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『資治通鑑』論賛を読む 1)順帝から呂布まで
司馬光が作った編年体の歴史書『資治通鑑』。タイトルは、皇帝の「治」世の「資」料として、「通」史をざくっと「鑑」みよという意味だとか。ありがたい教科書のつもりで作られました。
教科書には、きっちり教訓が垂れられているものです。それが、司馬光らが付けた、論賛というもの。平凡社が1970年に出した抄訳を見ながら、論賛がどんなものか要約し、ぼくも考察をしてみようと思います。

順帝の127年 天子の招聘
■教材の史実
樊英は名声があったので、強引に推挙された。樊英は出仕したくなかったからモチベーションが低く、順帝を罵った。
同時期に召し出された河南郡の張楷は、樊英をなじった。
「人の生き方は2つだ。出仕するか、在野にあるかだ。君は名声があり、自信たっぷりだった。だが天子を罵っただけで、政策に対する考えがなかった。とんだ評判倒れだ」

■論賛の教訓
司馬光曰く。
出仕を拒まれたのは、順帝の徳が薄いからだ。樊英は悪くない。
君子(立派な人物)は、もともと世に出ることを望んでいる。しかし政治が悪いと、身に害が及ぶので、隠れてしまう。君子を呼びつけるために、「高位を用意するから、出てきてくれ」とか「出てこなければ、厳罰を科すぞ」と言うのは、間違っている。

■感想と考察
樊英は、『後漢書』の列伝72が立っている人物です。
司馬光の言い分には、「ああ、そうですか」としか言えないのだが(笑)
順帝は宦官によって皇帝に立つことが出来て、晩年は梁冀をのさばらせた。そりゃ、立派な皇帝とは言えない。
各地の風俗を巡察させた8人の賢者を無視するな!と言っておくか。
順帝の132年 孝廉の年齢制限
■教材の史実
132年11月18日、尚書令の左雄の提案で、詔が出た。
「孝廉に推挙するのは、40歳以上とせよ。だが、顔淵や子奇のような天才なら、40歳より若くてもよい
広陵郡から挙がってきた徐淑は、40歳未満だった。
「ルールより、お若いようですが」
と尚書郎が聞いた。
「天才なら、年齢を問わないと聞きましたが」
と徐淑は胸を張った。尚書郎は困ってしまった。尚書のボスで、言いだしっぺである左雄が出てきて、徐淑に質問した。
「ほお、あなたは天才ですか。顔淵は1を聞いて10を知ったそうです。あなたは1を聞いたら、いくつ知りますか
徐淑は言葉に詰まってしまった。広陵太守も連座で罷免された。

■論賛の教訓
馬鹿げたルールを作ったものだ。
制度とは、実行可能なものを作らねばならない。『礼記』に、「40歳になって初めて仕えた」と書いてあるからと言って、杓子定規に守らせるのは、道理に合わない。二度と出ないような天才を基準にしようというのは、不公平だ。

■感想と考察
左雄は、『後漢書』列伝51です。
教訓は一般的だから、どうということもない(笑)
この企画、大丈夫だろうか。。
順帝の141年 順帝の暗愚
■教材の史実
141年8月4日、梁商が死んだ。11日、梁商の子で河南尹だった梁冀を大将軍とした。梁冀の弟で侍中の梁不疑を河南尹とした。

■論賛の教訓
梁冀が頑迷狂暴であることは、日ごろから分かっていた。しかし大将軍にしてしまった。これが漢王室を滅ぼす結果を招いた。
前漢ノ成帝は、外戚の王氏の政治を任せた。だが王立という人が適任でないと知ると、たとえ外戚でも用いなかった。
(前漢は王氏に滅ぼされるのだが) 順帝がやったことは、成帝がやったよりも、さらにひどい。

■感想と考察
王莽が前漢をどのように滅ぼしたかは、知っておくべきだね。司馬光がここで比較してくれたのは、いい参考です。後漢の人は、前漢がどう滅びたか知っており(当然だが)、同じことをしないように注意したはず。
後漢のことを知るためには、前漢を知るべきだ。そのうちこのHPで扱っていきます。
桓帝の151年 北風と太陽
■史実の教訓
151年11月28日、洛陽で地震が起きた。朝廷は、高潔な人を募った。
タク郡の崔寔が呼ばれたが、病気を口実に引き返してしまった。崔寔は在野にいて、『政論』を著した。曰く、
「刑罰は乱世を治める薬で、徳教は治世を褒めるご馳走である。世が乱れているとき、政治方針が徳教に傾くのは、誤りだ。ご馳走で病気は治らない。綱紀を引き締めよ」
仲長統は、『政論』に賛成して言った。
「人の上に立つ者は、この本を座右に置くべきだ」

