三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
『晋書』列伝29より、「司馬頴伝」を翻訳(1)
成都王穎,字章度,武帝第十六子也。太康末受封,邑十萬戶。後拜越騎校尉,加散騎常侍、車騎將軍。賈謐嘗與皇太子博,爭道。穎在坐,厲聲呵謐曰:「皇太子國之儲君,賈謐何得無禮!」謐懼,由此出穎為平北將軍,鎮鄴。轉鎮北大將軍。

成都王・司馬頴は、あざなを章度といい、武帝の第16番目の子である。太康末(289年)邑10万戸を受封された。のちに越騎校尉を拝し、散騎常侍を加えられ、車騎將軍となった。賈謐はかつて皇太子傅で、(司馬遹と)道を争った。司馬頴は同席して、賈謐を怒鳴りつけた。「皇太子は国の儲君(皇太子)である。賈謐はなぜ無礼をはたらくのか」と。賈謐は懼れ、これによって司馬頴は平北將軍になり、鄴城に鎮すことになった。鎮北大將軍に転任した。


趙王倫之篡也,進征北大將軍,加開府儀同三司。及齊王冏舉義,穎發兵應冏,以鄴令盧志為左長史,頓丘太守鄭琰為右長史,黃門郎程牧為左司馬,陽平太守和演為右司馬。使兗州刺史王彥,冀州刺史李毅,督護趙驤、石超等為前鋒。羽檄所及,莫不回應。至朝歌,眾二十余萬。趙驤至黃橋,為倫將士猗、許超所敗,死者八千余人,士眾震駭。穎欲退保朝歌,用盧志、王彥策,又使趙驤率眾八萬,與王彥俱進。倫複遣孫會、劉琨等率三萬人,與猗、超合兵距驤等,精甲耀日,鐵騎前驅。猗既戰勝,有輕驤之心。

趙王・司馬倫が簒奪すると、司馬頴は征北大將軍に進み、開府儀同三司を加えられた。斉王・司馬冏が挙義すると、司馬頴は兵を発して応じた。 鄴令の盧志を左長史とし、頓丘太守の鄭琰を右長史とし、黃門郎の程牧を左司馬とし、陽平太守の和演を右司馬とした。
兗州刺史の王彦と、冀州刺史の李毅に命じて、趙驤や石超らを督護させ、前鋒とした。羽檄が及んで、応じない人はいなかった。朝歌(地名)に到ると、軍勢は20余万になった。趙驤は黄橋に到り、司馬倫の将軍である士猗と許超に敗れて、死者8000余人を出し、兵士たちは震駭した。司馬頴は朝歌を退いて兵を保ちたいと考え、盧志と王彦の策を用いた。また趙驤に兵8万を率いさせ、王彦とともに進ませた。司馬倫は、孫会と劉琨らに3万人を率いさせ、士猗と許超と合流させて、趙驤らを防いだ。精甲は耀日たり、鉄騎は前駆す。士猗はすでに戦勝していたので、趙驤を軽んじる心を持っていた。


未及溫十餘裏,複大戰,猗等奔潰。穎遂過河,乘勝長驅。左將軍王輿殺孫秀,幽趙王倫,迎天子反正。及穎入京都,誅倫。使趙驤、石超等助齊王冏攻張泓于陽翟,泓等遂降。冏始率眾入洛,自以首建大謀,遂擅威權。穎營於太學,及入朝,天子親勞焉。穎拜謝曰:「此大司馬臣冏之勳,臣無豫焉。」見訖,即辭出,不復還營,便謁太廟,出自東陽城門,遂歸鄴。遣信與冏別,冏大驚,馳出送穎,至七裏澗及之。穎住車言別,流涕,不及時事,惟乙太妃疾苦形于顏色,百姓觀者莫不傾心。

