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『晋書』列傳59「忠義」 1)「忠義」の立伝動機
個人ではなく、同じカテゴリで括った列伝を訳します。手始めに「忠義」と題されたところから、西晋末までの人物を選ぼうと思います。

古人有言:「君子殺身以成仁,不求生以害仁。」又雲:「非死之難,處死之難。」信哉斯言也!是知隕節苟合其宜,義夫豈吝其沒;捐軀若得其所,烈士不愛其存。故能守鐵石之深衷,厲松筠之雅操,見貞心於歲暮,標勁節于嚴風,赴鼎鑊其如歸,履危亡而不顧,書名竹帛,畫象丹青,前史以為美談,後來仰其徽烈者也。

古代の人は言った。
「君子たる人は、身を殺して仁を成した。生を求めて仁を害すことはなかった(潔く命を投げ出して、志を貫いた)」
また、こうも言う。
「死ぬことが難しいのではない。死に場所を見つけるのが難しいのだ」
この言は、なんと信じられることだろうか!
上記の言葉を理解しているなら、義人はどうして死ぬことをケチるだろうか。立派な死に場所にわが身をを捧げて、烈士は生き残ることに執着しない。ゆえに昔から、鉄石のように強固な深衷を守って、松筠の雅操に励み、貞心を歳暮に見て、嚴風に勁節を標とし、鼎鑊にまるで帰るがごとく赴いた。
〈訳注〉文飾が素晴らしすぎて振り落とされたが(笑)忠義だった人の生き方を、おそらく諸処の文辞にて形容しているのでしょう。
危亡を経験しても顧みなかった人は、竹帛に名前を残し、丹青(絵の具)で姿を描かれた。前史はこれを美談として、後世の人は徽烈だった人を仰ぎ見ている。


晉自元康之後,政亂朝昏,禍難薦興,艱虞孔熾,遂使奸凶放命,戎狄交侵,函夏沸騰,蒼生塗炭,干戈日用,戰爭方興。雖背恩忘義之徒不可勝載,而蹈節輕生之士無乏于時。至若嵇紹之衛難乘輿,卡壼之亡軀鋒鏑,桓雄之義高田叔,周崎之節邁解揚,羅丁致命於舊君,辛吉恥臣於戎虜,張禕引鴆以全節,王諒斷臂以厲忠,莫不志烈秋霜,精貫白日,足以激清風于萬古,厲薄俗于當年者歟!所謂亂世識忠臣,斯之謂也。卡壼、劉超、鐘雅、周虓等已入列傳,其餘即敘其行事以為《忠義傳》,用旌晉氏之有人焉。

晉の元康年間(291-)の後、政亂は朝も夜も已まず、禍難は次々と起こり、艱虞はひどく熾こり、ついに奸凶に王朝を亡ぼされた。戎狄はあちこちから侵し、函夏(中原の地)は沸騰し、蒼生は塗炭の苦しみで、干戈は日常的に用いられ、戰爭は全土で起きた。
恩に背き義を忘れた徒が多すぎて、いちいち数えあげる出来ないが、志節を守って命にしがみ付かなかった人も、この時代には乏しくない。
嵇紹のように恵帝が乗った輿を守り通した人がいるし、卡壼のように身体を亡ぼしても戦った人がいる。桓雄の義は田叔のように高いし、周崎の志節は揚州を味方につけたし、羅丁は元の主君のために死んだ。辛吉は臣として異民族の捕虜になることを恥じたし、張禕は鴆毒で自殺して節を全うした。王諒は腕を切り落として、忠心を励ました。
志烈は秋霜でないことはなく、精は白日を貫き、萬古に清風を激しくすることに充分だ。薄俗を現代に励ますものである!
〈訳注〉どこまで崩せば日本語になるか分からんが、とにかく忠義だった人を褒めている文章です。
いわゆる「亂世は忠臣を知る」とは、これを表現したものだ。卡壼、劉超、鐘雅、周虓らは、すでに『晋書』の列伝に入っているから、それ以外の人の生き様を『忠義伝』を名づけて、書いておく。
〈訳注〉ろくでもない晋代でも、いや晋代だからこそ、こういう伝が立ったのでしょう。「自国民は捨てたものではない」と、唐の人たちが自己弁護をしたような列伝です。

嵇紹
嵇紹,字延祖,魏中散大夫康之子也。十歲而孤,事母孝謹。以父得罪,靖居私門。山濤領選,啟武帝曰:「《康誥》有言:'父子罪不相及。'嵇紹賢侔郤缺,宜加旌命,請為秘書郎。」帝謂濤曰:「如卿所言,乃堪為丞,何但郎也。」乃發詔征之,起家為秘書丞。

嵇紹は、あざなを延祖という。魏で中散大夫だった嵇康の子である。
十歳のときに父をなくして、母に仕える様子は孝謹であった。父の罪に連座して、自宅謹慎をした。山濤が人事を担当したとき、武帝に言った。
「『康誥』には、「父子の罪は、互いに及ぶものではない」と書かれています。嵇紹は賢侔郤缺ですから、秘書郎にしてやって下さい」
〈訳注〉「侔」とは、同じ大きさに揃っている、もしくはむさぼり求めるという字。「郤」は、中央がくぼんで両辺の間があること、隙間という字。「缺」は欠けていること。つまり山濤が言った嵇紹とは、賢くてわずかな問題も見逃さずに、目ざとく改善に努める人ということか。
武帝は山濤に言った。
「嵇紹がキミの言うとおりの人物なら、丞(副官)の仕事も務まるだろう。どうして、ただの郎(いち担当者)にするものか」
詔があり、嵇紹は起家(就職)して秘書丞となった。

