両晋- > 『資治通鑑』唐紀を抄訳 923年2月-923年12月

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923年春、

資治通鑑 第272卷 【後唐紀一】 昭陽協洽,一年。
莊宗光聖神閔孝皇帝上同光元年(癸未,公元九二三年)

2月、晋王が百官を置き、梁帝が呉越王を封ず

春,二月,晉王下教置百官,於四鎮判官中選前朝士族,欲以為相。河東節度判官盧質為之首,質固辭,請以義武節度判官豆盧革、河東觀察判官盧程為之;王即召革、程拜行台左、右丞相,以質為禮部尚書。

春2月、晉王は、教を下し、百官をおく。四鎮判官から、前朝の士族を選び、晋国の相にしたい。

四鎮とは、河東、魏博、易定、鎮冀である。

河東節度判官の盧質を首(首相)とする。盧質は固辞した。

胡三省はいう。盧質は、晋王の諸弟を慢罵した。また、惟新の朝において、国相の位を辞することができた。これは、必ず見るべきである。

義武節度判官の豆盧革と、河東觀察判官の盧程にも、相になれと請う。晋王は、即ち、豆盧革と盧程を召して、行台左・右丞相を拝させた。盧質は、禮部尚書となる。

梁主遣兵部侍郎崔協等冊命吳越王鏐為吳越國王。丁卯,鏐始建國,儀衛名稱多如天子之制,謂所居曰宮殿,府署曰朝廷,教令下統內曰制敕,將吏皆稱臣,惟不改元,表疏稱吳越國而不言軍。以清海節度使兼侍中傳瓘為鎮海、鎮東留後,總軍府事。置百官,有丞相、侍郎、郎中、員外郎、客省等使。

梁主は、兵部侍郎の崔協らをつかわし、吳越王の銭鏐に冊命して、吳越國王とした。2月丁卯、銭鏐ははじめて建国した。儀衛の名稱は、おおくを天子之制のごとくした。所居を宮殿といい、府署を朝廷といい、統内に教令下する文書を制敕という。將吏は、みな稱臣した。ただ改元しないだけ。表疏では「吳越國」といい「軍」といわない。

建国したから、もう「鎮海、鎮東軍節度」といわない。

清海節度使・兼侍中の傳瓘を、鎮海・鎮東留後として、軍府の事を総べさせる。百官をおく。丞相、侍郎、郎中、員外郎、客省等使をおく。

『考異』はいう。『十国紀年』によると、銭氏は後期に政治を荒らしたと。ただし、銭鏐は貧賤から身を起こして、民の苦しみを知る。奢侈になるのは、銭鏐の子孫からである。8880頁。


3月、李継韜が、沢州と潞州を以て、梁国に降る

李繼韜雖受晉王命為安義留後,終不自安,幕僚魏琢、牙將申蒙復從而間之曰:「晉朝無人,終為梁所並耳。」會晉王置百官,三月,召監軍張居翰、節度判官任圜赴魏州,琢、蒙復說繼韜曰:「王急召二人,情可知矣。」繼韜弟繼遠亦勸繼韜自托於梁,繼韜乃使繼遠詣大梁,請以澤潞為梁臣。梁主大喜,更命安義軍曰匡義,以繼韜為節度使、同平章事。繼韜以二子為質。

李繼韜は(上年に)晉王の命を受けて、安義留後となる。だが不安である。幕僚の魏琢と、牙將の申蒙は、李継韜に従って、これに間していう。「晋朝に人なし。最後は梁国に併合されるだろう」と。たまたま晋王が百官をおく。
3月、晋王は、監軍の張居翰と、節度判官の任圜を召して、魏州にゆかす。

胡三省はいう。(宦官の)張居翰は、唐代の昭宗のとき、范陽監軍となった。天復期に、おおいに宦官が誅された。節度使の劉仁恭は、張居翰を大安山にかくまった。張居翰は殺されずにすんだ。のちに、梁兵が劉仁恭を攻めると、張居翰は晋王に従って、梁国の潞州を攻めて、兵をひきいた。晋王が潞州をとると、張居翰は昭義監軍となった。

魏琢と申蒙は、ふたたび李継韜にいう。「晋王は、急に2人を召した。事情を分かる」と。李継韜の弟・李繼遠もまた、李継韜に「梁国を頼れ」と勧める。李継韜は、李継遠を大梁への使者とした。沢州と潞州を領土として、梁臣になりたい。梁主は大喜する。安義軍を「匡義」軍と改称した。李継韜を、梁国の節度使・同平章事とする。李継韜の2子を質とする。

ぼくは思う。梁国の領土が縮小し、『通鑑』なんてこれを「唐紀」とするが。まだ梁国が盛り返す可能性は残っている。すくなくとも李継韜は、そう判断している。


安義舊將裴約戍澤州,泣諭其眾曰:「餘事故使逾二紀,見其分財享士,志滅仇讎。不幸捐館,柩猶未葬,而郎君遽背君親,吾寧死不能從也!」遂據州自守。梁主以其驍將董璋為澤州刺史,將兵攻之。

安義の旧将である裴約は、澤州を戍る。泣いて軍衆に諭す。「わたしは、故使(李嗣昭)に仕えて、2紀をこえた。

故使とは、李継韜の父・李嗣昭をいう。12年を1紀という。だから裴約が安義の軍に仕えてから、24年である。

故使(李嗣昭)は、財を分け、士を享した。故使の志は、仇讎を滅すること。不幸にして館を捐て(死去し)柩は葬られていない。だが郎君(李継韜)は、君と親に背く。私は死んでも、李継韜に従えない」と。

胡三省はいう。君主を棄てて、讐につかえる。これは、君主に背くだけでなく、親の教命にも背くことである。

ついに裴約は、沢州に拠って(李継韜に抵抗して)自守した。梁主は、驍將の董璋を、梁国の澤州刺史として、沢州を攻めた。

繼韜散財募士,堯山人郭威往應募。威使氣殺人,系獄,繼韜惜其才勇而逸之。

李継韜は、散財・募士する。堯山の人・郭威は、応募した。郭威は気によって人を殺す。系獄される。李継韜は、郭威の才勇を惜しんで、獄から逃がした。

胡三省はいう。郭威のことは、ここに始まる。
『欧史』はいう。郭威は、かつて市に遊ぶ。市に屠者がいる。屠者は、勇をもって、市人を服させた。郭威は酔って、屠者を呼んで、肉を割かせた。肉の割き方が、法でない(不公平である)。郭威は屠者を叱った。屠者は、腹を示していう。「おまえの勇は、私を殺せるか」と。郭威は刀をとって、屠者を視察した。市の者は驚くが、郭威はもとのまま。郭威は吏に捕らわれ、李継韜に逃がしてもらった。
ぼくは補う。郭威は、後周の初代皇帝。日本のウィキペディアはいう。父郭簡は、晋王・李克用の時代に刺史に任じられる高官であったが、郭威が幼少の頃、戦争に巻き込まれて戦死したために家門は没落する。やがて一兵卒から立身し、劉知遠にその才能を見出され重臣となった。劉知遠が後漢を建国するに際し大功を挙げ、枢密副使にまで昇進している。


契丹寇幽州,晉王問帥子郭崇韜,崇韜薦橫海節度使李存審。時存審臥病,己卯,徙存審為盧龍節度使,輿疾赴鎮,以蕃漢馬步副總管李嗣源領橫海節度使。

契丹が、幽州を寇した。晉王は、郭崇韜に「だれが帥に適任か」と問う。郭崇韜は、横海節度使の李存審を薦めた。ときに李存審は、臥病する。3月己卯、李存審をうつして、盧龍節度使とする。輿疾で赴鎮する。蕃漢馬步副總管の李嗣源に、横海節度使を領させる。130901

李嗣源は、ときに晋王に従って、兵を総べる。横海節を領させられた。
ぼくは思う。13年の夏休み明けの2週目は、週のまんなかに2日も会社の飲み会があった。『通鑑』は、後唐紀3巻分(李存勗が死ぬまで)に目を通しただけ。抄訳は、まる1週間、休んでしまった。そのあいだに、仁木英之氏の『僕僕先生』を読んだり。仁木氏の『朱温』は、最後の4分の1をこれから読む。『李嗣源』に早く進みたい。

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923年夏、

夏4月、

晉王築壇於魏州牙城之南,夏,四月,己巳,升壇,祭告上帝,遂即皇帝位,國號大唐,大赦,改元。尊母晉國太夫人曹氏為皇太后,嫡母秦國夫人劉氏為皇太妃。以豆盧革為門下侍郎,盧程為中書侍郎,並同平章事;郭崇韜、張居翰為樞密使,盧質、馮道為翰林學士,張憲為工部侍郎、租庸使,又以義武掌書記李德休為御史中丞。德林,絳之孫也。

晉王は、魏州の牙城之南に築壇した。夏4月の己巳、升壇して、上帝に祭告する。ついに即皇帝位したと。國號は大唐とする。大赦して改元した。

胡三省はいう。「ついに」というのは、さきに即位したい心があり、それを達成したから。ぼくは思う。まるで『春秋』の注釈みたいだ。おもしろい。ずっと岩本憲司氏の『公羊伝』の日本語訳を、中古で検索をかけているのだが。今日も見つからなかった。
まえの唐朝にちなんだ国号である。天祐を改めて、同光と改元した。

晋帝の生母の曹氏を皇太后とする。嫡母の劉氏を皇太妃とする。

胡三省はいう。君子は、晋帝が寿命を終えられないことを知る。ぼくは補う。皇太后とすべきは、嫡母の劉氏のほうだ。序列が逆転しているから、「終えず」なのだ。

豆盧革を門下侍郎とし、盧程を中書侍郎として、どちらも同平章事させる。郭崇韜と張居翰を、樞密使とする。

徐無党はいう。枢密使は、唐代に宦官がついた。その職権は、とても微である。ここにいたり、初めて士人を枢密使にもちいた。宰相の権限にちかい。徐無党が考えるに、唐末に、両枢密と両神策中尉は、「4貴」といわれた。これらの職権は微でなくなった。など、枢密使の権限について。8882頁。

盧質と馮道を、翰林學士とする。張憲を、工部侍郎、租庸使とする。

宋白はいう。租庸使は、天宝3年に韋堅より始まった。

義武掌書記の李德休を、御史中丞とする。李徳林は、李絳の孫である。

李絳は、憲宗のときの宰相。直声あり。


詔盧程詣晉陽冊太后、太妃。 初,太妃無子,性賢,不妒忌;太后為武皇侍姬,太妃常勸武皇善待之,太后亦自謙退,由是相得甚歡。及受冊,太妃詣太后宮賀,有喜色,太后忸怩不自安。太妃曰:「願吾兒享國久長,吾輩獲沒於地,園陵有主,餘何足言!」因相向歔欷。豆盧革、盧程皆輕淺無它能,上以其衣冠之緒,霸府元僚,故用之。

盧程に詔して、晋陽にゆき、太后と太妃に冊する。

ぼくは思う。盧程の列伝を読まねば。

はじめ太妃に子がない。性は賢で、妒忌せず。太后が武皇(李克用)の侍姬となると、太妃はつねに李克用に、太后の待遇を善くさせた。太后は、自分は謙退した。これにより、2人は仲が良い。受冊におよび、太妃は太后宮を詣でて賀した。

ぼくは補う。子のできない嫡妻が、李存勗(いまの唐帝)を生んだ側妻を、祝いにきたのだ。ひたすら嫡妻が、できた人物であると。

太妃に喜色がある。太后は、忸怩として不安になる。

ぼくは思う。唐帝の生母は、唐帝の嫡母が、権力をよこせと言わないか、心配なのだ。いくら嫡母の人物ができていて、謙虚であっても、唐帝の即位したタイミングで、序列の逆転が起こるかも知れないから。

太妃「わたしの子が、国の久長を享けることを願う。私が死に場所を得たら、園陵の主となる。ほかに何も言うことがない」と。嫡母と生母は、向きあって歔欷した。

豆盧革、盧程皆輕淺無它能,上以其衣冠之緒,霸府元僚,故用之。

豆盧革と盧程は、どちらも輕淺で、ほかに能力がない。唐帝は、衣冠之緒をもって、霸府の元僚をもちいた。

『欧史』によると、豆盧氏は、唐代の名族である。豆盧氏の来歴と、唐末の動きについて、8882頁。
胡三省はいう。唐帝が宰相を選ぶとき、唐代の公卿や故家は、おおくが衰亡していた。廬汝弼と蘇循はすでに死んだ。盧質は辞退した。ゆえに、豆盧革や盧程を宰相とした。興王の君を補佐するのが、このレベルの人材である。天下の事は(レベルが低いと)分かるだろう。


初,李紹宏為中門使,郭崇韜副之。至是,自幽州召還,崇韜惡其舊人位在己上,乃薦張居翰為樞密使,以紹宏為宣徽使,紹宏由是恨之。居翰和謹畏事,軍國機政皆崇韜掌之。支度務使孔謙自謂才能勤效,應為租庸使;眾議以謙人微地寒,不當遽總重任,故崇韜薦張憲,以謙副之,謙亦不悅。

はじめ李紹宏は、中門使となる。郭崇韜は、その副官となる。ここにいたり、幽州から召還される。郭崇韜は、旧知の者が、自分の上位にあるのを悪む。郭崇韜は、張居翰を薦めて枢密使とする。李昭宏を宣徽使とする。李昭宏は、これを恨む。

唐制において、宣徽使は、枢密使の下である。権任は、遠く及ばない。

張居翰は(下位の李昭宏に恨まれたので)和謹して畏事する。軍國の機政は、みな郭崇韜が掌握する。支度務使の孔謙は、みずから才能が勤效といい、応じて租庸使となる。衆議は、孔謙が人微・地寒だから。重任を遽總させるなという。ゆえに郭崇韜は、張憲を薦めて、孔謙の副官とした。孔謙もまた、この人事を悦ばない。

ぼくは思う。みんな不満である。いちど唐制の官職のランクがリセットされて、ふたたび晋王=唐帝の主催のもと、合流した。何らかの上下を付けなければならない。だが、誰にとっても不満が残る。


以魏州為興唐府,建東京。又於太原府建西京,又以鎮州為真定府,建北都。以魏博節度判官王正言為禮部尚書,行興唐尹;太原馬步都虞候孟知祥為太原尹,充西京副留守;潞州觀察判官任圜為工部尚書,兼真定尹,充北京副留守;皇子繼岌為北都留守、興聖宮使,判不軍諸衛事。時唐國所有凡十三節度、五十州。

魏州を興唐府として、東京を建てる。太原府に西京を建てる。鎮州を真定府とし、北都を建てる。魏博節度判官の王正言を、禮部尚書・行興唐尹とする。太原馬步都虞候の孟知祥を、太原尹・充西京副留守とする。潞州觀察判官の任圜を、工部尚書・兼真定尹・充北京副留守とする。皇子の李継岌を、北都留守・興聖宮使・判不軍諸衛事とする。ときに唐国では、13節度、50州ある。

後唐の土地制度について、中華書局版8883頁。


閏月、

閏月,追尊皇曾祖執宜曰懿祖昭烈皇帝,祖國昌曰獻祖文皇帝,考晉王曰太祖武皇帝。立宗廟於晉陽,以高祖、太宗、懿宗、昭宗洎懿祖以下為七室。

閏月、曽祖父、祖父、父に追諡する。大唐の高祖、太宗、懿宗、昭宗と、後唐の3代とで、七室の廟をつくる。

ぼくは思う。劉禅の七廟。923年、李存勗が唐帝に即位。統一王朝の大唐を復興したという建前。李存勗が七廟を建てた。大唐の高祖、太宗、懿宗、昭宗の4代に、自分の曽祖父・祖父・父をつなげた。劉禅が七廟を建てるなら、どこまで劉備の親族にするか。蜀漢の臣になったつもりで議論したら楽しいかも。


