両晋- > 『資治通鑑』梁紀を抄訳 919年10月-922年12月

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919年冬、

【後梁紀六】 起屠維單閼十月,盡玄黓敦牂,凡三年有奇。
均王下貞明五年(己卯,公元九一九年)

919年冬

冬10月、晋将の石敬瑭と劉知遠が敗れる

冬,十月,出濛為楚州團練使。

冬10月、楊濛を楚州團練使とする。

徐温はをにくんだ。上巻にある。


晉王如魏州,發徒數萬,廣德勝北城,日與梁人爭,大小百餘戰,互有勝負。左射軍使石敬塘與梁人戰於河壖,梁人擊敬瑭,斷其馬甲,橫衝兵馬使劉知遠以所乘馬授之,自乘斷甲者徐行為殿;梁人疑有伏,不敢追,俱得免,敬瑭以是親愛之。敬瑭、知遠,其先皆沙陀人。敬瑭,李嗣源之婿也。

晉王は魏州にゆく。數萬を発して、德勝の北城を広げる。,日々、梁人と争う。大小で100余戦して、互角である。左射軍使の石敬塘と、梁人が河壖で戦った。

河壖とは、河の辺地である。
ぼくは思う。石敬瑭は、後晋の初代皇帝。いまの晋王が後唐の皇帝となり、そのつぎの王朝が後晋である。ややこしい。

梁人は石敬瑭を撃ち、馬甲を断つ。

『薛史』はいう。石敬瑭(晋高祖)は、梁人に襲われ、馬甲の連革を断たれた。

橫衝兵馬使の劉知遠は、乗馬を石敬瑭に授けた。石敬瑭は、斷甲された馬にのり、徐行して殿軍をつとめる。

劉知遠は、後漢の初代皇帝。石敬瑭の後晋のあと、劉知遠が後漢をたてる。劉知遠のつぎに、柴桑が後周をたて、五代は終わりである。

梁人は伏兵を疑い、敢えて追わない。免れることができた。石敬瑭は、劉知遠を親愛した。石敬瑭も、劉知遠も、祖先は沙陀の人。石敬瑭は、李嗣源の婿である。

ぼくは思う。近親相姦的に、王朝を継承するよなあ。ぼくらに必要なのは、王朝の名称で時代を区切るのではなく、名称にとらわれず、どういう関係性の人々のあいだで、主導権が推移したことを追うことだろう。王朝の名称が、どういう政治的な期待をもって利用されているのか。漢魏や魏晋とは、明らかに違うはずだ。そのあたり、見ましょう。


劉鄩圍張萬進於兗州經年,城中危窘,晉王方與梁人戰河上,力不能救。萬進遣親將劉處讓乞師於晉,晉王未之許,處讓於軍門截耳曰:「苟不得請,生不如死!」晉王義之,將為出兵,會鄩已屠兗州,族萬進,乃止。以處讓為行台左驍衛將軍。處讓,滄州人也。

劉鄩は、張萬進を兗州で囲んで、年をへる。城中は危窘する。

去年8月、劉鄩は兗州を囲んだ。

晉王は、梁人と河上で戦っており、兗州を救えない。張萬進は、親將の劉處讓をつかわし、晋王に援軍をもとめる。晋王が許す前に、劉處讓は軍門で、耳を切った。劉處讓「もし援軍をもらえねば、死んだも同じ」と。晋王は耳切を「義」として、援軍を出そうとした。だが、たまたま劉鄩が兗州をほふり、張萬進は族殺された。晋王は、援軍をやめた。劉處讓は、行台左驍衛將軍となる。劉處讓は、滄州の人。

張萬進は、滄州から兗州にうつった。劉處讓は、滄州のとき従ったのだろう。


11月、

十一月,吳武寧節度使張崇寇安州。

11月、呉国の武寧節度使の張崇が、安州を寇した。

丁丑,以劉鄩為泰寧節度使、同平章事。辛卯,王瓚引兵至戚城,與李嗣源戰,不利。

丁丑、梁帝は劉鄩を、泰寧節度使、同平章事とする。辛卯、王瓚は引兵して戚城に至る。李嗣源と戦い、利せず。

12月、梁帝が晋将の石君立を惜しむ

梁築壘貯糧於潘張,距楊村五十里,十二月,晉王自將騎兵自河南岸西上,邀其餉者,俘獲而還;梁人伏兵於要路,晉兵大敗。晉王以數騎走,梁數百騎圍之,李紹榮識其旗,單騎奮擊救之,僅免。戊戌,晉王復與王瓚戰於河南,瓚先勝,獲晉將石君立等;既而大敗,乘小舟渡河,走保北城,失亡萬計。

梁帝は潘張に、築壘・貯糧する。楊村から50里である。

胡三省はいう。潘氏と張氏が住むから、地名を潘張という。楊村とは、楊氏が住む。

12月、晋王はみずから騎兵をひきい、河南岸から西上した。梁人の伏兵に大敗し、晋王は数騎でにげる。梁軍の数百騎が晋王をかこむ。李紹栄は、晋王の旗を知る。単騎で晋王を救い、ぎりぎり免れた。

胡三省はいう。行軍において、主将はおのおの旗印がある。
ぼくは思う。日本の戦国大名を知る者に、この胡注は余計だなあ。そして晋王は、危機に陥りすぎだ。騎馬で突っこむのが、が長所でもあり、短所でもあるのだろう。

12月戊戌、ふたたび晉王は、王瓚と河南で戦う。さきに王瓚が勝ち、晋将の石君立らを捕らえた。のちに梁将の王瓚が大敗した。小舟で渡河して、王瓚は楊村の北城に保する。王瓚は、萬計を失亡した。

帝聞石君立勇,欲將之,繫於獄而厚餉之,使人誘之。君立曰:「我晉之敗將,而為用於梁,雖竭誠效死,誰則信之!人各有君,何忍反為仇讎用哉!」帝猶惜之,盡殺所獲晉將,獨置君立。晉王乘勝遂拔濮陽。帝召王瓚還,以天平節度使戴思遠代為北面招討使,屯河上以拒晉人。

梁帝は、石君立の勇をきき、獄につなぐが、厚餉して誘った。石君立「私は晋国の敗將だが、梁帝に用いられる。人にはそれぞれ君主がいる。仇敵のために働けない」と。だが、梁帝は石君立を惜しむ。捕獲した全ての晋将を殺したが、石君立だけは生かす。

石君立は、梁軍から晋陽を救った者である。梁国でも評価が高い。

晋王は勝ちに乗じて濮陽をぬく。

『考異』がこの戦いに関する異説を載せる。8852頁。

梁帝は王瓚を召して還す。天平節度使の戴思遠を、代わりに北面招討使とする。河上に屯させ、晋人をふせぐ。

己酉,蜀雄武節度使兼中書令王宗朗有罪,削奪官爵,復其姓名曰全師朗,命武定節度使兼中書令桑弘志討之。

12月己酉、前蜀の雄武節度使・兼中書令の王宗朗に罪があり、官爵を削奪する。姓名を全師朗にもどす。武定節度使・兼中書令の桑弘志が、全師朗を討つ。

吳禁民私畜兵器,盜賊益繁。御史台主簿京兆盧樞上言:「今四方分爭,宜教民戰。且善人畏法禁而奸民弄乾戈,是欲偃武而反招盜也。宜團結民兵,使之習戰,自衛鄉里。」從之。

呉国は、民が兵器を私畜するのを禁じた。盜賊がますます繁る。

ぼくは思う。銃の所持を禁止すると、治安が良くなるか。という問題に通じる。

御史台主簿する京兆の盧樞が上言した。「いま四方は分爭する。民に戦わせろ。善人は、法禁を畏れる。奸民は、乾戈を弄ぶ。法禁によって偃武したつもりが、かえって盜を招いている。民兵を団結させ、戦いを習得させ、郷里を自衛させよ」と。呉王は従う。130823

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920年、

均王下貞明六年(庚辰,公元九二零年)

920年春

春正月、

春,正月,戊辰,蜀桑弘志克金州,執全師朗,獻於成都,蜀主釋之。

春正月戊辰、前蜀の桑弘志が、金州に克ち、全師朗を執らえて、成都に献ず。蜀主は、全師朗をゆるす。

吳張崇攻安州,不克而還。崇在廬州,貪暴不法。廬江民訟縣令受賕,徐知誥遣侍御史知雜事楊廷式往按之,欲以威崇,廷式曰:「雜端推事,其體至重,職業不可不行。」知誥曰:「何如?」廷式曰:「械系張崇,使吏如升州,簿責都統。」知誥曰:「所按者縣令耳,何至於是!」廷式曰:「縣令微官,張崇使之取民財轉獻都統耳,豈可捨大而詰小乎!」知誥謝之曰:「固知小事不足相煩。」以是益重之。廷式,泉州人也。

呉国の張崇は、安州を攻めた。克たずに還る。張崇は廬州にあり、貪暴で不法である。廬江の民は「県令が受賕する」と訟えた。徐知誥は、侍御史知雜事の楊廷式を廬江にゆかせ、張崇を威させたい。「雜端は推事する。その実体は至重である。楊廷式は、職務を遂行しねばならない」と。

唐代の御史台侍御史は6人いる。久しく務めた1人を「知雑事」という。これを「雑端」という。

徐知誥「どのように処置するか」と。楊廷式「張崇を械系して、吏を昇州にゆかせる。都統を簿責(数え上げて追及)する」と。徐知誥「県令を裁くために、やるすぎでは」と。楊廷式「県令は微官である。張崇は県令に、民の財を奪わせ、転じて都統(徐温)に献じた。どうして大を捨て、小を詰めるか」と。

ぼくは補う。張崇の部下であるシタッパの県令を裁いても、たいして影響がない。間接的な親玉である、徐温をこそ裁くべきだと。

徐知誥は謝した。「もとより小事をし得れば、あい煩うに足りず」と。徐知誥は、ますます楊廷式を重んじた。楊廷式は、泉州の人である。

3月、魏博の将の李建及を罷める

晉王自得魏州,以李建及為魏博內外牙都將,將銀槍效節都。建及為人忠壯,所得賞賜,悉分士卒,與同甘苦,故能得其死力,所向立功;同列疾之。宦者韋令圖監建及軍,譖於晉王曰:「建及以私財驟施,此其志不小,不可使將牙兵。」王疑之。建及知之,自恃無它,行之自若。三月,王罷建及軍職,以為代州刺史。

晉王は、魏州を得てから、李建及を魏博内外牙都將・將銀槍效節都とした。李建及の人となりは忠壯で、賞賜を得たら、すべて士卒に分けた。甘苦を同じくし、死力を引き出した。功績を立てた。同列の者は、李建及を嫉妬した。
宦者の韋令図は、建及の軍を監した。韋令図は、晋王に李建及をそしる。「建及は、私財を驟施する。彼の志は小さくない。牙兵をひきいさせるな」と。

ぼくは思う。私財を放りだす者は、志が大きいのかー。

晋王は李建及を疑う。李建及はこれを知り、自分に他志がないので、自若とする。3月、晋王は李建及の軍職を罷め、代州刺史とする。

史家はいう。晋王は、属する賢将を信じられなかった。李建及はこれにより、怏怏として卒した。


漢楊洞潛請立學校,開貢舉,設銓選;漢主巖從之。

漢の楊洞潛は、學校を立て、貢舉を開き、銓選を設けたい。漢主の劉巌は従う。

ぼくは思う。ここには関係ないけど。「客観的な歴史」は形容矛盾だと思う。例えば「四角い丸」と同じ。『資治通鑑』では、君主をなんと呼ぶか、君主の行動にどの字をあてるか、により不可避的に正統が定める。紀伝体ではもっと顕著で、目次を見れば、正統の所在が明らか。この史書をつくる文化から「客観的な歴史」は、構造的に発想されない。良し悪しでなく、思考が言語に規定される。


920年夏

夏4月、

夏,四月,乙亥,以尚書右丞李琪為中書侍郎、同平章事。琪,珽之弟也,性疏俊,挾趙巖、張漢傑之勢,頗通賄賂。蕭頃與琪同為相,頃謹密而陰伺琪短。久之,有以攝官求仕者,琪輒改攝為守,頃奏之。帝大怒,欲流琪遠方,趙、張左右之,止罷為太子少保。

夏4月の乙亥、尚書右丞の李琪を、中書侍郎・同平章事とする。李琪は、李珽の弟である。性は疏俊で、趙巖や張漢傑らを挟(ひ)きつれ、賄賂を通じた。蕭頃と李琪は、同じとき宰相になる。蕭頃は謹密だが、ひそかに李琪の短所をさがす。久しくして、攝官をもって仕える者をもとめた。李琪は、攝官を守官に改めた。

『欧史』はいう。李琪は勝手に「試官」を得るべき吏を「守官」と改めた。これを蕭頃に告発された。

蕭頃が奏する。梁帝は大怒した。李琪を遠方に流そうとする。趙巌や張漢傑らが阻止した。李琪は遠方にゆかず、太子少保となる。

『考異』はいう。久しくして、李琪が告発された年月が分からない。だから、ここに記事をおく。


河中節度使冀王友謙以兵襲取同州,逐忠武節度使程全暉,全暉奔大梁。友謙以其子令德為忠武留後,表求節鉞,帝怒,不許。既而懼友謙怨望,己酉,以友謙兼忠武節度使。制下,友謙已求節鉞於晉王,晉王以墨制除令德忠武節度使。

