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『晋書』志第十四 「 職官」の翻訳 1)国を作った八公
さっき『後漢書』の「百官志」を見たところですが、次は『晋書』いきます。

『晋書』志第十四 「 職官」
《書》曰:「唐虞稽古,建官惟百。」所以獎導民萌,裁成庶政。《易》曰:「天垂象,聖人則之。」執法在南宮之右,上相處端門之外,而鳥龍居位,雲火垂名,前史詳之,其以尚矣。黃帝置三公之秩,以親黎元,少昊配九扈之名,以為農正,命重黎於天地,詔融冥於水火,則可得而言焉。伊尹曰:「三公調陰陽,九卿通寒暑,大夫知人事,列士去其私。」而成湯居亳,初置二相,以伊尹、仲虺為之,凡厥樞會,仰承君命。總及周武下車,成康垂則,六卿分職,二公弘化,咸樹司存,各題標準,苟非其道,人弗虛榮。貽厥孫謀,其固本也如此。

『書経』曰く、「唐虞は古代を参考にして、ただ百の官を設置した」と。民衆を繁栄に導き、政治を裁可した。『易経』曰く、「天がカタチを示したので、聖人はこれに則った」と。南宮ノ右で法を執行し(以下、よく分かりませんが、道理に適っていると言いたいのでしょう)。
黄帝は、三公と九卿の秩序を設置し、土木を治めた。
伊尹曰く、「三公が陰陽をととのえ、九卿が寒暑に通じ、大夫は人事を知り、列士は私心を政治に持ち込まない」と。周の湯王のとき、「二相」を設置して、伊尹と仲虺を任命した。周の武王のとき、六卿に職能を分けて、二公とともに良政をした。

及秦變周官,漢遵嬴舊,或隨時適用,或因務遷革,霸王之典,義在於斯,既獲厥安,所謂得其時制者也。四征興於漢代,四安起于魏初,四鎮通於柔遠,四平止於喪亂,其渡遼、淩江,輕車、強弩,式揚遐外,用表攻伐,興而複毀,厥號彌繁。及當塗得志,克平諸夏,初有軍師祭酒,參掌戎律。建安十三年,罷漢台司,更置丞相,而以曹公居之,用兼端揆。孫吳、劉蜀,多依漢制,雖複臨時命氏,而無忝舊章。

秦が周の官制を変更し、漢は秦を受け継いだが、不都合があれば時々に改訂した。
四征将軍は漢代に作られ、四安将軍は、魏初に作られた。四鎮将軍は遠方を手なずけ、四平将軍は喪乱を収めた。遠征が多かったから、将軍号はインフレした。はじめは軍師祭酒が、曹操軍の軍律を管理した。建安13年、漢の三公をやめて丞相が設置され、曹操が就いた。孫呉と劉蜀は、多くは漢代の官制をまねた。呉と蜀は王朝を名乗っていたが、両国の公文書は残っていない。

世祖武皇帝即位之初,以安平王孚為太宰,鄭沖為太傅,王祥為太保,司馬望為太尉,何曾為司徒,荀顗為司空,石苞為大司馬,陳騫為大將軍,世所謂八公同辰,攀雲附翼者也。若乃成乎棟宇,非一枝之勢;處乎經綸,稱萬夫之敵。或牽羊以葉於夢,或垂釣以申其道,或空桑以獻其術,或操版以啟其心。臥龍飛鴻,方金擬璧,秦奚、鄭產,楚材晉用,斯亦曩時之良具,其又昭彰者焉。
宣王既誅曹爽,政由己出,網羅英俊,以備天官。及蘭卿受羈,貴公顯戮,雖複策名魏氏,而乃心皇晉。
及文王纂業,初啟晉台,始置二衛,有前驅養由之弩;及設三部,有熊渠佽飛之眾。是以武帝龍飛,乘茲奮翼,猶武王以周之十亂而理殷民者也。是以泰始盡于太康,喬柯茂葉,來居斯位;自太興訖於建元,南金北銑,用處茲秩。雖未擬乎夔拊龍言,天工人代,亦庶幾乎任官惟賢,蒞事惟能者也。

司馬炎が即した直後は、安平王の司馬孚が太宰となり、鄭沖が太傅となり、王祥が太保となり、司馬望が大尉となり、何曾が司徒となり、荀顗が司空となり、石苞が大司馬となり、陳騫が大将軍となった。世にいう「最強最高の8公の顔ぶれ」である。
司馬懿が曹爽を誅したとき、主導権は魏から晋に移った。英俊な人材をもれなく集め、禅譲に備えた。曹芳が降ろされ、曹髦が殺されると、いちおう魏朝が続いていたが、人心は晋に集まっていた。
司馬昭が晋王になると、まず二衛を設置して、国づくりを始めた。司馬炎が即位すると、周の武王が殷の民を引き継いだように、官制を整備した。泰始(265-275)から太康(280-290)まで司馬炎は皇帝で、晋朝は栄えた。 東晋以後も、適任な人が官位についた。

丞相、相國,並秦官也。晉受魏禪,並不置,自惠帝之後,省置無恆。為之者,趙王倫、梁王肜、成都王穎、南陽王保、王敦、王導之徒,皆非複尋常人臣之職。

「丞相」と「相国」は、どちらも秦の官制である。だが晋が魏から受禅したとき、置かなかった。恵帝より後は、ずっと置かれなかった。就いたのは、趙王の司馬倫、梁王の司馬肜、成都王の司馬頴、南陽王の司馬保、王敦、王導らである。通常の人臣の職ではなく、皇帝を上回るほどの有力者が就いたのだ。

