三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝34、「司馬允&司馬覃伝」翻訳(1)
八王の乱を追いかけていて、キーになりそうな人物をピックアップします。列伝34は、司馬炎や司馬睿の子のうち、単独で列伝を立てるまでもなさそうな人物を、「皇族だから」 という括りだけで、ごっそり集めた雑多な巻です。生まれて、位を贈られて、死んだ、という短い列伝が多い。その中に埋もれつつ、ちょっと重要そうな2人、司馬允・司馬覃の伝だけを翻訳しておこうと思います。


淮南忠壯王允,字欽度,咸寧三年,封濮陽王,拜越騎校尉。太康十年,徙封淮南,仍之國,都督揚江二州諸軍事、鎮東大將軍、假節。元康九年入朝。
初,湣懷之廢,議者將立允為太弟。會趙王倫廢賈後,詔遂以允為驃騎將軍、開府儀同三司、侍中,都督如故,領中護軍。允性沈毅,宿衛將士皆敬服之。


淮南忠壮王・司馬允は、あざなを欽度という。咸寧三(277)年、濮陽王に封じられ、越騎校尉を拝した。太康十(289)年、淮南に移して封じられ、任国に行った。都督揚江二州諸軍事となり、鎮東大將軍、假節を与えられた。元康九(298)年、洛陽に入った。
はじめ司馬遹が廃されたとき、司馬允が皇太弟になるだろうという人がいた。司馬倫が賈皇后を廃すると、司馬允は驃騎將軍、開府儀同三司となった。侍中と都督はそのままとされ、中護軍を兼任した。司馬允の性格は沈毅で、宿衛の將士はみな司馬允に敬服した。


倫既有篡逆志,允陰知之,稱疾不朝,密養死士,潛謀誅倫。倫甚憚之,轉為太尉,外示優祟,實奪其兵也。允稱疾不拜。倫遣禦史逼允,收官屬以下,劾乙太逆。允恚,視詔,乃孫秀手書也。大怒,便收禦史,將斬之,禦史走而獲免,斬其令史二人。厲色謂左右曰:「趙王欲破我家!」遂率國兵及帳下七百人直出,大呼曰:「趙王反,我將攻之,佐淮南王者左袒。」於是歸之者甚眾。

司馬倫に簒逆の志があることを、司馬允はひそかに知り、病と称して朝廷に出仕せず、秘密裏に死士を養って、司馬倫を誅すことを計画した。司馬倫は司馬允をとても憚り(バレてるのか笑)、司馬允を大尉に転任させ、外には優祟していることを示しつつも、実は司馬允の兵を奪うことを狙った。司馬允は、病と称して、大尉の位を拝さなかった。
司馬倫は、禦史を遣わして司馬允に逼り、官属以下を収容し、司馬允の大逆を糾弾した。司馬允は恚(いか)って、詔を見ると、孫秀の筆跡だった。司馬允は大いに怒り、禦史を捕えて斬ろうとした。禦史が逃げてしまったので、禦史の令史2人を(身代わりに)斬った。司馬允は怒りを顔に表して左右に言った。「趙王は、我が家(司馬氏)を破滅させたいらしい」と。
淮南の兵と帳下700人を率いて出陣して、大声で呼ばわった。「趙王が叛逆したから、私は彼を攻める。淮南王(オレ)を助ける者は、左袒せよ」と。司馬允に従う人は、とても多かった。


允將赴宮,尚書左丞輿閉東掖門,允不得人,遂圍相府。允所將兵,皆淮南奇才劍客也。與戰,頻敗之,倫兵死者千余人。太子左率陳徽勒東宮兵鼓噪于內以應,允結陳于承華門前,弓弩齊發,射倫,飛矢雨下。主書司馬畦秘以身蔽倫,箭中其背而死。倫官屬皆隱樹而立,每樹輒中數百箭,自辰至未。

司馬允が司馬倫の宮殿に赴こうとすると、尚書左丞輿は、東の掖門を閉じたため、司馬允は入れなかった。司馬允は、相府を包囲した。司馬允が率いる兵は、みな淮南から連れてきた奇才の劍客だった。戦いが起こり、しばしば敗れ、司馬倫の兵は1000余人が死んだ。太子左率の陳徽は、東宮の兵を率いて軍鼓を鳴らして、内側から呼応した。司馬允は、陳徽と承華門の前で合流し、弓弩を一斉に発して、司馬倫を射た。矢は雨のように降り注いだ。主書・司馬畦は、司馬倫を身をもって被い、背中に矢が当たって死んだ。司馬倫の官属は、みな樹に隠れて立った。どの樹にも数百の矢が突き刺さった。
辰の刻から、未の刻まで戦いは続いた。


徽兄淮時為中書令,遣麾騶虞以解鬥。倫子虔為侍中,在門下省,密要壯士,約以富貴。於是遣司馬督護伏胤領騎四百從宮中出,舉空版,詐言有詔助淮南王允。允不之覺,開陳納之,下車受詔,為胤所害,時年二十九。初,倫兵敗,皆相傳:「已擒倫矣。」百姓大悅。既而聞允死,莫不歎息。允三子皆被害,坐允夷滅者數千人。


