三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
最も難解な男を、ついに解剖。曹操伝(1)
曹操のことを理解できれば、『三国志』を8割は理解したに等しい。 かつてこのHPで書いたことがありました。もう1年以上前のことです。ついに、「曹操伝」を書ける日がやって来ました。
曹操のことを知ったきっかけは、小説「曹丕と仲達」というものを書いていたときです。この小説はまだまだ未完なのだが(いずれ掲載予定)、ぼくにとっての曹操像を気づかせてくれた。

ずばり結論。曹操は、漢を復興したかっただけの人だった。光武帝を真似て漢を復活させ、漢に次の200年を重ねさせたかった。
■曹氏の素性
今さら書くまでもないが、曹操の「祖父」の曹騰は宦官で、後漢の皇帝4代に仕えた。これは、曹氏のアイデンティティです。後漢の奴僕であることが、家が興った唯一無二の理由です。

宦官に養子を認めて、皇帝権力を強化することが、後漢が選んだ「発展」の手段です。
この「発展」を裏付けるために、宦官に養子が認められた。養子を認めたことは、順帝から宦官への褒賞だ。だが、それだけじゃない。宦官は(その身体能力と矛盾してでも)代を重ねて、皇帝を補佐することが期待された。
結果論から、宦官が権力を握ったことが、王朝「衰退」の要因だと言いたくなるが、それは違う。

皇帝が誰に対抗するのかと言えば、外戚であったり、台頭しつつある豪族(名士の前身)であったり。
外戚との対立は、先に決着する。孫程が閻氏を討って順帝を即位させ、桓帝が梁冀を討って、皇帝の勝利した。三国志前史として「外戚と宦官と党人の三つ巴」と言われるが、外戚はいち早く片付いていた。竇武とか何進とかに、政局を乱す力があったとは思えない。

というわけで、曹氏に期待された命題は、「育ちつつある豪族を抑制すること」ということになる。
例えば20年後、どういう政局が訪れ、その中でどのように振る舞うべきか、そんな具体策は不明。だって乱世だもん。だが、リタイアした曹騰は、孫の曹操に、「豪族を抑制し、皇帝を助けよ」という命題を、くり返しくり返し、教え込んだに違いない。
大長秋に上り詰めた、祖父の言葉だ。生意気な曹操だって、さも真理を受け取ったかのように、謙虚に刷り込みを受け容れたに違いない。
■獅子の身中へ
曹操が初仕官するまで、どういう過ごし方をしたか。台頭しつつあった豪族に、取り入った。
祖父はすでに死んだ。政界は、宦官が腐臭を放ち始めていた。きっと曹騰は、こんなことを想定していなかったに違いない。しかし、桓帝が無責任に宦官を扱った結果、宦官の制御が効かなくなってしまった。
皇帝を助けるべき宦官が、帝国を蝕んでいる。この状況を見た、宦官の家の曹操は、複雑な決意をしたに違いない。「豪族に味方して力を持ち、宦官を正す。だがやがては、豪族も倒す」と。
アマンちゃんの曹操だから出来るような、二重構造の志です。これを本気でやろうとし、やってしまったところに、曹操の英雄たる所以があると、ぼくは思う。

橋玄に人物評をもらい、袁紹の世話になった。
これは、宦官の外に形成されつつあった「清流」社会に入ることを意味する。まずは、自分が最強の豪族になる。曹操の計画は、そこからだ。

「治世の能臣、乱世の姦雄」というキャッチコピーは有名だ。
『三国志』を読む多くの人は、「もし平和でも能力を発揮したに違いないが、後漢末は乱世だったから、姦雄の部分が発現したのね」と思うだろう。ぼくも、ずっとそう思っていた。しかし、違う。曹操自身は、ずっと治世バージョンの自分像を描き続けた。
「悪口めいた評価だが、とにかく橋玄にコメントされたことが、曹操の名士社会におけるステップになった。だから、内容はともかく、大笑いした」と言われるが、違う。
曹操は、後半部分の皮肉なんて聞く耳を持たず、前半の評価を純粋に喜んだのだ。

■董卓への怒り
袁紹が、宦官を皆殺しにした。
このときの曹操は、袁紹派として無頼を気取っていたなら、宮殿に切り込んだ兵の中に、曹操が混じっていてもおかしくない。宦官を殺すことには反対しつつも、やらざるを得ないのでは?
祖父の後輩を斬っていて、価値観の相克で人格が壊れ、ゲホゲホと片隅で嘔吐でもしていたのかも知れない笑
『蒼天航路』のように、余裕をぶっこいて寝そべり、袁紹とは独立して人士を集めていたとは思えない。曹操は、まだ必死に斬りこむような、組織的には弱い立場だ。

