三国志は、1800年に渡って語り尽くされてきた叙事詩。
しかし、とある映像作品のキャッチコピーみたく「死ぬまで飽きない」もの。
まだまだ枯れる気配すら見せない、三国志の魅力について語ります。
後漢王朝は、二重螺旋構造で代を重ねた(1)
後漢は外戚の専横が、王朝を傾けた時代だと言われています。しかし、幼帝が続きまくっても、いちおう200年は存続するんだから「短命な王朝だ」とは言えない。むしろ、よく続いたと言えるでしょう。
どうも健康に悪いらしい「皇帝」というお仕事についた劉氏は、次々と死んでゆく。その王朝を断絶させなかったのは、じつは外戚のおかげだと、ぼくは思う。

■二重螺旋構造
話が飛びますが、遺伝子が二重螺旋構造になっているのは、なぜか。それは、どちらかが壊れても、もう片方の健全な方から働きかけて、修復をするためだそうです。
すなわち、1本だったらそれが壊れたら終わりだが、2本が絡みついてれば、つねに互いが互いのスペアとして、有事に備えられるのです。

3代の章帝の79年、白虎観会議で「親親」が国是とされた。すなわち、レ点を付けて「親(類)ヲ親シム」という。これによって、外戚は、皇帝に匹敵するパワーを振るう根拠を得ました。この国是は、二重螺旋構造を定めたと言っていい。
「もし劉氏の血脈が途絶えたら、外戚に皇帝並の権力を与え、劉氏の王朝を修復させよ」と、ぼくは読む。
ただし、外戚まで世襲してしまったら、血が濃くなりすぎるという医学的な問題もあるし、「同姓を娶らず」という儒教の規則にも反しそうだし、何よりも外戚の家が力を持ちすぎる。
劉氏が世襲で、外戚が世襲なら、どっちが皇帝だか分からん。皇帝は天下で1人しかいちゃいけないという鉄則があるから、やはり外戚は移り変わるべきものなのです。
■外戚の歴史
どのように外戚が王朝を修復してきたか、概観します。
88年、章帝が死ぬと、12歳の和帝が立った。章帝の皇后・竇氏が政治を行い、92年に和帝に滅ぼされた。
105年、和帝が死ぬと、和帝の皇后・鄧氏が政治を執った。鄧氏は、1歳の殤帝を立てたが、106年に死去。鄧氏は、13歳の安帝を立てた。121年、鄧氏が死ぬと、安帝が族殺した。
125年に安帝が死ぬと、安帝の皇后・閻氏が少帝を立てたが、200日で病死。11歳の順帝が、閻氏を宦官に討たせて、125年に即位した。
144年に順帝が死ぬと、順帝の皇后・梁氏が、2歳の冲帝を立てたが、病死もしくは梁氏による毒殺。145年に質帝が立ったが、やはり梁氏が毒殺。146年、梁氏は15歳の桓帝を立てた。159年、桓帝が梁氏を滅ぼした。
167年、桓帝が死ぬと、桓帝の皇后・竇氏が、13歳の霊帝を立てた。168年、宦官によって竇氏は討たれた。
189年、霊帝が死ぬと、霊帝の皇后・何氏が、17歳の少帝を立てた。190年、董卓が乱入して、何氏は殺され、後漢は終わり。

■普遍のルール
わざとぼくがそう書いているというのもあるが、同じことのくり返しだ。成人皇帝が死ぬ、皇后が(太后として)幼帝を助ける、成人した皇帝によって殺される。
幼帝ばかり続いているのに、劉氏が途絶えなかったのは、外戚がバトンの受け渡しを助けたからだ。

バトンが渡ってしまえば、用済みとばかりに、外戚は除かれる。権力というのは、その性質上、どこかが独占するものだ。
権力は皇帝に帰属するのが、本来の姿だ。ゆえに、遅かれ早かれ、外戚は討たれる運命にある。静かにフェイドアウトする外戚がいても良さそうだが、権力には、病み付きになるという性質もあるので、難しいようです。

■宦官が力を持ったわけ
皇帝の手足として動かせるのは宦官だ。
和帝のとき、順帝のとき、桓帝のとき、霊帝のとき、外戚を滅ぼしたのは宦官だ。皇帝が自ら権力を回復しようと思えば、必然的に宦官を使うことになる。
男根を切除しているという、現代日本人にとっては異端な身体的特徴により、「宦官=悪」というイメージを導くのは、容易だ。しかし、中国では宦官は当たり前かつ必要なものだし、そもそも光武帝が「皇帝の身の回りには、宦官のみで」と定めたんだ。狙いどおりに、きっちり機能したと言える。
宦官が外戚を討つと、違う氏が外戚になって、(めでたい話ではないが)皇帝の死に備える。皇帝が成人した子を残せれば、この備えはムダに終わるのだが、なかなかそう順調に進まなかったのが、後漢の特徴です。