温県から十余里手前で、再び大戦があり、士猗らは逃げて壊滅した。司馬頴は黄河を渡り、価値に乗じて長躯した。
左将軍の王輿は孫秀を殺し、趙王倫を幽閉し、恵帝を復位させた。司馬頴が洛陽に入ると、司馬倫を誅した。趙驤や石超らに、斉王冏を助けさせ、張泓を陽翟で攻め、泓らを投降させた。司馬冏は初めて洛陽に兵を率いて入ったが、首謀者として(趙王倫攻めを)企画したことを自ら誇り、威権を専断した。司馬頴は太学に宿営し、入朝すると、天子は親しく労った。司馬頴は拝謝して言った。
「これは、大司馬である司馬冏の勲功です。私はヴィジョンがありませんでした」と。謁見を終え、すぐに辞去すると、二度と営舎には戻らず、太廟に謁した。司馬頴は、東陽城門から出て鄴に帰った。手紙を送って司馬冏に別れを告げた。司馬冏は大いに驚き、馳せ出て司馬頴を見送った。見送りは、七里の谷川(を越えるほどの道のり)にも及んだ。司馬頴は車を進めつつ別れを告げ、流涕した。「(鄴に帰る理由は)時事ではなく、ただ私の太妃が病気で顔色が苦しそうなためです」と言った。これを観た人で、心を傾けない人はいなかった。

至鄴,詔遣兼太尉王粹加九錫殊禮,進位大將軍、都督中外諸軍事、假節、加黃鉞、錄尚書事,入朝不趨,劍履上殿。穎拜受徽號,讓殊禮九錫,表論興義功臣盧志、和演、董洪、王彥、趙驤等五人,皆封開國公侯。又表稱:「大司馬前在陽翟,與強賊相持既久,百姓創痍,饑餓凍餒,宜急振救。乞差發郡縣車,一時運河北邸閣米十五萬斛,以振陽翟饑人。」

鄴に到ると、詔があり、大尉の王粹が遣わされた。司馬頴は九錫殊禮を加えられ、大将軍の位に進み、都督中外諸軍事、假節とされ、黃鉞を加えられ、錄尚書事、入朝不趨、劍履上殿の特権を得た。司馬頴は、徽號を拝受したが、殊禮九錫を辞退した。
上表して功臣の5人、盧志、和演、董洪、王彥、趙驤らの論功を願い出た。5人はみな開國公侯に封じられた。
また上表して言った。「大司馬(司馬冏)はさきに陽翟にあり、強賊と持久戦を行いました。万民は創痍し、饑餓凍餒しています。どうか早急に振救して下さい。郡や県の車を手配して、一時的に河北の邸閣にある米15万石を運び出し、陽翟の飢えた人に振る舞ってあげて下さい」と。


盧志言於穎曰:「黃橋戰亡者有八千餘人,既經夏暑,露骨中野,可為傷惻。昔周王葬枯骨,故《詩》雲'行有死人,尚或墐之'。況此等致死王事乎!」穎乃造棺八千餘枚,以成都國秩為衣服,斂祭,葬于黃橋北,樹枳籬為之塋域。又立都祭堂,刊石立碑,紀其赴義之功,使亡者之家四時祭祀有所。仍表其門閭,加常戰亡二等。又命河內溫縣埋藏趙倫戰死士卒萬四千餘人。穎形美而神昏,不知書,然器性敦厚,委事於志,故得成其美焉。

盧志は司馬頴に言った。「黄橋の戦いの死者は、8000余人おり、夏の暑さを経過しても、骨が原野に打ち棄てられています。痛切にいたむべきことです。むかし周王は枯骨を葬りました。ゆえに『詩経』に『死人に行うならば、たっとんで埋葬せよ』と載っています。故事を引き合いに出すまでもなく、死人に手を尽すことは王の仕事です」と。
司馬頴は、棺8000余枚を造り、成都国の俸禄から衣服を作って、斂祭し、黄橋北で葬り、植樹して囲い、宝域とした。すべてに祭堂を立て、石に文字を刻んで碑を立て、義の功績を掘り込み、死者のいる家には四時の祭祀をさせた。自軍の門閭について上表し、つねに戦死のときは2等級を加えるようにした。また、河内温県(司馬氏の本籍)に、趙王倫の戦死者4000余人を埋葬した。
司馬頴は姿形は美しかったが、精神は昏く、書を知らなかった。そのため、器の性質は敦厚で、政事は盧志に委任した。ゆえに美事を成すことができたのである。

