三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
曹芳の出生の秘密をこじつける(1)
結論から言うと、曹芳は袁譚の孫だと思う笑

はっきり言って、何も根拠がない。全くの妄想なんだけれど、「曹芳の出生は、宮廷の秘密だから、誰も知らん」と陳寿が書いているから、どういう予想を立てても咎められないんじゃないかと思って笑

■曹叡の出生
よく言われるのは、曹叡が袁煕の子だと言うこと。陳寿の書いた、曹叡の没年が混乱していて、もしかしたら曹丕が「戦利品」として手に入れたとき、甄氏の腹に袁煕の種が入っていたんじゃないかという、「仮説」や「憶測」を、あちこちで読むことができる。そもそも、古くに疑いを入れた例では、裴松之が検証してるもんね。
どうやら、「曹叡は袁氏」というのは、時期的には想定不可能ではないようだが、当の袁煕が幽州にいて、冀州にいた甄氏と交わることは無理だったっぽい。

ただし、真実は甄氏その人しか知らない。言い方を変えれば「甄氏が言ったことが真実になる」と表現できよう。
史家どころか、曹丕その人にだって、真実を知ることは出来ない。甄氏が「実は、」と切り出せば、河北征圧に忙殺されていた時期のことだし、曹家の記録も記憶もあいまいだろうから、真実は塗り替えられてしまう。

曹丕と対立した甄氏が、死ぬ前に曹叡を呼び出して、「実は、あなたはね、」と吹き込めば、全く労せずに「禅譲革命」が起きてしまう、という爆弾ですよ。
こんなリスクがあったから、曹丕は、曹叡を後継には付けたくなかった。「曹丕は、甄氏と対立していたから、その子を嫌った」というのは、あまりに短絡的な見方だろう。感情と政治を分離することくらい、曹丕なら、やってるって。
しかし、呉に3回も攻めて、思わぬ早死にを強いられてしまったから、長男の曹叡を死に際に皇太子にするしかなかった。
呉は強盛になりつつあり、蜀が北伐の準備をしつつあるとき、幼帝というのは避けねばならん。「皇帝の一族は、天命を失い始めています」と宣伝するようなものだから。
そういう、魏の苦しい状況から、不本意な決断をするしかなかった。

■斉王の謎
曹叡の男子が夭折してしまったので、4歳の曹芳は、斉王に任じられた。ポイントなのは、なぜ「斉」の王かということで。
青州には、曹植が任じられたり、後に司馬攸が任じられたり、由緒がありそうな任地だというのは分かる。そもそも、秦が最後まで戦った相手が、斉だから。
しかし、何の縁もゆかりもなく、どこの馬の骨か分からん幼児を「斉王にしよう」なんて言い出すとは、考えにくい。

ここでぼくは想起するのだが、袁紹の長男の袁譚は、青州刺史をやっていたじゃないか。彼は南皮の戦いで、一族を曹操に殺されているのだが、そのときに零れ落ちたしずくがあったとしたら!
もし皇帝たる曹叡が、「何でもできる」という立場を使って、袁氏のご落胤&生き残りを探して、成果を上げたのだとしたら!
きっと、祖父の袁譚とのリンクをひそかに匂わせて、斉王にしちゃうよね。曹叡の、誰にも言えない自己満足のために。

ひそかに養育していた、もう1人は秦王だと言うが、これは斉王と対比するための目晦ましということで笑

■曹叡の捜索命令
曹叡は、「オレは敗れた袁氏の子だが、曹氏を継いで皇帝となり、祖父(袁紹)の無念を晴らしたのだ」という、ひそかなアイデンティティを持っていたのかも知れない。
すると、次に皇帝にしたいのは、第一候補は自分の子。これなら、政争の心配もなく、すんなりと次代も袁氏が「魏」を継げる。
しかし、不運にしてこの道が断たれてしまったら、次に考えることは「袁氏の子孫を捜索せよ」だろう。こうでもしないと、曹操の別の子(か孫)が、皇帝となる。すなわち、袁氏から天命が去ってしまう。これだけは、避けたいもんね。曹氏の天下に戻ってしまう。

