曹魏 > 『資治通鑑』魏紀より、曹丕の時代の書き下し

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黄初元(220)年の春夏;曹丕が魏王となる

黄初元年(庚子、西元二二零年)
春正月、武王 洛陽に至る。庚子、薨ず。
王 人を知り善く察し、偽りを以て眩ますこと難し。奇才を識抜し、微賎に拘らず、能に隨ひ使を任じ、皆 其の用を獲たり。敵と対陳するとき、意思 安閑たり。戦はんと欲せざるが如し。至るに及び、機を決して勝に乗じ、気勢 盈溢す。勲労あり宜しく賞するべきには、千金を吝(をし)まず。功無くとも施を望むものには、分豪も与へず。法を用ゐれば峻急にして、犯すもの有れば必ず戮し、或ひと之に対ひて流涕するとも、然るに終に赦す所無し。雅性は節倹にして、華麗を好まず。故に能く群雄を芟刈し、幾(ほとん)ど海内を平らぐ。

是の時 太子 鄴に在り、軍中 騒動す。群僚 秘して喪を発せざることを欲す。諫議大夫の賈逵 以為へらく「事 秘す可からず。乃ち喪を発せよ」と。
或ひと言ふ、「宜しく諸々の城守、悉く譙・沛の人を用ゐよ」と。魏郡太守たる広陵の徐宣 声を厲まして曰く、「今者(いま) 遠近 一統し、人懐きて節に效ふ。何ぞ必ずしも専ら譙・沛を任じ、以て宿衛する者の心を沮むや」と。乃ち止む。
青州兵 擅ままに鼓を撃ちて相ひ引去す。衆人 以為へらく「宜しく之を禁止し、従はざる者 之を討つべし」と。賈逵曰く、「不可なり」と。為に長檄を作り、所在に令し其の稟食を給せしむ。
鄢陵侯の彰 長安より来赴し、逵に先王の璽綬の所在を問ふ。逵 色を正して曰く、「国に儲副有り、先王の璽綬 君侯の宜しく問ふべき所に非ず」と。

凶問 鄴に至り、太子 号哭して已まず。中庶子の司馬孚 諫めて曰く、「君王 晏駕し、天下 殿下の命を為すことを恃む。当に上は宗廟の為に、下は万国の為に、奈何(なんぞ) 匹夫の孝に效(なら)ふや」と。太子 良(まこと)に久しくして乃ち止み、曰く、「卿の言 是なり」と。
時に群臣 初めて王の薨ずるを聞き、相ひ聚(あつま)りて哭し、復た行列すること無し。孚 声を朝に厲(はげま)して曰く、「今 君王 世を違へ、天下 震動す。当に早く嗣君に拝し、以て万国を鎮むべし。但だ哭くのみならんや」と。乃ち群臣を罷(まか)らしめ、禁衛を備へ、喪事を治めしむ。孚、懿の弟なり。
群臣 以為へらく「太子 即位するに、当に詔命を須つべし」と。尚書の陳矯曰く、「王 外に薨ずれば、天下 惶懼す。太子 宜しく哀を割して即位し、以て遠近の望を系(つな)ぐべし。且つ又 愛子 側に在り、彼と此と変を生ずれば、則ち社稷の危なり」と。即ち官を具へ礼を備へ、一日にして皆 弁ず。明旦、王后の令を以て、太子に策して王位に即け、大赦す。漢帝 尋いで御史大夫の華歆を遣りて策詔を奉ぜしめ、太子に丞相の印綬、魏王の璽綬を授け、冀州牧を領せしむ。是に於て王后を尊びて王太后と曰ふ。
延康と改元す。

二月丁未朔、日 之を食する有り。
壬戌、太中大夫の賈詡を以て太尉と為し、御史大夫の華歆を相国と為し、大理の王朗を御史大夫と為す。
丁卯、武王を高陵に葬る。
王の弟たる鄢陵侯の彰等 皆 国に就く。臨菑の臨国謁者の灌均、希指して奏すらく、「臨菑侯の植 酒に酔ひて悖慢たり、使者を劫脅す」と。王 植を貶めて安郷侯と為し、右刺奸掾たる沛国の丁儀及び弟の黄門侍郎の廙、並びに其の男口を誅す。皆 植の党なり。
初め散騎常侍・侍郎を各々四人置く。其の宦人 官と為る者 諸署令を過ぐるを得ず。金策を為(つく)り、之を石室に蔵す。時に当に侍中・常侍を選ぶべしとして、王の左右の旧人、主を諷る者、便ち用に就かんと欲す。余人と調(ととの)はず。司馬孚曰く、「今 嗣王 新たに立ち、当に海内の英賢を進用すべし。際会に因らんと欲して自ら相ひ薦挙するは如何(いかん)。官 其の任を失すれば、得る者 亦た貴ぶに足らず」と。遂に他より選ぶ。
尚書の陳群、天朝の選用 人才を尽さざるを以て、乃ち九品官人の法を立つ。州郡 皆 中正を置き以て其の選を定め、州郡の賢を択び、識鑑有る者 之を為し、人物を区別し、其の高下を第す。

夏五月戊寅、漢帝 王祖を追尊して太尉を太王と曰ひ、夫人の丁氏を太王后と曰ふ。
王 安定太守の鄒岐を以て涼州刺史と為す。西平の麴演 旁郡と結び乱を作し以て岐を拒む。張掖の張進 太守の杜通を執へ、酒泉の黄華 太守の辛機を受けず。皆 太守を自称して以て演に応ず。武威の三種胡 復た叛す。武威太守の毋丘興 急を金城太守に告げ、護羌校尉たる扶風の蘇則、則ち将に之を救はんとすれども、郡人 皆 以為へらく「賊勢 方盛なり、宜しく大軍を須つべし」と。時に将軍の郝昭・魏平 先に金城に屯し、詔を受けて西度するを得ず。
則 乃ち郡中の大吏及び昭等に見(あ)ひて謀りて曰く、「今 賊 盛んなると雖も、然るに皆 新たに合す。或いは脅従有り、未だ必ずしも心を同じくせず。釁(すき)に因りて之を撃たば、善悪 必ず離れ、離れて我に帰し、我は増えて彼は損ず。既に益衆の実を獲れば、且に倍気の勢有り、率ゐて以て進討すれば、之を破ること必なり。若し大軍を待ち、日を曠しくすること弥々久しければ、善人 帰すること無く、必ず悪に合し、善悪 就合し、勢 卒に離すこと難し。詔命有りと雖も、違ひて権に合はさり、之を専らにすること可なり」と。昭等 之に従ひ、乃ち兵を発して武威を救ひ、其の三種胡を降し、毋丘興と与に張進を張掖に撃つ。麴演 之を聞き、歩騎三千を将ゐて則を迎へ、辞来して軍を助く。実(まこと)に変を為さんと欲し、則 誘ゐて之を斬り、出でて以て軍を徇へ、其の党 皆 散走す。則 遂に諸軍と与に張掖を囲み、之を破り、進を斬る。黄華 懼れ、降ることを乞ふ。河西 平らぐ。

初め、敦煌太守の馬艾 官に卒し、郡人 功曹の張恭を推して長史事を行せしむ。恭 其の子の就を遣はし朝廷に詣らしめて太守を請ふ。会々黄華・張進 叛き、敦煌と勢を並(あは)せんと欲し、就を執へ、劫すに白刃を以てす。就 終に回せず、私に恭に疏を与へて曰く、「大人 率(すす)めて敦煌を厲し、忠義 顕然たり。豈に就を以て困厄の中に在りて之に替ふるや。大軍をして垂至せしめ、但だ当に兵を促して以て之を掎(ひ)くのみ。願はくは下流の愛を以てせず、就をして黄壌を恨むことを有らしめよ」と。
恭 即ち兵を引きて酒泉を攻め、別に鉄騎二百及び官属を遣り、酒泉の北塞に縁り、東して太守の尹奉を迎ふ。黄華 張進を救はんと欲すれども、西して恭の兵を顧み、其の後を撃たることを恐れ、故に往くを得ずして降る。就 卒に平安たり。奉 之を郡に得るや、詔もて恭に爵 関内侯を賜はる。

六月庚午、王 軍を引きて南巡す。140524

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黄初元(220)年の秋冬;曹丕が魏帝となる

秋七月、孫権 使を遣はして奉献す。
蜀の将軍の孟達 上庸に屯し、副軍中郎将の劉封と協はず。封 之を侵陵し、達 部曲四千余家を率ゐて来降す。達 容止・才観有り、王 甚だ器として之を愛し、引きて与に同輦し、達を以て散騎常侍・建武将軍と為し、平陽亭侯に封ず。房陵・上庸・西城の三郡より合せて新城と為し、達を以て新城太守を領せしめ、西南の任を以て委ぬ。行軍長史の劉曄曰く「達 苟得の心有り、而るに才を恃みて術を好み、必ず能く恩を感じて義を懐かず。新城 孫・劉と接連す。若し変態有れば、国の為に患を生まん」と。王 聴かず。征南将軍の夏侯尚、右将軍の徐晃を遣はし達と共に劉封を襲はしむ。上庸太守の申耽 封に叛して来降し、封 破れ、走げて成都に還る。
初め、封 本は羅侯寇氏の子なり。漢中王 初めに荊州に至り、未だ継嗣有あらざるを以て、之を養ひて子と為す。諸葛亮 慮るに、封は剛猛たり、易世の後、終に制御し難しと。漢中王に勧め、此の際に因り之を除く。遂に封に死を賜はる。
武都氐王の楊僕 種人を率ゐて内付す。

甲午、王 譙に次し、六軍及び譙の父老を邑東に大饗し、伎楽・百戯を設け、吏民 寿を上り、日夕して罷む。
王 丞相祭酒の賈逵を以て豫州刺史と為す。是の時 天下 初めて定まり、刺史 多く郡を摂る能はず。逵曰く、「州 本は六條の詔書を以て二千石より以下を察す。故に其状 皆 厳能・鷹揚を言ひ、督察の才有り。安静・寛仁を言はず、愷悌の徳有り。今の長吏 法に慢たり、盜賊 公行し、州 知りて糾さず、天下 復た何を正と取らんか」と。其の二千石より以下、阿縦して法の如(ごと)くあらざる者、皆 挙奏して之を免ず。外は軍旅を修め、内は民事を治め、陂田を興し、運渠を通し、吏民 之を称ふ。王曰く、「逵こそ真の刺史なり」と。天下に布告し、当に豫州を以て法と為すべしと。逵に爵 関内侯を賜ふ。

左中郎将の李伏・太史丞の許芝 表言し、「魏 当に漢に代はるべきこと、図緯に見はれ、其の事 衆きこと甚だし」と。群臣 因りて上表し王に天人の望に順はんことを勧む。王 許さず。

冬十月乙卯、漢帝 高廟に告祠し、行御史大夫の張音をして持節して璽綬・詔冊を奉ぜしめ、魏に禅位せしむ。王 三たび上書して辞譲し、乃ち壇を繁陽に為る。辛未、壇に升りて璽綬を受け、皇帝の位に即き、天地・岳瀆を燎祭し、改元して大赦す。
十一月癸酉、漢帝を奉じて山陽公と為し、漢の正朔を行ひ、天子の礼楽を用はしむ。公の四子を封じて列侯と為す。太王に追尊して太皇帝と曰ふ。武王 武皇帝と曰ひ、太祖を廟号とす。王太后を尊びて皇太后と曰ふ。漢の諸侯王を以て崇徳侯と為し、列侯を関中侯と為す。群臣 爵に封じ、位を増すこと各々差有り。相国を改めて司徒と為し、御史大夫を司空と為す。山陽公 二女を奉じて以て魏に嬪せしむ。
帝 正朔を改めんと欲す。侍中の辛毗曰く、「魏氏 舜・禹の統に遵ひ、天に応じて民に順ふ。湯・武に至るまで、戦伐を以て天下を定め、乃ち正朔を改む。孔子曰く、『夏の時を行ふ』と、『左氏伝』に曰く、『夏数 為に天正を得たり』と。何ぞ必ず相反するを期すか」と。帝 善として之に従ふ。
時に群臣 並びに魏の徳を頌し、多く前朝を抑損す。散騎常侍の衛臻 独り禅授の義に明るく、漢の美を称揚す。帝 数々臻に目して曰く、「天下の珍、当に山陽と之を共にすべし」と。
帝 太后の父母を追封せんと欲す。尚書の陳群 奏して曰く、「陛下 聖徳・応運を以て受命し、創業・革制し、当に永く後式と為るべし。典籍の文を案ずるに、婦人に土を分け爵を命ずるの制無し。礼典に在るは、婦 夫の爵に因ると。秦 古法に違ひ、漢氏 之に因る。先王の令典に非ざるなり」と。帝曰く、「此の議 是なり。其れ施行する勿かれ」と。仍ち定製を著し、之を台閣に蔵す。

