雑感 > 『漢魏戦争』のシナリオ作成

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0.『漢魏戦争』を書いてみたい

まずは、この1ヶ月くらいのツイートより。

アイディアのもと

三国志の消化不良って、魏と蜀の全面対決がないことか。
蜀を得たあとの劉備は、曹操と直接対決しない。諸葛亮の北伐は、大国の魏の一方面で食い止められる。平蜀は、肩すかし。天下を二分し、とことん正統を競うという展開がない。これまで、小説を書いても、ついつい魏蜀の衝突を脱臼させてしまってきた。
国力に劣る蜀は、呉と結んで、魏の兵力を分散させるとか。大国の魏は、不必要に蜀を攻めずに様子を見るとか。戦略的にも政治的にも正しいのでしょうが、おもしろさを犠牲にして、現実に引きずられた感がある。たとえば曹丕が伐呉に成果をあげ、蜀がドサクサで荊州を奪還し、とかで魏蜀が均衡したらどうなるやら。

両漢四百年に対する「葬送儀礼」において、曹丕と諸葛亮は、世代が同じで、立場が正反対!の宿命のライバルのはず。史実では、接点がないけれど。そして二人とも、思想性は卓越してるが、戦争については史書でケチがついてる(異論は当然あります)。 曹操と劉備の後継者同士の対決を描いてみたい!

『三国志』文帝紀を読んできて感じるのは、曹丕が禅譲の詔を3回もらってから、裴注『献帝伝』では「可」っていうけど、文脈では「不可」もしくは「否」と言ってもおかしくないなと。歴史に100%の偶然も必然もないが、濃淡はあると思う。曹丕の回答は、おおいに偶然の側に振れるというのが、ぼくの感想です。
曹丕に皇帝即位を勧進する『献帝伝』禅代衆事を、茶番という見方もできます。魏晋革命以降、前例の踏襲だから、茶番の要素が濃いかも知れない。しかし前例のない漢魏革命は、わりに真剣な議論だったはず。もしくは、真剣な議論に見せる「文書的なアリバイ」が要請されると、当事者たち(曹丕も郡臣も、共犯的に)が考えたはず。

もしも曹丕が、皇帝即位について「やっぱ時期尚早」という結論を出したら、歴史はどうなったか。イフ物語のためのイフ設定でなく、史料や史実を読みこむためのイフというのは、頭の体操や、歴史物の娯楽として、ありだと思うのです。
「楚漢戦争」と「漢魏革命」てのは、史実にあるが、「漢魏戦争」が見たい。

最初に考えた、あらすじ

【魏】 延康元年冬、曹丕が皇帝即位を拒否る。曹操が没したこの歳、涼州(酒泉・張掖・金城)で反乱が起きたが、魏はそれを鎮め、関中方面は安定している(ただし史実では、廬水胡の叛乱が絶えない)。
【呉】 この時点で孫権は、関羽を殺し、最晩年の曹操から荊州牧を与えられ、曹操には革命を推奨したほど。七月に曹丕に「奉献」しており、魏呉の関係は、表面的には良好。呉は、荊州の平定に忙殺され、魏との衝突は絶対に避けたい。魏も呉を攻める理由がない。
【蜀】 蜀は関羽と荊州を失ったばかり。呉の益州侵入を警戒しすることに、重点がある。史実で2年後に荊州に進出するように、蜀に兵員はいるものの、拡大できる状況にない。漢中王5年目の劉備は、静観。

延康元年末(史実から分岐する前)微妙なのは、孟達と劉封。関羽を破った勢いで、呉に城を奪われるリスクあり。関羽を救わなかったので、劉備とも関係が悪化。同年、孟達は魏に降った。曹丕に厚遇された孟達は、蜀から魏に移動するよう劉封を説得(劉封伝)。三国の軍が集約するのがここ。荊州が「用武」の地ならば、荊州のなかの荊州が、このあたり。蜀だって、漢中から攻め降れる。

【蜀】 曹丕が皇帝即位を拒否した最大の影響は、延康(史実の黄初)二年に、劉備が皇帝に即位しないこと。曹丕が漢の復興を目指し、劉備は曹丕の専横を咎めるという、曹操の代と同じ構図が継続する。もしくは、曹丕が献帝を殺害したという誤報にもとづき、劉備を皇帝にしちゃうか。

