、覆道から諸將を望見すると、往往に相ひ與に沙中に坐して語る。高帝「彼らは何を喋ってる?」。張良「知らんの?謀反の相談ですよ」。高帝「天下は安定したのに、なぜ謀反するか」。張良「陛下は布衣から起ち、天下を取った。天子となり、旧知の親愛する人ばかり封じた,誅せられたひと(縁者)は平生から仇怨する。軍吏が功を計れば、あまねく天下に(臣下たちの功績の自己申告に基づいて)封じても(土地が)足りない。陛下がきちんと封じてくれない(功績に報いてくれない)ことを恐れ、また疑われて過失を生じて誅されるのを恐れている。だから集まって謀反の相談をしている」。
高帝は憂いた。「どうしたら?」。張良「陛下がふだんから憎み、それを郡臣が知っている者のなかで、もっとも(憎しみが)ひどいのは?」。高帝「雍歯はオレと旧怨がある。しばしばオレを苦しめ辱めたから、殺してやりたい。しかし功が多いから殺すのは忍びず」張良「急ぎ先に雍歯を封じたら、郡臣の動揺が収まるでしょう」。高帝は置酒して雍歯を什方侯(漢中郡の県侯)に封じた。急ぎ丞相・御史に、功を定め封を行はせた。群臣は酒を罷め、皆な喜び、「雍歯でもなお侯になるなら、われらは患がない」といった。

列侯畢已受封,詔定元功十八人位次。皆曰:「平陽侯曹參,身被七十創,攻城略地,功最多,宜第一。」謁者、關內侯鄂千秋進曰:「群臣議皆誤。夫曹參雖有野戰略地之功,此特一時之事耳。上與楚相距五歲,失軍亡眾,跳身遁者數矣,然蕭何常從關中遣軍補其處,非上所詔令召,而數萬眾會。上之乏絕者數矣。又軍無見糧,蕭何轉漕關中,給食不乏。陛下雖數亡山東,蕭何常全關中以待陛下。此萬世之功也。今雖無曹參等百數,何缺於漢;漢得之,不必待以全。奈何欲以一旦之功而加萬世之功哉!蕭何第一,曹參次之。」上曰:「善!」於是乃賜蕭何帶劍履上殿,入朝不趨。上曰:「吾聞進賢受上賞。蕭何功雖高,得鄂君乃益明。」於是因鄂千秋故所食邑,封為安平侯。是日,悉封何父子兄弟十餘人,皆有食邑;益封何二千戶。
上歸櫟陽。

列侯はすでに封を受け終わり、詔して元功18人の位次を定めた。

18人の名は、370頁に胡三省が注釈する。

みな「平陽侯の曹参は、身に七十創を被け、城を攻め地を略し、功は最も多し。宜しく第一なるべし」。謁者の關內侯である鄂千秋は進んでいう。「群臣の議は、どれも誤り。曹参は戦功があるが、一時のことだけ。高帝が項羽と5年戦い、軍勢を失って逃げても、蕭何は関中から補給を絶やさなかった。項羽に勝てたのは蕭何のおかげ。曹参がいなくても勝てたが、蕭何がいないとムリだった」。
高帝「そうだ」。蕭何に、帶劍履上殿・入朝不趨の権限を賜う。高帝「聞けば賢を進め上賞を受けしむという。蕭何の功は高いが、鄂君を得て乃ち益々明らかなり」。鄂千秋を安平侯とした。この日、蕭何の父子・兄弟10餘人に、みな食邑を与えた。蕭何を益して2千戸に封ず。
高帝は櫟陽に帰る。

夏5月

夏,五月,丙午,尊太公為太上皇。
初,匈奴畏秦,北徙十餘年。及秦滅,匈奴復稍南渡河。單于頭曼有太子曰冒頓。後有所愛閼氏,生少子,頭曼欲立之。是時,東胡強而月氏盛,乃使冒頓質於月氏。既而頭曼急擊月氏,月氏欲殺冒頓。冒頓盜其善馬騎之,亡歸;頭曼以為壯,令將萬騎。