十二月、初めて洛陽宮を営す。戊午、帝 洛陽に如く。
帝 侍中の蘇則に謂ひて曰く、「前に酒泉・張掖を破り、西域 使を敦煌に通じ、徑寸の大珠を献ず。復た市に求めて益得す可(べ)きか不(いな)か」と。則 対へて曰く、「若し陛下の化 中国に洽(あまね)く、徳 沙幕に流るれば、即ち求めずとも自ら至る。求めて之を得(う)れば、貴とするに足らず」と。帝 嘿然たり。
帝 東中郎将の蒋済を召して散騎常侍と為す。時に詔 征南将軍の夏侯尚に賜るもの有りて曰く、「卿 腹心の重将なり。特に当に使に任じ、威を作して福を作し、人を殺して人を活かすべし」と。尚 以て済に示す。済 至り、帝 以て聞見する所を問ふ。対へて曰く、「未だ他善有らず。但だ亡国の語を見るのみ」と。帝 忿然として色を作して其の故を問ふ。済 具さに以て答へ、因りて曰く、「夫れ『威を作して福を作す』とは、『書』の明誡なり。天子に戯言無し。古人の慎しむ所なり。惟だ陛下 之を察せよ」と。帝 即ち遣はして前詔を追取す。

帝 冀州の士卒 家十万戸を徙して河南を実とせんと欲す。時に天 旱・蝗あり、民 饑え、群司 以為へらく不可なりと。而るに帝の意 甚だ盛んなり。侍中の辛毗 朝臣と俱に見ゆるを求む。帝 其の諫めんと欲するを知り、色を作して以て之を待ち、皆 敢へて言ふ莫し。毗曰く、「陛下 士家を徙さんと欲す。其の計 安(いづこ)より出づるか」と。帝曰く、「卿 我 之を徙すこと非なりと謂ふや」と。毗曰く、「誠に以為へらく非なり」と。帝曰く、「吾 卿と与に議せず」と。
毗曰く、「陛下 臣を以て不肖とせず、之を左右に置き、之を謀議の官に廁す。安(いづく)にか能く臣と与に議せざるや。臣の言ふ所 私に非ず、乃ち社稷の慮なり。安(な)んぞ臣を怒らしむを得るか」と。
帝 答へず、起ちて内に入る。毗 隨ひて其の裾を引き、帝 遂に衣を奮ひて還らず、良に久しくして乃ち出で、曰く、「佐治、卿の我を持すること、何ぞ太だ急なるか」と。毗曰く、「今 徙さば、既に民心を失ひ、又 以て食らふもの無し。故に臣 敢へて力争せずんばあらず」と。帝 乃ち其の半を徙す。帝 嘗て出でて雉を射て、群臣を顧みて曰く、「雉を射ること楽しきかな」と。毗 対へて曰く、「陛下に於いて甚だ楽しけれども、群下に於いて甚だ苦し」と。帝 黙然として、後に遂に之の為に稀に出づ。140524

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黄初二(221)年の春夏;劉備が皇帝を自称す

春正月、議郎の孔羨を以て宗聖侯と為し、孔子の祀を奉ぜしむ。
三月、遼東太守の公孫恭に車騎将軍を加ふ。
初めて五銖銭を復す。

蜀中 漢帝 已に害に遇ふと伝言し、是に於て漢中王 喪を発して服を制し、謚して孝愍皇帝と曰ふ。群下 競ひて符瑞を言ひ、漢中王に尊号を称へよと勧む。前部司馬の費詩 上疏して曰く、「殿下 曹操の父子 主に逼りて位を篡ふを以て、故に乃ち万里を羈旅し、士衆を糾合し、将に以て賊を討たんとす。今 大敵 未だ克たずして先に自ら立てば、人心の疑惑するを恐る。昔 高祖 楚と約し、先に秦を破る者 之を王とすと。咸陽を屠り、子嬰を獲るに及び、猶ほ推譲を懐く。況んや今 殿下 未だ門庭を出でず、便ち自ら立たんと欲するか。愚臣 誠に殿下の為ならざると取る」と。王 悦ばず、詩を左遷して部永昌従事と為す。

夏四月丙午、漢中王 皇帝の位に武担の南に於いて即く。大赦し、章武と改元す。諸葛亮を以て丞相と為し、許靖を司徒と為す。
孫権 公安自(よ)り徙りて鄂に都し、名を更めて鄂を武昌と曰ふ。
五月辛巳、漢主 夫人の呉氏を立てて皇后と為す。后、偏将軍の懿の妹なり、故(もと)の劉璋の兄たる瑁の妻なり。子の禅を立てて皇太子と為す。車騎将軍の張飛の女を娶りて太子妃と為す。
太祖の鄴に入るや、帝 五官中郎将と為り、袁熙の妻たる中山の甄氏の美なるを見て之を悦び、太祖 之の為に焉を聘らしめ、子の叡を生む。皇帝の位に即くに及び、安平の郭貴嬪 寵有り、甄夫人 鄴に留めて見ゆるを得ず。失意して怨言有り。郭貴嬪 之を譖り、帝 大怒す。六月丁卯、使を遣はして夫人に死を賜はる。
帝 宗廟の鄴に在るを以て、太祖を洛陽の建始殿に祀り、家人の礼の如くす。

戊辰晦、日 之を食する有り。有司 太尉を免ぜよと奏す。詔に曰く、「災異の作、以て元首を譴むるなり。而るに過を股肱に帰するは、豈に禹・湯 己を罪するの義や。其れ百官をして各々厥の職を虔ぜしめよ。後に天地の眚有らば、復た三公を劾むること勿かれ」と。
漢主 其の子の永を立てて魯王と為し、理を梁王と為す。

漢主 関羽の没するを恥ぢ、将に孫権を撃たんとす。翊軍将軍の趙雲曰く「国賊は曹操なり、孫権に非ず。若し先に魏を滅せば、則ち権 自(おのづ)ら服す。今 操の身 斃ると雖も、子の丕 篡盜す。当に衆心に因り、早く関中を図り、河・渭に居り流れを上りて以て凶逆を討つべし。関東の義士 必ず 裹糧・策馬して以て王師を迎へん。魏を応置せず、先に呉と戦へば、兵勢 一交して、卒に解くを得ず。策の上なるに非ず」と。群臣の諫むる者 甚だ衆けれども、漢主 皆 聴かず。広漢の処士の秦宓 天の時に必ず利無きを陳べ、坐して下獄・幽閉せられ、然る後に貸出す。

初め、車騎将軍の張飛、雄壮・威猛にして関羽に亜(つ)ぐ。羽 善く卒伍を待すれども士大夫に驕る。飛 君子に愛礼すれども軍人を恤れまず。漢主 常に飛を戒めて曰く、「卿の刑殺 既に過差あり。又 日に健児を鞭撾して左右に在らしむ。此れ取禍の道なり」と。飛 猶ほ悛めず。漢主 将に孫権を伐たんとするや、飛 当に兵万人を率ゐて閬中自(よ)り江州に会すべし。発つに臨み、其の帳下の将たる張達・范彊 飛を殺し、其の首を以て流に順ひて孫権に奔る。漢主 飛の営都督 表有るを聞きて曰く、「噫、飛 死せるかな」と。140524

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黄初二(221)年の秋;劉備が夷陵に、孫権を呉王に

秋七月、漢主 自ら諸軍を率ゐて孫権を撃つ。権 使を遣はして漢に和を求む。南郡太守の諸葛瑾 漢主に箋を遺りて曰く、「陛下 関羽を以て親なること、先帝と何如(いかん)。荊州の大小、海内と孰(いづ)れぞ。俱に仇疾に応じ、誰ぞ当に先後せん。若し此の数を審らかにすれば、掌を反すより易し」と。漢主 聴かず。時に或ひと言ふ、瑾は別に親人を遣りて漢主と相聞すと。権曰く、「孤と子瑜と、死生不易の誓有り。子瑜の孤に負(そむ)かざること、猶ほ孤の子瑜に負かざるがごとし」と。然して謗言 外に流聞するとも、陸遜 表して瑾の必ず此無きことを明らかにし、宜しく以て其の意を散ずること有るべしとす。
権 報いて曰く、「子瑜 孤と与(とも)に従事すること積年、恩は骨肉の如く、深く相ひ明究す。其の為人(ひととなり)、道非(あら)ざれば行はず、義非(あら)ざれば言はず。玄徳 昔 孔明を遣りて呉に至らしめ、孤 嘗て子瑜に語りて曰く、『卿と孔明とは同産なり。且つ弟は兄に隨ふは、義に於いて順為(た)り。何を以て孔明を留めんか。孔明 若し留まりて卿に従はば、孤 当に書を以て玄徳に解かん。意 自ら人に隨ふのみ』と。子瑜 孤に答へて言く、『弟の亮 已に身を人に失ふ。定分を委質し、義に二心無し。弟の留らざるは、猶ほ瑾の往かざるがごとし』と。其の言 神明を貫くに足り、今 豈に当に此有るべきか。前に妄語・文疏を得て、即ち封じて子瑜に示し、並びに手筆 之に与ふ。孤 子瑜と与に神(しん) 交はると謂ふ可し。外言の間(へだ)つ所に非ず、卿の意を知りて至り、輒ち封じて表を来し以て子瑜に示し、卿をして意を知らしむ」と。

漢主 将軍の呉班・馮習を遣して、権の将の李異・劉阿等を巫に攻破し、秭帰に進軍す。兵 四万余人なり。武陵の蛮夷 皆 使を遣はして往きて兵を請ふ。権 鎮西将軍の陸遜を以て大都督・仮節と為し、将軍の朱然・潘璋・宋謙・韓当・徐盛・鮮于丹・孫桓等 五万人を督せしめて之を拒む。
皇弟の鄢陵侯の彰、宛侯の拠、魯陽侯の宇、譙侯の林、賛侯の兗、襄邑侯の峻、弘農侯の幹、寿春侯の彪、歴城侯の徽、平輿侯の茂 皆 爵を進めて公と為す。安郷侯の植 鄄城侯に改封せらる。
陵雲台を築く。

初め、帝 群臣に詔して、劉備 当に関羽の為に出でて孫権に報ゆるべきか否かを料らしむ。衆議 咸 云く、「蜀 小国なるのみ。名将 唯だ羽のみ。羽は死して軍は破れ、国内 憂懼す。縁りて復た出づること無し」と。侍中の劉曄 独り曰く、「蜀 狹弱なると雖も、而るに備の謀 威武を以て自強せんと欲し、勢 必ず衆を用て以て有余を示さん。且つ関羽と備と、義は君臣為(な)れども、恩は猶ほ父子のごとし。羽 死して、為(ため)に軍を興して敵に報ゆること能はずんば、終始の分に於いて足らず」と。