紹始入洛,或謂王戎曰:「昨于稠人中始見嵇紹,昂昂然如野鶴之在雞群。」戎曰:「君複未見其父耳。」累遷汝陰太守。尚書左僕射裴頠亦深器之,每曰:「使延祖為吏部尚書,可使天下無複遺才矣。」沛國戴晞少有才智,與紹從子含相友善,時人許以遠致,紹以為必不成器。晞後為司州主簿,以無行被斥,州黨稱紹有知人之明。轉豫章內史,以母憂,不之官。服闋,拜徐州刺史。時石崇為都督,性雖驕暴,而紹將之以道,崇甚親敬之。後以長子喪去職。

嵇紹がはじめて洛陽に入ったとき、ある人が王戎に言った。
「昨日、稠人(人だかり)の中で、はじめて嵇紹を見たよ。昂昂としていて、野鶴がキジの群れの中にいるようだった
王戎が言った。
「キミは、嵇紹の父(嵇康)を見たことがないもんな」
〈訳注〉ある人は、嵇紹がその他大勢に比べると、際立って立派だと褒めた。対する王戎は、「父が立派だったんだから、子が立派でも当たり前だ。今さら驚くなよ」と言ったんだろうか。
「昂」とは、光を放って明るいこと。オーラがある、という意味だろうが、何がどう素晴らしいのかこれを読んだだけでは分からない。王戎の口ぶりを信じるなら、父の嵇康の風貌を記述してあるところを見つければ、そこから連想することは出来る。
嵇紹は、汝南太守に遷った。
尚書左僕射の裴頠は、嵇紹の器量を評価して、いつも言っていた。
「延祖(嵇紹のあざな)を吏部尚書にすれば、天下から遺才(埋もれた逸材)がいなくなるぞ」
沛國の戴晞は若くして才智があり、嵇紹の從子である嵇含と友人であった。人々は言った。
「(嵇紹が赴任している汝南郡の)許は沛国から遠いから、戴晞のことが分かるわけがない。嵇紹は必ずしも(裴頠が褒めるほどの)器量だとは限らない」と。
戴晞はのちに司州主簿となった。戴晞の行動には、批判を受けるようなことが無かった。州党は、(戴晞の例から)嵇紹が人を見抜く目の明るさを称えた。
嵇紹は豫章內史となったが、母が病気になったので、着任しなかった。服喪の期間が終わると、徐州刺史となった。
このころ石崇が徐州の都督だった。
石崇の性質は驕暴であったが、嵇紹は将の守るべき道理に従って、石崇を尊敬した。のちに長子が死んだので、徐州刺史の職を去った。

元康初,為給事黃門侍郎。時侍中賈謐以外戚之寵,年少居位,潘岳、杜斌等皆附托焉。謐求交於紹,紹距而不答。及謐誅,紹時在省,以不阿比凶族,封弋陽子,遷散騎常侍,領國子博士。
太尉、廣陵公陳准薨,太常奏諡,紹駁曰:「諡號所以垂之不朽,大行受大名,細行受細名,文武顯于功德,靈厲表於暗蔽。自頃禮官協情,諡不依本。准諡為過,宜諡曰繆。」事下太常。時雖不從,朝廷憚焉。


元康初(291年、司馬炎の死後)、嵇紹は給事黃門侍郎となった。
ときに侍中の賈謐は外戚だから特別待遇で、若いくせに官位に就いていた。潘岳や杜斌らは、みな賈謐にへつらった。賈謐は嵇紹との親交を求めたが、嵇紹は拒否をして返答しなかった。
賈謐が誅されたとき、嵇紹は(賈氏政権の下で)在官であった。しかし嵇紹は、賈謐におもねった凶族の一味ではなかったので、弋陽郡の子爵に封じられ、散騎常侍に遷り、國子博士を兼ねた。
太尉で廣陵公だった陳准が死ぬと、太常は諡号を話し合った。嵇紹は提案した。
「諡號には、不変のルールがある。大きな功績があれば、大きな名を付け、わずかな功績しかなければ、それなりの名をつけるべきだ。文武は功德を明らかにする。近ごろ礼官が話し合って決める諡号は、本来の趣旨からズレている。間違いを認めて、正すべきだ」
太常は嵇紹の言い分に従わなかったが、朝廷は嵇紹の発言を憚った。
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このコンテンツの目次
>『晋書』列傳59「忠義」
1)「忠義」の立伝動機
2)命を救った嵇紹のオーラ
3)嵇紹の血だ、玉衣を洗うな
4)劉備をかすった嵇含
5)司馬冏に周を勧める王豹
6)王豹と司馬冏の死
7)スイートな屍肉の劉沈
8)匈奴の捕虜になったとき
9)子の矢傷を代わりたい
10)きみは義士だなあ!
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