夏5月の丙午、太公を尊び太上皇とする。
はじめ匈奴は秦を畏り、北に徙りて10余年。秦が滅ぶと、匈奴は復た稍々南して河を渡る。単于の頭曼に太子がいて冒頓という。後に愛する閼氏(皇后)が少子を生み、これを立てたい。このとき東胡は強く、月氏は盛ん。冒頓を月氏に人質に出した。頭曼が月氏を急撃すると、月氏は冒頓を殺そうとした。冒頓は善馬を盗んで亡歸した。頭曼は、冒頓が壮(成人)したので、萬騎をひきいさせる。

冒頓乃作鳴鏑,習勒其騎射。令曰:「鳴鏑所射而不悉射者,斬之!」冒頓乃以鳴鏑自射其善馬,既又射其愛妻;左右或不敢射者,皆斬之。最後以鳴鏑射單于善馬,左右皆射之。於是冒頓知其可用。從頭曼獵,以鳴鏑射頭曼,其左右亦皆隨鳴鏑而射。遂殺頭曼,盡誅其後母與弟及大臣不聽從者。冒頓自立為單于。

冒頓は音の鳴る鏑矢をつくり、「オレがこれで射たものを射ないと斬る」と部下に明じた。ついに頭曼を殺して単于となった。

有名な話なので、いいです。


東胡聞冒頓立,乃使使謂冒頓:「欲得頭曼時千里馬。」冒頓問群臣,群臣皆曰:「此匈奴寶馬也,勿與!」冒頓日;「奈何與人鄰國而愛一馬乎!」遂與之。居頃之,東胡又使使謂冒頓:「欲得單于一閼氏。」冒頓復問左右,左右皆怒曰:「東胡無道,乃求閼氏!請擊之!」冒頓曰:「奈何與人鄰國愛一女子乎!」遂取所愛閼氏予東胡。東胡王愈益驕。
東胡與匈奴中間有棄地莫居,千餘里,各居其邊,為甌脫。東胡使使謂冒頓:「此棄地,欲有之。」冒頓問群臣,群臣或曰:「此棄地,予之亦乎,勿與亦可!」於是冒頓大怒曰:「地者,國之本也,奈何予之!」諸言予之者,皆斬之。冒頓上馬,令:「國中有後出者斬!」遂襲擊東胡。東胡初輕冒頓,不為備;冒頓遂滅東胡。

東胡は冒頓が立ったと聞き、使者をよこして、千里馬・閼氏を要求した。冒頓は惜しまずに差し出した。東胡王はおごった。
東胡と匈奴の中間には、ひとの住まない棄地が千餘里あり、両者はその周辺に暮らす。東胡は使者をやり、冒頓にいう。「ここは棄地だから、東胡が領有したい」。冒頓は郡臣に問う。ある郡臣がいう。「ここは棄地だから、与えてもいいし、与えなくてもいい」。冒頓は大怒した。「地は国のもとである。どうして与えていいものか」(東胡に土地を)与えると言ったものを、みな斬った。乗馬して「国中から遅れて出るものは斬る」と令し、東胡を襲撃した。東胡は冒頓を(馬・女を抵抗なく差し出すから)軽んじており、備えがなかった。冒頓は東胡を滅ぼした。

既歸,又西擊走月氏,南並樓煩、白羊河南王,遂侵燕、代,悉收蒙恬所奪匈奴故地與漢關故河南塞至朝那、膚施。是時,漢兵方與項羽相距,中國罷於兵革,以故冒頓得自強,控弦之士三十餘萬,威服諸國。

(東胡を撃ち終えて)帰ると、またに西のかた月氏を撃って走らせ、南して楼煩・白羊河の南王を併わせる。ついに燕・代を侵し、ことごとく秦将の蒙恬に奪われた匈奴の故地を奪還した。漢とは、もと河南塞から朝那・膚施までで関を接する。このとき漢兵は項羽と戦っており、中国は兵役に疲れており、冒頓は強大になることができた。控弦の士(弓をひく兵士)30余万で、諸國を威服した。