太宰、太傅、太保,周之三公官也。魏初唯置太傅,以鐘繇為之,末年又置太保,以鄭沖為之。晉初以景帝諱故,又采《周官》官名,置太宰以代太師之任,秩增三司,與太傅太保皆為上公,論道經邦,燮理陰陽,無其人則闕。以安平獻王孚居之。自渡江以後,其名不替,而居之者甚寡。
太尉、司徒、司空,並古官也。自漢曆魏,置以為三公。及晉受命,迄江左,其官相承不替。
大司馬,古官也。漢制以冠大將軍、驃騎、車騎之上,以代太尉之職,故恆與太尉迭置,不並列。及魏有太尉,而大司馬、大將軍各自為官,位在三司上。晉受魏禪,因其制,以安平王孚為太宰,鄭沖為太傅。王祥為太保,義陽王望為太尉,何曾為司徒,荀顗為司空,石苞為大司馬,陳騫為大將軍,凡八公同時並置,唯無丞相焉。自義陽王望為大司馬之後,定令如舊,在三司上。

太宰、太傅、太保は、周の三公である。魏初に太傅だけが置かれ、鍾繇が就いた。魏末に太保が置かれ、鄭沖が就いた。晋初に、司馬師の名を避け、また『周官』を参考にして、「太師」の代わりに「太宰」を設置した。三司の秩禄を増やし、太宰と太傅と太保を三公の上位とした。
「太宰」には、道を論じて邦を經じ、陰陽を変理できるパーフェクトな人が就任すべきだとされたから、安平献王の司馬孚が就いた。呉を制圧して以後、官名を変更することはなく、ハードルが高いままだったから、就いた人はとても少ない。
大尉と司徒と司空は、どれも古代の官制である。漢と魏のとき、三公として設置された。晋が受命してから東晋になるまで、そのままキープされた。
大司馬は、古代の官である。漢制では、大将軍、驃騎将軍、車騎将軍の上位とされた。後漢のとき、大司馬は大尉に変更された。大尉が常置されたから、(重複を避けるため)大司馬は並置されなかった。魏も大尉を置いたが、大司馬と大将軍も設置され、どちらも三公の上位とされた。
晋になると、魏の制度を引き継いで、安平王の司馬孚が太宰で、鄭沖が太傅で、王祥が太保で、義陽王の司馬望が太尉で、何曾が司徒で、荀顗が司空で、石苞が大司馬で、陳騫が大將軍となった。このように八公を同時に並置したが、丞相だけは置かれなかった。
義陽王の司馬望が大司馬となった後、ルールとして定着し、大司馬は三公の上とされた。

大將軍,古官也。漢武帝置,冠以大司馬名,為崇重之職。及漢東京,大將軍不常置,為之者皆擅朝權。至景帝為大將軍,亦受非常之任。後以叔父孚為太尉,奏改大將軍在太尉下。及晉受命,猶依其制,位次三司下,後復舊,在三司上。太康元年,琅邪王伷遷大將軍,複製在三司下,伷薨後如舊。
開府儀同三司,漢官也。殤帝延平元年,鄭騭為車騎將軍,儀同三司;儀同之名,始自此也。及魏黃權以車騎將軍開府儀同三司;開府之名,起於此也。

大将軍は古代の官制である。前漢ノ武帝が設置し、大司馬の名で呼んで、崇重された職位である。後漢になると、大将軍は常置ではなくなった。後漢で大将軍になった人は、みな朝権をほしいままにした。
司馬師は大将軍になり、非常ノ任を受けた。司馬師は、叔父の司馬孚を大尉にして、「大将軍(私)を大尉(叔父)の下にして下さい」と組織変更を願い出た。晋朝が成立しても官制はそのままで、大将軍の位は三公の下だった。後に三公の上に戻された。太康元年、瑯邪王の司馬伷が大将軍になり、復た大将軍は三公の下になった。司馬伷の死後、三公の上に戻された。
開府儀同三司は、漢の官制である。殤帝の延平元年、鄧騭を車騎将軍にして、儀同三司とした。「儀同」という名は、このときから始まった。魏のとき、(夷陵の戦後に蜀から降伏してきた)黄権は車騎将軍となり、開府儀同三司 となった。「開府」という名は、このときから始まった。

驃騎、車騎、衛將軍、伏波、撫軍、都護、鎮軍、中軍、四征、四鎮、龍驤、典軍、上軍、輔國等大將軍,左右光祿、光祿三大夫,開府者皆為位從公。
太宰、太傅、太保、司徒、司空、左右光祿大夫、光祿大夫,開府位從公者為文官公,冠進賢三梁,黑介幘。
大司馬、大將軍、太尉、驃騎、車騎、衛將軍、諸大將軍,開府位從公者為武官公,皆著武冠,平上黑幘。
文武官公,皆假金章紫綬,著五時服。其相國、丞相,皆袞冕,綠盭綬,所以殊于常公也。

驃騎、車騎、衛將軍、伏波、撫軍、都護、鎮軍、中軍、四征、四鎮、龍驤、典軍、上軍、輔國らの将軍号と、大將軍、左右光祿、光祿三大夫、開府などは、みな公の待遇を受けた。
太宰、太傅、太保、司徒、司空、左右光祿大夫、光祿大夫、開府は、公の待遇で、文官が着任した。冠は進賢三梁で、黑い介幘を被った。
大司馬、大將軍、太尉、驃騎、車騎、衛將軍、諸大將軍、開府は、公の待遇で、武官が着任した。みな武冠で、平上黑幘を被った。
文武の官人が公となると、みな假金の印章を紫綬で首から提げ、著五時服。相國、丞相は、みな袞冕に綠盭綬で、その他の公とは違って特別だった。
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このコンテンツの目次
>『晋書』志第十四「職官」の翻訳
1)国を作った八公
2)名誉職と殺害権
3)皇帝の文机の周り
4)泣きながら洛陽を去る
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