董卓が漢帝国を牛耳ると、関東の諸侯が挙兵した。曹操は、袁紹の傘下に、辛うじて入れてもらった。ろくに兵力がなく、わざわざ兵を買い付けてきても、謀反されて大半を失うありさま。それでも参加せずにいられなかったのは、志ゆえだ。
董卓が洛陽を焼き払っても、諸侯は手ぐすねを引いて、見ているだけだ。彼らは、サボっていたのではない。漢とは違う秩序を模索し始めた、次世代の主役たちである。
「董卓が長安に割拠するなら、オレたちも自分の国を作ってみよう。董卓が劉弁を殺してくれたおかげで、正統な王朝は消滅した。むしろ都合がいい」というのが、心ある連中の本音だろう。ただ酒宴を楽しんでいただけの奴も、大勢いただろうが笑

これが我慢ならなかったのが、曹操。
「漢のピンチなのに、あなたがたは、なぜ無関心でいるのですか!」と、涙ながらに激怒したに違いない。豪族の皮を被ると誓ったのに、それをかなぐり捨て、漢の忠臣として、見境もなく突撃した。結果、徐栄にボコボコにされ、曹洪に馬をもらってギリギリ命を繋ぎとめた。
曹操の本性であり、限界でもあった。
印象的な曹操像を提示したという意味で、たびたび『蒼天航路』を引き合いに出しますが。あの敗戦は、曹操は勇猛果敢であるという風評を得るための、計算しつくされたデモンストレーションだったことになってる。違う。1人の漢臣として、理性のメーターが振り切れてしまったのだ。

■劉協の価値
曹操がやりたかったのは、後漢の復興である。ロールモデルは、光武帝・劉秀である。すなわち、河北から南下して、洛陽に王朝を再構築する。これがやりたかった。
だが、1つのネックがあった。曹操が劉氏じゃないことだ。読んで字の如くというか、当たり前すぎるのだが。
だから、劉協という、漢の破壊者が立てた偽帝を頂いて、許昌で大切に養育した。劉協に、再び漢を起こしてもらう。これが曹操のビジョンだ。

劉協奉戴は、「ボロい偶像でもいいから拾ってきて、自陣営に箔をつけ、乱世を一歩リードするための作戦だ」と言われる。それは主眼が違う。
196年、袁紹が「なぜオレじゃなくて、曹操が大将軍なんだ」と、ブチ切れた。これは、官渡の伏線として語られるが、そうじゃない。
後漢の皇帝権力が、もっとも強い豪族・袁紹に、掣肘を加えようとした、という政治的事件だ。少なくとも、曹操的には。
このときは、曹操の軍事的基盤が弱く、袁紹が強かったせいで、成就はしなかったけれども。

■官渡の戦いの理由
曹操はずっと袁紹に可愛がってもらい、バックアップを得ながら河南に地盤を築いていった。志だけじゃ戦に勝てないから、この頃の曹操の強さは、別に論じなければならないが。

やがて曹操と袁紹と激突する。袁紹にしてみれば、「飼い犬に手をかまれた」という状態だ。だが曹操にしてみれば、当初から織りこみ済みのプランだった。
皇帝をないがしろにする強大権力を、側近である宦官が、皇帝のために倒す。洛陽でくり返し行われて構図と同じことを、曹操はやろうとした。たまたま、派手な戦になったから、後世の歴史ファンを魅了した、という違いはあるが。

曹操が袁紹を倒すことには、もう1つの狙いがあった。劉秀が挙兵した河北を手に入れて、劉秀のシナリオを自ら辿る準備ができたということだ。そのためにも、袁紹は、是非とも倒しておきたい相手だった。
■劉備という存在
『演義』でも有名な場面だが、曹操が、単なる傭兵隊長である劉備に向かって「英雄はオレとキミだけだ」と言う場面がある。劉備はビビッて箸を落っことすのだが。
このセリフは、曹操が劉備に向けた羨望の表れだと思う。「劉氏であるキミが戦に勝ち続ければ、自然と光武帝をなぞらえることができる。いいなあ」と言いたかった。だから、軍事的なポテンシャルを持った劉備を目の前にして、あんなことを言った。

