両晋- > 『資治通鑑』唐紀を抄訳 926年4月-926年7月

全章
開閉

926年夏、唐帝=荘宗が殺される

資治通鑑 第275卷
【後唐紀四】 起柔兆閹茂四月,盡強圉大淵獻六月,凡一年有奇。
明宗聖德和武欽孝皇帝上之下天成元年(丙戌,公元九二六年)

4月、郭従謙が、唐帝=李存勗を殺す

夏,四月,丁亥朔,嚴辦將發,騎兵陳於宣仁門外,步兵陳於五鳳門外。從馬直指揮使郭從謙不知睦王存乂已死,欲奉之以作亂,帥所部兵自營中露刃大呼,與黃甲兩軍攻興教門。帝方食,聞變,帥諸王及近衛騎兵擊之,逐亂兵出門,時蕃漢馬步使硃守殷將騎兵在外,帝遣中使急召之,欲與同擊賊;守殷不至,引兵憩於北邙茂林之下。

夏4月の丁亥ついたち。厳弁が発されようとした。

およそ天子が出るとき、侍中は、中に厳、外に弁を奏する。

騎兵は、宣仁門外に陣する。步兵は、五鳳門外に陣する。

門の名について、8974頁。

從馬直指揮使の郭從謙は、睦王の李存乂がすでに死んだと知らず、李存乂を奉じて作乱したい。

李存乂は、郭従謙を仮子として養って、誅された。本年2月にある。諸王は閤を出ずに禁中にいるから、李存乂の死を、郭従謙は知ることができなかった。

部兵を帥して、營中より露刃・大呼する。黃甲兩軍とともに、興教門を攻める。唐帝は方食するとき、変を聞いた。諸王および近衛の騎兵を帥して、郭従謙を撃つ。亂兵を逐って出門する。ときに、蕃漢馬步使の朱守殷は、騎兵をひきいて外にいる。唐帝は、中使をやって、急ぎ朱守殷を召し、ともに賊を撃ちたい。朱守殷は至らず、引兵して、北邙の茂林の下で休憩する。

休息、休憩してていいのかよ。


亂兵焚興教門,緣城而入,近臣宿將皆釋甲潛遁,獨散員都指揮使李彥卿及宿衛軍校何福進、王全斌等十餘人力戰。俄而帝為流矢所中,鷹坊人善友扶帝自門樓下,至絳霄廡下,抽矢,渴懣求水,皇后不自省視,遣宦者進酪,須臾,帝殂。

亂兵は、興教門を焚く。城に緣って入る。近臣・宿將は、みな甲を釋き、潛かに遁げる。ひとり散員都指揮使の李彦卿と、宿衛軍校の何福進と王全斌らのみ、10余人が(唐帝を守るため)力戰した。

李彦卿とは、李存審の子である。

にわかに唐帝に流矢があたる。鷹坊人の善友は、帝を扶けて、門樓より下りる。絳霄の廡下に至り、矢を抽く。渴懣して水を求める。皇后は自ら省視せず、宦官から唐帝に酪を進めさせた。

「酪」とは乳漿である。矢傷や刀傷があって、出血して悶える者は、水を飲ませるとよい。酪を飲めば、死を速める。
ぼくは思う。皇后は、唐帝の状況をよく確認せず、ただ唐帝が好きな飲み物を与えただけではないか。唐帝の死を速めさせる、悪意があったとも思えない。皇后がやったのは、現実を度外視した財政。支出と収入のバランスよりも、天命の議論にすりかえてた。皇后こそ「皇帝病」にかかっていた。唐帝は、皇后の暴走を見ることで、少しは冷静になれて、内省できたのかも。

須臾(しばらくして)唐帝は殂した。

李彥卿等慟哭而去,左右皆散,善友斂廡下樂器覆帝屍而焚之。彥卿,存審之子;福進、全斌放皆太原人也。劉後囊金寶繫馬鞍,與申王存屋及李紹榮引七百騎,焚喜慶殿,自師子門出走。通王存確、雅王存紀奔南山。宮人多逃散,硃守殷入宮,選宮人三十餘人,各令自取樂器珍玩,內於其家。於是諸軍大掠都城。

李彦卿らは、慟哭して去る。左右も、みな散じる。善友は、廡下の樂器を斂め、帝の屍を覆い、焚いた。

ぼくは思う。楽器とともに焼かれるなんて。死体を焼いて傷つけるのは、いけないこととされるが。楽器を添えてもらったのは、唐帝のキャラを立てるための演出である。
この年の正月から「帝」といえば、荘宗=李存勗のことだった。李存勗は優人をこのみ、郭門高に滅びた。音楽を好み、楽器とともに焼かれた。ゆえに欧陽脩は「君はこれを以て始め、これを以て終わる」という。戒めを示したことは深いなあ。

李彥卿は、李存審の子である。何福進と王全斌は、どちらも太原の人。

ぼくは思う。けっきょく晋王だったころの根拠地から、従って洛陽にきた人が、最期まで唐帝を守りましたと。

劉皇后は、金寶を囊し、馬鞍を繫ぐ。申王の李存屋や李紹栄とともに、7百騎をひく。喜慶殿を焚き、師子門より出走する。通王の李存確、雅王の李存紀は、南山に奔る。

洛陽の南は、伊川に入り、みな大山がある。

宮人はおおくが逃散した。朱守殷は入宮して、宮人30余人を選ぶ。おのおのに、樂器や珍玩を取らせ、家にしまう。ここにおいて諸軍は、都城を大掠する。

あーあ。


4月、豆盧革が嗣源に皇帝即位を勧める

是日,李嗣源至罌子谷,聞之,慟哭,謂諸將曰:「主上素得士心,正為群小蔽惑至此,今吾將安歸乎!」
戊子,硃守殷遣使馳白嗣源,以「京城大亂,諸軍焚掠不已,願亟來救之!」乙丑,嗣源入洛陽,止於私第,禁焚掠,拾莊宗骨於灰燼之中而殯之。嗣源之入鄴也,前直指揮使平遙侯益脫身歸洛陽,莊宗撫之流涕。至是,益自縛請罪;嗣源曰:「樂為臣盡節,又何罪也!」使復其職。

この日、李嗣源は罌子谷に至る。唐帝の死を聞き、慟哭した。

『考異』はいう。鄭州で聞いたという史料もあり。

嗣源は諸将にいう。「主上は、もとより士心を得る。まさに群小に蔽惑され、ここに至った。いま私はどこに帰したら良いのか」と。

ぼくは思う。嗣源が洛陽を圧迫するから、唐帝が乱兵=郭従謙に殺されたんじゃないか。ほんとに嗣源について、史料は美化しすぎである。

戊子、硃守殷は使者をつかわし、嗣源にいう。朱守殷「京城は大亂した。諸軍は焚掠して已まず。願わくは急いで救いにこい」と。乙丑、嗣源は洛陽に入る。私第に止まり、焚掠を禁じる。莊宗=唐帝の骨を、灰燼之中からひろい、殯した。

