三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝29より、「司馬乂伝」を翻訳 (1)
長沙厲王乂,字士度,武帝第六子也。太康十年受封,拜員外散騎常侍。及武帝崩,乂時年十五,孺慕過禮。會楚王瑋奔喪,諸王皆近路迎之,乂獨至陵所,號慟以俟瑋。拜步兵校尉。及瑋之誅二公也,乂守東掖門。會騶虞幡出,乂投弓流涕曰:「楚王被詔,是以從之,安知其非!」瑋既誅,乂以同母,貶為常山王,之國。

長沙厲王の司馬乂は、あざなを士度といい、武帝の第6子である。太康十(289)年に受封し、員外散騎常侍を拝した。
武帝が崩御したとき、司馬乂は15歳だったが、『礼』の規定以上に、司馬炎を幼児のように慕った。
楚王・司馬瑋が出奔すると、諸王はみな路に近づいて司馬瑋を迎えた。司馬乂は1人で陵所に到ると、號慟して司馬瑋の到着を待った。歩兵校尉を拝した。司馬瑋が二公を誅したとき、司馬乂は、東掖門を守っていた。騶虞幡が出されると、司馬乂は弓を投じて、流涕して言った。
「楚王は、詔に従っただけです。なぜ彼に非があるのでしょうか」と。
司馬瑋が誅されると、司馬乂は同母弟なので、常山王に貶められて、任国に行かされた。

乂身長七尺五寸,開朗果斷,才力絕人,虛心下士,甚有名譽。三王之舉義也,乂率國兵應之,過趙國,房子令距守,乂殺之,進軍為成都後系。常山內史程恢將貳於乂,乂到鄴,斬恢及其五子。至洛,拜撫軍大將軍,領左軍將軍。頃之,遷驃騎將軍、開府,複本國。

司馬乂は身長が7尺5寸(173センチ)で、開朗で果斷、才力は人より優れ、虛心に士人に下り、とても名譽があった。三王が挙義したとき、司馬乂は国の兵を率いて呼応した。趙国を通過するとき、房子令が拒んだが、司馬乂はこれを殺して、進軍して成都王の司馬頴の後続となった。常山內史の程恢が、司馬乂に二心を抱いたとき、司馬乂は鄴に到り、程恢とその5子を斬った。
洛陽に到り、撫軍大將軍を拝し、左軍將軍を兼ねた。このころ、驃騎將軍に転任し、開府して本國に戻った。


乂見齊王冏漸專權,嘗與成都王穎俱拜陵,因謂穎曰:「天下者,先帝之業也,王宜維之。」時聞其言者皆憚之。及河間王顒將誅冏,傳檄以乂為內主。冏遣其將董艾襲乂,乂將左右百餘人,手斫車幰,露乘馳赴宮,閉諸門,奉天子與冏相攻,起火燒冏府,連戰三日,冏敗,斬之,並誅諸黨與二千餘人。

司馬乂は、斉王冏が専権を振るうのを見た。司馬乂は、成都王頴とともに陵を拝して言った。「天下は、先帝の業です。王(あなた)はこれを維持すべきです」と。この発言を聞いた人は、みな憚った。
河間王顒が司馬冏を誅そうとしているとき、檄を伝えて、司馬乂を内主(洛陽内のリーダー)にした。司馬冏は、彼の将の董艾に司馬乂を襲わせた。司馬乂は左右100余人を率いて、手ずから車に幕を張り、(天蓋を付けず)露乘して宮に馳せ赴き、諸門を閉じ、天子を奉戴して司馬冏と攻め合った。司馬冏の府には火燒が起きた。
連戦すること3日、司馬冏は敗れて斬られた。司馬冏の諸党2000余人が、このとき誅された。

顒本以乂弱冏強,冀乂為冏所擒,然後以乂為辭,宣告四方共討之,因廢帝立成都王,己為宰相,專制天下。即而乂殺冏,其計不果,乃潛使侍中馮蓀、河南尹李含、中書令卞粹等襲乂。乂並誅之。顒遂與穎同伐京都。穎遣刺客圖乂,時長沙國左常侍王矩侍直,見客色動,遂殺之。詔以乂為大都督以距顒。連戰自八月至十月,朝議以乂、穎兄弟,可以辭說而釋,乃使中書令王衍行太尉,光祿勳石陋行司徒,使說穎,令與乂分陝而居,穎不從。乂因致書於穎曰:

