-後漢 > 『資治通鑑』巻15 漢文帝の下を抄訳 (前169-155)

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前11年(前169) 賈誼が匈奴政策を論ず

漢文帝は、今回が最終回です。

賈誼の提言で、天子の子・劉武を梁王とする

冬,十一月,上行幸代。
春,正月,自代還。

冬11月、代国にゆく。春正月、代国より還る。

夏,六月,梁懷王揖薨,無子。賈誼復上疏曰:「陛下即不定製,如今之勢,不過一傳、再傳,諸侯猶且人恣而不制,豪植而大強,漢法不得行矣。陛下所以為籓扞及皇太子之所恃者,唯淮陽、代二國耳。代,北邊匈奴,與強敵為鄰,能自完則足矣;而淮陽之比大諸侯,廑如黑子之著面,適足以餌大國,而不足以有所禁御。方今制在陛下,制國而令子適足以為餌,豈可謂工哉!臣之愚計,願舉淮南地以益淮陽,而為梁王立後,割淮陽北邊二、三列城與東郡以益梁。不可者,可徙代王而都睢陽。梁起於新郪而北著之河,淮陽包陳而南揵之江,則大諸侯之有異心者破膽而不敢謀。梁足以扞齊、趙,淮陽足以禁吳、楚,陛下高枕,終無山東之憂矣,此二世之利也。當今恬然,適遇諸侯之皆少;數歲之後,陛下且見之矣。夫秦日夜苦心勞力以除六國之禍;今陛下力制天下,頤指如意,高拱以成六國之禍,難以言智,苟身無事,畜亂,宿祝,孰視而不定;萬年之後,傳之老母、弱子,將使不寧,不可謂仁。」
帝於是從誼計,徙淮陽王武為梁王,北界泰山,西至高陽,得大縣四十餘城。後歲餘,賈誼亦死,死時年三十三矣。徙城陽王喜為淮南王。

夏6月、梁懷王の劉揖が薨じた。子なし。
賈誼が復た上疏して曰く、「陛下 即ち製を定めず、今の勢の如く、一傳・再傳を過ぎず(諸侯の世襲が1世や2世で終わり)、諸侯 猶ほ且に人 恣ままにして制せず、豪 植ちて大いに強し。漢法 行なふをえず。陛下 以て籓扞と為す所 及び皇太子の恃む所の者は、唯だ淮陽・代の二国のみ。

淮陽王の劉武、代王の劉参は、天子の太子の弟(漢文帝の子)。

代は、匈奴に北邊し、強敵と隣と為り、能く自ら完うして則ち足る。而るに淮陽の大なる諸侯に比すれば、廑(わず)かに黑子の著面の如く、適々以て大なる國の餌となるに足り(大国にエサとして吸収されそうで)而るに以て禁御する所有るに足らず。
方今 制 陛下に在り、國を制して令子をして適々以て餌と為るに足らしむるは、豈に工と謂ふ可きや。臣の愚計、願はくは淮南の地を挙げて以て淮陽に益せ。梁王と為して立つる後、淮陽・北邊の二・三の列城を割きて、東郡とともに以て梁を益せ。可ならざれば、代王を徙して睢陽に都せしむべし。梁 新郪(汝南)に起ちて北は之を河に著はし、淮陽 陳を包みて南は之を江に揵せば、則ち大なる諸侯の異心有る者 膽を破りて敢へて謀らず。梁 以て齊・趙を扞するに足り、淮陽 以て吳・楚を禁ずるに足り、陛下 枕を高くして、終に山東の憂無く、此れ二世の利なり。

天子に近い信頼できる人物を要地に封王として配置すれば、漢文帝とその太子の時代に、疎遠で強大な諸侯が、長安に刃向かうことはないだろうと。

今 恬然たるに當り、適々諸侯の皆 少きに遇ふ。数歳の後、陛下 且に之を見よ。夫れ秦の日夜 苦心・勞力して以て六國の禍を除く。今 陛下の力 天下を制し、頤指すること意の如し。高拱して以て六國の禍を成し、言智を以て難し。苟しくも身 無事なれども、亂を畜はへ、祝を宿す。孰視して定めず。萬年の後、之を老母・弱子に傳ふれば、將に寧ならしめず。仁と謂ふ可からず」と。

いま天子は強く、諸侯は幼いので、藩王たちは平穏である。いまのうちに手を打って、天子に近い者を加増して要地に配置せねば、どうなるか。藩王たちが成長して、秦が統一する前の、戦国の六国のような割拠にもどってしまう。これは、天子の子孫のためにならんよと。
賈誼の封建に関する議論は、とても明白で、天子の権力強化に尽きる。

帝 是に於いて誼の計に從ひ、淮陽王の武を徙して梁王と為す。北は泰山に界り、西は高陽に至り、大縣の四十餘城を得せしむ。後に歲餘して、賈誼 亦た死す。死せる時 年三十三なり。

梁王の劉武が、どれほど活躍するかが、呉楚七国の乱を読むときの、重大な伏線となりました。これだけ賈誼に発言させたのだから、カギなんだろう。

城陽王の劉喜を(劉武の代わりに)淮南王とした。

晁錯が匈奴と戦うための兵法を述べる

匈奴寇狄道。
時匈奴數為邊患,太子家令穎川晁錯上言兵事曰:

匈奴 狄道(隴西)を寇す。
時に匈奴 數々邊の患と為る。太子家令たる穎川の晁錯 兵事を上言して曰く、

「《兵法》曰:『有必勝之將,無必勝之民。』由此觀之,安邊境,立功名,在於良將,不可不擇也。
臣又聞,用兵臨戰合刃之急者三:一曰得地形,二曰卒服習,三曰器用利。兵法:步兵、車騎、弓弩、長戟、矛鋋、劍楯之地,各有所宜;不得其宜者,或十不當一。士不選練,卒不服習,起居不精,動靜不集,趨利弗及,避難不畢,前擊後解,與金鼓之指相失,此不習勒卒之過也,百不當十。兵不完利,與空手同;甲不堅密,與袒裼同;弩不可以及遠,與短兵同;射不能中,與無矢同;中不能入,與無鏃同;此將不省兵之禍也,五不當一。故《兵法》曰:『器械不利,以其卒予敵也;卒不可用,以其將予敵也;將不知兵,以其主予敵也;君不擇將,以其國予敵也。』四者,兵之至要也。

「『兵法』曰く、『必勝の將有れども、必勝の民無し』と。此に由りて之を觀るに、邊境を安んじ、功名を立つるは、良將に在り。擇ばざる可からず。

だれが良将の候補がいて、晁錯はこれを言うんだろうなあ。

臣 又 聞く。用兵は戰に臨みて刃を合すの急なる者 三あり。一に曰はく、地形を得たり。二に曰く卒に習に服す。三に曰く器用 利なり。兵法いはく、步兵・車騎・弓弩・長戟・矛鋋・劍楯の地、各々宜しき所あり。

1つめ。武器ごとに有利な地形がことなる。

其の宜しきを得る者、或いは十にして一に當たらず。士 練を選ばず、卒に服習せず、起居 精からず、動靜 集はず、趨利 及ばず、難を避けて畢らず、前に擊ちて後に解き、金鼓の指と与に相ひ失なふ。此れ勒卒の過に習はざるなり。百にして十に當たらず。兵 利を完ふせず、空手と同じなり。甲 堅むること密ならず、袒裼と同じなり。弩 以て遠に及ぶ可からず、短兵と同じなり。射 中たる能はず、矢無きと同じなり。中たれども入る能はず、鏃無きと同じなり。此れ將 省兵の禍あり。五にして一に當らず。故に『兵法』曰く、『器械 利あらざれば、其の卒を以て敵に予(あた)ふなり。卒 用ふ可からざれば、其の將を以て敵に予ふなり。將 兵を知ざらざれば、其の主を以て敵に予ふなり。君 將を擇ばざれば、其の國を以て敵に予ふなり』四なる者、兵の至要なり。

不利なときに、ゴリ押しで戦ったら、国ごと相手に与えてしまうようなものだ。武器が有効活用できる地形や状況をつくって、戦いなさいと。


臣又聞:小大異形,強弱異勢,險易異備。夫卑身以事強,小國之形也;合小以攻大,敵國之形也;以蠻夷攻蠻夷,中國之形也。今匈奴地形、技藝與中國異,上下山阪,出入溪澗,中國之馬弗與也;險道傾仄,且馳且射,中國之騎弗與也;風雨罷勞,饑渴不困,中國之人弗與也;此匈奴之長技也。若夫平原、易地、輕車、突騎,則匈奴之眾易撓亂也;勁弩、長戟、射疏、及遠,則匈奴之弓弗能格也;堅甲、利刃,長短相雜,游弩往來,什伍俱前,則匈奴之兵弗能當也;材官騶發,矢道同的,則匈奴之革笥、木薦弗能支也;下馬地斗,劍戟相接,去就相薄,則匈奴之足弗能給也;此中國之長技也。以此觀之,匈奴之長技三,中國之長技五。陛下又興數十萬之眾以誅數萬之匈奴,眾寡之計,以一擊十之術也。

臣 又 聞く。小大 形を異にし、強弱 勢を異にす。險易 備へを異にす。夫れ身を卑しくて以て強に事ふは、小国の形なり。小を合せて以て大を攻むるは、敵國(対等な国)の形なり。蠻夷を以て蠻夷を攻むるは、中国の形なり。

おもしろい!形勢によって戦う方針が変わる。

今 匈奴の地形・技藝 中國と異なり。山阪を上下し、溪澗に出入すること、中國の馬 與(し)かず。險道の傾仄、且に馳せ且に射ること、中國の騎 與かず。風雨あれども勞を罷み、饑渴あれども困せざること、中國の人 與かざるなり。此れ匈奴の長技なり。

苛酷な環境での移動・戦闘は、匈奴のほうが優れていると。

夫の平原・易地・輕車・突騎の若きは、則ち匈奴の衆 撓亂すること易し。勁弩・長戟・射疏、遠くに及べば、則ち匈奴の弓 能く格はざる。堅甲・利刃、長短 相ひ雜じり、游弩 往來し、什伍 俱に前めば、則ち匈奴の兵 能く當らず。材官 騶發し、矢道 的を同じくすれば、則ち匈奴の革笥・木薦 支ふこと能はず。下馬 地斗し、劍戟 相ひ接し、去就 相ひ薄かれば、則ち匈奴の足 給す能はず。此れ中國の長技なり。

優れた兵器を作り、隊列を組んで乱戦をするなら、漢兵のほうが優れると。

此を以て之を觀るに、匈奴の長技 三あり、中國の長技 五あり。陛下 又 數十萬の衆を興して以て數萬の匈奴を誅てば、衆寡の計、一を以て十の術を擊つなり

匈奴に都合がいい話は3つにまとめて、漢に都合がいい話は5つに分解して、「漢に有利な点のほうが多いから、漢が勝てるよ」という。ちょっと危ないんじゃないかw


然ると雖も、兵は兇器なり。戰は危事なり。故に大を以て小と為し、強を以て弱と為す。俛仰の間に在るのみ。夫れ人の死を以て勝つことを爭へば、跌して振はず、則ち之を悔やむこと無及なり。帝王の道、萬全より出づ。