秋,匈奴圍韓王信於馬邑。信數使使胡,求和解。漢發兵救之。疑信數間使,有二心,使人責讓信。信恐誅,九月,以馬邑降匈奴。匈奴冒頓因引兵南逾句注,攻太原,至晉陽。

秋、匈奴は韓王信を馬邑で囲む。韓王信は使者をやって和解を求める。漢は兵を発してこれを救うが、しばしば韓王信が匈奴と使者を交わしたことから、二心があると疑い、韓王信をとがめた。韓王信は、誅されるのを恐れ、

功臣や、六国の子孫を、けっきょく心服させることができず、殺すしかない。韓王信の場合は、匈奴に利せしめたから最悪のパターン。張良が怒りそうなものだが、もう仙人になったのか。

9月に馬邑とご匈奴に降った。匈奴の冒頓は、兵をひいいて南に句注を逾え、太原を攻めて晋陽に至る。

帝悉去秦苛儀法,為簡易。群臣飲酒爭功,醉,或妄呼,拔劍擊柱,帝益厭之。叔孫通說上曰:「夫儒者難與進取,可與守成。臣願征魯諸生,與臣弟子共起朝儀。」帝曰:「得無難乎?」叔孫通曰:「五帝異樂,三王不同禮,禮者,因時世、人情為之節文者也。臣願頗采古禮,與秦儀雜就之。」上曰:「可試為之,令易知,度吾所能行者為之。」

高帝はことごとく秦の苛儀を去り、法は簡易にする。群臣は酒を飲みて功を爭ひ、酔えば妄りに叫び、剣を抜いて柱を撃つので、高帝は厭になった。

漢のひとたちはずっと功績を争ってる。秦ではどうだったんだろう。戦国の体制からスライドしたし、きびしい法律で縛ったから、こんな弛緩はなかったのかも。

叔孫通「夫れ儒者はともに進取し難きと雖も、ともに守成すべし。魯から諸生を徴して、臣の弟子とともに朝儀を起したい」。高帝「難しいのでは?」叔孫通「五帝は樂を異にし、三王は禮を同じうせず。禮は時世・人情の節文により変わるもの。ほぼ古禮を採用しつつ、秦儀とまぜて定めます」。高帝「試しに(儀礼を)作ってみろ。覚えやすくしてね」

於是叔孫通使征魯諸生三十餘人。魯有兩生不肯行,曰:「公所事者且十主,皆面諛以得親貴。今天下初定,死者未葬,傷者未起,又欲起禮、樂。禮、樂所由起,積德百年而後可興也。吾不忍為公所為。公去矣,無污我!」叔孫通笑曰:「若真鄙儒也,不知時變。」遂與所微三十人西,及上左右為學者與其弟子百餘人,為綿蕞,野外習之。月餘,言於上曰:「可試觀矣。」上使行禮,曰:「吾能為此。」乃令群臣習肄。

叔孫通は魯の諸生30餘人を徴す。2人が(魯かた関内に)行くのを拒んだ。「あなたは10主(始皇・二世・陳勝・項梁・楚懐王・項羽・高帝で7主+αか)に仕え、おもねって親貴された。天下が初めて定まり、死者は未だ葬らず、傷者は未だ起たず(それなのに)礼・楽を起こすという。礼・楽というのは、徳を100年積んでから起こすもの(漢の高帝には徳がない)。あなたのようにおもねるのはイヤだね」
叔孫通は笑って、「あなたは、まことに鄙儒だね。時変を知らん」と。(断った2人を除いて)30人をつれて関西にゆき、屋外で弟子たちが練習した。月余して、高帝が見にきた。高帝「オレにもできる」。郡臣に練習させた。150807

閉じる

高帝七年(前200年)

冬,十月,長樂宮成,諸侯群臣皆朝賀。先平明,謁者治禮,以次引入殿門,陳東、西鄉。衛官俠陛及羅立廷中,皆執兵,張旗幟。於是皇帝傳警,輦出房;引諸侯王以下至吏六百石以次奉賀,莫不振恐肅敬。至禮畢,復置法酒。諸侍坐殿上,皆伏,抑首;以尊卑次起上壽。
觴九行,謁者言「置酒」,御史執法舉不如儀者,輒引去。竟朝置酒,無敢讙嘩失禮者。於是帝曰:「吾乃今日知為皇帝之貴也!」乃拜叔孫通為太常,賜金五百斤。