司馬顒はもとより、司馬乂は弱く、司馬冏が強いので、司馬乂が司馬冏に捕えられることを願った。その後に、司馬乂のことを口実に、四方に「共に司馬冏を討とう」と宣告するつもりだった。恵帝を廃位して、成都王を立て、己は宰相となり、天下を専制するつもりだった。
司馬乂が司馬冏を殺すと、その計略は果たされなかった。司馬顒はひそかに、侍中の馮蓀、河南尹の李含、中書令の卞粹らに司馬乂を襲わせた。司馬乂はこれらを誅した。
司馬顒は司馬頴とともに洛陽を攻めた。司馬頴は刺客に司馬乂を殺させようとした。長沙国の左常侍を務める王矩は、客の顔色や言動を見て、これを殺した。
詔があり、司馬乂を大都督として、司馬顒を防げと命じた。8月から10月まで連戦した。
朝議は、司馬乂と司馬頴の兄弟を和解させようと、中書令の王衍に太尉を兼ねさせ、光祿勳の石陋に司徒を兼ねさせた。王衍と石陋は司馬頴を説得して、関中に境界を引いて、司馬乂と並立するように勧めた。しかし司馬頴は従わなかった。司馬乂は司馬頴に、書状を送った。

「先帝應乾撫運,統攝四海,勤身苦己,克成帝業,六合清泰,慶流子孫。 孫秀作逆,反易天常,卿興義眾,還複帝位。齊王恃功,肆行非法,上無宰相之心,下無忠臣之行,遂其讒惡,離逖骨肉,主上怨傷,尋已蕩除。吾之與卿,友于十人,同產皇室,受封外都,各不能闡敷王教,經濟遠略。今卿複與太尉共起大眾,阻兵百萬,重圍宮城。

「先帝は、乾(天)に感応して、運を味方につけ、四海を統摂されました。身を勤め、己を苦しめ、帝業を克成なさいました。六合(東西南北と上下、天下の全て)は清くて泰然とし、子孫の繁栄を約束されました。
孫秀が大逆を行い、天の常にあるべき姿を歪めてしまいました。あなた(司馬頴)は義兵を興し、恵帝を復位させました。
斉王(司馬冏)が功を恃み、その行いは非法でした。上には、宰相の心得がなく、下には忠臣の行いをせず、その讒惡は骨肉(司馬氏)を離逖(分裂)させました。主上(恵帝)は怨傷なさったので、私は司馬冏を蕩除しました。
私とあなたは、10人の共通の友人がおり、同じ皇室の産れです。封を外都に受けて離れてしまったので、互いの間に、王の教化を充分に満たし合うことは出来ませんから、遠略を巡らしました。
いまあなたは、再び大尉とともに大軍を起こし、100万の兵で、宮城を何重にも包囲しておられます。(書状は続きます)


群臣同忿,聊即命將,示宣國威,未擬摧殄。自投溝澗,蕩平山谷,死者日萬,酷痛無罪。豈國恩之不慈,則用刑之有常。卿所遣陸機不樂受卿節鉞,將其所領,私通國家。想來逆者,當前行一尺,卻行一丈,卿宜還鎮,以甯四海,令宗族無羞,子孫之福也。如其不然,念骨肉分裂之痛,故複遣書。」

郡臣は忿りを同じくし、将に命じて、国威を示せ(あなたを討て)と言っています。しかし、まだ本格的な討伐を行おうとはしていません。
みずから激流に身を投げ、山谷を溶かして平らにする(困難なことをする)と、死者は1日に1万人、無罪に人を酷く痛めつけることになります。どうして国恩が無慈悲なことがありましょうか。刑を用いるには、ルールがあるものです。(あなたを問答無用に死刑にしません)
あなたが陸機に率いさせた人たちは、あなたが節鉞を受けることを喜んでいませんでした。 陸機が率いていた人は、国や家に私通しております。大逆を願う人は、1尺前進し、1丈後退するものです(1丈-1尺=9尺の後退)。
鎮(鄴城)に還り、四海を安寧として下さい。宗族から羞をなくすことは、子孫の福です。もし私の提案を聞かないならば、骨肉が分裂する痛みを想定しなければなりません。ゆえに、また書状を送ったのです」と。
『晋書』列伝29より、「司馬乂伝」を翻訳 (2)
穎複書曰:「文、景受圖,武皇乘運,庶幾堯、舜,共康政道,恩隆洪業,本枝百世。豈期骨肉豫禍,後族專權,楊、賈縱毒,齊、趙內篡。幸以誅夷,而未靜息。每憂王室,心悸肝爛。羊玄之、皇甫商等恃寵作禍,能不興慨!於是征西羽檄,四海雲應。本謂仁兄同其所懷,便當內擒商等,收級遠送。如何迷惑,自為戎首!上矯君詔,下離愛弟,推移輦轂,妄動兵威,還任豺狼,棄戮親善。行惡求福,如何自勉!前遣陸機董督節鉞,雖黃橋之退,而溫南收勝,一彼一此,未足增慶也。今武士百萬,良將銳猛,要當與兄整頓海內。若能從太尉之命,斬商等首,投戈退讓,自求多福,穎亦自歸鄴都,與兄同之。奉覽來告,緬然慷慨。慎哉大兄,深思進退也!」