【魏】 最初に心配になるのが、曹丕の求心力の低下。群臣からの突き上げが、曹操の代より強くなる。魏の群臣は、儒教の理論を駆使し、漢の終焉を証明した。「長子だから」曹丕を支持した官僚は、儒家の叡智を集約した勧進を蹴った曹丕を、もう支持しない。
曹丕は、まだ曹操が死んで1年で不安定、持ち前の性格の難が発動し、群臣とモメそう。曹彰・曹植のオプションが水面下で活性化。

【魏】 曹丕が皇帝を断った主な要因は、孫権・劉備の残存(本人談)。孫権は形式上は臣従してる。史実と違って、突然「曹丕が劉備と戦わねば」という事態が到来する。史実の曹丕は、皇帝になったから劉備を無視できたが、さもなくば、伐蜀が最優先になる。やっと盛り上がってきた!
『魏略』に西戎伝があるように、曹魏の強みは西域とのパイプ(自称&消去法)。関中からの南下は、得意(希望的観測)。曹丕は孫権に「二路から劉備を討とう」と持ちかける or 命ずる。荊州を得たばかりの孫権は、魏が益州を得たら強すぎで困るが、独力で益州を確保する余力もない。 曹丕は、孫権に共闘の約束を取りつけ(信頼度は低いけど)、曹操の晩年と同じように親征するしかない。曹操は寿命?で撤退したが、曹丕の場合、群臣から「勝つまで帰ってくるな」と圧力を掛けられる。曹操と異なり、曹丕の弱点は、武功がないこと。「至徳」しかアピール点がなかった。

曹丕が史実より活発に動き、蜀が史実よりチャンスを得るという点で、去年作った『曹丕八十歳』と『反反三国志』の合わせ技というか、バージョンアップを目指す話になりそう。制約(前者は寿命の年数、後者は「原作」)を外し、史料の読解を反映し、ガチにシミュを考えたら、楽しそう。

アンケート

ここまで考えて、アンケートをつくってみました。



初動9票のうち、6票が益州です。この質問って「もしも曹操が死ななかったら」と同じ意味のはずです。呉が荊州を得たことを受け、次に魏がどうするかという。

@asukayusa3594 さんはいう。まあ攻めるならば、形だけでも臣従してる呉よりもまず、帝位を僭称して明確に反逆敵対してる蜀漢でしょうねえ。曹操が陥とせなかった漢中に再侵攻して、呉にも出兵を要求するでしょう。

15票のうち、9票が益州。益州を選んで下さった方は(そうでない方も)どうすれば曹丕が、あの曹操でも失敗した益州攻めを、成功させられるか、(仮想的な曹丕に)助言をお願いします。

@asukayusa3594 さんはいう。もちろん勝てないと思いますよ。漢中は劉備以来、孝蜀漢がガチガチに固めて要塞化してますし、文字通り飛んで火に入る夏の虫です。ただ戦の巧くない曹丕は勿論、他の将にも参謀にもそれ以外のルートは考えづらいでしょう。当時は涼州も全く注目されてませんでしたし。


20票(ありがとうございます)で、半分が益州。しかし益州を攻めても、勝てなさそう。漢魏革命は、曹丕の若さゆえに群臣に押し切られたと思ってましたが、曹操が存命でも、益州は難攻不落。ほかに打ち手がなくて、群臣の圧力により受諾をさせられたのかと思えてきました。

@kusamaturi さんがいう。荊州を攻めれば呉にとって北と西で挟撃の形となり苦しい形になる。また仮に蜀と呉が連携しても潼関よろしく不和を誘え、山や川で攻めづらい揚州、益州に比べ有利に戦えると思う。
@Sz73B さんはいう。曹丕が益州を直ちに攻めれば、劉備の孫権征討は後回しになり、張飛は死なず、劉備も白帝城で死なずにすみ、急な大戦ということで劉封にも何らかの生き残りのチャンスが出てくるかも。漢室が延命したので劉備は皇帝にならず、諸葛亮は出師の表を書く必要がなくなりそう。

曹丕が受禅を断るおかげで(もしくは副作用として)、張飛・劉備・劉封が生き残り、蜀が勢いづく。いい展開です!諸葛亮は、別のかたちで、活躍するとして。

37票いただいたうち、益州にならんで、荊州が38%で同票。益州を攻めても、勝ちきれないという予想に対する、次善策でしょうか。孫権と交戦するのはデメリットありそうですが、史実の曹丕は(夷陵の戦いという変数を挟みますが)劉備ではなく、孫権ばかりと戦いますし…。
初動はダントツで益州でしたが、拮抗してきました。そして、史実で曹丕が親征した「服従が形だけの呉」が、全然ふるいません(笑)

外交と政治の要請から、仕方なく益州を攻める。曹丕が苦戦したところ、呉が魏に反逆する。慌てて益州から戻り、呉が得たばかりの荊州を攻める。呉が守りきる。それを見た劉備が、呉から荊州を取り戻す。そんな三国の叩き合いが、アンケートの回答の推移から浮かびました。
初動は益州が圧倒的で、やがて荊州が追い上げ、終わってみれば、劉備が(史実の夷陵の戦いに)動くのを待つのが、同率で1位でした!