冬10月、長樂宮が成り(未央宮はまだない)諸侯・群臣が朝賀した。平明の前(夜明け前)謁者が禮を治め、次を以て引きて殿門に入らしめ、東に陳(なら)び、西に郷(む)く。衛官は陛を俠み(階段の両側にならび)、廷中に羅立するに及び、皆 兵(武器)を執り、旗幟を張る。是に於て皇帝 警を傳へ、輦 房を出づ。諸侯王より以下、吏六百石に至るまでを引き、次を以て奉賀す。振恐して肅敬せざる莫し。禮 畢はるに至り、復た法酒を置く。諸侍 殿上に坐し、皆 伏し、首を抑す。尊卑の次を以て起ち壽を上る。
觴する(さかづきを回す)こと九行、謁者「置酒」と言ふ。御史 執法(御史)儀の如くせざる者を挙げ(ふりつけを間違えたものを指摘し)輒ち引去す。朝を竟へ、置酒す。敢て禮を失なふ者を讙嘩する無し(ふりつけを間違えても怒られない)。是に於て帝曰く、「吾 乃ち今日、皇帝の貴たるを知るなり」。叔孫通を太常として、金5百斤を賜う。

初,秦有天下,悉內六國禮儀,采擇其尊君、抑臣者存之。及通制禮,頗有所增損,大抵皆襲秦故,自天子稱號下至佐僚及宮室、官名,少所變改。其書,後與律、令同錄,藏於理官。法家又復不傳,民臣莫有言者焉。

はじめ秦の天下を有つや、悉く六國の禮儀を内とし(取り込んで)、その君を尊ぶ(君主の偉さを誇示できるバージョン)を采擇し、臣を抑へる者のみ之を存せしむ。叔孫通が禮を制定したとき、やや増減させてアレンジしたが、大抵は秦の故事を踏襲した。天子の称号や、官職名・宮殿名をちょっとだけ改めた。後世のために記録を理官に保存した。(秦が重んじた)法家は伝わらず、民臣には(法家について)言うひとがいなくなった(これからは儒家が栄えるのよと)。

上自將擊韓王信,破其軍於銅鞮,斬其將王喜。信亡走匈奴;白土人曼丘臣、王黃等立趙苗裔趙利為王,復收信敗散兵,與信及匈奴謀攻漢。匈奴使左、右賢王將萬餘騎,與王黃等屯廣武以南,至晉陽,漢兵擊之,匈奴輒敗走,已復屯聚,漢兵乘勝追之。會天大寒,雨雪,士卒墮指者什二三。

高帝は(匈奴にねがえった)韓王信を自ら撃つ。銅鞮(上党郡)で破って、韓王信の将の王喜を斬った。韓王信は、匈奴に亡走した。白土(上郡)のひと曼丘臣・王黄らは趙の苗裔である趙利を立てて王とし、韓王信の敗散兵をあつめた。韓王信と匈奴は、謀って漢を攻める。匈奴は、左・右賢王に1萬餘騎をひきいさせ、王黃らとともに廣武(太原郡)に屯して南する。晋陽に至る。漢兵はこれを撃ち、匈奴は敗走し、また屯聚した。漢兵は勝ちに乗じて追うが、たまたま大いに寒く、雪が降ったので、士卒の10人に2・3人が指を堕とした。

上居晉陽,聞冒頓居代谷,欲擊之。使人覘匈奴,冒頓匿其壯士、肥牛馬,但見老弱及羸畜。使者十輩來,皆言匈奴可擊。上復使劉敬往使匈奴,未還;漢悉兵三十二萬北逐之,逾句注。劉敬還,報曰:「兩國相擊,此宜誇矜,見所長。今臣往,徒見羸瘠、老弱,此必欲見短,伏奇兵以爭利。愚以為匈奴不可擊也。」是時,漢兵已業行,上怒,罵劉敬曰:「齊虜以口舌得官,今乃妄言沮吾軍!」械系敬廣武。

