孫呉 > 『呉志』巻十六 潘濬伝・陸凱伝を読む

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関羽を棄てた荊州名士:潘濬伝

甘寧伝を読みまして、孫呉にはトザマが少ないなと思いました。トザマつながりで、潘濬伝を読みます。陸凱伝とセットになっていますが、巻末の評を見ても、このふたりをセットにする理由が見当たらない。活躍した時期が異なるし。いちおう「君主を諌めて善道した」という共通点があろうが、諌言はみんなやる。
甘寧・潘濬を一巻にまとめてはどうかと思ったが、あまりにキャラが違うので、甘寧は武将をまとめた『呉志』巻十に詰めこまれたようである。

潘濬が劉表に仕える

潘濬、字承明、武陵漢壽人也。弱冠、從宋仲子、受學。
吳書曰。濬爲人聰察、對問有機理、山陽王粲見而貴異之。由是知名、爲郡功曹。

潘濬は、あざなを承明といい、武陵の漢寿のひと。

漢寿は、『蜀志』関羽伝にみえる。

弱冠のとき宋仲子に従って、学を受く。

宋仲子は、『魏志』劉表伝・王粛伝に見える。
『蜀志』尹黙伝はいう。尹黙は遠く荊州に遊学し、司馬徳操・宋仲子らに古学を受けたと。『蜀志』李譔伝に、父の李仁は、同県の尹黙とともに荊州にあそび、司馬徽・宋忠らより学んだと。
ぼくは思う。潘濬は、尹黙・李譔と同門となる。というか、司馬徽のネットワークは、どれほど広いのか。

『呉書』はいう。潘濬のひととなりは、聡察で、対問すれば機理がある。山陽の王粲は、潘濬を貴異とした。これにより名を知られ、郡功曹となる。

『魏志』にある王粲の記述をみよ。
宮城谷昌光『三国志』外伝は、はじめに王粲のお話でした。


未三十、荊州牧劉表辟爲、部江夏從事。時、沙羡長、贓穢不脩。濬、按殺之、一郡震竦。後爲湘鄉令、治甚有名。

30歳になる前、荊州牧の劉表に辟され、部江夏從事となる。

『続百官志』はいう。諸州には、みな従事がある。『続郡国志』はいう。荊州刺史は郡7つを部す。ゆえに「部江夏従事」という。胡三省はいう。漢制では、州牧・刺史は、諸郡を部し、各郡に部従事をおく。
ぼくは思う。江夏太守は黄祖。つまり、黄祖を監督するのが、潘濬である。誤解を招く書き方をすると、ブルーカラーの黄祖を、学歴あるホワイトカラーの潘濬が見張る。そこで、甘寧・潘濬が出会っても、おかしくない。

ときに沙羡長は、賄賂を受けて(法令を)脩めず。潘濬が沙羨長を殺すと、一郡は震竦した。湘郷令となり、治績に名あり。

沙羨は孫策伝に見える。江夏郡である。
湘郷は、『蜀志』蒋琬伝にみえる。


潘濬が劉備に仕える

劉備領荊州、以濬爲治中從事。備入蜀、留典州事。

劉備が荊州を領すると、潘濬を治中從事とした。劉備が入蜀すると、留まって州事を典した。

『蜀志』楊戯伝の『季漢輔臣賛』にみえる。「潘濬、字承明、武陵人也。先主入蜀、以爲荊州治中、典留州事、亦與關羽不穆。孫權襲羽、遂入吳。普、至廷尉。濬、至太常、封侯」と。郝普の記述が混在。関羽と穆せずというのがポイント。


潘濬が孫権に仕える

孫權、殺關羽、幷荊土、拜濬輔軍中郎將、授以兵。

孫権が関羽を殺し、荊州をあわせた。潘濬は輔軍中郎将を拝し、兵を授かる。

呉は輔軍中郎将を置き、定員1名。←情報ふえてない


◆孫権への転職をこばむ

江表傳曰。權克荊州、將吏悉皆歸附、而濬獨稱疾不見。權遣人以牀就家輿致之、濬伏面著牀席不起、涕泣交橫、哀咽不能自勝。權慰勞與語、呼其字曰「承明、昔觀丁父、鄀俘也、武王以爲軍帥。彭仲爽、申俘也、文王以爲令尹。此二人、卿荊國之先賢也、初雖見囚、後皆擢用、爲楚名臣。卿獨不然、未肯降意、將以孤異古人之量邪?」使親近以手巾拭其面、濬起下地拜謝。卽以爲治中、荊州諸軍事一以諮之。