ぼくは思う。いままで唐帝と書いていたが、死んだので「荘宗」とする。この廟号が嗣源によって贈られるのは、もうちょっと先だが。

嗣源が鄴城に入ったとき、前直指揮使する平遙の侯益は、身を脱して洛陽に帰した。荘宗は侯益を撫して流涕した。ここにいたり、侯益は自縛・請罪した。嗣源「お前は臣節を尽くした。なんの罪があるか」と。もとの官職にもどした。

前直指揮使は、上前・直衛の士を領する。


嗣源謂硃守殷曰:「公善巡徼,以待魏王。淑妃、德妃在宮,供給尤宜豐備。吾俟山陵畢,社稷有奉,則歸籓為國家扞御北方耳。」是日,豆盧革帥百官上箋勸進,嗣源面諭之曰:「吾奉詔討賊,不幸部曲叛散;欲入朝自訴,又為紹榮所隔,披猖至此。吾本無他心,諸群遽爾見推,殊非相悉,願勿言也!」革等固請,嗣源不許。
李紹榮欲奔河中就永王存霸,從兵稍散;庚寅,至平陸,止餘數騎,為人所執,折足送洛陽。存霸亦帥眾千人棄鎮奔晉陽。

嗣源は、朱守殷にいう。「あなたは、善く巡徼し、魏王の継岌を待て。淑妃と德妃は宮にあり、供給はもっとも豐備にすべきだ。私は山陵の畢るのを俟つ。社稷に奉れば(真定に)歸籓して、國家のために北方を扞御する」と。
この日、豆盧革は百官を帥いて(李嗣源の皇帝即位を)勸進を上箋する。

これを下として、上においてす。その令に従わずして、その意に従う。

嗣源は面して豆盧革を諭す。「私は奉詔・討賊した。不幸にも部曲が叛散した。入朝して自訴したい。また李紹栄に隔てられ、披猖はこのようだ。私には本より他心なし。諸君は、これを急いで見推するが、ことに相い悉(尽)していない。(議論を尽くさずに、私の皇帝即位のことなど)言わないでほしい」と。豆盧革は固く請うが、嗣源は許さず。
李紹栄は、河中に奔り、永王の李存霸につきたい。從兵は稍散した。庚寅、平陸に至り、余數騎を止める。人に執われ、足を折って洛陽に送られる。李存霸もまた、軍衆1千人をひきい、鎮を棄て、晉陽に奔る。

辛卯,魏王繼岌至興平,聞洛陽亂,復引兵而西,謀保據鳳翔。
向延嗣至鳳翔,以莊宗之命誅李紹琛。

辛卯、魏王の繼岌は興平に至り、洛陽の乱を聞く。復た引兵して西する。鳳翔を保ち拠ろうと謀る。
向延嗣は鳳翔に至り、莊宗之命をもって、李紹琛を誅する。

荘宗はすでに死に、ゆえに「帝」と記さず、廟号で記す。李紹琛は、蜀地でそむいて捕らえられた。上巻の本年3月にある。


あああ

初,莊宗命呂、鄭二內養在晉陽,一監兵,一監倉庫,自留守張憲以以下皆承應不暇。及鄴都有變,又命汾州刺史李彥超為北都巡檢。彥超,彥卿之兄也。莊宗既殂,推官河間張昭遠勸張憲奉表勸進,憲曰:「吾一書生,自布衣至服金紫,皆出先帝之恩,豈可偷生而不自愧乎!」昭遠泣曰:「此古人所行,公能行之,忠義不朽矣。」

はじめ荘宗が、呂氏と鄭氏の二內養に、晉陽にいろと命じた。1人は監兵、もう1人は監倉庫する。留守の張憲より以下、みな承應して暇なし。鄴都で変があると、また汾州刺史の李彥超に命じて、北都巡檢とした。李彦超は、李彦卿の兄である。莊宗が既に殂し、推官する河間の張昭遠は、張憲に勸進を奉表させた。張憲「私は1人の書生である。布衣より服金紫に至ったのは、みな先帝之恩を出たもの。どうして生をぬすみ、みずから愧じないことがあろうか」と。張昭遠は泣く。「これは古人の所行である。きみが(嗣源への迎合の拒否を)行えるなら、忠義は不朽となる」と。

張昭遠は儒者である。ゆえに、張憲の志節を、勉成した。のちに、張昭遠は、漢高祖(劉知遠)の名をさけて、張昭と名乗ることになる。


有李存沼者,莊宗之近屬,自洛陽奔晉陽,矯傳莊宗之命,陰與二內養謀殺憲及彥超,據晉陽拒守。彥超知之,密告憲,欲先圖之。憲曰:「僕受先帝厚恩,不忍為此。徇義而不免於禍,乃天也。」彥超謀未決,壬辰夜,軍士共殺二內養及存沼於牙城,因大掠達旦。憲聞變,出奔忻州。會嗣源移書至,彥超號令士卒,城中始安,遂權知太原軍府。

李存沼という者は、莊宗の近屬である。洛陽より晋陽に奔る。

『考異』はいう。李存沼を、皇弟としたり、名が「李存覇」だったりする。荘宗の弟に、李存沼という者はいない。また李存覇は、僧服をきて河中からくるから、李存覇はこの(洛陽から晋陽に奔るという)記事に当てはまらない。誰だか分からない。

莊宗之命を矯傳して、ひそかに二內養(呂氏と鄭氏)とともに、張憲と李彦超を殺して、晉陽に拠って拒守しようと謀る。李彦超はこれを知り、ひそかに張憲につげ、先に李存沼を殺したい。張憲「私は先帝の厚恩を受けた。こうなるのを忍びず。徇義して、禍を免れないなら、天命である」と。李彦超の謀略は、まだ決しない。壬辰の夜、軍士は二内養および李存沼を、牙城で殺した。大掠して、旦に達する。張憲は変事を聞き、忻州に出奔した。たまたま嗣源の移書が至る。李彦超は、士卒に號令し、城中は初めて安じる。ついに李彦超を、權知太原軍府とする。

百官三箋請嗣源監國,嗣源乃許之。甲午,入居興聖宮,始受百官班見。下令稱教,百官稱之曰殿下。莊宗後宮存者猶千餘人,宣徽使選其美少者數百獻於監國,監國曰:「奚用此為!」對曰:「宮中職掌不可闕也。」監國曰:「宮中職掌宜諳故事,此輩安知!」乃悉用老舊之人補之,其少年者皆出歸其親戚,無親戚者任其所適。蜀中所送宮人亦准此。

百官の三箋は、嗣源が監國せよと請う。嗣源は許す。

『考異』はいう。監国は、もとは太子之事で、官職でも爵位でもない。五代の後唐の明宗、潞王、後周の太祖は、みな帝位につくまえに監国だった。後漢の太后令はいう。「虫害のことは、監国の処分をとる」と。また誥する。「監国は、皇帝の位に即くべし」と。このとき、監国はただの称号である。