調子のいいことを言って、「漢が有利だ」といって天子をいい気分にさせ、しかし現実には慎重にね、と釘をさす。なんのために発言してるんだよw

今 胡・義渠・蠻夷の屬 降りて來たりて歸誼する者、其の衆は數千なり。飲食・長技 匈奴と同じなり。之に堅甲・絮衣・勁弓・利矢を賜ふべし。以て邊郡の良騎を益し、明將をして能く其の習俗を知らしめよ。其の心を和輯する者、陛下の明約を以て之を將ゐよ。

降伏してきた異民族には、匈奴とおなじ生活習慣をもち、匈奴とおなじ戦闘における長所を持った者がいる。彼らを辺境で兵として使えば、匈奴に対抗できると。

即ち險阻有れば、此を以て之に當てよ。平地・通道あれば、則ち輕車・材官を以て之を制せ。兩軍 相ひ表裡と為り、各々其の長技を用て、衡しく之を加ふるに衆を以てすれば、此れ萬全の術なり」

異民族の兵が強い地形では、彼らを使う。漢兵が強い地形では、漢兵を前に出す。そうすれば、どんな場合でも有利だと。筋の通った話。

帝 之を嘉し、錯に書を賜ひ、答を寵す。


晁錯が、守備のため、辺境への移住を促進

錯又上言曰:
「臣聞秦起兵而攻胡、粵者,非以衛邊地而救民死也,貪戾而欲廣大也,故功未立而天下亂。且夫起兵而不知其勢,戰則為人禽,屯則卒積死。夫胡、貉之人,其性耐寒;揚、粵之人,其性耐暑。秦之戍卒不耐其水土,戍者死於邊,輸者僨於道。秦民見行,如往棄市,因以謫發之,名曰『謫戍』;先發吏有謫及贅婿、賈人,後以嘗有市籍者,又後以大父母、父母嘗有市籍者,後入閭取其左。發之不順,行者憤怨,有萬死之害而亡銖兩之報,死事之後,不得一算之復,天下明知禍烈及己也。陳勝行戍,至於大澤,為天下先倡,天下從之如流水者,秦以威劫而行之之敝也。

錯 又 上言して曰く、
「臣 聞く。秦 起兵して胡・粵を攻むるは、邊地を衛るを以て民を死より救ふに非ず。貪戾にして廣大を欲すればなり。故に功 未だ立てずして天下 亂る。且つ夫れ起兵して其の勢を知らざれば、戰はば則ち人の禽と為り、屯すれば則ち卒に死を積ぬ。
夫れ胡・貉の人、其の性 寒を耐ふ。揚・粵の人、其の性 暑に耐ふ。秦の戍卒 其の水土に耐へず、戍者 邊に死し、輸者 道に僨す。秦の民 行を見ること、棄市に往くが如し。因に謫を以て之を發し、名づけて『謫戍』と曰ふ。

秦は貪欲を発揮して、中原の兵が適応できない環境まで、兵を送った。だから秦の民は、戦いにいくことを、刑罰を受けることと同じように見た。環境への適応を考えなかったから、秦はダメだと。

先に吏を發して謫及び贅婿・賈人有り、後に嘗て市籍有る者を以て、又 後に以て父母を大とす。父母 嘗て市籍有る者は、後に閭に入りて其の左を取る。

胡注による意味の検討は、488頁。賦役の課し方、辺境への移住のさせ方が公平ではなかったから、秦は滅亡を招いたという話らしい。

之を發すること不順なれば、行者 憤怨す。萬死の害有りて、銖兩の報亡し。死事の後、一算の復も得ず。天下 明らかに禍烈の己に及ぶを知る。勝を陳べ戍を行なひ、大澤に至り、天下の為に先倡す。天下 之に從ふこと水を流すが如き者、秦 威を以て劫して之を行なふことの敝なり。

胡人衣食之業,不著於地,其勢易以擾亂邊境,往來轉徙,時至時去。此胡人之生業,而中國之所以離南□也。今胡人數轉牧、行獵於塞下,以候備塞之卒,卒少則入。陛下不救,則邊民絕望而有降敵之心;救之,少發則不足,多發,遠縣才至,則胡又已去。聚而不罷,為費甚大;罷之,則胡復入。如此連年,則中國貧苦而民不安矣。陛下幸憂邊境,遣將吏發卒以治塞,甚大惠也。然今遠方之卒守塞,一歲而更,不知胡人之能。不如選常居者家室田作,且以備之,以便為之高城深塹;要害之處,通川之道,調立城邑,毋下千家。先為室屋,具田器,乃募民,免罪,拜爵,復其家,予冬夏衣、稟食,能自給而止。塞下之民,祿利不厚,不可使久居危難之地。胡人入驅而能止其所驅者,以其半予之,縣官為贖。其民如是,則邑里相救助,赴胡不避死。非以德上也,欲全親戚而利其財也;此與東方之戍卒不習地勢而心畏胡者功相萬也。以陛下之時,徙民實邊,使遠方無屯戍之事;塞下之民,父子相保,無系虜之患;利施後世,名稱聖明,其與秦之行怨民,相去遠矣。」
上從其言,募民徙塞下。

胡人の衣食の業、地に著ならず。其の勢 易にして以て邊境を擾亂す。轉徙を往來せしめ、時に至りて時に去る。此れ胡人の生業にして、中国の南□(耕地)を離るる所以なり。

匈奴は、土地に縛られずに生きる。だから辺境を乱すものの、中原の土地に入ってくるわけじゃない。彼らは農地がいらない。

今 胡人 數々牧を轉じ、獵を塞下に行なひ、以て備塞の卒を候し、卒に少なければ則ち入る。陛下 救はざれば、則ち辺民 絶望して降敵の心有り。之を救へば、少しく發せば則ち足らず、多く發せば、遠県より才に至らんとするに、則ち胡 又 已に去る。(兵を)聚めて罷めざれば、費は甚大と為る。之を罷むれば、則ち胡 復た入る。此の如きこと連年にして、則ち中国 貧苦して民 安ぜず。

守備兵が少ないと、匈奴は手を出してくる。守るにも、少ない兵では太刀打ちできないし、多い兵では間に合わず、またコストもかかる。だから兵を解散すると、また匈奴が手を出してくる。やりようがない。

陛下 幸にも邊境を憂ひ、將吏を遣りて卒を發して以て塞を治む。甚だ大いなる惠なり。然るに今 遠方の卒 塞を守り、一歲ごとに更むるは、胡人の能を知らざるなり。常居する者を選びて、室家・田作せしむるに如かず。且に以て之に備へ、以て便ち之を城を高くし塹を深くし、要害の處・通川の道を為るべし。

サキモリが大変だと思ったので、漢文帝は1年ごとの交代にしてあげた。だがノウハウがたまらず、真剣味もないので、防御力が落ちる。サキモリを固定して、彼らにノウハウを蓄積したほうがよいと。

調して城邑を立つるもの、千家を下らず。先に室屋を為り、田器を具へ、乃ち民を募り、罪を免じ、爵を拜せしめよ。其の家に復せば、冬夏の衣・稟食を予し、能く自給せしめて止む。

移住する者に、生活の準備と、漢家からの特典をあたえろ。そうすれば、移住する人が出てくるだろう。もし辺境から内地に戻ったなら、1年目は衣食住の面倒を見てあげて、2年目からは自給させる。もどることもできる、という制度をつくれば、辺境に移住してくれるのでは、と。

塞下の民、祿利 厚からず。久しく危難の地に居せしむ可からず。

禄利がうすければ、辺境に住みたくならない。メリットを大きくしてあげることで、移住が促進されるだろうと。

胡人 入驅すれども能く其の驅する所を止め、其の半を以て之に予へ、縣官 贖を為す。

匈奴が侵入して、辺境の漢人の畜産を略奪したら。その半額を漢家が買い取ったというかたちで、保障してあげる。

其の民 是の如くんば、則ち邑里 相ひ救助し、胡に赴きて死を避けず。以て上に德とするに非ず。

天子の徳=手柄を増やすために、移住政策をやるのでない。

親戚を全して、其の財を利せんと欲すなり。此れ東方の戍卒の地勢に習はずして心に胡を畏るものよりも功 相ひ萬す。

強敵から漢家を守る人々の功績は、たいした敵がいない東方の守備兵(彼らは漠然と匈奴を恐れるだけで何もしない)に比べれば、1万倍だと。

陛下の時を以て、民を徙して邊を實らせ、遠方をして屯戍の事を無からしめよ。塞下の民、父子 相ひ保ち、系虜の患無し。利 後世に施こし、名 聖明と稱せらる。其れ秦の行ひて民に怨まると、相ひ去ること遠きなり」と。
上 其の言に従ひ、民を募りて塞下に徙す。

これは採用された政策。めずらしい。


移住地の行政を整え、今冬の来寇に備える

錯復言:
「陛下幸募民徙以實塞下,使屯戍之事益省,輸將之費益寡,甚大惠也。下吏誠能稱厚惠,奉明法,存恤所徙之老弱,善遇其壯士,和輯其心而勿侵刻,使先至者安樂而不思故鄉,則貧民相慕而勸往矣。臣聞古之徙民者,相其陰陽之和,嘗其水泉之味,然後營邑、立城、制里、割宅,先為築室家,置器物焉。民至有所居,作有所用。此民所以輕去故鄉而勸之新邑也。為置醫、巫以救疾病,以修祭祀,男女有昏,生死相恤,墳墓相從,種樹畜長,室屋完安。此所以使民樂其處而有長居之心也。

錯 復た言ふ。
「陛下 幸にも民を募りて徙して以て塞下を實たしむ。屯戍の事の益省、輸將の費の益寡、甚だ大いなる惠なり。下吏 誠に能く厚き惠を稱へ、明法を奉り、徙す所の老弱を存恤し、善く其の壯士を遇す。其の心を和輯して侵刻せず。先に至る者をして安樂して故郷を思はしめず、則ち貧民 相ひ慕ひて往くことを勸む。

移住政策の成功をいい、天子をたたえる。

臣 聞く。古の徙民は、其の陰陽の和に相ひ、其の水泉の味を嘗め、然る後に營邑・立城・制里・割宅す。先に室家を築き、器物を焉に置く。民 至りて居する者所れば、作りて用ゐる所有り。此れ民 軽く々しく故郷を去りて新邑を勧むる所以なり。醫・巫を置き以て疾病を救ひ、以て祭祀を修め、男女 昏(結婚)有れば、生死 相ひ恤れみ、墳墓 相ひ従ふ。樹を種え畜 長じ、室屋 安を完うす。此 民をして其の處を楽しみて長居の心有らしむる所以なり。

移住した者を定着させるために、移住地の行政サービスについて言ってる。晁錯の話は、順調に聞き届けられている。


臣又聞古之制邊縣以備敵也,使五家為伍,伍有長;十長一里,里有假士;四里一連,連有假五百;十連一邑,邑有假候。皆擇其邑之賢材有護、習地形、知民心者。居則習民於射法,出則教民於應敵。故卒伍成於內,則軍政定於外。服習以成,勿令遷徙,幼則同游,長則共事。夜戰聲相知,則足以相救;晝戰目相見,則足以相識;歡愛之心,足以相死。如此而勸以厚賞,威以重罰,則前死不還踵矣。所徙之民非壯有材者,但費衣糧,不可用也;雖有材力,不得良吏,猶亡功也。 陛下絕匈奴不與和親,臣竊意其冬來南也;壹大治,則終身創矣。欲立威者,始於折膠;來而不能困,使得氣去,後未易服也。」
錯為人峭直刻深,以其辯得幸太子,太子家號曰「智囊」。