閏月、李嗣源が鄆州をとり、天平節度使に

甲午,契丹寇幽州,至易定而還。
時契丹屢入寇,鈔掠饋運,幽州食不支半年,衛州為梁所取,潞州內叛,人情岌岌,以為梁未可取,帝患之。會鄆州將盧順密來奔。先是,梁天平節度使戴思遠屯楊村,留順密與巡檢使劉遂嚴、都指揮使燕顒守鄆州。順密言於帝曰:「鄆州守兵不滿千人,遂嚴、顒皆失眾心,可襲取也。」郭崇韜等皆以為「懸軍遠襲,萬一不利,虛棄數千人,順密不可從。」帝密召李嗣源於帳中謀之曰:「梁人志在吞澤潞,不備東方,若得東平,則潰其心腹。東平果可取乎?」

閏月の甲午、契丹が幽州を寇した。易定に至って還る。
ときに、しばしば契丹が入寇して、饋運(食糧輸送)を鈔掠する。幽州の食は、半年も支えられない。衛州は梁国に取られ、潞州は内叛する。人情は岌岌とする。梁国をまだ滅ぼせない。唐帝はわずらう。
たまたま、鄆州の將・盧順密が來奔した。これより先、梁国の天平節度使の戴思遠が、楊村に屯する。

戴思遠が楊村に屯する記事は、貞明5年にある。

戴思遠は、前述の盧順密と、巡檢使の劉遂嚴と、都指揮使の燕顒を留めて、鄆州を守らせる。盧順密は、唐帝にいう。「鄆州の守兵は、1千に満たない。(私のほかの守将である)劉遂嚴と燕顒は、どちらも衆心を失う。襲って取れる」と。
郭崇韜らは考える。「懸軍・遠襲して、もし不利なら、數千人を虛棄する。廬順密の意見に従うべきでない」と。唐帝は、ひそかに李嗣源を帳中に召して謀った。「梁人の志は、澤州と潞州を吞むこと。東方に備えない。もし東方を平らげたら、梁人の心腹はつぶれる。東を平定してから、鄆州を取るべきではないか」と。

鄆州は、もとは東平郡である。


嗣源自胡柳有渡河之慚,常欲立奇功以補過,對曰:「今用兵歲久,生民疲弊,苟非出奇取勝,大功何由可成!臣願獨當此役,必有以報。」帝悅。壬寅,遣嗣源將所部精兵五千自德勝趣鄆州。比及楊劉,日已暮,陰雨道黑,將士皆不欲進,高行周曰:「此天讚我也,彼必無備。」夜,渡河至城下,鄆人不知,李從珂先登,殺守卒,啟關納外兵,進攻牙城,城中大擾。癸卯旦,嗣源兵盡入,遂拔牙城,劉遂嚴、燕顒奔大梁。嗣源禁焚掠,撫吏民,執知州事節度副使崔簹、判官趙鳳送興唐。帝大喜曰:「總管真奇才,吾事集矣。」即以嗣源為天平節度使。

李嗣源は、胡柳から渡河すること慚である。

貞明4年に記事がある。

つねに奇功を立てて、過失を補いたい。唐帝にこたえる。李嗣源「いま用兵して、長い年月が過ぎた。生民は疲弊する。出奇・取勝しなければ、大功が成せようか。私が1人でこの戦役に当たり、唐帝に報いたい」と。唐帝は悅んだ。
閏月の壬寅、李嗣源は、精兵5千で、德勝から鄆州にゆく。楊劉で、日が暮れた。陰雨・道黑なので、將士は進みたくない。高行周「この天候は、私たちを讃けるものだ。敵軍には必ず備えがない」と。夜に渡河して、鄆州の城下に至る。鄆州の人は気づかず。

楊劉から、東阿県の治所を通らずに、鄆州の城に行った。だから気づかれなかった。 地理については、8884頁。

李從珂は先登して、守卒を殺した。関をひらき、外兵を納れた。牙城に進攻する。城中は大擾した。癸卯の旦、李嗣源は兵をすべて入れ、ついに牙城をぬく。劉遂嚴と燕顒は、大梁にはしる。李嗣源は、焚掠を禁じて、吏民を撫した。知州事節度副使の崔簹と、判官の趙鳳をとらえ、興唐に送った。

後唐は、魏州に興唐府をおく。

唐帝は大喜した。「總管(李嗣源)は、真の奇才である。わが事は集った」と。李嗣源を、天平節度使とした。

ぼくは思う。李嗣源が、河北で自立して、唐帝がジリ貧になって死ぬ。これが、後唐紀に結末。李存勗の最期。


梁主聞鄆州失守,大懼,斬劉遂嚴、燕顒於市,罷戴思遠招討使,降授宣化留後,遣使詰讓北面諸將段凝、王彥章等,趣令進戰。敬翔知梁室已危,以繩內靴中,入見梁主曰:「先帝取天下,不以臣為不肖,所謀無不用。今敵勢益強,而陛下棄忽臣言。臣身無用,不如死!」引繩將自經。梁主止之,問所欲言,翔曰:「事急矣,非用王彥章為大將,不可救也。」梁主從之,以彥章代思遠為北面招討使,仍以段凝為副。

梁帝は、鄆州が失守したと聞き、大懼した。劉遂嚴と燕顒を、市で斬った。戴思遠を招討使から罷めて、宣化留後に降授された。

『欧史』職方考はいう。後梁は、宣化軍を鄧州においた。

北面の諸將・段凝や王彥章らを詰讓して、進戰を促した。敬翔は、梁室が已危と知り、繩を靴中に入れて、梁帝に入見した。敬翔「先帝(朱全忠)が天下を取った。臣の不肖を以てせず、謀を用いないことがない。いま敵勢が益強である。陛下は、臣の言を急に用いなくなった。臣の身は無用である。死んだも同じ」と。敬翔は、自分をしばった。

このパフォーマンスをするため、縄を隠し持っていたのだ。

梁帝が止めて、敬翔の言いたいことを問う。敬翔「事は急である。王彦章を大将にしなければ、梁国を救えない」と。梁帝は従い、王彦章を戴思遠に代えて、北面招討使とした。段凝を副将とした。

帝聞之,自將親軍屯澶州,命蕃漢馬步都虞候硃守殷守德勝,戒之曰:「王鐵槍勇決,乘憤激之氣,必來唐突,宜謹備之。」守殷,王幼時所役蒼頭也。

唐帝はこれ(王彦章の起用)を聞き、みずから親軍をひきい、澶州にゆく。蕃漢馬步都虞候の朱守殷に、德勝を守らせ、朱守殷を戒めた。唐帝「王鐵槍(王彦章)は勇決である。憤激之氣に乘じて、必ず唐突する。謹んで備えろ」と。朱守殷は、唐帝が幼いときに、奴(蒼頭)として仕えた。

5月、梁将の王彦章が楊劉を攻め、李周が防ぐ

又遣使遺吳王書,告以已克鄆州,請同舉兵擊梁。五月,使者至吳,徐溫欲持兩端,將舟師循海而北,助其勝者。嚴可求曰:「若梁人邀我登陸為援,何以拒之?」溫乃止。
五月,使者至吳,徐溫欲持兩端,將舟師循海而北,助其勝者。嚴可求曰:「若梁人邀我登陸為援,何以拒之?」溫乃止。

また唐帝は、呉王に文書をおくる。「すでに鄆州で克った。ともに梁帝を撃とう」と。5月、使者が呉国に至る。徐温は(梁と唐の)両端を持ちたい。 水軍をひきい、海路から北上する。梁と唐のうち、勝ったほうを助けたい。厳可求「もし梁人が我らを上陸を防いだら、どうやって防ぐか」徐温は、両端を持す作戦を止めた。

ぼくは思う。厳可求が指摘するように、そもそも成立しない作戦だったみたい。ともあれ、徐温のように目ざとい者が、梁国と晋国を天秤にかけるほど、どちらに転ぶか微妙な時期に、李存勗は皇帝に即位した。
ぼくは思う。つぎの王彦章の戦いは、「唐帝の即位が、そもそも天命に拒否られたものだった」ことを、証明するための戦いである。朱全忠をたすけた敬翔まで、王彦章に肩入れした。王彦章が敗れたら、梁帝は終わりなのだ。


梁主召問王彥章以破敵之期,彥章對曰:「三日。」左右皆失笑。彥章出,兩日,馳至滑州。辛酉,置酒大會,陰遣人具舟於楊村;夜,命甲士六百,皆持巨斧,載冶者,具□炭,乘流而下。會飲尚未散,彥章陽起更衣,引精兵數千循河南岸趨德勝。天微雨,硃安殷不為備,舟中兵舉鎖燒斷之,因以巨斧斬浮橋,而彥章引兵急擊南城。浮橋斷,南城遂破,斬首數千級。時受命適三日矣。守殷以小舟載甲士濟河救之,不及。彥章進攻潘張、麻家口、景店諸寨,皆拔之,聲勢大振。

梁帝は、王彦章に、破敵之期を問う。王彦章「3日で唐軍を破れる」という。左右は、みな失笑する。王彦章は、2日で滑州まで馳せる。

『九域志』はいう。大梁から滑州まで、210里である。

5月の辛酉、置酒・大會する。王彦章は、ひそかに人をやり、楊村で舟を準備させた。夜に、甲士600に巨斧を持たせ、冶者を載せ、炭をもち、流れに乗じてくだる。會飲が散る前に、王彦章は更衣といつわり、席をたつ。精兵の数千とともに、河南岸をめぐり、德勝に急行する。天は微雨。唐将の朱安殷は、備えがない。
梁軍の舟中の兵は、(唐兵が仕掛けた)鎖を焼き切り、巨斧で浮橋を斬る。王彦章は南城を急撃した。浮橋が断たれ、南城が破れ、唐将の数千級を斬った。ときに、唐帝が受命してから、3日目である。朱守殷は、小舟に甲士を載せて、濟河して救う。及ばず。王彦章は、潘張、麻家口、景店の諸寨に進攻し、すべて抜く。梁軍の聲勢は大振した。

「潘張」とは、潘氏と張氏の2姓がすむ村。景店は、景氏が売り物を置いた場所。いずれも、黄河の渡し場の要衝であるから、晋軍=唐軍は、塞をつくって守っていた。


帝遣宦者焦彥賓急趣楊劉,與鎮使李周固守,命守殷棄德勝北城,撤屋為筏,載兵械浮河東下,助楊劉守備,徙其芻糧薪炭於澶州,所耗失殆半。王彥章亦撤南城屋材浮河而下,各行一岸,每遇灣曲,輒於中流交鬥,飛矢雨集,或全舟覆沒,一日百戰,互有勝負。比及楊劉,殆亡士卒之半。己巳,王彥章、段凝以十萬之眾攻楊劉,百道俱進,晝夜不息,連巨艦九艘,橫亙河津以絕援兵。城垂陷者數四,賴李周悉力拒之,與士卒同甘苦,彥章不能克,退屯城南,為連營以守之。

唐帝は、宦者の焦彦賓を、楊劉に急趣させる。鎮使の李周とともに、楊劉を固守させる。唐将の朱守殷に、德勝北城を棄てさせ、撤屋して筏とする。兵械を載せ、河東の下に浮べる。(この兵械で)楊劉の守備を助けさせる。芻糧・薪炭を、澶州にうつす。殆半が耗失した。
王彦章は、南城の屋材を撤して、河に浮かべて下らせる。一岸に行くごとに、灣曲にあい、中流で交鬥する。飛矢は雨集し、全舟が覆没することもある。1日に100戰して、勝負は互角である。楊劉につくとき、士卒の半数が失われた。

胡三省はいう。徳勝から、河で東に下った士卒である。
ぼくは思う。梁軍も唐軍も、木材を集中させて、決戦に備えている。

5月の己巳、梁将の王彦章と段凝は、10万で楊劉を攻める。百道はともに進み、晝夜やすまず。巨艦9艘をつらねる。河津にわたり巨艦をならべ、唐軍の援兵を絶つ。唐側の楊劉は、城が4たび陥落しそうになる。唐将の李周を頼って力をつくし、唐軍はふせぐ。李周は、士卒と甘苦を同じくする。王彦章は克てない。退いて、城南に屯する。軍営を連ねて守る。

ぼくは思う。唐帝が追加した李周が、こんどは梁軍を防いだ。一進一退。ここが、盛り上がりどころなのだ。


6月、郭崇韜が博州に築城し、唐帝が支える

楊劉告急於帝,請日行百里以赴之;帝引兵救之,曰:「李周在內,何憂!」日行六十里,不廢畋獵,六月,乙亥,至楊劉。梁兵塹壘重複,嚴不可入,帝患之,問計於郭崇韜,對曰:「今彥章據守津要,意謂可以坐取東平;苟大軍不南,則東平不守矣。臣請築壘於博州東岸以固河津,既得以應接東平,又可以分賊兵勢。但慮彥章詗知,逕來薄我,城不能就,願陛下募敢死之士,日令挑戰以綴之,苟彥章旬日不東,則城成矣。」

楊劉は、唐帝に告急する。日に1百里の行程で、唐帝のもとにくる。

唐帝は澶州にいる。楊劉から2百里ばかり。

唐帝は兵をひき、楊劉を救いにゆく。唐帝「李周は内にある。なにを憂うか」と。1日に60里の行程で、唐帝がゆく。このあいだも、唐帝は狩猟はやめない。
6月の乙亥、楊劉に至る。梁兵は、塹壘を重複させる。警戒が厳しく、唐帝は入城できない。唐帝は郭崇韜に、方策を聞いた。
郭崇韜「いま王彦章は、津要を據守する。王彦章は、坐して(王彦章は楊劉の攻撃だけに携わり)東平を取るつもりだ。もし唐帝の大軍が南せねば、東平は守れない(王彦章を楊劉に留めたまま、東平は梁国のものになる)。私は博州の東岸に築壘して、河津を固めたい。東平に應接できれば、梁軍を(楊劉と東平に)分割できるはず。ただし王彦章は詗知だから、東平に迫る私(郭崇韜)が手薄だと思えば、東平に梁兵を割かせられない。敢死之士をつのり、楊劉の王彦章を攻撃させろ。もし王彦章が、旬日しても東しなければ(東平に兵を割かねば、博州の東岸に)城は成る」と。

時李嗣源守鄆州,河北聲問不通,人心漸離,不保朝夕。會梁右先鋒指揮使康延孝密請降於嗣源,延孝者,太原胡人,有罪,亡奔梁,時隸段凝麾下。嗣源遣押牙臨漳范延光送延孝蠟書詣帝,延光因言於帝曰:「楊劉控扼已固,梁人必不能取,請築壘馬家口以通鄆州之路。」帝從之,遣崇韜將萬人夜發,倍道趣博州,至馬家口渡河,築城晝夜不息。帝在楊劉,與梁人晝夜苦戰。

ときに李嗣源は、鄆州を守る。河北に聲問は通じない。人心は漸離する。朝夕も保てず。
このとき、梁国の右先鋒指揮使の康延孝は、ひそかに李嗣源に降りたい。康延孝は、太原の胡人である。罪があり、梁国に亡奔した。ときに、段凝の麾下にいる。李嗣源は、押牙する臨漳の範延光をやり、康延孝の蠟書を唐帝に届けさせた。康延孝「楊劉はの控扼は、すでに固い。梁人は、必ずしも取れない。馬家口に築壘して、鄆州之路を通じさせたい」と。

