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『晋書』列傳59「忠義」 9)子の矢傷を代わりたい
列伝「忠義」は、まだ続きます。。

王育
王育,字伯春,京兆人也。少孤貧,為人傭牧羊,每過小學,必歔欷流涕。時有暇,即折蒲學書,忘而失羊,為羊主所責,育將鬻己以償之。同郡許子章,敏達之士也,聞而嘉之,代育償羊,給其衣食,使與子同學,遂博通經史。身長八尺餘,須長三尺,容貌絕異,音聲動人。子章以兄之子妻之,為立別宅,分之資業,育受之無愧色。然行己任性,頗不偶俗。妻喪,吊之者不過四五人,然皆鄉閭名士。

王育は、あざなを伯春といい、京兆の人である。若いときに親を亡くして貧しく、牧羊家に雇われた。『小學』を読んで学ぶたびに、必ず歔欷として流涕した。ときに仕事にヒマがあり、蒲學書を見ていたら、羊の管理を忘れて逃がしてしまった。雇い主が王育を責めると、王育は自分で鬻して弁償しようとした。
〈訳注〉「鬻」は上半分の「粥」と同じで、かゆの意。動詞で読むと、商いをする、育てるという意味に発展する。いない羊を売るでは意味が通らぬから、羊を自分で育てようととしたのだろう。さすが王「育」だ。
同郡の許子章は、敏達之士であった。王育のエピソードを褒めて、王育に代わって羊を弁償してやり、衣食を与えてやり、わが子とともに勉強をさせた。王育はついに經史に博通するようになった。
身長は八尺餘あり、須長三尺、容貌は絕異で、声音は人を動かす魅力があった。
〈訳注〉「須長三尺」が分かりません。須らく三尺長ずべし、では関羽以上の巨人になってしまう。
保護者の許子章は、兄の子を王育の妻として娶らせ、別宅を立ててやり、資業を分け与えた。王育はこれを受け取って、愧じた顔色を見せなかった。行いは性向のあるがままで、あまり世俗的ではなかった。妻の服喪のときは、弔問する人は四五人ほどで、みなが「王育は鄉閭の名士だ」と賛美した。
〈訳注〉「吊」は、「弔」と同じ。もとは「弔」がつるすという意味だったが、死を悼む字意に傾いたために、「吊」が新造されたそうだ。

太守杜宣命為主簿。俄而宣左遷萬年令,杜令王攸詣宣,宣不迎之,攸怒曰:「卿往為二千石,吾所敬也。今吾儕耳,何故不見迎?欲以小雀遇我,使我畏死鷂乎?」育執刀叱攸曰:「君辱臣死,自昔而然。我府君以非罪黜降,如日月之蝕耳,小縣令敢輕辱吾君!汝謂吾刀鈍邪,敢如是乎!」前將殺之。宣懼,跣下抱育,乃止。自此知名。司徒王渾辟為掾,除南武陽令。為政清約,宿盜逃奔他郡。遷並州督護。成都王穎在鄴,又以育為振武將軍。劉元海之為北單于,育說穎曰:「元海今去,育請為殿下促之,不然,懼不至也。」穎然之,以育為破虜將軍。元海遂拘之,其後以為太傅。

太守の杜宣は、王育を自分の主簿にした。
あるとき、いきなり杜宣は萬年令に左遷された。杜県令の王攸は、杜宣に出迎えを命じたが、王育は聞き入れなかった。王攸は怒った。
「きみ(杜宣)はかつて二千石となられたから、私はきみを敬っている。いま左遷されたきみは私と同格なのに、なぜ出迎えに来ないのか?私には小雀(身分の低い者)を宛がっておいて、死鷂(落ちぶれた杜宣の比喩)を畏れさせたいのか?」
〈訳注〉「鷂」とは、ハシタカもしくはハイタカ。タカの一種で、大空をゆらゆら舞う。もしくは五色の羽をした大キジ。どちらにせよ、立派な鳥の例えになる。
王育は刀を執って、王攸を叱った。
「君主が臣を辱めて殺すこと(人事ミス)は、昔からよくあるパタンだ。私の府君(杜宣)は、罪によって降格されたのではない。日食や月食のように、一時的に陰っているだけた。小縣令のような低い身分のお前が、どうして私の君(杜宣)を軽んじて侮辱していいものか!私の刀がなまくらなど言うなら、身体で確かめてみろ!」
王育は、王攸を今にも殺しそうであった。王育の主君の杜宣は懼れて、はだしで飛び出して王育を抱きかかえ、制止した。この一件から、王育の名は知れ渡った。
司徒の王渾は、王育を辟召して掾に任じ、南武陽令にした。為政は清約だったから、宿盜は他郡に逃奔した。並州督護に遷った。
成都王の司馬穎が鄴におり、王育を振武將軍にした。劉淵を北單于にするとき,王育は司馬穎に説いた。
「劉淵がいま北単于になるなら、私は殿下(司馬頴)のために賛成します。もし劉淵を北単于にしなければ、殿下のやることが失敗するだろうと懼れます」
司馬頴は王育の言うとおりだとして、王育を破虜將軍にした。劉淵はのちに王育を捕らえ、のちに太傅とした。
〈訳注〉八王ノ乱のとき、諸勢力が異民族を抱きこみ、味方にしようとしていた。王育がやったのは、劉淵がきっと有能だというジャッジだ。一面的に見れば、ミスではないが、王朝を滅ぼす因果となった(笑)
韋忠
韋忠字子節,平陽人也。少慷慨,有不可奪之志。好學博通,性不虛諾。閉門修己,不交當世,每至吉凶,親表贈遺,一無所受。年十二,喪父,哀慕毀悴,杖而後起。司空裴秀吊之,匍匐號訴,哀慟感人。秀出而告人曰:「此子長大必為佳器。」歸而命子頠造焉。服闋,遂廬於墓所。頠慕而造之,皆托行不見。家貧,藜藿不充,人不堪其憂,而忠不改其樂。頠為僕射,數言之于司空張華,華辟之,辭疾不起。人問其故,忠曰:「吾茨簷賤士,本無宦情。且茂先華而不實,裴頠欲而無厭,棄典禮而附賊後,若此,豈大丈夫之所宜行邪!裴常有心托我,常恐洪濤蕩岳,餘波見漂,況可臨尾閭而窺沃焦哉!」