臣 又 聞く。古の制 邊縣 以て敵に備ふるや、五家をして伍と為し、伍に長有り。十長を一里とし、里に假士有り。四里を一連とし、連に假五百あり。十連を一邑とし、邑に假候有り。皆 其の邑の賢材・有護、地形に習ひ、民心を知る者を択ぶ。

辺境を防衛するための組織編成と、長官の専任について。

居れば則ち民に射法を習はしめ、出づれば則ち民に應敵を教ふ。故に卒伍 內に成り、則ち軍政 外に定まる。服習して以て成れば、遷徙せしむる勿かれ。

せっかく習熟したなら、内地に戻したら、もったいない。漢文帝による、1年交代では、ノウハウが蓄積せず、匈奴に対抗できないという話は、すでにあった。

幼くして則ち同游し、長ずれば則ち共事す。夜に戰へば聲 相ひ知り、則ち以て相ひ救ふに足る。晝に戰へば目 相ひ見て、則ち以て相ひ識るに足る。歡愛の心、以て相ひ死すに足る。

辺境の兵士のサラブレッドを育てれば、それ専用の集団ができ、匈奴に勝てるようになるかも。

此の如くして勸むるに厚賞を以てし、威すに重罰を以てすれば、則ち前みて死し踵を還さず。徙す所の民 壯にして材有らざれば(力が弱ければ)但だ衣・糧を費やす。用ゐる可からず。材力有りと雖も、良吏を得ざれば、猶ほ功を亡なふ。

兵士の素質や、指揮官の素質を見極めて用いろと。

陛下 匈奴と絶えて与に和親せず。臣 竊かに意ふ。其の冬 南に來るなりと。壹たび大いに治むれば、則ち終に身づから創るなり。威を立てんと欲すれば、折膠(秋)より始めよ。

秋になったら、膠を折って弓をつくれ。

來れば困すること能はず、氣をして去らしむを得て、後に未だ服せしむこと易からず」と。錯 人と為りは峭直・刻深にして、其の辯を以て太子に幸せらるを得たり。太子 家號して「智囊」と曰ふ。140619

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前12年(前168) 晁錯が爵位で財物を再配分

冬,十二月,河決酸棗,東潰金堤、東郡;大興卒塞之。
春,三月,除關,無用傳。

冬12月、黄河が酸棗で決壊し、東に流れて金堤をこわし、東郡に流れる。大いに卒を興して之を塞ぐ。
春3月、関を除き、傳を用ゐること無し。

傳とは「信」であり、通行証である。木でできた札を2つに分けて合わせる。
ぼくは思う。曹丕も即位直後に、通行税の撤廃をしてた。


晁錯が豪商の財物を、辺境の守兵の食糧に転じる

晁錯言於上曰:
「聖王在上而民不凍饑者,非能耕而食之,織而衣之也,為開其資財之道也。故堯有九年之水,湯有七年之旱,而國亡捐瘠者,以畜積多而備先具也。今海內為一,土地、人民之眾不減湯、禹,加以無天災數年之水旱,而畜積未及者,何也?地有遺利,民有餘力;生谷之土未盡墾,山澤之利未盡出,游食之民未盡歸農也。

晁錯 上に言ひて曰く。
「聖王 上に在りて民 凍饑せざるは、能く耕して之を食はしめ、織りて之に衣せしむに非ず。為に其の資財の道を開けばなり。

聖王は、みずから衣食を供給して、民に与えるのでない。民が、衣食を獲得できるような環境を整えるのである。

故に堯 九年の水有り、湯 七年の旱有れども、国に捐瘠(のたれ死ぬ)者亡きは、畜積の多きを以て備へて先に具ふればなり。今 海内 一と為る。土地・人民 衆くして、湯・禹よりも減ぜず。加へて天災の數年なる水・旱 無けれども、畜積(湯・禹に)未だ及ばざるは何ぞや。地に遺利有り、民に餘力有り、生穀の土 未だ墾を盡さず、山澤の利 未だ出を盡さず、游食の民 未だ盡くは歸農せず。

夏殷よりも国力があるはずの前漢で、夏殷ほどの備蓄がないから、天災や水害による被害をふせげない。じつは、まだ経済活動において、未開発・不徹底なものが残っていると。漢家の余力はすごい。


夫寒之於衣,不待輕暖;饑之於食,不待甘旨;饑寒至身,不顧廉恥。人情,一日不再食則饑,終歲不製衣則寒。夫腹饑不得食,膚寒不得衣,雖慈母不能保其子,君安能以有其民哉!明主知其然也,故務民於農桑,薄賦斂,廣畜積,以實倉廩,備水旱,故民可得而有也。民者,在上所以牧之;民之趨利,如水走下,四方無擇也。
夫珠、玉、金、銀,饑不可食,寒不可衣;然而眾貴之者,以上用之故也。其為物輕微易藏,在於把握,可以周海內而無饑寒之患。此令臣輕背其主,而民易去其鄉,盜賊有所勸,亡逃者得輕資也。粟、米、布、帛,生於地,長於時,聚於力,非可一日成也;數石之重,中人弗勝,不為姦邪所利,一日弗得而饑寒至。是故明君貴五穀而賤金玉。

夫れ寒の衣に於けるや、輕暖を待たず。饑の食に於けるや、甘旨を待たず。饑・寒 身に至れば、廉恥を顧みず。

寒いときは、美麗でなくても良いから、寒さをしのげる衣服がほしい。飢えたときは、美味でなくて良いから、飢えをしのげる食物がほしい。

人の情、一日にして再び食はざれば則ち饑え、歲を終へて衣を製らざれば則ち寒し。夫れ腹 饑えて食を得ず、膚 寒くして衣を得ざれば、慈母と雖も不能く其の子を保てず。君 安にか能く以て其の民を有つや。

1日食べず、冬が来るだけで、人間は衣食の不足に堪えられない。

明主 其の然るを知る。故に民を農桑に務めしめ、賦斂を薄くし、畜積を廣め、以て倉廩を實し、水旱に備ふ。故に民 得て有つ可し。民は、上在りて以て之を牧する所なり。民の利に趨ること、水の下に走るが如し。四方 擇ぶこと無し。

民は利得に目がくらむ。だから、着実な生産と、確実な備蓄を、天子が指導してやらねばならない。さもないと、アリとキリギリスみたいに、ただちに衣食が不足する。

夫れ珠・玉・金・銀、饑うれども食す可からず、寒けれども衣る可からず。然して衆貴なる者(富豪は)上を以て之を用ゐるの故なり。其れ物として軽微にして蔵し易く、把握に在りては、以て海內を周りて饑寒の患無かる可し。

金銀は価値が高く、小さくて持ち運びやすい。しかし食えないし、着られない。貨幣の要件を満たしている。その貨幣は流動性が高いので、、次につづく。

此れ臣をして軽々しく其の主に背かしめ、民をして其の郷を去ることをからしむ。盜賊をして勸めしむ所有り。亡逃する者をして軽々しく資を得せしむ。粟・米・布・帛は、地より生じ、時に長く、力を聚め、一日にして成る可きに非ず。數石の重さ、中人(力が中くらいの人)勝へず、姦邪をして利する所と為ず。一日に得ずして饑・寒 至る。是が故に明君 五穀を貴びて金玉を賤しむ。

穀物や布帛は、土地から生じるから人民を土地に縛り付け、ながい時間をかけて労働力を集約しないと製造できないから、秩序を安定させる。持って移動しようにも、持てない。また実利的である。だから聡明な君主は、金銀よりも穀物を重んじるのだと。支配しやすいから。


今農夫五口之家,其服役者不下二人,其能耕者不過百□,百□之收不過百石。春耕,夏耘,秋獲,冬藏,伐薪樵,治官府,給繇役;春不得避風塵,夏不得避暑熱,秋不得避陰雨,冬不得避寒凍,四時之間亡日休息;又私自送往迎來、弔死問疾、養孤長幼在其中。勤苦如此,尚復被水旱之災,急政暴賦,賦斂不時,朝令而暮改。有者半賈而賣,無者取倍稱之息,於是有賣田宅、鬻子孫以償責者矣。而商賈大者積貯倍息,小者坐列販賣,操其奇贏,日游都市,乘上之急,所賣必倍。故其男不耕耘,女不蠶織,衣必文采,食必粱肉;無農夫之苦,有仟伯之得。因其富厚,交通王侯,力過吏勢,以利相傾;千里游敖,冠蓋相望,乘堅、策肥,履絲、曳縞。此商人所以兼併農人,農人所以流亡者也。

今 農夫の五口の家、其の役(公事)に服する者 二人を下らず、其の能く耕す者 百□を過ぎず、百□の收 百石を過ぎず。

耕作に従事する者が少ないから、収穫も少ない。

春に耕し、夏に耘し、秋に獲し、冬に藏す。薪樵を伐り、官府に治め、繇役に給す。春に風塵を避くることを得ず、夏に暑熱を避くることを得ず、秋に陰雨を避くることを得ず、冬に寒凍を避くることを得ず。四時の間 日の休息する亡し。又 私に自ら送往・迎來し、死を弔らひ疾を問ひ、孤を養なひ幼を長ぜしむこと其の中に在り。

生きるための労働に忙殺される暮らし。

勤苦 此の如し。尚ほ復た水旱の災を被り、急政・暴賦、賦斂 時ならず、朝令して暮改す。

天災と悪政があったら、もう暮らしが立ちゆかん。

有れば半賈にて賣らしめ、無ければ倍稱の息を取り、是に於て田宅を賣る有り、子孫を鬻ぎて以て責を償なふ。

くるしい農民の暮らしの一方で、秩序を乱す商人という人種がいると。商人が関与すれば、財物を持つ者は、半値で売らされる。財物が無ければ、倍額の利息で金銭を貸し付けられ、生産基盤である田宅をてばなして、子孫まで借金の返済をさせられる。

而るに商賈の大なる者 貯を積み息を倍し、小なる者 坐列して販賣し、其の奇贏を操り、日に都市に游し、上の急なるに乘じ、賣る所 必ず倍すなり。

大商人は利息でもうけ、小商人は商品を売った利ざやでもうける。もうけるのは商人ばかりだと。

故に其の男 耕耘せず、女 蠶織せざるとも、必ず文采を衣て、必ず粱肉を食らふ。農夫の苦無く、仟伯の得有り。其の富厚たるに因り、王侯に交通し、力は吏勢を過ぎ、利を以て相ひ傾く。千里 游敖し、冠 相望を蓋ひ、乘堅・策肥して、履絲・曳縞す。

っぱな馬車をりっぱな馬にひかせ、着飾る。

り 此れ商人 農人を兼併する所以にして、農人 流亡する所以なり。

方今之務,莫若使民務農而已矣。欲民務農,在於貴粟。貴粟之道,在於使民以粟為賞罰。今募天下入粟縣官,得以拜爵,得以除罪。如此,富人有爵,農民有錢,粟有所渫。夫能入粟以受爵,皆有餘者也。取於有餘以供上用,則貧民之賦可損,所謂損有餘,補不足,令出而民利者也。今令民有車騎馬一匹者,復卒三人;車騎者,天下武備也,故為復卒。神農之教曰:『有石城十仞,湯池百步,帶甲百萬,而無粟,弗能守也。』以是觀之,粟者,王者大用,政之本務。令民入粟受爵至五大夫以上,乃復一人耳,此其與騎馬之功相去遠矣。爵者,上之所擅,出於口而無窮;粟者,民之所種,生於地而不乏。夫得高爵與免罪,人之所甚欲也;使天下人入粟於邊以受爵、免罪,不過三歲,塞下之粟必多矣。」 帝從之,令民入粟邊,拜爵各以多少級數為差。

