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後漢の「御三家」、章帝八王 1)質帝を出した長男家
『後漢書』列伝45は「章帝八王伝」です。
3代章帝は、自分が皇帝をやっていく自信がなくなったので、ファザコンの傾向を強めました。
「輝かしき光武帝と明帝、私に力を」
こうして劉氏を繁栄させることに取り付かれた皇帝は、一族を王に封じることに熱心になりました。この振る舞いが、後漢の帝室の系図を、章帝を起点に拡散させることになりました。

■序文
章帝は8子いた。
宋貴人は、清河孝王の劉慶を産んだ。梁貴人は、和帝を産んだ。申貴人は、済北恵王の劉寿と、河間王の劉開を産んだ。残りの4王は、母の名が『東漢観記』に載っていない。

■劉伉の家
千乗貞王劉伉は、79年に封じられた。和帝が即位すると、劉伉は長兄だから、はなはだ尊び礼を払われた。
王を15年やり、94年に死んだ。
いったい何歳なんだ?和帝は即位時にわずか10歳でとても不便したんだが、年長の兄弟がいたなら、そちらに譲ればいいのに。
もし章帝が15歳のときに生まれたとすると、章帝が死んだときに17歳となる。恐らく母の身分が低かったから即位できなかったんだろうが、母の序列を犯してまで即位させるほど、成年ではないことになる。
和帝よりも11年早く死んだから、劉伉が継いでいても幼帝の連続に陥っていたし、一緒だったね。

劉伉が死ぬと、子の劉寵が継いだ。一名を伏胡という。きっと国家の願いを託された幼名で、「西域が屈服しますように」ということだろう。劉伉の、皇帝の兄たる自覚が伺える。
95年、国名を改めて「楽安王」となった。28年間、王をやって死んだ。没年は、123年となる。「夷」とおくり名されたから、「楽安夷王」である。劉伉も劉寵も洛陽で死んだから、洛陽に葬られた。
幼名が「胡」だったり、おくり名が「夷」だったり、ちょっと荒っぽい武芸の家だったのだろうか。それとも自分で蔑んだ?『後漢書』は沈黙して語ってくれません。

劉寵の子、劉鴻が継いだ。安帝が死んだとき、初めて任国に行った。
劉鴻は質帝の父となった。質帝が立つと、梁太后が詔した。
「楽安国は、国土が卑湿(低湿地)で田租が少ない。劉鴻は皇帝の父なのだから、渤海王になりなさい」
ありがたい命令でありますが、だったら初めから和帝の兄を卑湿な土地に封じるなと言いたくなる。きっと、皇帝の兄だから警戒された。敬いつつ、羽をもがれたんだ。
26年王位にあって、死んだ。「孝王」とされた。

劉鴻には子がなかった。というか、たった1人の男子は質帝となり梁冀に殺されたのだ。
梁太后は、桓帝の弟でレイ吾侯の劉悝を渤海王とした。桓帝は、章帝の子で劉開の系統だ。つまり、劉伉の系統は、梁冀の差し金で弟の家に乗っ取られてしまった。
165年、劉悝は叛逆を企てたとして、担当官は、
「渤海王を廃しましょう」
と桓帝に願い出た。桓帝は劉悝が実弟だから、忍びなく思った。
「廃すことはない。エイ陶県王に貶めればいい」
のちに劉悝は、中常侍の王甫を頼った。
「もし国王に戻れたら、謝礼を5千万銭さし上げる」
こんなことを約束したんだから、劉悝は名誉に執着していたんだろう。
桓帝が崩御するとき、遺詔にて渤海王に戻った。
「それではお約束の5千万銭を・・・」
王甫は、劉悝が願いをかなえたのだから、謝礼を要求した。
「私が渤海王になったのは、王甫のおかげじゃない。金は払わない」
劉悝の言い分はもっともだが、邪悪な宦官に道理は通じない。
劉宏(のちの霊帝)を迎えに行く使者が設定されると、王甫は道路に流言した。
「劉悝は皇帝を狙っている。劉宏を招くための徴書を、奪おうとしている!警備を強化せよ」
根も葉もない噂だが、嘘っぽくないのが、劉悝の痛みである。劉伉の系統は、和帝の兄だった始祖の運命を背負って、皇帝を狙えるのに皇帝になれないという王がたびたび出ます。
劉悝にも、味方はあった。
中常侍の鄭颯、中黄門の董騰は、任侠の心を持ち、身軽で命知らずだった。しばしば劉悝と書面を交通させていた。
「鄭颯と董騰は邪魔だな」
王甫はそう思ったから、先手を取った。彼ら2人を、宦官の味方である司隷校尉の段熲に捕えさせた。北寺獄(黄門署に属すジェイル)に繋いだ。
「鄭颯らは、尚書令の廉忠と結託して、劉悝を皇帝に迎えようとしている。これは大逆不道です」
もちろんウソなのであるが、宦官の方が強い。
「劉悝を取り調べよ」
冀州刺史に命じて、劉悝を捕えた。大鴻臚(皇室を世話する)に廷尉を率いさせ、劉悝を責めた。
――劉悝は自殺した。
妃妾11人、子女70人、伎女24人、みな獄中で死んだ。桓帝は元服前に子を持っていたが、その弟さんも子宝に恵まれています。桓帝が子を全員間引きしてしまったという疑惑が強くなった(笑)
傅(教育係)や相(民政長官)など、劉悝を教育するべき人たちは、王に道を誤らせたとして誅に服した。
劉悝は渤海王を25年やって、国が除かれた。衆庶で、これをこれを憐れまない人はいなかった。
霊帝は、劉悝にとって弟の家柄です。始祖が背負った「皇帝の兄」という微妙な立場は、ついに国を絶やすこととなりました。
■劉全の家
平春悼王の劉全。79年に封じられたから、劉伉と同年だ。平春県とは、江夏郡である。
その歳に死んで、洛陽に葬られた。子がいないから、国は除かれた。
名前は「全う」するものなのに、それに反した死に方です。劉全はたまたま名前が残ったが、79年を待たずに死んだ皇子がたくさんいただろう。そんな予想を成立させてくれる、たった1行の列伝でした(笑)

次は劉慶です。皇位を巡って、また厄介な経緯のある家です。
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このコンテンツの目次
>後漢の「御三家」、章帝八王
1)質帝を出した長男家
2)よき兄、よき廃太子
3)皇帝を供給する家
4)最後の勝者
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