河中節度使する冀王の朱友謙は、同州を襲取する。忠武節度使の程全暉をおう。程全暉は、大梁に奔る。朱友謙は、子の朱令德を、忠武留後とする。表して、節鉞を求める。梁帝は怒って許さず。梁帝は朱友謙が怨望するのを懼れ、4月己酉、朱友謙を、兼忠武節度使とする。梁帝の制が下されたとき、すでに朱友謙は、節鉞を晋王に求めていた。晉王は、墨制をもって、朱令徳忠を武節度使に除した。

胡三省はいう。朱友謙は、これより、ついに晋王に帰する。
ぼくは思う。梁国の冀王の朱友謙は、梁帝からも晋王からも、子に節度使を贈ってもらった。梁国と晋国の両属っていうか、任命のしあいって、あるんだなあ。
『考異』で時期についての、異なる記事あり。8854頁。


5月、呉宣王が死に、徐温が楊溥を立てる

吳宣王重厚恭恪,徐溫父子專政,王未嘗有不平之意形於言色,溫以是安之。及建國稱制,尤非所樂,多沉飲鮮食,遂成寢疾。

吳宣王は、重厚で恭恪である。徐温の父子が宣政するが、呉王は不平之意形を、言色に表さない。徐温は、呉王に安心した。呉王は、建国・称制したが、楽しみがない。沉飲・鮮食して、ついに寢疾となる。

五月,溫自金陵入朝,議當為嗣者。或希溫意言曰:「蜀先主謂武侯:『嗣子不才,君宜自取。』」溫正色曰:「吾果有意取之,當在誅張顥之初,豈至今日邪!使楊氏無男,有女亦當立之。敢妄言者斬!」

5月、徐温は、金陵から入朝する。嗣ぐべき者を議する。或者は徐温の意を希えていう。

【希】まれ、非常にすくない、まばら、めずらしい。こいねがう、もとめる、待ち望む、うやまい慕う。望み見る。迎合する、むかえる。ぼくは思う。ここでは、最後の意味です。

或者「蜀先主(劉備)は、武侯(諸葛亮)にいう。嗣子が不才なら、きみが取れと」と。

ぼくは思う。劉備と諸葛亮の故事を、易姓革命のために利用する。五代十国の呉国では、呉宣王が死ぬとき、執政する徐温に迎合して、ある者が「劉備は諸葛亮に、嗣子が不才なら、きみが取れと言った(徐温が呉王に代われ)」という。革命の否定が存在意義の蜀漢が、革命のロジックに引用される。皮肉だなあ。

徐温は色を正す。徐温「わたしは果てに(呉国を)取る意があれば、まさに張顥を誅した(開平2年)から、取る意があったはずだ。どうして今日(のように臣下の地位にとどまった状態)に至るか。呉王の楊氏には、男子がなければ、女子を立てろ。妄言する者は斬る」と。

『考異』はいう。「女子を立てろ」というのは、張顥を誅したときのセリフだ。いま楊氏には、男子がいる。8855頁。
ぼくは思う。禅譲をやるか、きわどい局面では、胡三省ががんばるのだ。史料によって、記述が異なっているから。このブレをもって、五代十国においても、禅譲がデリケートな問題だったことが分かる。漢魏に比べると、わりとオープンに思えるが、そうでもない。あとで晋王が皇帝(後唐の皇帝)になるときも、胡三省が長い。


乃以王命迎丹楊公溥監國,徙溥兄濛為舒州團練使。
己丑,宣王殂。

徐温は王命により、丹楊公の楊溥を監國とする。楊溥の兄・楊濛を、舒州團練使とした。

胡三省はいう。兄弟の順序をとばして、楊濛でなく楊溥を立てたのは、楊濛と徐温の関係がわるいから。
ぼくは思う。けっきょく徐温は、皇帝を選んでいる。

5月己丑、呉宣王が殂した(24歳)。

6月、

六月,戊申,溥即吳王位。尊母王氏曰太妃。

6月戊申、楊溥は呉王の位につく。母の王氏を、太妃とする。

楊溥は、楊行密の第4子である。


丁巳,蜀以司徒兼門下侍郎、同平章事周庠同平章事,充永平節度使。

6月丁巳、前蜀は、司徒・兼門下侍郎・同平章事の周庠を、同平章事・充永平節度使とする。

唐末に、永平軍に、卭州をおく。『欧史』職方考はいう。前蜀は、雅州を永平節度とする。


帝以泰寧節度使劉鄩為河東道招討使,帥感化節度使尹皓、靜勝節度使溫昭圖、莊宅使段凝攻同州。

梁帝は、泰寧節度使の劉鄩を、河東道招討使とする。劉鄩に、感化節度使の尹皓、靜勝節度使の温昭圖、莊宅使の段凝をひきい、同州を攻める。

閏月、前蜀が、高祖=王建の原廟をつくる

閏月,庚申朔,蜀主作高祖原廟於萬里橋,帥后妃、百官用褻味作鼓吹祭之。華陽尉張士喬上疏諫,以為非禮,蜀主怒,欲誅之,太后以為不可,乃削官流黎州,士喬感憤,赴水死。

閏月の庚申ついたち、蜀主は高祖の原廟を、萬里橋につくる。

万里橋は、諸葛亮が費禕を送った場所で、、8856頁。

后妃を百官をひきい、褻味を用い、鼓吹を作し、原廟を祭る。

褻味とは、つねに嗜好の味を御すこと。

華陽尉の張士喬は、上疏して諫めた。非禮をなし、蜀主は怒り、張士喬を誅したい。太后がとめた。官職を削り、黎州に流した。調度峡は、感憤して、水に赴いて死んだ。

920年秋

秋7月、劉鄩が朱友謙を囲み、李存審が救う

劉鄩等圍同州,硃友謙求救於晉。秋,七月,晉王遣李存審、李嗣昭、李建及、慈州刺史李存質將兵救之。

梁将の劉鄩らは、同州を囲む。朱友謙は、晋国に救を求める。秋7月、晋王は、李存審、李嗣昭、李建及、慈州刺史の李存質をゆかせる。

乙卯,蜀主下詔北巡,以禮部尚書兼成都尹長安韓昭為文思殿大學士,位在翰林承旨上。昭無文學,以便佞得幸,出入宮禁,就蜀主乞通、渠、巴、集數州刺史賣之以營居第,蜀主許之。識者知蜀之將亡。

7月乙卯、蜀主は下詔して、北巡する。禮部尚書・兼成都尹する長安の韓昭を、文思殿の大學士とする。階位は、翰林承旨の上である。韓昭は文學がない。佞に便で、幸を得る。宮禁に出入する。韓昭は蜀主に乞い、通、渠、巴、集の数州の刺史に出資させ、居第をつくりたい。蜀主が許した。識者は、前蜀がいまに亡びると知る。

8月、蜀主がハデに散財して巡幸する

八月,戊辰,蜀主發成都,被金甲,冠珠帽,執弓矢而行,旌旗兵甲,亙百餘里。雒令段融上言:「不宜遠離都邑,當委大臣征討。」不從。九月,次安遠城。

8月戊辰、蜀主は成都を発する。金甲を被り、珠帽を冠り、弓矢を執りて行く。旌旗・兵甲は、1百里にわたる。雒令の段融上言した。

雒県は、漢代からある古県である。そうだね、知ってる。

「都邑を遠離するのは、良くない。大臣に征討を委ねろ」と。蜀主は従わず。9月、安遠城で次ぐ。

兵が1宿するのを「信」という。「信」を過ぎて(2日以上留まると)「次」という。
【次】駐屯する、停留する、やどる。行軍にて、1箇所に3泊以上、停留する。


9月、李存審が河中の兵をつかい、劉鄩を破る

李存審等至河中,即日濟河。梁人素輕河中兵,每戰必窮追不置。存審選精甲二百,雜河中兵,直壓劉鄩壘,鄩出千騎逐之;知晉人已至,大驚,自是不敢輕出。晉人軍於朝邑。

晋将の李存審らは、河中に至る。即日に(同州を救うため)濟河する。梁人は、河中の兵を軽んじる。戦うごとに窮追して置かず。李存審は、精甲200を選び、河中の兵に混ぜる。劉鄩の塁を直圧する。劉鄩は1千騎でおう。劉鄩は、晋人がいると知って大驚する。

胡三省はいう。ときに劉鄩の兵が出て、河中の兵を追う。晋国の騎兵が、反撃した。梁国の騎兵50がつかまった。梁人は、晋軍が到着していると知った。

これより劉鄩は、敢えて(河中の兵を侮るが、晋兵が恐いので)輕出しない。晉人は、朝邑(同州の東35里)に軍する。

河中事梁久,將士皆持兩端。諸軍大集,芻粟踴貴,友謙諸子說友謙且歸款於梁,以退其師,友謙曰:「昔晉王親赴吾急,秉燭夜戰。今方與梁相拒,又命將星行,分我資糧,豈可負邪!」

河中は、梁国に仕えることが久しい。

大唐の昭宗のとき、朱全忠は、王珂を降す。河中は、ついに梁国に仕えた。

みな将士は(梁国と晋国の)両端をもつ。諸軍が大集する。芻粟の価格が騰貴した。朱友謙の諸子は、朱友謙にいう。「梁国に帰して、師を退こう」と。朱友謙「むかし晉王は、私の急に自ら赴き、秉燭して夜戰した。

康懐貞らとの戦いである。乾化2年。

いま梁国と相拒する。命はまさに星行する。わが資糧を(晋軍に)分けろ。どうして晋軍に背けようか」と。

晉人分兵攻華州,壞其外城。李存審等按兵累旬,乃進逼劉鄩營,鄩等悉眾出戰,大敗,收餘眾退保羅文寨。又旬餘,存審謂李嗣昭曰:「獸窮則搏,不如開其走路,然後擊之。」乃遣人牧馬於沙苑。鄩等宵遁,追擊至渭水,又破之,殺獲甚眾,存審等移檄告諭關右,引兵略地至下邽,謁唐帝陵,哭之而還。

晋人は兵を分けて、華州を攻める。華州の外城を壊した。李存審らは、兵を按じて、数十日たつ。進んで、劉鄩の軍営にせまる。劉鄩らは、全員で戦って大敗した。劉鄩は、余衆をあつめて、退いて羅文寨を保する。

『薛史』はいう。劉鄩は余衆をもって、華州の羅文寨を保する。

さらに10余日した。李存審は、李嗣昭にいう。「獸が窮すれば搏す。逃げ道を開け、その後に撃て」と。人をやり、馬を沙苑で牧する。劉鄩らは宵に遁げた。晋軍は、劉鄩を渭水に追って破る。

劉鄩の用兵は、10歩9計である。これをもって、時に名声を得た。いまの同州の役において、李存審と遭遇して、劉鄩は玩弄された。嬰児が、人の手のひらの上にいるようなもの。

李存審らは、移檄して関右に告諭する。引兵して略地し、下邽に至る。唐帝の陵に謁し、哭して還る。

唐帝の陵は、同州の奉先県にある。


河中兵進攻崇州,靜勝節度使溫昭圖甚懼。帝使供奉官竇維說之曰:「公所有者華原、美原兩縣耳,雖名節度使,實一鎮將,比之雄籓,豈可同日語也,公有意欲之乎?」昭圖曰:「然。」維曰:「當為公圖之。」即教昭圖表求移鎮,帝以汝州防禦使華溫琪權知靜勝留後。

河中の兵は、進んで崇州を攻める。靜勝節度使の温昭図は、ひどく懼れた。梁帝は、供奉官の竇維をやって、温昭図に説く。

貞明元年、温韜が義勝軍をくだし、耀州を崇州とした。義勝を静勝とした。温韜は、いまの名(温昭図)を賜った。

梁帝「温昭図が領有するのは、華原と美原の2県だけ。

唐末に温韜は盗賊となる。華原県による。李茂貞は、華原を茂州とする。温韜を刺史とした。さらに耀州と改めた。また李茂貞は、美原県を鼎州とした。義勝軍をつくる。温韜をせつどしとした。梁国に下ると、耀州を崇州とした。鼎州を裕州とした。義勝を静勝とした。もとは唐代の2県に過ぎない。

節度使の名があるが、じつは1鎮将である。雄藩に比べると、同日に語れるものか。温昭図はこれで良いのか」と。温昭図「そうね」と。梁帝の使者の竇維「まさに、あなたのために図れ」と。温昭図は梁帝に表し、鎮所の移動を希望した。梁帝は、汝州防禦使の華温琪を、權知靜勝留後とした。

920年冬

冬10月、蜀主が岐州に向かう

冬,十月,辛酉,蜀主如武定軍,數日,復還安遠。

冬10月の辛酉、蜀主は武定軍にゆく。数日で、ふたたび安遠に還る。

11月、前蜀が岐国を破るが、食糧が尽きる

十一月,戊子朔,蜀主以兼侍中王宗儔為山南節度使、西北面都招討、行營安撫使,天雄節度使、同平章事王宗昱、永寧軍使王宗晏、左神勇軍使王宗信為三招討以副之,將兵伐岐,出故關,壁於咸宜,入良原。丁酉,王宗儔攻隴州,岐王自將萬五千人屯汧陽。癸卯,蜀將陳彥威出散關,敗岐兵於箭筈嶺,蜀兵食盡,引還。宗昱屯秦州,宗儔屯上邽,宗晏、宗信屯威武城。庚戌,蜀主發安遠城。

11月の戊子ついたち、蜀主は、兼侍中の王宗儔を、山南節度使・西北面都招討・行營安撫使とする。天雄節度使・同平章事の王宗昱と、永寧軍使の王宗晏と、左神勇軍使の王宗信を、三招討として、王宗儔の副官とする。兵をひきい、岐国を伐する。故關を出て、咸宜に壁(壁塁)を築き、良原に入る。