■悠長な北伐
袁紹を倒した後に、執拗に北伐して烏桓まで攻め込む。官渡から赤壁まで、8年のブランク。劉備が内腿を太らせるのに充分な期間だ。「まだ残敵は多いのに」と思えば、(老い先短い)50代の曹操の時間の使い方は不自然だ。
だが、袁紹を倒した時点で、曹操の「漢室復興」プランは、ほぼ完成していた。荊州と益州とも、話が付いていた。だから、じっくり仕上げをしていたに違いない。

208年、荊州に攻め込んだ曹操は、一瞬で劉琮から降伏を受けた。益州の劉璋も、ちょっと突つけば、「降参です」と言ってきそうな従順ぶりで、兵や物を送ってきた。段取りのとおりだ。

■想定外の赤壁
ここで曹操は困った。孫権が降ってこない。
劉秀のとき、呉のあたりに割拠した勢力はなかったから、前例がない。どのように対処していいか分からない。
「おそらく大した経済基盤もなかろうから、自活は無理だろう」と、油断してかかった。ところが、せっせと江南開発をしてきた孫権は、曹操に奇跡的に牙を剥く。

赤壁は油断したから負けたんだが、油断しているゆえに本気じゃない。だから、曹操の将は1人も死ななかった。
赤壁のどこが敗北かと言えば、船が燃えたことじゃなくて、周瑜の抵抗を、予想できなかったことだ。
曹操は年内に、合肥に攻め込んでいる。赤壁では、軍事的な打撃は軽微だったから、すぐに次の攻撃に移れた。これは、愛情ならぬ「叛意」の確認行為だ。「こいつら、本当に抵抗するんだろうか」という、疑問を解決するための調査だった。孫権は、「私は降伏しませんよ」と返答した。

周瑜というのは2代にわたって三公を出した、名門だ。周瑜は、曹操が滅ぼすべき豪族に属する人間だ。
「袁紹を片付けて安心していたが、まだ漢に仇なす豪族が残っていたとは」と。曹操の頭の中は、こんな風だったに違いない。決して、鼎立だとかそんな構図は、浮かんでいない笑
最も難解な男を、ついに解剖。曹操伝(2)
■漢中攻めを謳う
211年、曹操は再び軍事行動を開始するが、このときの発令が「漢中を討つ」と。
結果的には関中の諸軍閥が、自分の勢力を素通りされることを嫌って、韓遂馬超との潼関の戦になる。ここから、「漢中と言ったのは、散在する馬超らを釣るため」と言われている。
ぼくは、違うと思う。いずれ馬超らを討つつもりはあったが、曹操は本当に漢中を攻めたかった。なぜなら、漢中は、漢王朝の聖地だから。劉備以上に、漢中の重要性を認識していたのは、実は曹操じゃないか。
馬超との戦に終始してしまったのは、挫折だ。

当時の曹操の版図から攻めるには、3つの経路がある。合肥方面、江陵方面、漢中方面。はじめの2つが無理ということが分かったので、最後の1つを選んだんだろう。
呉の実力は未知数だが、長江がキーであることは、充分に認識できた。西晋が孫皓にプレッシャーをかけたように、長江上流の益州さえ奪ってしまえば、呉が潰れるのは時間の問題だ。
周瑜が益州攻めを焦ったのは、合肥に飽いた曹操が、いつ漢中に周りこむかと、ヒヤヒヤしたから。劉備や、まして諸葛亮を恐れて、余命を振り絞ることなんて、やるまい。
すでに曹操の頭の中に、266年以降に実現する「二国志」時代の勢力地図があった。聖地・漢中を手中に収め、劉璋は自然と帰順し、統一王朝を復興する。赤壁と合肥では焦ったが、まだヴィジョンは修復可能だ。曹操、55歳。

曹操が漢中攻めを標榜した副作用で、劉備が益州に招かれてしまった。曹操が警戒した「英雄」が動き出したせいで、曹操の漢室復興プランが怪しくなってくる。

■荀彧の死
212年、孫権が建業に根拠地を移した。この10月、曹操は濡須に攻め入るんだが、寿春で荀彧が死んでいる。
おそらく荀彧は、曹操とパーソナルに極めて気が合い、描く天下の姿も同じだったに違いない。すなわち、劉協のもとに天下を再統一して、2回目の奇跡的復活を漢に遂げさせようという。
だが、どうやら曹操は統一を間に合わせられないぞ、という色が濃くなってきた。前年、211年に曹丕を五官中郎将にしている。後継者を指名するということは、つまり自分の死を公けに想定したということ。
何度攻めても、孫権は強い。自前の都まで、築き始めやがった。曹丕を指名して出発した、おそらく曹操にとって「生涯最後の決戦」である漢中攻めは、馬超らに関中で阻まれた。戦勝こそしたものの、本来の目的を1%も果たすことが出来なかった。劉備に、翼を与えてしまった。