陳徽の兄の陳淮は、中書令として、騶虞(停戦命令のフラグ)を靡かせて、門を解かせた。
司馬倫の子・司馬虔は侍中で、門下の省に就いていた。司馬虔はひそかに壮士を集めて、富貴を約束した。司馬督護・伏胤に、400騎を率いて宮殿から出陣させ、空版(白紙の掲示?)を挙げ、偽って「司馬允を助けよとの詔が出た」と言った。司馬允は不覚をとり、門を開いて軍勢を導きいれ、下車して詔を受けた。司馬允は、伏胤に殺された。29歳だった。
はじめ司馬倫の兵が敗れたとき、みな言い合った。「すでに司馬倫を擒としたぞ」と。万民は大いに悦んだ。司馬允が死んだと聞くと、嘆息しない人はいなかった。司馬允の3人の子はみな殺され、司馬允とともに殺されたのは数千人に及んだ。


及倫誅,齊王冏上表理允曰:「故淮南王允忠孝篤誠,憂國忘身,討亂奮發,幾於克捷。遭天凶運,奄至隕沒,逆黨進惡,並害三子,冤魂酷毒,莫不悲酸。洎興義兵,淮南國人自相率領,眾過萬人,人懷慷愾,湣國統滅絕,發言流涕。臣輒以息超繼允後,以尉存亡。」有詔改葬,賜以殊禮,追贈司徒。冏敗,超被幽金墉城。後更以吳王晏子祥為嗣,拜散騎常侍。洛京傾覆,為劉聰所害。

司馬倫が誅殺されると、斉王・司馬冏は上表して司馬允について論じた。
「なき淮南王・司馬允は、忠孝にして篤誠で、國を憂いて身を忘れ、討亂奮發し、幾度も戦勝しました。だが天の凶運に遭い、奄至隕沒してしまいました。逆党(司馬倫)が悪を進め、司馬允の3子は殺され、(司馬允の)無実の魂は酷毒、悲酸しないことはありません。司馬允は義兵を起こし、淮南国の人は多くが従い、1万人を越えました。人は慷愾を抱き、淮南の国統が滅絶してしまったことを哀しみ、声を発して流涕しました。私(司馬冏)の子・司馬超に継がせ、淮南国を存続させましょう」と。
詔によって司馬允は改葬され、殊禮を賜り、司徒を贈られた。
司馬冏が敗れると、司馬超は金墉城に幽閉された。
後に呉王・司馬晏の子である、司馬祥が淮南王を継ぎ、散騎常侍を拝した。洛陽が占領されると、司馬祥は劉聡に殺害された。
『晋書』列伝34、「司馬允&司馬覃伝」翻訳(2)
清河康王遐,字深度,美容儀,有精彩,武帝愛之。既受封,出繼叔父城陽哀王兆。太康十年,封渤海郡,曆右將軍、散騎常侍、前將軍。元康初,進撫軍將軍,加侍中,遐長而懦弱,無所是非。性好內,不能接士大夫。及楚王瑋之舉兵也,使遐收衛瓘,而瓘故吏榮晦遂盡殺瓘子孫,遐不能禁,為世所尤。永康元年薨,時年二十八。四子:覃、籥、銓、端。覃嗣立。

清河康王・司馬遐は、あざなを深度といい、容儀は美しく、精彩があったので、司馬炎に愛された。司馬炎が受封されると、家を出て、叔父で城陽哀王・司馬兆を継いだ。 太康十(289)年、渤海郡に封じられ、右将軍、散騎常侍、前將軍を歴任した。元康初(291年)、撫軍將軍に進み、侍中を加えられた。司馬遐は大人になってからは懦弱で、長所も短所も不明である。性格は内に籠もることを好み、士大夫とうまく接することが出来なかった。
楚王・司馬瑋が挙兵したとき、司馬遐に衛瓘を収容するよう命じられた。衛瓘の故吏・榮晦は、衛瓘の子孫を皆殺しにしてしまったが、司馬遐は禁じることが出来ず、世に咎められることとなった。
永康元(300)年、死んだ。28歳だった。4人の子供があった。覃、籥、銓、端である。司馬覃が、清河王を継いだ。


及沖太孫薨,齊王冏表曰:「東宮曠然,塚嗣莫繼。天下大業,帝王神器,必建儲副,以固洪基。今者後宮未有孕育,不可庶幸將來而虛天緒,非祖宗之遺志,社稷之長計也。禮,兄弟之子猶子,故漢成無嗣,繼由定陶;孝和之絕,安以紹興。此先王之令典,往代之成式也。清河王覃神姿岐嶷,慧智早成,康王正妃周氏所生,先帝眾孫之中,於今為嫡。昔薄姬賢明,文則承位。覃外祖恢世載名德,覃宜奉宗廟之重,統無窮之祚,以甯四海顒顒之望。覃兄弟雖並出紹,可簡令淑還為國胤,不替其嗣。輒諮大將軍穎及群公卿士,鹹同大願。請具禮儀,擇日迎拜。」

