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『晋書』列38、呉の人たち 10)楊方と薛兼の短伝
楊方
楊方,字公回。少好學,有異才。初為郡鈴下威儀,公事之暇,輒讀《五經》,鄉邑未之知。內史諸葛恢見而奇之,待以門人之禮,由是始得周旋貴人間。時虞喜兄弟以儒學立名,雅愛方,為之延譽。恢嘗遣方為文,薦郡功曹主簿。虞預稱美之,送以示循。循報書曰:


楊方は、あざなを公回という。若くして學を好み、異才があった。
はじめ郡鈴の下で威儀をなし、公務のあいまに、『五經』を読んだ。だが郷邑の人は、楊方の向学心に気づかなかった。内史の諸葛恢が、楊方と会って奇特だと思い、門人の礼によって歓待した。諸葛恢のおかげで、初めて貴人の間で、楊方は名を知られた。
ときに虞喜の兄弟は、儒學によって名を立てていた。虞喜の兄弟は、楊方を雅愛し、楊方を誉めた。諸葛恢はかつて楊方に作文させたことがあった。諸葛恢はその文章を評価して、楊方を郡の功曹主簿に推薦した。虞預は楊方の文章を稱美して、賀循に送って読ませた。
賀循は返書した。

「此子開拔有志,意只言異於凡猥耳,不圖偉才如此。其文甚有奇分,若出其胸臆,乃是一國所推,豈但牧豎中逸群邪!聞處舊黨之中,好有謙沖之行,此亦立身之一隅。然世衰道喪,人物凋弊,每聞一介之徒有向道之志,冀之願之。如方者乃荒萊之特苗,鹵田之善秀,姿質已良,但沾染未足耳;移植豐壤,必成嘉豎。足下才為世英,位為朝右,道隆化立,然後為貴。昔許子將拔樊仲昭于賈堅,郭林宗成魏德公於畎畝。足下志隆此業,二賢之功不為難及也。」

「この人は開拔にして志があり、意見や言葉は、凡猥な奴らとは異なるぞ。思いもよらない偉才とは、彼のことを言うのだ。彼の文はとても奇分がある。もし彼が胸の内を表現すれば、一國の代表作となるぞ。どうして牧童の中に埋もれさせて良いものか!私の知り合いの中には、謙沖之行を好む人がいる。文才も、立身するための強みとなる。
世は衰えて道は喪われ、人物は凋弊している。私は、一介の徒が道に向かう志を持っていると聞くたび、その志が成就することを願う。楊方は、荒地に生えた優れた品種の苗だ。土質が良ければ善く育つのだから、恵まれた環境に移植してやらねばならん。彼の才能は世に英をなし、朝廷で高位に上り、政道を高隆させ、貴くなるだろう。
むかし(後漢末に)許子將は樊仲昭を賈堅から抜擢し、郭林宗は魏德公を畎畝から抜擢した。楊方の志の高さは、きみを抜擢した私の行いの価値を隆めてくれる。私がやったことは、二賢之功(許劭と郭泰の手柄)に匹敵するだろうなあ」

循遂稱方于京師。司徒王導辟為掾,轉東安太守,遷司徒參軍事。方在都邑,搢紳之士鹹厚遇之,自以地寒,不願久留京華,求補遠郡,欲閒居著述。導從之,上補高梁太守。在郡積年,著《五經鉤沈》,更撰《吳越春秋》,並雜文筆,皆行於世。以年老,棄郡歸。導將進之台閣,固辭還鄉里,終於家。

賀循は京師(建康)で楊方を称えた。
司徒の王導は、楊方を辟召して掾とした。楊方は東安太守に転じ、司徒參軍事に遷った。楊方が都邑にいたとき、搢紳之士を厚遇し、自らは地寒(敷物のない冷遇状態=謙遜した態度)を取った。
楊方は、長く京華(居心地の良い都会)に留まることを願わず、遠郡に赴任することを求めた。楊方は(閑職で)著述活動をやりたかった。
王導はこれを認めてやり、楊方を高梁太守に任命した。高梁郡にいることは積年、楊方は『五經鉤沈』を著し、さらに『吳越春秋』を撰じた。楊方の文筆は評価されて、流行した。
年老いたから、高梁郡を去って建康に帰った。王導は、楊方を台閣(中央の高官)に進めようとしたが、楊方は固辞した。
帰郷して、自宅で死んだ。
〈訳注〉「賀循伝」に付随した扱いなのでしょう。楊方は、仕事よりも文章を書くほうが好きだったようで。羨ましい一生ですねえ。
薛兼
薛兼,字令長,丹陽人也。祖綜,仕吳為尚書僕射。父瑩,有名吳朝。吳平,為散騎常侍。兼清素有器宇,少與同郡紀瞻、廣陵閔鴻、吳郡顧榮、會稽賀循齊名,號為「五俊」。初入洛,司空張華見而奇之,曰:「皆南金也。」察河南孝謙,辟公府,除比陽相,蒞任有能名。曆太子洗馬、散騎常侍、懷令。司空、東海王越引為參軍,轉祭酒,賜爵安陽亭侯。元帝為安東將軍,以為軍諮祭酒,稍遷丞相長史。甚勤王事,以上佐祿優,每自約損,取周而已。進爵安陽鄉侯,拜丹陽太守。中興建,轉尹,加秩中二千石,遷尚書,領太子少傅。自綜至兼,三世傅東宮,談者美之。