方今の務、民をして農に務めしむるに若くは莫きのみ。民に農を務めんと欲すれば、粟をして貴ならしむるに在り。

粟の価値をあげること(物価を高くすること、に絞ってよいのか)。粟が貴重であれば、民はがんばって粟を生産するだろう。

粟を貴ならしむるの道は、民をして粟を以て賞罰を為すに在り。今 天下に募りて粟を縣官に入れしめ、得れば以て爵を拜せしめ、得れば以て罪を除かしむ。此の如くんば、富人 爵有り、農民 錢有り、粟 渫(散)ずる所有り。

粟により、爵位を買えて、刑罰を免れるなら、銭がある人は、粟をもとめる。粟をつくった民は、銭を獲得できる。国家がいきなり粟を買い取るのでなく、金がある人から金を出させる。国家は経済的には何も支出しない。爵位と刑罰という、国家が任意で割り振れるものしか差し出さない。経済的な元手はいらない。

夫れ能く粟を入れて以て爵を受くる者、皆 餘有り。有餘を取りて以て上用に供せしめ、則ち貧民の賦 損ず(減ず)可し。所謂 有餘を損じて、不足を補なひ(銭を)出しめて民に利とするなり。

爵位や刑罰をあがなう人々は、どうせ経済的に余裕のある人である。彼らは粟を手に入れるために、銭を出す。その銭は、粟をつくった民に流れる。うまい。

今 民の車騎・馬一匹有る者をして、卒三人に復せしめよ。

軍事的用途に転用させろ。車馬と馬を操るには、3人が必要。この3人を、民が馬車を乗り回すためでなく、国家の兵事のために働かせる。

車騎は、天下の武備なり、故に卒に復す。神農の教に曰く、『石城の十仞、湯池の百步、帶甲の百萬有るとも、粟無ければ、能く守らず』と。
是を以て之を觀るに、粟は王者の大用、政の本務なり。民をして粟を入るる者に爵を受けしむこと五大夫より以上に至り、乃ち一人に復せ。此れ其の騎馬の功と相ひ去ること遠し。
爵は、上の擅ままにする所、口より出でて窮無し。粟は、民の種うる所、地より生じて乏しからず。夫れ高爵と免罪とは、人の甚だ欲する所なり。天下の人をして粟を邊に入れて、以て爵を受け罪を免ぜしめよ。

爵位と免罪のために集まった粟は、辺境の守備兵の食物にまわす。けっきょく、富裕な商人から財物を吐き出させ、それを辺境の守兵の食糧に変換するというアイディア。すげえ。

三歲を過ぎずして、塞下の粟 必ずや多からん」と。
帝 之に従ひ、民をして粟を邊に入れしめ、爵を拜するもの各々多少を以て級數 差と為す。

ときに600石を入れたら上造、4000石を入れたら五大夫、12000石を入れたら大庶長にしてもらえた。


錯復奏言:「陛下幸使天下入粟塞下以拜爵,甚大惠也。竊恐塞卒之食不足用,大渫天下粟。邊食足以支五歲,可令入粟郡縣矣;郡縣足支一歲以上,可時赦,勿收農民租。如此,德澤加於萬民,民愈勤農,大富樂矣。」

錯 復た奏言す。「陛下 幸いにも天下をして粟を塞下に入れしめ以て爵を拜す。甚だ大なる惠なり。竊かに恐る、塞卒の食 用ゐるに足らず、大いに天下の粟を渫(散)ずることを。

辺境にばかり粟が集まると、国内が飢える。だから、辺境に充分に備蓄できたら、つぎは国内に配るようにと。再配分に次ぐ、再配分のアイディア。

邊の食 足るに以て五歲を支ふれば、入粟を郡縣に入れしむ可し。郡縣 一歲以上を支ふるに足れば、時に赦す可し。農民の租を收む勿れ。此の如くんば、德澤 萬民に加はり、民 愈々勤農し、大いに富樂たり」と。

辺境に5年、内地の郡県に1年分の備蓄ができれば、民からの租税を免除する。これだけ備蓄すれば充分だからと。理想的な再配分。


上復從其言,詔曰:「道民之路,在於務本。朕親率天下農,十年於今,而野不加辟,歲一不登,民有饑色;是從事焉尚寡而吏未加務。吾詔書數下,歲勸民種樹而功未興,是吏奉吾詔不勤而勸民不明也。且吾農民甚苦而吏莫之省,將何以功焉!其賜農民今年租稅之半。」

上 復た其の言に從ひ、詔して曰く。「道民の路、本を務むるに在り。朕 親ら天下の農を率ゐ、十年して今に於る。而るに野 辟を加へず、歲一 登らざれば(1年でも収穫がないと)民に饑色有り。是の從事(勧農政策)焉に尚ほ寡くして吏 未だ務を加へず。吾が詔書 數々下し、歲々民に種樹を勸むれども、功 未だ興らず。是れ吏 吾が詔を奉りて勤めずして民に勸むること明ならざるなり。且つ吾が農民 甚だ苦しくして吏 之を省くこと莫し。將に何を以て焉を功とするや。其れ農民に今年の租稅の半を賜へ」と。140619

数年にわたって勧農の政策を命じてきたが、役人がきちんと政策を実行して、民を善導しないものだから、備蓄が堪らない。とりあえず、1年の半分の租税を免除するから、もっと勧農と備蓄をがんばれと。

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(前167-164) 肉刑を除き、五帝を祭る

前十三年(前167)肉刑を除く

春,二月,甲寅,詔日;「朕親率天下農耕以供粢盛,皇后親桑以供祭服;其具禮儀。」
初,秦時祝官有祕祝,即有災祥,輒移過於下。夏,詔曰:「蓋聞天道,禍自怨起而福繇德興,百官之非,宜由朕躬。今祕祝之官移過於下,以彰吾之不德,朕甚弗取。其除之!」

春2月甲寅、詔して日く。「朕 親ら天下の農耕を率ゐて以て粢盛(器に盛った稷)を供す。皇后 親ら桑して以て祭服に供す。其れ禮儀を具へよ」と。
初め、秦時 祝官に祕祝有り。即ち災祥有れば、輒ち下に移過す。夏、詔して曰く、「蓋し天道を聞くに、禍 怨より起りて、福 德の興るに繇(由)る。百官の非、宜しく朕の躬に由るべし。今 祕祝の官 下に移過して、以て吾の不德を彰にす。朕 甚だ取らず。其れ之を除け」と。

曹丕は、天災の責任は、三公ではなく自分にあると言った。


齊太倉令淳於意有罪,當刑,詔獄逮系長安。其少女緹縈上書曰:「妾父為吏,齊中皆稱其廉平;今坐法當刑。妾傷夫死者不可復生,刑者不可復屬,雖後欲改過自新,其道無繇也。妾願沒入為官婢,以贖父刑罪,使得自新。」
天子憐悲其意,五月,詔曰:「《詩》曰:『愷弟君子,民之父母。』今人有過,教未施而刑已加焉,或欲改行為善而道無繇至,朕甚憐之!夫刑至斷支體,刻肌膚,終身不息,何其刑之痛而不德也!豈為民父母之意哉!其除肉刑,有以易之;及令罪人各以輕重,不記逃,有年而免。具為令!」

齊の太倉令の淳於意 罪有りて、刑に當たり、詔獄 逮びて(追捕して)長安に系ぐ。其の少女(淳于意の娘)緹縈して上書して曰く。「妾の父 吏と為り、齊中 皆 其の廉平を稱ふ。今 法に坐して刑に當たる。妾 夫を傷つけて死せしむれば復た生く可からず。刑は復た属す可からず。

淳于意の娘は「私の父が罪を犯した。もしも死刑にしたら、あとから冤罪が発覚しても、刑罰を取り消すことができない。生き返れないから」と。

後に過を改めて自ら新(あらた)めんと欲すと雖も、其の道 繇(由)ること無し。妾 願はくは沒入して官婢と為り、以て父の刑罪を贖ひ、得て自ら新めしめよ」

私がドレイになるから、父の死刑を免除してと。ドレイの身分から、もとの爵位に復することなら、まだ可能である。

天子 其の意を憐悲す。五月、詔して曰く、「『詩』に曰く、『愷弟の君子、民の父母たり』と。今 人 過有りて、教 未だ施さずして刑 已に焉に加ふ。或もの行を改めて善を為さんと欲すれども、道に繇りて至ること無く(刑罰を撤回できず)朕 甚だ之を憐れむ。夫れ刑の支體を斷ち、肌膚に刻み、終身に息まざるに至れば、何ぞ其の刑 痛にして德たらざるや。

死刑だけでなく、手足の切断やイレズミも、取り消しがきかない。こんな刑罰をするのは、徳があって、民の父母であるはずの君主がやることか。違うよね。

豈に民の父母たるの意あるや。其れ肉刑を除き、有れば以て之に易へよ。令を及ぼして罪人をして各々輕重を以て、亡逃せざれば(逃げなければ)有年して免ぜよ。具さに令をつくれ」と。

丞相張蒼、御史大夫馮敬奏請定律曰:「諸當髡者為城旦、舂;當黥者髡鉗為城旦、舂;當劓者笞三百;當斬左止者笞五百;當斬右止及殺人先自告及吏坐受賕、枉法、守縣官財物而即盜之、已論而復有笞罪皆棄市。罪人獄已決為城旦、舂者,各有歲數以免。」制曰:「可。」

丞相の張蒼、御史大夫の馮敬 奏して律を定むることを請ひて曰く、「諸れ髡に當たる者は、城旦・舂と為せ。

髡は、髪を剃る刑罰。城旦は、男が城の修繕をする労役刑。舂は、女がうすづいて穀物を加工する労役刑。どちらも4年。

黥鉗に當る者は髡と為し、城旦・舂と為せ。劓に當る者は、笞三百とせよ。左止(左足)を斬るに當る者は、笞五百とせよ。右止(右足)を斬るに當る者、及び殺人して先に自ら吏ぐるもの、及び吏の受賕・枉法に坐すもの、縣官の財物を守りて即ち之を盜むもの、已に論ぜられ復た笞罪有るもの、皆 棄市せよ。罪人の獄 已に決して城旦・舂となる者、各々歲數有りて以て免ぜよ」と。制して曰く、「可」と。

いずれも刑罰を軽減して、労役刑か、せいぜいムチ打ち。


◆名君としての到達点

是時,上既躬修玄默,而將相皆舊功臣,少文多質。懲惡亡秦之政,論議務在寬厚,恥言人之過失,化行天下,告訐之俗易。吏安其官,民樂其業,畜積歲增,戶口浸息。風流篤厚,禁罔疏闊,罪疑者予民,是以刑罰大省,至於斷獄四百,有刑錯之風焉。
六月,詔曰:「農,天下之本,務莫大焉。今勤身從事而有租稅之賦,是為本末者無以異也,其於勸農之道未備。其除田之租稅。」

是の時、上 既に躬づから玄黙(寡黙)を修め、而して將相 皆 舊き功臣なり。文少なく質多し。亡秦の政を懲惡し、論議 務むれば寬厚に在り。人の過失を言ふを恥じ、化(教化)天下に行はる。告訐の俗 易はる。