■論賛の教訓
『政論』を賞した仲長統は、バカヤロウである。
後漢の統治は、もう充分に厳しかった。これ以上厳しくして、どうするのか。腰抜けの皇帝が襟を正し、無法な近臣を除くのが先である。
政治が寛大なら、民は放漫になる。民が放漫になったら、政治を厳格にせよ。民が窮屈になれば、寛大にせよ。適時に適切な対応をするのが、不易の政治の常道だ。

■感想と考察
司馬光の一般論には、誰も反論できないわけですが(笑)
桓帝のときは、外寇や天災が多かったから、どうにもならないと思う。北風を吹かせば、黄巾ノ乱が早く起きる。太陽を照らせば、国庫がカラになる。桓帝は後者を選んだのでした。
桓帝がどういう政策を打てば良かったか、いま5分くらい手を止めて考えてみましたが、後世人の知識を以っても分かりませんでした。。
霊帝の169年 羌族への対処
169年7月、段熲は東羌を平定した。
段熲は180回戦い、38000余人の首を斬り、家畜を24万7000余頭も得た。費用は44億銭かかり、400余人が戦死した。
段熲は戦功により、新豊県侯に封じられた。封邑は1万戸。

■論賛の教訓
異民族といえど、人間だ。人間扱いをしなければ、叛くだろう。異民族は、手懐けて遠くに離してしまうのが正解である。気ままに殺しまくってはいけない。段熲は勝ったかも知れないが、君子のやり方ではない。

169年 党錮の処世
■史実の教材
169年10月、大長秋の曹節は讒言をした。
「李膺たちは、私党を組んでいます。裁判にかけるべきです」
李膺はこれを知ったが、逃げなかった。
君に仕えていたら、逃れられない困難や刑罰があるものだ。私はすでに60歳で、今回のことも天命だ。どこに逃げようというのか」
まず100余人が殺され、さらに700人が連座した。
政治を批判する人が多かったが、申屠蟠は違った。
「戦国時代、諸子百家は政治の議論をした。諸王は、自ら道を掃き清めてまで、彼らを大切にした。だが秦が統一すると、穴埋めにされ、書物を燃やされた。あのときのくり返しだ」
彼だけは姿を眩ましたので、難を逃れた。

■論賛の教訓
乱れた世の中では、ひっそりしているのが賢い。
口舌の力を信じて闘っても、かえって毒蛇の頭を挑発し、虎狼の尾を踏むだけだ。悲しいことだなあ。
「臣は世を拗ねていい」と言っているのではない。「為政者は世を正し、賢者を呼び戻せ」と説いているのでしょう。
175年 無益な禁令
■史実の教材
175年3月、徒党の形成を防ぐため、以下の禁令が強化された。
「自分の出身地で、地方官ができない」
「婚姻相手の出身地で、地方官ができない」
「地方官の出身地に、その地の出身者は赴任できない」
幽州と冀州では、ルールに適合した人が見つからず、刺史が長らく補充されなかった。

■論賛の教訓
「国が滅びそうになると、法制が煩瑣になる」と書いてあるのは、『左伝』である。豺狼のような刺史が多い時代なのに、この禁令だけは守り続けた。物笑いである。
面白い話です。「三互ノ法」と言うらしい。
192年 謙遜の知恵
■史実の教材
192年6月、王允は董卓を討ったため、功労を独り占めした。
士孫端は、功績を全て王允に与えて、侯にならなかった。そのため、難を逃れた。

■論賛の教訓
苦労して成功しても謙遜である。これが「智」でなくて、なんであろう。
「処世術」です、「立ち回り」です、「テクニック」です。
194年 母を見殺す
■史実の教材
194年4月、曹操が治める兗州は、呂布に攻められた。3県を残して、呂布に付いてしまった。程昱は、范県令の靳允に説いた。
「あなたの母は、呂布の人質です。だが母を見殺しにしてでも、曹操様に味方すべきだ。悪の呂布に従って母子ともに滅びるか、曹操様に従って、あなただけでも助かるか。この2択しかない」
靳允は曹操に付いて、呂布の将を刺殺した。

■論賛の教訓
徐衆(「程昱伝」の注)曰く。
靳允は、呂布に付くべきであった。このとき靳允は、曹操の臣ではない。孝じゃない人が、どうして忠なのか。
もし靳允が母を選んでいたら、曹操は終わってましたね。今回の論賛は『三国志』からの引用で、司馬光が言っていることではありません。
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このコンテンツの目次
>『晋書』と『後漢書』口語訳
>三国志を考察する
『資治通鑑』論賛を読む
1)順帝から呂布まで
2)孫策から曹丕まで
3)曹叡から司馬炎まで
4)懐帝から愍帝まで
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