地理は、8858頁。

丁酉、王宗儔は隴州を攻める。岐王は、みずから5千をひきい、汧陽(隴州)に屯する。

ぼくは思う。岐王の兵数が、けっこう少ない。そのわりには、滅びない。朱全忠と競っていたが、まだ滅びていない。李茂貞はすごい。

癸卯、蜀將の陳彦威は、散關を出る。岐兵を箭筈嶺で破る。蜀兵の食糧が尽き、引還した。王宗昱は、秦州に屯する。王宗儔は上邽に屯する。王宗晏と王宗信は、威武城に屯する。11月庚戌、蜀主は安遠城を発する。

12月、趙王の王鎔は、臣下の対立を制せず

十二月,庚申,至利州,閬州團練使林思諤來朝,請幸所治,從之。癸亥,泛江而下,龍舟畫舸,輝映江渚,州縣供辦,民始愁怨。壬申,至閬州,州民何康女色美,將嫁,蜀主取之,賜其夫家帛百匹,夫一慟而卒。癸未,至梓州。

12月庚申、蜀主は利州に至る。閬州團練使の林思諤が來朝する。治所にこいと請い、蜀主が訪れる。癸亥、江に浮かんで下る。龍舟は畫舸、江渚に輝映する。州縣は供辦し、民は(税の浪費を見て)愁怨しはじめる。

胡三省はいう。民の愁怨は、ここだけでない。蜀主がめぐった全ての州県で、民は愁怨している。地理について、8859頁。

壬申、蜀主は、閬州に至る。州民の何康の娘あ、色美である。まさに嫁ぐところを、蜀主に取られた。蜀主は(嫁を奪われた)夫の家に帛百匹を賜る。夫は一慟して卒した。

『記』はいう。諸侯は下って色を漁らず。蜀主の王衍は、人の妻を奪う。色を漁って、ひどいなあ。

12月癸未、蜀主は梓州に至る。

ぼくは思う。蜀主は、自領を滅ぼすために回ってるのかw


◆趙王の王鎔と、養子と王徳用(張文礼)の昔話

趙王鎔自恃累世鎮成德,得趙人心,生長富貴,雍容自逸,治府第園沼,極一時之盛,多事嬉游,不親政事,事皆仰成於僚佐,深居府第,權移左右,行軍司馬李藹、宦者李弘規用事於中外,宦者石希蒙尤以諂諛得幸。

趙王の王鎔は、累世で成德に鎮することを恃む。趙人の心を得る。富貴を生長させ、雍容して自逸する。治府第の園沼は、一時之盛を極める。多事・嬉游。政事を親せず、みな僚佐に仰成する。府第に深居し、權は左右に移す。行軍司馬の李藹、宦者の李弘規は、中外に用事する。

胡三省はいう。外は李藹、内は李弘規である。

宦者の石希蒙は諂諛して、もっとも幸を得る。

初,劉仁恭使牙將張文禮從其子守文鎮滄州,守文詣幽州省其父,文禮於後據城作亂,滄人討之,奔鎮州。文禮好夸誕,自言知兵,越王鎔奇之,養以為子,更名德明,悉以軍事委之。德明將行營兵從晉王,鎔欲寄以腹心,使都指揮使符習代還,以為防城使。

はじめ劉仁恭は、牙將の張文禮に、子の劉守文に従わせ、滄州に鎮させる。劉守文は、幽州で父の劉仁恭にあう。張文礼は、のちに城に拠り作乱する。滄人に討たれ、張文礼は鎮州に奔る。鎮州に鎮する。

唐末の話。張文礼は、鎮州に自ら(劉仁恭と劉守文の父子から離れて)鎮州にきたと。

張文礼は夸誕を好み、自ら「私は兵法を知る」という。越王の王鎔は、張文礼を奇として、養子とした。張文礼を王徳明と改名させ、軍事をすべて委ねた。王徳明は、行営の兵をひきい、晉王に従う。

ことは乾化元年にある。まだ昔話の確認をしている。

王鎔は、王徳明が腹心だから(晋国に行かせたくなくて)都指揮使の符習を交代させ、王徳明を還したい。王徳明を、趙国の防城使とした。

鎔晚年好事佛及求仙,專講佛經,受符菉,廣齋醮,合煉仙丹,盛飾館宇於西山,每往游之,登山臨水,數月方歸,將佐士卒陪從者常不下萬人,往來供頓,軍民皆苦之。

王鎔は、晚年に仏教を好み、登仙を求める。佛經を專講し、符菉を受け、齋醮を広げ、仙丹を合煉する。西山で館宇を盛飾する。

鎮州の西山は「房山」という。上には西王母の祠がある。王鎔は登仙したいから、しばしば西山にゆく。

西山にゆくたび、登山・臨水して、方に(いまやっと)数ヶ月で帰る。

【方】ならぶ、ならべる。くらべる、比較する、例える。占有する、たもつ。逆らう、たがう。わかつ、弁別する、見分ける。籾殻が形成される、芽生える。四角い。道義的に正しく、きちんとしている。方角、かた。地方、区域。大地。まわり。よるべき規制。技術、わざ。祭りの名。いかだ。ある数の2乗。まさに。にあたって、ちょうどするとき。広い範囲で、あまねく。思いのままに、みだりに。
副詞「まさに」の意味。①行為や状況の起こる時間について表す。まさに現在進行しつつある、ちょうど、まさに。直前に起こった、たった今し方、するや否や、したばかり。まもなく、近い未来に起こる、しようとする、今にもしそう。かなりの時間が経過した、はじめて、いまやっと。②主観的な判断を確定したり、語気を強める。まさしく、ちょうど、たしかに。
「方将」「方且」は、「方」と同じ副詞。まさに、状況が進行しつつある。近い未来に起こる。いまにも起こりそうである。

將佐や士卒で、王鎔に陪從する者は、つねに1万人を下らず。往來して供頓する。軍民はみな負担に苦しむ。

◆趙王の王鎔と、養子の王徳明の今(920年)の話

是月,自西山還,宿鶻營莊,石希蒙勸王復之它所。李弘規言於王曰:「晉王夾河血戰,櫛風沐雨,親冒矢石,而王專以供軍之資奉不急之費,且時方艱難,人心難測,王久虛府第,遠出遊從,萬一有奸人為變,閉關相距,將若之何?」王將歸,希蒙密言於王曰:「弘規妄生猜間,出不遜語以劫脅王,專欲誇大於外,長威福耳。」王遂留,信宿無歸志。

この月、王鎔は西山より還る。鶻營莊に宿す。石希蒙は、王鎔にほかに宿せと勧める。李弘規「晉王は黄河をはさみ、梁国と血戰する。みずから矢石を冒す。だが趙王の王鎔は、軍資を緊急でない費用にまわす。人心が離れてもおかしくない。遠出したとき、陪従する1万人が変事をなしたら、王鎔はどうするか」と。

ぼくは思う。梁帝も「晋王はみずから戦って、がんばっているのに、あなた中央で世間から離れて遊んでいる」と怒られた。趙王の王鎔もまた、晋王と比較されて叱られた。晋王が死地にゆくことは、晋臣からするとヒヤヒヤするが。五代の理想的な君主像として、晋王の戦いぶりが認識されていたことが分かる。

王鎔は帰ろうとする。石希蒙は、ひそかにいう。「李弘規は、みだりに猜間を生じさせる。不遜の語を出し、あなたを劫脅する。專ら外で誇大し、威福を長じさせる」と。王鎔はついに留まり、信宿(外に停泊)して本拠に帰らない。

ぼくは思う。石希蒙と李弘規が、足をひっぱりあってる。


弘規乃教內牙都將蘇漢衡帥親軍,擐甲拔刃,詣帳前白王曰:「士卒暴露已久,願從王歸!」弘規因進言曰:「石希蒙勸王游從不已,且聞欲陰謀為逆,請誅之以謝眾。」王不聽,牙兵遂大噪,斬希蒙首,訴於前。王怒且懼,亟歸府。是夕,遣其長子副大使昭祚與王德明將兵圍弘規及李靄之第,族誅之,連坐者數十家。又殺蘇漢衡,收其黨與,窮治反狀,親軍大恐。

李弘規は、内牙都將の蘇漢衡に親軍をひきいさせ、擐甲・拔刃して、帳前に詣でて、趙王の王鎔にいう。「士卒は(城外に)暴露されて久しい。王鎔に従って(本拠に)帰りたい」と。李弘規は進言した。「石希蒙は王に、游從を勧める。これは叛逆の陰謀のためだ。石希蒙を誅して、衆に謝れ」と。王鎔は許さず。
ついに牙兵は騒ぎ、石希蒙の首を斬って、御前で訴える。王鎔は怒り懼れ、急いで府に帰る。この夕、長子の副大使する王昭祚と、養子の王德明(張文礼)とが、李弘規と李靄の第を囲み、族誅した。連坐する者は、数十家。また蘇漢衡を殺し、党与をとらえる。反狀を窮治する。王鎔の親軍は、大恐した。

ぼくは思う。趙王の王鎔が、仏教や仙術に凝っているうちに、臣下の対立が、収拾が付かなくなった。殺しあって、どうにもならん。王鎔は、翌年の921年に死ぬ。王鎔の末路を気にかけ、『資治通鑑』を読みます。


◆その他の話題

吳金陵城成,隱彥謙上費用冊籍,徐溫曰:「吾既任公,不復會計!」悉焚之。

呉国の金陵城が完成した。隠彦謙は、費用を冊籍して、上程した。徐温「費用管理を、あなたに任せた。会計報告はいらない」と。費用の帳簿を、すべて焼く。

ぼくは思う。徐温の度量の大きさ?なのか。いまの会社では、死んでも許されない「度量の示し方」であるw


初,閩王審知承製加其從子泉州刺史延彬領平盧節度使。延彬治泉州十七年,吏民安之。會得白鹿及紫芝,僧浩源以為王者之符,延彬由是驕縱,密遣使浮海入貢,求為泉州節度使。事覺,審知誅浩源及其黨,黜延彬歸私第。

はじめ閩王の審知は、称制して、從子の泉州刺史する延彬に、領平盧節度使させる。延彬は、泉州を17年治め、吏民は安じた。たまたま白鹿と紫芝を得た。僧浩源は「王者之符」と見なす。延彬は、これより驕縱となり、ひそかに海路から梁帝に入貢して、泉州節度使を求める。

ぼくは思う。漢魏の人でなくても、こうした吉祥で、舞い上がってしまうのか。17年も治世をきちんとやった人でも、目がくらんでしまう魔力を、符瑞はもっている。宋代に思想が転換するまでは、漢魏と連続するのかな。

発覚して、閩王の審知は、浩源とその党を誅す。延彬を黜して、私第に帰す。

漢主巖遣使通好於蜀。
吳越王鏐遣使為其子傳琇求婚於楚,楚王殷許之。

漢主の劉巌は、使者をつかわし、前蜀と通好する。
吳越王の銭鏐は、子の銭傳琇を楚国への使者にして、銭傳琇は楚王と婚姻したい。楚王の馬殷が許す。130824

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921年、

均王下龍德元年(辛巳,公元九二一年)

921年春

春正月、

春,正月,甲午,蜀主還成都。
初,蜀主之為太子,高祖為聘兵部尚書高知言女為妃,無寵,及韋妃入宮,尤見疏薄,至是遣還家,知言驚僕,不食而卒。
韋妃者,徐耕之孫也,有姝色,蜀主適徐氏,見而悅之,太后因納於後宮,蜀主不欲娶於母族,托雲韋昭度之孫。初為婕妤,累加元妃。

春正月の甲午、蜀主は(岐国の外征から)成都に還る。

去年7月に巡遊にでて、いま還った。

はじめ蜀主が太子となったとき、高祖(父の王建)は、聘兵部尚書の高知言の娘を妃とした。寵愛がなく、韋妃が入宮した。高妃は実家に還された。父の高知言は驚僕し、食わずに卒した。
韋妃は、徐耕の孫である。姝色あり。蜀主は徐氏にゆき、韋妃を見て悦ぶ。徐太后は韋妃を後に納れた。蜀主は、母族を娶りたくない。徐耕の孫でなく、韋昭度の孫として韋妃を見なす。

韋昭度は、僖宗のとき奉制して蜀を帥する。ゆえに蜀主は、韋昭度を持ちだす。

韋妃は、はじめ婕妤で、元妃を加えられる。

蜀主常列錦步障,擊球其中,往往遠適而外人不知,爇諸香,晝夜不絕。久而厭之,更爇皁莢以亂其氣。結繒為山,及宮殿樓觀於其上,或為風雨所敗,則更以新者易之。或樂飲繒山,涉旬不下。山前穿渠通禁中,或乘船夜歸,令宮女秉蠟炬千餘居前船,卻立照之,水面如晝。或酣餘禁中,鼓吹沸騰,以至達旦。以是為常。

蜀主は、浪費して遊びまくった。

甲辰,徙靜勝節度使溫昭圖為匡國節度使,鎮許昌。昭圖素事趙巖,故得名籓。

正月甲辰、靜勝節度使の温昭図を、國節度使として、許昌に鎮させる。温昭図は、もとより趙巌に仕える。ゆえに名籓に任命してもらえた。

胡三省はいう。温昭図は、鎮所の移動を求めた。上年にある。静海は、梁国の辺鎮である。2県しかなかった。匡国は、唐代の忠武軍である。許州、陳州、汝州の3州がある。ゆえに名藩という。趙巌は、名藩を温昭図に授けた。緩急は、これを投じて身を託す。趙巌を斬ることになるのは、(趙巌から名藩に任じてもらえた)温昭図である。勢利の交は、戒めとせねば。