甲午、嗣源は興聖宮に入居して、初めて百官の班見を受ける。

「興聖宮」について、8978頁。

嗣源の下令を「教」といい、百官は嗣源を「殿下」という。莊宗の後宮にある者は、まだ1千人もいる。宣徽使は、美少な者を選び、数百人を嗣源に献じた。嗣源「こいつらは用いない」と。宣徽使「宮中の職掌は、欠くべきでない」と。監国「宮中の職掌は、故事を諳じるべき。こいつら(美少な者が)故事を知っているものか」と。嗣源は、老舊な者だけを用いて補う。その年少な者は、親戚に帰す。親戚がない者は、適切な場所に任す。蜀中から送られた宮人も、同じように処置した。

荘宗の劉皇后と諸王が、刈り取られる

乙未,以中門使安重誨為樞密使,鎮州別駕張延朗為副使。延朗,開封人也,仕梁為租庸吏,性纖巧,善事權要,以女妻重誨之子,故重誨引之。監國令所在訪求諸王。通王存確、雅王存紀匿民間,或密告安重誨,重誨與李紹真謀曰:「今殿下既監國典喪,諸王宜早為之所,以壹人心。殿下性慈,不可以聞。」乃密遣人就田舍殺之。後月餘,監國乃聞之,切責重誨,傷惜久之。劉皇后與申王存渥奔晉陽,在道與存渥私通。存渥至晉陽,李彥超不納,走至鳳谷,為其下所殺。

乙未、中門使の安重誨は、樞密使となる。鎮州別駕の張延朗を、枢密副使とする。張延朗は、開封の人。梁国に仕えて租庸吏となる。性は纖巧で、權要に善事する。張延朗は、娘を安重誨の妻とするから、安重誨の副使にしてもらった。

安重誨は、もとは成徳軍の中門使だった。嗣源に親任された。

嗣源は、安重誨に諸王を探し求めさせた。通王の李存確、雅王の李存紀は、民間に匿れる。或者が安重誨に(諸王が民間にいると)密告した。安重誨と李紹真は謀った。「いま殿下=嗣源は、すでに監国して典喪する。諸王が早く嗣源のところに早く行かせれば、人心は1つになる。? 殿下の性は慈である。耳に入れるな」と。人を田舍にやり、諸王を殺した。1月余、嗣源はこれを聞き、重誨を切責して、諸王を傷惜すること久しい。

すみません。よくわからなかったです。

劉皇后と申王の李存渥は、晋陽に奔る。道中で、荘宗の劉皇后と、李存渥と私通した。李存渥は、晋陽に至る。李彦超が納れてくれない。走って鳳谷に至り、部下に殺された。

明日,永王存霸亦至晉陽,從兵逃散俱盡,存霸削髮、僧服謁李彥超,「願為山僧,幸垂庇護。」軍士爭欲殺之,彥超曰:「六相公來,當奏取進止。」軍士不聽,殺之於府門碑下。劉皇后為尼於晉陽,監國使人就殺之。薛王存禮及莊宗幼子繼嵩、繼潼、繼蟾繼嶢,遭亂皆不知所終。惟邕王存美以病風偏枯得免,居於晉陽。

明日、永王の李存霸もまた、晋陽に奔る。從兵は逃散して、ともに尽きる。李存霸は削髮し、僧服で李彥超に謁する。「山僧となりたい。庇護してほしい」と。軍士は、李存覇を殺したくて争う。李彦超「六相公がきた。上奏して、進止を取りたい」と。軍士は聽かず、府門碑下で李存覇を殺した。劉皇后は、晉陽で尼となる。嗣源は、人に劉皇后を殺させた。

李存覇は、第六である。

薛王の李存禮および、莊宗の幼子である繼嵩・繼潼・繼蟾・繼嶢は、みな遭乱して、終わりを知らず。ただ邕王の李存美は、病風・偏枯により、免れて晋陽に居する。

沙陀は、唐末に強盛となった。けだし、ここ(滅亡)にいたった。おそらく、赤心からの直系は、途絶えてしまった。嗣源は、晋王(李克用)の義児である。国を得たのち、義父の遺骨が魚肉になるのは、忍びなかった。


徐溫、高季興聞莊宗遇弒,益重嚴可求、梁震。梁震薦前陵州判官貴平孫光憲於季興,使掌書記。季興大治戰艦,欲攻楚,光憲諫曰:「荊南亂離之後,賴公休息士民,始有生意。若又與楚國交惡,他國乘吾之弊,良可憂也。」季興乃止。

徐温と高季興は、莊宗が弑に遇ったと聞き、ますます厳可求と梁震を重んじた。

厳可求は後唐の内変を予測した。荘宗の同光元年にある。梁震は、荘宗が必ず亡ぶといった。同光3年にある。

梁震は、前陵州判官する貴平の孫光憲を、高季興に薦めて、掌書記させる。

「貴平」の地理について、8979頁。

高季興は、戰艦を大治し、楚を攻めたい。孫光憲は諫めた。「荊南の亂離之後、あなたを頼り、士民を休息させ、はじめて生意がでてきた。もし楚国と交惡するなら、他国がわが弊に乗じる。よく憂うべし」と。高季興は、楚国との開戦をやめた。

戊戌,李紹榮至洛陽,監國責之曰:「吾何負於爾,而殺吾兒!」紹榮瞋目直視曰:「先帝何負於爾?」遂斬之,復其姓名曰元行欽。

戊戌、李紹榮は洛陽にいたる。嗣源は李紹栄を責める。「私はきみにそむいていないのに、きみは私の子を殺した」と。

李紹栄は、李従審を殺した。同年3月にある。

李紹栄は瞋目・直視する。「先帝は、あなたに負いたのですか(嗣源だって、自分にそむかぬ人を殺すではないか)」と。ついに嗣源は、李紹栄を斬る。李紹栄の姓名を、元行欽にもどす。

元行欽は死んだが、嗣源は自分の発言を恥なかろうか。李紹栄は、梁均王の貞明元年に、李紹栄という名をもらった。
ぼくは思う。荘宗と李嗣源のあいだで文書をにぎりつぶし、2人の関係を悪化させ、荘宗を殺したのは、間接的には李紹栄だった。というか、梁将の元行欽だった。いいキャラ。詳しく読みたい。


魏王の継岌(荘宗の後嗣)が自殺する

監國恐征蜀軍還為變,以石敬瑭為陝州留後;己亥,以李從珂為河中留後。

嗣源は、征蜀軍が還って変をなすことを恐れる。石敬瑭を陝州留後とする。己亥、李從珂を河中留後とする。

陝州は、洛陽までの道をそなえる。河中は、その北をそなえて、晋陽に帰す。ぼくは思う。石敬瑭と李従珂が、嗣源の死後に帝位を争う。石敬瑭が後晋をつくる。この時点では、2人とも嗣源の有力な持ち駒なのだなあ。