八月、孫権 使を遣はして称臣し、辞を卑しくして章を奉り、並びに于禁等を送りて還す。朝臣 皆 賀す。劉曄 独り曰く、「権 故(ゆゑ)無くして降を求む。必ず内に急なる有り。権 前に関羽を襲殺し、劉備 必ず大いに師を興して之を伐つ。外に強寇有り、衆心 安ぜず、又 中国の往きて其の釁(すき)に乗ずるを恐れ、故に地を委てて降を求め、一に以て中国の兵を却(かへ)さしめ、二に中国の援を仮り、其の衆を強むるを以て敵人を疑はしむ。天下 三分し、中国 十に其の八を有す。呉・蜀 各々一州を保ち、山を阻み水に依り、急有れば相ひ救ひ、此れ小国の利なり。今 還りて自ら相ひ攻むるは、天 之を亡ぼすなり。宜しく大いに師を興し、逕(ただ)ちに江を渡りて之を襲ふべし。蜀 其の外を攻むれば、我 其の内を襲ふ。呉の亡ぶこと旬月を出でず。呉 亡ぶれば則ち蜀 孤たり。若し呉の半を割きて以て蜀に与ふれば、蜀 固に久しく存すること能はず。況んや蜀 其の外を得れば、我 其の内を得んや」と。
帝曰く、「人 臣を称して降れども之を伐たば、天下の来らんと欲する者の心を疑はしむ。且に呉の降を受けて蜀の後を襲ふに若かず」と。対へて曰く、「蜀は遠く呉は近し。又 中国 之を伐つと聞けば、便ち軍を還せども、止(と)むること能はず。今 備 已に怒り、兵を興して呉を撃つ。我 呉を伐つと聞くや、呉の必ず亡ぶを知り、将に喜びて進みて我と呉地を争ひて割かんとす。必ず計を改めて怒りを抑へて呉を救はず」と。帝 聴かず、遂に呉の降を受く。

于禁 鬚髪は皓白たり、形容は憔悴たり。帝に見え、泣涕して頓首す。帝 慰喻するに荀林父・孟明視の故事を以てし、安遠将軍を拝せしめ、北して鄴を詣で高陵に謁せしむ。帝 豫め陵屋に関羽の戦克し、龐徳の憤怒し、禁の降服するの状を畫かしむ。禁 見て、慚恚して病死を発す。

丁巳、太常の邢貞を遣はし、奉策して即ち孫権を拝せしめて呉王と為し、九錫を加ふ。
劉曄曰く、「不可なり。先帝 天下を征伐し、十に其の八を兼せ、海内を威震す。陛下 受禅して真に即き、徳は天地に合し、声は四遠に暨ぶ。権 雄才有りと雖も、故の漢の票騎将軍・南昌侯なるのみ。官は軽く勢は卑し。士民 中国を畏るる心有り。強迫して与に謀する所を成す可からず。已むを得ず其の降を受け、其の将軍号を進め、十万戸侯に封ず可し。即ち以て王と為す可からず。夫れ王位 天子を去ること一階のみ。其の礼秩・服御 相ひ乱る。彼 直だ侯と為れば、江南の士民 未だ君臣の分有らず。我 其の偽降を信じ、封に就け之を殖し、其の位号を崇べば、其の君臣たるを定め、是れ虎に翼を傅すことと為る。権 既に王位を受け、蜀兵を却すの後、外は礼を尽して以て中国に事ふれども、其の国内をして皆 聞かしめ、内は無礼を為して以て陛下を怒らしむ。陛下 赫然と怒を発し、兵を興して之を討たば、乃ち徐ろに其の民に告げて曰く、『我 身を委てて中国に事へ、珍貨・重宝を愛せず、時に隨ひて貢献し、敢へて臣礼を失はず。而るに故無くして我を伐つ。必ず我が国家を残し、我が人民を俘し認めて僕妾と為さんと欲す』と。呉民 縁無く其の言を信ぜず。其の言を信じて感怒し、上下 心を同じくし、戦はば十倍を加ふ」と。
又 聴かず。諸将 呉の内付するを以て、意 皆 縦(ほしい)ままに緩む。独り征南大将軍の夏侯尚 益々攻守の備を修む。山陽の曹偉、素より才名有り。呉の称藩するを聞き、白衣を以て呉王に与へて書を交して賂ひを求め、以て京師を交結せんと欲す。帝 聞きて之を誅す。
呉 又 武昌に城(きず)く。

初め、帝 楊彪を以て太尉と為さんと欲す。彪 辞して曰く、「嘗て漢朝の三公と為り、世の衰乱に値ひ、尺寸の益を立つる能はず。若し復た魏臣と為り、国の選たれば、亦た栄と為さざる」と。帝 乃ち止む。140524

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黄初二(221)年の冬;魏呉が使者を交わす

冬十月己亥、公卿 朔旦に朝し、並せて彪を引き、待するに客礼を以てす。延年杖・馮幾を賜ひ、布単衣・皮弁を著けしめて以て見ゆ。光禄大夫を拝し、秩中二千石なり。朝見し、位は三公に次ぐ。又 門施・行馬せしめ、吏卒を置き、以て之を優崇す。年八十四にして卒す。
穀の貴きを以て、五銖銭を罷む。

涼州盧水胡の治元多等 反し、河西 大擾す。帝 鄒岐を召して還し、京兆尹の張既を以て涼州刺史と為し、護軍の夏侯儒、将軍の費曜等を遣はして其の後を継がしむ。胡七千余騎 既を鸇陰口に逆拒し、既 声を揚げて軍 鸇陰に従り、乃ち潜かに由りて且に次ぎて武威に出づ。胡 以て神と為し、引きて顕美に還る。既 已に武威に拠り、曜 乃ち至り、儒等 猶ほ未だ達せず。既 将士を労賜し、進軍して胡を撃たんと欲す。諸将 皆 曰く、「士卒 疲倦たり。虜衆 気鋭たり。与に争鋒すること難し」と。既曰く、「今 軍 糧を見ること無く、当に敵に因りて資と為すべし。若し虜 兵の合するを見れば、退きて深山に依り、之を追へば則ち道は険しく餓を窮む。兵 還れば則ち候を出し鈔を寇す。此の如くんば、兵 解くことを得ず、所謂(いはゆる)『一日 敵を縦ち、患 数世に在り』と」と。遂に前みて顕美に軍す。
十一月、胡騎 数千、大風に因りて火を放ちて営を焼かんと欲し、将士 皆 恐る。既 夜に精卒三千人を蔵して伏と為し、参軍の成公英をして千余騎を督せしめ戦を挑み、敕使もて陽(いつは)りて退く。胡 果たして争ひて之に奔り、因りて伏を発して其の後を截ち、首尾 進撃し、之を大破す。首を斬り生を獲ること万を以て数へ、河西 悉く平らぐ。

後に西平の麴光 反し、其の郡守を殺す。諸将 之を撃たんと欲す。既曰く、「唯 光等 造反するのみ。郡人 未だ必しも悉く同ぜず。若し便ち軍を以て之に臨めば、吏民、羌・胡 必ず国家の是非を別くることを謂ず、更めて皆をして相ひ持著せしむ。此れ虎の為に翼を傅すなり。光等 羌・胡を以て援と為さんと欲し、今 先に羌・胡をして鈔撃せしめ、其の賞募を重ぬ。虜獲せらる者、皆 以て之を畀る。外は其の勢を沮み、内は其の交を離せば、必ず戦はずして定む」と。乃ち檄を移して諸羌に告諭し、光等の為に詿誤せらる者 之を原(ゆる)し、能く賊帥を斬りて首を送る者 当に封賞を加ふべしとす。是に於て光の部党 光の首を斬りて送り、其の余 皆 安堵すること故の如し。

邢貞 呉に至る。呉人 以為へらく「宜しく上将軍・九州伯を称しすべし。当に魏の封を受けざるべし」と。呉王曰く、「九州伯、古に於いて未だ聞かざる。昔 沛公 亦 項羽の封を受けて漢王と為る。蓋し時宜のみ。復た何をか損ぜんや」と。遂に之を受く。呉王 都亭候の邢貞を出す。貞 入門し、下車せず。張昭 貞に謂ひて曰く、「夫れ礼は敬はざる無く、法は行はざる無し。而るに君 敢へて自ら尊大なり。豈に江南の寡弱なるを以て、方寸の刃無き故か」と。貞 即ち遽ち下車す。中郎将たる琅邪の徐盛 忿憤して、同列するものに顧みて謂いて曰く、「盛等 能く身を奮ひ命を出し、国家の為に許・洛を並せ、巴・蜀を吞さず。而るに吾が君をして貞と盟(ちか)はしむ。亦 辱じざらんや」と。因りて涕泣・横流す。貞 之を聞き、謂其の徒曰:「江東の将相 此の如し。久しく人に下る者に非ず」と。

呉主 中大夫たる南陽の趙咨を遣はして入謝せしむ。帝 問ひて曰く、「呉王 何等なる主か」と。対へて曰く、「聡明・仁智・雄略の主なり」と。帝 其の状を問ふ。対へて曰く、「魯肅を凡品より納る、是れ其の聡なり。呂蒙を行陳より抜く、是れ其の明なり。于禁を獲て害せず、是れ其の仁なり。荊州を取りて兵 刃に血あらず。是れ其の智なり。三州に拠りて天下を虎視す。是れ其の雄なり。身を陛下に屈す、是れ其の略なり」と。帝曰く、「呉王 頗る学を知るか」と。咨曰く、「呉王 江に万艘を浮べ、帯甲は百万、賢を任じ能を使ひ、志 経略に存り。余間有ると雖も、博く書伝を覧じ、史籍を歴て、奇異を采る。書生の章を尋ね句を摘むに效はざるのみ」と。帝曰く、「呉 征す可きや否や」と。対へて曰く、「大国 征伐の兵有れば、小国 備御の固有あり」と。帝曰く、「呉 魏に難きか」と。対へて曰く、「帯甲じゃ百万、江・漢 池と為る。何ぞ之を難しとすること有らん」と。帝曰く、「呉 大夫の如き者 幾人ぞ」と。対へて曰く、「聡明・特達たる者、八・九十人なり。臣の如き比、車載して斗もて量り、勝(あ)げて数ふ可からず」と。

帝 使を遣はして雀頭香・大貝・明珠・象牙・犀角・玳瑁・孔雀・翡翠・鬥鴨・長鳴雞を呉に求む。呉の群臣曰く、「荊・揚の二州、貢に常典有り。魏の求むる所の珍玩の物、非礼なり。宜しく与ふる勿れ」と。呉王曰く、「方に西北に事有り、江表 元元として、主を恃みて命を為す。彼の求むる所の者、我に於て瓦石のみ。孤 何ぞ焉を惜まんか。且つ彼 諒闇の中に在りて、求むる所 此の若し。寧ろ言を与えて礼とす可きか」と。皆 具さに以て之を与ふ。

呉王 其の子の登を以て太子と為し、師友を妙選す。南郡太守たる諸葛瑾の子の恪、綏遠将軍たる張昭の子の休、大理たる呉郡の顧雍の子の譚、偏将軍たる廬江の陳武の子の表 皆 中庶子と為し、入りて詩書を講じ、出でて騎射に従ひ、之を四友と謂ふ。登 僚属を接待するに、略々布衣の礼を用ふ。

十二月、帝 行きて東巡す。
帝 呉王の子の登を封じて万戸侯と為さんと欲す。呉王 登の年幼なるを以て、上書して辞して受けず。復た西曹掾の呉興の沈珩を遣りて入謝せしめ、並びに方物を献ず。帝 問ひて曰く、「呉 魏を嫌ひて東向するや」と。珩曰く、「嫌はず」と。曰く、「何を以てか」と。曰く、「旧盟を信恃し、言は好に帰す。是を以て嫌はず。若し魏 盟を渝せば、自ら豫備有り」と。又 問ふ。「太子 当に来るべしと聞く。寧(いづく)んぞ然るか」と。珩曰く、「臣 東朝に在り、朝して坐さず。宴 与(とも)にせず。此(かく)の若(ごと)きの議、聞く所無し」と。帝 之を善とす。

