両晋- > 『資治通鑑』晋紀を抄訳 303年-304年 恵帝の末期

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303年春夏、李特から李雄、司馬歆から劉弘に

春、荊州の軍が合流し、李特を殺す

【晉紀七】 起昭陽大淵獻,盡閼逢困敦,凡二年。孝惠皇帝中之下太安二年(癸亥,公元三零三年)
春,正月,李特潛渡江擊羅尚,水上軍皆散走。蜀郡太守徐儉以少城降,特入據之,惟取馬以供軍,餘無侵掠,赦其境內,改元建初。羅尚保太城,遣使求和於特。蜀民相聚為塢者,皆送款於特,特遣使就撫之;以軍中糧少,乃分六郡流民於諸塢就食。李流言於特曰:「諸塢新附,人心未固,宜質其大姓子弟,聚兵自守,以備不虞。」又與特司馬上官惇書曰:「納降如待敵,不可易也。」前將軍雄亦以為言。特怒曰:「大事已定,但當安民,何為更逆加疑忌,使之離叛乎!」

春正月、李特は渡江して羅尚を撃つ。水上の軍は、皆な散走した。蜀郡太守の徐儉は、少城を以て降る。李特が少城に入る。ただ馬を取って軍に供するだけで、その他は侵掠しない。「建初」と改元した。

時期と年号について史料ごとに違う。2677頁。

羅尚は太城を保ち、李特に求和の使者をだす。蜀民の塢に相聚する者は、みな李特を送款する。李特は使者で、塢を就撫した。軍中に糧少なので、6郡の流民を諸塢に分け、食糧にありつかせる。
李流は李特にいう。「諸塢は李氏に付いたばかり。人心は固くない。大姓の子弟を人質にしろ」と。また李特の司馬の上官惇は「降伏を納れるときは、敵を待つがごとくせよ(詐って降ったかも)」と。前將軍の李雄も同じことをいう。
李特は怒った。「大事は已に定まった。ただ安民するだけ。なぜ逆を更め、疑忌を加えるか。新たに降った者を、離叛させてしまう」と。

ぼくは思う。李特の国づくりは、定型にそって記される。かえって李特の実際に取材して、この史料が書かれたのではないことを窺わせるけど、どうだろう。


朝廷遣荊州刺史宗岱、建平太守孫阜帥水軍三萬以救羅尚。岱以阜為前鋒,進逼德陽。特遣李蕩及蜀郡太守李璜就德陽太守任臧共拒之。岱、阜軍勢甚盛,諸塢皆有貳志。益州兵曹從事蜀郡任睿言於羅尚曰:「李特散眾就食,驕怠無備,此天亡之時也。宜密約諸塢,刻期同發,內外擊之,破之必矣!」尚使睿夜縋出城,宣旨於諸塢,期以二月十日同擊特。

朝廷は、荊州刺史の宗岱、建平太守の孫阜に、水軍3万をつけ、羅尚を救わせる。宗岱は孫阜を前鋒として、德陽に進逼する。李特は、李蕩と蜀郡太守の李璜をつかわし、德陽太守の任臧に就けて、ともに拒がせる。
宗岱と孫阜の軍勢は甚だ盛ん。諸塢は貳志(西晋になびく心)あり。益州兵曹從事する蜀郡の任睿は羅尚にいう。「李特は衆を散じて、食に就く。驕怠して供えなし。これ天亡之時である。諸塢と密約して、刻期・同發して内外から李特を撃てば破れる」と。羅尚は、任睿を夜に城を縋出させ、諸塢に宣旨した。2月10日に李特を同時に撃てと。

ぼくは思う。何この西晋が勝ちそうな展開は!!


睿因詣特詐降。特問城中虛實,睿曰:「糧儲將盡,但餘貨帛耳。」睿求出省家,特許之,遂還報尚。二月,尚遣兵掩襲特營,諸塢皆應之,特兵大敗,斬特及李輔、李遠,皆焚屍,傳首洛陽。流民大懼,李流、李蕩、李雄收餘眾還保赤祖。流自稱大將軍、大都督、益州牧,保東宮,蕩、雄保北營。孫阜破德陽,獲B120碩,任臧退屯涪陵。

任睿は李特を詣でて、詐って降る。李特は城中(成都の少城)の虚実を問う。任睿「糧儲はほぼ尽きた。貨帛が残るだけ」と。任睿は出て家を見たいと求める。李特は許した。ついに還って羅尚に報せた。
2月、羅尚は兵をやり、李特の営を掩襲した。諸塢はみな羅尚に応じた。李特の兵は大敗した。李特、李輔、李遠を斬って、みな死体を焼き、首を洛陽に送る。
流民は大懼した。李流、李蕩、李雄は、余衆をあつめて還って赤祖(綿竹の東)を保つ。李流は大將軍、大都督、益州牧を自称して、東宮に保す。李蕩と李雄は北營に保す。孫阜は德陽を破り、ケン碩らを獲る。任臧は退いて涪陵を屯つ。

涪陵について2678頁。
ぼくは思う。李特が殺された。西晋が遣わした、益州と荊州からの地方軍に挟まれたら、さすがに勝てなかった。でも、これから李雄が建国するのだ。まだこの話は、もうちっとだけ続くのじゃ。


三月,羅尚遣督護何沖、常深等攻李流,涪陵民藥紳等亦起兵攻流。流與李驤拒深,使李蕩、李雄拒紳。何沖乘虛攻北營,氐苻成、隗伯在營中,叛應之。蕩母羅氏擐甲拒戰,伯手刃傷其目,羅氏氣益壯;營垂破,會流等破深、紳,引兵還,與沖等戰,大破之,成、伯帥其黨突出詣尚。流等乘勝進抵成都,尚復閉城自守。蕩馳馬逐北,中矛而死。

3月、羅尚は督護の何沖と常深らに、李流を攻めさせた。涪陵民の薬紳らが起兵して、李流を攻めた。李流は、李驤とともに常深を拒ぐ。李蕩と李雄に薬紳を拒がせる。何沖は虚に乗じて北営を攻める。氐族の苻成と隗伯は、北営のなかにいて、晋軍に応じる。李蕩の母・羅氏は、擐甲・拒戰する。隗伯は刃を手に、李蕩の母の目を傷つける。羅氏の氣は益すます壯んとなる。軍営が破れそうなとき、李流らが(晋軍の)常深と薬紳を破ってもどる。何沖らと戦い、大破した。符成と隗伯は、その党をひきい、突出して羅尚に詣でる。李流らは勝に乗じて、進んで成都に抵たる。羅尚は復た閉城・自守する。李蕩は馳馬・逐北して、矛に中って死ぬ。

朝廷遣侍中燕國劉沈假節統羅尚、許雄等軍,討李流。行至長安,河間王顒留沈為軍師,遣席薳代之。

朝廷は、侍中する燕國の劉沈に假節させ、羅尚と許雄らの軍を統べさせ、李流を討たせる。長安に行至し、河間王の司馬顒が、劉沈を留めて軍師とする。席薳を代わりに益州にゆかす。

羅尚は益州の兵を帥いる。許雄は梁州の兵をひきいる。劉沈は2州の兵を統べる予定だった。
ぼくは思う。司馬顒が、自分の人材ほしさに、劉沈を引き留めた。これで益州が李氏に奪われたら(奪われるのだけど)司馬顒の私欲のせいである。劉沈の登場シーンを描くから、「劉沈さえいれば、李氏はすぐに平定されるなあ」という名将とすべきだ。ガッカリ度を大きくするために。


夏、李特が晋軍を破って台頭する

李流以李特、李蕩繼死,宗岱、孫阜將至,甚懼。李含勸流降,流從之;李驤、李雄迭諫,不納。夏,五月,流遣其子世及含子胡為質於阜軍;胡兄離為梓潼太守,聞之,自郡馳還,欲諫不及。退,與雄謀襲阜軍,雄曰:「為今計,當如是;而二翁不從,奈何?」離曰:「當劫之耳!」雄大喜,乃共說流民曰:「吾屬前已殘暴蜀民,今一旦束手,便為魚肉。惟有同心襲阜,以取富貴耳!」眾皆從之。雄遂與離襲擊阜軍,大破之。會宗岱卒於墊江,荊州軍遂退。流甚慚,由是奇雄才,軍事悉以任之。

李流は、李特と李蕩が死んだので、宗岱と孫阜が至るのを甚だ懼れた。李含は李流に「晋軍に降れ」と勧めた。李流は従った。李驤と李雄は迭諫して納れず。
夏5月、李流は子の李世と、李含の子・李胡を、孫阜に人質として差し出した。李胡の兄・李離は梓潼太守であるが、これを聞き、梓潼から馳せ還り、「人質を出すな」と諫めた。李離は退き、李雄とともに孫阜の軍を襲おうと謀る。李雄「いま計をなすなら、そう(孫阜を襲撃)すべき。だが2翁(李流と李含)が従わない。どうしよう」と。李離「2翁は劫するのみ」と。李雄は大喜して、ともに流民に説いた。「われらは、すでに蜀民を殘暴した。いちど束手すれば、魚肉となる(敵に食われる)ただ同心して孫阜を襲えば、富貴を取れる」と。衆はみな従う。