韋忠は、あざなを子節といい、平陽の人である。
若くして慷慨し、他人が奪うべくもない志を持っていた。好學で博通、性格は表裏がなくて真っ直ぐだった。 閉門して己を修め、當世と交わらず、いつも吉凶を知っていて、一切の贈り物を受け取らなかった。
12歳のとき、父が死んだ。喪のときは、父を哀慕して体調を崩して憔悴し、杖を使ってやっと立てるほどだった。
〈訳注〉服喪の激しさの表現は、定型文ですね(笑)
司空の裴秀が弔問に訪れて、韋忠を見た。匍匐號訴、韋忠の哀慟は人を感動させた。裴秀は出てきて告げた。
「この子(韋忠)が成長したら、必ず佳き器となるだろう」
裴秀は帰宅すると、子の裴頠に命じて、韋忠が喪を過ごす廬を墓所に造らせた。裴頠は韋忠を慕って援助をしたが、面会は遠慮した。韋忠の家は貧しく、藜藿(食料)が不充分だから、人は韋忠のことを常に心配した。だが韋忠は服喪のやり方を改めなかった。
裴頠が僕射となると、しばしば韋忠のエピソードを司空の張華に教えた。張華は興味を持ち、韋忠を辟召した。だが韋忠は病気を理由に断った。「いい話なのに、なぜ断るんだ」と人が問うと、韋忠は言った。
「わたしは茨簷の賤士です。もとより役人の心を持っていません。それに先に張華に仕官するのは不実です。裴頠はいつも私を気にかけてくれています。仕える前後を間違えたら、これは大丈夫たる人のやることではありません!」
〈訳注〉自然物に例えて難しいことを言ってますが、趣旨だけ要約。

太守陳楚迫為功曹。會山羌破郡,楚攜子出走,賊射之,中三創。忠冒刃伏楚。以身捍之,泣曰:「韋忠願以身代君,乞諸君哀之。」亦遭五矢。賊相謂曰:「義士也!」舍之。忠於是負楚以歸。後仕劉聰,為鎮西大將軍,平羌校尉,討叛羌,矢盡,不屈節而死。

太守の陳楚はムリに頼み込んで、韋忠を功曹にした。たまたま山羌が郡に攻め入った。陳楚の子が飛び出したから、賊に射られて、3ヶ所をケガした。韋忠は、刃を冒して陳楚を押さえ込んだ。韋忠は身をもって陳楚の子を救出して、泣いた
「この韋忠が、出来ることなら(ケガを)代わってあげたい。諸君も、私が代わってやれないことを哀しんでくれ」
韋忠は身代わりになり、さらに五矢を食らった。賊相(副頭目)は、「義士なり!」と言って、韋忠を殺さなかった。
陳楚が敗北すると、韋忠は帰陣した。
のちに韋忠は劉聰に仕えた。鎮西大將軍、平羌校尉となり、叛羌を討った。矢を使い果たして、節を屈せずに死んだ。
〈訳注〉劉聡に仕えても、『晋書』では「忠義」の資格を失うものではないようだ。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列傳59「忠義」
1)「忠義」の立伝動機
2)命を救った嵇紹のオーラ
3)嵇紹の血だ、玉衣を洗うな
4)劉備をかすった嵇含
5)司馬冏に周を勧める王豹
6)王豹と司馬冏の死
7)スイートな屍肉の劉沈
8)匈奴の捕虜になったとき
9)子の矢傷を代わりたい
10)きみは義士だなあ!
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