呉王 武昌の臨釣台に於て飲酒し、大いに醉ひ、人をして水を以て群臣を灑(そそ)がしめて曰く、「今日 酣飲す。惟ふに醉ひて台中より墮つれば、乃ち当に止むべし」と。張昭 色を正して言はず、外に出で、車中に坐す。王 人を遣りて昭を呼び還入せしめ、謂ひて曰く:「共に作楽を為すのみ。公 何の為に怒るか」と。昭 対へて曰く、「昔 紂 糟丘の酒池を為(つく)り、長夜の飲をす。当時 亦た以て栄と為し、以て悪と為さず」と。王 黙然として慚ぢ、遂に酒を罷む。 呉王 群臣と与に飲み、自ら起ちて行酒す。虞翻 地に伏し、陽(いつは)りて醉ひて持せず。王 去り、翻 起ちて坐る。王 大怒して、手づから剣もて之を撃たんと欲す。侍坐する者 惶遽せざる莫し。
惟だ大司農の劉基 起ちて王を抱き、諫めて曰く、「大王 三爵の後を以て、手づから善士を殺せば、翻に罪有ると雖も、天下 孰ぞ之を知らん。且つ大王 能く賢を容れ衆を蓄はふを以て、故に海内 望風す。今 一朝にして之を棄つること、可なるか」と。王曰く、「曹孟徳 尚ほ孔文挙を殺す。孤 虞翻に於いて何ぞ有らんや。」と。基曰く、「孟徳 士人を軽々しく害し、天下 之を非とす。大王 躬づから徳義を行ひ、堯・舜と隆なるを比べんと欲す。何ぞ自ら彼に喻(たと)ふるを得んや」と。翻 是に由りて免かるを得たり。王 因りて左右に敕す。「自今 酒後に殺を言へども、皆 殺すを得ざれ」と。基、繇の子なり。

初め、太祖 既に蹋頓に克ちて、烏桓 浸衰す。鮮卑の大人の歩度根・軻比能・素利・弥加・厥機等 閻柔に因りて貢献を上り、通市を求む。太祖 皆 寵を表して以て王と為す。軻比能 本は小種の鮮卑なり。勇健・廉平なるを以て衆の服する所と為り、是に由り能く余部を威制し、最も強盛為り。雲中・五原自り、東は遼水に抵る以て、皆 鮮卑の庭と為る。
軻比能 素利・弥加と与に地を割きて統御し、各々分界有り。軻比能の部落 近塞し、中国人 多く亡叛して之に帰す。素利等 遼西・右北平・漁陽の塞外に在り。道 遠く、故に辺患を為さず。帝 平虜校尉の牽招を以て護鮮卑校尉と為し、南陽太守の田豫を護烏桓校尉と為し、之を鎮撫せしむ。140524

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黄初三(222)年;夷陵の戦い

黄初三年(壬寅、四元二二二年)
春正月丙寅朔、日 之を食する有り。
庚午、帝 行して許昌に如く。
詔して曰く、「今の計・孝〈上計・孝廉〉、古の貢士なり。若し年を限りて然る後に士を取れば、是れ呂尚・周晋 前世に顕はれず。其れ郡国の選ぶ所、老幼に拘ること勿らしめよ。儒通経術、吏達文法、皆 試用するに到れ。有司 故より実を以てせざる者を糾せ」と。

二月、鄯善・亀茲・于闐王 各々使を遣りて奉献す。是の後、西域 復た通じ、戊己校尉を置く。
漢主 秭帰自(よ)り将に呉に進撃せんとす。治中従事の黄権 諫めて曰く、「呉人 戦に悍し。而して水軍 流れに沿い、進むは易く退くは難し。臣 請ふ、先駆と為りて以て寇に当り、陛下 宜しく後鎮と為れ」と。漢主 従はず、権を以て鎮北将軍と為し、江北の諸軍を督せしむ。自ら諸将を率ゐ、江南自り山に縁り嶺を截ち、夷道の猇亭に軍す。呉将 皆 之を迎撃せんと欲す。陸遜曰く、「備 軍を挙げて東下す。鋭気 始めは盛んなり。且つ高きに乗じ険しきを守り、卒かに攻むる可きこと難し。之を攻めて縦(ほしい)ままに下すとも、猶ほ尽克すること難く、若し不利有れば、我が太勢を損じ、小故に非ず。今 但だ且に将士を獎厲し、広く方略を施し、以て其の変を観よ。若し此の間に是れ平原・曠野あれば、当に顛沛・交逐の憂有るを恐るべし。今 山に縁り行軍し、勢 展(ひろ)がるを得ず。自ら当に木石の間を罷り、徐ろに其の敝を制すべきのみ」と。諸将 解せず、以為へらく遜 之を畏ると。各々憤恨を懐く。
漢人 佷山自り武陵に通じ、侍中の襄陽の馬良 金錦を以て五谿の諸蛮夷に賜ひ、官爵を以て授く。

三月乙丑、皇子たる斉公の叡を立てて平原王と為す。皇弟たる鄢陵公の彰等 皆 爵を進めて王と為る。甲戌、皇子の霖を立てて河東王と為す。
甲午、帝 行して襄邑に如く。

夏四月戊申、鄄城侯の植を立てて鄄城王と為す。是の時、諸侯王 皆 地に寄りて名を空しくして其の実無し。王国 各々老兵百余人有るを以て守衛と為す。隔絶すること千里の外、朝聘を聴かず、為に防輔・監国の官を設けて以て之を伺察す。王侯の号有ると雖も而るに匹夫に儕(ひと)しく、皆 布衣為(た)らんを思へども得ること能はず。法 既に峻切にして、諸侯王の過悪 日々聞ゆ。独り北海王の兗 謹慎にして学を好み、未だ嘗て失有らず。文学・防輔 相ひ与(とも)に言ひて曰く、「詔を受けて王の挙措を察す。過有れば当に奏すべしと。善有るに及び亦 宜しく以て聞すべし」と。遂に共に表して兗の美なるを称陳す。兗 之を聞き、大いに驚懼し、文学を責譲して曰く、「修身して自守するは、常人の行ひのみ。而るに諸君 乃ち以て上聞す。是れ適(まさ)に其の負累を増す所以なり。且つ如し善有れば、何をか不聞を患はん。而るに遽りて共に是の如し。是れ益と為る所以に非ず」と。
癸亥、帝 許昌に還る。

五月、江南の八郡を以て荊州と為し、江北の諸郡を郢州と為す。
漢人 巫峽・建平自り連営して夷陵の界に至るまで、数十屯を立て、馮習を以て大督と為し、張南を前部督と為し、正月自り呉と相拒し、六月に至るまで決せず。漢主 呉班を遣りて数千人を将ゐしめ地を平とし営を立て、呉の将帥 皆 之を撃たんと撃す。陸遜曰く、「此れ必ず譎有り。且に之を観よ」と。漢主 其の計の行はざるを知り、乃ち伏兵八千を引きて谷中従(よ)り出づ。遜曰く、「諸君の班を撃つを聴かざる所以は、之を揣(はか)るに必ず巧有る故なり」と。遜 呉王に上疏して曰く、「夷陵は要害にして、国の関限なり。得易しと為すと雖も、亦た復た失ひ易し。之を失へば、徒だ一郡の地を損ずるのみに非ず。荊州 憂ふ可きなり。今日 之を争ひ、当に必ず諧(ととの)へしむべし。備げて天常を干し、窟穴を守らずして敢へて自ら送る。臣 不材なると雖も、威霊を憑奉し、順を以て逆を討ち、破壊 近きに在り、憂ふ可きこと無し。臣 初めに之を嫌ひて水陸 俱に進み、今 反りて船を捨て歩に就き、処処 結営す。其の佈置を察するに、必ず他変無し。伏して至尊の高枕し、為に念ずるを以てせざるを願ふ」

閏月、遜 将に漢軍に進攻せんとす。諸将 並びに曰く、「備を攻むるは当に初に在るべし。今 乃ち五六百里に入らしめ、相ひ守りて七・八月を経る。其の諸々の要害 皆 已に固守す。之を撃てども必ず利無し」と。遜曰く、「備 是れ猾虜なり。更に嘗て事多なり。其の軍 始めて集ひ、思慮 精専たり。未だ干す可からず。今 住まること已に久しく、我が便を得ず、兵は疲れて意は沮ぎ、計 復た生ぜず。此の寇を掎角するは、正に今日に在り」と。乃ち先に一営を攻め、利せず、諸将 皆 曰く、「空しく兵を殺すのみ」と。遜曰く、「吾 已に之を破るの術を曉る」と。乃ち敕して各々一把の茅を持せしめ、以て火攻し、之を抜く。一爾 勢 成り、諸軍を通率し、時を同じくして俱に攻め、張南・馮習及び胡王の沙摩柯らの首を斬り、其の四十余営を破る。漢将 路を杜(とざ)し、劉寧等 窮逼して降を請ふ。

漢主 馬鞍山に升り、陳兵 自繞す。遜 諸軍に督促し、四面 之を蹙ぎ、土崩 瓦解し、死者 万を数ふ。漢主 夜に遁げ、駅人 自ら鐃鎧を担ぎて焼きて後を断ち、僅かに白帝城に入るを得たり。其の舟船・器械、水・歩の軍資、一時に略ぼ尽き、屍骸 江を塞ぎて下る。漢主 大いに慚恚して曰く、「吾 乃ち陸遜の折辱する所と為る。豈に天に非ざるや」と。将軍の義陽の傅肜 後殿と為り、兵衆 尽死するとも、肜気 益々烈んなり。呉人 之を諭して降らしめんとす。肜 罵りて曰く、「呉の狗、安んぞ漢の将軍にして降る者有るや」と。遂に死す。従事祭酒の程畿 江を溯りて退き、衆曰く、「後追 将に至らんとす。宜しく舫を解きて軽行すべし」と。畿曰く、「吾 軍に在り、未だ敵の為に走ぐることに習はず」と。亦 死す。

初め、呉の安東中郎将の孫桓 別れて漢の前鋒を夷道に撃ち、漢の為に囲はれ、陸遜に救ひを求む。遜曰く、「未だ可からず」と。諸将曰く、「孫安東は、公族なり。囲はれて已に困る。奈何(なんぞ)救はざるや」と。遜曰く、「安東 士衆の心を得たり。城は牢く糧は足る。憂ふ可きこと無し。吾が計の展するを待つ。安東を救はれば、安東 自ら解かんと欲す」と。方略 大施するに及び、漢 果たして奔潰す。桓 後に遜に見ひて曰く、「前に実に救はれざるをむ。定めて今日に至り、乃ち調度 自ら方有るを知るのみ」と。

初め、遜 大都督と為れども、諸将 或ひと討逆する時の旧将なり、或ひと公室の貴戚なり、各々自矜して、相ひ聴従せず。遜 剣を按じて曰く、「劉備 天下に名を知られ、曹操の憚る所なり。今 境界に在り、此の強 対ふなり。諸君 並びに国恩を荷ひ、当に相ひ輯睦して、共に此の虜を翦り、上は受くる所に報ずべし。而るに相ひ順はざるは、何ゆえぞ。僕 書生と雖も、主上に受命し、国家 諸君を屈せしめて相ひ承望する所以は、僕の尺寸を以て称ふ可く、能く負重に忍辱する故なり。各々其の事に在り、豈に復た辞するを得んや。軍令 常有り、犯す可からず」と。備を破るに至るに及び、計 多く遜より出で、諸将 乃ち服す。呉王 之を聞きて曰く、「公 何を以て初めより諸将の節度に違ふを啓せずや」と。対へて曰く、「恩を受くること深重なり。此れ諸将 或ひとは腹心たるに任せ、或ひとは爪牙に堪み、或ひとは是れ功臣なり。皆 国家の当に与に共に大事を克定するべき所、臣 竊かに慕ふこと相如たり。寇恂して相下するの義 以て国事を済ふなり」と。王 大笑して善を称へ、遜に輔国将軍を加へ、荊州牧を領せしめ、江陵侯に改封す。

初め、諸葛亮 尚書令の法正と好尚すれども同じからず。而るに公義を以て相ひ取る。亮 毎に正の智術を奇とす。漢主の伐呉して敗るるに及び、時に正 已に卒す。亮 歎じて曰く、「孝直 若し在れば、必ず能く主上の東行を制す。就使(もし) 東行すれば、必ず傾危せず」と。漢主 白帝に在り。徐盛・潘璋・宋謙等 各々競ひて表して言く、「備 必ず禽ふ可し。復た之を攻むることを乞ふ」と。呉王 以て陸遜に問ふ。遜 朱然・駱統と上言して曰く、「曹丕 士衆を大合し、外は国を助けて備を討つに托するも、内は実に奸心有り。謹みて計を決して輒ち還れ」