ぼくは思う。李特は、西晋の流民の管理をしていた。だが李雄に至っては、ただ反乱を煽っているだけである。ヤケクソである。

李雄と李離は、孫阜を大破した。
たまたま宗岱が墊江で卒して、荊州の軍が遂に退いた。李流は甚だ慚じた。これにより李雄の才を奇とし、軍事をすべて李雄に任せた。

墊江県は、漢代は巴郡に属する。
ぼくは思う。荊州刺史が死ぬタイミングが絶妙すぎる。李雄になびく者がいて、暗殺したとか考えたくなる。西晋が「死にかけの刺史」を送るとも思えないし。


新野王の司馬歆が張昌に殺され、劉弘が継ぐ

新野莊王歆,為政嚴急,失蠻夷心,義陽蠻張昌聚黨數千人,欲為亂。荊州以壬午詔書發武勇赴益州討李流,號「壬午兵」。民憚遠征,皆不欲行。詔書督遣嚴急,所經之界停留五日者,二千石免官。由是郡縣官長皆親出驅逐;展轉不遠,輒復屯聚為群盜。時江夏大稔,民就食者數千口。張昌因之誑惑百姓,更姓名曰李辰,募眾於安陸石巖山,請流民及避戍役者多往從之。太守弓欽遣兵討之,不勝。昌遂攻郡,欽兵敗,與部將硃伺奔武昌,歆遣騎督靳滿討之,滿覆敗走。

新野莊王の司馬歆は、為政が嚴急で、蠻夷の心を失う。義陽蛮の張昌は聚黨が數千人で、乱をしそう。

義陽蛮について、2680頁。

荊州は壬午の詔書によって、武勇な者を発して、益州へ李流を討ちにゆく。「壬午兵」という。民は遠征を憚り、みな行きたくない。詔書して、派遣を監督することは嚴急。兵が境界を5日こえない場合、2千石を免官した。これにより郡県の官長は、みな自ら出て兵を(益州に)追い立てた。兵は展轉して群盗となる。

ぼくは思う。西晋は、流民を秦州と雍州に返すときも。荊州の兵を益州に送るときも。どちらも人を動かす力が足りないくせに(足りないから)強引にやる。それが混乱の原因となる。三国期には、ここまで無力&強引もなかった。
魏晋革命とか、三国統一とか言うが。被支配者から見れば、後漢から西晋まで、一貫して中央の規制力が下降する過程なのかも。皇帝の姓が変わっても、暮らし向きは代わらない。むしろ、漢魏と魏晋の革命は、この一貫した下降のなかで、支配層が一か八かの逆転にかけている試行錯誤なのかも。

ときに江夏は大稔(豊作)であり、民で就食する者は数千口。張昌は百姓を誑惑し、姓名を更めて李辰という。兵を安陸の石巌山にあつめ、流民で戍役を避けたい者を募る。

石巌山について『水経注』など2680頁。

太守の弓欽は張昌に勝てない。張昌は郡城を攻めた。弓欽の兵は敗れ、部將の朱伺とともに武昌に奔る。司馬歆は、騎督の靳満にやるが、靳満は覆して敗走した。

昌遂據江夏,造妖言云:「當有聖人出為民主。」得山都縣吏丘沈,更其姓名曰劉尼,詐雲漢後,奉以為天子,曰:「此聖人也。」昌自為相國,詐作鳳皇、玉璽之瑞,建元神鳳;郊禮、服色,悉依漢故事。有不應募者,族誅之,士民莫敢不從。又流言:「江、淮已南皆反,官軍大起,當悉誅之。」互相扇動,人情惶懼。江、沔間所在起兵以應昌,旬月間眾至三萬,皆著絳帽,以馬尾作髯。詔遣監軍華宏討之,敗於障山。

ついに張昌は江夏に拠る。妖言を造る。「聖人が出て民主となる」と。丘沈を漢帝の子孫を見なす。晋軍を追い返す。

ぼくは思う。西晋で張昌が起兵し、丘沈という人を「実は彼は漢の後裔・劉尼」といい、天子に奉り「聖人」と見なす。「曹魏のため」というスローガンでない。天子=聖人は、漢代の思想。曹魏は時期が短く、意識や思想を変遷させるに至らないか。または、魏晋は一体もしくは連続体(=聖なる漢を損ねた共犯)と見なされたか。諱が「尼」って孔子だよね。
『漢晋春秋』なんて本もあるくらいだし。『漢晋春秋』は、べつに張昌の話を書いたのではないが。こんな書名が思いつかれる事態が、「曹魏のプレゼンスの低さ」を仄めかしている。
@AkaNisin さんはいう。誰が漢を継ぐか、という問題にまだ決着が出てないんですね。公孫淵も「紹漢」を称しましたが、西晋に至ってもまだ。
ぼくはいう。「劉尼」という命名は、仲尼を意識しているに違いないです。漢代の思想が、より純化してる感じです。ご存知のとおり匈奴の劉淵は「漢」を称します。魏晋の爵制の改革とか、曹丕が用意した禅譲のロジックとか、政権内部の自慰で、さっぱり効いてないじゃないか、って思います、、
@Golden_hamster さんはいう。晋の人間にとって一つ前の統一王朝は漢ですからね。客観的に見て晋より前に全土統一してた王朝は漢しかないという意味です。統一はしていても閏統扱いされる秦と対照的かもしれないですね。
ぼくはいう。「晋のまえは漢」は平呉の後に形成されるはずの認識ですよね。史料のどのあたりから読み取れそうですか?魏晋革命の時点では、魏も晋も統一王朝ではないです。また秦を閏統とする認識が、漢代のいつごろに確立するかも気になります。
@Golden_hamster さんはいう。魏も晋も統一王朝じゃない時期ならなおさら直前の統一王朝に戻ろうという考えが出てきそうですね。それを示す具体的な事例などは今後確認していきたいです。秦の閏統化が確定的になったのは漢を火徳と決めた時でしょうかね。
ぼくはいう。魏が漢に戻りたいなら逆禅譲をやれば良いですし(人的には間に合います)、司馬氏が漢に戻したいなら、魏晋革命じゃなくて「魏漢革命」を斡旋するのが順当です。魏末の曹氏は無力なので可能でしょう。彼らの認識する「漢」とは何か。考えます。


歆上言:「妖賊犬羊萬計,絳頭毛面,挑刀走戟,其鋒不可當。請台敕諸軍三道救助。」朝廷以屯騎校尉劉喬為豫州刺史,寧塑將軍沛國劉弘為荊州刺史。又詔河間王顒遣雍州刺史劉沈將州兵萬人,並征西府五千人出藍田頭以討昌。顒不奉詔;沈自領州兵至藍田,顒又逼奪其眾。於是劉喬屯汝南,劉弘及前將軍趙驤、平南將軍羊伊屯宛。昌遣其將黃林帥二萬人向豫州,劉喬擊卻之。

司馬歆が上言して「張昌から救って」という。屯騎校尉の劉喬を豫州刺史とする。寧塑將軍する沛國の劉弘を荊州刺史とする。

荊州刺史の宗岱が、遠征した先で死んだ。その次に来るのが、この劉弘なのね。
(劉馥+劉表)/2=劉弘伝

また河間王の司馬顒に詔して、雍州刺史の劉沈に州兵1万をつけ、征西府5千人をあわせ、藍田関に出て、張昌を討たせる。

藍田関は、京兆の藍田県にある。
ぼくは思う。益州に使うはずだった劉沈を、荊州に使いまわす。しかし今回も劉沈は、司馬顒に囲いこまれて、西晋のために働けないのだ。

司馬顒は奉詔せず。劉沈は自ら兵を領して、藍田に至る。司馬顒は劉沈に逼り、その衆を奪う。ここにおいて劉喬は汝南に屯する。劉弘および前將軍の趙驤、平南將軍の羊伊は、宛県に屯する。

ぼくは思う。司馬顒が、意味わからない妨害をするうちに。西晋末を彩る武将?たちが、順番に舞台にあがってゆくのだ。

張昌は、黄林に2万をつけ、豫州に向かわせる。劉喬はこれを撃却する。

初,歆與齊王冏善,冏敗,歆懼,自結於大將軍穎。及張昌作亂,歆表請討之。時長沙王乂已與穎有隙,疑歆與穎連謀,不聽歆出兵,昌眾日盛。從事中郎孫洵謂歆曰:「公為岳牧,受閫外之托,拜表輒行,有何不可!而使奸凶滋蔓,禍釁不測,豈籓翰王室、鎮靜方夏之義乎!」歆將出兵,王綏曰:「昌等小賊,偏裨自足制之,何必違詔命,親矢石也!」昌至樊城,歆乃出拒之。眾潰,為昌所殺。詔以劉弘代歆為鎮南將軍,都督荊州諸軍事。