ところで、劉備が夷陵の戦いを始めた、トリガーってなんだろう。動機はいろいろ言われるけど、章武元(221)年七月になった理由は? 先主伝を順番に読んでいくと、前には四月の皇帝即位がある。皇帝だから対外的に強固になった(or 皇帝にならねば出兵できなかった)とか、関連づけて考えられるのかなあ。
このあたりも、曹丕の皇帝即位と連動して、展開が変わりそう。

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1.曹丕が皇帝即位をことわる

延康元年十月:皇帝即位をことわる

延康元年秋十月、曹丕は六軍をひきいて、潁川郡の曲蠡に駐屯した。そこで、太史丞(天文・歴史の官)の許芝が、魏に天命があることを証明した。後漢の宗室の劉若を筆頭に、百二十名の上奏があった。魏の三公・九卿が名を連ねた、上書もあった。勧進の上奏がくり返された。三度の禅譲の詔が発せられ、曹丕のもとに、皇帝の璽綬が届けられた。

熱心な説得を受けたすえ、曹丕は王令をくだして、
「むかし虞舜は、庶民の生活をして、寿命を終えるところであった。しかし、唐尭から2人の娘をあたえられ、君位を譲られると、まるで初めから君主となることが運命づけられていたように、振る舞った。これは、天命にしたがったのである。三公・九卿をはじめとした人士が、そこまで皇帝の位に即けというのなら、どうして辞退をつらぬこうか」
と、即位への同意をほのめかすような、返答をした。

十月庚午(二十八日)、四度目の禅譲の詔が届いた。
「天命は漢のものとから去り、魏のうえにある。朕は空名を守ってきたが、僭越な地位にあることに、恐れを持ち、徳に恥じている。すでに魏王には、三たびの禅譲を申し出たが、いずれも断られ、たいへん遺憾である。虞舜が唐尭から与えられた君位を受けたように、魏王も、この禅譲を受けるよ。朕の大願に沿うように

四度目の詔を受けて、尚書令の桓階らが上奏した。
「周武王は、殷紂王に勝つ前に、天子を称しました。殷と周の王朝交替は、牧野の勝敗によって決まったのではありません。ですから経書は、はるか周王の祖先にさかのぼり、后稷が生まれたときの神秘を伝えています。殿下は、孫権・劉備がなお残存することを理由に、皇帝になるのは時期尚早であると、以前におっしゃいました。それは違います。魏の天命は、すでに決定づけられているのです。明日は、吉日です。昊天上帝を祭り、即位を報告しなさい」

ややアレンジを加えてきましたが、だいたい、文帝紀 注引『献帝伝』禅代衆事にもとづく。話づくりに必要なところを、抜粋しました。以下、史実からの分岐。


「さて、ほんとうに皇帝になるべきか。なるとしても、それは今なのか」
と、曹丕は、再考した。もともと、郡臣に推しきられて、皇帝にならざるを得ないと、気持ちが傾いた。まるで奇襲攻撃を受けるように、禅譲の詔が転がり出たときは、泰伯の故事を持ち出して、「三譲(みたびの辞退)ののち、回答をしよう」と、延期した。こうして自ら作り出した猶予も、尽きてしまった。
2通の書翰をつくり、机上に並べた。「可」と「不可」である。
曹丕はいろいろ迷って(描写は省略)、十月庚午(二十八日)のうちに、王令をくだして、尚書令の桓階に示した。「不可」のほうを。

延康元年十一月:漢帝が毒殺される

曹丕は、皇帝となることを拒絶した。すなわち、漢帝に、君位に留まってもらうという判断をした。手許に届けられた皇帝の璽綬については、鄭重なことわりの文辞をつけて、返還することになった。
こたび、漢帝のもとから璽綬を届けたのは、漢の守尚書令・侍中の衛覬である。かれに璽綬を持たせた。ただし衛覬は、根っからの漢帝のサイドの人間ではない。このたび、禅譲の詔を書くために、魏臣から漢臣へとスライドしたキーマン。