下から上に意見をいう風潮になった。

吏 其の官に安じ、民 其の業を楽しむ。畜積 歲ごとに增し、戶口 浸々息む。風流は篤厚にして、禁罔は疏闊なり。罪疑は民に予け(預け)、是を以て刑罰 大いに省かる。,斷獄に至るもの四百、刑錯(刑罰を見送る)の風有り。

漢文帝が死ぬのかという、ほめかた。

6月、詔して曰く。「農は、天下の本なり。務め焉より大なる莫し。今 身に勤めて從事すれども租稅の賦有り。是れ本末(農業と商業)以て異なること無し。其れ勸農の道 未だ備はらず。其れ田の租稅を除け」と。

農業からも商業からも、税収がある。いま農業を勧めたいのだから、商業の課税をそのままに、農業からの課税をなくせば、人々の労働力は商業よりも農業に仕向けられるだろう。


前十四年(前166)匈奴を討つため魏尚を登用

冬,匈奴老上單于十四萬騎入朝那、蕭關,殺北地都尉卬,虜人民畜產甚多;遂至彭陽,使奇兵入燒回中宮,候騎至雍甘泉。帝以中尉周舍、郎中令張武為將軍,發車千乘、騎卒十萬軍長安旁,以備胡寇;而拜昌侯盧卿為上郡將軍,甯侯魏□為北地將軍,隆慮侯周灶為隴西將軍,屯三郡。上親勞軍,勒兵,申教令,賜吏卒,自欲征匈奴。群臣諫,不聽;皇太后固要,上乃止。於是以東陽侯張相如為大將軍,成侯董赤、內史欒布皆為將軍,擊匈奴。單于留塞內月餘,乃去。漢逐出塞即還,不能有所殺。

冬、匈奴の老上單于が荒らしまわる。はぶく。将軍を任じて、天子は自ら匈奴を征圧したい。群臣が諌めるが、きかず。皇太后がかたく制止して、天子は止めた。単于が去り、漢軍が追ったが匈奴を殺せない。

地図を書いてみたら、いかに長安のそばが、匈奴に脅かされているのか分かって、おもしろいんだろうなあ。匈奴との戦いを描いたら面白いのは、やはり圧倒的に武帝。文帝のときは、成果が出ないなー、という話にしかならない。
武帝が衛青を探したように、文帝も有能な将軍を探すのが、次の話。


上輦過郎署,問郎署長馮唐曰:「父家安在?」對曰:「臣大父趙人,父徙代。」上曰:「吾居代時,吾尚食監高祛數為我言趙將李齊之賢,戰於巨鹿下。今吾每飯意未嘗不在巨鹿也。父知之乎?」唐對曰:「尚不如廉頗、李牧之為將也。」上搏髀曰:「嗟乎!吾獨不得廉頗、李牧為將!吾豈憂匈奴哉!」唐曰:「陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也。」

上の輦 郎署を過ぐ。郎署長の馮唐に問ひて曰く、「父の家 安(いづこ)にか在る」と。對へて曰く、「臣の大父 趙の人なり。父 代に徙さる」と。上曰く、「吾 代に居る時、吾が尚食監の高祛 數々我の為に趙將の李齊の賢を言ひ、巨鹿の下に戰かふ。

天子のもとの封地にちなんで、名将をさがしてる。現地にいるとき、食事をつかさどった官僚が、趙地の伝説の武将について話し、天子の期待を刺激した。

今 吾れ飯の每に意 未だ嘗て巨鹿に在らざるなし。父 之を知るや」と。唐 對へて曰く、「尚ほ廉頗・李牧の將たるに如かず」と。

うわさの李斉という武将は、春秋戦国期の廉頗や李牧よりも、武将っぷりが上なんだと。天子は、李斉が欲しくて仕方がなくなる。匈奴を退けるために。

上 髀を搏ちてく、「ああ、吾 独り廉頗・李牧の將たるを得れば、吾 豈に匈奴を憂ふや」と。唐曰く、「陛下 廉頗・李牧を得ると雖も、能く用ゐず」と。

廉頗や李牧のような武将がいれば、天子は匈奴のことを心配しなくてよくなる。いまウワサの李斉は、その廉頗や李牧を上回るという。天子の期待は、高まりまくる。しかし話し相手の馮唐は、天子が李斉を使いこなせないという。なぜか。
馮唐が活躍できる環境と権限を与えないだろうからだ、というのが、次の段落の話。


上怒,起,入禁中,良久,召唐,讓曰:「公奈何眾辱我,獨無間處乎!」唐謝曰:「鄙人不知忌諱。」上方以胡寇為意,乃卒復問唐曰:「公何以知吾不能用廉頗、李牧也?」
唐對曰:「臣聞上古王者之遣將也,跪而推轂,曰:『閫以內者,寡人制之;閫以外者,將軍制之。』軍功爵賞皆決於外,歸而奏之,此非虛言也。臣大父言:李牧為趙將,居邊,軍市之租,皆自用饗士;賞賜決於外,不從中覆也。委任而責成功,故李牧乃得盡其智能;選車千三百乘,彀騎萬三千,百金之士十萬,是以北逐單于,破東胡,滅澹林,西抑強秦,南支韓、魏。當是之時,趙幾霸。其後會趙王遷立,用郭開讒,卒誅李牧,令顏聚代之;是以兵破士北,為秦所禽滅。今臣竊聞魏尚為雲中守,其軍市租盡以饗士卒,私養錢五日一椎牛,自饗賓客、軍吏、舍人,是以匈奴遠避,不近雲中之塞。虜曾一入,尚率車騎擊之,所殺甚眾。夫士卒盡家人子,起田中從軍,安知尺籍、伍符!終日力戰,斬首捕虜,上功幕府,一言不相應,文吏以法繩之,其賞不行,而吏奉法必用。臣愚以為陛下賞太輕,罰太重。且雲中守魏尚坐上功首虜差六級,陛下下之吏,削其爵,罰作之。由此言之,陛下雖得廉頗、李牧,弗能用也!」
上說。是日,令唐持節赦魏尚,復以為雲中守,而拜唐為車騎都尉。

上 怒り、起ちて禁中に入る。良に久しくして、唐を召して讓(せ)めて曰く、「公 奈何ぞ衆いに我を辱むるや。獨り間處無きや」と。唐 謝して曰く、「鄙人 忌諱を知らず」と。上 方に胡寇の意と為るを以て、乃ち卒かに復た唐に問いて曰く、「公 何を以て知るか。吾 能く廉頗・李牧を用ゐざるを」と。
唐 對へて曰:「臣 聞く。上古の王者の將を遣ふや、跪きて轂(くるま)を推し、曰く、『閫(門のくい)の内なるを以て、寡人 之を制す。閫の外なるを以て、將軍 之を制せ』と。軍功・爵賞 皆 外に決し、歸りて之を奏せ。此れ虛言に非ず。臣の大父 言はく、李牧 趙將と為り、邊に居り、軍市の租、皆 自ら饗士に用ふ。賞賜 外に決し、中覆に従はず。

李牧が趙将となったとき、賞罰も、税の使い道も、中央を無視して、ぜんぶ彼が決めた。ここまで絶対的な権限を地方の将軍に与えないと、匈奴を破るほどの強さは発揮できないと。天子が、そこまでの権限委任をする気があるなら、李牧のような将を使えるだろうが、それだけの度量があるかねと。

任を委ねて功を成すことを責むれば、故に李牧 乃ち其の智能を盡くすことを得ん。車千三百乘、彀騎萬三千、百金の士十萬を選び、是を以て北に單于を逐ひ、東胡を破り、澹林を滅し、西に強秦を抑へ、南に韓・魏を支ふ。是の時に當り、趙 霸たるに幾(ちか)し。其の後 會々趙王 遷りて立ち、郭開の讒を用ゐ、卒に李牧を誅し、顏聚をして之に代へしむ。是を以て兵は破れ士は北(やぶ)れ、秦の禽滅する所と為る。

やっと次から本題です。魏尚を推挙します。

今 臣 竊かに聞く、魏尚 雲中守と為り、其の軍市の租 盡く以て士卒を饗し、私に錢五日一椎牛を養なひ、自ら賓客・軍吏・舍人を饗す。是を以て匈奴 遠避し、雲中の塞に近づかず。虜 曾て一たび入り、尚 車騎を率ゐて之を擊ち、殺す所 甚だ衆し。夫れ士卒 家人の子を盡くし、田中に起ちて從軍す。安んぞ尺籍・伍符を知るや。

中央からの命令書によって動いたのではない。魏尚が、まるで君主のように、賞罰をやり、散財してもてなしたから、兵士たちは付いてきた。もし天子に、魏尚を使いこなす(というか魏尚を放任する)器量があるなら、匈奴に勝てるだろうと。

終日 力戰し、斬首・捕虜し、功を幕府に上す。一言も相ひ應ぜず、文吏 法を以て之を繩し、其の賞 行はず。而るに吏 法を奉りて必ず用ゐる。臣愚 以為へらく陛下の賞 太だ輕く、罰 太だ重し。且つ雲中守の魏尚 功の首虜差六級を上るに坐し、陛下 之を吏に下し、其の爵を削り、之に罰を作す。此に由りて之を言へば、陛下 廉頗・李牧を得ると雖も、能く用ゐず」と。
上 說ぶ。是の日、唐をして持節せしめ、魏尚を赦して復して以て雲中守と為す。而して唐をして車騎都尉を拜せしむ。

春,詔廣增諸祀壇場、珪幣,且曰:「吾聞祠官祝釐,皆歸福於朕躬,不為百姓,朕甚愧之。夫以朕之不德,而專饗獨美其福,百姓不與焉,是重吾不德也。其令祠官致敬,無有所祈!」
是歲,河間文王辟強薨。
初,丞相張蒼以為漢得水德,魯人公孫臣以為漢當土德,其應,黃龍見;蒼以為非是,罷之。

春、詔して諸祀の壇場(土壇)・珪幣(供物)を廣增せしめ、且つ曰く、「吾 聞く。祠官の祝釐(祝福)、皆 福を朕の躬に歸し、百姓の為とせず。朕 甚だ之を愧づ。夫れ朕の不德を以て、而るに饗を專らにして獨り其の福を美とし、百姓 焉に與らざる。是れ吾が不德を重くす。其れ祠官をして敬を致さしめ、祈る所有る無かれ」と。

祭祀による祝福を、百姓と共有する。祭祀とは何か、なんのために祭祀するか、という根本的な認識において、天子はほかの君主たちと違うのかも。名君だなあ、という話。

是の歲、河間文王の劉辟強 薨ず。
初め、丞相の張蒼 以為へらく漢は水德を得たりと。魯人の公孫臣 以為へらく漢 土德に當たると。其れ應じて、黃龍 見はる。蒼 以為へらく是を非とし、之を罷る。140619

文帝前十五年(前165)天子が雍で五帝に会う

春,黃龍見成紀。帝召公孫臣,拜為博士,與諸生申明土德,草改歷、服色事。張蒼由此自絀。
夏,四月,上始幸雍,郊見五帝,赦天下。
九月,詔諸侯王、公卿、郡守舉賢良、能直言極諫者,上親策之。太子家令晁錯對策高第,擢為中大夫。錯又上言宜削諸侯及法令可更定者書凡三十篇。上雖不盡聽,然奇其材。