樞密使張居翰乞歸田裡,許之。李紹真屢薦孔循之才,庚子,以循為樞密副使。李紹宏請複姓馬。監國下教,數租庸使孔謙奸佞侵刻窮困軍民之罪而斬之,凡謙所立苛斂之法皆罷之,因廢租庸使及內勾司,依舊為鹽鐵、戶部、度支三司,委宰相一人專判。又罷諸道監軍使;以莊宗由宦官亡國,命諸道盡殺之。

樞密使の張居翰は、田裡に帰りたい。許された。李紹真は、しばしば孔循之才を薦める。庚子、孔循を樞密副使とする。李紹宏は、馬姓にもどりたい。

李紹宏は、均王の貞明5年に李姓をもらった。

嗣源が下教する。「租庸使の孔謙は、奸佞・侵刻で、軍民を窮困させる罪がある。孔謙を斬れ。孔謙がつくった、苛斂之法は、みな罷めろ。租庸使および内勾司を廃せ。旧来に依拠して、鹽鐵・戶部・度支の3司をおき、宰相1人に委ねて專判させよ。また諸道の監軍使を罷めろ。荘宗は宦官によって亡國した。諸道に命じて、すべてこれを殺せ」と。

「三司」について、8980頁。


魏王繼岌自興平退至武功,宦者李從襲曰:「禍福未可知,退不如進,請王亟東行以救內難。」繼岌從之。 還,至渭水,權西都留守張籛已斷浮梁;循水浮渡,是日至渭南,腹心呂知柔等皆已竄匿。從襲謂繼岌曰:「時事已去,王宜自圖。」繼岌徘徊流涕,乃自伏於床,命僕夫李環縊殺之。任圜代將其眾而東。監國命石敬瑭慰撫之,軍士皆無異言。

魏王の繼岌は、興平より退き、武功に至る。宦者の李從襲はいう。「禍福は、まだ分からない。退くより進むほうがよい。魏王の継岌は、急いで東して(洛陽にゆき)内難を救え」と。継岌はこれに従う。
継岌は東に還って、渭水に至る。權西都留守の張籛は、すでに浮梁を断つ。水に循って、浮渡する。この日、渭南に至る。腹心の呂知柔らは、みなすでに竄匿する。李從襲は、継岌にいう。「時事はすでに去った。魏王=継岌は、みずから図ってくれ(自殺しろ)」と。繼岌は、徘徊・流涕する。自ら床に伏せる。僕夫の李環に命じて、縊殺させた。任圜は、継岌に代わって軍衆をひきい、東する。嗣源は石敬瑭に命じて、任圜ひきいる征蜀の軍を慰撫する。軍士は、みな異言なし。

先是,監國命所親李沖為華州都監,應接西師。沖擅逼華州節度使史彥鎔入朝;同州節度使李存敬過華州,沖殺之,並屠其家;又殺西川行營都監李從襲。彥鎔泣訴於安重誨,重誨遣彥鎔還鎮,召沖歸朝。

これより先、嗣源は、親しむ李沖を華州都監として、西師を應接させる。

西師は、魏王の継岌の軍のこと。

李沖は、ほしいままに華州節度使の史彥鎔に逼り、入朝させる。同州節度使の李存敬は、華州を過ぎる。李沖は、李存敬を殺して、家をほふる。また、西川行營都監の李從襲を殺す。

李従襲の死には、余罪がある。嗣源は、まだ諸市の朝をほしいままにできない。しかし、李沖は長官立ちを殺しまくり、刑(の公正さを)を失う。

史彦鎔は、安重誨に泣訴した。安重誨は、史彦鎔を還鎮させ、李沖を召して歸朝させる(西帥への応対を辞めさせる)。

自監國入洛,內外機事皆決於李紹真。紹真擅收威勝節度使李紹欽、太子少保李紹沖下獄,欲殺之。安重誨謂紹真曰:「溫、段罪惡皆在梁朝,今殿下新平內難,冀安萬國,豈專為公報仇邪!」紹真由是稍沮。辛丑,監國教,李紹沖、紹欽複姓名為溫韜、段凝,並放歸田裡。
壬寅,以孔循為樞密使。

嗣源が入洛してから、内外の機事は、みな李紹真が決する。李紹真は、ほしいままに、威勝節度使の李紹欽と、太子少保の李紹沖を收めて下獄した。殺したい。安重誨が李紹真にいう。「温韜と段凝(李紹欽と李紹沖)の罪惡は、すべて梁朝にある。いま嗣源が新たに内難を平らげた。萬國を安じるのを冀う。どうしてもっぱら、李紹真が自分のために報仇して良かろうか」と。李紹真は、これにより稍沮する。
辛丑、嗣源が教書して、李紹沖と李紹欽を、もとの姓名である温韜と段凝にもどし、田裡に放歸する。

『欧史』によると、霍彦威は、温韜と段凝と、仲がわるい。
温韜と段凝が姓名をもらうのは、荘宗の同光元年である。

壬寅、孔循を樞密使とする。

李嗣源が即位、国号を「唐」で棺前即位

有司議即位禮。李紹真、孔循以為唐運已盡,宜自建國號。監國問左右:「何謂國號?」對曰:「先帝賜姓于唐,為唐復仇,繼昭宗後,故稱唐。今梁朝之人不欲殿下稱唐耳。」監國曰:「吾年十三事獻祖,獻祖以吾宗屬,視吾猶子。又事武皇垂三十年,先帝垂二十年,經綸攻戰,未嘗不預;武皇之基業則吾之基業也,先帝之天下則吾之天下也,安有同家而異國乎!」令執政更議。吏部尚書李琪曰:「若改國號,則先帝遂為路人,梓宮安所托乎!不惟殿下忘三世舊君,吾曹為人臣者能自安乎!前代以旁支入繼多矣,宜用嗣子柩前即位之禮。」眾從之。丙午,監國自興聖宮赴西宮,服斬衰,於柩前即皇帝位,百官縞素。既而御袞冕受冊,百官吉服稱賀。

有司は、即位の禮を議する。李紹真と孔循は「唐運はすでに盡きた。新たに国号を建てろ」という。監國(李嗣源)は左右に問う。「国号は何がいいか」と。左右「先帝は、大唐より賜姓して、大唐の復仇した(後梁を滅ぼした)。昭宗の後をつぎ、唐を称する。いま梁朝の人は、殿下が唐を称するのを欲さない」と。

献祖が、龐勛を平らげた功績により、李姓をもらった。
国号を唐とした。同光元年とは、大唐の天祐20年を継いだものだ。
胡三省はいう。新たな国号を作れという霍彦威と孔循は、後梁に仕えていた者だ。ときに嗣源の左右は、必ずしも儒者ばかりでない。だが彼らの言葉を見ると、正閏之位について、とても厳しい・厳かである。儒者であっても、易えるのは難しい。 ぼくは思う。おもしろい。こういう史料と注釈を読みたかった。