初め、帝 漢兵の柵を樹て営を連ぬること七百余里なるを聞き、群臣に謂ひて曰く、「備 兵に曉ならず。豈に七百里の営有りて以て敵を拒ぐ可きか。『原隰・険阻を苞みて軍を為す者は敵の禽とする所と為る』と。此れ兵の忌なり。孫権の上事 今に至らん」と。後七日、呉 漢を破るの書 到る。

秋七月、冀州 大いに蝗あり、饑う。
漢主 既に敗走し、黄権 江北に在りて、道 絶ち、還るを得ず。八月、其の衆を率ゐて来降す。漢の有司 権の妻子を收めんと請ふ。漢主曰く、「孤 黄権に負く。権 孤に負かず」と。之を待すること初の如し。帝 権に謂ひて曰く、「君 逆を捨てて順に效ふ。陳・韓を追蹤せんと欲するや」と。対へて曰く、「臣 劉主より殊遇を過受す。呉に降るは不可なり。蜀に還るに路無し。是を以て帰命す。且つ敗軍の将、死を免るるを幸と為す。何ぞ古人の慕ふ可きことなるか」と。帝 之を善しとし、拝して鎮南将軍を為し、育陽侯に封じ、侍中を加へ、陪乗せしむ。漢の降人 或ひと云はく漢 権の妻子を誅すと。帝 権に発喪せよと詔す。権曰く、「臣と劉・葛 誠に相信を推し、臣の本志を明らかにす。竊かに未だ実ならざるを疑ふ。須つことを請ふ」と。後に審問を得て、果して言ふ所の如し。馬良 亦た五谿に死す。

九月甲午、詔して曰く、「夫れ婦人の政を与るや、乱の本なり。自今より以後、群臣 太后に奏事するを得ず。後族の家 輔政の任に当たるを得ず。又 横(ほしい)ままに茅士の爵を受けるを得ず。此の詔を以て之を後世に伝へよ。若し背違する有れば、天下 共に之を誅せ」と。卞太后 毎に外親と見(あ)ひ、顔色を以て仮らず、常に言ふ。「居処 当に節倹すべし。当に望賞すべからず。自ら佚するを念ず。外舎 当に吾 之を遇すること太だ薄きを怪しむべきは、吾 自ら常度有る故なり。吾 武帝に事ふること四・五十年、行の倹たるは日に久しく、自ら変じて奢を為す能はず。科禁を犯す者有れば、吾 且に能く罪一等を加ふるのみ。銭米を望み恩貸する莫れ」と。

帝 将に郭貴嬪を立てて后と為さんとす。中郎の棧潜 上疏して曰く、「夫れ后妃の徳、盛衰・治乱 由りて生ずる所なり。是を以て聖哲 慎みて元妃を立て、必ず先代の世族なるの家より取り、其の令淑なるを択び、以て六宮を統べしめ、宗廟を虔奉す。『易』に曰く、『家道 正にして、天下 定まる』と。内由り外に及ぶまで、先王の令典なり。『春秋』に宗人釁夏を書して云く、『妾を以て夫人の礼を為すこと無し』と。斉桓 葵丘に誓命し、亦た曰く、『妾を以て妻と為すこと無し』と。後宮の嬖寵をして、常に乗輿に亜(つ)がしめ、若し愛に因りて后に登れば、賎人をして貴に暴(さら)さしむるなり。臣 後世の下陵・上替を恐れ、非度を開張し、乱して自ら上起す」と。帝 従はず。庚子、皇后の郭氏を立つ。

初め、呉王 于禁、護軍の浩周、軍司馬の東里袞に遣はして帝を詣でしめ、自ら誠款を陳べしむ。辞 甚だ恭愨たり。帝 周等に問ひて問く、「権 信ず可きか」と。周 以為へらく権 必ず臣服すと。而るに袞 其の必ず服す可からざるを謂ふ。帝 周の言を悦び、以為へらく以て之を知ること有りて、故に立てて呉王と為し、復た周をして呉に至らしむ。周 呉王に謂ひて曰く、「陛下 未だ王を信ぜず子を入侍せしむ。周 闔門の百口を以て之を明らかにす」と。呉王 之の為に流涕・沾襟し、天を指して誓ひを為す。周 還れども侍子 至らず、但だ多く虚辞を設く。帝 侍中の辛毗、尚書の桓階を遣はして往きて与(とも)に盟誓せしめんと欲す。並びに任子のことを責む。呉王 辞譲して受けず。帝 怒りて、之を伐たんと欲す。劉曄曰く、「彼 新たに志を得て、上下 心を斉しくす。而して江湖もて阻帯し、倉卒(にはか)に制す可からず」と。帝 従はず。

九月、征東大将軍の曹休、前将軍の張遼、鎮東将軍の臧霸に命じて洞口を出でしむ。大将軍の曹仁 濡須を出づ。上軍大将軍の曹真、征南大将軍の夏侯尚、左将軍の張郃、右将軍の徐晃 南郡を囲む。呉の建威将軍の呂範 五軍を督し、舟軍を以て休等を拒む。左将軍の諸葛瑾、平北将軍の潘璋、将軍の楊粲 南郡を救ふ。裨将軍の朱桓 濡須の督たるを以て曹仁を拒む。

冬十月甲子、表して首陽山の東に寿陵を為り、終制を作す。務従は倹薄たり。金玉を蔵せず、一に瓦器を用ゐる。此の詔を以て之を宗廟に蔵し、副は在尚書・秘書・三府に在らしめよ。

呉王 揚越の蛮夷 多く未だ平集せざるを以て、乃ち辞を卑くして上書し、自ら改めて厲むことを求む。「若し罪の除き難き在れば、必ず置かれず。当に土地・民人を奉還し、交州に寄命して以て余の年を終へん」と。又 浩周に書を与へて云く、「子登の為に宗室に昏を求めんと欲す」と。又 云く、「登の年弱なるを以て、孫長緒・張子布を遣はして登に隨ひて俱に来たらしめんと欲す」と。帝 報いて曰く、「朕の君と与(とも)するや、大義 已に定まる。豈に師を労し遠く江・漢に臨むを楽まんか。若し登 身ら朝到すれば、夕に兵を召して還さん」と。是に於て呉王 黄武と改元し、江に臨みて拒守す。

帝 許昌自り南征し、郢州を復して荊州と為す。
十一月辛丑、帝 宛に如く。曹休 洞口に在り、自陳す、「願はくは鋭卒を将ゐて江南を虎歩せんことを。敵に因りて資を取れば、事 必ず克捷す。若し其れ臣無くんば、須らく為に念ずべからず」と。帝 休の便ち渡江するを恐れ、駅馬 之を止む。侍中の董昭 側に侍り、曰く、「竊かに見る、陛下に憂色有るは、独り休の江を済る故(ゆゑ)を以てや。今者 渡江すれば、人情 難とする所なり。就て休 此の志有れば、勢 独り行かず。当に諸将を須つべし。臧霸等 既に富みて且つ貴く、復た他望無し。但だ其の天年を終へ、禄祚を保守せんと欲するのみ。何ぞ危に乗じて自ら死地に投じ、以て徼倖を求むるを肯んずるや。苟くも霸等 進まざれば、休の意 自ら沮(はば)まる。臣 陛下 敕渡の詔有りと雖も、猶ほ必ず沉吟し、未だ便ち命に従はざるを恐るなり」と。之の頃、会々暴風 吹く。呉の呂範等の船、綆纜 悉く断ち、直ちに休等の営下に詣(いた)る。斬首・獲生すること千数を以てし、呉兵 迸散す。帝 之を聞き、諸軍に敕して渡るを促す。軍 未だ時に進まず、呉の救船 遂に至り、軍を收めて江南に還る。曹休 臧霸をして之を追はしむるも、利せず。将軍の尹盧 戦死す。

庚申晦、日 之を食する有り。
呉王 太中大夫の鄭泉をして漢に聘せしむ。漢の太中大夫の宗瑋 之に報い、呉・漢 復た通ず。
漢主 魏師の大いに出づるを聞き、陸遜に書を遺りて曰く、「賊 今 已に江・漢に在り。吾 将に復た東せんとす。将軍 其の能く然否なるを謂ふや」と。遜 答へて曰く、「但だ軍の新らに破らるを恐る。創夷 未だ復せず、始めて通親を求む。且つ自補に当り、未だ兵を窮むるの暇あらず。若し推算せざれば、欲復た傾覆の余を以て遠送以来者、所命を逃るる所無し」と。
漢の漢嘉太守の黄元 叛く。
呉将の孫盛 万人を督して江陵の中洲に拠り、以て南郡の外援と為る。

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黄初四(223)年;劉備が死んで呉蜀同盟

黄初四年(癸卯、西元二二三年)
春正月、曹真 張郃をして呉兵を撃破せしめ、遂に江陵の中洲を奪ひて拠る。 二月、諸葛亮 永安に至る。

曹仁 歩騎の数万を以て濡須に向ひ、先に東して羨溪を攻めんと欲すと声を揚ぐ。朱桓 兵を分けて之に赴く。既に行き、仁 大軍を以て徑進す。桓 之を聞き、追ひて羨溪の兵を還せども、兵 未だらずして仁 奄ひ至る。時に桓の手下及び所部の兵 在る者は五千人ばかり、諸将 業業として各々懼るる心有り。桓 之を喻へて曰く、「凡そ両軍 交対すれば、勝負 将に在り、衆寡に在らず。諸君 曹仁の用兵。行師を聞きて、桓と孰(いづ)れぞ。兵法 以て称する所の『客は倍して主人は半す』といふは、平原を俱にし城隍無きの守を謂ひ、又 士卒の勇怯 斉等なる故を謂ふのみ。今 仁 既に智勇に非ず、加へて其の士卒 甚だ怯たり。又 千里を歩涉し、人馬 罷困す。桓 諸君と共に高城に拠り、南は大江に臨み、北は山陵を背にし、逸を以て労を待ち、主と為りて客を制す。此れ百戦百勝の勢なり。曹丕 自ら来ると雖も、尚ほ憂ふに足らず。況んや仁等をや」と。桓 乃ち旗鼓を偃し、外に虚弱なるを示して以て仁を誘致す。仁 其の子の泰を遣はして濡須城を攻む。分けて将軍の常雕・王双等を遣はし、油船を乗せて別に中洲を襲ふ。中洲は、桓の部曲の妻子 在る所なり。蒋済曰く、「賊 西岸に拠り、船を列ねて流れを上る。而るに兵 洲中に入る。是れ自ら地獄の内と為り、危亡の道なり」と。仁 従はず、自ら万人を将ゐて橐皋に留まり、泰等の為に後援す。桓 別将を遣りて雕等を撃ちて身自(みづ)から泰を拒む。泰 営を焼きて退く。桓 遂に常雕を斬り、王双を生け虜り、陳に臨みて殺され溺れて死せる者 千余人なり。

初め、呂蒙の病 篤く、呉王 問ひて曰く、「卿 如し起きずんば、誰ぞ代はる可きか」と。蒙 対へてく、「朱然 膽守に余有り、愚 以為へらく任ず可し」と。朱然なる者は、九真太守の朱治の姉子なり。本姓は施氏、治 養ひて以て子と為す。時に昭武将軍為(た)り。蒙 卒し、呉王 然の節を仮りて江陵に鎮せしむ。曹真等 江陵を囲むに及び、孫盛を破る。呉王 諸葛瑾等を遣りて兵を将ゐて往き囲ひを解かしむ。夏侯尚 之を撃却す。江陵 中外は断絶し、城中の兵 多く腫病す。戦に堪ふる者 五千人を裁つ。真等 土山を起し、地道を鑿ち、楼櫓を立てて城に臨み、弓矢 雨のごとく注ぎ、将士 皆 色を失ふ。然れば晏如たりて恐るる意無く、方に吏士を厲まし、間隙を伺ひ、魏の両屯を攻破せん。魏兵 囲みて然ること凡そ六月なり。江陵令の姚泰 兵を領して城の北門に備へ、外兵の盛なるを見る。城中の人 少なく、穀食 且に尽きんとす。懼れて済はず、謀りて内応を為し、然るに覚して之を殺す。