春、黃龍 成紀(天水)に見はる。帝 公孫臣を召し、拜せしめて博士と為す。諸生と与に土德を申明し、改歷・服色の事をを草(創)せしむ。張蒼 此に由りて自ら絀す。
夏4月、上 始めて雍に幸き、郊にて五帝に見へ、天下を赦す。

秦は、白帝・赤帝・黄帝・青帝を雍にまつり、漢高帝は黒帝を祭る。だから、五帝である。

9月、諸侯王・公卿・郡守に詔して賢良にして能く直言・極諫する者を挙げしめ、上 親ら之を策す。太子家令の晁錯が對策 高第たりて、擢され中大夫と為る。錯 又 上言して宜しく諸侯及び法令を削りて更定す可きとす。書は凡そ三十篇なり。上 盡くは聽かずと雖も、然るに其の材を奇とす。

是歲,齊文王則、河間哀王福皆薨,無子,國除。
趙人新垣平以望氣見上,言長安東北有神氣,成五采,於是作渭陽五帝廟。

是の歳、齊文王の劉則、河間哀王の劉福 皆 薨じ、子無く、國 除かる。
趙人の新垣平 望氣を見上するを以て、長安の東北に神氣有りと言ふ。五采と成り、是に渭陽の五帝廟を作る。

文帝前十六年(前164)玉杯により改元する

夏,四月,上郊祀上帝於渭陽五帝廟。於是貴新垣平至上大夫,賜累千金;而使博士、諸生刺《六經》中作《王制》,謀議巡狩、封禪事。又於長門道北立五帝壇。
徙淮南王喜復為城陽王,又分齊為六國;丙寅,立齊悼惠王子在者六人:楊虛侯將閭為齊王,安都侯志為濟北王,武成侯賢為菑川王,白石侯雄渠為膠東王,平昌侯卬為膠西王,扐侯辟光為濟南王。淮南厲王子在者三人:阜陵安為淮南王,安陽侯勃為衡山王,陽周侯賜為廬江王。

夏4月、上(天子)上帝を渭陽の五帝廟に郊祀す。是に於て新垣平を貴びて上大夫に至らしめ、累ねて千金を賜ふ。而して博士・諸生をして、『六經』の中より刺して『王制』を作らしむ。巡狩・封禪の事を謀議せしむ。

『六経』のなかから採取して、『礼記』王制篇をつくった。

又 長門道の北に五帝壇を立つ。
淮南王の劉喜を徙して復た城陽王と為す。又 斉を分けて六国と為す。丙寅、齊悼惠王の子の在る者 六人を立つ。六人の名をはぶく。

秋,九月,新垣平使人持玉杯上書闕下獻之。平言上曰:「闕下有寶玉氣來者。」已,視之,果有獻玉杯者,刻曰「人主延壽」。平又言:「臣侯日再中。」居頃之,日卻,復中。於是始更以十七年為元年,令天下大酺。平言曰:「周鼎亡在泗水中。今河決,通於泗,臣望東北汾陰直有金寶氣,意周鼎其出乎!兆見,不迎則不至。」於是上使使治廟汾陰南,臨河,欲祠出周鼎。

秋9月、新垣平 人をして玉杯を持せしめ闕下に上書して之を獻ず。平 言上して曰く、「闕下に寶玉の氣 來たる有り」と。

奇蹟の「やらせ」である。神秘的な古代ロマンが漂いそうな前漢(三国がメインの者の偏見)ですら、こういう、やらせがあるから、おもしろい。

已にして、之を視て、果して玉杯を獻ずる者有り。刻みて「人主 延壽たり」と曰ふ。平 又 言ふ、「臣 日の再び中す(1日に2回、太陽が南中する)を侯ふ」と。居りて之の頃、日 却りて、復た中す。是に於て始めて更めて十七を以て元年と為す。天下をして大酺せしむ。

漢律では、理由なく3人以上が宴会すると罰せられる。それを赦した。曹丕も同じことをしてた。恩徳を示す、常套手段なのか。

平 言ひて曰く、「周の鼎 亡はれて泗水の中に在り。今 河 決し、泗に通ず。臣 東北の汾陰を望むに、直に金宝の気有り。周の鼎 其に出づるを意すや。兆 見はる。迎へざれば則ち至らず」と。是に於て上 使をして廟を汾陰の南に治せしめ、河に臨み、祠りて周鼎を出さんと欲す。140619

周の正統性が、秦を飛ばして漢に継承されるという象徴。

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(前163-157) 申屠嘉と周亜夫の登場、天子崩御

改元したので「文帝の後N年」となりました。

後元年(前163)鬼神より食糧が心配

冬,十月,人有上書告新垣平「所言諧詐也」;下吏治,誅夷平。是後,上亦怠於改正、服、鬼神之事,而渭陽、長門五帝,使祠官領,以時致禮,不往焉。
春,三月,孝惠皇后張氏薨。

冬10月、人 上書して新垣平を「言ふ所 諧詐なり」と告ぐる有り。吏に下して治し、平を誅夷す。是の後、上 亦 改正・鬼神に服するの事を怠りて、而して渭陽・長門の五帝、祠官をして領せしめ、時を以て禮を致せしむるも(天子は)焉に往かず。

鬼神にドライなのは、漢文帝のキャラであり、曹丕の規範でもある。

春3月、孝惠皇后の張氏(張敖の娘)薨ず。

張氏は、諸呂が誅された後、北宮に移された。


詔曰:「間者數年不登,又有水旱、疾疫之災,朕甚憂之。愚而不明,未達其咎:意者朕之政有所失而行有過與?乃天道有不順,地利或不得,人事多失和,鬼神廢不享與?何以致此?將百官之奉養或廢,無用之事或多與?何其民食之寡乏也?夫度田非益寡,而計民未加益,以口量地,其於古猶有餘,而食之甚不足者,其咎安在?無乃百姓之從事於末以害農者蕃,為酒醪以靡谷者多,六畜之食焉者眾與?細大之義,吾未得其中,其與丞相、列侯、吏二千石、博士議之。有可以佐百姓者,率意遠思,無有所隱!」

詔に曰く、「間者 數年 登らず(穀物の収穫がなく)又 水旱・疾疫の災有り。朕 甚だ之を憂ふ。愚にして不明なり未だ其の咎に達せず。意は朕の政 失する所有りて行 過有るか。乃ち天道 不順有り、地利 或いは得ず、人事 多く和を失なひ、鬼神 廢れて享けざるか。何を以て此に致るや。將に百官の奉 養はんとし或いは廢れんとす。無用の事 或いは多きか。何ぞ其の民の食らふの寡乏するや。

ひどい自己嫌悪やってます。なにもうまくいってないと。

夫れ田を度るに益寡非ずして、民を計るに未だ加益せず。口を以て地を量り、其の古よりも猶ほ餘有り。

土地の生産高を計測するとき、実態から増やしたり減らしたりしない。人口を数えるとき、多く報告させない。生産高も人口も、前の時代よりも増えており、おおく収穫できるはずなのに、なお飢える人がいる。
漢文帝の時代の認識としては、「前の時代より豊かになれるはずだが、ちっとも豊かにならない」という仕方で、異常が認識される。けっこう特徴的。

而るに食の甚だ足らざるは、其の咎 安(いづこ)にか在る。乃ち百姓の末(商業)に從事して以て農する者を害すこと蕃く、酒醪を為して以て穀を靡からしむる者多く、六畜の焉を食らふ者 衆きか。

原因をいろいろあげるが、どれも仮説。農業よりも商業に励むから、天下の生産の総量が増えないのか。せっかく穀物があっても、酒の原料にしてしまうから、食糧が足りないのか。家畜を食べてしまって、生産に活かせずにいるのか。

細大の義、吾 未だ其の中を得ず。其れ丞相・列侯・吏二千石・博士と与に之を議せよ。以て百姓を佐くる可き者有れば、率に意 遠く思ひ、隠す所有る無かれ」と。

後二年(前162)丞相の申屠嘉が、寵臣を追及

夏,上行幸雍棫陽宮。六月,代孝王參薨。
匈奴連歲入邊,殺略人民、畜產甚多;雲中、遼東最甚,郡萬餘人。上患之,乃使使遺匈奴書。單于亦使當戶報謝,復與匈奴和親。

夏、上 雍の棫陽宮に行幸す。6月、代孝王の劉参 薨ず。
匈奴 連歳 入邊し、人民・畜産を殺略すること甚だ多し。雲中・遼東 最も甚だし。郡ごとに万余人なり。上 之を患らひ、乃ち使をして匈奴に書を遺はしむ。單于 亦 當戶(肩書の名)を使して報謝せしめ、復た匈奴と和親す。

八月,戊戌,丞相張蒼免。帝以皇后弟竇廣國賢,有行,欲相之,曰:「恐天下以吾私廣國,久念不可。」而高帝時大臣,餘見無可者。御史大夫梁國申屠嘉,故以材官蹶張從高帝,封關內侯;庚午,以嘉為丞相,封故安侯。嘉為人廉直,門不受私謁。

8月戊戌、丞相の張蒼 免ず。皇后の弟たる竇広国の賢にして、行有るを以て、之を相にせんと欲して、曰く、「天下 吾の廣國を私すると以てするを恐る。久しく可ならざるを念ず」と。

天子は、皇后の弟を宰相にしたい。いちおう天子は、彼が適任だと思ってる。しかし、身内の欲目だと天下から見なされるのを恐れる。だから大臣たちは、検討してねと。
外戚を重職につけることに、これだけ躊躇がある。「天下を公となす」としては、まさに規範となるべき君主です。漢文帝は。

而るに高帝の時の大臣、餘りて見て可たる者無し。

高帝に仕えた者の生き残りで、宰相に適任な者がない。

御史大夫たる梁國の申屠嘉、故より材官・蹶張を以て高帝に從ひ、關內侯に封ぜらる。

力が強くて、足でひく弩を使って、高帝に従軍した。

庚午、嘉を以て丞相と為し、故安侯に封ず。嘉 人となり廉直にして、門に私謁を受けず。

賈詡みたいだ。ただ力が強いだけの人物のなかにも、この時代まで生き残った功臣のなかには、人物的にできた人がいるのだ。


是時,太中大夫鄧通方愛幸,賞賜累巨萬。帝嘗燕飲通家,其寵幸無比。嘉嘗入朝,而通居上旁,有怠慢之禮,嘉奏事畢,因言曰:「陛下幸愛群臣,則富貴之;至於朝廷之禮,不可以不肅。」上曰:「君勿言,吾私之。」罷朝,坐府中,嘉為檄召通詣丞相府,不來,且斬通。通恐,入言上;上曰:「汝第往,吾今使人召若。」通詣丞相,免冠、徒跣,頓首謝嘉。嘉坐自如,弗為禮,責曰:「夫朝廷者,高帝之朝廷也。通小臣,戲殿上,大不敬,當斬。吏!今行斬之!」通頓首,首盡出血,不解。上度丞相已困通,使使持節召通而謝丞相:「此吾弄臣,君釋之!」鄧通既至,為上泣曰:「丞相幾殺臣!」

是の時、太中大夫の鄧通 方に愛幸せられ、賞賜 巨萬を累ぬ。帝 嘗て通が家にて燕飲し、其の寵幸 比ぶる無し。申屠嘉 嘗て入朝するに、鄧通 上の旁に居り、怠慢の禮有り。嘉 奏事して畢はり、因りて言ひて曰く、「陛下 群臣を幸愛すれば、則ち之を富貴とならしむ。朝廷の禮に至りて、以て不肅(不敬)とす可からず」と。