嗣源「私は13歳で獻祖(李国昌)に仕えた。献祖は私の宗屬であり、私を子のように視てくれた。武皇(李克用)に仕えることは30年になんなんとし、先帝(李存勗)にも20年になんなん。經綸・攻戰して、いまだかつて預らず。武皇之基業は、則ち、吾之基業なり。先帝之天下は、則ち、吾之天下なり。いずくんぞ、家を同じくして、国を異にすることありや」と。執政に更議させた。
吏部尚書の李琪「もし國號を改めたら、先帝はついに路人となる。梓宮は、どこに托されるか。殿下が三世の舊君(李国昌・李克用・李存勗)の恩を忘れないことから判断して、われらはなぜ人臣のために(もと後梁の臣の気持ちを優先して)人臣を安心させてよいものか。前代(大唐)は、旁支から入継する者が多い。嗣子柩前の即位之禮を用いよう」と。みな従う。

8983頁にちょっと注釈があるが、それより先行研究を。

丙午、監國は、興聖宮から西宮におもむき、斬衰(子が親のために着る喪服)を服して、柩前で即皇帝位した。百官は縞素を服する。すでにして、袞冕を御して受冊する(嗣君の礼)。百官は吉服・稱賀する。

ぼくは思う。排行として嗣源は、李存勗の「義弟」なんだが。


戊申,敕中外之臣毋得獻鷹犬奇玩之類。 有司劾奏太原尹張憲委城之罪;庚戌,賜憲死。 任圜將征蜀兵二萬六千人至洛陽,明宗慰撫之,各令還營。

戊申、中外之臣に敕して、鷹犬・奇玩之類を得て献じるなと。
有司は、太原尹の張憲が、委城した罪を劾奏する。庚戌、張憲に死を賜う。

張憲は、前朝の大臣である。罪を加えて殺した。

任圜は、征蜀の兵26千人をひきい、洛陽に至る。嗣源は慰撫して、おのおの還營させる。

征蜀のはじめ、60千人が出師した。蜀地にとどめた者、康延孝が叛して死んだ者をのぞいて、26千人のみかえった。


甲寅,大赦,改元。量留後宮百人,宦官三十人,教坊百人,鷹坊二十人,御廚五十人,自餘任從所適。諸司使務有名無實者皆廢之。分遣諸軍就食近畿,以省饋運。除夏、秋稅省耗。節度、防禦等使,正、至、端午、降誕四節聽貢奉,毋得斂百姓;刺史以下不得貢奉。選入先遭塗毀文書者,令三銓止除詐偽,餘復舊規。

甲寅、大赦して「天成」と改元した。量って留むるに、後宮百人,宦官三十人,教坊百人,鷹坊二十人,御廚五十人。その他も、適性に従って任じる。諸司使務のうち、有名無實な者は、みな廃した。諸軍をつかわし、近畿に就食する。饋運をはぶく。夏と秋の税を省耗する。節度・防禦等使は、正・至・端午・降誕の4節に、貢奉を聽す。

暦について、8984頁。

百姓を斂めさせない。刺史より以下は、貢奉できないことにする。さきに塗毀された文書は、三銓に詐偽を止除させ、ふたたび舊規にもどす。

「三銓」について、8994頁。


5月、荘宗にもらった李氏の姓名を返却する

五月,丙辰朔,以太子賓客鄭玨、工部尚書任圜並為中書侍郎、同平章事;圜仍判三司。圜憂公如家,簡拔賢俊,杜絕僥倖,期年之間,府庫充實,軍民皆足,朝綱粗立。圜每以天下為己任,由是安重誨忌之。
武寧節度使李紹真、忠武節度使李紹瓊、貝州剌吏李紹英、齊州防禦使李紹虔、河陽節度使李紹奇、洺州刺史李紹能,各請復舊姓名為霍彥威、萇從簡、房知溫、王晏球、夏魯奇、米君立,許之。從簡,陳州人也。晏球本王氏子,畜於杜氏,故請複姓王。

5月の丙辰ついたち、太子賓客の鄭玨、工部尚書の任圜を、どちらも中書侍郎・同平章事とする。任圜は、仍ち判三司。任圜は、公を憂うこと、家の如し。簡拔で賢俊、僥倖を杜絕する。期年之間、府庫は充實し,軍民は皆な足る。朝綱は、だいたい立つ。任圜は天下を己の任だと考える。安重誨は任圜を忌む。

史家はいう。任圜は、輔相として実績があがった。安重誨が、任圜をそしって殺す張本である。

武寧節度使の李紹真、忠武節度使の李紹瓊、貝州剌吏の李紹英、齊州防禦使の李紹虔、河陽節度使の李紹奇、洺州刺史の李紹能は、それぞれ姓名をもどしたい。霍彥威、萇從簡、房知溫、王晏球、夏魯奇、米君立と。嗣源は、これを許した。

ぼくは思う。よく似た李氏の姓名をバラまくのは、荘宗に顕著な政策だったのね。嗣源になったら、姓名を賜った臣下からの自己申告というかたちで、姓名が返上された。
李紹真と李紹虔は、梁将であったが荘宗に降ったので、姓名を賜った。その他は、荘宗の部将として戦功があったので、姓名を賜った。『通鑑』には、姓名を賜るシーンが、全て書かれているのではない。

萇從簡は、陳州の人。王晏球は、もとは王氏の子で、杜氏に養われた。ゆえに王姓にもどす。

丁已,初令百官正衙常朝外,五日一赴內殿起居。
宦官數百人竄匿山林,或落髮為僧,至晉陽者七十餘人,詔北都指揮使李從溫悉誅之。從溫,帝之侄也。
帝以前相州刺史安金全有功於晉陽,壬戌,以金全為振武節度使、同平章事。

丁已、はじめて百官に、正衙は常に朝外させ、5日に1度、內殿に趣き、起居させる。

ときに正衙は、つねに文明殿に朝御する。朔望に御する。内殿は、中興殿である。ぼくは思う。朔望なら、月に2回なのだが。

宦官の数百人が、山林に竄匿する。ある者は落髮して僧となる。晉陽に至る者は70余人。詔して、北都指揮使の李從溫に、宦官をすべて誅させる。李從溫は、嗣源のおいである。
前相州刺史の安金全が、有功で晉陽にいる。

梁均王の貞明2年にある。

壬戌、安金全を、振武節度使・同平章事とする。

丙寅,趙在禮請帝幸鄴都。戊辰,以在禮為義成節度使;辭以軍情未聽,不赴鎮。
李彥超入朝,帝曰:「河東無虞,爾之力也。」庚午,以為建雄留後。
甲戌,加王延翰同平章事。

丙寅、趙在禮は「嗣源は鄴都にきてくれ」と請う。戊辰、趙在礼を、義成節度使とする。軍の情勢にもとづき、趙在礼は鎮所にゆかない。
李彦超は、入朝する。嗣源「河東に虞れがないのは、きみの力だ」と。庚午、李彦超を建雄留後とする。