『江表伝』はいう。孫権が荊州を得ると、将吏はみな帰付した。潘濬だけが病気と称して、孫権に会わず。孫権は潘濬を担ぎだし、ベッドごと連れてきた。潘濬は横になって泣きまくる。

何焯はいう。潘濬は、蜀漢の叛臣であり、『季漢輔臣賛』にある。『江表伝』のように、潘濬が蜀漢を慕って泣きまくるのは、ウソである
ぼくは思う。孫権に、故事をたっぷり引いたセリフを喋らせ、恰好を付けた。『江表伝』の作者が、学識を見せびらかしたのだ。宋忠に学んだという潘濬こそ、そのセリフを仮託・代入するのに適任だと。
何焯の言うとおり、蜀から見たら「裏切り者」であり、『江表伝』に見られるような「蜀漢が恋しいよお!」という応酬は、なかっただろう。あったとしても、ポーズだけ。

孫権はあざなで呼びかけ、故事をひいて潘濬を説得した。潘濬は侍中となり、荊州の諸軍事は、すべて諮られた。

胡三省はいう。郝普・麋芳・傅士仁は、呉にいったが、活躍しない。しかし潘濬だけが活躍した。陸遜・諸葛瑾と同類とされ、重んじられた。


◆南陽の旧族を人物鑑定

武陵部從事樊伷誘導諸夷、圖以武陵屬劉備、外白差督督萬人往討之。權不聽、特召問濬、濬答「以五千兵往、足可以擒伷。」權曰「卿何以輕之?」

『江表伝』はいう。武陵部從事の樊伷は、諸夷を誘導し、

『通志』は「武陵郡従事」とする。
ぼくは思う。潘濬は「部江夏従事」であった。いま樊伷は「武陵部従事」である。「部江夏従事」は荊州刺史の手先として江夏を監督したけど、「武陵部従事」は武陵太守の配下という理解であっているのかなあ。

武陵を劉備に与えようとした。(呉ではこれを受けて)督をえらんで1万人を督させ、樊伷を討てという。

胡三省はいう。「差」は「択」の意味。だから「えらんで」とした。
厳衍はいう。上督を「督将」といい、下督を「統率」という。

孫権はゆるさず、潘濬に聞いた。潘濬「5千の兵を行かせれば、樊伷を擒えられる」と。孫権「なぜ樊伷を軽んずるか」。

濬曰「伷是南陽舊姓、頗能弄脣吻、而實無辯論之才。臣所以知之者、伷昔嘗爲州人設饌、比至日中、食不可得、而十餘自起、此亦侏儒觀一節之驗也。」權大笑而納其言、卽遣濬將五千往、果斬平之。

潘濬「樊伷は南陽の旧姓であり、

胡三省はいう。南陽の樊氏とは、光武帝の母党である。ゆえに「旧姓」という。
ぼくは思う。劉表期に、潘濬が宋忠・司馬徽と交際して、南陽「名士」とネットワークを持ったがゆえに、こういう人物の見定めができる。水鏡先生じこみ。『江表伝』だけど、この記事は貴重な情報をつたえる。

脣吻を弄せるが(ベラベラ喋るが)、じつは辯論の才がない。むかし樊伷が州人のために食事の席を設けたが、日中になっても料理が出てこず、10余回も立って(調理場を見に行った)。『侏儒は一節の験に観る』ですよ」と。

桓譚『新論』に見え、胡三省によれば「芸人は笑いを取って愛されるが、ちょっと話を聞けば、芸の巧拙がわかる」という意味。厳衍は胡三省が誤りといい、チビは、身体のパーツだけを見れば、チビと分かると。
ぼくは補う。食事会の準備すら、手際よくできないくせに、反乱のプロデュースなんてムリだと。上流の社交界にありがちな、気品あふれる人物評である。潘濬が、劉表→劉備→孫権と転職しても、埋没せずに活躍したのは、この文化資本のおかげ。