及齊王冏驕侈無禮,於是眾望歸之。詔遣侍中馮蓀、中書令卞粹喻穎入輔政,並使受九錫。穎猶讓不拜。尋加太子太保。穎嬖人孟玖不欲還洛,又程太妃愛戀鄴都,以此議久不決。留義募將士既久,鹹怨曠思歸,或有輒去者,乃題鄴城門雲:「大事解散蠶欲遽。請且歸,赴時務。昔以義來,今以義去。若複有急更相語。」穎知不可留,因遣之,百姓乃安。及冏敗,穎懸執朝政,事無巨細,皆就鄴諮之。後張昌擾亂荊土,穎拜表南征,所在響赴。既恃功驕奢,百度弛廢,甚于冏時。

斉王冏が驕侈無禮であると、衆望は司馬頴に集った。詔して、侍中の馮蓀と中書令の卞粹が遣わされた。司馬頴が洛陽に入って輔政することが想定させ、九錫を与えられた。司馬頴は、なお謙譲して拝さなかった。太子太保を加えられた。
司馬頴に仕える宦官の孟玖は、洛陽に戻りたがらなかった。また程太妃は、鄴都を愛恋していた。そのため、司馬頴が洛陽で輔政するかという議論は長く決まらなかった。義を留め、将士を募ることすでに久しく(優柔不断なので)怨みとむなしさを重ね、早く洛陽に帰りたい人がおり、意見を鄴城門と題して言った。
「大きな事業(趙王倫の討伐は解散したが、はあわててほしい。洛陽に帰し、時務に赴くことを請う。むかし義は来ていたが、いま義は去った。もし再び(政治を正すことを)急ぐなら、さらに意見を述べ合おう」と。
司馬頴は鄴に留まるべきでないと知り、洛陽に政治担当者を遣ったので、万民は安んじだ。司馬冏が敗れると、司馬頴は執政し、ことの巨細なく、みな鄴(にいる司馬頴)に諮った。のちに張昌が荊州を擾亂させると、司馬頴は南征の上表を拝し、軍鼓を響かせ荊州に赴くことになった。
功を恃んで驕奢となり、百度でも弛緩して退廃的になることは、司馬冏よりもひどかった。
※司馬頴その人は、鄴城に残ったようです。

穎方恣其欲,而憚長沙王乂在內,遂與河間王顒表請誅後父羊玄之、左將軍皇甫商等,檄乂使就第。乃與顒將張方伐京都,以平原內史陸機為前鋒都督、前將軍、假節。穎次朝歌,每夜矛戟有光若火,其壘井中皆有龍象。進軍屯河南,阻清水為壘,造浮橋以通河北,以大木函盛石,沈之以系橋,名曰石鱉。陸機戰敗,死者甚眾,機又為孟玖所譖,穎收機斬之,夷其三族,語在《機傳》。

司馬頴はその欲をほしいままにし、司馬乂が洛陽にいることを憚り、ついに司馬顒と上表して、皇后の父/羊玄之と、左将軍/皇甫商らを誅することを請うた。檄によって司馬乂は宮殿に就いた。司馬顒の将軍/張方は洛陽を討った。平原內史/陸機を、前鋒都督、前將軍、假節とした。司馬頴は朝歌に着き、夜毎に矛戟には火のような光があり、防塁の井戸の中に全て龍象があった。進軍して河南に駐屯し、清水を塞き止めて防塁とし、浮橋を作って河北へ通じさせ、大木をもって盛り石の箱とし、それを沈めて接ぎ橋とし、この鉄壁の布陣を「石亀」と名づけた。
陸機は戦敗して、死者はとても多かった。陸機は孟玖に讒言され、司馬頴は陸機を捕えて、その三族殺した。詳細は、「陸機伝」にある。
『晋書』列伝29より、「司馬頴伝」を翻訳(2)
於是進攻京城。時常山人王輿合眾萬餘,欲襲穎,會乂被執,其黨斬輿降。穎既入京師,複旋鎮於鄴,增封二十郡,拜丞相。河間王顒表穎宜為儲副,遂廢太子覃,立穎為皇太弟,丞相如故,制度一依魏武故事,乘輿服禦皆遷於鄴。表罷宿衛兵屬相府,更以王官宿衛。僭侈日甚,有無君之心,委任孟玖等,大失眾望。