はじめ司馬歆は、齊王の司馬冏と仲が善い。司馬冏が敗れると、司馬歆は懼れた。みずから大将軍の司馬穎に結ぶ。

このあたりが八王の乱っぽくて、楽しい。

張昌が作乱すると、司馬歆は表して討ってほしい。ときに長沙王の司馬乂は、すでに司馬穎と有隙である。司馬歆が司馬穎とともに連謀したと疑い、司馬乂は、司馬歆が(領内を平定するために)出兵することを聴さず。張昌の衆は、日に盛んである。

ぼくは思う。どうして司馬乂に、司馬歆の動きを禁じる権限があるんだっけ。

從事中郎の孫洵は司馬歆にいう。「あなたは岳牧なり

岳牧とは、古代の「4岳」「12牧」のこと。2681頁。

閫外之托を受け、拜表して輒ち行く。なぜ(司馬乂の言うように)不可なんてことがあるか。奸凶を滋蔓させ、禍釁は不測。どうして王室を籓翰し、方夏を鎮靜する義があるか」と。

孫洵いわく「司馬歆は出兵しろ」と。

司馬歆は出兵しようとする。王綏はいう。「張昌らは小賊だ。偏裨でも制圧できる。なぜ必しも詔命に違い(司馬歆が)矢石に親するか」と。

王綏いわく「司馬歆は出兵するな」と。

張昌は樊城に至る。司馬歆は出て、これを拒ぐ。衆は潰え、司馬歆は張昌に殺された。詔して、劉弘を司馬歆に代えて、鎮南將軍、都督荊州諸軍事とする。

司馬歆が張昌に殺されてしまった!さすが漢の末裔を奉戴するだけのことはある。
ぼくは思う。司馬歆は「実力」により、荊州方面を任されたのでない。つぎの劉弘は、実力による抜擢であろう。仮想的な藩屏よりは、実態に即した官僚の配置へ。このように「現実からのパンチ」を食らって、バランスが修正されていくのだろう。


六月,弘以南蠻長史廬江陶侃為大都護,參軍蒯恆為義軍督護,牙門將皮初為都戰帥,進據襄陽。張昌並軍圍宛,敗趙驤軍,殺羊伊。劉弘退屯梁。昌進攻襄陽,不克。
李雄攻殺汶山太守陳圖,遂取郫城。

6月、劉弘は、南蛮長史する廬江の陶侃を大都護とする。參軍の蒯恆を義軍督護とする。牙門將の皮初を都戰帥とする。進んで襄陽に拠る。

南蛮校尉には、長史と司馬がいる。「義軍」とは、けだし民兵である。督護の官は、けだしこのとき創設された。

張昌は軍をあわせて宛県を囲む。趙驤の軍を敗り、羊伊を殺す。劉弘は退いて梁県(汝南)に屯する。張昌は襄陽に進攻するが克たず。

張昌は西晋を押しているが、完勝には至らず。

李雄は、汶山太守の陳圖を攻め殺して、郫城(蜀郡)を取る。131026

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303年秋冬、司馬乂が恵帝を担ぎ、司馬穎を撃つ

秋、司馬乂が、司馬顒の属官の李含を殺す

秋,七月,李流徒屯郫。蜀民皆保險結塢,或南入寧州,或東下荊州。城邑皆空,野無煙火,流虜掠無所得,士眾饑乏。唯涪陵千餘家,依青城山處士范長生;平西參軍涪陵徐輿說羅尚,求為汶山太守,邀結長生,與共討流。尚不許,輿怒,出降於流,流以輿為安西將軍。輿說長生,使資給流軍糧,長生從之。流軍由是復振。

秋7月、李流は郫に徙って屯する。蜀民は、保險・結塢する。或者は南して寧州に入り、或者は東して荊州に下る。蜀地の城邑は皆空で、野に煙火なし。流虜は掠んでも何も得られず、士衆は饑乏した。ただ涪陵にだけ1千余家あり、青城山の處士・范長生に拠る

『考異』はいう。『華陽国志』では范賢である。

平西參軍する涪陵の徐輿は、羅尚求めた。「私を汶山太守にしろ。范長生を邀して結び、ともに李流を討ちたい」と。羅尚は許さず。徐輿は怒り、出て李流に降る。李流は徐輿を安西將軍とする。徐輿は范長生に説き、李流に軍糧を資給させる。范長生は従う。李流の軍は、これにより復振した。

ぼくは思う。羅尚の融通の利かなさが、すべて裏目にでる。「益州を西晋を離脱させよう」としているとしか思えない。羅憲の呪いだろうかw
呉に益州は獲らせぬ、羅憲伝。


初,李含以長沙王乂微弱,必為齊王冏所殺,因欲以為冏罪而討之,遂廢帝,立大將軍穎,以河間王顒為宰相,己得用事。既而冏為乂所殺,穎、顒猶守籓,不如所謀。穎恃功驕奢,百度弛廢,甚於冏時;猶嫌乂在內,不得逞其欲,欲去之。時皇甫商復為乂參軍,商兄重為秦州刺史。含說顒曰:「商為乂所任,重終不為人用,宜早除之。可表遷重為內職,因其過長安執之。」重知之,露檄上尚書,發隴上兵以討含。乂以兵方少息,遣使詔重罷兵,征含為河南尹。含就征而重不奉詔,顒遣金城太守游楷、隴西太守韓稚等合四郡兵攻之。顒密使含與侍中馮蓀、中書令卞粹謀殺乂;皇甫商以告乂,收含、蓀、粹,殺之。驃騎從事琅邪諸葛玫、前司徒長史武邑牽秀皆出奔鄴。

はじめ李含は、長沙王の司馬乂が微弱なので、必ず司馬冏に殺されると考えた。李含は(司馬乂を回避するために)司馬冏に罪を着せて殺そうとした。

ぼくは思う。西晋の八王には、かならずブレーンがつく。成都王の司馬穎には盧志。趙王の司馬倫には孫秀。長沙王の司馬乂には李含など。八王とそのトレーナー(ポケモン的な意味で)をセットにして、合計16人で物語を回したら、おもしろくなりそう。シンメトリックに定型化した諸王の対立は、『十二国記』みたいになるのかも。読んだことないけど。中古でまとめ買いするか。

ついに恵帝が(司馬倫に)廃され、大將軍の司馬穎がたち、河間王の司馬顒を宰相とする。李含は己が用事できる。すでに司馬冏が司馬乂に殺されたが、司馬穎と司馬顒は、なお守籓する。李含の謀略のようにならない。

ぼくは思う。いかにも八王っぽくて良い!

司馬穎は、恃功・驕奢である。百度・弛廢は、司馬冏より甚しい。司馬穎は、なお司馬乂を在内で嫌い、その欲望を逞しくできない。司馬穎は、司馬乂を去らせたい。
ときに皇甫商は、司馬乂の参軍である。皇甫商の兄・皇甫重は、秦州刺史となる。李含は司馬顒にいう。「皇甫商は司馬乂に任じられる。皇甫重は、ついに人に用いられる者ではない。早く除くべきだ。表して皇甫重を内職に遷させろ。皇甫重の過失をいって、長安で執えろ」と。
皇甫重はこれを知り、露檄して尚書に上する。隴上の兵を発して、李含を討とうとする。

隴地より西の6郡が秦州である。

司馬乂は兵を少息させるので、使者に詔をもたせ、皇甫重に罷兵させる。李含を徵して河南尹とする。李含は徵しに就く(河南にゆく)が、皇甫重は詔を奉らない(罷兵しない)。

『考異』はいう。李含伝では、河間王の司馬顒は、表して李含を河南尹にしたと。いま皇甫重伝に従う。
ぼくは思う。司馬顒がみずから李含を、手許から引きはがすとは考えにくい。という司馬光の思考が推測される。

司馬顒は金城太守の游楷、隴西太守の韓稚らをやり、4郡の兵で皇甫重を攻める。

秦州刺史は冀城に鎮する。

司馬顒はひそかに李含と侍中の馮蓀、中書令の卞粹を送って、司馬乂を謀殺しようとする。皇甫商は司馬乂に「李含、馮蓀、馮粹を捕らえて殺した」と告げる。驃騎從事する琅邪の諸葛玫と、前司徒長史した武邑の牽秀を、鄴県に出奔した。

秋、張昌が滅び、劉弘が荊州を仕切る

張昌黨石冰寇揚州,敗刺史陳徽,諸郡盡沒;又攻破江州,別將陳貞等攻武陵、零陵、豫章、武昌、長沙,皆陷之,臨淮人封雲起兵寇徐州以應冰。於是荊、江、揚、豫、徐五州之境,多為昌所據。昌更置牧守,皆桀盜小人,專以劫掠為務。