孫権は大笑して、潘濬に従う。潘濬に5千をつけた。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻八十に、軍山が常徳府の龍陽県の東80里にあり、潘濬が樊伷を攻めるとき、屯して「軍山」と名づいたと。
唐庚はいう。『江表伝』で潘濬は泣いて孫権に仕えるのを拒んだが、樊伷が武陵を劉備に差し出そうとすると、樊伷を討った。劉備を思う気持ちは、どうなったのか。楽毅は燕国から趙国に行ったが、趙国が燕国を攻めるとき(旧主を攻撃したくなく)参戦を拒んだ。潘濬は、しれっと旧主の劉備を攻撃する。ひどいやつだ。
王氏はいう。潘濬は劉備の侍中となり、州事を典留した。劉備軍における職務は軽くない。潘濬は、士仁とともに公安を守ったが、士仁の裏切りを知っていたはず。どうして劉備から荊州を任されたのに、孫権に荊州を与えてしまったか。樊伷は武陵を劉備に与えようとしたから、旧臣の義を失わない。しかし潘濬は、せっかくの樊伷を斬った。ひとの心があるのか。楽毅は「奴隷になっても、旧主を攻撃しない」と覚悟したが、それと比べると、潘濬は節操がない。ゆえに潘濬は、麋芳・士仁と同じく、楊戯『季漢輔臣賛』でそしられた。『資治通鑑』は、『江表伝』で潘濬が劉備のために泣く記事を載せ、『季漢輔臣賛』にある「関羽と潘濬は不仲」を載せない

潘濬は、樊伷を斬った。

ぼくは思う。関羽と蜀ファンに最も呪われるべきは、武陵の潘濬。
劉備から荊州を任されたが(留典州事)、ともに公安にいる士仁の離反を黙認したようで、孫権に転職。『江表伝』では劉備を慕って泣き、孫権への仕官を拒むが、恐らくウソ。宋忠・司馬徽に習った文化資本で、華麗に呉で昇進。旧知の樊伷が、武陵を劉備に「返還」しようとすると自ら阻止。
楊戯『季漢輔臣賛』で「糜芳・士仁・郝普・潘濬」が裏切り者としてセットで論じられている。前の3人が呉で活躍しないが、潘濬だけは教養と人脈をウリに活躍し、『呉志』に列伝を得る。呉に移籍後、蜀が不利になるように、知恵まで出す。たしかに、故国の攻撃を拒んだ楽毅とはちがう。
『江表伝』の大泣きエピソードも、潘濬の経歴にスワリの悪さを感じた呉ひとが、納得するために捻り出したのだろう。まあ、全国レベルのネットワークを持ち、視点の高い潘濬にすれば、劉備とか孫権とか、どちらでも同じだったのかも。


三世の名臣・芮玄の兵をもらう

遷奮威將軍、封常遷亭侯。

奮威将軍にうつり、常遷亭侯に封ぜられる。

あるひとは「高遷亭侯」とすべきかという。盧弼はいう。高遷は、屯名であり、県名ではない。『呉志』宗室 孫静伝にみえる。常遷は『宋志』寧州の南広郡にみえる。東晋が立てた。当時は「常遷」という県はないから、「高遷」「常遷」ともおかしい。
ぼくは思う。よく移籍するから(常に遷るから)という、経歴の皮肉とか。


吳書曰。芮玄卒、濬幷領玄兵、屯夏口。
玄字文表、丹楊人。父祉、字宣嗣、從孫堅征伐有功、堅薦祉爲九江太守、後轉吳郡、所在有聲。

『呉書』はいう。(黄武五年)芮玄が卒すると、藩屏は芮玄の兵をあわせて領し、夏口に屯した。
芮玄は、あざなを文表といい、丹楊のひと。父の芮祉は、あざなを宣嗣といい、孫堅に従って征伐して功あり。孫堅は芮祉を薦めて九江太守とし、のちに呉郡太守に転じ、任地で声望あり。