めずらしく漢文帝が私情をもちこむ。鄧通を調べよう。

上曰く、「君 言ふ勿かれ。吾 之を私す」と。朝を罷り、府中に坐し、申屠嘉 檄を為して鄧通を召して丞相府に詣でしむ。來らずして、且に鄧通を斬らんとす。鄧通 恐れ、上に入言す。上曰く、「汝の第に往け。吾 今 人をして若(なんぢ)を召す」と。鄧通 丞相を詣で、免冠・徒跣し、頓首して申屠嘉に謝る。嘉 坐して自如たり、禮を為さず、責めて曰く、「夫れ朝廷は、高帝の朝廷なり。鄧通 小臣なり。殿上に戲るるは、大いなる不敬なり。當に斬るべし。吏よ、今 行きて之を斬れ」と。

君主やその側近が、秩序を乱すようなことをすると、「高祖の天下だ」「高帝の朝廷だ」という議論をする人が出てくる。これは、高帝の生前は使えないが(高帝が無法なら高帝を殺して終わり)、2代目以降はとても効果的な文句の付け方である。

鄧通 頓首して(頭を地面にこすり)、首 盡く出血し、解けず。上 丞相(申屠嘉)の已に通を困するを度し、使をして持節せしめ、通を召して丞相に謝す。「此れ吾が弄臣なり。君 之を釋せ」と。鄧通 既に至り、上の為に泣きて曰く、「丞相 幾(あや)ふく臣を殺さんとす」と。

文帝後三年(前161)

春,二月,上行幸代。
是歲,匈奴老上單于死,子軍臣單于立。

春2月、上 代に行幸す。
是の歳、匈奴の老上單于 死して、子の軍臣單于 立つ。

文帝後四年(前160)

夏,四月,丙寅晦,日有食之。五月,赦天下。 上行幸雍。

抄訳はぶく。

文帝後五年(前159)

春,正月,上行幸隴西;三月,行幸雍;秋,七月,行幸代。

抄訳はぶく。

後六年(前158)天子より周亜夫の軍令が優先

冬,匈奴三萬騎入上郡,三萬騎入雲中,所殺略甚眾,烽火通於甘泉、長安。以中大夫令免為車騎將軍,屯飛狐;故楚相蘇意為將軍,屯句注;將軍張武屯北地;河內太守周亞夫為將軍,次細柳;宗正劉禮為將軍,次霸上,祝茲侯徐厲為將軍,次棘門;以備胡。

冬、匈奴の三萬騎 上郡に入る。三萬騎 雲中に入る。殺略する所 甚だ衆し。烽火 甘泉・長安に通ず。中大夫の令免を以て車騎將軍と為し、飛狐に屯せしむ。故の楚相たる蘇意を將軍と為し、句注に屯せしむ。將軍の張武をして北地に屯せしむ。河内太守の周亜夫を將軍として、細柳に次がしむ。宗正の劉禮を將軍と為し、霸上に次がしむ。祝茲侯の徐厲を將軍と為し、棘門に次がしめ、以て胡に備ふ。

上自勞軍,至霸上及棘門軍,直馳入,將以下騎送迎。已而之細柳軍,軍士吏被甲,銳兵刃,彀弓弩持滿,天子先驅至,不得入。先驅曰:「天子且至!」軍門都尉曰;「將軍令曰:『軍中聞將軍令,不聞天子之詔!』」居無何,上至,又不得入。於是上乃使使持節詔將軍:「吾欲入營勞軍。」亞夫乃傳言「開壁門」。壁門士請車騎曰:「將軍約:軍中不得驅馳。」於是天子乃按轡徐行。至營,將軍亞夫持兵揖曰:「介冑之士不拜,請以軍禮見。」天子為動,改容,式車,使人稱謝:「皇帝敬勞將軍。」成禮而去。既出軍門,群臣皆驚。上曰:「嗟乎,此真將軍矣!曩者霸上、棘門軍若兒戲耳,其將固可襲而虜也。至於亞夫,可得而犯耶!」稱善者久之。月餘,漢後至邊,匈奴亦遠塞,漢兵亦罷。乃拜周亞夫為中尉。

上 自ら軍を勞はり、霸上及び棘門の軍に至り、直ちに馳せ入る。將より以下 騎して送迎す。已にして細柳の軍に之く。軍の士吏 甲を被り、兵刃を銳くし、弓弩を彀して持滿す。

まったく戦闘態勢を崩していないと。

天子の先驅 至るも、入るを得ず。先驅曰く、「天子 且に至らん」と。軍門都尉曰く、「將軍 令して曰く、『軍中 將軍の令を聞く。天子の詔を聞かず』と」と。

周亜夫の言いつけが徹底されており、天子よりも周亜夫の命令をきく軍隊。こういう軍隊が強いのだよ、という周亜夫をほめる話。

居して何ばくも無く、上 至れども、又 入るを得ず。是に於て上 乃ち使持節して將軍に詔せしめ、「吾 営に入りて軍を労はんと欲す」と。亞夫 乃ち言を傳へて「壁門を開け」と。壁門の士 車騎に請ひて曰く、「將軍 約す。軍中 驅馳するを得ずと」と。是に於て天子 乃ち轡を按じて徐行す。

周亜夫の部下は、天子にすら、周亜夫が定めた交通ルールを適用した。

營に至り、將軍の亞夫 兵を持して揖して曰く、「介冑の士 拜せず。請ふ、軍禮を以て見へんことを」と。天子 動を為し(感動して)容を改め、車を式し、人をして謝を稱せしめて曰く、「皇帝 將軍を敬勞す」と。禮を成して去る。
既に軍門を出で、群臣 皆 驚く。上曰く、「ああ、此れ真の將軍なるかな。曩の霸上・棘門の軍 児戯の若し。其れ將 固く襲へば虜とならん。亞夫に至りて、得て犯す可きや」と。

周亜夫の陣は、とても撃破できないだろう。だが他の将軍の陣は、本気で攻めたら、撃破できるだろう。周亜夫は頼りになるが、ほかの奴らは、軍令ができてないじゃんと。

善を稱ふる者 之を久しくす。月余、漢の兵 邊に至る。匈奴 亦 塞より遠ざかり、漢兵 亦 罷る。乃ち周亞夫を拜して中尉と為す。

夏,四月,大旱,蝗。令諸侯無入貢;弛山澤,減諸服御,損郎吏員;發倉庾以振民;民得賣爵。

夏4月、大いに旱・蝗あり。諸侯をして入貢を無からしむ。山澤を弛め(立入と資源の取得を許可し)諸々の服御を減じ、郎吏の員を損ず。倉庾を發して以て民に振ふ。民 爵を賣ることを得たり。

爵位をカネに買えて、食糧を買いなさいと。爵位は、貨幣とは異なる、国家が財物を再分配するための装置である。


文帝後七年(前157)漢文帝が崩ず

夏,六月,已亥,帝崩於未央宮。遺詔曰:
「朕聞之:蓋天下萬物之萌生,靡有不死。死者,天地之理,物之自然,奚可甚哀!當今之世,鹹嘉生而惡死,厚葬以破業,重服以傷生,吾甚不取。且朕既不德,無在佐百姓;今崩,又使重服久臨以罹寒暑之數,哀人父子,傷長老之志,損其飲食,絕鬼神之祭祀,以重吾不德,謂天下何!朕獲保宗廟,以眇眇之身托於天下君王之上,二十有餘年矣。賴天之靈,社稷之福,方內安寧,靡有兵革。朕既不敏,常畏過行以羞先帝之遺德,惟年之久長,懼於不終。今乃幸以天年得復供養於高廟,其奚哀念之有!

夏6月已亥、帝 未央宮に崩ず。遺詔に曰く、
「朕 聞くならく。蓋し天下の萬物 萌生すれば、死せざる有る靡し。死は、天地の理にして、物の自然なり。奚ぞ甚だ哀しむ可きや。

曹丕の死に対する透徹・見識は、ここから得たのかも。

當今の世、鹹 生を嘉して死を惡み、葬を厚くして以て業を破り、服を重ねて以て生を傷なふ。吾 甚だ取らず。

厚葬も着飾りも、生への執着がそうさせるのかも。厚葬をこばむには、死を当然のこととして受け入れて、ガタガタ騒がない心を持つことが必要。漢文帝がこれに該当し、曹丕はこれをマネたんだろう。

且つ朕 既に不德にして、百姓を佐くること在る無し。今 崩じて、又 服を重ねて久しく臨み以て寒暑の數に罹らしめ、人の父子を哀ましめ、長老の志を傷つけ、其の飲食を損じ、鬼神の祭祀を絶やして、以て吾が不德を重くすれば、天下 何をか謂はん。朕 獲て宗廟を保ち、眇眇の(細末の)身を以て天下の君王の上に托し、二十有餘年なり。天の霊・社稷の福に頼り、方に内は安寧にして、兵革有る靡し。朕 既に不敏にして、常に過行して以て先帝の遺德に羞づること畏る。惟だ年の久長にして、終はらざるを懼る。

#曹丕80歳 で使えそうなセリフ。

今 乃ち幸に天の年を以て得て高廟を供養することを復す。其れ奚ぞ之を哀念すること有るや。

其令天下吏民:令到,出臨三日,皆釋服;毋禁取婦、嫁女、祠祀、飲酒、食肉,自當給喪事服臨者,皆無跣;絰帶毋過三寸;毋布車及兵器;毋發民哭臨宮殿中;殿中當臨者,皆以旦夕各十五舉音,禮畢罷;非旦夕臨時,禁毋得擅哭臨;已下棺,服大功十五日,小功十四日,纖七日,釋服。它不在令中者,皆以此令比類從事。佈告天下,使明知朕意。霸陵山川因其故,毋有所改。歸夫以下至少使。」
乙巳,葬霸陵。

其れ天下の吏民に令せ。令 到れば、出臨すること三日、皆 服を釋け。取婦・嫁女・祠祀・飲酒・食肉を禁ずる毋かれ。自ら當に喪事を給し服臨する者、皆 跣たること無かれ。絰帶 三寸を過ぎること毋かれ。

ずらずらと、天子の死により、しんどい服喪のしきたりを実行したり、日常生活を変更したりする必要はないよと、令を予め発している。

車及び兵器を布く毋かれ。民を發して哭して宮殿の中に臨する毋かれ。殿中 臨に當たる者、皆 旦夕を以て各々十五に音を挙げ、禮 畢れば罷れ。旦夕に時に臨むに非ざれば、禁じて得て擅ままに哭して臨む毋かれ。

天子の死を目の前にした者は、いちおうは喪礼をやるが、すぐに終われ。目の前にいなければ、もう喪礼をやる必要もないよと。

已に棺を下し、大功に服すること十五日、小功に十四日、纖に七日にして、服を釋け。它 令の中に在らざる者、皆 此の令を以て類に比して從事せよ。天下に佈告し、明らかに朕の意を知らしめよ。霸陵の山川 其の故に因り、改むる所有る毋かれ。(後宮の)夫より以下 少使に至るまでを歸せ」と。
乙巳、霸陵に葬る。

帝即位二十三年,宮室、苑囿、車騎、服御,無所增益;有不便,輒馳以利民。嘗欲作露台,召匠計之,直百金。上曰:「百金,中人十家之產也。吾奉先帝宮室,常恐羞之,何以台為!」身衣弋綈;所幸慎夫人,衣不曳地;帷帳無文繡;以示敦樸,為天下先。治霸陵,皆瓦器,不得以金、銀、銅、錫為飾,因其山,不起墳。吳王詐病不朝,賜以幾杖。群臣袁盎等諫說雖切,常假借納用焉。張武等受賂金錢,覺,更加賞賜以愧其心;專務以德化民。是以海內安寧,家給人足,後世鮮能及之。