時に江水 浅狹たり。夏侯尚 乗船して歩騎を将ゐて渚中の安屯に入らんと欲し、浮橋を作り、南北 往来す。議する者 多く以為へらく城は必ず抜く可し。董昭 上疏して曰く、「武皇帝 智勇は人に過ぎて、用兵 敵を畏れしめども、敢へて之を軽ぜざること此(かく)の若し。夫れ兵 進むを好み退くを悪み、常に之を然りとすること数なり。平地 険無くとも、猶ほ尚 艱難あるがごとく、就きて当に深入すれば、還道 宜しく利あるべし。兵に進退有りて、意の如くなる可からず。今 渚中に屯すること、至深なり。橋を浮べて済(わた)ること、至危なり。一道より行くこと、至狹なり。三つなる者、兵家の忌む所なり。而るに今 之を行なふ。賊 頻りに橋を攻め、誤りて漏失有れば、渚中の精鋭 魏の有に非ず。将に転化して呉と為らんとす。臣 私かに之を戚(うれ)ひ、寝と食とを忘る。而るに議者 怡然として憂を為すを以てせず。豈に惑はざらんや。加へて江水 向長たり。一旦にして暴かに増えれば、何を以て防禦せん。就きて賊を破らず、尚 当に自ら完うすべし。奈何(なんぞ) 危に乗じ、以て懼れを為さざるや。惟れ陛下 之を察せよ」と。帝 即ち尚等に詔して出づるを促す。呉人 両頭より並前し、魏兵 一道より引去す。時ならず泄(も)れを得て、僅かにして済を獲たり。呉将の潘璋 已に荻筏を作り、以て浮橋を焼かんと欲す。会々尚 退きて止む。後の旬日、江水 大いに漲り、帝 董昭に謂ひて曰く、「君 此の事を論ず。何ぞ其れ審らかなるや」と。会々天 大疫あり、帝 悉く諸軍を召して還す。

三月丙申、車駕 洛陽に還る。
初め、帝 賈詡に問ひて曰く、「吾命に従はざるを伐ち、以て天下を一にせんと欲す。呉・蜀 何れをか先にせん」と。対へて曰く、「攻取は兵権に先んずれども、本を建つるは尚ほ徳化なり。陛下 期に応じて受禅し、率土を撫臨す。若し之を綏するに文徳を以てして其の変を俟てば、則ち之を平らぐこと難(かた)からず。呉・蜀 蕞爾の小国と雖も、山に依り水に阻む。劉備 雄才有り、諸葛亮 善く治国す。孫権 虚実を識り、陸遜 兵勢を見る。険に拠り要を守り、江湖に泛舟す。皆 卒かに謀ること難し。用兵の道、先に勝ちて後に戦ひ、敵を量りて将を論ずるにあり。故に遺策無きを挙ぐ。臣 竊かに料るに、群臣 備・権に対(かな)ふもの無く、天威を以て之に臨むと雖も、未だ万全の勢を見ず。昔 舜 干戚を舞ひて苗服有り。臣 以為へらく当今 宜しく文を先とし武を後とすべし」と。帝 納れず、軍に竟に功無し。
丁未、陳忠侯の曹仁 卒す。

初め、黄元 諸葛亮の善しとせざる所と為り、漢主の疾病たるを聞き、後患有るを懼れ、故に郡を挙げて反き、臨邛城を焼く。時に亮 東行して疾を省る。成都 単虚たり。元 益々憚かる所無し。益州治中従事の楊洪、太子に啓して将軍の陳曶・鄭綽を遣はしめ元を討つ。衆議 以為へらく元 若し成都を囲むこと能はずんば、当に越巂に由りて南中に拠るべしと。洪曰く、「元 素より性は凶暴にして、他に恩信無し。何ぞ能く此を弁ぜんや。水に乗じて東下するに過ぎず、主上の平安なるを冀ひ、面縛して死に帰す。如し其れ異有れば、呉に奔りて活を求むるのみ。但だ曶・綽に敕して南安の峽口に於いて邀遮せしむれば、即便ち得るのみ」と。元の軍 敗れ、果して江に順ひて東下す。曶・綽 生け獲り、之を斬る。

漢主 病ひ篤く、丞相の亮に命じて太子を輔せしむ。尚書令の李厳を以て副と為す。漢主 亮に謂ひて曰く、「君の才 曹丕に十倍す。必ず能く国を安じ、終に大事を定めよ。若し嗣子 輔く可きなれば、之を輔けよ。如し其れ不才なれば、君 自ら取る可し」と。亮 涕泣して曰く、「臣 敢へて股肱の力を竭し、忠貞の節を效さざれば、之を継ぐに死を以てせん」と。漢主 又 詔を為して太子に敕して曰く、「人 五十にして夭と称さず。吾が年 已に六十有余なり。何ぞ復た恨む所あらん。但だ卿の兄弟を以て為に念ずのみ。勉めよ、勉めよ。悪の小なるを以て之を為すこと勿かれ。善の小なるを以て為さざること勿かれ。賢を惟ひ徳を惟ひ、以て人を服せしむ可し。汝の父 徳は薄く、效すに足らず。汝 丞相と与に従事し、之に事ふるに父の如くせよ」と。
夏四月、漢主 永安に殂し、謚して昭烈と曰ふ。

丞相の亮 喪を奉じて成都に還る。李厳を以て中都護と為し、永安に留鎮せしむ。

五月、太子の禅 即位す。時に年は十七なり。皇后を尊びて皇太后と曰ひ、大赦し、建興を改元す。丞相の亮を封じて武郷侯と為し、益州牧を領せしむ。政事 鉅細と無く、鹹 亮に決せらる。亮 乃ち官職を約し、法制を修め、教を発して群下に与へて曰く、「夫れ参署する者は、衆思に集ひ、忠益を広めよ。若し小嫌を遠ざくれば、難 相ひ違覆し、曠しく闕損す。覆に違ひて中を得れば、猶ほ敝趫を棄てて珠玉を獲るがごとし。然して人心 尽す能はざるを苦しみ、惟れ徐元直 処茲不惑。又、董幼宰 参署すること七年、事 至らざる有り、十反に至り、来りて相ひ啓告す。苟くも能く元直の十一を慕へば、幼宰の勤渠、国に忠有り。則ち亮 以て過を少くす可し」と。又 曰く、「昔 初め交州 平らぎ、屢々得失を聞く。後に元直に交はり、勤めて啓誨せらる。前に幼宰に参事し、毎に言へば則ち尽くす。後に偉度に従事し、数々諫止有り。資性 鄙暗なると雖も、悉く納る能はざず。然りて此の四子と与に終始 好合し、亦た足以て其の不疑を直言に明らかにす」と。偉度者、亮の主簿たる義陽の胡済なり。

亮 嘗て自ら簿書を校す。主簿の楊顒 直入して、諫めて曰く、「治を為して体有れば、上下 相ひ侵す可からず。明公の為に請ふ、以て家を作して之を譬へんことを。今 人有りて、奴をして耕稼を執らしめ、婢をして炊爨を典らしむ。雞主は晨を司り、犬主は盜に吠ゆ。牛は重載を負ひ、馬は遠路を涉る。私業 曠しきこと無く、求むる所 皆 足る。雍容として枕を高くし、飲食するのみ。忽ち一旦にして尽く身を以て其の役を親(みづか)らせんと欲し、復た任を付せざれば、其の体力を労し、此の為に碎務し、形は疲れ神は困し、終に一つとして成る無し。豈に其の智の奴・婢・雞・狗に如かざるか。家主為(と)しての法を失ふなり。是れ故に古人 称す。『坐して道を論じ、之を王公と謂ふ。作りて之を行ひ、之を士大夫と謂ふ』と。故に丙吉 横道の死人を問はずして牛の喘ぐを憂ひ、陳平 銭穀の数知るを肯んぜす、『自ら主(つかさど)る者有り』と云ふ。彼 誠に位分の体に達するなり。今 明公 治を為し、乃ち躬に自ら簿書を校し、流汗すること終日なり。亦た労せざるや」と。亮 之に謝す。顒の卒するに及び、亮 垂泣すること三日なり。

六月甲戌、任城威王の彰 卒す。
甲申、魏の寿肅侯の賈詡 卒す。
大水あり。
呉の賀斉 蘄春を襲ひ、太守の晋宗を虜として以て帰る。
初め、益州郡の耆帥の雍闓 太守の正昂を殺す。士燮に因りて以て呉に求付せんと求付む。又 太守の成都の張裔を執へて以て呉に与ふ。呉 闓を以て永昌太守と為す。永昌功曹の呂凱、府丞の王伉 吏士を率ゐて境を閉じて拒守し、闓 進むこと能はず。郡人の孟獲をして諸夷を誘扇せしめ、諸夷 皆 之に従ふ。牂柯太守の朱褒、越巂夷王の高定 皆 叛きて闓に応ず。諸葛亮 新たに大喪に遭ふを以て、皆 撫して討たず。農に務めて穀を殖やし、関を閉じて民を息ます。民 食の足るに安じて後に之を用ふ。

秋八月丁卯、廷尉の鐘繇を以て太尉と為し、治書執法の高柔 代へて廷尉と為す。是の時 三公 事無く、又 希に朝政に与る。柔 上疏して曰く、「公輔の臣、皆 国の棟樑なり。民の具瞻する所にして、之に三事を置く。政を知らしめざれば、遂に各々息を偃し高を養ひ、進納有ること鮮(すくな)し。誠に朝廷 大臣を崇用するの義、大臣 替否す可きを献ずるの謂に非ず。古者 刑政に疑有れば、輒ち槐・棘の下に議す。自今の後、朝に疑議有りて刑獄に大事あるに及ばば、宜しく数々以て三公を咨訪すべし。三公 朔・望の日に朝し、又 可特延入講論得失、博尽事情、庶有補起天聴、光益大化。」帝 嘉して焉を納る。

辛未、帝 滎陽に校猟し、遂に東巡す。九月甲辰、許昌に如く。

漢の尚書たる義陽の鄧芝 諸葛亮に言ひて曰く、「今 主上 幼弱たり、初めて尊位に即き、宜しく大使を遣して呉との好を重申すべし」と。亮曰く、「吾 之を思ふこと久しけれども、未だ其の人を得ざるのみ。今日 始めて之を得たり」と。芝問ふらく、「其の人 誰為るか」と。亮曰く、「即ち使君なり」と。乃ち芝をして中郎将たるを以て遣はしめ呉と修好す。
冬十月、芝 呉に至る。時に呉王 猶ほ未だ魏と絶へず、狐疑して時に芝に見(あ)はず。芝 乃ち自ら表して見を請ひて曰く、「臣 今 来(きた)るは、亦 呉の為を欲すればなり。但だ蜀の為のみに非ず」と。呉王 之に見ひて曰く、「孤 誠に蜀と和親するを願ふ。然るに蜀主は幼弱たり、国は小にして勢は逼まり、魏の乗ずる所と為り、自ら保全ぜざるを恐るるのみ」と。芝 対へて曰く、「呉・蜀の二国、四州の地なり。大王は命世の英なり、諸葛亮も亦 一時の傑なり。蜀に重険の固有り、呉に三江の阻有り。此の二長を合はすれば、共に脣歯と為り、進めば天下を並兼す可し、退けば鼎足して立つ可し。此れ理の自然なり。大王 今 若し魏に委質すれば、魏 必ずや上は大王の入朝を望み、下は太子の内侍を求めん。若し命に従はざれば、則ち辞を奉じて叛を伐ち、蜀も亦 流に順ひて可を見て進まん。此の如くんば、江南の地 復た大王の有に非ず」と。呉王 黙然として良に久しくて曰く、「君の言 是なり」と。遂に魏と絶へ、専ら漢と連和す。
是歳、漢主 妃の張氏を立てて皇后と為す。