晋王の李存勗が、呉蜀から称帝を勧められる

蜀主、吳主屢以書勸晉王稱帝,晉王以書示僚佐曰:「昔王太師亦嘗遺先王書,勸以唐室已亡,宜自帝一方。先王語余云:『昔天子幸石門,吾發兵誅賊臣,當是之時,威振天下,吾若挾天子據關中,自作九錫禪文,誰能禁我!顧吾家世忠孝,立功帝室,誓死不為耳。汝它日當務以復唐社稷為心,慎勿效此曹所為!』言猶在耳,此議非所敢聞也。」因泣。

蜀主と呉主は、しばしば文書をもって、晋王に称帝を勧める。

ぼくは思う。「蜀主、吳主、屢(しばしば)書を以て、晉王に称帝を勧む」と。三国志にそんな場面あったっけ?と、軽く混乱させられるこの表現は、『資治通鑑』921年の記事。650年を隔て、当事者たちの出身民族も違うのに、記述はそっくりになる。この踏襲ぐあいは、脅迫的で強烈だと思う。だからおもしろい。

晋王は僚佐に文書を示した。晋王「むかし王太師(蜀主の父・王建)もまた、先王(晋王の父・李克用)に文書をくれた。唐室がすでに滅亡したから、一方の皇帝となれと。先王(李克用)は私に言った。『むかし天子が石門に幸したとき、私は兵を発して(乾寧2年)賊臣を誅した。威は天下を振るわす。もし私が天子を挾んで関中に拠り、みずから九錫の禅文をつくれば、誰が私を止められようか。わが家は、世よ忠孝である。帝室に立功した。死んでも称帝しないと誓った。お前も大唐の社稷を復興することに務めろ。朱氏のように(称帝を)するな』と。先王の言葉は、いまも耳にある。この議論は敢えて聞かない」と。晋王は泣した。

既而將佐及蕃鎮勸進不已,乃令有司市玉造法物。黃巢之破長安也,魏州僧傳真之師得傳國寶,藏之四十年,至是,傳真以為常玉,將鬻之,或識之,曰:「傳國寶也。」傳真乃詣行台獻之,將佐皆奉觴稱賀。

すでにして將佐と蕃鎮は、晋王に勧進して已まず。有司に、玉を買い、法物を造らせた。

法物とは、伝国の八宝の類である。

黄巣が長安を破ったとき(広明元年)魏州の僧の傳真の師は、傳國寶を得た。40年、蔵していた。ここに至り、傳真は常玉として、これを売ろうとした。或者が知って「伝国の宝だ」という。傳真は、行台に詣でて、宝を献じる。將佐は、奉觴を奉って稱賀した。

ぼくは思う。鍵となるアイテムで、物語を進める。小説みたいだ。政権の正統性も「物語り」に違いない。政権の正統性を評価するときと、小説をワクワクして読むときでは、人間の思考法は同じなのだ。
胡三省はいう。宋白はいう。同光初、魏州の開元寺の僧の傳真は、国宝を献じた。その文を験べると「受命八宝」だった。晋王は尚書令なので、行台を魏州におく。傳真は、ここに国宝を持ってきた。


張承業が晋王に、称帝するなと諫める

張承業在晉陽聞之,詣魏州諫曰:「吾王世世忠於唐室,救其患難,所以老奴三十餘年為王捃拾財賦,召補兵馬,誓滅逆賊,復本朝宗社耳。今河北甫定,硃氏尚存,而王遽即大位,殊非從來征伐之意,天下其誰不解體乎!

張承業は、晉陽にいて、国宝がきたと聞く。魏州に詣でて諫める。
張承業「わが王は、世よ唐室に忠だ。唐の患難を救う。老奴(わたし)が30余年、王のために財賦を捃拾し、兵馬を召補し、逆賊を誓滅するのは、本朝の宗社(大唐の社稷)を復するため。

執宣、国昌、李克用は、みな唐室のために輸力した。
昭宗の乾寧2年、張承業は、はじめて河東の軍を監した。27年前だ。

いま河北は、甫(はじめて、やっと、わずかに)定まった。朱氏は、なお存る。それなのに晋王が皇帝に即けば、從來の征伐之意を否定することになる。天下が解体しないことがあろうか。

ぼくは思う。「大唐を簒奪した朱氏を、大唐のために倒すのだ」というロジックが、通らなくなる。晋王が、どういう詭弁によって、後唐を建国するのか。いかに、大唐を意識した体制、緊張感を維持するのか。このあたり、読み応えがある。早く正史類にいきたい。


王何不先滅硃氏,復列聖之深仇,然後求唐後而立之,南取吳,西取蜀,汛掃宇內,合為一家,當是之時,雖使高宜、太宗復生,誰敢居王上者?讓之愈久則得之愈堅矣。老奴之志無它,但以受先王大恩,欲為王立萬年之基耳。」王曰:「此非余所願,奈群下意何。」承業知不可止,慟哭曰:「諸侯血戰,本為唐家,今王自取之,誤老奴矣!」即歸晉陽邑,成疾,不復起。

なぜ晋王は先に朱氏を滅ぼし、列聖の深仇を復して(唐帝のために朱氏に仇討して)、その後に唐室の子孫を皇帝に立て、呉国や蜀国(楊氏と王氏)の領土を取り、宇內を汛掃し、合せて一家と(天下一統)しないか。すれば、そのときには、高祖や太宗が復活しても、誰が晋王の上位にいられようか。

晋王の功績が最大である。

帝位を謙譲して、いよいよ久しくなれば、帝位を得ること、いよいよ堅し。老奴之志は、他にない。ただ先王(李克用)の大恩を受け、晋王に萬年之基を立ててほしいだけ」と。
晋王「これは私の願うところではない。郡臣の意見はどうか」と。

ぼくは思う。張承業は、晋王が皇帝になるのを、否定するのでない。大唐を復興し、かつ天下を統一してからなら、余裕をかまして皇帝になれると言っている。
ぼくは思う。儒教とか皇帝制の問題に帰すると、むずかしいが。現代の会社だって、肩書きと功績のバランスにより、人望が集まったり去ったりする。皇帝制の問題と、人間社会の一般(というか、ぼくの日常の感覚に共通するものか)の、共通点と差異を見極めねば。「功績が少ない者が皇帝になると、反感を買う」というのは、儒教や皇帝制の問題なのか、人間社会の一般の話なのか。

張承業は、止めるのが不可と知って、慟哭した。「諸侯がするのは、もとより唐家のため。いま晋王が自ら取れば、老奴を誤らせる」と。

ぼくは思う。曹操における荀彧は、李存勗における張承業。皇帝制が、王朝の交替期に、荀彧や張承業のような生贄を必要とする。とでも言えましょうか。禅譲にあたっては、推進と慎重の2とおりが必要。1人の人間に同居する矛盾した意見。しかし、荀彧や張承業のような、具体的な人物に象徴化して切り出して、彼を「殺す」ことで、 その殺し方について、どうしても異論が百出する。だから史料が乱れる。「客観的な歴史」からもっとも縁遠いところの、中国の史書は、禅譲の問題を扱うのが、構造的に苦手である。忌避とか毀誉褒貶とか、やりまくっているうちに、意味が分からなくなる。平面に、立体物の造形を描くと、どうも分かりにくくなるのと同じだ。
というか、中国の史書が苦手なだけでなく。人間の言語は「客観的な歴史」を書けないとすれば。禅譲について描こうとすると、構造的におおくのものを言い落とすのだろうなあ。矛盾&断裂したものを、宙づりにして、読者に警告を促すしかないか。例えば立体物を表現するとき、平面図をXYZ軸の3方向から書いて、あとは脳内で補って下さいというような。3枚の図はつながっていないが、宙づりの約束事として、見た者は脳内に立体物をえがく。

張承業は、晉陽の邑に帰り、疾となり、もう起たず。

8863頁に『考異』あり。張承業は、すぐに死んだり、死ななかったりする。死の時期によって、晋王の真意がすけて見える。荀彧の死の謎と重なる。
ぼくは思う。荀彧も張承業も。君主に間接的に殺されたんだと思う。いままで仕事一筋できたのに、遠ざけられた。これにより、気持ちが落ちこみ、病気になりやすくなった。人間って、わりに脆いから。これを史家が「簒奪の被害者」とする。半分は本当(左遷により落胆した)で、半分はウソ(間接的な影響のみ)だから、判定が微妙で、恣意的な表現(あらゆる歴史叙述は恣意的であるが)が活きるんだと思う。


2月、張文礼が、趙王の王鎔を殺す

二月,吳改元順義。

2月、呉国は「順義」と改元した。

趙王既殺李弘規、李靄,委政於其子昭祚。昭祚性驕愎,既得大權,曏時附弘規者皆族之。弘規部兵五百人欲逃,聚泣偶語,未知所之。會諸軍有給賜,趙王仇親軍之殺石希蒙,獨不時與,眾益懼。王德明素蓄異志,因其懼而激之曰:「王命我盡坑爾曹。吾念爾曹無罪並命,欲從王命則不忍,不然又獲罪於王,奈何?」眾皆感泣。是夕,親軍有宿於潭城西門者,相與飲酒而謀之。

趙王の王鎔は、すでに李弘規と李靄を殺す。政治を、子の王昭祚に委ねる。王昭祚の性は驕愎である。大權を得て、さきに李弘規に付した者を、みな族殺した。李弘規の部兵500人は逃げたいが、聚泣・偶語して、行く先がない。諸軍に給賜があるが、王鎔は、親軍が石希蒙を殺したことを怒り、親軍には給賜しない。親軍は、ますます懼れた。
王鎔の養子・王徳明は、もとより異志を蓄える。親軍を激した。王徳明「王鎔は私に、お前ら親軍を全殺せよと命じた。私は無罪のお前らが誅殺されるのを思うと、王命に従ってお前らを殺したくない。だがお前らを殺さねば、王鎔に対して罪となる。どうしようか」と。
親軍の衆は、みな感泣した。

王徳明=張文礼が、趙王の王鎔に敵対してくれることに、親軍は感動した。

その日の夕、親軍の潭城の西門に宿する者は、ともに飲酒して、王鎔への謀反をはかる。

酒酣,其中驍健者曰:「吾曹識王太保意,今夕富貴決矣!」即逾城入。趙王方焚香受菉,二人斷其首而出,因焚府第。軍校張友順帥眾詣德明第,請為留後,德明複姓名曰張文禮,盡滅王氏之族,獨置昭祚之妻普寧公主以自托於梁。

酒宴が酣となり、軍中の驍健な者はいう。「我らは王太保(王徳明)の意志を知る。この夕に、富貴は決した」と。潭州に入城する。趙王の王鎔は、焚香・受菉するところ。2人は王鎔の首を断ちて出る。趙王の府第を焚く。軍校の張友順は、親兵をひきいて、王徳明の第を詣でて「潭州の留後になってくれ」と請う。王徳明は、張文礼に姓名をもどし、王氏之族を全殺した。

穆宗の長慶元年、王庭湊が成徳軍に拠った。4世を歴て、5帥して滅した。

王昭祚の妻・普寧公主だけを殺さず、梁国に送り返した。

梁帝の皇女は、王昭祚の妻である。昭宗の光化3年にある。
ぼくは思う。梁国と敵対したくないという計算が、冷静に行われている。


3月、呉国と呉越が、人質を返還しあう

三月,吳人歸吳越王鏐從弟龍武統軍鎰於錢唐,鏐亦歸吳將李濤於廣陵。徐溫以濤為右雄武統軍,鏐以鎰為鎮海節度副使。

3月、呉人は、呉越王の銭鏐の從弟・龍武統軍の銭鎰を、錢唐に帰す。

銭鎰は、天祐2年に呉国に捕まった。銭唐は、呉越の国都である。

銭鏐は、吳將の李濤を廣陵に帰す。

胡三省はいう。乾化3年、李濤が呉越に捕まった。広陵は、呉国の国都である。呉越の銭氏と、呉国の楊氏は、俘囚を解放しあって、和好を固めた。

徐温は、李濤を右雄武統軍とする。銭鏐は、銭鎰を鎮海節度副使とする。

敗軍の罰は、行われなくなって久しい。


921年夏

夏4月、

張文禮遣使告亂於晉王,且奉箋勸進,因求節鉞。晉王方置酒作樂,聞之,投杯悲泣,欲討之。僚佐以為文禮罪誠大,然吾方與梁爭,不可更立敵於肘腋,宜且從其請以安之。王不得已,夏,四月,遣節度判官盧質承製授文禮成德留後。

張文礼は、晋王に使者して、乱(趙王の王鎔の殺害)を告げた。箋を奉って、晋王を勸進した。節鉞を求めた。晋王は置酒・作樂していたが、これを聞いて、杯を投げて悲泣した。張文礼を討ちたい。
僚佐「張文礼の罪は大きいが、わが晋国は梁国と争う。新たな敵を、肘腋につくるな。張文礼の要求を聞いて、安心させろ」と。やむを得ず、夏4月、晋王は節度判官の盧質に称制させ、張文礼に成德留後を授ける。

胡三省はいう。晋王は、張文礼を撫安したかったが、張文礼は安心できなかった。晋王が兵を興して、張文礼を討つ張本である。
ぼくは思う。晋王は、はじめから張文礼に、しぶしぶ官職を与えている。ぼくが張文礼でも、晋王の態度を聞いたら、安心できるわけがないって。