ぼくは思う。潘濬伝にひく『呉書』によると、丹陽の芮祉は孫堅に従って戦い、孫堅から九江太守・呉郡太守に薦められ、治績もある。
孫堅は死ぬまで袁術の影響下。つまり袁術は南陽に居ながらにして、芮祉を九江太守・呉郡太守とし、揚州を遠隔支配(影響力を行使)した。揚州刺史に陳瑀・鄭泰を送り込むのと同じ種類の動き。袁術の揚州支配は、一日にして成らず。


玄兄良、字文鸞、隨孫策平定江東、策以爲會稽東部都尉、卒、玄領良兵、拜奮武中郎將、以功封溧陽侯。權爲子登揀擇淑媛、羣臣咸稱玄父祉兄良並以德義文武顯名三世、故遂娉玄女爲妃焉。黃武五年卒、權甚愍惜之。

芮玄の兄の芮良(芮祉の子)は、あざなを文鸞といい、孫策に随い江東を平定た。孫策は、芮良を会稽東部都尉とし、卒すると芮玄が兄の兵を領し、奮武中郎将となり、溧陽侯に封ぜられた。

会稽東部都尉は、張紘伝に。奮武中郎将は、定員1名で呉がおく。溧陽は、『呉志』妃嬪 何姫伝にある。 ぼくは思う。芮氏は、『呉志』巻十に列伝があってもおかしくにない。というか、韋昭『呉書』には列伝があったが、陳寿が脱落させた。経歴から見ても、『呉志』巻十と遜色なく、官職・爵位ともに高い。

孫権の子の孫登が淑媛(妻)を選ぶとき、みな郡臣は「芮玄は、父の芮祉・兄の芮良が徳義をもって文武があり、3世にわたり名が顕れるから、芮玄の娘を妃にせよ」という。黄武五年(226) 芮玄は卒した。孫権は愍惜した。

ぼくは思う。孫登が皇帝になれば、芮氏が外戚となり、権限を得たかも。郡臣がいうように、芮氏はトップクラスの呉の名臣であり、『呉志』巻十のひとびとよりも格上である。芮氏は「未遂」者であり、陳寿に切り捨てられた。
トザマである潘濬には、プロパーの兵士がいない。そこで孫権は、めぼしい当主のいなくなった芮氏の兵を、潘濬に移した。こういう融通が、孫権政権の特徴なのだろう。


潘濬が九卿となる

權稱尊號、拜爲少府、進封劉陽侯、遷太常。

孫権は尊号を称し、少府を拝し、進んで劉陽侯に封ぜられ、太常に遷る。

劉陽は、周瑜伝にみえる。


江表傳曰。權數射雉、濬諫權、權曰「相與別後、時時蹔出耳、不復如往日之時也。」濬曰「天下未定、萬機務多、射雉非急、弦絕括破、皆能爲害、乞特爲臣故息置之。」濬出、見雉翳故在、乃手自撤壞之。權由是自絕、不復射雉。

『江表伝』はいう。孫権はキジ射ちが好き。潘濬が諌めた。孫権「昔ほど、やってねえよ」。潘濬「天下が定まらず忙しいはず。弓矢が壊れてもケガをする」と。孫権はキジ羽でつくったカバーを見つけても(キジを思い出すから)手にとって壊した。やっとキジ射ちを辞めた。

「翳」とは、隠蔽するもの。カバーか。ちくま訳では「かざし」。
ぼくは思う。孫権が皇帝になったから、こういう「ほのぼの君臣シアター」みたいな茶番が、史書に表れるようになったと。


五渓蛮を討伐する

五谿蠻夷、叛亂盤結、權假濬節、督諸軍討之。信賞必行、法不可干、斬首獲生、蓋以萬數、自是羣蠻衰弱、一方寧靜。

五谿の蠻夷は、叛乱して各地で結ぶ。

五谿の蛮夷は、『蜀志』先主伝 章武元年にある。
ぼくは思う。蜀になびいた樊伷も、いまの蛮夷も、潘濬の故郷の武陵で、呉に敵対した。潘濬がそれを平定した。甘寧と同じで「荊州の経験者」は、荊州方面を任される。まっとうな人事である。