河東の軍府は、晋陽にある。李存沼が死んで、張憲が出走した。軍を鎮定したのは、すべて李彦超の力である。
晋州に鎮するが、まだ節ボウを授けないから「留後」である。

甲戌、王延翰に同平章事をくわえる。

王延翰は、先業をうけつぎ、閩地に拠る。


帝目不知書,四方奏事皆令安重誨讀之,重誨亦不能盡通,乃奏稱:「臣徒以忠實之心事陛下,得典樞機,今事粗能曉知,至於古事,非臣所及。願仿前朝侍講、侍讀、近代直崇政、樞密院,選文學之臣與之共事,以備應對。」乃置端明殿學士,乙亥,以翰林學士馮道、趙鳳為之。
丙子,聽郭崇韜歸葬,復硃友謙宮爵;兩家貨財田宅,前籍沒者皆歸之。
戊寅,以安重誨領山南東道節度使。重誨以襄陽要地,不可乏帥,無宜兼領,固辭;許之。

嗣源は、目には書を知らず。四方の奏事は、みな安重誨に読ませた。安重誨もまた、全てに通じない。安重誨は奏稱した。「私は忠實之心で陛下に仕え、樞機を典せる。今事は、だいたい曉知するが、古事は理解が及ばない。前朝の侍講・侍讀、近年に設置された直崇政(梁制)、直樞密院(荘宗の制)にならって、文學之臣を選んで、ともに仕えたい。応対に備えたい」と。

梁制や荘宗の制度、今回の制度について、8985頁。

嗣源は、端明殿の學士をおく。乙亥、翰林學士の馮道と趙鳳を、これに任命した。
丙子、郭崇韜の歸葬をゆるす。硃友謙の官職をもどす。両家(郭氏と朱氏)の貨財と田宅で、前に籍沒した者は、すべて返却した。

2人の讒死は、上巻の本年正月にある。

戊寅、安重誨に、山南東道節度使を領させる。重誨は、襄陽が要地なので、帥を乏しくすべきでなく、自分の兼領では務まらないと固辞する。許す。

襄陽は、蜀地を控え、荊州を扼す。ゆえに要地だ。


6月、汴州の将士がそむき、李彦饒が平定する

詔發汴州控鶴指揮使張諫等三千人戍瓦橋。六月,丁酉,出城,復還,作亂,焚掠坊市,殺權知州、推官高逖。逼馬步都指揮使、曹州刺史李彥饒為帥,彥饒曰:「汝欲吾為帥,當用吾命,禁止焚掠。」眾從之。己亥旦,彥饒伏甲於室,諸將入賀,彥饒曰:「前日唱亂者數人而已。」遂執張諫等四人,斬之。其黨張審瓊帥眾大噪於建國門,彥饒勒兵擊之,盡誅其眾四百人,軍、州始定。即日,以軍、州事牒節度推官韋儼權知,具以狀聞。庚子,詔以樞密使孔循知汴州,收為亂者三千家,悉誅之。彥饒,彥超之弟也。

詔して、汴州控鶴指揮使の張諫ら3千人を発して、瓦橋を戍らせる。6月丁酉、汴州を出城する。復た還り、作亂する。坊市を焚掠し、權知州を殺す。高逖を推官する。

控鶴は、後梁の侍衛の親軍である。積驕なので、遠隔地の防御をはばかり(行きたくないから)錯乱した。けだし当時の天下では、みなが驕兵である。

乱兵は、逼馬步都指揮使・曹州刺史の李彦饒を、帥とする。李彦饒「きみらが私を帥にしたいなら、私の命令を用いろ。焚掠は禁止する」と。乱兵は従った。
己亥旦、李彦饒は、室に伏甲する。諸將が入賀する。李彦饒「前日、乱を唱えた者は、数人だけ」と。ついに張諫ら4人を捕らえて斬った。その党与である張審瓊は、軍衆をひきいて、建國門で大噪する。李彦饒は、勒兵して擊つ。4百人をすべて誅した。軍と州ははじめて定まる。
この日、軍・州事牒節度推官の韋儼が權知して、くわしく報告する。

李彦饒は、汴州にいて、滑州をみだす。当時の将士が驕悖なので、李彦饒は将士と長く一緒にいるうちに、習俗に感化されてしまったのだろうか。

庚子、樞密使の孔循に詔して、汴州を知させる。亂者3千家を収め、すべて誅する。李彦饒は、李彦超の弟である。

蜀百官至洛陽,永平節度使兼侍中馬全曰:「國亡至此,生不如死!」不食而卒。以平章事王鍇等為諸州府刺史、少尹、判官、司馬,亦有復歸蜀者。
辛丑,滑州都指揮使於可洪等縱火作亂,攻魏博戍兵三指揮,逐出之。
乙巳,敕:「朕二名,但不連稱,皆無所避。」

前蜀の百官は、洛陽に至る。(前蜀の)永平節度使・兼侍中の馬全はいう。「国が亡びて、こうなった。生きているが、死んだも同じ」と。馬全は、食わずに卒した。平章事の王鍇らを、諸州府の刺史・少尹・判官・司馬とする。ふたたび蜀地に帰す。
辛丑、滑州都指揮使の于可洪らは、縱火・作亂する。魏博の戍兵三指揮を攻める。魏博の兵を、逐出する。
乙巳、嗣源は敕す。「朕の名の2字は、連続で ”嗣源” と使わないなら、1字ずつを避けなくて良い」と。

戊申,加西川節度使孟知祥兼侍中。
李繼曮至華州,聞洛中亂,復歸鳳翔;帝為之誅柴重厚。
高季興表求夔、忠、萬三州為屬郡,詔許之。

戊申、西川節度使の孟知祥に、兼侍中を加える。
李繼曮は、華州に至る。洛中の亂を聞き、ふたたび鳳翔に帰する。嗣源は、李継曮のために、柴重厚を誅する。

柴重厚は、李継曮を納れなかった。本年の2月である。ぼくは思う。胡三省は「李従曮を納れない」と書いているが、李継曮だろうなあ。

高季興は表して、夔・忠・萬三州を属郡としたい。嗣源は許す。130915

荘宗が伐蜀すると、詔して高季興には、夔州・忠州・萬州をとらせて、巡属とした。だが高季興は、3州を自力で取れなかった。王衍(蜀主)が敗れて、3州は後唐に帰した。高季興は、その3州を後唐から譲ってもらった。高季興が王命を式せず、兵を興して、討たれる張本である。

閉じる

926年秋、李存勗を「明宗」とし、阿保機が卒す

7月、安重誨がのさばる

安重誨恃恩驕橫,殿直馬延誤衝前導,斬之於馬前,御史大夫李琪以聞。秋,七月,重誨白帝下詔,稱延陵突重臣,戒諭中外。

安重誨は、恃恩・驕橫する。殿直の馬延が、誤って前導を衝った。安重誨は、馬前で馬延を斬った。

殿直について、8988頁。

御史大夫の李琪が、嗣源に(安重誨が馬延を斬ったと)報告した。秋7月、安重誨は、嗣源に白して、下詔させる。「馬延は、重臣を陵突した」として、中外に戒諭した。

胡三省はいう。李琪は安重誨の牽制をはばかって、あえて劾奏しない。ただこれを、嗣源にチクっただけ。
胡三省はいう。この一事(馬延を斬ったこと)だけで、安重誨は死を取るに足る。


