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『後漢書』本紀6、三国志開幕 1)順帝の崩御
ぼくは三国志のストーリは、順帝が死ぬところ(144年)から始まると思います。そういうわけで、該当するあたりの本紀を口語訳をしておきたいと思います。
144年正月、詔があった。
隴西・漢陽・張掖・北地・武威・武都では、去年の9月から180回も地震があった。山野は裂け、城寺を壊し、庶民は死んだ。西方の異民族が叛逆するから、戦費のために重税がかさみ、みな嘆いている。光禄大夫を遣って、朝廷の恩沢を広めて、下民の騒ぎを防げ」

3月、沛王・劉広(光武帝の玄孫)が死んだ。
領護羌校尉が、叛乱した羌を討った。
南郡(江陵)、江夏(西陵)で盗賊が出たが、役人が平定した。

4月、使匈奴中郎将が、南匈奴を討った。これにより、胡羌と烏桓は、全て洛陽に詣でた。
皇子・劉炳を皇太子に立てた。年号を建康とし、天下に大赦した。人にまちまちに、爵を賜った。
7月、清河王・延平(章帝の曾孫、楽安王・劉寵の子)が死んだ。

8月、揚州と徐州で、盗賊が城邑を攻めた。御史中丞の馮赦が、州郡の兵を監督して討伐した。
御史中丞は、もとは御史大夫の次官。だが御史大夫が「司空」と改称されて三公の1つになったので、御史台の長官となった。
同じく8月、順帝は、玉堂(南宮内)の前殿で崩御した。享年30歳。遺言により、宗廟を建てず、死体に生前の衣服を着せ、副葬は禁止した。
論に曰く。
「古代の君主は、追放を受けていても、天子の位に戻る人がいた。例えば晋ノ僖公は、追放されていたときの憂いを忘れなかったから、国を中興した。だが順帝の政治は、若いときの苦労を忘れ、間違いを正すことがなかった。臣民も順帝に導かれて、ミスってばかりだ」
順帝はいちどは追放されたが、宦官の助けによってクーデターを起こし、みごとに即位した人です。宦官を列侯に封じ、養子を認めた。曹操の祖父・曹騰が仕えた皇帝でもあります。『後漢書』の論はボロクソです(笑)
沖帝は、名を炳という。
順帝の子。母は虞貴人。144年に皇太子となった。
8月、皇帝を継いだ。年齢は2歳。父の梁皇后を尊び、皇太后と呼んで、臨朝させた。
怖ろしや、梁冀の一族の女です。
大尉・趙峻を太傅とし、大司農・李固を大尉とし、尚書を管轄させた。

9月、順帝を憲陵に葬り、廟を敬宗といった。この日、洛陽・太原・雁門で地震があり、 水が湧いて土が避けた。
「順帝の生き方を、天が批判したぞ」という、筆者のメッセージだ。
三公・特進・侯・卿・校尉に命じて、在野の賢人を1人ずつ推薦することをノルマとした。
九江太守が罪を受け、獄で死んだ。
楊州刺史と九江太守は、賊を歴陽に攻めたが、戦死した。

10月、日南郡の蛮夷をせめて、交趾刺史がこれを降した。
常山王・劉儀(明帝の玄孫)が死んだ。
零陵太守が、罪なき民を殺したから、獄死した。

11月、九江の盗賊が「無上将軍」を称して、城を攻めた。
センスのない名前だが、後から霊帝が同じ号を私称します(笑)
12月、九江の賊が、合肥を攻めた。
この年、群盗が順帝の墓を暴いた。
護羌校尉が、涼州で羌を攻めたが、戦没した。

145年正月、沖帝は玉堂の前殿で崩御した。3歳だった。
清河王の劉蒜が、洛陽に呼ばれて到着した。
劉蒜は章帝の玄孫で、延平の子。皇帝になれず。列伝45に載っているので、これは読むっきゃない。
質帝、名を纘という。
『古今注』によれば「纘=継」だそうです。まさに中継ぎが運命付けられたような名です。位を譲り渡すだろうと皮肉られた、劉禅と同じです(笑)
素直に「劉継」とすれば良かろうが、そうすると、使用頻度の高い漢字が巷で使えなくなるから、思いやったのでしょう。おかげでネット環境で表示できないかも。

章帝の玄孫である。父は渤海王鴻、母は陳夫人。
沖帝は病気だったので、大将軍・梁冀は、劉纘を洛陽の都亭に呼び出した。沖が死ぬと、梁皇太后は梁冀とともに、禁中で作戦を錬った。梁冀は節を持ち、諸王が乗ることを許された青蓋車で、劉纘を迎えて、南宮に入った。劉纘を建平侯として、その日のうちに皇帝とした。年齢は8歳。
沖皇帝を、懐陵に葬った。
広陵の賊が復活して、江都の県長を殺した。九江の賊に攻められて、曲陽と東城の長官が死んだ。
質帝は、高廟(劉邦)に参った。光武廟(劉秀)に参った。

2月、豫章太守が収賄の罪で獄死した。
天下に大赦をし、爵と粟帛をばらまいた。王侯から削っていた戸邑を返した。
彭城王・劉道が死んだ。
叛いていた羌が、左馮翊に降った。
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>『晋書』と『後漢書』口語訳
『後漢書』本紀6、三国志開幕
1)順帝の崩御
2)質帝の毒殺
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