陳州刺史惠王友能反,舉兵趣大梁,詔陝州留後霍彥威、宣義節度使王彥章、控鶴指揮使張漢傑將兵討之。友能至陳留,兵敗,走還陳州,諸軍圍之。

陳州刺史する惠王の朱友能が反した。兵をあげて大梁にゆく。陝州留後の霍彦威と、宣義節度使の王彦章と、控鶴指揮使の張漢傑に詔して、朱友能を討たせる。朱友能は陳留に至り、敗れて陳州に走還する。諸軍が囲む。

地理と距離感について、8865頁。


5月、梁帝が、あの劉鄩を死なせる

五月,丙戌朔,改元。

5月の丙戌ついたち、梁帝は改元した。

初,劉鄩與硃友謙為婚。鄩之受詔討友謙也,至陝州,先遣使移書,諭以禍福;待之月餘,友謙不從,然後進兵。尹皓、段凝素忌鄩,因譖之於帝曰:「鄩逗遛養寇,俾俟援兵。」帝信之。鄩既敗歸,以疾請解兵柄,詔聽於西都就醫,密令留守張宗奭鴆之,丁亥,卒。

はじめ劉鄩は、朱友謙と婚姻する。劉鄩は「朱友謙を討て」という詔を受け、陝州に至る。劉鄩は文書を送り朱友謙に禍福をさとす。1月余まつが、朱友謙は従わず。劉鄩は兵を進めた。尹皓と段凝は、劉鄩を忌む。梁帝にそしる。「劉鄩は(進軍せず)逗遛して、朱友謙に時間を与えた。援兵を俾俟した」と。

尹皓と段凝は、劉鄩とともに朱友謙を討つ。劉鄩が朱友謙を諭して(梁国にもどるよう説得したことに)不服である。たまたま晋兵がきて、自分たち梁兵が敗れたので、劉鄩をそしった。

劉鄩は敗れて帰る。病気なので、兵柄を解いてもらいたい。梁帝は、西都(洛陽)の医者に劉鄩を診せる。ひそかに留守の張宗奭に命じて、劉鄩を鴆殺させた。5月丁亥、劉鄩は卒した。

史家はいう。はリックは、みずから爪牙を剪(きる、ほろぼす)した。
ぼくは思う。晋帝に翻弄される、いいキャラだったのにw


六月,乙卯朔,日有食之。

6月の乙卯ついたち、日食あり。

921年秋

秋7月、朱友謙の使者が、晋王を皇帝扱いする

秋,七月,惠王友能降。庚子,詔赦其死,降封房陵侯。

秋7月、惠王の朱友能を降した。庚子、梁帝は死罪を赦して、降して房陵侯に封じる。

ぼくは思う。朱友能は、まだ降っていない。梁帝が、朱友能を降らせるために、待遇を甘くしているのだ。


晉王既許籓鎮之請,求唐舊臣,欲以備百官。硃友謙遣前禮部尚書蘇循詣行台,循至魏州,入牙城,望府廨即拜,謂之拜殿。見王呼萬歲舞蹈,泣而稱臣。翌日,又獻大筆三十枚,謂之「畫日筆」。王大喜,即命循以本官為河東節度副使,張承業深惡之。

晋王は、すでに籓鎮之請を許し、唐の舊臣を求め、百官を備えたい。硃友謙は、前禮部尚書の蘇循をゆかせ、晋王の行台を詣でる。

蘇循が朱友謙に拠ったのは、開平元年である。

蘇循は魏州にゆき、牙城に入城する。府廨を望んで拜する。これを「拜殿」という。晋王にあい、蘇循は萬歲をさけんで舞蹈する。泣いて稱臣する。翌日、大筆30枚を献じて「畫日の筆」という。

唐制において、敕はみな天子を「畫日」と書く。蘇循は、禅代したい晋王に迎合した。朱全忠は迎合を喜ばないが、いま晋王=李存勗は喜んだ。李存勗は、朱全忠の下である。
ぼくは思う。晋王の肉声を伝えている気がするので、とても良い。

蘇循に命じて、本官をもって、河東節度副使とした。張承業は、この晋王による反応や判断を深く悪む。

ぼくは思う。張承業は、晋王を安易に称帝させたくないから。これほど、皇帝への野心が見えすぎる晋王が、あえて「唐」を国号にするから、不思議なのだ。


◆張文礼は梁帝に援兵を求め、断られる

張文禮雖受晉命,內不自安,復遣間使因盧文進求援於契丹; 又遣間使來告曰:「王氏為亂兵所屠,公主無恙。臣已北召契丹,乞朝廷發精甲萬人相助,自德、棣渡河,則晉人遁逃不暇矣。」帝疑未決。敬翔曰:「陛下不乘此釁以復河北,則晉人不可復破矣。宜徇其請,不可失也。」趙、張輩皆曰:「今強寇近在河上,盡吾兵力以拒之,猶懼不支,何暇分萬人以救張文禮乎!且文禮坐持兩端,欲以自固,於我何利焉!」帝乃止。

張文礼は、晋王の命を受けたが、内心は不安である。間使を盧文進にもおくり、契丹に救いを求めた。

盧文進が、晋王にそむいて契丹についた。貞明2年と3年に記事。

張文礼から梁帝にも間使をおくる。「趙王の王氏は、乱兵に屠られた。梁帝の公主は、つつがなし。私はすでに北して契丹を召した。梁帝に精甲1万人を発して、助けてほしい。もし梁軍が、德州と棣州より渡河したら、晋人は遁逃する暇がない」と。梁帝は決められない。敬翔「陛下が、この時機に乗って河北を回復しなければ、もう晋軍を破れない。張文礼の要請に乗れ」と。
趙氏や張氏(張承業)はいう。「いま強寇(晋王)は、黄河の上にいる。わが兵の全てでも、晋王を防げないかも。 1万人も張文礼に割けない。張文礼は、晋国と梁国の両端をもつ。梁国には利益がない」と。梁帝は、張文礼への出兵をやめる。

史家はいう。張氏と趙氏は、思慮が遠くに及ばない。いま張文礼を救わないから、梁国が判断を誤って、滅びることになる。
ぼくは思う。結果論で、そこまでは責められないよね。


◆趙王の将・符習が、晋王の力を借り、張文礼に報仇する

晉人屢於塞上及河津獲文禮蠟丸絹書,晉王皆遣使歸之,文禮慚懼。文禮忌趙故將,多所誅滅。符習將趙兵萬人從晉王在德勝,文禮請召歸,以它將代之,且以習子蒙為都督府參軍,遣人繼錢帛勞行營將士以悅之。習見晉王,泣涕請留,習見晉王,泣涕請留,

晋人は、しばしば塞上および河津で、張文礼の蠟丸絹書を得る。

塞上では、契丹に通じる文書を得る。河津では、梁帝に通じる文書を得る。
ぼくは思う。張文礼の文書は、つつぬけである。これで晋王にも通じようというのだから、だらしない。

晋王は、文書を張文礼に返してやった。張文礼は慚懼した。張文礼は、趙王の故将を忌み、おおくを誅滅した。符習は、趙兵1万をひきい、晋王に従って徳勝にいる。張文礼は、符習を召帰して、他将に交代させたい。符習の子の符蒙を都督府參軍とする。人をやり、銭帛をもたらし、行營の將士をねぎらい、将士を悦ばせた。

胡三省はいう。張文礼は、けだし自ら、鎮州、冀州、深州、趙州に都督府をおく。ゆえに、参佐というポストに、符蒙を任命できる。

符習は晋王にあい、泣涕請留して「私は(張文礼のもとに帰らず)晋王のそばに留まりたい」という。

晉王曰:「吾與趙王同盟討賊,義猶骨肉,不意一旦禍生肘腋,吾誠痛之。汝苟不忘舊君,能為之復仇乎?吾以兵糧助汝。」習與部將三十餘人舉身投地慟哭曰:「故使授習等劍,使之攘除寇敵。自聞變故以來,冤憤無訴,欲引劍自剄,顧無益於死者,今大王念故使輔佐之勤,許之復冤,習等不敢煩霸府之兵,願以所部徑前搏取凶豎,以報王氏累世之恩,死不恨矣!」

晋王はいう。「私と趙王の王鎔は、同盟して討賊した。義は骨肉のようなもの。不意にして、一旦に禍いが肘腋に生じて、私は趙王の死が痛ましい。もし符習が旧君(趙王)を忘れないなら、なぜ復仇しないか。兵糧で符習の復仇を助けよう」と。

晋王と趙王の同盟は、開平4年にある。

符習と30余人は、舉身・投地・慟哭した。「故使(趙王)は、わたくし符習らに、剣を授けた。この剣で寇敵を攘除する。變故を聞いてより、冤憤は無訴。引劍して自剄しようと思ったが、死んでも趙王のためにならない。いま晋王は、趙王を思い、私たち趙王の兵を、晋王のために働かせてくれる。私たちはあえて、霸府之兵(晋兵)を煩わせない。

晋王は魏州にいる。河北の藩鎮たちの盟主となる。ゆえに晋王の魏州を「覇府」といったのだ。

趙王の王氏に累世の恩に報いたら、死んでも恨まない」と。

8月、張処瑾は腹の病で死ぬ

八月,庚申,晉王以習為成德留後,又命天平節度使閻寶、相州刺史史建瑭將兵助之,自邢洺而北。文禮先病腹疽;甲子,晉兵拔趙州,刺史王鋌降,晉王復以為刺史,文禮聞之,驚懼而卒。其子處瑾秘不發喪,與其黨韓正時謀悉力拒晉。

8月庚申、晉王は符習を成德留後とする。また、天平節度使の閻宝と、相州刺史の史建瑭に、符習を助けさせる。邢州と洺州より北する。張文礼は、さきに腹疽を病む。
甲子、晋兵は趙州をぬく。趙州刺史の王鋌が降る。晋王は、王鋌を趙州刺史のままとする。張文礼はこれを聞き、驚懼して卒した。子の張処瑾は、張文礼の秘して喪を発さず。党与の韓正時とともに、張処瑾は、晋兵をふせぐ。

9月、

九月,晉兵渡滹沱,圍鎮州,決漕渠以灌之,獲其深州刺史張友順。壬辰,史建瑭中流矢卒。

9月、晋兵は滹沱を渡る。鎮州を囲む。漕渠を決して、鎮州を灌する。張文礼に任じた、深州刺史の張友順をくだす。壬辰、史建瑭は、流矢にあたって卒した。

あとで胡三省がいう。鎮州の兵は弱いのだが、死ぬ気で防いでいる。趙王の王鎔を殺したので、もし開城したら、主君を殺した罪で殺されるに決まっている。だから死ぬ気で守るのだ。ゆえに、晋将の史建瑭すら負ける。


921年冬

10月、晋王と李嗣源が、梁将の戴思遠を破る

晉王欲自分兵攻鎮州,北面招討使戴思遠聞之,謀悉楊村之眾襲德勝北城,晉王得梁降者,知之,冬,十月,己未,晉王命李嗣源伏兵於戚城,李存審屯德勝,先以騎兵誘之,偽示羸怯。梁兵競進,晉王嚴中軍以待之;梁兵至,晉王以鐵騎三千奮擊,梁兵大敗,思遠走趣楊村,士卒為晉兵所殺傷及自相蹈藉、墜河陷冰,失亡二萬餘人。晉王以李嗣源為蕃漢內外馬步副總管、同平章事。

晉王は、みずから兵を分けて、鎮州を攻める。北面招討使の戴思遠はこれを聞き、楊村(楊氏の住む村)の衆すべてと、德勝の北城を襲おうと謀る。晋王は、梁国からの降者を得る。
冬10月の己未、晉王は李嗣源に命じて、戚城に伏兵させる。李存審は、德勝に屯する。先に騎兵でさそい、いつわって梁軍に晋軍の羸怯をしめす。梁兵へ競進する。晋王は中軍を厳し、梁軍を待つ。梁兵がくると、晉王は鉄騎3千で奮擊する。梁兵は大敗する。戴思遠は逃げて、楊村にゆく。士卒は晋兵に殺傷され、蹈藉しあう。河に墜ち、冰を陷つ。梁兵の2万余人が失亡する。
晉王は、梁軍を破った李嗣源を、蕃漢內外馬步副總管、同平章事とする。

10月、王処直が、養子の王都に殺される

初,義武節度使兼中書令王處直未有子,妖人李應之得小兒劉雲郎於陘邑,以遺處直曰:「是兒有貴相。」使養為子,名之曰都。及壯,便佞多詐,處直愛之,置新軍,使典之。處直有孽子郁,無寵,奔晉,晉王克用以女妻之,累遷至新州團練使。餘子皆幼;處直以都為節度副大使,欲以為嗣。及晉王存勖討張文禮,處直以平日鎮、定相為脣齒,恐鎮亡而定孤,固諫,以為方御梁寇,且宜赦文禮。晉王答以文禮弒君,義不可赦;又潛引梁兵,恐於易定亦不利。

はじめ、義武節度使・兼中書令の王処直には、子がない。妖人の李應は、小兒の劉雲郎を陘邑でひろった。妖人「この子は貴相である」と。王処直は、劉雲郎を養子として、王都とした。王都は成長すると、便佞・多詐で、王処直に愛された。新軍を置き、王都に典させる。
王処直には、孽子(側腹の子)の王郁がいるが、寵愛されない。王郁は晋国に奔る。晋王の李克用は、娘を王郁にめとらす。王郁は、晋国の新州團練使となる。王処直のその他の子は、みな幼い。王処直は(妖人にもらった)王都を節度副大使として、嗣がせたい。
いま晋王の李存勗が張文礼を討つ。鎮州と定州が脣齒である。王処直は、鎮州を晋王がおとせば、定州が孤立すると恐れた。王処直は晋王に、鎮州=張文礼を攻めるなと諫める。梁軍を防ぐことを優先して、張文礼を赦せという。
晋王「張文礼は、君主の趙王を弑した。義として赦すべきでない」と。また晋王は、ひそかに梁兵をひき、易州や定州で不利になることを恐れた。