孫権は潘濬に節を仮し、諸軍を督して討たせる。信賞は必ず行はれ、法は干す可からず、斬首・捕獲は万を数え、蛮族たちは衰弱し、各地は寧静となった。

趙一清はいう。『方輿紀要』巻八十に、常徳府の武陵県に臨沅城がある。呉の潘濬は、郡城が大きく、固め(守り)にくいから、障城を築き、郡治を移したという。
『水経』沅水注に「潘承明の塁」が見える。潘濬が五谿蛮を討つとき、ここに軍営を築いた。
『長沙耆旧伝』はいう。夏隆が郡に仕えたとき、潘濬が南征した。武陵太守は夏隆をつかわし、文書をおくり礼を致す。潘濬な中流に飛帆して(川に浮かんで)いる。力が及ばないと(夏隆が、水上の潘濬と合流できず?)夏隆は岸辺で刀を抜き、潘濬を指して「賊だ」と叫んだ。潘濬は夏隆を捕らえた(夏隆は、狙いどおり潘濬と合流できた?)。潘濬は、夏隆の権変を評価して、みずから縄をとき、酒食を賜った。
ぼくは思う。武陵太守からの連絡係を、夏隆がきちんと果たした。潘濬の注意を引くために、陸地から、水上の潘濬を「賊」呼ばわりした。という話かな。


潘濬の人柄エピソード集

吳書曰。驃騎將軍步騭屯漚口、求召募諸郡以增兵。權以問濬、濬曰「豪將在民閒、耗亂爲害、加騭有名勢、在所所媚、不可聽也。」權從之。

『呉書』はいう。驃騎將軍の步騭は、漚口に屯し、諸郡から召募して兵を増やしたい。孫権は、潘濬に相談した。

漚口は、歩隲伝にみえる。

潘濬「豪将が民間(孫権の遠く)にいれば、乱して害をなす。しかも歩隲は名勢があり、どこにいても媚びられる。歩隲の増兵をゆるすな」と。孫権は従った。

孫権の君主権力の性質について、論文に使えそうな話。
そして、東晋の課題まで、いっきに見抜いてしまうという洞察力。


中郎將豫章徐宗、有名士也、嘗到京師、與孔融交結、然儒生誕節、部曲寬縱、不奉節度、爲衆作殿、濬遂斬之。其奉法不憚私議、皆此類也。

『呉書』はいう。中郎将の豫章の徐宗は、名のある士で、かつて京師で孔融と交結した。しかし儒生で誕節、部曲は寛縦で、節度を奉じない。潘濬が斬った。潘濬が、法を奉じて私議を憚らないのは、こんな(歩隲・徐宗への対処の)類い。

豫章の徐氏、豫章徐氏を、いつか論じるでしょう。というわけで、検索してヒットするように、「豫章徐氏」「豫章の徐氏」と書いておく。
ぼくは思う。歩隲も徐宗も、揚州を名声の場とする。荊州を場とする潘濬は「客観的」に接することができる。このように、州が複数あることで、政権内の人間関係が複雑となり、成熟する。どこかの蜀漢と違うなあ!


歸義隱蕃、以口辯爲豪傑所善、濬子翥亦與周旋、饋餉之。濬聞大怒、疏責翥曰「吾受國厚恩、志報以命、爾輩在都、當念恭順、親賢慕善、何故與降虜交、以糧餉之?在遠聞此、心震面熱、惆悵累旬。疏到、急就往使受杖一百、促責所餉。」當時人咸怪濬、而蕃果圖叛誅夷、衆乃歸服。

呉に帰服した隠蕃は、口弁によって豪傑に認められた。潘濬の子の潘翥も、隠蕃を追って(交際を申し出て)食物を贈った。潘濬は「降虜と付き合うな」と怒って、潘翥に杖1百を加えた。みな潘濬を怪しんだが、はたして隠蕃は謀反して誅された。みな潘濬に帰服した。