馬家口は、博州の東岸にある。郭崇韜は、楊劉から夜に発して、倍速でゆく。梁人に知られるのを恐れたのだ。

唐帝は、郭崇韜に1万をつけ、倍道して博州にゆかす。馬家口で渡河する。博州の築城は、昼夜やすまず。唐帝は楊劉にいて、梁人と昼夜に苦戦した。

博州の築城を、梁将の王彦章に気づかせないためである。


崇韜築新城凡六日,王彥章聞之,將兵數萬人馳至,戊子,急攻新城,連巨艦十餘艘於中流以絕援路。時板築僅畢,城猶卑下,沙土疏惡,未有樓魯及守備;崇韜慰勞士卒,以身先之,四面拒戰,遣間使告急於帝。帝自楊劉引大軍救之,陳於新城西岸,城中望之增氣,大呼叱梁軍,梁人斷紲斂艦;帝艤舟將渡,彥章解圍,退保鄒家口。鄆州奏報始通。李嗣源密表請正硃守殷覆軍之罪,帝不從。

郭崇韜は、新城を6日で築く。王彦章はこれを聞き、数万で馳至する。戊子、王彦章は新城を急攻する。巨艦10余を中流につらね、唐軍の援路を絶つ。
ときに、板築は僅かに終わったところで、城壁はなお低い。沙土は疏惡で、いまだ樓魯と守備がない。郭崇韜は、士卒を慰勞して、先頭にたち、四面で拒戰した。間使を使わし、唐帝に告急した。唐帝は、楊劉から大軍をひいて、郭崇韜をすくう。新城の西岸に陣する。

ぼくは思う。この重要な戦いでも、唐帝=晋王=李存勗は、前に出てくる。梁帝は出てこない。君主の素質が、士気の決め手になっている。五代らしい勝敗の決まり方。

城中は、唐帝を見て增氣する。おおいに梁軍を呼叱した。梁人は、斷紲・斂艦した。唐帝は、艤舟して渡ろうとした。王彦章は、新城の囲みを解き、鄒家口(河の渡し場の1つ)に退保した。
鄆州(李嗣源)の奏報が、はじめて唐帝に通じた。李嗣源は密表して、朱守殷が覆軍した罪を正せという。唐帝は従わず。130901

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923年秋、

7月、

秋,七月,丁未,帝引兵循河而南,彥章等棄鄒家口,復趣楊劉。甲寅,游弈將李紹興敗梁遊兵於清丘驛南。段凝以為唐兵已自上流渡,驚駭失色,面數彥章,尤其深入。
乙卯,蜀侍中魏王宗侃卒。

秋7月の丁未、唐帝は兵をひき、循河して南した。王彦章らは、鄒家口をすて、楊劉にもどる。甲寅、游弈將の李紹興が、梁の遊兵を、清丘の驛南でやぶる。段凝は、唐兵が上流から渡るので、驚駭・失色して、王彦章に面數する。王彦章が深入しすぎだと考える。

胡三省はいう。段凝は、清丘の駅で梁兵が敗れたと聞き、唐兵が上流から渡河して、汴州(梁帝)に逼ると考えた。だが王彦章は、唐兵と下流でむきあう。段凝は、王彦章が鄆州の境に深入しており、大梁(梁帝)の危機を救えないと考えた。史家はいう。段凝は、内には己を恃んで、主将である王彦章が劣っていると考えた。

7月乙卯、前蜀の侍中・魏王の宗侃が卒した。

戊午,帝遣騎將李紹榮直抵梁營,擒其斥候,梁人益恐,又以火筏焚其連艦。王彥章等聞帝引兵已至鄒家口,己未,解楊劉圍,走保楊村;唐兵追擊之,復屯德勝。梁兵前後急攻諸城,士卒遭矢石、溺水、□曷死者且萬人,委棄資糧、鎧仗、鍋幕,動以千計。楊劉比至圍解,城中無食已三日矣。

7月の戊午、唐帝は騎將の李紹榮をやり、梁營を直抵させた。斥候を捕らえた。梁人は益恐し、火筏によって、梁軍の連艦を焚いた。

河に列して、唐軍の援兵を断っていた巨艦である。

王彦章らは、すでに唐帝が鄒家口に至ると聞いた。7月己未、王彦章は、楊劉の囲みを解いて、楊村に走保する。唐兵は追撃して、ふたたび德勝に屯する。梁兵は、前後に諸城を急攻する。梁兵の士卒は、矢石、溺水、喝死する者が、1万である。資糧、鎧仗、鍋幕を委棄する。委棄された資財は、1千である。

胡三省はいう。王彦章は、晋人の備えのなさを掩った。1勝したが、持久して破れた。梁国に最後までうまく活用してもらえなかった。
ぼくは思う。『通鑑』は後唐紀といっているのに、胡三省は、後唐を「晋」とよぶ。統一されていない。混乱する。でもぼくも、晋王の李克用とのつながりから、唐よりは晋とよびたくなる。

楊劉の包囲が解けると、城中はすでに3日も食べていなかった。

ぼくは思う。梁将の王彦章が、もうちょい粘っていれば、もしかしたら楊劉は陥落していた。という、惜しい話。これで王彦章が勝っていたら、五代は、後梁から後唐に推移しなかった。


王彥章疾趙、張亂政,及為招討使,謂所親曰:「待我成功還,當盡誅奸臣以謝天下!」趙、張聞之,私相謂曰:「我輩寧死於沙陀,不可為彥章所殺。」相與協力傾之。段凝素疾彥章之能而諂附趙、張,在軍中與彥章動相違戾,百方沮撓之,惟恐其有功,潛伺彥章過失以聞於梁主。每捷奏至,趙、張悉歸功於凝,由是彥章功竟無成。及歸楊村,梁主信讒,猶恐彥章旦夕成功難制,征還大梁。使將兵會董璋攻澤州。

王彦章は、趙氏と張氏の乱政を疾む。招討使となり、親しむ者にいう。「私が成功して還るのを待て。奸臣を全殺して、天下に謝ろう」と。
趙氏と張氏はこれを聞き、ひそかにいう。「我らは沙陀(唐帝)に殺されても、王彦章に殺されたくない」と。力をあわせ、王彦章を傾ける。段凝も、もとより王彦章の能力を疾する。段凝は、趙氏と張氏に諂附して、王彦章の軍中での過失をチクる。趙氏と張氏とが、戦功を王彦章でなく段凝のものだと、梁帝に吹きこむ。王彦章が(楊劉に包囲を解いて)楊村に帰すると、梁帝は、段凝たちの讒言を信じた。梁帝は、王彦章には功績があり、王彦章を制御できなくなるのを恐れた。王彦章を大梁に徴還した。

『考異』はいう。梁の末帝は、王彦章を罷めて、段凝を招討使とした。王彦章は、京師に馳せ至り、梁帝に入見した。笏で地に描き、勝敗について説明した。劉巌らは、有司が王彦章を弾劾したといい、王彦章を還らせた。
ぼくは思う。地面に図解して、バカな上司に戦局を説明する。『三国志』では、董卓と戦う孫堅が、袁術に対してやったと記録があるが。五代の後唐のとき、王彦章が後梁の末帝に対して、同じことをした。923年、有司の讒言で前線を外された王彦章は、笏で地に画して、戦局を説明した。パターン化された無念な行動。これをやるようになったら、もう終わりである。がんばって説得しているのに、ダメなフラグが立っている。

王彦章の代わりに、董璋に澤州を攻めさせた。

甲子,帝至楊劉勞李周曰:「微卿善守,吾事敗矣。」

7月甲子、唐帝は楊劉にいたり、李周をねぎらう。唐帝「もしあなたが善く(楊劉を)守らねば、わが事(唐の建国)は、敗れていた」と。

【微】もしなかったら。なかりせば。事実に反する内容を仮定し、条件節の文頭におく。


中書侍郎、同平章事盧程以私事幹興唐府,府吏不能應,鞭吏背。光祿卿兼興唐少尹任團,圜之弟,帝之從姊婿也,詣程訴之。程罵曰:「公何等蟲豸,欲倚婦力邪!」團訴於帝。帝怒曰:「朕誤相此癡物,乃敢辱吾九卿!」欲賜自盡;盧質力救之,乃貶右庶子。

中書侍郎・同平章事の盧程は、私事をもって興唐府を主幹した。府吏は応じられず。吏の背を鞭うった。光祿卿・兼興唐少尹の任團は、任圜の弟であり、唐帝の從姊婿である。盧程のところにゆき、盧程に「鞭うつなよ」と訴えた。盧程は任團を罵った。「お前は、虫ケラも同じ。婦力(唐帝の従姉)に倚りやがって」と。任團は、唐帝に訴えた。唐帝は怒って、盧程に自殺を賜った。
盧質が救ったので、盧程は自殺でなく、右庶子に貶められた。130901

8月、梁帝による段凝の起用に、みなが反対する

裴約遣間使告急於帝,帝曰:「吾兄不幸,乃生梟獍,裴約獨能知逆順。」顧謂北京內牙馬步軍都指揮使李紹斌曰:「澤州彈丸之地,朕無所用,卿為我取裴約以來。」八月,壬申,紹斌將甲士五千救之,未至,城已陷,約死。帝深惜之。甲戌,帝自楊劉還興唐。

裴約は、間使をやって唐帝に告げた。唐帝「わが兄(李嗣昭)は不幸にして、この梟獍に生まれた。裴約は、逆順を知ってる(兄の李嗣昭に、つらい任地を宛がってはいけないね)」と。

胡三省はいう。李嗣昭は、唐帝の義児である。唐帝よりも年長である。

唐帝は、北京内牙馬步軍都指揮使の李紹斌を顧みていう。「澤州は、彈丸之地である。

「弾丸の地」とは、せまくて小さな土地ということ。并州や潞州から、懐州や洛州をうかがうと、沢州は要地である。唐帝の志は、東平から大梁をとること。だから、このように言ったのだ。

きみは私のために、裴約を(梁軍の攻撃から救って)連れて来い」と。
8月の壬申、李紹斌は、甲士5千をひきい、裴約を救う。李紹斌が至る前に、城が陥落した。裴約が死んだ。唐帝は裴約を惜しんだ。8月甲戌、唐帝は楊劉から、興唐に還る。

梁主命於滑州決河,東注曹、濮及鄆以限唐兵。
初,梁主遣段凝監大軍於河上,敬翔、李振屢請罷之,梁主曰:「凝未有過。」振曰:「俟其有過,則社稷危矣。」至是,凝厚賂趙、張求為招討使,翔、振力爭以為不可;趙、張主之,竟代王彥章為北面招討使,

梁帝は、滑州で河を決壊させよと命じた。東注曹と、濮州と鄆州の兵は、唐兵の動きを制限した。
はじめ梁帝は、段凝をつかわし、大軍を河上で監する。敬翔と李振は、しばしば段凝を罷めたい。

『考異』はいう。『欧史』では、これは朱全忠の時代である。晋人が魏博を取り、のちに梁軍と黄河を境界に争った。ゆえに大軍を監することになった。朱全忠のときでなく、いま(梁の末帝)のときとすべきだ。

梁帝「段凝には過失がない」と。李振「過失を待ってからでは、社稷が危うい」と。ここにおいて段凝は、趙氏と張氏に厚賂して、招討使にしてくれと求める。敬翔と李振は、力爭して「段凝を招討使にするな」という。ついに王彦章に代わり、段凝が北面招討使となる。

於是宿將憤怒,士卒亦不服,天下兵馬副元帥張宗奭言於梁主曰:「臣為副元帥,雖衰朽,猶足為陛下扞御北方。段凝晚進,功名未能服人,眾議哅哅,恐貽國家深憂。」敬翔曰:「將帥系國安危,今國勢已爾,陛下豈可尚不留意邪!」梁主皆不聽。

宿将は憤怒して、士卒も服さず。天下兵馬副元帥の張宗奭は、梁帝にいう。「私が副元帥となる。衰朽したが、なお陛下のために、私は北方を扞御できる。段凝は晚進であり、功名はまだ人を服さない。衆議は哅哅とする。國家の深憂を恐貽する」と。

胡三省はいう。張宗奭のこの発言は、かならずや敬翔らが、その重みを借りて、梁帝の目を覚まそうとするものである。

敬翔「將帥は、國の安危につながる。いま国勢は、すでに爾である。陛下はなぜ、留意しないのか」と。梁帝は聽さず(段凝を用いた)。

胡三省はいう。段凝が梁国を誤らせる張本である。ぼくは思う。司馬光の書きっぷりには、どこか伏線めいた誘導があった。胡三省は、もっとロコツである。きっと司馬光の心の声を、胡三省が代弁している。司馬光は、あくまで史料に語らせることにこだわった。胡三省は、もっと積極的に編者の発言を、自分に許している。


梁将の康延孝が唐帝に降り、梁国を批判する

戊子,凝將全軍五萬營於王村,自高陵津濟河,剽掠澶州諸縣,至於頓丘。
梁主又命王彥章將保鑾騎士及它兵合萬人,屯兗、鄆之境,謀復鄆州,以張漢傑監其軍。
庚寅,帝引兵屯朝城。

8月戊子、段凝は5万をひきい、王村に営する。高陵津から済河する。澶州の諸縣を剽掠して、頓丘に至る。

地理について、8890頁。

梁帝は、王彦章に、保鑾騎士および他兵あわせて1万をひきい、兗州と鄆州の境に屯させ、鄆州の回復を謀る。張漢傑が、その軍を監する。
8月庚寅、晋帝は兵をひき、朝城に屯する。

戊戌,康延孝帥百餘騎來奔,帝解所御錦袍玉帶賜之,對曰:「梁朝地不為狹,兵不為少;然跡其行事,終必敗亡。何則?主既暗懦,趙、張兄弟擅權,內結宮掖,外納貨賂,官之高下唯視賂之多少,不擇才德,不校勳勞。段凝智勇俱無,一旦居王彥章、霍彥威之右,自將兵以來,專率斂行伍以奉權貴。梁主每出一軍,不能專任將帥,常以近臣監之,進止可否動為所制。

戊戌、康延孝は、1百余騎をひきいて、梁から唐に來奔する。唐帝は、錦袍・玉帶を解いて賜る。康延孝はいう。
「梁朝の地は、狭くならず、兵は少なくならず。だが梁朝の行事をみると、必ず敗亡しそう。なぜか。梁帝が暗懦である。趙氏と張氏の兄弟が擅權する。内は宮掖と結び、外は貨賂を納れる。官職の高下は、ただ贈賄の多少で決まる。才徳で抜擢されず、勳勞で評価されない。段凝は、智も勇もないが、王彦章や霍彦威の上位になった。梁帝が軍を出すとき、将帥を專任せず、つねに近臣が軍を監する。進止や可否は、近臣に制御される。

ぼくは思う。節度使に掣肘されることなく、皇帝による中央集権が行き届いている。プラスに捉えるなら、こうも言える。ただし、晋王=唐帝という強敵がいるとき、これは弊害である。やはり方面の司令官が強くないと、勝てるものも勝てない。


近又聞欲數道出兵,令董璋引陝虢、澤潞之兵自石會關趣太原,霍彥威以汝、洛之兵自相衛、邢洺寇鎮定,王彥章、張漢傑以禁軍攻鄆州,段凝、杜晏球以大軍當陛下,決以十月大舉。臣竊觀梁兵聚則不少,分則不多。願陛下養勇蓄力以待其分兵,帥精騎五千自鄆州直抵大梁,擒其偽主,旬月之間,天下定矣。」帝大悅。