處直患之,以新州地鄰契丹,乃潛遣人語郁,使賂契丹,召令犯塞,務以解鎮州之圍;其將佐多諫,不聽。郁素疾都冒繼其宗,乃邀處直求為嗣,處直許之。軍府之人皆不欲召契丹,都亦慮郁奪其處,乃陰與書吏和昭訓謀劫處直。會處直與張文禮使者宴於城東,暮歸,都以新軍數百伏於府第,大噪劫之,曰:「將士不欲以城召契丹,請令公歸西第。」乃並其妻妾幽之西第,盡殺處直子孫在中山及將佐之為處直腹心者。都自為留後,具以狀白晉王。晉王因以都代處直。

王処直は、晋王が張文礼を赦さないことを患う。新州の地は、契丹と隣接する。ひそかに人をやり、(側腹の子)王郁と語って、王郁から契丹に賄賂して、契丹に犯塞させる。晋王による、鎮州の包囲を解くためである。王処直の将佐は「契丹をよぶな」というが、王処直は聴かない。

新州は、辺境のはしっこにある。北を契丹と接する。
(側腹の子)王郁は、鎮州の包囲を解くことはできなかった。だが、契丹を郷導して、晋国に寇させることができた。
ぼくは思う。漢族にとって、迷惑なことである。夫婦げんかに勝つために、会社の上司を動員して、その上司に妻を寝取られるようなものである。

王郁は、もとより(妖人が拾った)王都に、後嗣の地位を奪われたことを疾む。王郁は王処直に、自分を後嗣にしてもらった。軍府の人は、契丹を召したくない。王都もまた、王郁に後嗣の地位をうばわれたので、王郁(による契丹の召招)を妨害する。ひそかに書吏の和昭訓をやり、處直を劫そうと謀る。
たまたま、王処直は、張文礼の使者と、城東で酒宴する。暮に歸る。(妖人が拾った)王都は、新軍の数百を府第に伏せて、おおいに噪劫する。
王都「將士は、契丹を召したくない。あなたは西第にいろ」と。王処直とその妻子を、西第に幽閉した。

官府の第舎は、東の第を上とする。西の第は、安養間之地である。
唐末に王処存が義武軍を帥して、兄弟で継承したが、いま敗れた。

中山にいる王処直の直系の子孫を全殺した。王処直の腹心である将佐を全殺した。(妖人が拾った)王都は、みずから留後となる。晋王に報告した。晋王は、王都を王処直の後任とした。

後唐の明宗(李嗣源)は、王都に朝して、また中山をもって、契丹を召した。その張本が、王都による契丹の呼びよせである。


10月、徐温が呉王に南郊させ、

吳徐溫勸吳王祀南郊,或曰:「禮樂未備且唐祀南郊,其費巨萬,今未能辦也。」溫曰:「安有王者而不事天乎!吾聞事天貴誠,多費何為!唐每郊祀,啟南門,灌其樞用脂百斛。此乃季世奢泰之弊,又安足法乎!」甲子,吳王祀南郊,配以太祖。

呉国の徐温は、呉王に南郊を勧めた。或者はいう。「まだ礼楽が整備されない。唐帝が南郊を祀ると、費用は巨萬だ。いま呉王は、南郊できない」と。徐温「なぜ王者が、天に仕えないか。私が聞くに、天に仕えることは、貴誠である。費用を増やしてどうするか。唐帝は郊祀ごとに、南門をひらき、樞用を百斛の脂で灌した。

枢を油で潅するのは、滑って転げやすくするため。門に声がなくなる。?

これは季世の奢泰な弊害である。礼法にかなうものでない」と。

史家はいう。徐温は学ばないが、先王の制礼の意について、知っている。

甲子、呉王は南郊を祀り、太祖(楊行密)を配す。

乙丑,大赦;加徐知誥同平章事,領江州觀察使。尋以江州為奉化軍,以知誥領節度使。

10月の乙丑、大赦した。徐知誥に、同平章事をくわえ、領江州觀察使する。江州を「奉化軍」とし、徐知誥にその節度使を領させる。

徐知誥は、みずから團練陞観察となり、尋って廉車建節となる。


徐溫聞壽州團練使崔太初苛察失民心,欲征之,徐知誥曰:「壽州邊隅大鎮,征之恐為變,不若使其入朝,因留之。」溫怒曰:「一崔太初不能制,如他人何!」征為右雄武大將軍。

徐温は、壽州團練使の崔太初が苛察であり、民心を失うと聞き、中央に徴したい。徐知誥「壽州は邊隅の大鎮である。崔太初が徴され、変をなすことを恐れる。入朝させず、寿州に置いておけ」と。

ぼくは思う。寿州は寿春。中央に徴して、反乱を決心させるのは、曹魏の淮南の三叛とおなじ構図である。寿春は、つくづくそういう土地である。しかし、王朝が濫立する五代十国においても、ここは首都にならないのね。広陵なんて、どうでも良さそうな土地が首都になる。海路が使いやすいのか。

徐温は怒った。「崔太初1人を制せないなら、他の者ならどうか」と。崔太初を徴して、右雄武大將軍とする。

ぼくは思う。徐温のおかげで、苛政する崔太初が、行政官から除かれた。徐温は、いちいち発言がすばらしい。崔太初の後任も、寿州で独立する可能性がある。かといって、寿州の長官を空席にするわけにもいかない。だったら、苛政を除くほうが優先だと。徐温は、史家において、主人公となる素質を賦与されている。


11月、晋王が、鎮州=張処瑾を攻城し、克てず

十一月,晉王使李存審、李嗣源守德勝,自將兵攻鎮州。張處瑾遣其弟處琪、幕僚齊儉謝罪請服,晉王不許,盡銳攻之,旬日不克。處瑾使韓正時將千騎突圍出,趣定州,欲求救於王處直。晉兵追至行唐,斬之。

11月、晉王は、李存審と李嗣源に、德勝を守らせる。みずから兵をひきい、鎮州を攻める。張処瑾は、弟の張処琪と、幕僚の齊儉に、謝罪・請服する。晋王は許さず、銳を尽くして、鎮州=張処瑾を攻める。旬日、晋王は克たず。

晋王はただ野戦の勝負を、呼吸の間において知る。攻城の難しさを知らない。

張処瑾は、韓正に1千騎で晋軍のかこみを突破させ、定州にゆく。王処直に、救を求める。晋兵は行唐で追いつき、韓正を斬る。

12月、契丹主が利益につられ、幽州に南下する

契丹主既許盧文進出兵,王郁又說之曰:「鎮州美女如雲,金帛如山,天皇王速往,則皆己物也,不然,為晉王所有矣。」契丹主以為然,悉發所有之眾而南。述律後諫曰:「吾有西樓羊馬之富,其樂不可勝窮也,何必勞師遠山以乘危徼利乎!吾聞晉王用兵,天下莫敵,脫有危敗,悔之何及!」契丹主不聽,

契丹主は、すでに盧文進に出兵を許す。

張文礼は、盧文進をたより、契丹に救を求めた。

(王処直の側腹の子)王郁は、契丹主にいう。「鎮州の美女は雲のようで、金帛は山のようだ。天皇王(契丹主)が速く往けば、入手できる。早く往かねば、晋王が所有する」と。契丹主は、全兵で南下したい。

史家はいう契丹は、利益に誘導されただけ。まだ中原を領有する心はない。
ぼくは思う。中原の諸勢力と関わっているうちに、中原を領有する野心が生まれたのだ。契丹を誘い込んだのは、中原の漢族たちだ。曹操が匈奴を、中原にバラまいたのと同じだ。

述律后が諫めた。「西樓には、羊馬之富がある。わざわざ遠征して、利益を求める必要がない。晋王の用兵は、天下に無敵ときく。やめろ。後悔してからでは遅い」と。契丹は、それでも南下した。

十二月,辛未,攻幽州,李紹宏嬰城自守。契丹長驅而南,圍涿州,旬日拔之,擒刺史李嗣弼。進攻定州,王都告急於晉,晉王自鎮州將親軍五千救之,遣神武都指揮使王思同將兵戍狼山之南以拒之。

12月の辛未、契丹は幽州を攻める。晋将の李紹宏が、幽州を嬰城・自守する。契丹は長驅して南し、涿州を囲み、旬日でぬく。涿州刺史の李嗣弼をとらえる。進んで定州を攻める。(王処直に妖人が与えた子の)王都は、晋王に告急した。晉王は、みずから鎮州にいる親軍5千をひきい、王都を救う。神武都指揮使の王思同に、狼山の南を守らせ、契丹をふせぐ。

地理について、8870頁。


◆高季昌が江陵で自立を準備する

高季昌遣都指揮使倪可福以卒萬人修江陵外郭,季昌行視,責功程之慢,杖之。季昌女為可福子知進婦,季昌謂其女曰:「歸語汝舅:吾欲威眾辦事耳。」以白金數百兩遺之。

高季昌は、都指揮使の倪可福に、卒1万萬をつけ、江陵の外郭を修する。高季昌は行視して、功程の遅れを責め、杖する。高季昌の娘は、倪可福の子の倪知進の婦となる。高季昌は、嫁入する娘にいう。「歸って、舅(倪可福)に語れ。私は衆を威して、弁事したい」と。高季昌は、白金を数百両、倪可福にあたえる。

是歲,漢以尚書左丞倪曙同平章事。
辰、漵蠻侵楚,楚寧遠節度副使姚彥章討平之。

この歳、漢は尚書左丞の倪曙を、同平章事とする。
辰州と漵州の蛮族が、楚国を犯す。楚国の寧遠節度副使の姚彥章が、討平した。130824

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922年、

均王下龍德二年(壬午,公元九二二年)

922年春

正月、晋王がみずから契丹主の子を捕らえる

春,正月,壬午朔,王都省王處直於西第,處直奮拳毆其胸,曰:「逆賊,我何負於汝!」既無兵刃,將噬其鼻,都掣袂獲免。未幾,處直憂憤而卒。

春正月の壬午ついたち、(王処直に妖人が与えた子)王都は、王処直に西第であう。王処直は、拳を奮げ、王都の胸をなぐる。王処直「逆賊め。なぜ私は、お前に負けたのか」と。すでに王処直は兵刃がない。鼻を噬する。王都は、袂を掣して免れた。獲免。すぐに王処直は、憂憤して卒した。

ぼくは思う。王処直は、妖人に「貴人の顔つき」といって渡された子に、地位を継承させた。その子に幽閉され、がっかりして死んだ。まったく最低の、後継者えらびだった。珍しいほど。養子に地位を嗣がせる場合、父子の関係は、血縁者の場合とちがってくる。また、養子への継承がおおいのだから、秩序が維持されないわけだ。「孝」による制止が働かず、ただの権力闘争になる。


甲午,晉王至新城南,候騎白契丹前鋒宿新樂,涉沙河而南;將士皆失色,士卒有亡去者,主將斬之不能止。諸將皆曰:「虜傾國而來,吾眾寡不敵;又聞梁寇內侵,宜且還師魏州以救根本,或請釋鎮州之圍,西入井陘避之。」晉王猶豫未決,中門使郭崇韜曰:「契丹為王郁所誘,本利貨財而來,非能救鎮州之急難也。王新破梁兵,威振夷、夏,契丹聞王至,心沮氣索,苟挫其前鋒,遁走必矣。」

正月甲午、晉王は新城の南に至る。候騎白の契丹の前鋒は、新樂に宿する。沙河を涉って南する。

地理について、8891頁。

晋国の將士は失色する。士卒で亡去する者を、主將が斬っても、止められない。諸將「虜(契丹)は、国を傾けて(兵数を動員して)きた。兵数で敵わない。また梁軍が内侵すると聞く。魏州に帰り、晋国の根本を救うべきだ。あるいは鎮州の包囲をやめて、西して井陘に入り、契丹を避けたい」と。
晋王は決められない。中門使の郭崇韜がいう。「契丹は(王処直の側腹の子)王郁に誘われ、貨財の利益のためにきた。契丹には、鎮州の急難を救えない。晋王は、梁兵を破ったばかりで、夷にも夏にも威は振るう。契丹は、晋王が北ときき、挫けて逃げるはず」と。

貞明5年、晋王は、賀瑰を胡柳でやぶる。また王瓚を戚城でやぶる。この歳、戴思遠を徳勝でやぶる。郭崇韜のいう、晋王の戦績は、これである。


李嗣昭自潞州至,亦曰:「今強敵在前,吾有進無退,不可輕動以搖人心。」晉王曰:「帝王之興,自有天命,契丹其如我何!吾以數萬之眾平定山東,今遇此小虜而避之,何面目以臨四海!」乃自帥鐵騎五千先進。至新城北,半出桑林,契丹萬餘騎見之,驚走。晉王分軍為二逐之,行數十里,獲契丹主之子。時沙河橋狹冰薄,契丹陷溺死者甚眾。是夕,晉王宿新樂。契丹主車帳在定州城下,敗兵至,契丹舉眾退保望都。