「義に帰す」とは「降った」と同じこと。隠蕃のことは、胡綜伝にみえる。
ぼくは思う。潘濬の見識は、司馬徽に通じ、「人物を適切に見抜くこと」にある。歩隲が君主権力を脅かすこと、徐宗は斬るしかないほど処置なし、隠蕃は呉に叛乱することを、いずれも予期して、主の孫権・子の潘翥をみちびいた。
胡三省はいう。潘濬は、子の罪を国中にひろめて見せ(隠蕃との交際は「罪」だと伝え)後禍を絶とうとした。
何焯はいう。潘濬は、劉表・劉備の旧臣である。ゆえに、降人が反覆して(主君を変えたひとが、また主人を変えて)自分と同じようになる(潘濬が劉備を裏切ったのと同じことをする)のを恐れた。←辛辣!


江表傳曰。時濬姨兄零陵蔣琬爲蜀大將軍、或有閒濬於武陵太守衞旌者、云濬遣密使與琬相聞、欲有自託之計。旌以啓權、權曰「承明不爲此也。」卽封旌表以示於濬、而召旌還、免官。

『江表伝』はいう。潘濬の姨兄(妻の兄)は、零陵の蔣琬である。蒋琬が蜀の大將軍となると、

胡三省はいう。同出(同腹の兄弟?)を姨といい、母の姉妹を姨といい、妻の姉妹もまた姨という。もし母の兄弟なら「舅」という。つまり(潘濬からみて蒋琬は)妻の兄弟であろう。
盧弼はいう。『通鑑』は「蒋琬が諸葛亮の長史になると」とある。こちらが正しく、『江表伝』が誤りである。王濬が武陵蛮を討つのは、黄龍三年(231) である。諸葛亮が祁山に出て、蒋琬が張裔に代わって長史となったとき。
衛旌は、歩隲伝にもみえる。

あるものが潘濬と、武陵太守の衛旌を対立させようと、衛旌に「潘濬は蒋琬と通じ、自ら託するの計がある(呉を裏切るつもり)」と教えた。 衛旌が孫権に報告した。孫権は「承明がそんなことせん」という。衛旌の報告書を封印して、潘濬に送って見せた。衛旌は、武陵太守を免じられた。

ぼくは思う。潘濬が、「呉・蜀をまたがって立場が微妙」という記事は、『江表伝』ばかり。ゲスのかんぐり。もしくは、ゲスの関心により、「取材活動」を成功させてきた。


呂壱をとがめ、孫権を反省させる

先是、濬、與陸遜俱、駐武昌、共掌留事、還復故。

これより先、潘濬は陸遜とともに、武昌に駐し、ともに留事を掌る。(武陵蛮の討伐から)還ると、もとにもどる(武昌に駐す)

潘濬が武昌にいった時期を、特定する必要がある。


時、校事呂壹、操弄威柄、奏按、丞相顧雍、左將軍朱據等、皆見禁止。黃門侍郎謝厷、語次、問壹「顧公、事何如」壹答「不能佳」厷又問「若此公免退、誰當代之」壹未答厷、厷曰「得無、潘太常得之乎」壹良久曰「君語、近之也」厷謂曰「潘太常、常切齒於君、但道遠、無因耳。今日代顧公、恐明日便擊君矣」壹、大懼、遂解散雍事。

ときに校事の呂壱が、威柄を操弄し、呂壱の提案によって、丞相の顧雍・左將軍の朱據らが「禁止」された。

胡三省はいう。「禁止」とは、まだ獄には下さぬが、人に監視され、出入を禁じられ、親党と交通できない状態のこと。
鄭樵『通志』はいう。「禁止」とは、殿省に入るのを禁じること。光禄勲が殿門を管轄しているから、光禄勲が、立ち入り禁止を管理する。
ちくま訳では「軟禁」とある。胡三省にちかい。

黃門侍郎の謝厷(謝宏)は、呂壱に「顧公はどうなる」と聞くと、

謝厷のことは陸遜伝にある。「厷」は「宏」と同じ。

呂壱「解放されまい」と。謝宏は「もし顧雍が免じられたら、後任はだれかな」、呂壱は答えず、謝宏「候補がなければ、潘太常だろう」、呂壱はしばらくして「そうだね」、謝宏「潘太常は、つねに呂壱に切歯している。遠隔地(武昌)にいるから、関与しないだけ。