近ごろ、数道から出兵したい。董璋は、陝州と虢州、澤州と潞州の兵をひき、石會關から太原へゆく。霍彥威は、汝州と洛州の兵をひき、相州と衛州、邢州と洺州から、鎮定を寇する。王彦章と張漢傑は、禁軍の兵で鄆州を攻める。段凝と杜晏球は、大軍を唐帝にあてる。10月にまとめて大挙する。

ぼくは思う。地図に書いたら、おもしろそう。そしてこれが、梁国の最後の戦いだろう。これで破れたら、もうムリである。

私が見るに、梁国の兵聚は少なくないが、数道に分けてしまえば、多くなくなる。唐帝は、分割された梁兵を待ち、精騎5千で鄆州から大梁を直抵せよ。偽主(梁帝)を擒にできる。旬月之間に、天下が定まるだろう」と。唐帝は大悅した。130901

胡三省はいう。康延孝の計は、李嗣源と郭崇韜のものと、だいたい同じである。
ぼくは思う。梁帝が、いかにも皇帝たる威風堂々とした圧倒的な戦さをやろうとした結果。わりに多かった兵を、細切れにして、各地で勝てなくなるという。梁帝が、いちはやく皇帝を降りてしまえば、もっと実用的な戦いかたをやれた。決して部将が豊富でもないのに、兵を分けて、唐帝を包囲しようというのが「皇帝病」の後遺症を感じさせる。


9月、蜀主が遊び惚け、諫言を無視する

蜀主以文思殿大學士韓昭、內皇城使潘在迎、武勇軍使顧在珣為狎客,陪侍游宴,與宮女雜坐,或為艷歌相唱和,或談嘲謔浪,鄙俚褻慢,無所不至,蜀主樂之。在珣,彥朗之子也。
時樞密使宋光嗣等專斷國家,恣為威虐,務徇蜀主之欲以盜其權。宰相王鍇、庾傳素等各保寵祿,無敢規正。潘在迎每勸蜀主誅諫者,無使謗國。嘉州司馬劉贊獻陳後主三閣圖,並作歌以諷;賢良方正蒲禹卿對策語極切直;蜀主雖不罪,亦不能用也。

蜀主は、文思殿大學士の韓昭、内皇城使の潘在迎、武勇軍使の顧在珣を、狎客とした。

唐末に洛に遷ったとき、保寧殿を文思殿と改めた。けだし前蜀は、この唐代の名を踏まえたのだ。

陪侍・游宴させ、宮女とともに雜坐する。或者は艷歌をなして、相い唱和する。或者は、談嘲・謔浪し、鄙俚・褻慢する。すべての場所で、蜀主は楽しんだ。顧在珣とは、顧彦朗の子である。

顧彦朗は、唐昭宗のとき、東川を帥した。

ときに樞密使の宋光嗣らは、國家を專斷する。ほしいままに威虐する。蜀主之欲を務徇して、蜀主の権力を盗む。宰相の王鍇と庾傳素らは、それぞれ寵祿を保ち、あえて規正なし。潘在迎は、蜀主に、諫者を誅せと勧め、国を批判させる者を出さない。嘉州司馬の劉贊は、陳後主の三閣圖を献じて、作歌して諷する。

陣三閣は、176巻の長城公の至徳2年にある。
ぼくは補う。中国の南北朝時代、隋帝に滅ぼされた陳主である。

賢良方正の蒲禹卿は、對策した。語は切直を極める。蜀主は、蒲禹卿を罪とはしないが、用いることもできない。

九月,庚戌,蜀主以重陽宴近臣於宣華宛,酒酣,嘉王宗壽乘間極言社稷將危,流涕不已。韓昭、潘在迎曰:「嘉王好酒悲。」因諧笑而罷。

9月庚戌、蜀主は、重陽(9月9日)近臣と宣華宛で宴する。酒酣となり、嘉王の王宗壽は、間に乘じ、言を極めて、「社稷が危うくなりそう」という。流涕して已まず。韓昭と潘在迎は(諫言の意味をごまかし)「嘉王の王宗寿は、酒悲を好む(泣き上戸だ)」という。蜀主は、諧笑して罷んだ。

9月、唐国は困窮し、郭崇韜が決戦を勧める

帝在朝城,梁段凝進至臨河之南,澶西、相南,日有寇掠。自德勝失利以來,喪芻糧數百萬,租庸副使孔謙暴斂以供軍,民多流亡,租稅益少,倉廩之積不支半歲。澤潞未下。盧文進、王郁引契丹屢過瀛、涿之南,傳聞俟草枯冰合,深入為寇。又聞梁人欲大舉數道入寇,帝深以為憂,召諸將會議。宣徽使李紹宏等皆以為鄆州城門之外皆為寇境,孤遠難守,有之不如無之,請以易衛州及黎陽於梁,與之約和,以河為境,休兵息民,俟財力稍集,更圖後舉。帝不悅,曰:「如此吾無葬地矣。」乃罷諸將,獨召郭崇韜問之。

唐帝は朝城にいる。梁将の段凝は、進んで臨河之南に至る。

「臨河之南」の地理について、8892頁。

澶西と相南は、日々に寇掠された。德勝で失利して以來、唐国は、芻糧を數百萬も喪う。租庸副使の孔謙は、暴斂して供軍する。民は流亡する者が多い。租稅は、ますます少ない。倉廩之積は、半年も支えない。
澤州と潞州は、まだ下せない。盧文進と王郁は、契丹をひきいて、しばしば瀛州と涿州の南を過ぎる。

これは、梁国の龍徳2年、契丹が鎮州と定州の境に入ったことをいう。

唐国における傳聞によると、草が枯れ、冰が合わさるのを待ち、契丹が深入して寇するらしい。また梁人が大舉して、數道から入寇すると聞いた。

これは康延孝の発言である。

唐帝は深く憂う。諸將を召して、会議する。宣徽使の李紹宏らはいう。「鄆州の城門の外が、寇境であり、孤遠で難守だから、拠点を無くすのが良い。衛州および黎陽が、梁国の領土に易わった。

梁国が衛州を取ったのは、上巻上年にある。貞明2年、晋国はすべて河北を取ったが、黎陽だけは梁国が守った。

梁国と約和して、黄河を境界せよと。休兵・息民し、財力の稍集を待ってから、あらためて後舉を図れ」と。唐帝は悦ばず。唐帝「もし梁国と休戦したら、私を葬る地がなくなる」と。諸將を罷め、ひとり郭崇韜だけを召して問う。

ぼくは思う。唐国と梁国は、ちょうど三国の蜀漢と曹魏のように、国是というか、存在意義が相容れない。休戦したら、唐国の存在意義がなくなる。朱氏の簒奪を否定するのが、唐国=李存勗だから。


對曰:「陛下不櫛沐,不解甲,十五餘年,其志欲以雪家國之仇恥也。今已正尊號,河北士庶日望昇平,始得鄆州尺寸之地,不能守而棄之,安能盡有中原乎!臣恐將士解體,將來食盡眾散,雖畫河為境,誰為陛下守之!臣嘗細詢康延孝以河南之事,度已料彼,日夜思之,成敗之機決在今歲。梁今悉以精兵授段凝,據我南鄙,又決河自固,謂我猝不能渡,恃此不復為備。使王彥章侵逼鄆州,其意冀有奸人動搖,變生於內耳。

郭崇韜は唐帝にこたえる。「陛下は、櫛沐せず、解甲せず、15余年である。

朱全忠の開平2年、唐帝は、晋王の位をつぐ。はじめて夾寨で、梁軍と戦い始めた。この時点までに、17年たっている。

唐帝の志は、家國の仇恥を雪ぐこと。いますでに尊號を正す。河北の士庶は、日に昇平を望む。はじめに鄆州の尺寸之地を得たが、守れないから棄てれば、どうして中原の全域を支配できるか。私は(鄆州を梁国に譲渡したら)將士が解体するのを恐れる。食糧は盡き、軍衆は散じる。黄河を国境にしたら、だれが陛下のために国境を守るのか(唐軍が消失する)。私はかつて、康延孝に、河南之事を細詢した。度はすでに彼を料る。日夜、これを思う。成敗之機決は、今年にある。

ぼくは思う。「今でしょ」である。

梁国は、いま全ての精兵を、段凝に授けて、唐国の南鄙に拠る。河を決して、段凝は自固する。

段凝は、酸棗から、黄河を決壊させて、鄆州にそそぐ。唐兵の動きを制限している。これを「護駕水」と号した。

唐軍が黄河を渡れないと考え、黄河に恃んで、梁軍には防備がない。梁国は、王彥章を鄆州に侵逼らせる。王彦章を動かす意図は、奸人が動搖して、唐国の内側から変を生じさせることにある。

段凝本非將材,不能臨機決策,無足可畏。降者皆言大梁無兵,陛下若留兵守魏,固保楊劉,自以精兵與鄆州合勢,長驅入汴,彼城中既空虛,必望風自潰。苟偽主授首,則諸將自降矣。不然,今秋谷不登,軍糧將盡,若非陛下決志,大功何由可成!諺曰:『當道築室,三年不成。』帝王應運,必有天命,在陛下勿疑耳。」

(郭崇韜の続き)段凝は、もとより將材でない。臨機・決策できない。畏れるに足らない。みな降者は「大梁には兵なし」という。

胡三省はいう。根本は内が虚ろ。敵のために窺えば、戦(攻撃)を重んじて、防(防御)を軽んじて、敗亡しなかった者はない。ぼくは補う。だから梁軍は、敗亡が必然であるのだと。ただしこれは、梁軍から唐軍に、降った者の言葉。公正な評価ではない。

陛下=唐帝が、もし兵を留めて魏を守って、楊劉を固保して、みずから精兵をひきい、鄆州と合勢し、長驅して汴城(梁軍の首都)に入れば。梁国の城中は、すでに空虛である。必ずや望風・自潰する。もし偽主(梁帝)が首級を唐帝に授ければ(梁帝が敗死すれば)諸將は自ら降る。さもなくば(唐帝が自ら梁国に攻め込まねば)今秋には穀物の収穫がなく、軍糧は尽きかける。もし陛下に決志がなければ、大功が成るものか。諺にいう。「道に當たり、室を築す。三年にして成らず」と。帝王が運に應じれば、必ず天命がある。陛下は疑うな」と。

ぼくは補う。郭崇韜の発言は終わりです。


帝曰:「此正合朕志。丈夫得則為王,失則為虜,吾行決矣!」司天奏:「今歲天道不利,深入必無功。」帝不聽。

唐帝「まさに、朕の志と合致する。丈夫は、得れば王となり、失えば虜となる。私は(梁国の首都の攻撃にみずから行くと)決めた」と。司天が奏した。「今歲の天道は不利だ。深入しても、必ずや無功である」と。唐帝は聽かず。

王彥章引兵逾汶水,將攻鄆州,李嗣源遣李從珂將騎兵逆戰,敗其前鋒於遞坊鎮,獲將士三百人,斬首二百級,彥章退保中都。戊辰,捷奏至朝城,帝大喜,謂郭崇韜曰:「鄆州告捷,足壯吾氣!」己巳,命將士悉遣其家歸興唐。

王彥章は、兵をひき、汶水を逾える。鄆州を攻めそう。李嗣源は、李從珂に騎兵をつけ、王彦章を逆戰させた。李従珂は、王彦章の前鋒を遞坊鎮でやぶり、將士300人を獲て、200級を斬首した。王彦章は、中都に退保する。

地理について、8894頁。

9月戊辰、捷奏(勝報)が朝城に至る。唐帝は大喜して、郭崇韜にいう。「鄆州は捷を告げた。わが氣を壯するに足る」と。己巳、將士に命じて、すべて家を興唐に帰らせた。130905

朝城の行営より、魏州に帰らせたのである。

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923年10月、

10月、唐軍が梁都に迫り、敬翔が諦める

冬,十月,辛未朔,日有食之。
帝遣魏國夫人劉氏、皇子繼岌歸興唐,與之訣曰:「事之成敗,在此一決。若其不濟,當聚吾家於魏宮而焚之!」仍命豆盧革、李紹宏、張憲、王正言同守東京。

冬10月の辛未ついたち。日食あり。
唐帝は、魏國夫人の劉氏と、皇子の李継岌を、興唐に帰した。劉氏と李継岌とともに訣した。唐帝「事の成敗は、この一決にある。もし成功せねば、わが家族を魏宮に集めて、家族ごと宮殿を焚け」と。

史家はいう。唐帝のこの行動は、廟勝の策ではない。
ぼくは思う。唐国も、わりに経済的に厳しかった。梁国が破れるという予定調和で、見るべきでない。ほんとうに、唐国が破れる可能性もあるという、楽しい状況なのだ。まあ、唐国が勝ったあとに、「あのころは、つらかったよね」と、美談が追加され、記憶に登録された可能性はあるが。悪気がなくとも。

豆盧革、李紹宏、張憲、王正言に命じて、東京を守らせる。

唐帝は、魏州を東京・興唐府とした。
ぼくは補う。夫人と息子とともに、大唐の故事を知る重臣たちも、興唐にゆかせた。まあ彼らは、梁国との決戦には役立たないから。


壬申,帝以大軍自楊劉濟河,癸酉,至鄆州,中夜,進軍逾汶,以李嗣源為前鋒,甲戌旦,遇梁兵,一戰敗之,追至中都,圍其城。城無守備,少頃,梁兵潰圍出,追擊,破之。王彥章以數十騎走,龍武大將軍李紹奇單騎追之,識其聲,曰:「王鐵槍也!」拔槊刺之,彥章重傷,馬躓,遂擒之,並擒都監張漢傑、曹州刺史李知節、裨將趙廷隱、劉嗣彬等二百餘人,斬首數千級。廷隱,開封人;嗣彬,知俊之族子也。

10月壬申、唐帝は大軍をもって、楊劉から黄河をわたる。癸酉、鄆州にいたる。中夜、進軍して汶水を逾える。李嗣源を前鋒とする。甲戌の旦、梁兵と遭遇する。一戰して梁兵を破り、追って中都に至る。唐軍が中都を包囲する。中都には守備がない。少頃して、梁兵は潰えて、囲みを出る。追擊して破る。
王彥章は、數十騎で走げる。龍武大將軍の李紹奇は、單騎で王彦章を追う。李紹奇は王彦章の声を知っている。「王鐵槍だ」と、王彦章を見つけた。

『薛史』をみるに、夏魯奇(=李紹奇)は、かつて朱全忠につかえた。王彦章と仲が良かった。ゆえに、王彦章の声を知っていた。

李紹奇は槊を拔いて、王彦章を刺した。王彦章は重傷となり、馬は躓き、ついに擒となる。あわせて、都監の張漢傑、曹州刺史の李知節、裨將の趙廷隱、劉嗣彬ら、200余人を擒とする。斬首は數千級。趙廷隱は、開封の人。劉嗣彬は、劉知俊の族子である。

劉知俊は、徐から梁に降った。梁から岐に降った。岐から蜀に降った。蜀で殺された。ぼくは思う。その族子は、まだ梁国に残っていたのね。


彥章嘗謂人曰:「李亞子鬥雞小兒,何足畏!」至是,帝謂彥章曰:「爾常謂我小兒,今日服未?」又問:「爾名善將,何不守兗州?中都無壁壘,何以自固?」彥章對曰:「天命已去,無足言者。」帝惜彥章之材,欲用之,賜藥傅其創,屢遣人誘諭之。彥章曰:「余本匹夫,蒙梁恩,位至上將,與皇帝交戰十五年;今兵敗力窮,死自其分,縱皇帝憐而生我,我何面目見天下之人乎!豈有朝為梁將,暮為唐臣!此我所不為也。」帝復遣李嗣源自往諭之,彥章臥謂嗣源曰:「汝非邈佶烈乎?」彥章素輕嗣源,故以小名呼之。於是諸將稱賀,帝舉酒屬李嗣源曰:「今日之功,公與崇韜之力也。曏從紹宏輩語,大事去矣。」

