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(C)2007-2009 ひろお
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元は斉王家、法正の先祖たち 1)海賊退治と猛獣退治
成り上がりの匂いを漂わせて、劉備に益州乗っ取りを持ち出すのが、法正さん。しかし彼の血筋は意外に素晴らしく、『後漢書』に自分の列伝を持っている先祖が2人もいるのです。
辺境の討伐に活躍した法雄と、逸民の法真です。 しかもその家柄は、斉の王家でした。
法雄(法正から3代前)
法雄は列伝28に登場。
あざなは文強という。扶風郡は郿県の人。当たり前だけど、法正もここの出身を名乗っています。
斉ノ襄王、法章の後裔である。
『史記』の田敬仲完世家曰く、法章は斉ビン王の子である。法章の子である法建が王となり、秦に滅ぼされて戦国時代が終わった。
秦が斉を滅ぼすと、子孫はもとの姓である「田」氏を名乗らなかった。代わりに「法」氏と称した。
〈注〉
今さらだが、斉とは春秋戦国を通じての東の大国です。西の秦と双璧をなす、最有力の諸侯でした。太公望が周の建国を助けたから封じられて、途中で田氏が下剋上をやった。
余談だけど、曹操と呂布が戦っているとき、城内の有力者として「田氏」というのが出てくるが、こいつは単なる豪族ではなくて、斉の王族に連なるのではないかと、あらぬ妄想をしています(笑)

前漢ノ宣帝のとき、三輔に移住し、世々二千石となった。
法雄ははじめ郡の功曹に仕えた。太傅の張禹(列伝34)に召された。法雄を高第(科目名?)に挙げ、平氏の県令にした。法雄の政事は善く、好んで姦伏(隠れた悪人や悪事)を摘発した。領内で盗賊が出ることは稀となり、役人は法雄を畏れ慕った。
南陽太守の鮑得(列伝19)は、法雄の政事手腕を上書したから、法雄は宛陵に遷った。

109年、沿海地方で叛乱が起きた。
海賊の張伯路ら3000余人が、赤い頭巾を被り、赤い衣を着て、
「我こそ、将軍」
と自ら称した。沿海の9郡を寇して、太守と県令・県長(1万戸以上は令で、未満は長という)を殺した。
〈注〉
原文では「冠赤幘、服絳衣、自称将軍」ですが、孫堅が60年ほど時代を間違えて登場したのかと思うだろう。それが三国ファンのサガである。孫堅のロールモデルが、ここにいる。
ここからしばらく、張伯路の活躍ぶりが描かれるが、この伯路を倒すのが法雄だからだ。『後漢書』が迷走したのではない・・・

はじめ侍御史の龐雄に州郡の兵を督戦させて、向かわせた。
「私が悪かった。降参します」
張伯路はいちどは願い出てきたが、すぐに群がった。
翌年、張伯路は平原郡の劉文河ら300余人とともに、
「我は(州庁からの)使者である」
と称して、厭次城に開門を求めた。門を開けてしまうと、たちまち長吏は殺された。矛先を転じて、高唐城に入って官庁を焼き、囚人を脱獄させた。渠帥たちは復た、
「我らは将軍だ」
と言って、張伯路を皇帝に見立てて、朝謁した。
伯路は、五梁冠を被った。梁とは横に張り出した棒のことで、3本だと諸侯で、2本だと地方官、それ未満だと1本である。5本も棒が付いているのは、制度を逸脱したものだから、伯路がオリジナルで作った「天子」の冠なんだろう。
伯路は印綬を帯びて、党衆はじわじわと盛んになった。
「御史中丞の王宗に、討伐を命じる。幽州・冀州の兵数万を率いて、張伯路を討ってきなさい」
〈注〉
張伯路は、偽りの降伏をしたり、身分を偽って入城したりした。もし三国時代にこれをやっていれば、「あっぱれな智謀」とファンを獲得するに違いないが、まだ後漢が続くので、名声を得られなかった。
やっと編成された討伐軍だが、揚州は動員されていない。開拓が終わっていないから、討伐には使えないようだ。州兵の顔ぶれは、揚州を孫氏に切り取られた魏で行われた、淮南ノ三叛の討伐戦に似ている。