帝 位に即くこと二十三年なり。宮室・苑囿・車騎・服御、増益する所無し。不便有れば、輒ち馳せて以て民を利す。嘗て露台を作らんと欲し、匠を召して之を計しめ、百金に直る。上曰く、「百金は、中人(平均的な)十家の産なり。吾 先帝の宮室を奉じて、常に之に羞づることを恐る。何を以て台 為るや」と。

測量をやってみて、測量の手間賃を払ったが、やっぱり作るのを辞めたのだ。測量をやってみて、建築のコストを見積もったが、あまりに高額だったから、やっぱり作るのを辞めたのだ。漢文帝は、生まれながらに質素なのでなく、天下のため、民の利のために、がんばって自制したという話。

身に弋綈を衣ひ、幸す所の慎夫人も、衣 地に曳かず(質素で短い)。帷帳 文繡無し。以て敦樸を示し、天下の先と為る。
霸陵を治むる(建築する)に、皆 瓦器なり。金・銀・銅・錫を以て飾と為すを得ず。其の山(の地形)に因りて、墳を起さず。
吳王 病と詐りて朝せざれば、賜ふに幾杖を以てす。群臣の袁盎ら諌め説くこと切なると雖も、常に假借して焉を納用す。張武ら賂に金銭を受け、覚し、更に賞賜を加へて以て其の心を愧ぢしむ。

仮病を使われたら、マジでいたわる。賄賂が発覚した者には、さらにカネをくれてやる。不誠実なことをした人は、漢文帝が寛大すぎるので、かえって心を痛めて、同じ過ちをくり返さない。そういう教育効果をねらったのが、漢文帝の君主として自分に命じたキャラだろう。
曹丕の、つくったような寛大さは、ここが発端では。

專ら以て民を德化することに務む。是を以て海內 安寧たり。家は給して人は足り、後世 能く之に及ぶもの鮮し。

後世のだれが、漢文帝に及んだんだろう。曹丕はムリだな。


丁未,太子即皇帝位,尊皇太后薄氏曰太皇太后,皇后曰皇太后。

丁未、太子 皇帝の位に即く。皇太后の薄氏を尊びて太皇太后と曰ひ、皇后を皇太后と曰ふ。

九月,有星孛於西方。
是歲,長沙王吳著薨,無子,國除。
初,高祖賢文王芮,制誥御史:「長沙王忠,其令著令。」至孝惠、高後時,封芮庶子二人為列侯,傳國數世絕。

9月、星孛が西方にある。
この歳、長沙王の吳著が薨じて、子がなく国を除いた。
はじめ高祖は、文王の吳芮を賢いとして、御史に制誥した。「長沙王は忠である。彼には著令(劉氏でないが王とするという特例)とせよ」と。恵帝期・呂太后期に、吳芮の庶子2人が列侯となり、国を数世だけ伝えて絶えた。140619

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付・孝景皇帝上(前156-155)

『資治通鑑』でセットになっているから、ついでに景帝の時代に入ろう。

前元年(前156)文帝の廟を「太宗」とする

冬,十月,丞相嘉等奏:「功莫大於高皇帝,德莫盛於孝文皇帝。高皇帝廟,宜為帝者太祖之廟;孝文皇帝廟,宜為帝者太宗之廟。天子宜世世獻祖宗之廟,郡國諸侯宜各為孝文皇帝立太宗之廟。」制曰:「可。」
夏,四月,乙卯,赦天下。
遣御史大夫青至代下與匈奴和親。
五月,復收民田半租,三十而稅一。

冬10月、丞相の嘉らが奏した。「功は高皇帝より大きい者はなく、德は孝文皇帝より盛んな者はない。高皇帝の廟は、皇帝の『太祖』の廟とせよ。孝文皇帝の廟は、皇帝の『太宗』の廟とせよ。天子は、世世、祖宗の廟に獻じ、郡國の諸侯は、それぞれ孝文皇帝のために太宗の廟を立てろ」と。制して「可しい」とした。
夏4月乙卯、天下を赦した。
御史大夫の青を代下にゆかせ、匈奴と和親した。
5月、復た民田の半租を收め、三十して一に税す。

初,文帝除肉刑,外有輕刑之名,內實殺人;斬右止者又當死;斬左止者笞五百,當劓者笞三百,率多死。是歲,下詔曰:「加笞、重罪無異;幸而不死,不可為人。其定律:笞五百曰三百,笞三百曰二百。」
以太中大夫周仁為郎中令,張歐為廷尉,楚元王子平陸侯禮為宗正,中大夫晁錯為左內史。仁始為太子舍人,以廉謹得幸。張歐亦事帝於太子宮,雖治刑名家,為人長者,帝由是重之,用為九卿。歐為吏未嘗言按人,專以誠長者處官;官屬以為長者,亦不敢大欺。

はじめ、文帝は肉刑を除いた。外には刑を軽くしたという名目だが、内には(かつて肉刑をしていた重さの罪人を)死刑をするという実態である。右止を斬っていた者を、死刑にした。左止を斬っていた者を笞五百とした。劓そぎする者を笞三百とした。死刑がふえた。この歳、景帝は詔を下した。「笞を加えるのは、重罪と同じである。幸いにして死刑にならずとも、人として扱ってない。律を定めて、笞500を300、笞300を200といえ」とした。
太中大夫の周仁を郎中令として、張歐を廷尉とした。楚元王の子の平陸侯である劉禮を宗正とした。中大夫の晁錯を左内史とした。
周仁ははじめ太子舍人となり、廉謹なので景帝の幸を得た。張歐もまた太子宮から景帝に仕え、治刑の名家であるが、人となりは長者であり、重んじられて九卿となった。張歐は吏となり、かつて人のことで、とやかく言わない。もっぱら誠長な者を属官にした。官属には長者を選び、あえて(職務の上で)大欺しなかった。

前二年(前155)申屠嘉が晁錯に怒って死ぬ

冬,十二月,有星孛於西南。令天下男子年二十始傅。
春,三月,甲寅,立皇子德為河間王,閼為臨江王,餘為淮陽王,非為汝南王,彭祖為廣川王,發為長沙王。
夏,四月,壬午,太皇太后薄氏崩。

冬12月、星孛 西南に有り。天下の男子の年二十たるをして始めて傅とす。

師古はいう。旧制では、23歳で傅となった。

春3月甲寅、皇子たちを封じた。はぶく。
夏4月壬午、太皇太后の薄氏(文帝の母)が崩じた。

六月,丞相申屠嘉薨。時內史晁錯數請間言事,輒聽,寵幸傾九卿,法令多所更定。丞相嘉自絀所言不用,疾錯。錯為內史,東出不便,更穿一門南出。南出者,太上皇廟堧垣也。嘉聞錯穿宗廟垣,為奏,請誅錯。客有語錯,錯恐,夜入宮上謁,自歸上。至朝,嘉請誅內史錯。上曰:「錯所穿非真廟垣,乃外堧垣,故冗官居其中;且又我使為之,錯無罪。」丞相嘉謝。罷朝,嘉謂長史曰:「吾悔不先斬錯乃請之,為錯所賣。」至舍,因歐血而死。錯以此愈貴。

6月、丞相の申屠嘉 薨ず。時に内史の晁錯 數々間を請ひて事を言ふ。輒ち聽き、寵幸 九卿を傾く。法令 多く更定せらる。丞相の申屠嘉 自ら絀して言ふ所 用ゐず、錯を疾とす。錯 内史と為り、東に出づるに便あらず、更めて一門を穿ちて南に出づ。南に出づれば、太上皇廟の堧垣なり。

交通の便のために、太上皇の廟の周りにを傷つけた。

嘉 錯の宗廟の垣を穿つを聞き、奏を為して、錯を誅せんと請ふ。客 錯に語る有り。錯 恐れ、夜に入宮して上謁し、自ら上に歸る。朝に至り、嘉 内史の晁錯を誅せんと請ふ。上曰く、「錯の穿つ所 真の廟の垣に非ず。乃ち外の堧垣なり。故に冗官 其の中に居る。且つ又 我 之を為らしむ。錯 罪無し」と。丞相の嘉 謝す。朝を罷り、嘉 長史に謂ひて曰く、「吾 先に晁錯を斬りて乃ち之を請はざることを悔やむ。晁錯の為に賣る所となる」と。舍に至り、因りて歐血して死す。錯 此を以て愈々貴し。

晁錯は、景帝に口裏を通じて、申屠嘉に糾弾されるのを防いだ。晁錯の王朝に対する功罪について、バランスを見てみたい。『資治通鑑』の上のほうで、有効な政策を立案して、漢文帝を助けていたのは、この晁錯だ。それゆえに、旧来の法を維持したい「旧勢力」に目を付けられるのも必然で。


秋,與匈奴和親。
八月,丁未,以御史大夫開封侯陶青為丞相。丁巳,以內史晁錯為御史大夫。
彗星出東北。 秋,衡山雨雹,大者五寸,深者二尺。熒惑逆行守北辰,月出北辰間;歲星逆行天廷中。

秋、匈奴と和親した。
8月丁未、御史大夫の開封侯の陶青を丞相とした。丁巳、內史の晁錯を御史大夫とした。
彗星が東北に出た。秋、衡山 雹がふる。大きさは5寸、深さは2尺。熒惑が逆行して北辰を守す。月が北辰の間に出る。歲星が逆行して天廷の中にある。

梁孝王以竇太后少子故,有寵,王四十餘城,居天下膏腴地。賞賜不可勝道,府庫金錢且百巨萬,珠玉寶器多於京師。築東苑,方三百餘里,廣睢陽城七十里,大治宮室,為覆道,自宮連屬於平台三十餘里。招延四方豪俊之士,如吳人枚乘、嚴忌,齊人羊勝、公孫詭、鄒陽,蜀人司馬相如之屬皆從之游。每入朝,上使使持節以乘輿駟馬迎梁王於關下。既至,寵幸無比,入則侍上同輦,出則同車,射獵上林中。因上疏請留,且半歲。梁侍中、郎、謁者著籍引出入天子殿門,與漢宦官無異。

梁孝王(劉武)は、竇太后の少子だから、寵愛されて、40余城の王となり、天下の膏腴を領有する。かつて賜ったものは表現できないほどで、府庫の金錢は100巨万、珠玉・宝器は京師よりも多い。東苑を築し、300余里四方もある。廣睢の陽城から70里に、宮室・覆道をつくる。四方の豪俊の士を招延した。吳人の枚乘・嚴忌、齊人の羊勝・公孫詭・鄒陽、蜀人の司馬相如のような人々が集まった。入朝のたび、天子は使持節に乗輿・駟馬で梁王を関下に迎えさせた。到着すると、寵幸は無比であり、入れば侍上・同輦して、出れば同車して、上林中で射獵した。梁武王は、上疏によって長安に半年間、留まった。梁の侍中・郎・謁者は、著籍して引きて天子の殿門を出入し、漢の宦官と同じである。140619

140619の有給休暇で、ぶじに漢文帝を終えられた。つぎの土日にて、景帝を終えたい。中華書局の『資治通鑑』で、35頁だから、ムリな予定ではないはず。

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