張昌の党・石冰は、揚州を寇して、揚州刺史の陳徽を敗った。諸郡はすべて没した。また江州を攻破した。別將の陳貞らは、武陵、零陵、豫章、武昌、長沙をすべて陥落させた。

江州について、2683頁。

臨淮の人・封雲は、起兵して徐州を寇して、石冰に応じた。
ここにおいて、荊・江・揚・豫・徐の5州の境は、おおくが張昌の拠点となった。張昌は更めて牧守を置きなおした。みな桀盜・小人である。専ら劫掠を務めとした。

劉弘遣陶侃等攻昌於竟陵,劉喬遣其將李楊等向江夏。侃等屢與昌戰,大破之,前後斬首數萬級,昌逃於下俊山,其眾悉降。

劉弘は、陶侃らに竟陵(江夏)で張昌を攻めさせる。劉喬は、武将の李楊らを江夏に向かわせる。陶侃らは、しばしば張昌を大破した。数万級を斬った。張昌は下俊山に逃げた。その衆は全て降った。

張昌の最期について、『帝紀』と張昌伝で異なる。2684頁。


初,陶侃少孤貧,為郡督郵。長沙太守萬嗣過廬江,見而異之,命其子結友而去。後察孝廉,至洛陽,豫章國郎中令楊卓薦之於顧榮,侃由是知名。既克張昌,劉弘謂侃曰:「吾昔為羊公參軍,謂吾後當居身處,今觀卿,必繼老夫矣。」

はじめ陶侃は少くして孤貧。郡督郵となる。長沙太守の萬嗣は廬江を過ぎて、陶侃に会って異とした。その子に命じて、陶侃と結友させて去る。のちに陶侃あは孝廉に察され、洛陽に至る。豫章國郎中令の楊卓は、陶侃を顧栄に勧める。陶侃は、これにより名を知られた。

恵帝の弟・司馬熾は、豫章王に封じられた。ぼくは補う。司馬熾は、のちに懐帝となる。

すでに張昌に勝ってから、劉弘は陶侃にいう。「むかし私は羊祜の参軍となった。羊祜は『私の後ろにいろ』と言ってくれた。いま陶侃を見ると、必ずはこの老夫(劉弘)を継いでくれそうだ」と。

ぼくは思う。羊祜-劉弘-陶侃という、主従というか、任務にあたる者の系譜ができた。西晋は短いから、この系譜を経るだけで、曹魏から東晋の荊州方面の司令官が、言い尽くされてしまう。司馬歆って、飾りだったのかw


弘之退屯於梁也,征南將軍范陽王虓遣前長水校尉張奕領荊州。弘至,奕不受代,舉兵拒弘。弘討奕,斬之。時荊部守宰多缺,弘請補選,詔許之,弘敘功銓德,隨才授任,人皆服其公當。弘表皮初補襄陽太守,朝廷以初雖有功而望淺,更以弘婿前東平太守夏侯陟為襄陽太守。弘下教曰:「夫治一國者,宜以一國為心,必若姻親然後可用,則荊州十郡,安得十女婿然後為政哉!」乃表:「陟姻親,舊制不得相監;皮初之勳,宜見酬報。」詔聽之。弘於是勸課農桑,寬刑省賦,公私給足,百姓愛悅。

劉弘は退いて梁県に屯する。征南將軍する范陽王の司馬虓は、前長水校尉の張奕に荊州を領させる。劉弘が至ると、張奕は交代を受けず、兵を挙げて劉弘をこばむ。劉弘は張奕を斬った。

ぼくは思う。張奕、アホかよ。何が原因なんだろう。司馬虓の意思?

ときに荊州の守宰は欠員がおおい。劉弘は補選を請う。詔は許した。劉弘は、敘功・銓德、隨才・授任する。人はみな公當に服した。

ぼくは思う。荊州の長官らは、張昌に潰されたから。

劉弘は表して、皮初を襄陽太守に補した。朝廷は、はじめは有功だが望淺なので、劉弘の婿・前東平太守した夏侯陟を襄陽太守にしろという。劉弘は下教した。「それ1国を治めるには、1国を心とする。(才能ではなく)姻戚を用いるべきならば。荊州には10郡あるから、10人の娘婿がいれば、政治ができちゃうのか」と。

10州の内訳について、2684頁。ただし荊州は、11郡以上ある。欠員があるのが10郡だのだろうか。ぼくは思う。勢いで言っているのだから、概算だろう。

劉弘「夏侯陟は姻親だが、舊制では相監できない。皮初の勲は、酬報されるべきものだ」と。詔して聽した。劉弘は、農桑を勸課した。寬刑・省賦した。公私は給足し、百姓は愛悅した。

ぼくは思う。張昌という雨が降って、「劉弘の国」ができてしまった。西晋が任命した人事(夏侯陟)を、劉弘が覆した。もう荊州は、西晋というよりは劉弘の国なのだ。仮にも王の司馬虓のおいた人材(張奕)すら、劉弘が斬ったし。
この時点から、梁州、益州、寧州は李氏にうばわれ、荊州は劉弘に預けたものとして、西晋を思い描いた方が、実態に即している。蜀漢の「関羽つよい」ときの領域が、ごっそり抜け落ちた。まだ西暦303年なのに。全土を統一して、20年ちょいだ。 揚州は、まだ西晋から離脱しない。というか東晋として移住する地だから、最後まで残るのだ。


8月、司馬乂を、司馬顒と司馬穎が攻める

河間王顒聞李含等死,即起兵討長沙王乂。大將軍穎上表請討張昌,許之;聞昌已平,因欲與顒共攻乂。盧志諫曰:「公前有大功而委權辭寵,時望美矣。今宜頓軍關外,文服入朝,此霸主之事也。」參軍魏郡邵續曰:「人之有兄弟,如左右手。明公欲當天下之敵而先去其一手,可乎!」穎皆不從。

河間王の司馬顒は、李含らが死んだと聞いて、起兵して司馬乂を討つ。大將軍の司馬穎は上表して、「張昌を討ちたい」と請う。許された。張昌がすでに平定されたと聞き(張昌に向ける予定の兵で)司馬顒とともに司馬乂を攻めたい。
盧志は諫めた。「あなたは前に大功あり、委權されたが辭寵した。時望は美とした。いま関外に頓軍して、文服で入朝しろ。これが霸主之事である」と。參軍する魏郡の邵續はいう。「人に兄弟がいれば、左右の手と同じ。明公は天下之敵に当たる前から、先に片方の手を失うことになる。それでも良いのか」と。
司馬穎は、どちらにも従わず。

八月,顒、穎共表:「乂論功不平,與右僕射羊玄之、左將軍皇甫商專擅朝政,殺害忠良,請誅玄之、商,遣乂還國。」詔曰:「顒敢舉大兵,內向京輦,吾當親帥六軍以誅奸逆。其以乂為太尉,都督中外諸軍事以御之。」

8月、司馬顒と司馬穎はともに表した。「司馬乂の論功は不平である。右僕射の羊玄之、左將軍の皇甫商は、朝政を專擅する。忠良(な李含)を殺害した。羊玄之と皇甫商を誅したい。司馬乂を還國させたい」と。
詔した。「司馬顒はあえて大兵を挙げ、京輦に内向する。私(恵帝)は自ら6軍を帥いて、奸逆(司馬顒と司馬穎)を誅そう。司馬乂を太尉として、都督中外諸軍事させ、これを御させる」と。

『考異』はいう。『帝紀』では、大安元年12月、司馬穎が司馬冏を誅した。すぐに司馬乂を太尉として、中外を都督させたと。『晋春秋』はいう。大安2年7月、司馬顒と司馬穎が起兵した。乃ち司馬乂を太尉として、都督して(司馬顒と司馬穎を)討たせたと。
司馬光が按ずるに、司馬冏の死後、司馬穎は朝政に懸執する。司馬乂はまだ都督内外に応じない。司馬顒は見為太尉、司馬乂は更めて太尉になることに応じなかった。『晋春秋』に従う。
ぼくは思う。よく分からん。自分なりに列伝を読んで判定したい。


顒以張方為都督,將精兵七萬,自函谷東趨洛陽。穎引兵屯朝歌,以平原內史陸機為前將軍、前鋒都督、督北中郎將王粹、冠軍將軍牽秀、中護軍石超等軍二十餘萬,南向洛陽。機以羈旅事穎,一旦頓居諸將之右,王粹等心皆不服。白沙督孫惠與機親厚,勸機讓都督於粹。機曰:「彼將謂吾首鼠兩端,適所以速禍也。」遂行。穎列軍自朝歌至河橋,鼓聲聞數百里。

司馬顒は、張方を都督として、精兵7万をつけ、函谷より洛陽に東趨する。司馬穎は引兵し朝歌に屯する。平原内史の陸機を前將軍、前鋒都督とする。督北中郎將の王粹、冠軍將軍の牽秀、中護軍の石超らに、20余万を軍させ、洛陽に南向する。

沈約はいう。楚懐王は宋義を、卿子冠軍とした。冠軍の号は、ここに始まった。曹魏は文欽を冠軍将軍とした。

陸機は羈旅して司馬穎に事える。陸機は一旦に、諸將之右に頓居する。王粹らの心は、みな陸機に服さず。白沙督の孫惠は、陸機と親厚する。陸機に「都督を王粹にゆずれ」と勧めた。陸機「かの將は、私を首鼠で両端するという。すぐに禍いにゆくだろう」と。ついに陸機はゆく。