李嗣昭は、潞州からくる。李嗣昭「いま強敵(契丹)が前にいる。私は進むだけで、退かない。輕動して、人心を搖してはならない」と。
晋王「帝王が興るとき、おのずと天命がある。契丹が私をどうにかできるか。私は数万で、山東を平定した。いま小虜(契丹)を避けたのでは、どんな顔で四海に臨むのか」と。

山東とは、河北のこと。河北は、太行と常山の東にある。
ぼくは思う。晋王と契丹主の、はじめての対峙。この機会を晋王は、じぶんが皇帝になるため、天命を固辞するチャンスと捉えている。なんという、ポジティブ。
ぼくは思う。功績が小さい者が貴職につくと人望を失う。これが皇帝即位に慎重になるべき理由。同じことは現代日本の会社でも見られる。古代中国と現代日本で、どこが同じでどこが違うのか。ただの量的な問題か。つまり皇帝は、あらゆる社長よりも権限が大きいから、その前提として求められる功績も大きくなければならない。もしくは、質的に違いがあるか。質的な違いを指摘できれば、それが皇帝制の特色。
量的な問題だけで片づけるなら、「古代中国と現代日本は、社会制度が同じ」と決めつけるのと同じこと。これは採用できない。質的な問題に言及するなら、「古代中国と現代日本は社会制度は異なるが、人間同士の関係の作り方には共通点がある」という、前提に立つことになる。ぼくはこれだな。

晋王は、鉄騎5千で、先進する。新城の北に至る。半ば桑林を出て、契丹1万余騎と遭遇し、契丹が驚走する。晋王は、兵を分けて、2路でおう。数十里ゆき、契丹主の子を捕らえた。ときに沙河の橋は狹く、冰は薄い。契丹のうち、陷溺して死ぬ者がおおい。

胡三省はいう。契丹は晋王をはばかる。不意に晋王がでたので、驚いて逃げたのだ。ぼくは思う。晋王の強さは、ほんものである。呂布をイメージして描いてもいいのかも知れない。

その夕、晋王は新樂に宿す。契丹主の車帳は、定州の城下にある。敗兵が、契丹主の車帳にいたる。契丹は退き、望都にとりでする。

地理について、8872頁。


晉王至定州,王都迎謁於馬前,宴於府第,請以愛女妻王子繼岌。

晉王は定州に至る。王都は、馬前で迎謁する。府第で宴する。王都は愛女を、晋王の子の李継岌に嫁がせたいと請う。

正月、晋王が契丹の撤退ぶりに感心する

戊戌,晉王引兵趣望都,契丹逆戰,晉王以親軍千騎先進,遇奚酋禿餒五千騎,為其所圍。晉王力戰,出入數四,自午至申不解。李嗣昭聞之,引三百騎橫擊之,虜退,王乃得出。因縱兵奮擊,契丹大敗,逐北至易州。會大雪彌旬,平地數尺,契丹人馬無食,死者相屬於道。契丹主舉手指天,謂盧文進曰:「天未令我至此。」乃北歸。

正月戊戌、晉王は引兵して、望都にゆく。契丹が逆戰する。晋王はみずから1千騎で先進して、奚酋の禿餒5千騎に囲まれた。晉王は力戰して、出入すること4たび。午刻から申刻まで、包囲が解けない。李嗣昭はこれを聞き、3百騎で、契丹の包囲を横撃する。契丹は退き、晋王は出られた。

ぼくは思う。契丹は「虜」と書かれる。自己中心的で、隣接する者を厳しく蔑む。歴史叙述でよく問題にされるが。ほぼ全ての会社の部署で、隣接して前後工程に位置する部署は、多かれ少なかれ自己中心的に発言しあい、相手を蔑む。「古今東西、人間なんて同じ」とまとめたら台無しだが(人類学を扱うときの注意点です)、個別の特殊な問題として扱いすぎても目が曇るかな。
いわゆる中華思想が特殊だとして、どこが特殊なのか。言語化すべし。

晋王は契丹を大敗させ、北は易州までおう。たまたま大雪が数十日ふる。平地で數尺つもる。契丹の人馬は、食糧がない。死者が道に重なる。契丹主は手を挙げ、天を指さし、盧文進にいう。「いまだ天は、私をここに至らせない(雪を降らせたから)」と。北歸した。

ぼくは思う。本文と関係ないけど。
三角測量のこと。三国の史料と、自分の生活の2つを比較するだけでは、何が特殊で何が一般なのか、区別がつかない。第3の点を設定すれば、特殊と一般を区別でき、三国時代について理解が深まる。この夏はたまたま唐末の『通鑑』。設定する3点目の位置により、浮き上がる三国時代の性質も変わってくる。
すごく近い第3の点とか、わざと遠ざけた第3の点とか。いろいろ設定してみることで、三国時代のいろいろな性質が、形成される三角形の形によって、分かってくるはずだ。
渡邉先生のおっしゃってた「歴史性」の意味を考え中です。


晉王引兵躡之,隨其行止,見其野宿之所,布蒿於地,迴環方正,皆如編剪,雖去,無一枝亂者,歎曰:「虜用法嚴乃能如是,中國所不及也。」晉王至幽州,使二百騎躡契丹之後,曰:「虜出境即還。」騎恃勇追擊之,悉為所擒,惟兩騎自它道走免。

晉王は引兵して、これを躡む。にげる契丹の行止に随い、野宿した跡地を見つける。ワラを地にしき、配置は整頓されている。契丹は去るが、まったく乱れがない。晋王は歎じた。「契丹は、法を厳格に用いるから、このような野宿ができる。中原の民族には及ばない」と。
晉王は幽州に至り、2百騎で契丹を追わせる。「契丹が国境を出たら、追わずに還ってこい」と。騎兵が勇を恃んで追撃し、契丹の擒となった。ただ2騎だけが、他の道から逃げられた。

胡三省はいう。進軍よりも撤退が難しい。


2月、戴思遠が魏州を攻め、晋王が救う

契丹主責王郁,縶之以歸,自是不聽其謀。
晉代州刺史李嗣肱將兵定媯、儒、武等州,授山北都團練使。

契丹主は、王郁を責める。王郁を縶って歸る。これより契丹主は、王融の謀を聴かなくなった。

王郁の言うとおりに入寇したら、契丹主は晋王に敗れて、利益を得られなかったからである。

晋国の代州刺史の李嗣肱は、兵をひきいて、媯州、儒州、武州らを平らげる。晋王は李嗣肱に、山北都團練使を授ける。

媯州、儒州、武州は、契丹が入塞したとき、どれも陥落させられた。ゆえに李嗣肱が回復したのだ。


晉王之北攻鎮州也,李存審謂李嗣源曰:「梁人聞我在南兵少,不攻德勝,必襲魏州。吾二人聚於此何為!不若分軍備之。」遂分軍屯澶州。戴思遠果悉楊村之眾趣魏州,嗣源引兵先之,軍於狄公祠下,遣人告魏州,使為之備。思遠至魏店,嗣源遣其將石萬全將騎兵挑戰。

晉王が北して鎮州を攻めると、李存審は李嗣源にいう。
李存審「梁人は、晋軍の南兵が少ないと聞けば、徳州を攻めず、必ず魏州を襲う。われら2人の兵で、どうしようか。軍を分けて備えるのが良い」と。ついに軍を分けて、澶州に屯する。

晋王が北伐すると、李存審らに、潭州と魏州を守らせる。この兵が、晋軍のうち南にいる者である。潭州の治所は、頓丘である。

梁将の戴思遠は、はたして楊村の衆を全て動員して、魏州にゆく。李嗣源がこれに先んじて、狄公の祠のもとに屯する。

唐代に、狄仁傑は、魏州を刺す。恵政をやる。魏州の人は、狄仁傑のために祠をつくった。李嗣源は、そこにきた。

李嗣源は、魏州に人をやり、守備させた。
戴思遠は魏店に至る。李嗣源は、石萬全に騎兵をつけ、戴思遠に挑戦させた。

思遠知有備,乃西渡洹水,拔成安,大掠而還。又將兵五萬攻德勝北城,重塹復壘,斷其出入,晝夜急攻之,李存審悉力拒守。晉王聞德勝勢危,二月,自幽州赴之,五日至魏州。思遠聞之,燒營遁還楊村。

戴思遠は、晋軍の備えを知り、西して洹水を渡り、成安をぬく。大掠して還る。

ぼくは思う。劉鄩なきあとの梁軍は、戴思遠が活躍するらしい。

また戴思遠は、5万をひきい、德勝の北城を攻める。塹を重ね、壘を復す。北城の人々の出入を断つ。晝夜、急攻する。李存審は、悉力・拒守する。晋王は、徳勝が勢危と聞き、幽州から徳勝にゆく。

ぼくは思う。晋王は、ほんとうに「親征すると軍が強くなるが、晋王がいないと弱くなる」というタイプの君主。小前亮氏の『趙匡胤』で描かれた、柴栄と同じである。

晋王は、5日で魏州に至る。戴思遠はこれを聞き、燒營して楊村に遁還した。

◆その他の話題

蜀主好為微行,酒肆、倡家靡所不到,惡人識之,乃下令士民皆著大裁帽。

蜀主は微行するのが好き。酒肆と倡家は、すべてゆく。惡人がこれを識り、士民に大裁帽を著けさせた。

ぼくは思う。蜀主は、まじどうしようもない。こういう蜀国の2代目を見ると、劉禅を攻める理由が分からなくなる。前漢の成帝も、くだらん微行をしてたし。


2月、晋将の閻宝が、鎮州の包囲に失敗する

晉天平節度使兼侍中閻寶築壘以圍鎮州,決滹沱水環之。內外斷絕,城中食盡。丙午,遣五百餘人出求食。寶縱其出,欲伏兵取之;其人遂攻長圍,寶輕之,不為備,俄數千人繼至。

晋国の天平節度使・兼侍中の閻宝は、築壘して鎮州を囲む。滹沱水を決壊させ、鎮州を環む。内外が断絶して、城中は食糧が尽きる。
2月、鎮州の城内から5百余人で出て、食糧を求める。閻宝は(わざと)好きなように城内から兵を出さる。兵を伏せ、鎮州の兵を取るつもり。鎮州の兵5百人が全て出て、長囲(城を囲む塁)を攻める。閻宝は兵を軽んじて、備えない。にわかに数千人が、鎮州の城内から、さらに出てきた。

諸軍未集,鎮人遂壞長圍而出,縱火攻寶營,寶不能拒,退保趙州。鎮人悉毀晉之營壘,取其芻粟,數日不盡。晉王聞之,以昭義節度使兼中書令李嗣昭為北面招討使,以代寶。

閻宝の軍は集まらない。鎮人は長囲を壊して、外に出た。閻宝の軍営をに火をつける。閻宝は守れず、退いて趙州に保する。鎮人は、晋軍の築いた営塁を全て壊す。晋軍の芻粟をうばう。数日で、全て壊された。
晋王はこれを聞き、昭義節度使・兼中書令の李嗣昭を、北面招討使とした。閻宝のかわりに、李嗣昭に鎮州を攻めさせる。

ぼくは思う。趙王の王鎔を殺した鎮州の人々は、みょうに粘る。晋将が4回も敗れるのだ。そして、あと40分で、この『通鑑』の巻を終えないと、新ちゃんのテレビに間に合わない。130824


922年夏

4月、

夏,四月,蜀軍使王承綱女將嫁,蜀主取之入宮。承綱請之,蜀主怒,流於茂州。女聞父得罪,自殺。

夏4月、蜀軍の軍使する王承綱の娘が嫁ぐとき、蜀主がうばって入宮させた。王承綱が娘の返還をもとめ、蜀主が怒って、王承綱を茂州に流した。娘は、父が流されたと聞き、自殺した。

蜀主は、何康の娘をうばい、その夫は晋だ。いま王承綱の娘もうばい、娘が晋だ。『通鑑』は、しばしば蜀主の過ちを書いて、戒めとしている。
ぼくは思う。涼しくなったかと思って、エアコンを切ったとき、こういう下らない記事を読まされると、非常にイライラするのだ。


甲戌,張處瑾遣兵千人迎糧於九門,李嗣昭設伏於故營,邀擊之,殺獲殆盡,餘五人匿於牆墟間,嗣昭環馬而射之,鎮兵發矢中其腦,嗣昭{□服}中矢盡,拔矢於腦以射之,一發而殪。會日暮,還營,創流血不止。是夕卒。晉王聞之,不御酒肉者累日。嗣昭遺命:悉以澤、潞兵授節度判官任圜,使督諸軍攻鎮州,號令如一,鎮人不知嗣昭之死。圜,三原人也。

4月甲戌、張処瑾は、兵1千をつかわし、九門で迎糧する。李嗣昭は、故營に設伏して、邀擊した。鎮州兵1千のほとんどを殺獲した。5人だけが牆墟のあいだに隠れた。李嗣昭は環馬して、隠れた兵を射た。隠れた鎮兵が矢を発し、矢が李嗣昭の脳にあたった。

孫策は頬に矢があたり、韓賢は脛を断たれ、李嗣昭は脳にあたった。みな主将が、ただの一夫に殺された事例である。善将は、こんな失敗はしない。

李嗣昭に手持の矢は、尽きている。脳にあたった矢をぬき、これで射返した。1発で倒した。

ぼくは思う。夏侯惇より強い。

日が暮れ、李嗣昭は還營した。傷からの出血が止まらず、その夕に卒した。晉王はこれを聞き、酒肉を数日たべない。李嗣昭は遺命した。
李嗣昭「澤州と潞州の兵を、すべて節度判官の任圜に授けよ。諸軍を督して、鎮州を攻めろ。号令を1つにしろ」と。
鎮人は、李嗣昭の死に気づかない。任圜は、三原の人である。