司馬頴が書状を返した。
「文と景(司馬師と司馬昭)は、図讖を受けた。武皇帝(司馬炎)は運に乗じて、司馬一族の百世の天下を作った。どうして骨肉が禍いとなり、外戚が専権を振るうことを予期したであろうか。楊氏と賈氏が毒をほしいままにし、趙王倫が帝室内で簒奪することを予期したであろうか。
幸いにも彼らを誅したが、まだ静息となっていない。王室をいつも憂わせ、心臓はバクバクし、肝は焼けそうだ。
羊玄之や皇甫商は、(司馬冏の)寵愛を恃んで禍いをなした。慷慨せずにいられなかった。ゆえに私は、西に(洛陽を)攻めて、羽檄を飛ばし、四海は応じたのだ。もとより仁兄というのは、懐く志を同じくするものだ(※司馬乂は司馬頴の兄)。洛陽内で皇甫商らを捕らえ、首級を収容して、遠く(私のところに)に送るべきである。
どうしてあなたは、王朝を惑わせ、みずから悪人の首魁となるのか。あなたは、上には皇帝の詔を歪め、下には愛すべき弟を遠ざけ、天子の車を思うままに推移させ、兵威を妄動し、豺狼のような連中を役職につけ、親善を棄戮している。悪を行い福を求めては、王朝のために働けるものか。
まえに陸機に節鉞を与えて派遣したとき、黄橋の戦いで退いたが、温県の南では勝った。どちらの軍も、まだ勝ちを祝うには戦果が足りない。いま私の軍勢は100万、良將は銳猛である。
兄(あなた)と協力して、海内を整頓することが必要だと考える。もし大尉の命令に従うのなら、皇甫商らの首を斬り、あなたは戈を投じて、退讓して福を求めよ。私は鄴都に帰り、兄(あなた)と同じように、矛を収めて譲るだろう。
このように書状で申し上げていると、緬然慷慨となる。慎ましきかな、大兄よ。深く進退を思われよ」と。

乂前後破穎軍,斬獲六七萬人。戰久糧乏,城中大饑,雖曰疲弊,將士同心,皆願效死。而乂奉上之禮未有虧失,張方以為未可克,欲還長安。而東海王越慮事不濟,潛與殿中將收乂送金墉城。乂表曰:「陛下篤睦,委臣朝事。臣小心忠孝,神祇所鑒。諸王承謬,率眾見責,朝臣無正,各慮私困,收臣別省,送臣幽宮。臣不惜軀命,但念大晉衰微,枝黨欲盡,陛下孤危。若臣死國寧,亦家之利。但恐快凶人之志:無益于陛下耳。」

司馬乂は、前に後に司馬頴の軍を破り、斬獲すること6、700人。戦が長引いて兵糧が欠乏すると、洛陽城内は、大いに飢えた。日に日に疲弊したが、将士は心を同じくし、みな玉砕することを願った。だが司馬乂が皇帝を奉上する礼は、まだ虧失することはなかった。
張方は勝ち目がないと思い、長安に帰りたいと欲した。
東海王越は、状況がまずいことを慮り、ひそかに殿中の将に、司馬乂を捕えさせて、金墉城に送った。
司馬乂が上表して言った。
「陛下は篤睦で、私に朝事を委ねて下さいました。私は気をつけて忠孝に励み、神祇に見守られておりました。諸王は間違ったことを鵜呑みにして、兵を率いて私を責めました。彼らは正しくありません。おのおのが困窮したからといって、私を別省で捕えて、幽閉用の宮に送ってしまいました。
わたしは、身命を惜しまず、ただ大晋帝国の衰微を念じました。皇族や私党が思いどおりに振る舞い、陛下は孤立して危険です。もし私が死んで国が安寧になるなら、家(司馬氏=帝国)の利です。ただ恐れるのは、凶人の志が時を得て、陛下の益がないことだけです」