『通鑑』は「遠隔地にいるから」という理由を省く。つられて胡三省は、「呂壱の罪をあげるのは、太常の職務ではないから、呂壱に手を出さない」と解釈する。
胡三省はいう。漢制では、丞相・御史は、百官の罪を挙奏した。潘濬が丞相となって初めて、呂壱の罪を指摘することができる。

顧雍に潘濬が代われば(丞相として)明日にも呂壱を攻撃する」と。呂壱は(潘濬の着任を)おおいに懼れ、顧雍らを解放した。

濬、求朝、詣建業、欲盡辭極諫。至聞、太子登已數言之而不見從。濬、乃大請百寮、欲因會手刃殺壹、以身當之爲國除患。壹、密聞知、稱疾不行。濬、每進見、無不陳壹之姦險也。由此、壹寵漸衰、後遂誅戮。權、引咎責躬、因誚讓大臣。語在權傳。

潘濬は朝見を求め、(武昌から)建業にきて、呂壱のことを極諫しようとした。だが、太子の孫登がすでに諌め(孫権に対して)効果がないことを聞いた。潘濬は百僚とともに、呂壱を刃で殺し、国の患いを除こうとした。
呂壱は潘濬の計画を知り、病気といい出ず。潘濬は進見するたび(孫権に)呂壱の姦険をのべた。呂壱への寵愛がおとろえ(赤烏元年)呂壱を誅戮した。孫権は自己批判して、大臣にあやまった。孫権伝にある。

子の潘秘は、荊州の州大中正

赤烏二年、濬卒、子翥嗣。濬女、配建昌侯孫慮。

赤烏二年(239) 潘濬は卒した。子の潘翥が嗣ぐ。潘濬の娘は、建昌侯の孫慮に配す。

王氏はいう。『通鑑』は景初二年(238) 冬十月、太常の潘濬が卒したとする。呉主は鎮南将軍の呂岱を、潘濬の後任として太常にしたと。『綱目』は冬十月、呉が将軍の呂岱を武昌に鎮させたとし、潘濬の後任としない。
王氏はいう。太和五年(231) 孫権は太常の潘濬に節を仮し、督軍して五渓蛮を討たせた。『綱目』は潘濬が五渓蛮を撃つとき、なんの官位だったか記さない。潘濬(というか呉を丸ごと)を貶めたのである。


吳書曰。翥字文龍、拜騎都尉、後代領兵、早卒。翥弟祕、權以姊陳氏女妻之、調湘鄉令。

『呉書』はいう。潘翥は、あざなを文龍といい、騎都尉を拝し、のちに潘濬に代わり兵を領し、早く卒す。潘翥の弟の潘秘は、孫権の姉の陳氏の娘をめとり、調湘郷令となる。

孫権の姉の陳氏の娘のことは、『呉志』妃嬪 呉夫人伝をみよ。

襄陽記曰。襄陽習溫爲荊州大公平。大公平、今之州都。祕過辭於溫、問曰「先君昔曰君侯當爲州里議主、今果如其言、不審州里誰當復相代者?」溫曰「無過於君也。」後祕爲尚書僕射、代溫爲公平、甚得州里之譽。

『襄陽記』はいう。襄陽の習温は、荊州の大公平となった。大公平とは、いまの州都(晋代の州都中正)のこと。

ぼくは思う。襄陽習氏は、習禎がいる。妹が龐林の妻。習鑿歯の祖先。西晋の習温も、この一族に属するのだろう。

潘秘は習温にあいさつし、「むかし父は、きみが州里の議主(人物鑑定を仕切れる権威)になると言った。その通りになったが、つぎの州里はだれか」と。習温「きみより適任はない」と。潘秘は尚書僕射となり、潘秘に代わって公平となり、はなはだ州里の誉を得た。160615

ぼくは思う。潘濬が、荊州レベルの名族であったことが分かる。文化のランキングでは、呉ではトップクラスだった。劉備とか孫権とか、どちらでもいいじゃんと。西晋になっても、州大中正のなかで、その文化資本は継承された。

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いつの日か、陸凱伝をやるために場所を確保する。160615

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