こうなると、曹氏への要請は、統一の推進ではなく、より強固な割拠政権の樹立へと変わる。揚州・荊州・益州は諦めてもいいから、地方政権としてうまく運用してくれ、と。もっと平たく言えば、曹氏に仕える者を満足させてくれ、と。
曹操はたいそう不本意だったが、軍事的な成功を叩き出せていないのは、悲しいかな、事実だ。臣下を満足させるには、位を上げること。臣下は主君よりは偉くなれないから、臣下を偉くするには、主君が偉くなるしかない。すなわち、不遜にも曹氏が「公」「王」「帝」とランクアップしていくしかない。これは、漢を助けたいと思った当初の志とは、真っ向から対立する。
曹操は、荀彧に弁当箱を送り、中身はカラだったという。どういう仕打ちなのかと、憶測が飛び交うが、ぼくの解釈はこうだ。「俺たちの生きる糧であった、漢室の復興という願いは、どうやら実現できそうもない。カラっぽになってしまった。ごめんなさい」と。
■魏公と魏王
曹操は、死ぬほど不本意だ。だが、臣下からのプレッシャーに押されて、213年5月に曹操は公になった。
9月には、馬超が冀城を奪還するなど、聖地・漢中への道は閉ざされたままで。

夏侯淵と張郃が西方と戦ってくれたおかげで、215年についに張魯を降した。曹操としては、ここで成都まで一気に攻め下りたかった。だが「隴を得て蜀を望む」という、諦めが悪く、憧れの劉秀の故事まで引き合いに出して、まずは静観。
補給ラインに不安があったのが、実際でしょう。リアリストの曹操は、自軍の弱みを冷静に知っていた。

「やはり曹操は天下統一をできないぞ」と世論を沸き立たせてしまい、216年に魏王にさせられてしまった。曹操はもう、61歳。いつ死んでもおかしくないもんね。
「我らは、孫権や劉備の臣下よりも、位が低いのです。何とかならんのですか」というわけで、曹操は曹氏を守るために、なくなく階段を登って行く。何だかんだ言って、せっかくここまでの勢力を築いた曹氏を「自殺」させることは、曹操にはできない。
また、もしここで曹操が「漢室復興できませんでした。引退します」と店じまいしたとして、代わりに漢を助けてくれる勢力が出てくるとは思えない。孫権や劉備のような梟雄が攻めあがってきて、得意顔するだけ。それだけは避けたい!
217年、曹丕が太子になった。「周の文王になろう」と曹操が言ったとか言わないとかだが、曹操は自分が簒奪をすることだけは、絶対にしたくなかった。かと言って、挫折の副産物として出来てしまったのが「魏国」なのだから、どのように次代に遺していいのか、全く分からん!

■漢中王
218年9月、曹操は長安に移動。
219年正月に夏侯淵が斬られて、漢中は劉備に帰してしまった。曹操が、最も恐れていたパタンだ。
それこそ、魏国の全てを投げ打ってでも、漢中を取り戻さなければならない。そうしないと、曹操がこれまで30年以上も戦ってきた意味が、消滅してしまう。

しかし、219年5月、曹操は漢中を放棄。
「鶏肋だ」というのが、このときの曹操のセリフ。鶏のアバラは、肉が付いていなくはないし、出汁を取れなくはない。捨てるには惜しいが、大して価値はない。これが一般的な解釈だが、ぼくは別の曹操の思いを感じ取る。
「肋骨は、鶏が生きているとき、心臓や肺臓を守ってきた。鶏が生きているときは、最も大切な生命器官の1つだ。だが、鶏が死んでしまっては、ろくに使い道のないゴミだ。すなわち、漢復興の望みがあるうちは、漢中は王朝の起源で、聖地だった。だが、漢が死んでしまって、天下は割拠へと向かうならば、あんな場所はゴミだ。さすがに、捨てるには惜しいものの」という。
曹操が一貫して願った、漢の復活は、ここに完全に頓挫した。

219年7月、劉備は「漢中王」を名乗った。漢中は、漢王朝の奇跡の復活を約束する聖地から、単なる地方軍事政権の政治道具へと、貶められてしまった。だが、軍事的に劉備が優越したのだから、いくら曹操であろうと、どうにもできない。
曹操が、こんにちの勢力を手に入れたのも、同じように軍事的優越が理由なのだし。
■逃げ切った曹操
220年正月、曹操は、漢の都・洛陽で死んだ。
関羽を挟撃する作戦が展開されていたんだが、曹操はこれに出馬しなかった。健康問題もあっただろうが、指示を出した形跡すらない。
荊州の奪い合いは、漢復興のための統一戦ではなく、割拠勢力の抗争だ。そんな下らないことに、曹操が当事者意識を持てるわけがないじゃん!と、ぼくは思う。
曹操は、漢中王が現れてしまった時点で、ご隠居生活へと移った。