できるなら、血筋が近いということで、袁紹の子孫が望ましいわけです。しかし、遼東まで逃げていった、次男の袁煕と三男の袁尚の子たちが、まだ中原に生きている可能性は低かろう。できるなら、同系の袁煕の子を探したかったのだろうが。
そこで、次善策ということで、それほど引き回されずに大人しく死んだ、袁譚の子孫探しが始まった。そして、嗅ぎ当てた。
秘密が漏れるのを恐れたため、もしかしたら「袁譚の一族を見つけたのか。殺しとけ」ということで、その親(袁譚の子)や、養育者たちは殺されたのかも知れない。「大事の犠牲にすべき小事」ということで、曹叡は目をつぶった。
ただこっそり、生まれたばかりの男子を連れてきて、「宮廷の秘密」ということで養った。
曹芳の出生の秘密をこじつける(2)
袁譚の息子たちは、きっと抜け目なく曹操に殺されたから、袁譚の娘を母とするのかも知れない。そっちの方が、信憑性が高いかな。嫁ぎ先に紛れていたから、族殺を免れた、という設定だ。
それに、男はその子供が自分の血を引いていると、DNA検査でもしないと判明しないが、女は違う。「私が腹を痛めて生んだ子だ」と、確信を持てる。「紛れもなく袁紹さまの孫です」と太鼓判が押せる。
河北に戦力を伸張した袁紹は、いろんな名族と通婚した。長男の袁譚も、その方針を真似て、青州の名士と、積極的に通婚したんじゃないか。そして、嫁ぎ先が名士ゆえに、曹操は掃討しそこねた、とか。

■国名の真意
さて、王朝の名の由来になっている「魏郡」ですが、冀州の地名で、もともとは袁紹の根拠地だった。曹操が、官渡以降の戦いで乗っ取って、引っ越してきたのです。言わば、パクりです。
ここの皇帝が、もとの袁氏に返還されていたのいうのは、面白い設定だと思うのだが、いかがでしょうか。
■司馬師の諜報
さて、曹芳ですが、皇帝としてこれと言った成果を上げる前に、23歳で降ろされてしまう。「素行が悪い」とか、よく分からん理由で。糸を引いたのは、司馬師です。
だが、なぜこんなことが出来たのか。「皇帝を降ろす」なんて、よほどの大逆と言われても仕方ないのに、成功してしまった。なぜか。

司馬師が、曹芳の出生の秘密を暴いて、あちこちに触れ回ったんじゃないのか。
曹芳が洛陽を去るとき、10人くらいしか見送らなかったというが、23歳でそこまで人望を失うほうが、逆に難しい。よほどの暴虐をやったならまだしも、そこまで派手な記録がない。
総スカンを食らったのは、「曹氏じゃないんなら、どうしようもねえな」という郡臣の心理じゃないか。

また、勢いづいた司馬氏は、弟の司馬昭のときに、曹髦を殺した。曹芳が退いた、わずか6年後。
だが、曹芳はダラダラと生き延びて、皇帝を辞めてから20年も生きている。これを「曹芳が貴くて、殺せなかった」のではなくて、「司馬氏が曹氏の力を奪うために、殺す必要がなかった」と考えたらどうだろうか。
廃位の直後には殺せなくても、司馬昭の時代になってから、いつでも曹芳を殺すことができたはず。それを生かしておいたのは、「あいつは、どうせ袁氏だからね」という暗黙の共有があったからじゃないか。

43歳という死は、やや早い気がするが、これは頽廃した生活が祟ったのだろう。幼くして皇帝を極めてしまえば、あとにあるのは自棄だけ。
曹丕が40歳で死んでいるし、曹叡は30代半ばで死んでる。「43歳で死んだ=司馬氏の陰謀」とは、ならんだろう。

■司馬氏の踏み台
曹叡のひそかな袁氏復興の願いは、司馬氏が名士階級の世論を取り付けるために、利用されてしまった。
「曹氏は酷薄なやり方で天下を取った」とは、よく晋で言われることだが、それにプラスして「跡継ぎすら、血縁の中からまともに選べない」という評価を与えて、地に落としたんだ。
後継者争いで揉めて、権力が失墜することは、よくある。袁紹、劉表、孫権など。しかし、後継者が一族の人間ではないと言うのだから、話になりません笑

もしかしたら、曹叡の信頼を得た司馬懿のときに、「曹芳は、じつは袁氏の子なんだが、黙っていてくれ」という情報が入っていたのかも知れない。司馬懿は、魏朝のために、それを黙秘し続けた。しかし、司馬懿が伏せていたはずの資料を、司馬師は盗み見していて、その情報を得ていた、とか。司馬氏の家は、どうやら一族の間でも、諜報活動をやっていた気がするから。
曹爽のクーデターのとき、「死士をそんなに養っていたのか!いつのまに!」と、司馬懿を驚かせている司馬師のことです。やりかねん。

曹芳が即位したときに、司馬師はほくそ笑んで、「父が死んだら、出生の秘密をネタにして曹氏をゆすってやろう」と思っていたのかも知れない。魏臣の司馬懿は、そういう意味では、脇が甘かったね。
平たく言えば、敗北ですね。残念です。
ちょっと、めちゃくちゃな話を書きすぎたかなあ。反省。。080908
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