司馬頴は、洛陽に攻め込むこととなった。常山郡の人の王輿が万余の軍勢を合流させ、司馬頴を襲いたいと考え、司馬乂に会って指揮下に入った。だが司馬乂の私党は、王輿を斬って司馬頴に降った。司馬頴は洛陽に入ったが、再び鄴に出鎮することになった。20郡を増封され、丞相を拝した。
司馬顒は上表して、司馬頴を皇太弟にせよと言った。司馬覃は皇太子を廃され、司馬頴が皇太弟となった。丞相であることは変わらず、制度はひとえに曹操の故事に則って、輿に乗って禦兵を従えて、みな鄴に移った。上表して、宿衛の兵を、丞相府に属する者ではなく、王官に属する者とした。
僭越と奢侈は日に日にひどくなり、無君之心(自分がトップだと思う心)を抱き、孟玖らに政治を委任したので、おおいに衆望を失った。


永興初,左衛將軍陳,殿中中郎褾苞、成輔及長沙故將上官巳等,奉大駕討穎,馳檄四方,赴者雲集。軍次安陽,眾十余萬,鄴中震懼。穎欲走,其掾步熊有道術,曰:「勿動!南軍必敗。」穎會其眾問計,東安王繇乃曰:「天子親征,宜罷甲,縞素出迎請罪。」司馬王混、參軍崔曠勸穎距戰,穎從之,乃遣奮武將軍石超率眾五萬,次於蕩陰。某二弟匡、規自鄴赴王師,雲:「鄴中皆已離散。」由是不甚設備。超眾奄至,王師敗績,矢及乘輿,侍中嵇紹死於帝側,左右皆奔散,乃棄天子于槁中。超遂奉帝幸鄴。穎改元建武,害東安王繇,署置百官,殺生自己,立郊于鄴南。

永興初(304年)、左衛將軍の陳某と、殿中中郎の褾苞と成輔と、司馬乂の故將の上官巳らが、大駕(恵帝)を奉って司馬頴を討つと、馳せて四方に檄し、人が雲集した。(司馬頴討伐)軍は安陽に着き、その数は10余万で、鄴城内は震懼した。司馬頴は逃げたいと思ったが、彼の掾の步熊という人が、道術が使えた。「動いてはいけない。南軍は必ず敗れる」と予言した。司馬頴は、臣下を集めて計略を問うた。東安王・司馬繇が言った。
「天子が親征されておるのです。軍装をやめて、平服で出迎えて、罪を請うべきでしょう」と。司馬の王混と、參軍の崔曠は、司馬頴に防戦を勧めたため、司馬頴はこれに従った。奮武將軍の石超に5万を率いさせ、蕩陰に着いた。2人の弟の匡と規は、鄴から皇帝軍に赴いて言った。「鄴を攻めた部隊は、全員がすでに離散しました」と。これにより、皇帝軍の防備は不完全となった。石超の軍は包囲し、皇帝軍は敗戦した。矢は皇帝が乗る輿まで及び、侍中の嵇紹は恵帝のそばで死んだ。左右の人はみな逃げ散り、恵帝を死地に棄てた。石超は恵帝を鄴に奉戴した。司馬頴は改元して「建武」として、東安王繇を殺し、百官の役所を設置し、殺生を思うままに行い、鄴城の南に立郊した。


安北將軍王浚、甯北將軍東嬴公騰殺穎所置幽州刺史和演,穎征浚,浚屯冀州不進,與騰及烏丸、羯硃襲穎。候騎至鄴,穎遣幽州刺史王斌及石超、李毅等距浚,為羯硃等所敗。鄴中大震,百僚奔走,士卒分散。穎懼,將帳下數十騎,擁天子,與中書監慮志單車而走,五日至洛。羯硃追至朝歌,不及而還。河間王顒遣張方率甲卒二萬救穎,至洛,方乃挾帝,擁穎及豫章王並高光、慮志等歸於長安。顒廢穎歸籓,以豫章王為皇太弟。