■章帝の皮肉
後漢の系図は、章帝を起点にして、次々と傍流が即位する。たまに、親から子への相続も起きるんだが、子が夭折することが多く、うまくいかん。唯一、安帝と順帝は、それなりに長生きした父子なんだが、閻氏が横槍を入れたので、即位の順序が飛んでしまっている。
「親親」を定めた章帝以降、外戚の機能なしには、王朝が存続できなかったというのは、先見の明であり、皮肉でもあります。
後漢王朝は、二重螺旋構造で代を重ねた(2)
■三つ巴の正体
後漢を「宦官・外戚・官僚の三つ巴」と、無責任に総括することはあります。しかし、そんな単純なものではない。
まず「官僚」というのが、表現がとても難しい。豪族から名士に変容していく社会階層のことを指すんだろうね。その自称から、「清流」と呼ぶこともあり。
皇帝が豪族に挑戦状を叩きつけた変遷が、三つ巴の真相です。

初め力を持ったのは、光武帝を助けた豪族でした。三輔や荊州の人たちだ。
光武帝の二十八将というのが、いる。後漢の建国に貢献した人たち。このとき光武帝は、絶対的な中央集権ではなく、豪族たちの暫定的なリーダーとして位置づけられた。
課題は、南陽の劉氏を「豪族の首席」から、「侵すべからざる神聖」に格上げすることでしょう。臣の位階の最上位に、皇帝がいるのではない。「臣と主は次元そのものが違う」という、仕組みにしなければならない。
そこで、主要な豪族から皇后をもらい、豪族の権威を吸収しようとした。ゼロから権威を捻り出すより、既成のところから拝借してくる方が、早いんだ。相手の権威を削げるし、一石二鳥だ。
ゆえに、このときは外戚が高位に上ることはない。あくまで、劉氏の皇室のハクを付けるために、娘をもらってきてるに過ぎない。これで外戚に高位を与えてしまえば、所期の目的は達成されないからね。2代明帝のときも然り。
「皇帝+宦官+(豪族の娘) VS 豪族」という構図ができた。

やがて3代章帝のとき、「親親」というようになった。これにより、構図が変わる。
「皇帝+宦官+外戚の豪族 VS 外戚以外の豪族」となる。
皇帝の側に、皇后を出した豪族を引きずり込むことに成功したのだ。もともと不気味な存在だった豪族に、劉氏を守らせるのだから、資源の有効活用である。
和帝のとき、益州や揚州の豪族を招くようになり、建国の功臣の権力は相対化される。外戚重視というのは、光武帝以来の豪族抑制策の延長だ。

幼帝が立つと「皇帝+宦官+外戚 VS その他の豪族」となる。外戚が増長すると、宮中で一瞬だけ政変が起こり、「皇帝+宦官 VS 外戚」となる。その他の豪族は、この政変に参加する余裕がない。和帝、桓帝のときが、これに当たる。極秘作戦により、一夜で逆クーデターを終わらせてしまう。

政変が大規模になると、その他の豪族も参戦する。「皇帝+宦官 VS 外戚+その他の豪族」となる。これが党錮ノ禁の正体だと、ぼくは思う。
後漢末期のできごとだが、光武帝が目指した皇帝への権力集中が、最も高いレベルで実現できた構図である。光武帝が悦びそうなことに、2回とも皇帝側(宦官)が勝利した。
霊帝は、皇帝直属の軍隊を作った人だ。
「宦官ばかりのさばらせ、宦官の子弟を地方官に任じて、なんて馬鹿やねん」と言われるが、それは違う。宦官のへつらいに、霊帝が騙されていただけではない。
輿望に適うかどうかは、別に検討が必要だが(というか、輿望には叛いているが)、豪族を外戚として利用して皇位をつなぎ、ついに皇帝の手足のみで天下を覆ったのは、南陽の劉氏の快挙なのです。最盛と言えます。
霊帝の末期、黄巾ノ乱により、豪族の力を拝借しないと治まらなくなり、仕方なく党錮を解除するんだが。
■曹操の秘密
曹操の正体は、宦官の孫だ。献帝を奉戴して、外戚(董氏や伏氏)を討ち、豪族(袁氏ら)を討ち、後漢の皇帝権力を強めるのが、歴史的な役割を鑑みたとき、もっとも自然な施策だ。
ところが、割拠する賊徒(孫権と劉備)を掃討しそこねた。後漢の臣として曹操に協力していた豪族(荀彧・陳羣・司馬懿ら)は、「曹氏が後漢を助けられないなら、従う義理はないね」と言い始めた。孔融との対立も、時期は早いが、同根か。
仕方なしに曹操は、魏を建国した。「任務を果たせない後漢の陪臣」から「皇帝」に化けて、曹氏の滅亡を防ごうとした。

■晋への展望
数代は宦官の家のフェイクも通用したんだが、呉蜀が討てない。曹芳・曹髦のころに世論が去り、豪族(名士)のリーダーになった司馬氏に、主権を譲り渡すことになる。曹氏VS司馬氏は、「(後漢皇帝)+宦官 VS 豪族」の再戦であり、ついに軍配が上がったのは、豪族の側だった。

ただし落とし穴があった。豪族は、儒教官僚となり、名士となったが、彼らの属性は「論争して初めて、存在意義が認められる学者」である。学問というのは、過去の研究とは違う見解を発表してこそ、意味があるのです。そんな彼らが政権を担えば、派閥抗争に明け暮れるのは、火を見るより明らかで。
究極は、学問の家として伝統を持つ司馬氏が、その血ゆえに、骨肉の争いを始めることかな。難しいねえ。080916
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