漢の田蚡のことである。ネズミは疑い深くて、穴を出たら多くは果たさず。ゆえにこの悪口をいった。ぼくは思う。福原先生の本に、ちゃんと意味を解説してあった気がする。

司馬穎は列軍して朝歌より河橋に至る。鼓聲は数百里に聞こえる。

河橋は、富平津の河橋である。


9月、恵帝が洛陽周辺をめぐり、李雄が継ぐ

乙丑,帝如十三里橋。太尉乂使皇甫商將萬餘人拒張方於宜陽。己已,帝還軍宣武場,庚午,捨於石樓。九月,丁丑,屯於河橋。壬子,張方襲皇甫商,敗之。甲申,帝軍於芒山。丁亥,帝幸偃師;辛卯,捨於豆田。大將軍穎進屯河南,阻清水為壘。癸巳,羊玄之憂懼而卒,帝旋軍城東;丙申,幸緱氏,擊牽秀,走之。大赦。張方入京城,大掠,死者萬計。

乙丑、恵帝は十三里橋にゆく。太尉の司馬乂は、皇甫商に1万余人をつけ、張方を宜陽で拒ませる。己已、恵帝は宣武場に還軍する。

場所は2686頁。西にもとの賈充の宅がある。

庚午、石樓に舎す。
9月の丁丑、河橋に屯する。壬子、張方は皇甫商を襲って敗る。甲申、恵帝は芒山に軍する。丁亥、恵帝は偃師県(河南)に幸する。辛卯、豆田に舎する。

ぼくは思う。本紀という史料の性格から、細かく分かるのだろうが。とくに意味はなさそう。

大將軍の司馬穎は、河南に進屯して、清水を阻んで塁とする。癸巳、羊玄之は憂懼して卒した。恵帝は城東に旋軍する。丙申、緱氏に幸する。牽秀を撃ち、走らす。大赦した。張方は京城に入り、大掠する。死者は万をかぞえる。

李流疾篤,謂諸將曰:「驍騎仁明,固足以濟大事;然前軍英武,殆天所相,可共受事於前軍。」流卒,眾推李雄為大都督、大將軍、益州牧、治郫城。雄使武都樸泰紿羅尚,使襲郫城,雲己為內應。尚使隗伯將兵攻郫,泰約舉火為應,李驤伏兵於道,泰出長梯於外。隗伯兵見火起,爭緣梯上,驤縱兵擊,大破之。追奔夜至城下,詐稱萬歲,曰:「已得郫城矣!」入少城,尚乃覺之,退保太城。隗伯創甚,雄生獲之,赦不殺。李驤攻犍為,斷尚運道。獲太守龔恢,殺之。

李流は疾篤である。諸将にいう。「驍騎・仁明なら、固より大事を済うに足る。前軍(前将軍の李雄)の英武は、殆ど天に相された。共に前軍を受事しろ」と。李流が死に、衆は李雄を為大都督、大將軍、益州牧に推した。郫城に治した。
李雄は、武都の樸泰に羅尚を欺かせ、郫城を襲わせた。「羅尚のために内応するから」と。羅尚は隗伯に兵をつけ、郫城を攻めさせた。隗伯はだまされて、生け捕られた。羅尚は退いたが、李驤に運道を断たれた。李驤は、犍為太守の龔恢を殺した。

冬、司馬穎の軍の陸機が敗れ、孟玖がそしる

石超進逼緱氏。冬,十月,壬寅,帝還宮。丁未,敗牽秀於東陽門外。大將軍穎遣將軍馬鹹助陸機。戊申,太尉乂奉帝與機戰於建春門。乂司馬王瑚使數千騎系戟於馬,以突鹹陳,鹹軍亂,執而斬之。機軍大敗,赴七里澗,死者如積,水為之不流。斬其大將賈崇等十六人,石超遁去。

石超は進んで緱氏に逼る。
冬10月の壬寅、恵帝は還宮した。丁未、牽秀を東陽門外で敗る。大將軍の司馬穎は、將軍の馬咸に陸機を助けさせる。戊申、太尉の司馬乂は恵帝を奉じて、陸機と建春門で戦う

陸機伝では、鹿苑で戦う。『水経注』は2687頁。

司馬乂の司馬の王瑚は、数千騎に戟を馬に結ばせ、馬咸の陣に突った。馬咸の軍は乱れ、執え斬られた。陸機の軍は大敗し、七里澗に赴く。死者は積まれ、水は流れず。大將の賈崇ら16人を斬った。石超は遁去した。

初,宦人孟玖有寵於大將軍穎,玖欲用其父為邯鄲令,左長史盧志等皆不敢違,右司馬陸雲固執不許,曰:「此縣,公府掾資,豈有黃門父居之邪!」玖深怨之。玖弟超,領萬人為小督,未戰,縱兵大掠,陸機錄其主者;超將鐵騎百餘人直入機麾下,奪之,顧謂機曰:「貉奴,能作督不!」機司馬吳郡孫拯勸機殺之,機不能用。超宣言於眾曰:「陸機將反。」又還書與玖,言機持兩端,故軍不速決。及戰,超不受機節度,輕兵獨進,敗沒。

はじめ宦官の孟玖は、司馬穎に寵あり。孟玖は父を邯鄲令にしてもらいたい。左長史の盧志らは、みな敢えて反対しない。右司馬の陸雲が固執して許さず。陸雲「この県は公府の掾資だ。なぜ黄門の父を長官とするか」と。孟玖は深く怨んだ。

簡単は、漢代は趙国。魏晋は広平郡に属する。隋唐は磁州。

孟玖の弟・孟超は、萬人を小督とするが、戦わずに縱兵・大掠する。陸機はその主を記録する。孟超は鉄騎1百人を陸機の麾下に直入し、陸機から兵を奪った。孟超は顧みて陸機にいう。「貉奴め。ろくに督も作せないか」と。

孟超は陸機の部下となり、みずから陸機の軍律を乱しておきながら、「陸機は軍律を維持できない」というのだ。

陸機の司馬する吳郡の孫拯は、陸機に「孟超を殺せ」と勧めた。陸機は殺せない。

胡三省はいう。陸機が孟超を殺さないのは、穣ショが荘賈を戮したとの同じ。陸機は孟超を殺さなかったので、司馬穎に殺される。

孟超は衆に宣言した。「陸機が反きそう」と。文書を孟玖に還して、「陸機は両端を持する。ゆえに陸機の軍は速決しない」という。司馬乂との戦いに及び、孟超は陸機の節度を受けず、兵を軽んじて獨進・敗沒した。

玖疑機殺之,譖之於穎曰:「機有二心於長沙。」牽秀素謅事玖,將軍王闡、郝昌、帳下督陽平公師籓皆玖所引用,相與共證之。穎大怒,使秀將兵收機。參軍事王彰諫曰:「今日之舉,強弱異勢。庸人猶知必克,況機之明達乎!但機吳人,殿下用之太過,北土舊將皆疾之耳。」穎不從。機聞秀至,釋戎服,著白帢,與秀相見,為箋辭穎,既而歎曰:「華亭鶴唳,可復聞呼!」秀遂殺之。穎又收機弟清河內史雲、平東祭酒耽及孫拯,皆下獄。

孟玖は、陸機が孟超を殺したと疑い、司馬穎にそしった。「陸機は二心あり、司馬乂に心をよせる」と。牽秀はもとより孟玖に謅事する。將軍の王闡、郝昌、帳下督する陽平の公師籓らは、みな孟玖に引いて用いられた。相互に「陸機が孟超を殺した」と証言しあった。

諸王侯が領兵し方面を任うとき、みな帳下督をおく。帳下の兵を統べる。

司馬穎は大怒して、牽秀に兵をつけ、陸機を收めさせた。參軍事の王彰が諫めた。王彰「今日之挙は、強弱は勢を異にする。庸人でも必勝を知る。まして陸機の明達なら(勝敗を知る)。陸機は呉人なのに、殿下は陸機を過剰に用いた。北土の旧将はみな嫉妬しているだけ(陸機を殺すな)」と。司馬穎は従わず。
陸機は牽秀が至ると聞き、戎服を釋き、白帢を著し、牽秀と相見する。箋をつくり司馬穎に辞した。陸機は歎じた。「華亭(呉郡)の鶴唳は、復た聞けるか」と。

服装と鶴について、2688頁。

牽秀はついに陸機を殺した。司馬穎は、陸機の弟・清河内史の陸雲、平東祭酒の陸耽、孫拯をとらえて、みな下獄した。

『晋書』陸雲伝で、陸雲は清河内史から、大将軍右司馬に転じている。


記室江統、陳留蔡克、穎川棗嵩等上疏,以為:「陸機淺謀致敗,殺之可也。至於反逆,則眾共知其不然。宜先檢校機反狀,若有征驗,誅雲等未晚也。」統等懇請不已,穎遲回者三日。蔡克入,至穎前,叩頭流血,曰:「雲為孟玖所犯,遠近莫不聞。今果見殺,竊為明公惜之!」僚屬隨克入者數十人,流涕固請,穎惻然,有宥雲之色。孟玖扶穎入,催令殺雲、耽,夷機三族。