王彦章はかつて人にいう。「李亞子(唐帝)は闘鶏の小兒。なんぞ畏るるに足らん」と。ここに至り、梁帝は王彦章にいう。「お前はつねに私を小兒という。今日は私に服すか、まだ服さないか」と。また唐帝は問う。「お前の名声は、善將である。なぜ兗州を守らなかったか。中都には壁壘がなかった。なぜ中都を自固しなかったか」と。

『九域志』中都は東南して兗州に至る、90里。

王彦章「天命はすでに去る。言う必要はない」と。唐帝は王彦章の才能を惜しみ、用いたい。藥を賜り、その創を傅す。しばしば人をやり、誘諭した。
王彦章「私は匹夫である。梁恩を蒙り、位は上將に至る。皇帝と交戰すること15年。いま兵は敗れ、力は窮きた。死こそ、わが分である。もし皇帝が渡しを憐んで生かしても、私は天下の人に顔向けできない。どうして、朝には梁将で、暮には唐臣となれるか。私にはできない」と。唐帝は、李嗣源をゆかせ、王彦章を諭さえた。

ぼくは思う。仁木英之氏の『李嗣源』での名場面。ここで王彦章は、李嗣源に「私とおなじ過ちを繰り返したら、あの世で笑ってやる」みたいなことを言われる。『通鑑』では、2人に心の交流はない。

王彦章は臥して、李嗣源にいう。「きみは、邈佶烈(ボギレ)ではないか」と。王彦章は、もとより李嗣源を軽んじる。ゆえに李嗣源を、小名で呼んだ。ここにおいて諸将は稱賀した。唐帝は舉酒して、李嗣源につぐ。唐帝「今日之功は、きみと郭崇韜の力である。曏って(誤って)紹宏らの語に従えば、大事は去っていた」と。

帝又謂諸將曰:「曏所患惟王彥章,今已就擒,是天意滅梁也。段凝猶在河上,進退之計,宜何向而可?」諸將以為;「傳者雖雲大梁無備,未知虛實。今東方諸鎮兵皆在段凝麾下,所餘空城耳,以陛下天威臨之,無不下者。若先廣地,東傅於海,然後觀釁而動,可以萬全。」康延孝固請亟取大梁。李嗣源曰:「兵貴神速。今彥章就擒,段凝必未之知;就使有人走告,疑信之間尚須三日。設若知吾所向,即發救兵,直路則阻決河,須自白馬南渡,數萬之眾,舟楫亦難猝辦。此去大梁至近,前無山險,方陳橫行,晝夜兼程,信宿可至。段凝未離河上,友貞已為吾擒矣。延孝之言是也,請陛下以大軍徐進,臣願以千騎前驅。」帝從之。令下,諸軍皆踴躍願行。

是夕,嗣源帥前軍倍道趣大梁。乙亥,帝發中都,舁王彥章自隨,遣中使問彥章曰:「吾此行克乎?」對曰:「段凝有精兵六萬,雖主將非材,亦未肯遽爾倒戈,殆難克也。」帝知其終不為用,遂斬之。
丁丑,至曹州,梁守將降。

この日の夕、李嗣源は前軍を帥い、倍道して大梁にゆく。10月乙亥、唐帝は中都を発する。王彥章を舁して、自隨させる。中使をやって王彦章に問う。「私は梁帝に勝てるかな」と。王彦章「段凝には、精兵6萬がいる。主將は才能がないが、遽かに(にわかに)戈を倒すことを肯んじない。唐帝が勝つのは難しい」と。唐帝は、ついに王彦章を用いられないと知り、王彦章を斬った。

ぼくは思う。王彦章は、梁軍を評価していたのか。唐帝を当てこすっただけなのか。

10月丁丑、唐帝は曹州に至る。梁国の守將は降った。

王彥章敗卒有先至大梁,告梁主以「彥章就擒,唐軍長驅且至」者,梁主聚族哭曰:「運祚盡矣!」召群臣問策,皆莫能對。梁主謂敬翔曰:「朕居常忽卿所言,以至於此。今事急矣,卿勿以為懟。將若之何?」翔泣曰:「臣受先帝厚恩,殆將三紀,名為宰相,其實硃氏老奴,事陛下如郎君。臣前後獻言,莫匪盡忠。陛下初用段凝,臣極言不可,小人朋比,致有今日。今唐兵且至,段凝限於水北,不能赴救。臣欲請取下出居避狄,陛下必不聽從;欲請陛下出奇合戰,陛下必不果決。雖使良、平更生,誰能為陛下計者!臣願先賜死,不忍見宗廟之亡也。」因與梁主相向慟哭。

王彦章の敗卒は、さきに大梁に至って、梁帝にいう。敗卒「王彦章は擒らわれた。唐軍は長駆して、梁都にきそう」と。梁帝は親族を集めて哭した。「運祚は盡きたるかな」と。群臣を召して、問策する。對えられる者なし。梁帝は敬翔にいう。「つねに私は、きみの発言を忽か(おろそか)にして、ここに至った。いま事態は急である。私を懟(怨)らむな。どうしたものか」と。
敬翔は泣いた。「私は先帝の厚恩を受けた。30年にせまる。

朱全忠が宣武に鎮したとき、敬翔は幕属となった。宰相になり、梁国の滅亡をむかえた。ゆえに「3紀」という。開平元年に敬翔が朱全忠に仕えた。史書は「30余年」というが、30年には足りない。誤りである。
ぼくは補う。開平元年は、907年である。まだ16年しか経たない。

名は宰相だが、実は朱氏の老奴である。陛下には、郎君のように仕えた。

門生故吏は、下に至って僮奴である。主人の子を「郎君」とよぶ。ぼくは補う。敬翔は、朱全忠に推挙してもらった門生故吏として、梁国のなかで自己を位置づけた。

私は獻言してきたが、,尽忠でない発言はない。陛下は段凝を用いた。私は言葉をきわめて、段凝を用いるなと言ったが、(梁帝が段凝を用いたせいで)小人が朋比し、今日の事態に到った。いま唐兵が到着しそうだ。段凝は水北で動きを制限され、梁都を救いにこれない。

段凝の兵は、大梁に還ってきて、大梁を救いたい。だが、黄河の水が決壊しており、道のりが遠い。間に合わない。

私が陛下に、梁都を出て、狄に避けろ(異民族のなかに逃げこめ)と言っても、陛下は従わないだろう。陛下に、出奇・合戰しろと言っても、陛下は決戦をしないだろう。前漢の張良や陳平が生き返っても、だれが陛下のために計略をやれるか。私は先に死を賜りたい。宗廟之亡を見るのは忍びない」と。

胡三省はいう。張良と陳平は、智恵によって、前漢の高祖を輔けて天下を定めた。のちに智者を代表して、張良と陳平の名をだす。
ぼくは思う。梁帝(末帝)の行動力のなさが、最後の最後までネックになった。敬翔は、梁帝が塞外に出奔するか、唐軍と決戦するかすれば、まだ梁国が盛り返す可能性があると言っているのだ。行動する君主である、唐帝=李存勗と対極にある。

敬翔は、梁帝とともに相い向い、慟哭した。

10月、梁帝が諸弟を殺し、伝国宝を盗まれる

梁主遣張漢倫馳騎追段凝軍。漢倫至滑州,墜馬傷足,復限水不能進。
時城中尚有控鶴軍數千,硃珪請帥之出戰。梁主不從,命開封尹王瓚驅市人乘城為備。

梁帝は張漢倫をつかわし、騎を馳せ、段凝の軍を追わせる。張漢倫は、滑州に至り、墜馬・傷足した。また水に妨げられ、段凝のほうに進めない。

『九域志』はいう。大梁、北至、滑州、二百里。この注釈と、前の注釈の「王彦章が3日で賊を破った」とをくらべると、大梁と滑州との距離について、記述に10里の差がある。けだし『九域志』は、数字をまるめた。

ときに、梁都=大梁の城中には、まだ控鶴軍が数千いる。朱珪は、これを帥して出戰したい。梁帝が従わず。開封尹の王瓚に、市人を駆り、乘城して(唐軍の攻撃に)備えた。

初,梁陝州節度使邵王友誨,全昱之子也,性穎悟,人心多向之。或言其誘致禁軍欲為亂,梁主召還,與其兄友諒、友能並幽於別第。及唐師將至,梁主疑諸兄弟乘危謀亂,並皇弟賀王友雍、建王友徽盡殺之。

梁国の陝州節度使の邵王・朱友誨は、朱全昱の子である。朱友誨は、性が穎悟で、人心は多くが彼にむく。或者が「朱友誨が禁軍を誘致して、乱をなす」という。梁帝は、朱友誨を召還した。兄の朱友諒、朱友能とともに、別第に幽閉した。

朱友能が反したのは、上巻の龍徳元年にある。

唐師が至ると、梁帝は、諸兄弟が乘危・謀亂すると考えた。皇弟の賀王・朱友雍、建王の朱友徽とともに、全殺した。

ぼくは思う。王朝の最後で、協力してくれそうな皇族を殺す。梁帝は、空虚な中心として、犠牲者を吸い込みまくる。罪深い。
『考異』はいう。『薛史』によると、朱友諒、朱友能、朱友誨は、唐帝が汴(大梁)に入ると、同日に殺害された。梁国の中都はすでに破れている(梁帝は追い込まれていたはずだ)。梁帝の親弟すら疑って殺す。まして従弟で反乱が疑われる者まで(大梁に唐兵がくるまで)生かしておくものか。ゆえに、同日に殺害されたという記事は採用しない。


梁主登建國樓,面擇親信厚賜之,使衣野服,繼蠟詔,促段凝軍,既辭,皆亡匿。或請幸洛陽,收集諸軍以拒唐,唐雖得都城,勢不能久留。 或請幸段凝軍,控鶴都指揮使皇甫麟曰:「凝本非將材,官由幸進,今危窘之際,望其臨機制勝,轉敗為功,難矣。且凝聞彥章軍敗,其膽已破,安知能終為陛下盡節乎!」趙巖曰:「事勢如此,一下此樓,誰心可保!」梁主乃止。復召宰相謀之,鄭玨請自懷傳國寶詐降以紓國難,梁主曰:「今日固不敢愛寶,但如卿此策,竟可了否?」玨俯首久之,曰:「但恐未了。」左右皆縮頸而笑。梁主日夜涕泣,不知所為;置傳國寶於臥內,忽失之,已為左右竊之迎唐軍矣。

梁帝は、建國樓に登る。親信する者に面擇して、厚賜した。野服を衣せ、蠟詔を継ぎ、段凝の軍を催促する。

蠟詔とは、臘書のようなもの。命が上(皇帝)から出るとき、臘詔という。

段凝への使者が辞してから、親信する者は、みな亡匿した。或者がいう。「洛陽にゆき、諸軍を收集して、唐兵を拒もう。唐兵は、都城=大梁を得ても、兵勢は久しく留まれない」という。或者がいう。「梁帝が段凝の軍のなかにゆけ」と。
控鶴都指揮使の皇甫麟がいう。「段凝は、もとより將材でなかった。梁帝のはからいで官職を進めた。だが段凝は、いま危窘之際に、臨機に望みて勝を制し、敗を轉じて功となすのは難しい。段凝は、王彦章が破れたと聞き、膽がすでに破れた。段凝では、最後まで梁帝に臣節を尽くせない」と。
趙巌「事勢はこのようだ。ひとたびこの建国樓を下りれば、誰の心が保てるか」と。梁帝は、段凝をたよるのを止めた。
また宰相を召して謀る。鄭玨は、「みずから梁帝が傳國寶を懐き、詐って唐帝に降り、國難を紓(緩)めよ」という。梁帝「今日、あえて私は伝国宝を愛さない(伝国宝を利用して助かりたい)。きみの策のとおりすれば、無事に切り抜けられるかな」と。鄭玨は、長らく俯首していう。「ただ無事に切り抜けられないことを恐れる」と。みな左右は、縮頸して笑った。
梁帝は、日夜に涕泣する。どうして良いか分からない。傳國寶を臥內におく。なくしてしまった。すでに左右が伝国宝をもちだし、唐軍を迎えた。

ぼくは思う。マヌケな話。でも伝国宝が、物語のカギになっているのは、漢末に共通していておもしろい。皇帝権力という抽象的な約束事を、なにかに象徴化して視える化せずにはいられない。いつも人間の心性は同じなんだと思う。


10月、李嗣源が大梁を陥落させ、梁帝が死ぬ

戊寅,或告唐軍已過曹州,塵埃漲天,趙巖謂從者曰:「吾待溫許州厚,必不負我。」遂奔許州。
梁主謂皇甫麟曰:「李氏吾世仇,理難降首,不可俟彼刀鋸。吾不能自裁,卿可斷吾首。」麟泣曰:「臣為陛下揮劍死唐軍則可矣,不敢奉此詔。」梁主曰:「卿欲賣我邪?」麟欲自剄,梁主持之曰:「與卿俱死!」麟遂弒梁主,因自殺。梁主為人溫恭儉約,無荒淫之失;但寵信趙、張,使擅威福,疏棄敬、李舊臣,不用其言,以至於亡。

10月戊寅、或者が「唐軍はすでに曹州を過ぎた」という。塵埃は天に漲る。趙巌は従者にいう。「私は、温許州(温韜)を厚く遇した。必ず私にそむかない」と。ついに趙巌は、許州に奔る。

ぼくは思う。温韜が許州の長官なのだ。だから趙巌は、自分が厚遇した者のもとに、保護してもらいにいった。
『九域志』はいう。大梁から西南して許州に至るまで、175里である。
温韜は趙巌により、許州をえた。龍徳元年にある。

梁帝は皇甫麟にいう。「李氏は私の世仇である。理は、降首が難しい。彼の刀鋸を俟つべきでない。私は自裁できない。きみが私の首を断ってくれ」と。皇甫麟は泣いた。「私は陛下のために、劍を揮い、唐軍と戦って死ぬ。この詔は従えない」と。梁帝「きみは私を売るのか」と。皇甫麟は自剄したい。梁帝は、皇甫麟をとめていう。「私はきみとともに死ぬ」と。皇甫麟は、ついに梁帝を弑殺し、自殺した。
梁帝の人となりは溫恭・儉約である。荒淫之失がない。ただし、趙氏と張氏を寵信して、威福をほしいままにさせた。敬氏や李氏の舊臣を疏棄して、発言を用いない。こうして滅亡した。

敬翔と李振は、どちらも朱全忠を佐けた。いま死んだ梁末帝は、敬翔と李振を用いなかった。
大唐の天祐3年、梁国は大唐から受禅した。君主は3代、17年で滅亡した。


己卯旦,李嗣源軍至大梁,攻封丘門,王瓚開門出降,嗣源入城,撫安軍民。是日,帝入自梁門,百官迎謁於馬首,拜伏請罪,帝慰勞之,使各復其位。李嗣源迎賀,帝喜不自勝,手引嗣源衣,以頭觸之曰:「吾有天下,卿父子之功也,天下與爾共之。」帝命訪求梁主,頃之,或以其首獻。

10月の己卯の旦、李嗣源の軍は大梁に至る。封丘門を攻める。王瓚が開門・出降する。

大梁の門の位置や構成について、8899頁。封丘門と梁門の件。

李嗣源が入城して、軍民を撫安した。この日、唐帝は梁門より入る。百官は馬首を迎謁する。拜伏・請罪する。唐帝は慰勞して、官位を復させた。李嗣源は迎賀する。唐帝は喜びが大きすぎる。唐帝は、手ずから李嗣源の衣を引き、李嗣源の頭を触る。唐帝「私が天下を有するのは、お前の父子の功績である。天下はお前とともにしよう」と。