於可洪與魏博戍將互相奏雲作亂,帝遣使按驗得實,辛酉,斬可洪於都市,其首謀滑州左崇牙全營族誅,助亂者右崇牙兩長劍建平將校百人亦族誅。
壬申,初令百官每五日起居,轉對奏事。

于可洪と、魏博の戍將は、相互に「あいつが作乱する」と奏した。
嗣源は使者をやり、実態を按驗させた。辛酉、于可洪を都市で斬った。その首謀である、滑州左崇牙の全營を族誅した。助亂した右崇牙・兩長劍・建平の將校1百人もまた、族誅した。
壬申、はじめて百官に、5日ごとに起居させ、奏事を轉對させる。

盛唐のときと同じにした。百官は、本司の公事(自分の職掌にかんすること)を、転封した。


契丹主が、嗣源の謀反と、河北の割譲をいう

契丹主攻勃海,拔其夫餘城,更命曰東丹國。命其長子突欲鎮東丹,號人皇王,以次子德光守西樓,號元帥太子。帝遣供奉官姚坤告哀於契丹。契丹主聞莊宗為亂兵所害,慟哭曰:「我朝定兒也。吾方欲救之,以勃海未下,不果往,致吾兒及此。」哭不已。虜言「朝定」,猶華言朋友也。

契丹主は、勃海を攻め、夫餘城をぬく。勃海国を東丹国と改める。長子の突欲に命じて、東丹に鎮させ「人皇王」と号する。次子の德光に、西樓を守らせ「元帥太子」と号する。
嗣源は、供奉官の姚坤を契丹にやり、荘宗の哀を告げる。契丹主は「莊宗が亂兵に殺害された」と聞く。慟哭していう。「わが ”朝定” は、私の児である。我らが荘宗を救おうとしたが、勃海が降らないので、いけなかった。わが児(荘宗)を殺させてしまった」と。契丹主は、哭いて已まず。虜は ”朝定” というが、中華の言葉で朋友の意味である。

ぼくは思う。契丹主の阿保機は、李克用と義兄弟になった。だから、李存勗は「児」なんだろう。


又謂坤曰:「今天子聞洛陽有急,何不救?」對曰:「地遠不能及。」曰:「何故自立?」坤為言帝所以即位之由,契丹主曰:「漢兒喜飾說,毋多談!」突欲侍側,曰:「牽牛以蹊人之田,而奪之牛,可乎?」坤曰:「中國無主,唐天子不得已而立;亦由天皇王初有國,豈強取之乎!」契丹主曰:「理當然。」又曰:「聞吾兒專好聲色游畋,不恤軍民,宜其及此。我自聞之,舉家不飲酒,散遣伶人,解縱鷹犬。若亦效吾兒所為,行自亡矣。」

また契丹主は姚坤にいう。「いま天子(嗣源)は、洛陽に急あると聞き、なぜ救わなかったか」と。姚坤「地は遠く、及ぶ能わず」と。契丹主「なぜ自ら立ったか」と。姚坤は、嗣源の即位之由をいう。契丹主「漢兒は、飾說を喜ぶ。多談するな」と。

ぼくは思う。嗣源が、実際には荘宗に謀反して、荘宗を追い込んで殺し、さらに帝位を奪ったことについて、第三者である契丹主が代弁してくれた。こういう観察者って、便利なのだ。バトル漫画で、情勢を見守り、読者に解説してくれるキャラがいるように。

長子の突欲が侍側する。突欲「牛を牽く者が、人の田を踏んだとする。その牛を奪って良いか」と。

『左氏伝』の申叔の言葉えである。契丹は中国を慕うから、中国のテキストから引用して、セリフを言ったのだ。

姚坤「中國に主なし。唐の天子(嗣源)は、やむを得ず即位したのだ。また天皇王(契丹主)がはじめて国をとったとき、強取したのではなかったか」と。

ぼくは思う。「私がやったことは、悪いかも知れない。だが、あなたも同じことをやったなら、私を責める権利もないはずだ。あなたに責められない私は、悪くないのだ」という論法である。

契丹主「理は、まさに然るべし」と。契丹主「聞くならく、わが児(荘宗)は、もっぱら聲色・游畋を好む。軍民を恤まず。殺されても仕方ない。私は荘宗の末路を聞いて、家をあげて飲酒せず、伶人を散遣させ、鷹犬を解縱した。もし私も、わが児(荘宗)と同じことをすれば、おのずと滅亡するだろう」と。

ぼくは思う。自己評価が正しいから、契丹主は堕落しない。有能でなることよりも、自己評価が正しいほうが、人材としては優れている。有能で自己評価が歪んでいるより、無能で自己評価が正しいほうが、名君である。


又曰:「吾兒與我雖世舊,然屢與我戰急,於今天子則無怨,足以修好。若與我大河之北,吾不復南侵矣。」坤曰:「此非使臣之所得專也。」契丹主怒,囚之,旬餘,復召之,曰:「河北恐難得,得鎮、定、幽州亦可也。」給紙筆趣令為狀,坤不可,欲殺之,韓延徽諫,乃復囚之。

また契丹主はいう。「わが児(荘宗)と、私は、世よ旧縁がある。だがしばしば、きびしく戦ってきた。いま天子(嗣源)とは、無怨であり、修好するに足りる。もし契丹に大河之北を与えるなら、もう私は南侵しない」と。姚坤「私だけで専決できない」と。契丹主は怒り、姚坤を10日余、とらえた。また召した。「河北は、得るのが難しいと恐れる。鎮州、定州、幽州なら、割譲しないか」と。紙筆を給し、文書をつくれと促した。姚坤はできず、殺されかけた。だが韓延徽が諫めたので(殺されないが)また囚われた。

7月、李存勗を明宗とし、孟知祥が独立をねらう

丙子,葬光聖神閔孝皇帝於雍陵,廟號莊宗。
丁丑,鎮州留後王建立奏涿州剌史劉殷肇不受代,謀作亂,已討擒之。
己卯,置彰國軍於應州。

丙子、光聖神閔孝皇帝を、雍陵に葬る。廟號は莊宗。
丁丑、鎮州留後の王建立が、「涿州剌史の劉殷肇が、交代してくれない。作亂を謀る。すでに討擒した」と奏した。

唐代の方鎮は、涿州にある。幽州節度使は郡に属するが、鎮州節度に属さない。しかし王建立が、涿州刺史を殺せたのはなぜか。嗣源がはじめて天下を得て、方鎮・州郡で、反する者は、なおおおい。王建立は、嗣源が親しむ者である。越境して涿州刺史をとらえても、嗣源が(越権行為を事後で)許してくれるからだ。