記室の江統、陳留の蔡克、穎川び棗嵩らは上疏した。「陸機は淺謀で致敗したから、殺して良い。だが反逆については、陸機の衆はそれを知らない。陸機に反逆の計画があったか調べてから、陸雲らを誅しても遅くない」と。
江統らが懇請してやまず。司馬穎が遅回すること3日。蔡克が入り、司馬穎の前に至り、叩頭・流血していう。「陸雲は孟玖に犯された。遠近で聞かぬ者はない。いま陸雲を殺すのは、ひそかに司馬穎のために惜しむ」と。蔡克に随って入る僚属は、数十人。流涕・固請する。司馬穎は惻然として、陸雲を宥す色があらわれた。孟玖は司馬穎を扶けて入り、陸雲と陸耽を殺し、陸機を夷三族にしろと催令した。

獄吏考掠孫拯數百,兩踝骨見,終言機冤。吏知拯義烈,謂拯曰:「二陸之枉,誰不知之,君可不愛身乎!」拯仰天歎曰:「陸君兄弟,世之奇士,吾蒙知愛,今既不能救其死,忍復從而誣之乎!」玖等知拯不可屈,乃令獄吏詐為拯辭。穎既殺機,意常悔之,及見拯辭,大喜,謂玖等曰:「非卿之忠,不能窮此奸。」遂夷拯三族。拯門人費慈、宰意二人詣獄明拯冤,拯譬遣之曰:「吾義不負二陸,死自吾分;卿何為爾邪!」曰:「君既不負二陸,僕又安可負君!」固言拯冤,玖又殺之。

獄吏は孫拯を考掠すること数百。両踝は骨が見えた。最後まで陸機の冤罪をいった。吏は孫拯を義烈を知る。獄吏「二陸之枉は、これを誰が知らないか。きみはなぜ自分の見を愛さないか」と。孫拯は仰天して歎じた。「陸君の兄弟は、世之奇士である。私は知愛に蒙く、陸機の死を救えなかった。もう忍んで誣に従うものか」と。
孟玖らは、孫拯が屈さないことを知り、獄吏に孫拯の証言を偽作させた。司馬穎はすでに陸機を殺し、意はつねに悔くいた。だが孫拯の証言を見て、大喜して孟玖にいう。「孟玖の忠がなければ、この奸者(孫拯)を窮められなかった」と。ついに孫拯を夷三族とした。

ぼくは思う。詐りが二転三転しているのに、細かな心情の推移までフォローされている。不自然である。「陸機の悲劇」という演目が、練り上げられているように見える。司馬穎は「陸機を殺してしまった。陸機に反逆があったことが事後的にでも確認できれば、良心の呵責を免れられるのに」と悩んでいたことになる。綺麗はお話だ。

孫拯の門人である費慈と宰意の2人は、獄に詣でて、孫拯の冤罪を明らかにした。孫拯は喩えていう。「わが義は二陸を負わず。死は私の(罪の)分だけだ。きみらは何を訴えにきたのだ」と。費慈と宰意「孫拯が二陸を負わないなら、私もまた孫拯の罪をかぶることがあろうか」と。2人は孫拯の冤罪を固く言った。孟玖は2人も殺した。

ぼくは思う。費慈と宰意は「私たちは自分の責任において、自分の罪として(孫拯と関わりなく)孫拯の無罪を訴えるのだ。これは、孫拯が(自分の責任だけにおいて)陸機を弁明する態度と同じですよ」と言っている。


11月、

太尉乂奉帝攻張方,方兵望見乘輿,皆退走,方遂大敗,死才五千餘人。方退屯十三里橋,眾懼,欲夜遁,方曰:「勝負兵家之常,善用兵者能因敗為成。今我更前作壘,出其不意,此奇策也。」乃夜潛進,逼洛城七里,築壘數重,外引廩谷以足軍食。乂既戰勝,以為方不足憂。聞方壘成,十一月,引兵攻之,不利。

太尉の司馬乂は、恵帝を奉じて張方を攻める。張方の兵は、乗輿を望見して、みな退走する。張方はついに大敗した。死は5千余人ばかり。

ぼくは思う。恵帝は「使い道」がある。司馬乂にはビビらなくても、恵帝にはビビる。八王の乱を考えるとき、彼らのメンタリティを理解する手がかりとなりそう。

張方は十三里橋に退屯する。衆は懼れ、夜に遁げたい。張方「勝負は兵家之常である。用兵を善くする者は、能く敗に因り成をなす。いま私は更めて前進し、塁をつくる。不意に出るのが、奇策である」と。

ぼくは思う。夜になれば恵帝は寝ているのだ。

張方は、夜に潛かに進む。洛城の7里に逼る。築塁すること数重。外は廩谷を引き、軍食を足る。司馬乂はすでに戦勝して、張方をは憂に足りぬと考える。張方が塁を成したと聞き、11月に攻めるが、利なし。

朝議以乂、穎兄弟,可辭說而釋,乃使中書令王衍等往說穎,令與乂分陝而居,穎不從。乂因致書於穎,為陳利害,欲與之和解,穎復書:「請斬皇甫商等首,則引兵還鄴。」乂不可。穎進兵逼京師,張方決千金堨,水碓皆涸。乃發王公奴婢手舂給兵,一品已下不從征者,男子十三以上皆從役,又發奴助兵;公私窮踧,米石萬錢。詔命所行,一城而已。驃騎主簿范陽祖逖言於乂曰:「劉沈忠義果毅,雍州兵力足制河間,宜啟上為詔與沈,使發兵襲顒。顒窘急,必召張方以自救,此良策也。」乂從之。沈奉詔馳檄四境,諸郡多起兵應之。沈合七郡之眾凡萬餘人,趣長安。

朝議は、司馬乂と司馬穎は兄弟だから、辭說して釋せると考えた。中書令の王衍らがゆき、司馬穎を説得した。「司馬乂と、陝で分けて居せよ」と。司馬穎は従わず。

胡三省はいう。周公と召公は、陝で分けて二伯となった。陜県は弘農にあるが、いまは地理ではなく、故事を踏まえろという比喩で言っている。

司馬穎に文書を致し、利害をのべて和解しろという。司馬穎は復書した。「皇甫商らの首を斬れ。さすれば鄴県に還る」と。司馬乂は許さず。
司馬穎は兵を進め、京師に逼る。張方は千金堨を決壊させ、水碓は涸れた。

『水経注』は2690頁。

張方は、王公・奴婢の手舂を発して、兵に給する。1品以下しか供出できない者は、男子なら13歳以上なら兵にとられた。公私は窮踧して、米は1石で1萬銭に高騰した。詔命の行われる範囲は、1城のみ。

胡三省はいう。京師の危蹙はこのとおり。司馬乂が戦勝しても、長らく政権を得ることは難しい。
ぼくは思う。1城とは、漢魏洛陽城そのものか。

驃騎主簿する范陽の祖逖はいう。

司馬乂は驃騎将軍である。

祖逖「劉沈は忠義・果毅である。雍州の兵力は、河間を制するに足る。恵帝に啓して、劉沈に詔を与えろ。劉沈に兵を発させ、司馬顒を襲わせろ。司馬顒は窘急となり、必ず張方を召して自らを救わせる(洛陽から張方は剥がされる)」と。司馬乂は従った。
劉沈は奉詔して、四境に馳檄する。諸郡は多く起兵して応じた。劉沈は、7郡之衆をあわせ、1万余人となる。長安に趣く。

雍州は7郡を統べる。安帝に治する。新平に治するとも。


乂又使皇甫商間行,繼帝手詔,命游楷等罷兵,敕皇甫重進軍討顒。商間行至新平,遇其從甥,從甥素憎商,以告顒捕商,殺之。

司馬乂は、皇甫商に間行させ、帝の手詔を継ぎ、游楷らに命じて罷兵させる。皇甫重に敕し、進軍して司馬顒を討たせる。皇甫商は間行して新平に至り、從甥に会う。從甥は皇甫商を憎む。司馬顒に「皇甫商を捕らえた」と告げて、皇甫商を殺した。

12月、呉臣の子孫が石冰を寿春に押す

十二月,議郎周□、前南平內史長沙王矩起兵江東以討石冰,推前吳興太守吳郡顧秘都督揚州九郡諸軍事,傳檄州郡,殺冰所署將吏。於是前侍御史賀循起兵於會稽,廬江內史廣陵華譚及丹揚葛洪、甘卓皆起兵以應秘。□,處之子;御,邵之子;卓,寧之曾孫也。