まえの三回の禅譲の詔(曹丕に断られることが前提)は、漢帝のサイドの張音というひとが届けた。クロージングすべき四回目だけ、もと魏臣の衛覬が持ってきたところに、皇帝の璽綬の往復を「完結」させるという、シナリオが見える。


衛覬は、『三国志』巻二十一に列伝がある。河東のひと。

鍾会・鄧艾が蜀を平定したとき、監軍をつとめた衛瓘は、この衛覬の子である。

衛覬そのひとも特異な経歴があり、曹操が袁紹と戦ったとき、劉表に背後を突かれることを恐れた。曹操は、衛覬を劉璋のもとに使者として送り、劉璋に、劉表の背後を牽制させようとした。曹操から、これほど重要な任務を与えられて「使者」となるくらいだから、魏の重臣。きっと曹丕に、なにかコメントをしたはず。
たとえば、こんな感じに。

衛覬 「いまの漢帝は、みずからに資格がないとして、四度にわたって、皇帝の璽綬を手放したひとです。継続して、彼をトップに頂くことに、果たして輿論は納得するでしょうか(というか、資格がない!というザンゲの文を書いたのは、オレだけど)」
曹丕 「何が言いたいの?」
衛覬 「先月、殿下が、皇帝の位を断ったことは、ひとつの見識です。たしかに、王令に見えるとおり、軍事・民政において、まだ殿下には実績がありません。なまじっか、郡臣から『至徳の体現者』と持ちあげられて、浮かれて皇帝になってしまうより、手堅い判断だったかも知れません」
曹丕 「(魏王になって、まだ九ヶ月だし、慎重にやりたいのさ)」
衛覬 「しかし、漢帝・魏臣の名義のもと、いまの漢帝にその資格がないと、天下に宣言してしまった以上、ノーカウントには、できませんそこまで理解して、殿下は、辞退なさったんでしょうな」
曹丕 「……?」
衛覬 「(こいつ、分かってないのに断ったのか? 自分カワイサによる辞退か。ただの保身のため、禅譲の詔を蹴ったんだとしたら、帝王の素質がないわー)」

許都の宮殿に入った衛覬は、四通の禅譲の詔を突きつけて、漢帝に退位をせまる。漢帝は、もはや自律的に、なにかをできる状況ではない。もともと退位するつもりだったから、衛覬に従う。
漢帝には、4名の子がいる。伏皇后とその子は、曹操に殺されたけど。

文帝紀 黄初元年十一月に「封公之四子為列侯」とある。名は不明。

もっとも若い子を選んで、つぎの皇帝に立てようと思ったが、あいにく、すでに4名とも成人である。魏臣は、面倒ごとを恐れて、まだ生まれて百余日の、孫の劉康を皇帝にした。これならば、史書に名が見える。

明帝紀 青龍二年 注引『献帝伝』に「適孫桂氏郷侯康、嗣立為山陽公」とある。ただし、劉康の年齢は不明なので、なんとなく後漢にありそうなパターンにした。


曹皇后(曹操の娘)を尊んで「皇太后」とした。
退位した皇帝は、延康元年、十一月のうちに、にわかに崩じた。

史実のとおり、禅譲が達成されれば、山陽公としての余生があった。このイフ展開において、曹丕が皇帝を受けなかったので、魏臣としては、殺すしかない。もちろん、病死に見せかけて。

漢帝の殺害について、曹丕には知らされていなくて、うらで誰かがやってる。ものすごく迅速に。むしろ、曹丕が詳細を聞いても、郡臣は答えてくれず、曹丕が孤立する。華歆・王朗・賈詡とか、三公クラスのひとびとが、お悔やみの文章とかを発信したりして、「漢に天命がないことを自覚した、名君でしたね」とか、シレッと。
曹丕が憂悶して相談すると、司馬懿は「漢帝を弑殺したのは、あなたです。あなたにそのつもりがなくても、歴史家は、そのように書き残すでしょう」とかいう。皇帝への勧進に断った、バツです。

というか、太史丞(史実のように昇進し、太史令になるか)の許芝が、「曹丕が漢帝を弑殺した」と記す。それを知った曹丕が、許芝を殺す。許芝としては、せっかく難しいことを研究して、曹丕を皇帝に勧進したのに、曹丕が断ってムダにしたから、胸中に含むものがあった。
曹丕は、忠臣をお手軽に殺すから、ありそうな展開。