(司馬遹の子)皇太孫の司馬沖が死ぬと、斉王・司馬冏は上表した。
「東宮は広くガランとして、後継者がおりません。天下大業、帝王神器、必ず儲副を建てれば、洪基は固まるものです。いま後宮に皇帝の子はおらず、社稷に長計はありません。『礼経』によれば兄弟の子を猶子と言います。故事の例もあります(内容省略)。清河王・司馬覃は、神姿は岐嶷、慧智は早成で、司馬遐の正妃の周氏が産んだ子で、先帝(司馬炎)の孫にあたり、嫡孫です。司馬覃の外祖父・周恢は、代々名徳の家柄です。司馬覃に宗廟を継がせて、四海を安寧としましょう。大将軍・司馬頴や群公卿士と話し合って、決めましょう。礼儀を具えて、司馬覃をお迎えしましょう」


遂立覃為皇太子。既而河間王顒協遷大駕,表成都王穎為皇太弟,廢覃複為清河王。初,覃為清河世子,所佩金鈴欻生隱起如麻粟,祖母陳太妃以為不祥,毀而賣之。占者以金是晉行大興之祥,覃為皇胤,是其瑞也。毀而賣之,象覃見廢不終之驗也。永嘉初,前北軍中候任城呂雍、度支校尉陳顏等謀立覃為太子,事覺,幽于金墉城。未幾,被害,時年十四,葬以庶人禮。

司馬覃は皇太子に立てられた。河間王・司馬顒が長安に恵帝を移すと、上表して成都王・司馬頴を皇太弟として、司馬覃を廃して清河王に戻した。はじめ司馬覃は、清河王の世子となり、金鈴を佩かされたとき、欻(たちまち)麻粟のように隱起(高低差でガラを表す彫刻や鋳造の手法)が生じた。祖母の陳太妃は不吉であるとして、毀して売り払った。占者は金は晋が大きく興る兆しであると言った。司馬覃は皇胤となったが、これはその瑞祥であった。毀して売ってしまったので、吉象は効力を失ってしまった。
永嘉初(307年)、前北軍中候任城の呂雍と、度支校尉の陳顏らが謀って、司馬覃を皇太子に立てようとしたが、ことが発覚して、金墉城に幽閉された。年内に殺害された。14歳だった。庶人の礼で葬られた。

■翻訳後の感想(司馬允)
司馬允が率いていたのは、かつて呉と渡り合った要地・淮南の兵です。その背景を頭に入れるだけでも、この挙兵は手に汗握るものへと変わる。
そして惜しむらくは、司馬允には参謀らしい人がいなかったようで。一発屋キャラで、「司馬の」「主簿の」とか文官の名前が列伝に出てきて良さそうなのに、それがない。これが敗因ですね。偽りの詔に、あっさり戦闘態勢を解いてしまうんだから。
人望があり、よく協力を引き出せる人だっただけに、悔やまれる。

『晋書』が沈黙しているから、完全に推測をするしかないのだが、司馬允は司馬倫を倒して、皇帝になるつもりだったんじゃないか。司馬遹が死んでしまい、後継者問題は全くのゼロリセットです。司馬衷が皇帝である資格は、「司馬遹の父である」ということだけだった。それが無効化された。
いま司馬倫が入り込んで掻き乱そうとしている。司馬衷がバカであることは公然の事実だ。司馬遹が死んだ時点で世論は、皇帝の選びなおしを了解していたのかも知れない。
司馬倫が本当に簒奪をやってのけるんだが、全く背景が整ってなかったら、いきなりそんなこと出来ない。

司馬冏は、司馬倫を討った人なので、敵の敵は味方という論法で、司馬允を持ち上げている。でも浅ましいのが、司馬允の名誉回復よりも、自分の家の勢力拡充に主眼があること。淮南国を息子に治めさせて、ちゃっかり豊かな資源を手に入れた。司馬冏の上表の賛辞から、司馬允の人となりを探ることは、やめた方が良いでしょう。

■翻訳後の感想(司馬覃)
司馬覃には、本人にまつわるエピソードが1つもないのですね。それが確認できただけでも、気が済んだかも。八王の乱でゴタゴタと立廃が繰り返される、次代皇帝。いろんな思惑によって翻弄されるのが司馬覃ですが、わずか14歳で、気の利いた受け答えを史家の耳に届かせるわけでもなく、死んでしまった。
親子の性格は必ずしも一致しないが、キャラとしては、引きこもりがちで人間交際が苦手だった、父に似た内気な子ということにしてもいいだろう。才気煥発に、幼少期から才能を見せてしまっていては、逆に政争の道具として祭り上げられることはないのだから。

司馬覃が皇太子になるときは、司馬覃本人が評価されて選ばれるのではない。司馬頴は、誰かの入れ智恵で「司馬覃はすばらしい」と上表しているが、言葉をつなぎ合わせただけだ。文辞が凝って荘重であることは、内容がないことの裏返しなんだ。そのせいで、けっこう翻訳を放棄してしまいましたが笑
司馬覃は、「他の誰かに帝位を持っていかれるよりは、司馬覃が無難だ」という、真剣度の低いキープ要員として使われた。のっぺらぼうであることが、彼の歴史的意義と言えるかも笑 080814
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