胡三省はいう。唐帝はこのとき、喜びすぎて、節度を失った。天下を保てなくなった。ぼくは補う。唐帝は、李嗣源に奪われてしまう。李嗣源が、外部から占領して、つぎの唐帝となる。

唐帝は梁帝の訪求を命じたが、ちょうど或者が梁帝の首を献じた。

『考異』はいう。『実録』はいう。唐帝は惨然としていう。「敵の恵みと敵の怨みは、後嗣にない。私と梁帝は10年、戦争をしてきた。恨みはその顔を識ることに生じない」と。唐帝は梁帝の首を漆して、太社に蔵した。この行動のどこに、梁帝への敵意のなさを全うする理があるだろうか。唐帝の言葉は、虚言である。
ぼくは思う。朱全忠と李克用は、仇敵だった。だが代替わりしたら、その敵対心もゆらぐ。これが、国家の正統の議論を介在させない場合の、自然な感情の動きである。三国の魏蜀が、世代を経ても憎みあっているほうが、不思議なのだ。どこから、そんなパワーが湧いてくるのかと、問題を設定すべきだ。


李振謂敬翔曰:「有詔洗滌吾輩,相與朝新君乎?」翔曰:「吾二人為梁宰相,君昏不能諫,國亡不能救,新君若問,將何辭以對!」是夕未曙,或報翔曰:「崇政李太保已入朝矣。」翔歎曰:「李振謬為丈夫!硃氏與新君世為仇讎,今國亡君死,縱新君不誅,何面目入建國門乎!」乃縊而死。

李振は敬翔にいう。「詔があり、われらを洗滌する(前歴を不問にする)という。宰相(敬翔)は、ともに唐帝の前に朝して、君主を新しく(梁から唐へ転職)しようか」と。敬翔「われら2人は、梁国で宰相となった。君主は昏くて諫められず、国家は亡びて救えず。新君がもし問えば、どんな言葉で(梁国におけるわれらの働きぶりと、梁国のい滅亡の事情を)答えるのか」と。
この夕、曙の前(天が明ける前)に、或者が敬翔に報せた。「崇政の李太保(李振)が、すでに唐帝に入朝した」と。敬翔は歎じた。「李振は丈夫として、謬った。朱氏と新君(梁帝と唐帝)は、世よ仇讎である。いま国が亡び、君(梁帝)が死んだ。もし新君がわれらを誅さなくても、なんの面目で建國門に入るのか」と。敬翔は、縊して死んだ。

庚辰,梁百官復待罪於朝堂,帝宣敕赦之。
趙巖至許州,溫昭圖迎謁歸第,斬首來獻,盡沒巖所繼之貨。昭圖復名韜。
辛巳,詔王瓚收硃友貞屍,殯於佛寺,漆其首,函之,藏於太社。

10月庚辰、後梁の百官は、ふたたび朝堂で待罪した。唐帝は、宣敕して、梁官をゆるした。
趙巌は許州にいたる。温昭圖(温韜)は、迎謁・歸第する。温韜は、趙巌を斬首して來獻した。趙巌の継いだ財貨を、すべて没収した。温昭圖は、温韜に名をもどした。

胡三省はいう。元徽と趙巌は、権を怙む(たのむ)ために、貨の戒を冒した。
梁国は温韜に、温昭圖の名を賜った。貞明元年にある。

辛巳、王瓚に詔して、硃友貞(梁帝)の屍を収させた。佛寺で殯する。その首を漆して、函に入れ、太社に蔵する。

『考異』はいう。『薛史』末帝紀では、河南尹の張全義に詔して、梁帝の死骸を収めさせる。いま『実録』に従う。ぼくは思う。張全義って、まだ生きてるんだっけ。


10月、梁臣を整理し、郭崇韜に実務をさせる

段凝自滑州濟河入援,以諸軍排陳使杜晏球為前鋒;至封丘,遇李從珂,晏球先降。壬午,凝將其眾五萬至封丘,亦解甲請降。凝帥諸大將先詣闕待罪,帝勞賜之,慰諭士卒,使各復其所。凝出入公卿間,揚揚自得無愧色,梁之舊臣見者皆欲齕其面,抉其心。

段凝は、滑州より濟河して入援する。諸軍をもって、排陳使の杜晏球を前鋒とする。封丘に至る。李從珂と遭遇する。杜晏球は、李従珂に先に降ってしまった。10月壬午、段凝は軍衆500人をひきい、封丘にいたる。甲を解いて、請降する。段凝は、諸大將を帥いて、先に闕に詣でて罪を待つ。唐帝は、段凝を勞賜する。士卒を慰諭し、所属にもどす。段凝は(降将のくせに)公卿の間を出入して、揚揚として愧色がない。梁国の旧臣で、段凝に会った者は、みな段凝の顔面を齕み、段凝の心臓を抉りたい。

ぼくは思う。段凝がきちんと戦えば、梁国は滅亡せずにすんだ。


丙戌,詔貶梁中書侍郎、同平章事鄭玨為萊州司戶,蕭頃為登州司戶,翰林學士劉岳為均州司馬,任贊為房州司馬,姚顗為復州司馬,封翹為唐州司馬,李懌為懷州司馬,竇夢征為沂州司馬,崇政學士劉光素為密州司戶,陸崇為安州司戶,御史中丞王權為隨州司戶;以其世受唐恩而仕梁貴顯故也。岳,崇龜之從子;顗,萬年人;翹,敖之孫;懌,亦兆人;權,龜之孫也。

10月丙戌、唐帝は詔して、梁国の中書侍郎・同平章事の鄭玨を、萊州司戶とした。蕭頃を、登州司戶とした。翰林學士の劉岳を、均州司馬とした。任贊を、房州司馬とした。姚顗を、復州司馬とした。封翹を、唐州司馬とした。李懌を、懷州司馬とした。竇夢征を、沂州司馬とした。崇政學士の劉光素を、密州司戶とした。陸崇を、安州司戶とした。御史中丞の王權を、隨州司戶とした。

ぼくは思う。胡三省は固有名詞をスルーする。

(この降格は、彼らが)世よ大唐の恩を受けたが、梁国で貴顯になったためである。劉岳は、劉崇亀の從子である。

劉崇亀は、大唐の僖宗の広明顔淵にある。

姚顗は、萬年の人。封翹は、封敖の孫である。李懌は、京兆の人。王權は、王亀の孫である。

萬年は、京兆府に属する。唐代の赤県である。ときに京兆にもどして、西京となる。
封敖は、唐代の武宗と宣宗につかえた。翰林に入り、位は尚書僕射に至る。
王亀は、王式の兄である。大唐の咸通期に、名を知られた。
ぼくは思う。この『通鑑』の本文で、誰が誰の子孫かと説明するのは、彼らが「世よ大唐の恩を受けた」ことの証明になってる。よくできている。


段凝、杜晏球上言:「偽梁要人趙巖、趙鵠、張希逸、張漢倫、張漢傑、張漢融、硃珪等,竊弄威福,殘蠹群生,不可不誅。」詔:「敬翔、李振首佐硃溫,共傾唐祚;契丹撒刺阿撥叛兄棄母,負恩背國,宜與巖等並族誅於市;自餘文武將吏一切不問。」又詔追廢硃溫、硃友貞為庶人,毀其宗廟神主。
帝之與梁戰於河上也,梁拱宸左廂都指揮使陸思鐸善射,常於笴上自鏤姓名,射帝,中馬鞍,帝拔箭藏之。至是,思鐸從眾俱降,帝出箭示之,思鐸伏地待罪,帝慰而釋之,尋授龍武右廂都指揮使。
以豆盧革尚在魏,命樞密使郭崇韜權行中書事。

段凝と杜晏球は上言した。「偽梁の要人は、趙巖、趙鵠、張希逸、張漢倫、張漢傑、張漢融、硃珪らである。ひそかに威福を弄し、殘蠹は群生する。誅さねばならない」と。唐帝「敬翔と李振は、朱温を筆頭で補佐して、ともに唐祚を傾けた。契丹の撒刺阿撥は、兄に叛いて母を棄て、恩に負き国に背いた。撒刺阿撥は、趙巌らとともに族誅して市にさらすべきだ。その他の文武將吏は、一切を不問とする」と。

撒刺阿撥が、契丹にそむき、梁国に奔ったのは、貞明4年にある。

詔して、朱温と硃友貞を追廢して、庶人とした。梁帝たちの宗廟・神主を毀した。
唐帝は、梁国と河上で戦ったとき、梁国の拱宸左廂都指揮使の陸思鐸は、射が善い。つねに笴上に自らの姓名を鏤して、唐帝を射た。馬鞍にあたった。梁帝は箭を拔き、藏しておいた。ここにいたり、陸思鐸は軍衆に従って、ともに降った。唐帝は(自分をかすめた)箭を出して示した。陸思鐸は、伏地・待罪した。唐帝は慰って釋した。陸思鐸に、龍武右廂都指揮使を授けた。
豆盧革は、なお魏州にいる。樞密使の郭崇韜に命じて、權行中書事とする。

梁諸籓鎮稍稍入朝,或上表待罪,帝皆慰釋之。宋州節度使袁象先首來入朝,陝州留後霍彥威次之。像先輦珍貨數十萬,遍賂劉夫人及權貴、伶官、宦者,旬日,中外爭譽之,恩寵隆異。己丑,詔偽庭節度、觀察、防禦、團練使、刺史及諸將校,並不議改更,將校官吏先奔偽庭者一切不問。
庚寅,豆盧革至自魏。甲午,加崇韜守侍中,領成德節度使。崇韜權兼內外,謀猷規益,竭忠無隱,頗亦薦引人物,豆盧革受成而已,無所裁正。

梁国の諸藩鎮は、稍稍と入朝した。或者は上表して待罪する。唐帝は、みな慰釋した。宋州節度使の袁象先が、はじめに入朝にきた。陝州留後の霍彦威が、そのつぎに入朝した。袁象先は、珍貨を數十萬も輦し、遍ねく劉夫人および權貴、伶官、宦者に賂した。旬日して、中外は争って袁象先を誉めた。恩寵は隆異である。
10月己丑に詔して、偽庭(梁国)の節度、觀察、防禦、團練使、刺史および諸將校につき、改更(配属の変更)を議さない。將校と官吏のうち、さきに偽庭に奔った者(梁国に臣従した者)も、一切を不問とした。
10月庚寅、豆盧革が魏州より至る。甲午、郭崇韜に、守侍中・領成德節度使をくわえる。

胡三省はいう。梁国を滅する策略を決したことを賞したのだ。
ぼくは思う。豆盧革は、大唐の故事を知っているから、重職にあるだけ。とくに働きはない。飾りである。郭崇韜は、きちんと唐帝のために働いている。そりゃ、郭崇韜に実務を移すよなあ。

郭崇韜の権限は、内外をあわせ、謀猷は規益、竭忠は無隱である。人物を人物する。豆盧革は受成するだけで、裁正するところがない。

丙申,賜滑州留後段凝姓名曰李紹欽,耀州刺史杜晏球曰李紹虔。
乙酉,梁西都留守河南尹張宗奭來朝,復名全義,獻幣馬千計;帝命皇子繼岌、皇弟存紀等兄事之。帝欲發梁太祖墓,斫棺焚其屍,全義上言:「硃溫雖國之深仇,然其人已死,刑無可加,屠滅其家,足以為報,乞免焚斫以存聖恩。」帝從之,但鏟其闕室,削封樹而已。
戊戌,加天平節度使李嗣源兼中書令;以北京留守繼岌為東京留守、同平章事。

10月丙申、滑州留後の段凝に「李紹欽」の姓名を賜る。耀州刺史の杜晏球は「李紹虔」を賜る。

のちに段凝も杜晏球も、もとの姓名にもどす。

10月乙酉、梁国の西都留守・河南尹の張宗奭が来朝して「張全義」の名にもどした。幣馬を千ばかり獻じた。唐帝は、皇子の李継岌、皇弟の李存紀らに命じて、張全義に兄事させた。

張全義の改名は、朱温期の開平元年である。
胡三省はいう。李継岌は皇嗣である。なぜ梁国の旧臣に兄事するか(皇嗣のほうが偉いのに)。李存紀は皇弟である。すでに唐帝は、自分の子を張全義に兄事させたのに、なぜ自分の弟を張全義に兄事させるか(世代が1つズレてる)。後唐の家人は、長幼の序が明らかで無い。のちに中宮もまた、張全義に父事する。甚だしいかな、夷狄の俗は。貨を好むだけで、綱常を知らないのだから。
ぼくは思う。唐帝が、だれでもかれでも、家族として仕えさせた張全義とは、どれほどの人物なんだろう。張全義の列伝を読まねば。『欧史』では、雑伝第三十三がある。張全義、朱友謙、袁象先、朱漢賓、段凝、劉_、周知裕、陸思鐸がセットになっている。梁末に『通鑑』に出てきた人たちが、まとまっている。

唐帝は、梁太祖(朱全忠=朱温)の墓を発して、棺を斫ち、屍を焚きたい。張全義は上言した。「朱温は國之深仇であるが、すでに死者である。刑を加えるべきでない。朱氏の家を屠滅するだけで、報復は足りる。焚斫をしないで、以て聖恩を存せ」と。唐帝は張全義に従う。ただその闕室を鏟して、封樹を削っただけ。

張全義は、なお朱温が河陽でほどこした恩を忘れない。

10月戊戌、天平節度使の李嗣源に、兼中書令を加える。北京留守の李継岌(皇嗣)を、東京留守・同平章事とする。

ときに鎮州を北京といい、魏州を東京という。


10月、荊州と呉蜀が、唐帝と関係を調整する

帝遣使宣諭諸道,梁所除節度使五十餘人皆上表入貢。
楚王殷遣其子牙內馬步都指揮使希范入見,納洪、鄂行營都統印,上本道將吏籍。荊南節度使高季昌聞帝滅梁,避唐廟諱,更名季興,欲自入朝,梁震曰:「唐有吞天下之志,嚴兵守險,猶恐不自保,況數千里入朝乎!且公硃氏舊將,安知彼不以仇敵相遇乎!」季興不從。

唐帝は死者をやり、諸道に宣諭した。梁国に除された節度使50余人は、みな上表・入貢した。
楚王の馬殷は、子の牙內馬步都指揮使の馬希范を入見させる。洪州と鄂州の行營都統印と、本道の將吏の籍を、唐帝に上納した。

梁帝は馬殷に、洪州と鄂州の行営都統を命じた。

荊南節度使の高季昌は、唐帝が梁国を滅したと聞き、唐廟の諱を避けて、高季興と改名した。

献祖の諱は、李国昌である。

高季昌は、唐国に入朝したい。梁震「唐帝には、天下を吞する志がある。嚴兵・守險しても(荊南が)なお自保できないのを恐れる。いわんや数千里をゆき入朝するなんて(荊南が自保できなくなる)。かつ高季昌は、朱氏の旧将である。唐帝から仇敵だと処遇されるかも知れない」と。高季昌=高季興は従わず。

朱氏に旧将であることは、昭宗の天復2年にある。


帝遣使以滅梁告吳、蜀,二國皆懼。徐溫尤嚴可求曰:「公前沮吾計,今將奈何?」可求笑曰:「聞唐主始得中原,志氣驕滿,御下無法,不出數年,將有內變,吾但當卑辭厚禮,保境安民以待之耳。」唐使稱詔,吳人不受;帝易其書,用敵國之禮,曰:「大唐皇帝致書於吳國主」,吳人復書稱「大吳國主上大唐皇帝」,辭禮如箋表。