安北將軍の王浚と、甯北將軍で東嬴公の司馬騰は、司馬頴が任命した幽州刺史の和演を殺した。司馬頴は王浚を征伐しようとしたが、王浚は冀州に駐屯して進まなかった。王浚は、司馬騰と、烏丸や羯硃とともに、司馬頴を襲った。王浚の騎兵が鄴に到った。司馬頴は幽州刺史の王斌と、石超と李毅らに、王浚を防がせた。だが羯硃に敗れてしまい、鄴城内な大いに震え、百僚は奔走し、士卒は分散した。
司馬頴は懼れ、帳下の數十騎を率いて、恵帝を擁して、中書監の慮志とともに1人用の馬車で逃げ、5日して洛陽についた。羯硃は朝歌まで追いかけたが、追いつけずに引き返した。
司馬顒は張方に2万を率いて司馬頴を救わせた。洛陽に到るや、張方は恵帝を挟んで、司馬頴と豫章王(司馬熾)と、高光や慮志らを擁して、長安に帰った。司馬顒は司馬頴を廃して帰藩させ、豫章王(司馬熾)を皇太弟とした。

穎既廢,河北思之。鄴中故將公師籓、汲桑等起兵以迎穎,眾情翕然。顒複拜穎鎮軍大將軍、都督河北諸軍事,給兵千人,鎮鄴。穎至洛,而東海王越率眾迎大駕,所在鋒起。穎以北方盛強,懼不可進,自洛陽奔關中。值大駕還洛,穎自華陰趨武關,出新野。帝詔鎮南將軍劉弘、南中郎將劉陶收捕穎,於是棄母妻,單車與二子廬江王普、中都王廓渡河赴朝歌,收合故將士數百人,欲就公師籓。

司馬頴は廃されると河北(鄴)を懐かしく思った。鄴内では、司馬頴の故將である、公師籓や汲桑らが兵を起こして、司馬頴を迎えた。衆情はこれに合意した。司馬顒は再び司馬頴を、鎮軍大將軍、都督河北諸軍事とし、兵千人を給い、鄴に鎮させた。司馬頴が洛陽に到ると、東海王越は軍勢を率いて皇帝を迎えようと、蜂起した。司馬頴は北方の盛強な兵を率いていたが、懼れて進めず、洛陽から関中に逃げた。
(司馬越が勝って)恵帝が洛陽に戻ると、司馬頴は華陰県から武関にはしり、新野郡に出た。恵帝は詔して、鎮南將軍の劉弘と、南中郎將の劉陶に、司馬頴を捕捉させようとした。司馬頴は母や妻を棄てて、1人用の馬車に2人の子を乗せて、黄河を渡って朝歌に赴いた。2人の子とは、廬江王の司馬普と、中都王の司馬廓である。
司馬頴は旧くからの将士数百人を集め、公師籓に援護を求めた。


頓丘太守馮嵩執穎及普、廓送鄴,范陽王虓幽之,而無他意。屬虓暴薨,虓長史劉輿見穎為鄴都所服,慮為後患,秘不發喪,偽令人為台使,稱詔夜賜穎死。穎謂守者田徽曰:「范陽王亡乎?」徽曰:「不知。」穎曰:「卿年幾?」'徽曰:「五十。」穎曰:「知天命不?」徽曰:「不知。」穎曰:「我死之後,天下安乎不安乎?我自放逐,於今三年,身體手足不見洗沐,取數鬥湯來!」其二子號泣,穎敕人將去。乃散發東首臥,命徽縊之,時年二十八。二子亦死。鄴中哀之。

頓丘太守の馮嵩は、司馬頴と2人の子を鄴に送った。范陽王の司馬虓は、司馬頴を捕えて幽閉し、他意はなかった。
司馬虓が変死を遂げた。司馬虓の長史の劉輿は、司馬頴が鄴都で心服を得ているのを知った。後のことを患いて、司馬虓の喪を発さず、鄴台(司馬虓)からの使者だと偽り、詔だとして司馬頴に死を賜った。司馬頴は、守衛する田徽に聞いた。
「司馬虓は死んでいないのか」。「知りません」。「きみは何歳か」。「50です」。「(論語に照らして)天命を知っているか」。「知りません」。「私が死んだら、天下は安定するだろう。私は放逐されて3年、身体手足を洗沐していない。湯を数斗、持って来てくれ」。司馬頴の2人の子は号泣し、司馬頴は命令して子を逃がそうとした。髪をほどいて、頭を東に向けて横になり、田徽にくびり殺させた。28歳だった。2子も死んだ。鄴城は哀しみに包まれた。
※司馬虓の暗殺を、司馬頴はどうやら知っていましたね。