薛兼は、あざなを令長という。丹陽郡の人だ。祖父の薛綜は、孫呉に仕えて、尚書僕射となった。父の薛瑩は、孫呉王朝で名声があった。
呉が平定されると、薛兼は散騎常侍となった。薛兼は清素で器宇があった。幼くして、同郡出身の紀瞻や、廣陵郡の閔鴻、呉郡の顧榮、會稽郡の賀循らと名をひとしくし、「五俊」と号された。
はじめ入洛したとき、司空の張華は薛兼たちを見て、奇特だと認めて「みな南金だ」と言った。
薛兼は河南郡で孝謙に挙げられ、公府に辟召されて、比陽相に任命された。
〈訳注〉なぜ丹陽出身なのに、河南郡から出たのだろう。
薛兼は比陽相に励んだから、名声を得た。
太子洗馬、散騎常侍、懷令を歴任した。司空で東海王の司馬越に招かれて、司馬越の參軍となり、祭酒に転じた。薛兼は、安陽亭侯の爵位を賜った。
司馬睿が安東將軍となると、薛兼を軍諮祭酒とした。すぐに丞相長史に遷った。司馬睿への奉仕に努めたから、俸禄が優遇されたが、いつも自分から減額して受け取ったから、俸禄はもとに戻された。
薛兼は安陽鄉侯に進み、丹陽太守を拝した。
〈訳注〉故郷に錦を飾りました。
313年、尹(首都の長官)に移り、秩禄を加えて中二千石となった。尚書に遷り、太子少傅を領ねた。薛綜から薛兼まで、3世で東宮傅(皇太子の教育係)に就いたから、美談となった。

永昌初,王敦表兼為太常。明帝即位,加散騎常侍。帝以東宮時師傅,猶宜盡敬,乃下詔曰:「朕以不德,夙遭閔凶。猥以眇身,托于王公之上。哀煢在疚,靡所諮仰,憂懷惴惴,如臨于穀。孔子有雲:'故雖天子,必有尊也。'朕將祗奉先師之禮,以諮有德。太宰西陽王秩尊望重,在貴思降。丞相武昌公、司空即丘子體道高邈,勳德兼備,先帝執友,朕之師傅。太常安陽鄉侯訓保朕躬,忠肅篤誠。夫崇親尊賢,先帝所重,朕見四君及書疏儀體,一如東宮故事。」是歲,卒。詔曰:「太常、安陽鄉侯兼履德沖素,盡忠恪己。方賴德訓,弘濟政道,不幸殂殞,痛於厥心。今遣持節侍御史贈左光祿大夫、開府儀同三司。魂而有靈,嘉茲榮寵。」及葬,屬王敦作逆,朝廷多故,不得議諡,直遣使者祭乙太牢。子顒,先兼卒,無後。

永昌初、王敦が上表して、薛兼に太常にした。
明帝が即位すると、散騎常侍を加えられた。薛兼は、明帝が東宮だったときの師傅だから、昔のままに敬われた。詔があった。
「もし朕が不徳なら、すぐに殺害されるだろう。猥以眇身,托于王公之上。哀煢在疚,靡所諮仰,憂懷惴惴,如臨于穀。孔子は、『だから天子であっても、必ず尊敬する人がいるものだ』と言った。朕はこの孔子の教えを奉じて、薛兼を敬って徳を身に着けよう。太宰の西陽王は、秩尊望重、在貴思降。丞相の武昌公と、司空即丘子體道高邈,勳德兼備,先帝が友として、私の師傅に付けた。太常の安陽鄉侯(薛兼)は、朕の身を訓保し、忠肅は篤誠である。そもそも、親を崇んで賢を尊ぶことは、先帝が重視したことだ。朕も四君と交流し、書簡を交し合って議論をしたい。4人は、私が東宮にいたときと同じように、指導してくれ」
この年、薛兼は死んだ。詔があった。
「太常で安陽鄉侯の薛兼は、徳を実行するさまが沖素で、忠を盡して己を恪した。つねづね德訓を賴り、薛兼は政道を弘濟した。不幸にも薛兼が殂殞してしまったから、厥心に痛ましい。いま持節・侍御史を遣わして、薛兼に左光祿大夫、開府儀同三司を追贈しよう。魂而有靈、茲に榮寵を嘉す」
葬儀のとき、薛兼の属官だった王敦が反逆して、朝廷に損害が出た。だから薛兼は、諡号をもらえなかった。ただちに使者を遣わして、祭乙は太牢。子の薛顒は、薛兼より先に死んでいて、継嗣はなかった。

終わりです!
1巻まるまる訳すのは、やっぱり疲れる。。090424   
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このコンテンツの目次
>『晋書』列38、呉の人たち
1)八王に愛想つきた顧榮
2)揚州人を司馬睿に推挙
3)統一への疑問、紀瞻伝
4)揚州から司馬睿への脅し
5)病人を引き止める東晋帝
6)西晋に距離を置く賀循
7)孫皓に首を挽かれたのは
8)恵帝を皇帝に数えるか
9)司馬睿のしがみつき
10)楊方と薛兼の列伝
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