己卯、彰國軍を應州におく。

地理と所属について、8990頁。沙陀(後唐の皇族)が、覇業を始めた土地だから「応州」と名付けたらしい。


門下侍郎、同平章事豆盧革、韋說奏事帝前,或時禮貌不盡恭;百官俸錢皆折估,而革父子獨受實錢;百官自五月給,而革父子自正月給;由是眾論沸騰。說以孫為子,奏官;受選人王參賂,除近官。中旨以庫部郎中蕭希甫為諫議大夫,革、說覆奏。希甫恨之,上疏言「革、說不忠前朝,阿庚取容」;因誣「革強奪民田,縱田客殺人;說奪鄰家井,取宿藏物。」制貶革辰州刺史,說漵州剌史。庚辰,賜希甫金帛,擢為散騎常侍。

門下侍郎・同平章事の豆盧革と韋説は、帝前で奏事した。あるとき、禮貌が恭を尽くさず。
百官の俸錢は、みな折估する(満額支給でない)が、豆盧革の節だけは、満額の銭を受けとった。百官は、5月から給わるが、豆盧革の父子は、正月からもらう。これにより衆論は(豆盧革だけズルいと)沸騰した。
韋説は、実孫を子だといつわり、奏官した。

ぼくは思う。宰相である韋説からみて、世代が近いと、スタート=起家のとき、たかい官位に就けるのだろう。唐代の制度は、知りませんが。

選人の王参から賄賂され、近官(都に近い州県の官)に除してあげた。
中旨により、庫部郎中の蕭希甫を、諫議大夫とした。豆盧革と韋説は、奏を覆した。蕭希甫はこれを恨み、上疏した。「豆盧革と韋説は、前朝に忠さず。阿庚・取容する」と。蕭希甫は誣した「豆盧革は、民田を強奪して、田客に殺人させる。鄰家の井(備蓄)を奪い、宿藏した物をとる」と。
李嗣源は制して、豆盧革を辰州刺史、韋説を漵州剌史におとしめる。庚辰、蕭希甫に金帛を賜り、散騎常侍に擢ぶ。

辛巳,契丹主阿保機卒於夫餘城,述律後召諸將及酋長難制者之妻,謂曰:「我今寡居,汝不可不效我。」又集其夫泣問曰:「汝思先帝乎?」對曰:「受先帝恩,豈得不思!」曰:「果思之,宜往見之。」遂殺之。

7月辛巳、契丹主の阿保機が、夫餘城で卒す。述律皇后が、諸將および酋長のうち、制しがたい者の妻を召す。述律「私はいま寡居する(寡婦となった)。あなたたちは、私に、ならわなければ(寡婦にならねば)ならない」と。またその夫を集めて、泣問した。「あなたがたは、先帝(阿保機)を思わないか」と。夫たち「先帝の恩を受けた。先帝を思わずにはいられようか」と。述律「果たしてこれを思うなら、宜しく往きて、これに見ゆべし」と。ついにこれ(制しがたい諸将や酋長)を殺した。

なんという作戦。こわいなあ。


癸未,再貶豆盧革費州司戶,韋說夷州司戶。甲申,革流陵州,說流合州。
孟知祥陰有據蜀之志,閱庫中,得鎧甲二十萬,置左右牙等兵十六營,凡萬六千人,營於牙城內外。

7月癸未、ふたたび豆盧革を費州司戶におとしめ、韋說を夷州司戶に貶める。甲申、豆盧革を陵州に流し、韋説を合州に流す。

胡三省はいう。唐末より、流された者は、死を賜った。豆盧革と韋説は、流された先に、生きて到着できない。
ぼくは思う。この2人は、荘宗が「大唐を復元」するために用いた、故事は知っているが、実務において無能な高官。荘宗がいなくなれば、彼らも用済み。李嗣源は、大唐の復元ではなく、現状にあった統治をすることで、五代のなかでも小康状態を作り出した。

孟知祥は、ひそかに據蜀之志がある。庫中を閱し、鎧甲20萬を得る。左右牙らの兵16営をおき、16千人。牙城の內外に営する。

ぼくは思う。荘宗が命をかけて、前蜀を滅ぼした。つまり、前蜀を滅ぼしたことで、郭崇韜を死に追いやり、自分も殺されるに至った。その蜀地すら、また中原の五代から切り離されようとしている。悲劇のエンディングである。


2013年の夏のおわりに

20130914に三国志学会にいって、三国志にもどりたくなったので、ここで終了です。もともと五代は、夏休みのテーマだったし。荘宗=李存勗が、きちんと片づいたので。阿保機まで死んでくれて、キリの良いことだ。

欧陽脩『新五代史』の後梁と後唐の本紀だけ、京都にゆく往復の電車のなかで読んだ。記述がスカスカすぎて、『蜀志』劉禅伝のようだった。どうやら、薛居正『旧五代史』から、読み始めねば、いけなかったらしい。

以下、ちょっと先走って作ってしまった。消すのが惜しいので、載せときます。

趙季良等運蜀金帛十億至洛陽,時朝遷方匱乏,賴此以濟。
是歲,吳越王鏐以中國喪亂,朝命不通,改元寶正;其後復通中國,乃諱而不稱。

趙季良らは、蜀地の金帛10億を、洛陽に運ぶ。ときに朝廷は、備蓄が乏しい。この金帛を救済とした。130915

「億」の意味について、8997頁。10万×1万なのかとか。

この歳、吳越王の銭鏐は、中國が喪亂するので、朝命は通じない。「寶正」と改元した。のちに中原と、ふたたび通じた。諱んで稱さず。

呉越の改元について、『考異』あり。8997頁。呉越が自立した時期について、史料によって食い違いがあるようです。
131006追記。
両漢4百年と隋唐3百年は違う。杉山正明『疾駆する草原の征服者』を読んだ。唐の後半150年(安史の乱以降)は、軍閥=藩鎮が割拠し、唐帝は地方政権。まるで董卓から李傕と繋がる政権が、150年以上も関中で代数を重ねたみたいな。当然「漢末」の漢の規制力より、「唐末」の唐の規制力は弱い。
漢末において漢帝は、群雄の行動や発言をきつく縛る。類例が「世界帝国・隋唐の末期」にあるはずで、漢末を理解する参考になると思い、この夏は五代を見た。唐帝の後継(後梁の朱温、後唐の李存勗)が、いかに葛藤するのか読みたかった。だが彼らは唐帝に対して冷淡(≒冷静)。軍事の実利が行動原理。
「唐末を漢末に比する」という着想をした時点で、宋代の史料編纂者たちの歴史観の上で踊っていることを意味する。杉山氏の本を読んで気づいた。漢と唐は「滅びかた」ないし「克服される仕方」は、あまり似ていない。かといって、漢の特殊性/固有性/一回性などを言っても、そりゃ思考停止なわけで。なにが同じで、なにが違うか、それはなぜで、そこから何を言えるか。考えましょう。

閉じる

inserted by FC2 system