唐帝は使者をやり、滅梁のことを、呉蜀に2国に告げた。2国は懼れた。徐温は厳可求を尤していう。「あなたは前に、私の計をはばんだ。今でも、私の計をはばむか」と。

鄆州から使者がきて、呉国と兵をあわせる計のことをいう。徐温は、水軍を海にうかべて、北進したかった。同年5月に記事がある。

厳可求は笑った。「唐主が中原を得たが、志氣は驕滿、御下は無法だと聞く。数年まてば、後唐の内変があるだろう。私はただ後唐にむけて、卑辭・厚禮して、保境・安民して、後唐の内変を待つだけだ」と。
後唐は呉王に、詔の書式で文書を送るが、吳人は受けない。唐帝は文書を易えて、敵國之禮(対等の国の形式)を用いた。「大唐皇帝が書を吳國主に致す」と。吳人も文書で「大吳國主が大唐皇帝に上す」という。辭禮は、箋表のごとし。

吳人有告壽州團練使鐘泰章侵市官馬者,徐知誥以吳王之命,遣滁州刺史王稔巡霍丘,因代為壽州團練使,以泰章為饒州刺史。徐溫召至金陵,使陳彥謙詰之者三,皆不對。或問泰章:「可以不自辨?」泰章曰:「吾在揚州,十萬軍中號稱壯士;壽州去淮數里,步騎不下五千,苟有它志,豈王稔單騎能代之乎!我義不負國,雖黜為縣令亦行,況刺史乎!何為自辨以彰朝廷之失!」徐知誥欲以法繩諸將,請收泰章治罪。徐溫曰:「吾非泰章,已死於張顥之手,今日富貴,安可負之!」命知誥為子景通娶其女以解之。

呉人が「壽州團練使の鐘泰章が、官馬を侵市した」と報告した。徐知誥は、吳王之命をもって、滁州刺史の王稔に霍丘をめぐらせ、王稔を壽州團練使に代えた。

霍丘は、呉国の辺邑である。徐知誥は王稔に、辺境を巡れという名目でゆかせ、鍾泰章のポストに交代させた。

鍾泰章を饒州刺史とした。徐溫は鍾泰章を召し、鍾泰章が金陵に至る。陳彦謙が、鍾泰章を3たび詰問した。鍾泰章は答えない。或者が鍾泰章に問うた。「なぜ自ら弁解しないか」と。鍾泰章「私は揚州にいて、10万の軍中で壯士と称された。壽州は淮水から数里しか距離がない。步騎は5千を下らない。もし私に他志があれば、私の後任である王稔が、単騎で揚州の兵を制御できるはずがない。私にとっての義は、国に背かないこと。黜して縣令にされても、任地にゆくつもりだ。まして刺史にしてもらった。なぜ自ら弁解して、朝廷之失を彰らかにするものか」と。
徐知誥は、法をもって諸將を繩したい。鍾泰章を收めて治罪したい。徐温「私は鍾泰章がいなければ、すでに張顥之手で死んでいた。今日の富貴は、鍾泰章のおかげだ。なぜ鍾泰章に負くのか」と。

張顥のことは、梁太祖の開平2年にある。

徐知誥に命じて、子の徐景通に、鍾泰章の娘をめとらせた。鍾泰章を解放した。

彗星見輿鬼,長丈餘,蜀司天監言國有大災。蜀主詔於玉局化設道場,右補闕張雲上疏,以為:「百姓怨氣上徹於天,故彗星見。此乃亡國之征,非祈禳可弭。」蜀主怒,流雲黎州,卒於道。

彗星が輿鬼(秦州や雍州の分野)に現れた。長さは丈餘。前蜀の司天監は、國に大災があるという。蜀主は詔して、玉局化に道場を設けさせた。

玉局化は、成都にある。8904頁。

右補闕の張雲が上疏する。張雲「百姓の怨氣は、天に上徹する。ゆえに彗星があらわれた。これは、亡國之徴である。祈禳がなければ、弭めるべき」と。蜀主は怒り、張雲を黎州に流す。道中で卒した。130907

ぼくは思う。漢代にも蜀地では、図讖がさかんだった。蜀地のように独立した土地は、試験管のなか、シミュレーション用につくった環境に似ている。自然災害によるダメージを、中原より受けにくい。そのなかで、中原で発生した図讖などの文化が、より純化したかたちで運用される。過度に象徴化され、突き詰めて適用される。土地柄かな。

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923年11月-12月、

11月、唐帝が俳優をやり、伶人をはべらせる

郭崇韜上言:「河南節度使、刺史上表者但稱姓名,未除新官,恐負憂疑。」十一月,始降制以新官命之。
滑州留後李紹欽因伶人景進納貨於宮掖,除泰寧節度使。

郭崇韜は唐帝に上言した。「河南の節度使と刺史のうち、上表した者は、ただ姓名だけを称しており、新官に除していない。彼らが、憂疑を負わないか恐れる」と。11月、はじめて降制して、官名を新たにして任命した。
滑州留後の李紹欽は、伶人の景進に、宮掖で納貨した。ゆえに泰寧を節度使に除した。

◆俳優の敬新磨のこと

帝幼善音律,故伶人多有寵,常侍左右;帝或時自傅粉墨,與優人共戲於庭,以悅劉夫人,優名謂之「李天下!」嘗因為優,自呼曰:「李天下,李天下」,優人敬新磨遽前批其頰。帝失色,群優亦駭愕,新磨徐曰:「理天下者只有一人,尚誰呼邪!」帝悅,厚賜之。
帝嘗畋於中牟,踐民稼,中牟令當馬前諫曰:「陛下為民父母,奈何毀其所食,使轉死溝壑乎!」帝怒,叱去,將殺之。敬新磨追擒至馬前,責之曰:「汝為縣令,獨不知吾天子好獵邪?奈何縱民耕種,以妨吾天子之馳聘乎!汝罪當死!」因請行刑,帝笑而釋之。

唐帝は、幼くから音律に善し。ゆえに多くの伶人に寵がある。つねに左右に侍る。唐帝はあるとき、みずから粉墨を傅し、優人とともに庭で戲れた。劉夫人を悅ばせた。唐帝の俳優としての名を「李天下」とする。かつて唐帝が俳優をしたとき、「李天下、李天下」と自称した。優人の敬新磨は、唐帝の前にゆき、唐帝の頰をたたいた。唐帝は失色する。群優も駭愕した。敬新磨は、おもむろにいう。「理天下(天下を理する)のは、ただ1人である。なお誰を、理天下と呼ぶか」と。唐帝は悦び、厚く賜る。

ぼくは思う。平素の唐帝は、李氏であり、天下を理する者である。しかし唐帝が俳優として別人に扮したら、これは別人である。つまり、唐帝でない者が、唐帝のように「天下を理する」というのは、不敬である。唐帝の扮装に、きっちり付き合ってあげるからこそ、敬新磨のような反応ができる。

唐帝はかつて中牟(大梁の西70里)で狩猟して、民稼を践んだ。中牟令が、馬前に当たり諫めた。「陛下は民の父母である。なぜ民の食糧をこわすか。轉死・溝壑させてやろうか」と。唐帝は怒り、叱去して殺そうとした。敬新磨は、追擒して馬前に至る。中牟令を責めた。敬新磨「お前は縣令のくせに、我らが天子が、狩猟を好むことを知らないのか。なぜほしいままに民に耕種させ、天子の馳聘を妨げるか。お前の罪は死に当たる」と。

「民に耕種させる」のは、あまりに当然のこと。正しいこと。だから、ギャグになっている。

敬新磨は、中牟令への死刑の執行を請う。唐帝は笑ってゆるした。

◆諸伶が皇帝権力を強化&腐敗させる

諸伶出入宮掖,侮弄縉紳,群臣憤嫉,莫敢出氣;亦反有相附托以希恩澤者,四方籓鎮爭以貨賂結之。其尤蠹政害人者,景進為之首。進好采閭閻鄙細事聞於上,上亦欲知外間事,遂委進以耳目。進每奏事,常屏左右問之,由是進得施其讒慝,干預政事。自將相大臣皆憚之,孔巖常以兄事之。

諸伶は、宮掖に出入する。縉紳を侮弄する。群臣は憤嫉するが、あえて出氣しない。また、かえって諸伶に附托して、恩澤を希望する者もある。四方の籓鎮は、争って貨賂をもって諸伶と結んだ。

胡三省はいう。才能がないくせに、利禄をほしがる者が、なんと多いことか。

もっとも政を蠹し、人を害する者は、景進が筆頭である。景進は、閭閻の鄙細な事を聞いては、唐帝に聞かせる。唐帝は、外間の事を知りたがり、景進を耳目とする。景進が奏事するとごに、つねに左右を屏して問う。これにより景進は、讒慝を施せて、政事に干預する。

ぼくは思う。孫権の呂壱みたいに。皇帝権力を強めようとすると、こうなる。まあ唐帝や景進の責任ではなく、構造的な問題と見なすべきだろう。

將相や大臣は、みな景進をはばかる。孔巖常は、景進に兄事した。

11月、梁臣に李姓をたまわり、温韜を許す

壬寅,岐王遣使致書,賀帝滅梁,以季父自居,辭禮甚倨。
癸卯,河中節度使硃友謙入朝,帝與之宴,寵錫無算。
張全義請帝遷都洛陽,從之。

11月壬寅、岐王は、使者して唐帝に書を致す。唐帝の滅梁を賀した。岐王は唐帝の季父にあたるから、辭禮は傲っていた。

岐王の李茂貞は、晋王の李克用とともに、大唐の藩鎮であった。それぞれ功績があり、大唐の李姓をもらった。ゆえに大唐の属籍となった。義は兄弟のようであった。だから岐王は、みずからを唐帝(李克用の子)の季父と位置づけた。

癸卯、河中節度使の朱友謙が入朝した。唐帝と宴する。寵錫は無算。
張全義は、唐帝に「洛陽に都せよ」と請う。唐帝は従う。

ぼくは思う。洛陽の遷都は、張全義が言ったことなのね。これは重要。梁国と唐国の「都」の編成について、8905頁。


己巳,賜硃友謙姓名曰李繼麟,命繼岌兄事之。
以康延孝為鄭州防禦使,賜姓名曰李紹琛。
廢北都,復為成德軍。
賜宣武節度使袁象先姓名曰李紹安。

己巳、朱友謙に「李継麟」という姓名を賜る。李継岌に命じて、朱友謙=李継麟に兄事させた。
康延孝を、鄭州防禦使とした。「李紹琛」という姓名を賜る。
北都を廃して、ふたたび成德軍とする。

この4月、鎮州に北都を建てた。

宣武節度使の袁象先に、「李紹安」という姓名を賜る。

匡國節度使溫韜入朝,賜姓名曰李紹沖。紹沖多繼金帛賂劉夫人及權貴伶宦,旬日,復遣還鎮。郭崇韜曰:「國家為唐雪恥,溫韜發唐山陵殆遍,其罪與硃溫相埒耳,何得復居方鎮,天下義士其謂我何!」上曰:「入汴之初,已赦其罪。」竟遣之。

匡國節度使の温韜が入朝した。「李紹沖」という姓名を賜る。温韜は、金帛を継いで、劉夫人および權貴・伶宦に賄賂する。旬日して温韜は、洛陽から鎮所に還りたいという。郭崇韜「国家は大唐の恥を雪いだ。温韜は、大唐の山陵のほとんどを盗掘した。温韜の罪は、朱温と等しい。なぜ方鎮に居させるか。天下の義士は、我らを何というだろうか」と。

温韜による盗掘は、梁太祖の開平2年にある。

唐帝「汴(大梁)に入った当初、すでに温韜の罪を許した」と。ついに唐帝は、温韜を方鎮にゆかせた。

ぼくは思う。王朝の交替期は、いちど許したものを「やっぱり許せない」という前例をつくると、みんなが震え上がる。いちど梁臣となり、梁帝のために働いた者は、すべてが唐国の仇敵になってしまう。これは現実的でない。


戊申,中書奏以:「國用未充,請量留三省、寺、監官,餘並停,俟見任者滿二十五月,以次代之;其西班上將軍以下,令樞密院准此。」從之。人頗咨怨。

戊申、中書が奏した。「いまだ国用は充たない。量るのは、三省、寺、監官に留めろ。その他の機関は停止せよ。官位にあって25ヶ月たった者から、次の者に代えろ。西班の上將軍より以下、樞密院までこれに準拠せよ」と。
唐帝は従う。人はすこぶる咨怨した。

朝会の序列において、武官は西に班する。ゆえに西班という。
ぼくは思う。官職のポストの数を減らし、また期間の長い者は、辞めさせた。官僚は、就職の機会が小さくなったので、怨んだのだろう。そのかわり、国庫は節約できるのだ。


張全義の提案で、洛陽に遷都、南郊したい

初,梁均王將祀南郊於洛陽,聞楊劉陷而止,其儀物具在。張全義請上亟幸洛陽,謁廟畢即祀南郊;從之。
丙辰,復以梁東京開封府為宣下軍汴州。梁以宋州為宣武軍,詔更名歸德軍。
詔文武官先詣洛陽。

はじめ(貞明3年)梁均王(梁末帝)は、南郊を洛陽で祀ろうとしたが、楊劉が陥落したと聞いて止めた。南郊を祀るの儀物は、具在する。張全義は、いそいで洛陽にゆき、謁廟してから、すぐに南郊を祀れという。唐帝は従う。

張全義は、漢代からの儀礼をアピる役割なのね。うまいキャラ。
胡三省はいう。大唐の東京には、太廟があった。末世に唐帝が東遷して、嘗厳奉する。ゆえに張全義は唐帝に、謁を脩めろという。

丙辰、梁国の東京開封府を、宣下軍汴州とした。梁国の宋州を宣武軍として、さらに「歸德軍」と改名する。

梁国の都は、汴である。宣武軍の額を、宋州にうつした。

詔して、文武官を、先に洛陽に詣させた。

ぼくは思う。大梁を陥落させるときよりも、洛陽に遷都するシーンこそ、唐帝の李存勗のハイライトである。


趙光胤と韋説を、同平章事とする

議者以郭崇韜勳臣為宰相,不能知朝廷典故,當用前朝名家以佐之。或薦禮部尚書薛廷珪,太子少保李琪,嘗為太祖冊禮使,皆耆宿有文,宜為相。崇韜奏廷珪浮華無相業,琪傾險無士風;尚書左丞趙光胤廉潔方正,自梁未亡,北人皆稱其有宰相器。豆盧革薦禮部侍郎韋說諳練朝章。丁巳,以光胤為中書侍郎,與說並同平章事。光胤,光逢之弟;說,岫之子;廷珪,逢之子也。光胤性輕率,喜自矜;說謹重守常而已。

議者は、「郭崇韜が勳臣であり、宰相となるが、彼が朝廷の典故を知らないので、前朝の名家に郭崇韜を佐けさせろ」という。或者は薦めたのは、禮部尚書の薛廷珪、太子少保の李琪である。かつて太祖の冊禮使となる。どちらも耆宿であり、文があり、宰相にふさわしいと。
郭崇韜は奏した。「薛廷珪は、浮華であり、相業がない。李琪は、傾險であり、士風がない。尚書左丞の趙光胤は、廉潔で方正。まだ梁国が亡びる前、北人はみな、”趙光胤には宰相の器がある”と称した。