漢帝殺害に対する、蜀漢の反応

このころの蜀の関心事は、益州の防衛でしょう。関羽が死んで、ちょうど1年しか経ってない。陸遜伝には、陸遜が荊州を平定して、支配に組み込んでいく様子が書かれている。青い線が、陸遜の攻略したところ。

ここの前年の「建安二十四年十一月」の記事に続き、陸遜伝に、
陸遜は、将軍の李異・謝旌らに3千人をつけ、蜀將の詹晏・陳鳳を攻めさせた。李異は水軍を、謝旌は歩兵をひきいる。険要を断絶し、詹晏らを破り、陳鳳を生け捕った。また、房陵太守の鄧輔・南郷太守の郭睦をおおいに破った。秭歸の大姓の文布・鄧凱らは、夷兵の数千人をあわせ、西の劉備についた。陸遜は、謝旌を部し、文布・鄧凱を討った。文布・鄧凱は脱走し、蜀で将となった。陸遜は人をやって、文布・鄧凱を誘う。文布は、衆をひきいて(荊州に)還って降った。前後して斬獲・招納は、数万を数えた。孫権は陸遜を、右護軍・鎮西将軍とし、婁侯に進めた。
http://3guozhi.jp/o/rsn.html



史実では、翌年四月に、劉備が「漢帝が殺された」を理由にして皇帝となり、七月に荊州を攻めて、呉と衝突する。蜀の人々が「じつは漢帝が生きている」と知っていたか、勘ぐっても虚しいですが、きっと知っていたでしょう。
いざ皇帝となった劉備の初めの戦いとして、魏を攻めるのか、呉を攻めるのかって議論をしたとき、いちおうは儒家が理屈をつけて受禅し、山陽公(もと献帝)を生かしている魏よりも、荊州・関羽のカタキでる呉を攻めるほうに傾いた。……と思われます。このあたりは、史料の読みこみが甘いので、補わないと。

今回の展開では、リアルに漢帝が魏に殺されたので、魏への敵愾心が沸騰する。というか、これで魏を攻めなければ、劉備集団が、割拠している意味がない。いろいろ含むものがあるが、すぐに呉と和解して、国境を確定させる。
(名目上の漢帝は存在するので、劉備を皇帝に、という話にはならない
史実で、夷陵の戦いの前に起きたような論戦が起きて、「魏を攻める」という結論になる。趙雲が、なにか良いことを言うのかなー。
 ・ 陸遜と停戦し、あわよくば、呉蜀で協調して北伐したい
 ・ 史実で諸葛亮が北伐の前にやった、南征は不用

史実において夷陵に使った軍が、健在である。劉備が生きているから、指揮をとってくれる。諸葛亮が指揮を「練習」する必要はない。


延康元年十二月、諸葛亮が呉にゆく

曹丕は、漢帝と距離を取るために、洛陽にゆき、再建を始める(史実と同じ)。
こうなれば、漢朝をきちんと再建することでしか、曹丕の政権の正統性は保てない。史実では、魏の五都の整備のために工事をしたが、ちょっと意味が変わる。

蜀からの使者が、呉にゆく。もしかしたら、諸葛亮がみずから行く。

史実では、劉備の没後、鄧芝がゆく。諸葛亮はすでに政権の中枢にあり、みずから行くような状況じゃなかった。しかし本作は、史実よりも3年早いし、「漢帝が殺害された」は、諸葛亮にとって非常時。北伐を成功させなければならない。

呉にいった諸葛亮は、さまざまな論戦をくぐりぬける。
形だけは魏に「奉献」している呉に、魏を攻めることを納得させる。もともと呉は、魏への臣従が、本心からのものではない。孫権の君主権力の源泉は、「孫堅の漢への忠」にもある。孫権を、魏との戦いに仕向けることは、難しくない。というか史実でも、夷陵の戦いのすぐ後、魏・呉は開戦する。
「漢帝のカタキを取るために、関羽のことは、いったん忘れましょう」という、国是まっしぐらの行動に、蜀を駆り立てた。曹丕が皇帝即位を断ったために、(必然の流れとして)魏臣が、漢帝を殺したせいで。よさげな、玉突き事故。

蜀・呉による、魏への北伐の戦略が描かれて、この年は暮れてゆくのでした。

劉封・孟達が、どのように転ぶかが重要になりそう。

正月に曹操が薨じ、曹丕が魏王になってから、十月の革命さわぎを経て、十一月に漢帝が弑殺されるという、濃厚な1年。曹丕が皇帝を断ったことにより、蜀が、緊急的に呉との協調を選び、これから、どうなることやらと。161029

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