12月、議郎の周玘と、前に南平内史した長沙の王矩は、江東で起兵して石冰を討つ。

孫呉は南郡を長江の南に置いた。平呉して、西晋は南平と改めた。長江の北を別けて、南郡とした。

前の吳興太守した吳郡の顧秘は、揚州9郡諸軍事を都督する。州郡に傳檄する。

揚州は18郡あったが、江州を分けて11郡となった。内訳は2691頁。淮南と廬江は長江の北なので、顧秘に権限を与えない。

石冰が署した將吏を殺した。ここにおいて、前侍御史の賀循が会稽で起兵した。廬江内史する廣陵の華譚、丹揚の葛洪と甘卓は、みな起兵して顧秘に応じた。周玘は周処の子である。賀循は賀邵の子である。甘卓は甘寧の曾孫である。

周処は元康6年、7年にある。賀邵は孫晧につかえ、孫晧に殺された。甘寧はあいつ。3家は呉地の強宗である。
ぼくは思う。流れ者の甘寧は、しっかり定着したみたい。


冰遣其將羌毒帥兵數萬拒□,□擊斬之。冰自臨淮退趨壽春。征東將軍劉准聞冰至,惶懼不知所為。廣陵度支廬江陳敏統眾在壽春,謂准曰:「此等本不樂遠戍,逼迫成賊,烏合之眾,其勢易離,敏請督帥運兵為公破之。」准乃益敏兵,使擊之。

石冰は、周玘を拒むが敗れた。石冰は臨淮から寿春に退趨した。征東將軍の劉准は、石冰が至ると聞き、惶懼した。廣陵度支する廬江の陳敏が、統衆して寿春にいる。

陳敏は、尚書令史から出て、合肥度支となった。南方の米穀を中原に水路から送った。広陵度支に遷った。

陳敏は劉準にいう。「石冰の衆は、もとは遠戍を楽しまず、逼迫して賊になった。烏合之衆である。その勢は離れやすい。私に運兵を督帥させろ。劉準のために、石冰を破ってあげる」と。劉準は陳敏の兵を増やし、石冰を撃たせた。

閏月、王浚が鮮卑とむすぶ

閏月,李雄急攻羅尚。尚軍無食,留牙門張羅守城。夜,由牛鞞水東走,羅開門降。雄入成都,軍士饑甚,乃帥眾就谷於郪,掘野芋而食之。許雄坐討賊不進,征即罪。

閏月、李雄は羅尚を急攻した。羅尚の軍は、食糧がない。牙門の張羅に守城させる。夜に、牛鞞水より東に走げる。張羅は開門して降る。李雄は成都に入る。軍士は饑が甚しい。帥衆は郪県(広漢)で穀物にありつく。

地名について、2691頁。

野芋を掘って食す。梁州刺史の許雄は討賊するが進まなかったので、徵されて罪とされた。

安北將軍、都督幽州諸軍事王濬,以天下方亂,欲結援夷狄,乃以一女妻鮮卑段務勿塵,一女妻素怒延,又表以遼西郡封務勿塵為遼西公。濬,沈之子也。

安北將軍、都督幽州諸軍事の王浚は、天下が乱れそうなので、夷狄と結援したい。1人の娘を鮮卑の段務勿塵の妻とする。もう1人の娘を、素怒延の妻とする。

宇文国には、別帥がいて、素怒延という。

また王浚は表して、遼西郡を以て、務勿塵を遼西公に封ぜよと。王浚とは、王沈の子である。

王浚のために段氏をもちいて、成都王の司馬穎と石勒を攻める張本である。
ぼくは思う。王沈の子!ここにも三国時代が活きてる。
胡三省はいう。王沈は曹髦を殺した。


毛詵之死也,李睿奔五苓夷帥於陵丞,於陵丞詣李毅為睿請命,毅許之。睿至,毅殺之。於陵丞怒,帥諸夷反攻毅。

毛詵が(大安元年に)死ぬとき、李睿は五苓夷(寧州の部落)の帥・于陵丞に奔る。于陵丞は、李毅を詣でて、李睿のために請命した。李毅は許した。李睿が至ると、李毅は李睿を殺した。于陵丞は怒って、諸夷を帥いて反き、李毅を攻めた。

寧州でも、ごちゃごちゃやってる。まあ「諸葛亮が南征した地域」なんて、初めから「あってなきがごとし」なので、重要度は低かろうけど。中央との関係性のメンテナンスだけすべき地域で、直接っぽい統治とは苦労の種類が違いそう。


尚書令樂廣女為成都王妃,或譖諸太尉乂;乂以問廣,廣神色不動,徐曰:「廣豈以五男易一女哉!」乂猶疑之。

尚書令の楽広の娘は、成都王の妃である。或者が諸太尉の司馬乂にそしる。司馬乂は楽広の問う。楽広の神色は動じず、徐ろにいう。「わたくし楽広は、どうして5男を1女と交換するか」と。司馬乂は、なお楽広を疑った。131026

司馬穎についた楽広の5男は、誅されたから、これをいう。

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304年春夏、司馬穎が司馬乂を討ち、皇太弟に

春、司馬穎が司馬乂を殺す

孝惠皇帝中之下永興元年(甲子,公元三零四年) 春,正月,丙午,樂廣以憂卒。

春正月の丙午、楽広が憂卒した。

長沙厲王乂屢與大將軍穎戰,破之,前後斬獲六、七萬人。而乂未嘗虧奉上之禮;城中糧食日窘,而士卒無離心。張方以為洛陽未可克,欲還長安。而東海王越慮事不濟,癸亥,潛與殿中諸將夜收乂送別省。甲子,越啟帝,下詔免乂官,置金墉城。大赦,改元。城既開,殿中將士見外兵不盛,悔之,更謀劫出乂以拒穎。越懼,欲殺乂以絕眾心。黃門侍郎潘滔曰:「不可,將自有靜之者。」乃遣密告張方。丙寅,方取乂於金墉城,至營,炙而殺之,方軍士亦為之流涕。

長沙厲王の司馬乂は、しばしば大將軍の司馬穎を破った。前後で6-7万人を斬る。

胡三省はいう。司馬乂は死にざまを得ず、司馬穎と司馬顒は「厲」という悪諡をつけた。

司馬乂はかつて、奉上之禮を虧いたことがない。城中の糧食は日に窘いが、士卒は離心しない。

ぼくは思う。恵帝を担ぐから有利な司馬乂。司馬乂は礼節がわかってる。これはキャラを把握する上で、キーになる記述。

張方は、洛陽にまだ克てないので、長安に還りたい。だが東海王の司馬越は、慮事して済さず。癸亥、ひそかに殿中諸將とともに、夜に司馬乂を收めて別省に送った。

司馬越伝はいう。殿中の諸将および三部司馬は、防戦につかれた。ひそかに左衛将軍の朱黙ととおmに、夜に司馬乂をとらえた。司馬越を主にしろと逼った。
ぼくは思う。司馬越の臣下が暴走しただけに見える。

甲子、司馬越は恵帝に啓した。下詔して司馬乂の官職を免じ、金墉城に置く。大赦して(永安と)改元する。(洛陽の)城が開かれると、殿中の將士は、外兵が盛んでないので(司馬乂を捕らえたことを)悔いた。更めて司馬乂を劫出して、司馬穎を拒もうと謀った。司馬越は懼れ、司馬乂を殺して衆心を絶ちたい。黃門侍郎の潘滔はいう。「司馬乂を殺すな。せっかく沈静しそうなのに」と。ひそかに張方に告げた。丙寅、張方は司馬乂を金墉城で取り、営に至り、炙って殺した。張方の軍士もまた、司馬乂のために流涕した。

『考異』はいう。司馬乂が死んだ日付について、史料で異なるが司馬乂伝に従う。ながい胡注は2693頁。


公卿皆詣鄴謝罪;大將軍穎入京師,復還鎮於鄴。詔以穎為丞相,加東海王越守尚書令。穎遣奮武將軍石超等帥兵五萬屯十二城門,殿中宿所忌者,穎皆殺之;悉代去宿衛兵。表盧志為中書監,留鄴,參署丞相府事。

公卿はみな鄴県を詣でて謝罪する。大將軍の司馬穎は京師に入る。復た鄴県に還鎮する。詔して司馬穎を丞相とし、東海王の司馬越に守尚書令を加える。司馬穎は、奮武將軍の石超らに5万で12城門に屯させた。殿中に宿兵で、司馬穎・石超が忌む者は、司馬穎がみな殺した。すべて宿衛の兵を代えて去らせた。表して、盧志を中書監として、鄴県に留め、丞相府事に參署させた。

洛陽に12門については、2693頁。 ぼくは思う。盧志に鄴県をあずけて、司馬穎が洛陽に出てきてしまった。もはや司馬穎は「いかに滅ぶか」というゲームをやるだけだ。


河間王顒頓軍於鄭,為東軍聲援,聞劉沈兵起,還鎮渭城,遣督護虞遵夔逆戰於好畦。夔兵敗,顒懼,退入長安,急召張方。方掠洛中官私奴婢萬餘人而西。軍中乏食,殺人雜牛馬肉食之。