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黄初五(224)年;徐盛が曹丕を打ち払う

黄初五年(甲辰、西元二二四年) 春二月、帝 許昌自り洛陽に還る。
初平より以来、学道 廃墜す。夏四月、初めて太学を立て、博士を置き、漢制に依りて『五経』課試の法を設く。
呉王 輔義中郎将たる呉郡の張温をして漢に聘せしむ。是自り、呉・漢 信使 絶えず。時事の所宜、呉主 常に陸遜をして諸葛亮に語らしむ。又 刻印 遜の所に置き、王 毎に漢主及び諸葛亮に書を与ふるとき、常に過ぎて遜に示し、軽重・可否 安ぜざる所有れば、毎に改定せしめ、印を以て之を封す。漢 復た鄧芝を遣はして呉に聘せしむ。呉主 之に謂ひて曰く、「若し天下 太平たれば、二主 分治す。亦た楽しからずや」と。芝 対へて曰く、「天に二日無く、土に二王無し。如し魏を並(あ)はすの後、大王 未だ深く天命を識り、君 各々其の徳を茂(さかん)にし、臣 各々其の忠を尽さずんば、将に枹鼓を提げ、則ち戦争 方に始むるのみ」と。呉王 大笑して曰く、「君の誠款 乃ち当に爾(これ)とすべきか」と。

秋七月、帝 東巡し、許昌に如く。帝 大いに軍を興して呉を伐たんと欲す。侍中の辛毗 諫めて曰く、「方今 天下 新たに定まり、土は広く民は稀なり。而るに之を用ゐんと欲せば、臣 誠に未だ其の利を見ざるなり。先帝 屢々鋭師を起し、江に臨めども旋(かえ)る。今 六軍 故より増さず、而るに復た之を循る。此れ未だ易からず。今日の計、養民・屯田するに若(し)しくは莫し。十年して然る後、之を用ゐれば、役 再び挙げず」と。帝曰く、「卿の意の如くんば、更めて当に虜を以て子孫に遺すや」と。対へて曰く、「昔 周文王 紂を以て武王に遺す。惟だ時を知るのみ」と。帝 従はず、尚書僕射の司馬懿を留めて許昌に鎮せしむ。
八月、水軍を為し、親ら龍舟を御し、蔡・潁を循り、淮に浮びて寿春に如く。

九月、広陵に至る。
呉の安東将軍の徐盛 計を建て、木を植へ葦を衣ひ、疑城・仮楼を為る。石頭自り江乗に至るまで、連綿として相接すること数百里、一夕にして成る。又 大いに舟艦を江に浮ぶ。
時に江水 盛長たり。帝 臨望して、嘆きて曰く、「魏 武騎千群有りと雖も、之を用ゐる所無し。未だ図る可からず」と。帝 龍舟を御するに、会々暴風 漂蕩し、幾(ほとんど)ど覆没に至る。帝 群臣に問ひて問く、「権 当に自ら来るべきや否や」と。咸曰く、「陛下 親征し、権 恐怖す。必ず国を挙げて応ぜん。又 敢へて大衆を以て之を臣下に委ねず。必ず当に自ら来るべし」と。劉曄曰く、「彼 謂ふ、陛下 万乗之重を以て己を牽かんと欲すれども、而るに江湖を超越するは別将に在り。必ず兵を勒して事を待て。未だ進退有らず」と。大駕 停住すること積日、呉王 至らず、帝 乃ち師を旋(かえ)す。是の時、曹休 表して降賊の辞を得たりと。「孫権 已に濡須口に在り」と。中領軍の衛臻曰く、「権 長江を恃み、未だ敢へて亢衡せず。此れ必ず偽辞を畏怖するのみ」と。降者を考核し、果して守将 作す所なり。

呉の張温 少くして俊才を以て盛名有り。顧雍 以為へらく当今に無輩なりと。諸葛亮 亦 之を重んず。温 同郡の暨艷を薦引して選部尚書と為す。艷 清議と為すを好み、百僚を弾射し、三署を覈奏し、率に皆 高を貶めて下に就け、数等を降損し、其の故(もと)を守る者、十に未だ能く一なし。其の居位 貪鄙にして、志節 汚卑たる者、皆 以て軍吏と為り、営府に置きて以て之に処す。多揚人闇昧之失以顕其謫。同郡の陸遜、遜の弟の瑁及び侍御史の朱拠 皆 之を諫止す。瑁 艷に書を与へて曰く、「夫れ聖人 善を嘉し愚を矜し、過を忘れて功を記し、以て美化を成す。如し今 王業 始めて建ち、将に大統に一にならんとす。此れ乃ち漢高 棄瑕・録用するの時なり。若し善悪をして異流せしめ、汝・潁の月旦の評を貴べば、誠に以て俗を厲ぎ教を明らかにす可し。然るに未だ行を易へざるを恐る。宜しく遠くは仲尼の泛愛を模し、近くは郭泰の容済に則るべし。庶はくは大道に益(えき)有らんことを」拠 艷に謂ひて曰く、「天下 未だ定らず、清を挙げ濁を厲ぎ、以て沮勧するに足る。若し一時 貶黜して、後咎有るを懼る」艷 皆 聴かず。是に於て怨憤 路に盈ち、争言して艷及び選曹郎の徐彪 専ら私情を用ゐ、憎愛 公理に由らず。艷・彪 皆 坐して自殺す。温 素より艷・彪と意を同じくし、亦 坐して斥けられ本郡に還りて以て廝吏に給し、家に卒す。始・温 用事に方盛し、余姚の虞俊 嘆きて曰く、「張恵恕 才は多く智は少なく、華にして不実なり。怨の聚まる所、覆家の禍有り。吾 其の兆を見る」と。幾何(いくばく)も無くして敗る。

冬十月、帝 許昌に還る。
十一月戊申晦、日 之を食する有り。
鮮卑の軻比能 歩度根の兄の扶羅韓を誘ひて之を殺す。歩度根 是に由り軻比能を怨み、更相 攻撃す。歩度根の部衆 稍々弱く、其の衆万余落を将ゐて太原・雁門に保す。是の歳、闕に詣りて貢献す。而るに軻比能の衆 遂に強盛たり、東部の大人の素利に出撃す。護烏丸校尉の田豫 虚に乗じて其の後を掎り、軻比能 別帥の瑣奴をして豫を拒ましめ、豫 之を撃破す。軻比能 是に由り攜貳し、数々辺寇を為す。幽・并 之に苦しむ。

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黄初六(225)年;曹丕が孫権を攻める

黄初六年(乙巳、西元二二五年)
春二月、詔して陳群を以て鎮軍大将軍と為し、車駕に隨ひて衆軍を董督し、録行尚書事せしむ。司馬懿を撫軍大将軍と為し、許昌に留め、後台の文書を督せしむ。三月、帝 行きて召陵に如(ゆ)き、討虜渠を通る。乙巳、許昌に還る。
并州刺史の梁習 軻比能を討ち、大いに之を破る。
漢の諸葛亮 衆を率ゐて雍闓等を討つ。参軍の馬謖 之を送ること数十里。亮曰く、「共に之を謀ること歴年と雖も、今 更めて良規を恵す可し」と。謖曰く、「南中 其の険遠なるを恃み、服せざること久し。今日 之を破ると雖も、明日 復た反くのみ。今 公 方に国を傾けて北伐し以て強賊を事とす。彼 官勢の内虚なるを知り、其の叛くこと亦た速やかなり。若し遺類を殄尽して以て後患を除けば、既に仁者の情に非ず。且つ又 倉卒す可からず。夫れ用兵の道、心を攻むるを上と為し、城を攻むるを下と為す。心戦を上と為し、兵戦を下と為す。願はくは公 其の心を服せしむる而已(のみ)」と。亮 其の言を納る。謖、良の弟なり。

辛未、帝 舟師を以て復た呉を征む。群臣 大議す。宮正の鮑勲 諫めて曰く、「王師 屢々征すれども未だ克つ所有らず。蓋し呉蜀の脣歯のごとく相ひ依るを以て、山水に憑阻し、難抜の勢有る故なり。往年 龍舟 飄蕩し、隔てて南岸に在り、聖躬 危を踏み、臣下 膽を破る。此の時 宗廟 幾(ほとん)ど傾覆するに至り、百世の戒と為る。今 又 兵を労し遠きを襲ひ、日に千金を費し、中国 虚耗し、黠虜をして玩威せしむ。臣 竊かに以為へらく可からず」と。帝 怒り、勲を左遷して治書執法と為す。勲、信の子なり。夏五月戊申、帝 譙に如く。

呉の丞相たる北海の孫劭 卒す。初め、呉 当に丞相を置くべきとき、衆議 張昭に帰す。呉王曰く、「方今 多事なり、職 大事にして責 重く、之を優とする所以に非ず」と。劭の卒するに及び、百僚 復た昭を挙ぐ。呉王曰く、「孤 豈に子布の為に愛有るや。丞相を領すれば事 煩たり、而るに此の公 性は剛たり、言ふ所は従はず、怨咎 将に興らんとす。之を益する所以に非ず」と。

六月、太常の顧雍を以て丞相と為し、平尚書事せしむ。雍 人と為りは寡言、挙動は時当、呉王 嘗て嘆じて曰く、「顧君 言はざれども、言 必ず中を有(たも)つ」と。飲宴・歓楽の際に至り、左右 酒失有るを恐れて、雍 必ず之を見る。是を以て敢へて情を肆(ほしい)ままにせず。呉王 亦た曰く、「顧公 座に在り、人をして楽しからざらしむ」と。其の憚からること此の如し。初め尚書令を領し、陽遂郷侯に封ぜらる。侯を拝して寺に還り、而るに家人 知らず。後に聞き、乃ち驚く。相と為るに及び、其の選用する所の文武の将吏、各々能に隨ひて任ぜられ、心に適莫無し。時に民間及び政職の宜しき所を訪逮し、輒ち密かに以て聞く。若し納用を見れば、則ち之を上に帰す。用ゐざれば、終に宣洩せず。呉王 此を以て之を重んず。然るに公朝に於て陳及する所有れば、辞色 順と雖も執る所は正なり。軍国の得失、自ら面に見はるること非ず、口 未だ嘗て言はず。王 常に中書郎をして雍を詣でしめ咨訪する所有り、若し雍の意と合へば、事 施行す可し。即ち相ひ与に覆究を反して之を論じ、為に酒食を設く。如し意に合はざれば、雍 即ち色を正して容を改め、黙黙として言はず、施設する所無し。郎 退きて王に告げ、王曰く、「顧公 歓悦すれば、是の事 合宜するなり。其れ言はざれば、是の事 未だ平ならざるなり。孤 当に之を思ふことを重ずべし」と。江辺の諸将、各々立功・自效せんと欲し、多く便宜を陳べ、掩襲する所有り。王 雍を訪ぬるを以てす。雍曰く、「臣 聞く。兵法 小利を戒む。此等の陳ぶる所、功名を邀して其の身の為にせんと欲す。国の為に非ず。陛下 宜しく禁制すべし。苟くも曜威・損敵するを以て足らざれば、宜しく聴くべからざる所なり」と。王 之に従ふ。
利成郡の兵たる蔡方等 反し、太守の徐質を殺し、郡人の唐咨を推して主と為す。屯騎校尉の任福等に詔して之を討平せしむ。咨 海道自り呉に亡入す。呉人 以て将軍と為す。