胡三省はいう。3人とも、梁国に仕えた。薛廷珪と李琪は、梁太祖の冊礼使となる。必ずや唐代に、かつて朝命の冊を、晋王(李克用)に奉じた者であろう。

豆盧革は、禮部侍郎の韋說を薦めた。韋說は、朝章を諳練するからと。
丁巳、趙光胤を中書侍郎とする。韋説とともに、同平章事とする。

ぼくは思う。けっきょく、郭崇韜が薦めた趙光胤と、豆盧革が薦めた韋説の2人が、朝廷の典故を、再現&管理する役割となった。郭崇韜が反対した人材は、用いられなかった。唐帝は、郭崇韜を信頼しつつ、前代の名臣・豆盧革への配慮も維持しつつである。

趙光胤は、趙光逢の弟である。韋説は、韋岫の子である。薛廷珪は、薛逢の子である。

趙光逢は、梁太祖の開平元年にある。薛逢は、唐会昌?のあいだで文声がある。

趙光胤は、性が輕率で、自矜を喜ぶ。韋説は、謹重で守常するだけ。

ぼくは思う。「ドッチモ、ツカエネー」という意味である。


趙光逢自梁朝罷相,杜門不交賓客,光胤時往見之,語及政事。他日,光逢署其戶曰:「請不言中書事。」
租庸副使孔謙畏張憲公正,欲專使務,言於郭崇韜曰:「東京重地,須大臣鎮之,非張公不可。」崇韜即奏以憲為東京副留守,知留守事。戊午,以豆盧革判租庸,兼諸道鹽鐵轉運使。謙彌失望。

趙光逢は、梁朝の宰相を罷めてから、門を杜じて、賓客と交わらない。趙光胤は、趙光逢に会いにゆく。話題は政事に及ぶ。他日、趙光逢は、その戸に署していう。「中書の事は言わないでほしい」

胡三省はいう。梁均王の貞明元年、趙光逢は宰相を罷めた。
ぼくは思う。兄弟の間柄だけど。政事のことが本職になってしまったら、もう口出しは無用だと。どういう含意をひきだすのか、難しいけど。

租庸副使の孔謙は、張憲の公正を畏れる。孔謙は自分だけで、租庸使の実務を仕切りたい。

ぼくは思う。張憲が、孔謙のザツさを責めるのかも。面倒くさいやつだ。

孔謙は郭崇韜にいう。「東京は重地である。大臣に鎮させるべきだ。張憲でなければ、東京は務まらない」と。郭崇韜は奏して、張憲を東京副留守、知留守事とした。

張憲を出して、魏州を守らせたのだ

戊午、豆盧革を判租庸として、諸道の鹽鐵轉運使を兼ねさせる。孔謙(自分が長官になれなかったので)いよいよ失望した。

己未,加張全義守尚書令,高季興守中書令。時季興入朝,上待之甚厚,從容問曰:「朕欲用兵於吳、蜀,二國何先?」季興以蜀道險難取,乃對曰:「吳地薄民貧,克之無益,不如先伐蜀。蜀土富饒,又主荒民怨,伐之必克。克蜀之後,順流而下,取吳如反掌耳。」上曰:「善!」
辛酉,復以永平軍大安府為西京京兆府。

11月己未、張全義に守尚書令を加える。高季興に守中書令を加える。
ときに高季興は入朝しており、唐帝は厚遇した。從容として、唐帝は高季興に問う。「私は呉蜀に兵を用いたい。2国のどちらが先か」と。蜀は道が険しく、取りがたい。高季興「吳は、地が薄く、民が貧しい。克っても益がない。先に伐蜀するのがよい。蜀の土は富饒である。また蜀主は荒れ、民は怨む。伐てば必ず克てる。蜀に克った後で、長江の流に順って下れば、呉を取るのは、手のひらを返すようなもの」と。唐帝「よし」と。

ぼくは思う。いつでも同じような議論をしてる。これは西晋の司馬炎じゃなく、6百年以上へだてた、後唐の李存勗が戦略を話し合うシーン。この中国大陸の土地の特徴によって、領域や国家にかんする思想が規定されそう。それを周辺の諸国が輸入するときに、どんなふうに食い違い、アレンジされるか。例えば日本の場合は、どうなのか。地形と思想。おもしろいテーマだと思う。

辛酉、永平軍大安府を、西京京兆府にもどす。130907

梁国は、長安を永平軍と改めた。太祖の開平3年にある。京兆府を、大安府と改めた。開平元年にある。


12月、洛陽に遷都した

甲子,帝發大梁;十二月,庚午,至洛陽。
吳越王鏐以行軍司馬杜建徽為左丞相。
壬申,詔以汴州宮苑為行宮。

11月甲子、唐帝は大梁を発する。12月庚午、洛陽に至る。
吳越王の銭鏐は、行軍司馬の杜建徽を、左丞相とする。
壬申、詔して、汴州の宮苑を、行宮とした。

以耀州為順義軍,延州為彰武軍,鄧州為威勝軍,晉州為建雄軍,安州為安遠軍;自餘籓鎮,皆復唐舊名。
庚辰,御史台奏:「硃溫篡逆,刪改本朝《律令格式》,悉收舊本焚之,今台司及刑部、大理寺所用皆偽廷之法。聞定州敕庫獨有本朝《律令格式》具在,乞下本道錄進。」從之。

藩鎮の名を、大唐にもどした。はぶく。

地名や変遷について、8908頁。

庚辰、御史台が奏した。「朱温が篡逆して、本朝の『律令格式』を刪改した。すべて旧本を集めて、焼却した。いま台司および刑部、大理の事務所では、偽廷之法(梁制)を用いている。定州の敕庫には、本朝の『律令格式』があると聞く。本道を下って、錄進したい」と。唐帝は従う。

李継韜の一族が滅びる

李繼韜聞上滅梁,憂懼,不知所為,欲北走契丹,會有詔征詣闕;繼韜將行,其弟繼遠曰:「兄以反為名,何地自容!往與不往等耳,不若深溝高壘,坐食積粟,猶可延歲月;入朝,立死矣。」或謂繼韜曰:「先令公有大功於國,主上於公,季父也,往必無虞。」繼韜母楊氏,善蓄財,家貲百萬,乃與楊氏偕行,繼銀四十萬兩,他貨稱是,大布賂遺。伶人宦官爭為之言曰:「繼韜初無邪謀,為奸人所惑耳。嗣昭親賢,不可無後。」楊氏復入宮見帝,泣請其死,以其先人為言;又求哀於劉夫人,劉夫人亦為之言。

李継韜は、唐帝は梁国を滅ぼしたと聞き、憂懼して、契丹に逃げたい。このとき詔があり、徴された。李継韜が行こうとすると、弟の李継遠がいう。「兄は反乱によって名をなした。徴されて、唐帝のもとに、行っても行かなくても同じだ。深溝・高壘して、坐食・積粟するほうが、まだ死ぬまでの期間がのびる。入朝したら、立死する」と。
或者が李継韜にいう。「さきの令公(李継韜の父・李嗣昭)は、国のために大功を立てた。唐帝は、李継韜にとって季父である。いっても虞れはない」と。

李嗣昭は、官職が中書令だった。ゆえに「さきの令公」とよぶ。
李嗣昭は、晋王の李克用の義児である。ゆえに唐帝は、李嗣昭の弟にあたる。ゆえに、李嗣昭から見れば唐帝は、父の弟=季父である。

李継韜の母の楊氏は、蓄財に善く、家貲は百萬ある。楊氏はともに偕行し、銀40萬両をもたらし、おおいに賂遺を布く。(財貨をもらった)伶人・宦官は、争っていう。「李継韜は、はじめから邪謀がない。奸人に惑わされただけ。李嗣昭は親賢であった。後嗣を絶やしてはならない」と。楊氏は、入宮して唐帝に会い、人に先んじて、泣いて死を請う。揚氏は、劉夫人に哀れみを求めた。劉夫人も唐帝に「李継韜を殺すな」という。

及繼韜入見待罪,上釋之,留月餘,屢從游畋,寵待如故。皇弟義成節度使、同平章事存渥深詆訶之,繼韜心不自安,復賂左右求還鎮,上不許。繼韜潛遣人遺繼遠書,教軍士縱火,冀天子復遣己撫安之,事洩,辛巳,貶登州長史,尋斬於天津橋南,並其二子。遣使斬繼遠於上黨,以李繼達充軍城巡檢。

李継韜は、入見・待罪する。唐帝はゆるす。月餘とどまり、李継韜は、しばしば唐帝の游畋に従う。寵待はもとのまま。
皇弟の義成節度使・同平章事の李存渥は、深く李継韜を詆訶する。

李継韜の兄弟は、李存渥を殺そうとした。梁均王の龍徳2年にある。梁国は、滑州の義成軍を、宣義軍とした。唐帝は、唐制にもどした。

李継韜は不安となり、ふたたび左右に賄賂して、還鎮を求めた。唐帝は許さず。李継韜はひそかに李継遠に文書を送り、軍士に縱火させた。李継韜は天子に「鎮所にもどって、みずから撫安したい」という。李継韜の計画がもれた。辛巳、李継韜は登州長史に貶められた。天津橋南で、2子とともに斬られた。唐帝は使者をやり、李継遠を上党で斬った。李繼達は軍城を充て、巡檢した。

ぼくは思う。唐帝のもとから去るために、自分の任地で騒ぎを起こす。これでうまくいった事例があるのだろうか。なんだか、監督の不行き届きを咎められ、解任されるか、処罰されるかになりそう。つたないなあ。しかもそれが発覚するとか、、


召權知軍州事李繼儔詣闕,繼儔據有繼韜之室,料簡妓妾,搜校貨財,不時即路。繼達怒曰:「吾家兄弟父子同時誅死者四人,大兄曾無骨肉之情,貪淫如此;吾誠羞之,無面視人,生不如死!」甲申,繼達衰服,帥麾下百騎坐戟門呼曰:「誰與吾反者?」因攻牙宅,斬繼儔。節度副使李繼珂聞亂,募市人,得千餘,攻子城。繼達知事不濟,開東門,歸私第,盡殺其妻子,將奔契丹,出城數里,從騎皆散,乃自剄。

權知軍州事の李継儔を召して、洛陽で詣闕させる。李継儔は、李継韜の室に拠って、妓妾を料簡し、貨財を搜校し、すぐに路に即かない。弟の李継達は怒った。「わが家の兄弟と父子は、同時に誅死される者が4人。大兄は、かつて骨肉之情がなく、このように貪淫だ。私は誠に羞じて、死んだ心地だ」と。

李継韜およびその2子にあわせ、李継韜で4人である。
李継韜の兄弟は7人。李継儔が最年長なので「大兄」とよぶ。

甲申、李継達は衰服して、麾下1百騎を帥いて、戟門に坐して呼する。「誰が私と反するか」と。牙宅(使宅)を攻め、李繼儔を斬る。節度副使の李繼珂は、乱を聞き、市人を募り、1千餘を得て、子城を攻める。李繼達は、事が濟らないと知り、東門を開き、私第に帰る。その妻子を盡殺し、契丹に奔ろうと、城を出て数里。すべての從騎が散じ、自剄した。

呉王が盧蘋を洛陽に遣り、高季興が洛陽を去る

甲申,吳王復遣司農卿洛陽盧蘋來奉使,嚴可求豫料帝所問,教蘋應對,既至,皆如可求所料。蘋還,言唐主荒於游畋,嗇財拒諫,內外皆怨。

12月甲申、吳王は、司農卿する洛陽の盧蘋を來奉使を(洛陽に)つかわす。嚴可求は、帝の質問を豫料したら、盧蘋に応答させた。
盧蘋が(洛陽から)呉王のもとに至ると、みな厳可求に意見と同じである(厳可求がパクってるから)。盧蘋は還り、「唐主は游畋に荒れ、財を嗇み、諫を拒むから、内外が唐帝を怨む」という。

ぼくは思う。洛陽にきてから、李存勗の転落がはじまる。これは、三国魏の曹叡が、後期に暴君ぽくなり、曹髦や曹奐がショボいのと通じる。愚かだから、内外に怨まれるのでない。皇帝とはそういうポジションなのだ。


高季興在洛陽,帝左右伶宦求貨無厭,季興忿之。帝欲留季興,郭崇韜諫曰:「陛下新得天下,諸侯不過遣子弟將佐入貢,惟高季興身自入朝,當褒賞以勸來者;乃羈留不遣,棄信虧義,沮四海之心,非計也。」乃遣之。

高季興は洛陽にいる。唐帝の左右にいる伶人・宦官は、求貨に厭くない。高季興はこれを忿む。唐帝は高季興を洛陽に留めたい。郭崇韜が諫めた。「陛下は新たに天下を得た。諸侯は、子弟や將佐を入貢させるだけ。高季興だけが、みずから入朝する。高季興を褒賞して、諸侯みずから来るように勧めろ。羈留して、鎮所の帰さねば、信を棄て、義に虧く。四海之心を沮じる。計でない」と。唐帝は高季興を、荊南に帰した。

ぼくは思う。洛陽は、イヤな場所だなあ。天下の中心という、理念を背負った場所だから。軍事や経済の利害に基づいて、唐帝がここにいるのではない。


季興倍道而去,至許州,謂左右曰:「此行有二失:來朝一失,縱我去一失。」過襄州,節度使孔勍留宴,中夜,斬關而去。丁酉,至江陵,握梁震手曰:「不用君言,幾不免虎口。」又謂將佐曰:「新朝百戰方得河南,乃對功臣舉手去,『吾於十指上得天下,』矜伐如此,則他人皆無功矣,其誰不解體!又荒於禽色,何能久長!吾無憂矣。」乃繕城積粟,招納梁舊兵,為戰守之備。

高季興は、倍道して去り、許州に至る。

洛陽から東して310里で許州に至る。

高季昌は左右にいう。「この行動には、2失がある。洛陽に來朝したのが1失。ほしいままに去ったのが1失」である。

洛陽に来たのも、去ったのも失敗だったと。
ぼくは思う。これから全国を統一すべき唐帝が、弱小な地方勢力を読んでおいて、「こなきゃ良かった」と思わせるのは、最低である。まあ唐帝は、周囲に反乱されて死ぬんだけど。

襄州を過ぎる。節度使の孔勍が留めて宴する。中夜、高季興は、斬關して去る。

『考異』はいう。『五代史補』はいう。高季興がすでに去ってから、唐帝は悔いた。急いで詔して、襄州節度使の劉訓に、高季興を殺させようとした。高季興は襄州にいたり、館に着くと心が動揺した。親吏にいう。「梁先輩の発言はあたった。私とともにこれば生き、こなければ死ぬ」と。輜重を棄てて、部曲の数百人とともに南ににげた。鳳林閣にくる。劉訓はおいつけず。
唐帝から、追撃の命令があったかどうか、史料により違う。

丁酉、江陵に至る。梁震の手を握って、「君の発言を用いねば、虎口を免れなかった」という。將佐にいう。「新朝=唐帝は百戰して、河南を得た。唐帝は、功臣にむけて手をあげていった。『私の10指の上に天下を得た』と。このように矜伐である。唐帝は、自分以外の者の功績を認めない。誰が解体しないものか。唐帝は禽色に荒み、久長できない。私には憂いがない」と。城を繕い、粟を積み、梁国の旧兵を招納して、戰守之備をする。130907

史家はいう。唐帝は、荒淫して驕矜である。隣敵および奸雄に(その地位と権力を奪ってやろうかと)窺われた。
ぼくは思う。義弟の李嗣源に「簒奪」されるのだ。というか、李存勗から李嗣源への過程が、どうにも分かりにくい。李嗣源が任地で背いたとき、並行して李存勗が洛陽で殺される。李嗣源が洛陽に乗りこんできて、李存勗の国号などを継ぐという。へんなの。

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