法雄を新たに青州刺史とする。幽州・冀州の兵と力をあわせなさい」
やっと法雄が登場した。
〈注〉
前任で張伯路に騙されたのは、龐雄である。日本語の音読みでは、同じ発音になってしまうから、皮肉なものだ。日本語にせずとも、「雄」という名前が同じだとは、本人は気づいていただろう。

法雄は連戦して賊を破り、斬首・溺死させたのは数百人。残りはみな逃げて、器械(武器)と財物を甚だ多く接収した。たまたま恩赦が行われたが、張伯路たちは武装解除をせずに、帰降しなかった。
「以後、どう攻めるか」
総大将を任されているが、軍事がパッとしない王宗は、刺史や太守を集めて議論した。
「とことん追い詰めて撃破すべきです」
みなはそう言ったが、法雄は違った。
「ダメです。兵は凶器で、戦は危事です。勇力に恃んではいけません。勝利は絶対に保証できるものではありません。もし賊が船に乗って海に浮かび、深く遠島に行ってしまえば、攻撃は難しくなります。大赦の命令があるのですから、攻めるのを中断して、賊の心を慰めて投降を誘いましょう。必ず彼らは解散します。そうすれば、戦わずして平定できます」
――宗善其言。
王宗は、法雄の発言を支持し、兵を収めた。
賊はこれを聞いて大いに喜び、捕虜にしていた人を返還した。しかし官軍のうち、東莱郡の兵だけが武装を解いていなかったので、賊は驚き恐れて、遼東に遁げて海中に留まった。
111年春、賊は船中の食料が尽きたので、また東莱郡の各地で掠奪をした。法雄は郡兵を率いて撃破した。賊は遼東に還った。だが逃げた先の遼東で、現地の李久らとともに法雄は賊を討った。これにより、州界は清静となった。
〈注〉
鮮やかさのない戦いです。戦うなと進言した法雄ですが、停戦の命令を徹底することが出来ずに泥仕合になってしまった。おそらく東莱の人は、臨海に住んでいるから、当事者としてピリピリしていたのでしょう。法雄は青州刺史だから、東莱太守を封じ込めることが出来るだろうに、とんだヘボ役人です。
遼東まで出張して撃破したのだから、移動費用はバカにならなかったはずで、決して褒められない。
斉の王家の後裔であることは、わざわざ姓を変えてまで封印してきた、一族の黒歴史だ。なぜなら、ライバルの秦に負けて滅びたことが恥だから。しかし法雄は、斉の旧領で大軍を率いたとき、少なからず祖先を意識しただろう。

法雄は青州部内をめぐるごとに、囚人を再尋問し、顔色を観察して証言の真偽を見極めた。長吏のうち、法を正しく執行していない(裁判ミスをした)人の印綬を取り上げた。
青州で4年を勤めて、南郡太守に遷った。断獄(裁判)は減少し、戸口は増加した。郡は長江と漢水に浜帯し(まわりを取り囲まれており)、永初(107-113年)には虎や狼が出現して、人民は暴に苦しんだ。
前の太守がやったのは、
「猛獣を捕まえたら賞金をやる」
という施策だったが、かえって虎や狼に傷つけられる人が増えた。法雄は、書を郡下の県に飛ばして曰く、
「虎や狼が山林にあるのは、人が城市に住んでいるのと同じである。わざわざ騒ぐな。古代、教化が行き渡った世では、猛獣は騒がなかった。恩愛・信義・寛沢があれば、仁は飛走(鳥獣)に及んだ。太守である私は不徳だが、あえてこの義(セオリー)を忘れていない。もしこのレターを読んだら、獣を捕えるためのトラップを壊せ。みだりに山林に入って猛獣を捕えてはいけない」
その後、虎の害は減少して、安心して生活できるようになった。
〈注〉
法雄の列伝の構成を見ていると、沿海で皇帝を気取った張伯路と、荊州の虎や狼は、手懐けるべき同等の「非漢民族」という印象だ。

南郡にいること数年、つねに豊作だった。
元初(114-120年)在官のまま死んだ。子の法真は、逸人伝に載っている・・・と『後漢書』が誘導しているから、飛びましょう。
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このコンテンツの目次
>後漢の「御三家」、章帝八王
1)質帝を出した長男家
2)よき兄、よき廃太子
3)皇帝を供給する家
4)最後の勝者
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