高帝は晋陽にいて、冒頓が代谷に居ると聞いて、撃ちたい。匈奴を偵察させた。冒頓は壯士や肥えた牛馬をかくして、老弱や羸畜(やせた牛馬)だけを見せた。使者は10組が、みな「匈奴は弱ってるから、撃ち破れる」と報告した。
高帝は劉敬を使者にして匈奴にゆかせた。劉敬が還る前に、漢兵32万で(匈奴を)北に逐い、句注を越える。劉敬が還ると、報せた。「匈奴は、長所を隠して短所を見せているだけ。奇兵を伏せて利を争うとしてる。匈奴を撃つことはできない」と(真実を見抜いて)いった。このとき漢兵はすでに進軍しちゃったので、高帝は劉敬を罵った。「斉虜(劉敬の前歴を踏まえた悪口)は、口舌を以て官を得て、今、乃ち妄言もて吾が軍を沮むか」劉敬を廣武で械系(器具で拘束)した。

帝先至平城,兵未盡到;冒頓縱精兵四十萬騎,圍帝於白登七日,漢兵中外不得相救餉。帝用陳平秘計,使使間厚遺閼氏。閼氏謂冒頓曰:「兩主不相困。今得漢地,而單于終非能居之也。且漢主亦有神靈,單于察之!」冒頓與王黃、趙利期,而黃、利兵不來,疑其與漢有謀,乃解圍之一角。會天大霧,漢使人往來,匈奴不覺。陳平請令強弩傅兩矢,外鄉,從解角直出。帝出圍,欲驅;太僕滕公固徐行。至平城,漢大軍亦到,胡騎遂解去。漢亦罷兵歸,令樊噲止定代地。

高帝は先に平城に至り、まだ兵がすべて到着しない。冒頓は精兵40萬騎を動かして、高帝を白登(雁門郡)に囲むこと7日。漢兵は内外で連絡がとれない。高帝は陳平の秘計を用いて、

応劭はいう。陳平は美女の絵を描かせ、単于に「漢にはこんな美女がいるよ。高帝が困窮して、美女を差し出そうとしているよ」と伝えた。単于と閼氏を仲違いさせるためである。閼氏は、単于が美女に移り気することを畏れて、冒頓に「漢帝をそんなに困窮させるな」といった。これは秘計なので伝えない。伝わってるじゃん。

使者をやって閼氏(単于の皇后)に厚く贈りものをした。閼氏は単于にいう。「匈奴と漢主は、互いにジャマではない。いま匈奴が漢の領土を得ても、単于はずっと住めるわけじゃない。漢主もまた神霊がある(精神を宿した人間である)。単于はこれを察せよ」と。
冒頓は、王黄・趙利と待ち合わせしていたが、彼らの兵が来ないので、漢と通じたかと疑って、包囲の一角を解いた。たまたま霧が濃く、漢の使者が往来しても、匈奴は気づかず。陳平は、強弩をつかって2本の矢を飛ばして(強弩はいちどに2矢を射られる仕様)、敵を防ぎつつ、包囲の解けたところから高帝を逃がした。脱出した高帝は疾駆したいが、夏侯嬰は徐行した(疾駆したら居場所がバレるから)。平城に至り、漢の大軍がきたので、胡騎(匈奴ら)は解去した。漢もまた兵をひき、樊噲を止めて代地を定めしむ。

上至廣武,赦劉敬,曰:「吾不用公言,以困平城;吾皆已斬前使十輩矣。」乃封敬二千戶為關內侯,號為建信侯。帝南過曲逆,曰:「壯哉縣!吾行天下,獨見洛陽與是耳。」乃更封陳平為曲逆侯,盡食之。平從帝征伐,凡六出奇計,輒益封邑焉。