『蒼天航路』では、皇帝になることを勧められると、「オレに人間であることをやめさせる気か」と、余裕をかまして却下する。ルネサンス的英雄としての曹操が描かれている。荊州の報告を、地形の模型を前に受けながら、「なんでオレがその戦場にいない」と苛立っている。
違うんだ。このときの曹操は、志が破れた抜け殻で、寿命が尽きることをコレ幸いと、思っている。老齢ゆえに、自分が禅譲まで演じる必要はないな、というのが唯一の救いだ。

曹丕のことを書いた「文帝紀」は、曹丕を皇帝にしようという臣下たちのクドい要請と、それを断り続ける曹丕の、押し問答が延々と記されている。後世の人は、「曹丕が史家の批判をかわすために、わざと遠慮したふりをしているんだ。茶番だ」という。ぼくは違うと思う。本当に曹丕は、断りたかった。
だって、「禅譲」をやった前例がない。堯舜禹は、禅譲をやったという。だから、曹氏をそれに勝手に当てはめて、同じことをやれという。だが、「本に書いてあるから、同じことをしましょう」というのは、暴論だ。「この本には、空を飛んだ人のことが書いてあります。ゆえにあなたも飛んでください」と言っているくらい、ムチャな要望だ。

この推戴は、曹操から受け継いだ、負の遺産ですよ。
曹丕と曹植が後継争いをしたという。彼らがなりたかったのは、漢の重臣である、曹操の跡継ぎなんだ。誰も、魏王の後継になんかなりたくない。
軍事的に挫折し、曹操を継ぐことの意味が変わってきたとき、曹操と息子たちは協議したのかも。「感受性が高い曹植に継がせたら、狂人になってしまう。だから、いくらか冷静な曹丕に任せよう。苦労をかけるな、すまないな」という密談です。

■曹丕の寿命
孫権や劉備が「国家」を営み始め、それを潰すだけの軍事的パワーがないものだから、進むしかない。針のムシロだ。この曹丕に、司馬懿あたりが、入れ知恵したのかもね。
「郡臣の要望を満たすために、かりそめに禅譲のセレモニーをやりなさい。そして、すぐに呉を滅ぼして、曹操ができなかった天下統一をして下さい。それで、漢への再禅譲をやります。あなたは功臣として生涯を終えます。いかがですか?名案でしょう」とかね。
このとき劉備は老齢で、すでに蜀は立ち枯れの予感。蜀に賊が残っているという状況は、光武帝のときの公孫述の先例があるから、それほど心配はいらない。呉さえ討っとけば、漢の復興は可能だ。

孫権が、夷陵の戦いの前に「降伏」をしてきたときは、甘すぎる見通しで、曹丕は臣従をOKしてしまった。このとき呉を攻めておけば、鼎立は一気に崩れたわけだが、「降伏してくる者を拒むのは、帝王のやることじゃない」と言っている。曹丕は、いち早く呉を降して(もしくは味方にして)、漢への再禅譲をしたかった。
それなのに、孫権ときたら、夷陵に勝利するや、人質を拒んだ。
統一を焦る曹丕と、割拠をヨシとする孫権。国力では圧倒的に魏が強いが、心理的には呉が優越している。
そもそもカリソメのつもりの建国で、魏は不安定だ。一瞬たりとも存続したくないから、天下統一へのに焦りがある。しかし孫権は、そんな「皇帝」を巡るプレッシャーとは、この時点では無縁だ。「魏に封建された呉王」という、精神的にとても楽なポジションを、まんまと獲得した。
魏を間に挟むことで、400年も続いた漢という国の亡霊とは、直接対峙しなくていい。
曹丕は狂ったように3回も呉を攻めた。親征もした。だが、まるで戦果が出ない。ハリボテに騙されたとか、アホな理由で撤退もしている。

生命を使い果たした曹丕は、わずか40歳で死んだ。
次の曹叡は、生まれながらに魏の皇帝である。すなわち、割拠政権の君主である。統一志向がうすくて、むしろ国内で贅沢をすることに喜びを見出した。
「漢」の時代を知らない子供たちにより、曹操の願いは消えていった。
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