穎之敗也,官屬並奔散,惟盧志隨從不怠,論者稱之。其後汲桑害東贏公騰,稱為穎報仇,遂出穎棺,載之於軍中,每事啟靈,以行軍令。桑敗,度棺于故井中。穎故臣收之,改葬於洛陽,懷帝加以縣王禮。
穎死後數年,開封間有傳穎子年十餘歲,流離百姓家,東海王越遣人殺之。
永嘉中,立東萊王蕤子遵為穎嗣,封華容縣王。後沒于賊,國除。


司馬頴が敗れると、彼の官属はみな奔散したが、ただ盧志だけは司馬頴に従って怠らず、人々はこれを賞賛した。その後、汲桑が東贏公・司馬騰を殺害すると、司馬頴の報仇だと称した。汲桑は、司馬頴の棺を出し、軍中にこれを載せ、いつも司馬頴の礼にお伺いを立ててから軍令を行った。汲桑が敗れると、棺は古井戸に投げ込まれた。司馬頴の故臣は棺を収め、洛陽に改葬した。懐帝は県王の礼を加えた。
司馬頴の死後数年、開封の間にある伝によると司馬頴の子は10余歳で、百姓の家を流離していたが、東海王越が人をやって殺した。永嘉年間(307-313)、東萊王蕤の子である司馬遵が、司馬頴の後嗣とされ、華容縣王に封じられた。司馬遵が賊に殺されると、国は除かれた。
■翻訳後の考察
実質的には皇帝でしたね。改元しちゃったし、鄴城の南に立郊したとあるし、『晋書』も途中から、鄴を「鄴都」と書いている。あまりに短期政権だったからカウントされていない。というか、司馬倫のように禅譲を迫るつもりだったのかも知れないけど、王浚が電光石火で鄴を陥落させてしまったから、禅譲を完遂できなかっただけじゃないか。
しかし、読み書きができないのに皇帝を狙うとは、司馬倫とつくづく傾向が似ている。即位しても政争を招くだけだろ。

鄴都での、妙な人気はなんだろうか。皇帝が洛陽にいない。司馬頴と敵対した司馬顒が、長安でプライベートに恵帝を擁していた。河北の人にとっては、晋帝国はすでに分裂していたのかも知れない。
『晋書』1冊に編集されたから、集中権力の健在を錯覚するが、河北は独立していたのかも知れない。曹操の故事に則ったということは、母体の旧王朝から切り離すことが念頭に置かれているわけで。
曹操と司馬頴が違うのは、晋帝国に、漢帝国ほどの神話が備わっていないこと。
漢は400年続いていて、王莽が横槍を入れても、奇跡の復活を遂げた。「秦に始まった皇帝の天下という発明品は、漢に到って永久機関となった」という諒解事項がある。だって反例がないのだから、誰も疑えない。それを終わらせようと狙うのだから、曹操は非常に苦労した。割に合わないプレッシャーを、曹丕は背負った。
一方で晋帝国は、漢から禅譲を受けた魏から禅譲を受けたもの。名望の在り処によって、皇帝の位は渡り歩くというイメージかな。同族の中でも「禅譲」みたいなことをやってる。
歴史上、例えば漢王朝だって、同族内での「後継争い」は、いくらでもある。だがそれは「禅譲」ではない。しかし晋は、禅譲をお手軽に考える。ちょっと継承権を手に入れたいと思ったら、禅譲の故事を真似て、世論の支持を得ようとする。やり過ぎだ。

『三国志』の主題を、史上初のリアルな禅譲の顛末を見届けるドラマだと設定できます。
三国鼎立という、偶然の非常事態にでもならなければ、禅譲はなかっただろう。曹操は急いで「魏公」「魏王」なんて上り詰めずに済んだ。曹丕は「魏帝」になる必要はなかった。曹氏は、「漢の有力な臣下」で終わることができた。だが、赤壁と漢中で下手こいて、禅譲という伝説にすがるしか、曹氏を保つ方法が思い浮かばなかった。「超世の傑」とか評されるが、頭を絞った動機の原点は、保身だろう。さもしいが、人間は低次欲求を脅かされると、死力を尽すものだ。
その80年後の八王の乱は、禅譲というツールを持て余して、漢民族が困り果ているシーンだと言えるだろうか。080815
前頁 表紙 次頁
(C)2007-2008 ひろお All rights reserved. since 070331xingqi6
inserted by FC2 system