高帝は廣武に至り、劉敬を赦した。「劉敬の言うとおりにしないから、平城で追いつめられた。すでに(匈奴に騙された)偵察10組はすでに誅した」と。劉敬を2千戸として關內侯とし、号を「建信侯」とした。
高帝は南して曲逆(中山国)を過ぎ、「壮な(立派な)県(城)だなあ。吾 天下を行き、獨り洛陽とここを見るのみ」。陳平を曲逆侯として、尽く食ませた。陳平は高帝に従軍しており、凡そ6つの奇計を出したから、封邑を増やしたのである。

12月

十二月,上還,過趙。趙王敖執子婿禮甚卑,上箕倨慢罵之。趙相貫高、趙午等皆怒,曰:「吾王,孱王也!」乃說王曰:「天下豪桀並起,能者先立。今王事帝甚恭,而帝無禮;請為王殺之!」張敖嚙其指出血,曰:「君何言之誤!先人亡國,賴帝得復,德流子孫;秋豪皆帝力也。願君無復出口!」貫高、趙午等皆相謂曰:「乃吾等非也。吾王長者,不倍德;且吾等義不辱。今帝辱我王,故欲殺之,何洿王為!事成歸王,事敗獨身坐耳!」

12月、高帝は還り、趙を過ぐ。趙王の張敖は、子婿の礼をとる(格下の家族として礼を行う;張敖を魯元公主を娶っているから)。禮は甚だ卑し。高帝は箕倨(両足を伸ばして)慢りに(張敖を)罵った。(張敖の臣である)趙相の貫高・趙午らは、どちらも怒って、「吾が王(張敖)は、惰弱な王である」と。王に説いた。「天下の豪桀が並び起ち、能ある者は先に立った。いま王は高帝に甚だ恭しく仕えるが、高帝は無礼である。王とために高帝を殺したい」。張敖は指を噛んで血を出し(誠意をもって誓い)「なんて誤ったことをいうんだ。先人(張耳)が国を亡し、高帝に頼って趙国を得た。德は子孫まで流れる。ささいなことも、すべて高帝のおかげである。もう言ってくれるな」。貫高・趙午らは、言いあう。「われらに非があります。わが王は惰弱ではなく)長者であり、徳にそむかない。われらの義は辱められない。いま高帝が王を辱めたから、高帝を殺したいと思った。しかし(暗殺のリスクを)王に及ぼすものか。高帝を殺せたら趙王のおかげ。失敗したら罪はわれらだけに」

匈奴攻代。代王喜棄國自歸,赦為郃陽侯。辛卯,立皇子如意為代王。

匈奴が代を攻めた。代王の喜は、國を棄てて自ら帰す,赦され郃陽侯となる。辛卯、皇子の如意を代王に立てる。

春2月-

春,二月,上至長安。蕭何治未央宮,上見其壯麗,甚怒,謂何曰:「天下匈匈,苦戰數歲,成敗未可知,是何治宮室過度也!」何曰:「天下方未定,故可因以就宮室。且夫天子以四海為家,非壯麗無以重威,且無令後世有以加也。」上說。

春2月、高帝は長安に至る。蕭何は未央宮を治めた。高帝はその壮麗ぶりを見て、甚だ怒り、蕭何にいう。「天下は匈匈とし、戰に苦しむこと數歲。成敗(勝敗)未だ知る可からず。是れ何ぞ宮室を治むること度を過ぐるや」
蕭何「天下 方に未だ定らず、だから宮室をつくった。天子は四海を家とする。壮麗でなければ、威が重くならない。後世に(建築の残りを)遺さないためだ」。高帝は悦んだ。

曹叡が、言い訳につかうやつ。蕭何の大計。


上自櫟陽徙都長安。初置宗正官,以序九族。
夏,四月,帝行如洛陽。

高帝は櫟陽から長安に都を徙す。

さきに婁敬・張良の言に従って(洛陽から)関中にきたが、まだ都邑は完成しておらず、櫟陽にいた。いま未央宮が(蕭何のおかげで)完成したから、櫟陽から長安に移った。

初めて宗正の官を置き、以て九族を序せしむ。
夏4月、帝は洛陽にゆく。150807

閉じる

inserted by FC2 system