史家はこの記事を通じて、李嗣昭の死を気づかせなかった、任圜の才について言っている。


晉王以天雄馬步都指揮使、振武節度使李存進為北面招討使。命嗣昭諸子護喪歸葬晉陽;其子繼能不受命,帥父牙兵數千,自行營擁喪歸潞州。晉王遣母弟存渥馳騎追諭之,兄弟俱忿,欲殺存渥,存渥逃歸。嗣昭七子、繼儔、繼韜、繼達、繼忠、繼能、繼襲、繼遠。繼儔為澤州刺史,當襲爵,素懦弱。繼韜凶狡,囚繼儔於別室,詐令士卒劫己為留後,繼韜陽讓,以事白晉王。晉王以用兵方殷,不得已,改昭義軍曰安義,以繼韜為留後。

晉王は、天雄馬步都指揮使・振武節度使の李存進を、北面招討使とする。

脳を射られた、李嗣昭の後任です。

李嗣昭の諸子に命じて、李嗣昭の喪を護らせ、歸って晉陽に葬る。子の李継能は、命を受けず(父の死体を晋陽に送り届けず)父の牙兵の数千をひきい、死体をもって潞州にゆく。
晋王は、同母弟の李存渥に追わせ、李継能を諭させた。李継能と李存渥の兄弟は、ともに怒った。李継能が李存渥を(兄が弟を)殺しそうなので、李存渥は逃げ帰った。

李嗣昭が死んで、潞州を守りきった。陣中で晋だ。晋王は、李嗣昭の死体を晋陽に、持ち帰れという。かつて䘏存之命を褒めないから、兄弟をともに怒らせた。

李嗣昭には、7子がいる。繼儔、繼韜、繼達、繼忠、繼能、繼襲、繼遠である。李繼儔は澤州刺史となり、父の爵位を襲うべきだが、懦弱である。李繼韜は凶狡である。李繼儔が別室(母違い)なので、詐って士卒に李繼儔を劫させ、李繼韜が留後となる。李繼韜は、譲ったふりをして、事情を晋王に申し上げる。晉王は、当該地域の用兵方殷なので、やむを得ず、昭義軍を「安義」と改称して、李繼韜を留後とした。

鎮州が下る前に、梁兵がまた来攻して、河上をさわがす。だから「用兵がさかん」と言ったのだ。ぼくは思う。実際の指揮ができる人を、置くしかない。
この任命は、李継韜が、晋国にそむき、梁国につく張本である。
また「安義」の名称について、『考異』が8875頁にある。


閻寶慚憤,疽發於背,甲戌卒。

閻寶は慚憤して、疽が背中にできた。4月甲戌に卒した。

漢主巖用術者言,游梅口鎮避災。其地近閩之西鄙,閩將王延美將兵襲之,未至數十里,偵者告之,巖遁逃僅免。

漢主の劉巌は、術者の発言をもちい、梅口鎮(梅州)に游して、災を避ける。近くに閩の西鄙がある。閩將の王延美が、劉巌を襲った。数十里の手前で、偵者が告げたので、ぎりぎり劉巌は免れた。

ぼくは思う。「天命のない君主が、術者にまどわされる」パターンである。君主に天命がある、ない。術者に能力がある、ない。このマトリクスをつくり、それぞれで、的中した場合と、的中しない場合について、予想される評価を考えたら、楽しいかも。史料から、実例をぬきつつ。


5月、

五月,乙酉,晉李存進至鎮州,營於東垣渡,夾滹沱水為壘。

5月乙酉、晋将の晉李存は、進んで鎮州に至る。東垣(真定)渡に営する。滹沱水をはさみ、壘をつくる。

922年秋

8月、衛州刺史の李存儒が、梁軍に城を奪われる

晉衛州刺史李存儒,本姓楊,名婆兒,以俳優得幸於晉王。頗有膂力,晉王賜姓名,以為刺史;志事掊斂,防城卒皆征月課縱歸。八月,莊宅使段凝與步軍都指揮使張朗引兵夜渡河襲之,詰旦登城,執存儒,遂克衛州。

晋国の衛州刺史の李存儒は、もとは楊婆兒という。俳優として、晋王の幸を得た。膂力があり、晋王から姓名をもらい、刺史となる。志事は掊斂する。城を守る兵卒は、みな月ごとに召されるが、ほしいままに帰る。

李存儒は、金銭さえ払えば、守城の軍役を免除した。

8月、莊宅使の段凝と、步軍都指揮使の張朗は、夜に渡河して、衛州を襲った。詰旦に城壁をのぼる。李存儒をとらえ、衛州に克った。

戴思遠又與凝攻陷淇門、共城、新鄉,於是澶州之西,相州之南,皆為梁有;晉人失軍儲三之一,梁軍復振。帝以張朗為衛州刺史。朗,徐州人也。

梁将の戴思遠は、段凝が、淇門、共城、新郷を攻め落とした。ここにおいて、澶州の西、相州の南は、みな梁国の領土となった。

ぼくは思う。地理は8876頁。というか、地図で見なければ。梁国は、一方的に領土を削られるだけじゃない。晋王が、寵愛するものを守将におくと、取り替えされたりもする。

晉人は、儲の3分の1を失う。梁軍は、ふたたび振興する。梁帝は、張朗を衛州刺史とする。張朗は、徐州の人。

9月、趙王への反逆者を、晋将の李存審が破る

九月,戊寅朔,張處瑾使其弟處球乘李存進無備,將兵七千人奄至東垣渡。時晉之騎兵亦向鎮州城下,兩不相遇。鎮兵及存進營門,存進狼狽引十餘人斗於橋上,鎮兵退,晉騎兵斷其後,夾擊之,鎮兵殆盡,存進亦戰沒。

9月の戊寅ついたち、張処瑾は、弟の張処球を、李存進を使わす。張処球は、李存進の無備に乗じて、7千で、にわかに東垣渡に至る。

【奄】おおう、かぶせる、閉ざす。突然に、たちまち、にわかに。

ときに晋軍の騎兵もまた、鎮州の城下にむかう。梁軍と晋軍は、遭遇せずに、すれ違った。鎮兵は、李存進の營門に至る。李存進は、狼狽して、10余人をひき、橋上で戦った。鎮兵は退く。晋軍の騎兵は、李存進の退路を断って挟撃した。 鎮兵はほぼ尽き、李存進もまた戦没した。

ぼくは思う。ぐだぐだである。そろそろ、梁軍と晋軍の戦いも、最終の局面なのだ。『通鑑』はここで「梁紀」が終わって、「唐紀」が始まる。
胡三省はいう。このとき晋兵は天下でつよい。鎮州の兵を号して「怯」とよぶ。晋王は、順を杖して逆を討ち(順逆とも懲らしめるのかよ)一鼓にして、鎮州を下した。鎮人は、王氏の100年の恩(趙王の王鎔までの恩)を忘れて、張文礼のために、父子で争った。
史建瑭、閻宝、李嗣昭、李存進は、鎮州で死体になって帰った。4人は晋国の驍将だったが、鎮州で死んだ。鎮州が勇で、晋兵が怯なのか。ちがう。鎮州の兵は、君主を弑した罪があるので、もし鎮州が開城したら、必ず殺されると考えた。だから死ぬ気で、晋兵と戦った。晋兵は常勝の兵だが、死ぬ気の鎮兵には勝てなかった。


晉王以蕃漢馬步總管李存審為北面招討使。鎮州食竭力盡,處瑾遣使詣行台請降,未報,存審兵至城下。

晉王は、蕃漢馬步總管の李存審を、北面招討使とした。

ぼくは思う。李存進が死んで、李存審が後任。いじめだ。

鎮州は、食も力も尽きた。鎮将の張処瑾は、使者を行台にやり、降伏を請う。返答がある前に、李存審の兵が、城下にくる。

丙午夜,城中將李再豐為內應,密投縋以納晉兵,比明畢登,執處瑾兄弟家人及其黨高濛、李翥、齊儉送行台,趙人皆請而食之,磔張文禮屍於市。趙王故侍者得趙王遺骸於灰燼中,晉王命祭而葬之。以趙將符習為成德節度使,烏震為趙州刺史,趙仁貞為深州刺史,李再豐為冀州刺史。震,信都人也。

9月丙午の夜、鎮将の城中將の李再豊が、李存審に内応した。ひそかに縋を投じ、晉兵を城内に入れた。比明、晋兵は城壁に登りおわる。張処瑾の兄弟と家人、その党の高濛、李翥、齊儉を、行台に送る。趙人はみな、食糧をほしがる。張文礼の死体を、市に張りつける。趙王のもとの侍者は、趙王の遺骸を、灰燼から見つける。晋王は祭葬を命じた。
晋王は、趙將の符習を、成德節度使とする。烏震を、趙州刺史とする。趙仁貞を、深州刺史とする。李再豐を、冀州刺史とする。烏震は、信都の人。

符習不敢當成德,辭曰:「故使無後而未葬,習當斬衰以葬之,俟禮畢聽命。」既葬,即詣行台。趙人請晉王兼領成德節度使,從之。晉王割相、衛二州置義寧軍,以習為節度使。習辭曰:「魏博霸府,不可分也,願得河南一鎮,習自取之。」乃以為天平節度使、東南面招討使。加李存審兼侍中。

符習は、あえて成德に当たらない。辞していう。符習「故使(趙王の王鎔)は、後嗣がおらず、まだ葬られていない。私は斬衰の喪をやって、王鎔を葬ろう。葬礼が終わるのを待って、任命を受ける」と。

臣が君のために服喪するのは、斬衰である。

葬礼が終わり、符習は行台に詣でる。趙人は晋王に「符習を、兼領成德節度使としてくれ」という。晋王は従う。晋王は、相州と衛州を割いて、義寧軍をおき、符習を節度使とする。符習は辞した。「魏博の霸府は、分けるな。私は、河南の1鎮がほしい。自ら(梁軍を破って)取りますから」と。

世には、口だけで実行しないやつがいる。符習は義を述べるのは苟しくないが、ついに河南の1鎮を取れなかった。これは、君子の貴さとは、発言を実践すること。

符習を、天平節度使・東南面招討使とする。李存審に、侍中をくわえる。

922年冬

11月、晋臣の張承業が死ぬ

十一月,戊寅,晉特進、河東監軍使張承業卒,曹太夫人詣其第,為之行服,如子侄之禮。晉王聞其喪,不食者累日。命河東留守判官何瓚代知河東軍府事。

11月戊寅、晋国の特進・河東監軍使の張承業が卒した。曹太夫人が張承業の第に詣で、張承業のために喪服をきる。子侄の礼と同じ。

張承業は、李克寧と李存顥による難を平らげた。ゆえに曹太夫人は、深く張承業を徳とした。

晉王は、張承業の死を聞き、数日たべない。河東留守判官の何瓚を、張承業に代えて、知河東軍府事とする。

12月、趙季良「いつ晋王は河南を平定できるか」

十二月,晉王以魏博觀察判官晉陽張憲兼鎮冀觀察判官,權鎮州軍府事。

12月、晉王は、魏博觀察判官する晉陽の張憲を、兼鎮冀觀察判官・權鎮州軍府事とする。

魏州稅多逋負,晉王以讓司錄濟陰趙季良,季良曰:「殿下何時當平河南?」王怒曰:「汝職在督稅,職之不修,何敢預我軍事!」季良對曰:「殿下方謀攻取而不愛百姓,一旦百姓離心,恐河北亦非殿下之有,況河南乎!」王悅,謝之。自是重之,每預謀議。

魏州の税は多く、きちんと納入されない。

【逋】逃亡する、のがれる。引き延ばす、遅滞される。

晋王は、司錄する濟陰の趙季良を責めた。

【譲】せめる、とがめる。ゆずる、辞退する、退いて争わない、いいところを人に与える、拒絶する、両手を挙げて胸と平衡にする、推挙する。
胡三省はいう。唐制にて、諸州には、司録、司士、司兵、司功らの諸曹がいる。いわゆる「判司」である。崔胤は、漢代の郡名。知ってる。

趙季良「殿下は、いつ河南の平定が終わるのですか」と。晋王は怒る。「おまえの仕事は督稅だ。自分の仕事を修めず、なぜわが軍事に口を出すか」と。趙季良「殿下は軍事ばかりで、百姓を愛さない。いちど百姓が離心したら、河北は殿下の領土でなくなる。まして河南は、より領有が難しくなる」と。晋王は悦して、趙季良に謝った。これより趙季良を重んじ、いつも謀議に預かる。

是歲,契丹改元天贊。
大封王躬乂,性殘忍,海軍統帥王建殺之,自立,復稱高麗王,以開州為東京,平壤為西京。建儉約寬厚,國人安之。

この歳、契丹が「天贊」と改元した。
大封王の躬乂は、性が殘忍である。海軍統帥の王建が躬乂を殺して自立した。また高麗王を称する。開州を東京とする。平壤を西京とする。王建は、儉約・寬厚である。国人は安した。130824

ぼくは思う。8月中に『資治通鑑』274巻(926年)まで抄訳したい。唐室の復興者で、晋王=唐帝の李存勗が、李嗣源に殺されるまで。ややムリな目標だけど。つぎに、やっと正史を読む。李存勗を主人公に据えて、この時代を理解したい。仁木英之氏の『朱温』『李嗣源』のあいだを補うように、話をまとめたい。お盆明けの1週間の勤務を、「長い20世紀」ならぬ「長いお盆休み」と位置づけ、年休を動員して『通鑑』のペースを落としてない。130824

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