秋七月、皇子の鑑を立てて東武陽王と為す。
漢の諸葛亮 南中に至り、戦捷在る所、亮 越巂由(よ)り入(い)り、雍闓及び高定を斬る。庲降督たる益州の李恢をして益州由(よ)り入(い)らしめ、門下督たる巴西の馬忠 牂柯由り入り、諸県を撃破し、復た亮と合はさる。孟獲 闓の余衆を收めて以て亮を拒む。獲 素より夷為(た)りて、漢 服する所、亮 生を募りて之を致し、既に得て、営陳の間を観(かん)せしめ、問ひて曰く、「此の軍 何如(いかん)」と。獲曰く、「向者(さきごろ) 虚実を知らず、故に敗る。今 営陳を観する蒙賜す。若し只だ此の如くんば、即ち定めて勝ち易し」と。亮 笑ひて、縦ままに更めて戦はしむ。七縦七擒して亮 猶ほ獲を遣る。獲 止(とど)まりて去らず、曰く、「公、天威なり。南人 復た反さず」と。亮 遂に滇池に至る。
益州・永昌・牂柯・越巂の四郡 皆 平らぐ。亮 其の渠率に即して之を用ゐる。或ひと以て亮を諫む。亮曰く、「若し外人を留むれば、則ち当に兵を留むべし。兵 留まれば則ち食する所無く、一に易からず。加へて夷 新たに傷破し、父兄 死喪す。外人を留めて兵無くんば、必ず禍患を成さん。二に易からず。又、夷 累ねて廃殺の罪有り、自ら釁重を嫌ふ。若し外人を留むれば、終に相ひ信ぜず。三に易からず。今 吾 兵をして留まらざらしめんと欲す。糧を運ばず、而るに綱紀 粗(ほ)ぼ定まり、夷・漢 粗(ほ)ぼ安ずる故なり」と。亮 是に於て悉く其の俊傑たる孟獲等を收めて以て官属と為し、其の金・銀・丹・漆・耕牛・戦馬を出(いだ)さしめ以て軍国の用に給す。是自り亮の世を終はるまで、夷 復た反かず。

八月、帝 舟師を以て譙自り渦を循りて淮に入る。尚書の蒋済 表言すらく、水道 通じ難しと。帝 従はず。

冬十月、広陵の故城に如き、江に臨みて兵を観る。戎卒は十余万、旌旗は数百里、渡江の志有り。呉人 兵を厳め固守す。時に大いに寒く、冰り、舟 江に入るを得ず。帝 波濤の洶湧たるを見て、嘆じて曰く、「嗟乎(ああ)、固(まこと)に天 南北を限る所以なり」と。遂に帰る。孫韶 将の高寿等を遣り敢死の士 五百人を率ゐしめ、徑路に於いて夜に帝を要し、帝 大驚す。寿等 副車・羽蓋を獲て以て還る。是に於て戦船の数千 皆 滞りて行くことを得ず、議者 兵を就留して屯田せしめんと欲す。蒋済 以為へらく、「東は湖に近く、北は淮に臨む。若し水の盛時なれば、賊 寇を為し易し。屯を安ずる可からず」と。帝 之に従ひ、車駕 即ち発す。還りて、精湖に到る。水 稍々尽き、尽く船を留めて〈蒋〉済に付す。船 連延すること数百里中に在り、済 更めて地を鑿ちて四五道を作し、船を蹴りて聚(あつ)めしむ。豫め土豚を作りて湖水を遏断し、皆 後船を引く。一時 遏を開きて淮中に入り、乃ち還るを得たり。
十一月、東武陽王の鑑 薨ず。
十二月、呉の番陽賊の彭綺 郡県を攻没し、衆は数万人なり。

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黄初七(226)年;曹丕が崩御する

黄初七年(丙午、西元二二六年)
春正月壬子、帝 洛陽に還る。蒋済に謂ひて曰く、「事 曉らかにせざる可からず。吾 前に決謂分半焼船於山陽湖中、卿 後にて之を致し、略ぼ吾と俱に譙に至る。又 毎に陳ぶる所を得て、実に吾が意を入る。自今 討賊の計畫、善く之を思論せよ」と。
漢の丞相の亮 漢中に軍を出さんと欲す。前将軍の李厳 当に後事を知るべく、移りて江州に屯す。留護軍の陳到 永安に駐まり、厳を統属す。
呉の陸遜 所在に少穀なるを以て、表して諸将に農畝を増広せしむ。呉王 報いて曰く、「甚だ善し。孤なる父子をして親ら田・車中八牛を受けしめよ。以て四耦を為せば、未だ古人に及ばざると雖も、亦た衆と与に其の労を均等にせんと欲す」と。
帝の太子と為るや、郭夫人の弟 罪有り。魏郡西部都尉の鮑勲 之を治む。太子 請へども、得ること能はず、是に由り勲を恨む。即位するに及び、勲 数々直諫し、帝 益々之を忿る。帝 呉を伐ちて還り、陳留の界に屯す。勲 治書執法と為り、太守の孫邕 見(あ)ひて出で、勲を過ぐ。時に営塁 未だ成らず、但だ標埒を立つ。邕 邪ままに行き、正道に従はず。軍営令史の劉曜 之を推さんと欲す。勲 塹塁の未だ成らざるを以て、解止して挙げず。帝 之を聞き、詔して曰く、「勲 鹿を指して馬と作す。收めて廷尉に付せ」と。廷尉 法議し、「刑五歳を正せ」とす。三官 駁し、「律に依れば、罰金二斤なり」と。帝 大怒して曰く、「勲 活分無し。而るに汝等 之を縦ままにせんと欲す。三官より已下を收め刺奸に付せ。当に十鼠をして穴を同じくせしめよ」と。鐘繇・華歆・陳群・辛毗・高柔・衛臻等 勲の父の信 太祖に功あることを並びに表し、勲の罪を請はんと求む。帝 許さず。高柔 固執して詔命に従はず。帝 怒ること甚しく、柔を召して台に詣らしめ、使者をして承指して廷尉に至らしめて勲を誅す。勲 死し、乃ち柔をして寺に還らしむ。
驃騎将軍たる都陽侯の曹洪、家は富みて性は吝嗇なり。帝 東宮に在り、嘗て洪従(よ)り絹百匹を貸る。意を称へず、之を恨む。遂に客を捨て法を犯すを以て、下獄して当に死すべしとす。群臣 並びに救へども、能く得ること莫し。卞太后 帝を責怒して曰く、「梁・沛の間、子廉非(あら)ずんば今日有ること無し」と。又 郭后に謂ひて曰く、「曹洪をして今日 死せしめば、吾 明日 帝に敕して后を廃せしむ」と。是に於て郭后 泣涕して屢々請ひ、乃ち官を免かれ爵土を削るを得たり。
初め、郭后 子無く、帝 母をして平原王の叡を養はしむ。叡の母たる甄夫人の誅せらるを以て、故に未だ建てて嗣と為らず。叡 后に事ふること甚だ謹たり、后 亦た之を愛す。帝 叡と猟し、子母の鹿を見て、帝 親ら其の母を射殺し、叡に其の子を射よと命ず。叡 泣して曰く、「陛下 已に其の母を殺す。臣 復た其の子を殺すに忍びず」と。帝 即ち弓矢を放り、之の為に惻然とす。
夏五月、帝の疾 篤し。乃ち叡を立てて太子と為す。丙辰、中軍大将軍の曹真・鎮軍大将軍の陳群・撫軍大将軍の司馬懿を召して、並びに遺詔を受けて輔政せしむ。丁巳、帝 殂す。
太子 皇帝の位に即き、皇太后を尊びて太皇太后と曰ひ、皇后を皇太后と曰ふ。

初め、明帝 東宮に在り、朝臣に交らず、政事を問はず、惟だ書籍を潜思す。即位の後、群下 風采を想聞す。居ること数日、独り侍中の劉曄に見え、語るに日を尽す。衆人 側聴す。曄 既に出で、問ふ。「何如(いかん)」と。曰く、「秦始皇・漢孝武の儔なれども、才具 微かに及ばざるのみ」と。帝 初めて蒞政し、陳群 上疏して曰く、「夫れ臣下 雷同し、是非 相ひ蔽へば、国の大患なり。若し和睦せざれば則ち仇党有り、仇党有れば則ち毀誉 端無く、毀誉 端無くば則ち真偽 実を失ふ。此れ皆 深く察せざる可からず」と。

癸未、甄夫人に追謚して文昭皇后と曰ふ。
壬辰、皇弟の蕤を立てて陽平王と為す。
六月戊寅、文帝を首陽陵に葬る。

呉王 魏に大喪有るを聞き、秋八月、自ら将に江夏郡を攻めんとす。太守の文聘 堅守す。朝議 兵を発して之を救はんと欲す。帝曰く、「権 水戦に習ひ、敢へて下船して陸攻する所以は、冀はくは不備を掩ふなり。今 已に聘と相拒す。夫れ攻守 勢は倍す。終に敢へて久しからず」と。是より先、朝廷 治書侍御史の荀禹を遣はして辺方を慰労す。禹 江夏に到り、経する所の県兵及び所従の歩騎千人を発して山に乗り火を挙げしむ。呉王 遁走す。
辛巳、皇子冏を立てて清河王と為す。

呉の左将軍の諸葛瑾等 襄陽を寇す。司馬懿 之を撃破し、其の部将の張霸を斬る。曹真 又 其の別将を尋陽に破る。
呉の丹陽・呉・会の山民 復た寇を為し、属県を攻没す。呉王 三郡の険地を分けて東安郡を為(つく)り、綏南将軍の全琮を以て太守を領せしむ。琮 至り、賞罰を明らかにし、降付を招誘す。数年にして、万余人を得る。呉王 琮を召して牛渚に還し、東安郡を罷む。

冬十月、清河王の冏 卒す。
呉の陸遜 便宜を陳べ、呉王に以て施徳・緩刑、寛賦・息調するを勧む。又 云はく、「忠讜の言、極陳する能はず。小臣を容(い)ることを求め、数々以て聞を利す」と。王 報いて曰く、「『書』は『予 汝の弼に違ふ』と載す。而るに雲 敢へて極陳せず。何ぞ忠讜と為(な)すを得るや」と。是に於て有司をして尽く科條を写さしめ、使郎中の褚逢をして齎して以て遜及び諸葛瑾に就かしめ、意 安ぜざる所、之を損益せしむ。

十二月、鍾繇を以て太傅と為し、曹休を大司馬と為し、揚州を都督すること故の如し。曹真 大将軍と為り、華歆 太尉と為り、王朗 司徒と為り、陳群 司空と為り、司馬懿 驃騎大将軍と為る。歆 管寧に位を譲れども、帝 許さず。寧を徵して光禄大夫と為し、青州に敕して安車・吏従を給ひ、礼を以て発遣す。寧 復た至らず。

是歳、呉の交趾太守の士燮 卒す。呉王 燮の子の徽を以て安遠将軍と為し、九真太守を領せしめ、校尉の陳時を以て燮に代ふ。交州刺史の呂岱 交趾の絶遠なるを以て、「海南の三郡を分けて交州と為し、将軍の戴良を以て刺史と為せ」と表す。海東の四郡を広州と為し、岱 自ら刺史と為る。良を遣はして時を与にして南に入る。而るに徽 自ら交趾太守を署し、宗兵を発して良を拒み、良 合浦に留まる。交趾の栢鄰は、燮の挙吏なり。叩頭して徽を諫め、良を迎へしむ。徽 怒り、鄰を笞殺す。鄰の兄の治 宗兵を合せて撃てども、克たず。呂岱 上疏して徽を討たんと請ひ、兵三千人を督し、晨夜 海に浮びて往く。或ひと岱に謂ひて曰く、「徽 累世の恩を藉し、一州の付する所と為る。未だ軽んじ易からず」と。岱曰く、「今 徽 逆計を懐くと雖も、未だ吾が卒の至るを虞(おそ)れず。若し我 軍を潜めて軽挙すれば、其の無備を掩ひ、之を破ること必なり。稽留して速やかならざれば、心を生ずるを得せしめ、嬰城・固守し、七郡の百蛮 雲合・響応せん。智者有りと雖も、誰ぞ能く之を図らんか」と。遂に行ひ、合浦を過ぎ、良と俱に進む。岱 燮の弟子の輔を以て師友従事と為し、往きて徽を説かしむ。徽 其の兄弟六人を率ゐて出降し、岱 皆 之を斬る。
徽の大将軍の甘醴及び桓治 吏民を率ゐて共に岱を攻め、岱 奮撃し、之を破る。是に於いて広州を除き、復た交州と為すこと故の如し。岱 進みて九真を討ち、斬獲すること万を以て数ふ。又 従事を遣りて南に威命を宣べ、外に徼(もと)むりに暨(およ)び、扶南・林邑・堂明の諸王、各々使を遣はして呉に入貢せしむ。140814転載

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