殿中左右恨乂功垂成而敗,謀劫出之,更以距穎。越懼難作,欲遂誅乂。黃門郎潘滔勸越密告張方,方遣部將郅輔勒兵三千,就金墉收乂,至營,炙而殺之。乂冤痛之聲達於左右,三軍莫不為之垂涕。時年二十八。

殿中の左右の人は、司馬乂が功を成していたのに敗れたことを恨んだ。彼らは、司馬乂を脱獄させ、司馬頴をさらに防がせようと謀った。司馬越は、災難を懼れて、司馬乂を殺したいと考えた。黃門郎の潘滔は、司馬越に「張方に司馬乂を捕えたことを密かに告げなさい」と勧めた。張方は、部将の郅輔に兵3000を率いさせ、金墉城に到着し、司馬乂を捕えた。営所に到ると、司馬乂を炙り殺した。司馬乂の冤痛の声は、左右に達した。三軍で、司馬乂のために涙を流さない人はいなかった。このとき28歳だった。


乂將殯於城東,官屬莫敢往,故掾劉佑獨送之,步持喪車,悲號斷絕,哀感路人。張方以其義士,不之問也。初,乂執權之始,洛下謠曰:「草木萌牙殺長沙。」乂以正月二十五日廢,二十七日死,如謠言焉。永嘉中,懷帝以乂子碩嗣,拜散騎常侍,後沒于劉聰。

司馬乂の将は、城東でかりもがりをした。官属であえて行く人はおらず、古くからの掾の劉佑が独りで葬送し、歩いて喪車を引いた。劉佑の悲號は斷絕し、路人を哀しませた。張方は、劉佑を義士だとして、不問にした。
はじめ司馬乂が執権を開始したとき、洛陽に童謡があった。「草木が萌芽し、長沙王を殺す」と。司馬乂は、正月25日に廃され、27日に死んだ。童謡が歌ったとおりの季節だった。
永嘉年間、懐帝は司馬乂の子の司馬碩を後嗣とし、散騎常侍とした。のちに劉聡に殺された。
■翻訳後の感想
いちばんの盛り上がりは、司馬頴との兄弟げんかです。ちょっと意外ですが、八王の乱で衝突した兄弟は、この2人しかいないのです。他は、もうちょっと血縁が隔たっていたり、活躍した時期がズレていたりして、兄弟げんかになってない。
書状の応酬で「仁兄」だの「愛弟」だのの表現が出てきて、やたら「骨肉、骨肉」と連発している。これこそ、八王の乱の真骨頂でしょう。
「武帝(2人の父)は、こんな争いごとになるなんて、予想していなかった」と嘆きながら、洛陽と鄴都でにらみ合う。いいねえ。

「恵帝を支持し、彼を守り立てることが国のためである」と、司馬乂は信じていた。恵帝(司馬衷)は兄には違いないが、次元の違う崇高な存在です。その考えに照らせば、司馬頴や司馬顒のやっていることは、悪以外の何ものでもない。理解に苦しむのだろう。
なんのことはない。
司馬頴は、司馬衷を皇帝から降ろそうとしたと、ぼくは思います。だから、司馬乂と深刻に対立してしまったのだろう。

ただし、2人の景色の見え方は公平ではありません。司馬頴は、司馬乂が何を考えているか分かる。保守的な現状維持の人の主張なんて、説明不要だから。しかし、司馬乂には、司馬頴の頭の中が見えない。(政治的判断の妥当さは別として)革新的なことを考えている人の頭の中を、守旧派が覗くことは出来ないのです。
司馬乂は、「なぜ噛み合わないのか、理解できん」と思って書状を出していた。司馬頴は、手の内をあえて見せずに返答した。司馬頴が考えていることを開陳してしまっては、「大逆」ということに、なりかねん。成功した後に、「実はあの時から構想していたのだが」と言い出す性質の謀りごとだからね。司馬越も、司馬衷を降ろすことを考えていたから、内側から司馬乂の足をすくった。
司馬乂は、炙られながらも、最期まで煮え切らなかったに違いない。うまく言えたところで、司馬乂伝は終わりです。080816
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