河間王の司馬顒は、鄭県(京兆)に頓軍する。東軍のために聲援する。劉沈の兵起を聞き、渭城(秦代の咸陽)に還鎮する。督護の虞夔に、好畦(扶風)で逆戰させる。虞夔の兵が敗れた。司馬顒は懼れ、長安に退入する。急いで張方を召す。張方は、洛中の官私奴婢1万余人を掠して、西する。軍中は乏食し、人雜牛馬を殺して、肉を食べる。

司馬乂による後方の撹乱が成功したんだっけ。


劉沈渡渭而軍,與顒戰,顒屢敗。沈使安定太守衙博、功曹皇甫澹以精甲五千襲長安,入其門,力戰至顒帳下。沈兵來遲,馮翊太守張輔見其無繼,引兵橫擊之,殺博及澹,沈兵遂敗,收餘卒而退。張方遣其將敦偉夜擊之,沈軍驚潰,沈與麾下南走,追獲之。沈謂顒曰:「知己之惠輕,君臣之義重,沈不可以違天子之詔,量強弱以苟全。投袂之日,期之必死,菹醯之戮,其甘如薺。」顒怒,鞭之而後腰斬。新平太守江夏張光數為沈畫計,顒執而詰之,光曰:「劉雍州不用鄙計,故令王得有今日!」顒壯之。引與歡宴,表為右衛司馬。

劉沈は渭水を渡って軍する。司馬顒と戦う。司馬顒は、しばしば敗れる。劉沈は、安定太守の衙博、功曹の皇甫澹に、精甲5千で長安を襲わせる。長安の城門に入り、力戰して司馬顒の帳下に至る。劉沈の兵は来るのが遅い。馮翊太守の張輔は、後継がないのを見て、引兵・横撃した。衙博と皇甫澹を殺し、劉沈の兵はついに敗れた。余卒を收めて退いた。
張方は、将の敦偉に夜擊させる。劉沈の軍は驚潰して、麾下とともに南走した。追って獲えた。

ぼくは思う。劉沈はいいキャラ。劉沈字道眞,燕國薊人也。世爲北州名族。少仕州郡,博學好古。『晋書』列傳59 忠義に載ってる。
スイートな屍肉の劉沈

劉沈は司馬顒にいう。「己の恵が軽いと知り、君臣の義は重いとしる。私は天子の詔に違えられない。強弱を量り、苟全する。投袂の日は、これを期して必死である。菹醯之戮は、甘さは薺のごとし」と。

司馬顒は劉沈と留めて軍師とした。ついに雍州刺史となった。これが劉沈の「恵は軽い」である。
「投袂の日」というのは、『左氏伝』で宋王が楚の使者を殺したと聞いて、楚子が「投袂」して起った、という故事にもとづく。「薺」の甘さは『詩経』にある。2694頁。

司馬顒は怒って、鞭うち腰斬した。新平太守する江夏の張光は、しばしば劉沈のために畫計した。司馬顒は張光を執えて詰った。張光はいう。「劉雍州(劉沈)は、私の計を用いない。ゆえに司馬顒は今日(の勝利)を得たのだ」と。司馬顒は張光を壯とした。ともに歡宴し、表して張光を右衛司馬とした。

荊州の劉弘が、益州の羅尚を支援する

羅尚逃至江陽,遣使表狀,詔尚權統巴東、巴郡、涪陵以供軍賦。尚遣別駕李興詣鎮南將軍劉弘求糧,弘綱紀以運道阻遠,且荊州自空乏,欲以零陵米五千斛與尚。弘曰:「天下一家,彼此無異,吾今給之,則無西顧之憂矣。」遂以三萬斛結之,尚賴以自存。李興願留為弘參軍,弘奪其手版而遣之。又遣治中何松領兵屯巴東為尚後繼。於時流民有荊州者十餘萬戶,羈旅貧乏,多為盜賊,弘大給其田及種糧,擢其賢才,隨資敘用,流民遂安。

羅尚は逃げて江陽に至る。使者に表狀させた。詔して、羅尚の権限は、巴東・巴郡・涪陵を統べて、軍賦を供せる。

この3郡は、もとは梁州に属したが、羅尚にまかす。

羅尚は、別駕の李興を鎮南將軍の劉弘に詣でさせ、求糧した。劉弘は、運道は阻遠であり、荊州は自ら空乏するので、零陵の米5千石だけを羅尚にあたえた。劉弘「天下は一家であり、益州と荊州に差異はない。いま私が益州に米を給すれば、西顧之憂がなくなる」と。

羅尚が巴郡や涪陵にいれば、荊州の防壁になると。 ついに3万石を益州におくり、同盟した。羅尚は荊州を頼って、自存した。
李興は劉弘の参軍として留まりたい。劉弘は、李興の手版(古笏)を奪って、羅尚のもとに還らせた。

参佐は府公を施敬するから、手版をもつ。いま劉弘は、李興の手版をうばい、彼が羅尚のもとを去るのを許さなかった。

また、治中の何松をつかわし、領兵して巴東に屯させ、羅尚の後継とする。ときに流民で荊州にきた者は10余万戸。羈旅は貧乏で、おおくが盜賊となる。劉弘は、大いに田および種糧をたまう。賢才を擢し、資質に隨って敘用した。流民は遂に安じた。

2月、揚州の石冰、徐州の封雲を平定する

二月,乙酉,丞相穎表廢皇后羊氏,幽於金墉城,廢皇太子覃為清河王。

2月の乙酉、丞相の司馬穎は表して、皇后の羊氏を廃して、金墉城に幽した。皇太子の司馬覃を廃して、清河王とする。

陳敏與石冰戰數十合,冰眾十倍於敏,敏擊之,所向皆捷,遂與周□合攻冰於建康。三月,冰北走,投封雲,雲司馬張統斬冰及雲以降,揚、徐二州平。周□、賀循皆散眾還家,不言功賞。朝廷以陳敏為廣陵相。

陳敏は、石冰と戦うこと數十合。石冰の衆は陳敏に10倍する。陳敏は石冰を撃ち、向えば全て捷った。ついに周玘とともに石冰を建康に攻める。
3月、石冰は北走して、封雲(徐州の賊で石冰に応じた者)に投じる。封雲の司馬の張統は、石冰と封雲を斬って晋家に降る。揚州と徐州の2州は平らいだ。周玘と賀循は、散衆・還家して、功賞を言わず。朝廷は陳敏を廣陵相とした。

司馬穎が皇太弟となり、失望される

河間王顒表請立丞相穎為太弟。戊申,詔以穎為皇太弟,都督中外諸軍事,丞相如故。大赦。乘輿服御皆遷於鄴,制度一如魏武帝故事。以顒為大宰、大都督、雍州牧;前太傅劉實為太尉。實以老,固讓不拜。太弟穎僭侈日甚,劈幸用事,大失眾望。司空東海王越,與右衛將軍陳□□,及長沙王故將上官已等謀討之。

河間王の司馬顒は表して、丞相の司馬穎を太弟に立てたい。3月の戊申、詔して司馬穎を皇太弟とし、都督中外諸軍事させる。丞相はもとのまま。大赦した。乘輿・服御して、鄴県に還る。制度は、魏武帝の故事と同じ。

胡三省はいう。天子は洛陽にいるが、太弟は鄴県にいる。すでに非である。乗輿・服御を整えたのに、鄴県にもどるなんて、何しとんねん。
ぼくは思う。洛陽は戦場になって、使いにくい。また盧志さんは「洛陽にいくな」という。鄴県にいれば、曹操のマネもできる。良いことしかない!

司馬顒を大宰として、大都督・雍州牧とする。前の太傅した劉実を太尉とした。劉実は老なので、固讓・不拜。太弟の司馬穎は、僭侈が日に甚し。用事を劈幸し(帝室を匡輔しないので)衆望を大失する。司空する東海王の司馬越は、右衛將軍の陳シンと、長沙王の故將である上官巳らとともに、司馬穎を討とうと謀る。131029

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304年秋、恵帝が蕩陰で敗れ、劉淵が司馬穎を支援

秋、蕩陰の戦いで、嵇紹が恵帝をかばって死ぬ

秋,七月,丙申朔,陳□□勒兵入雲龍門,以詔召三公百僚及殿中,戒嚴討穎,石超奔鄴。戊戌,大赦,復皇后羊氏及太子覃。己亥,越奉帝北征。以越為大都督。征前侍中嵇紹詣行在。侍中秦准謂紹曰:「今往,安危難測,卿有佳馬乎?」紹正色曰:「臣子扈衛乘輿,死生以之,佳馬何為!」
越檄召四方兵,赴者雲集,比至安陽,眾十餘萬,鄴中震恐。穎會群僚問計,東安王繇曰:「天子親征,宜釋甲縞素出迎請罪。」穎不從,遣石超帥眾五萬拒戰。折衝將軍喬智明勸穎奉迎乘輿,穎怒曰:「卿名曉事,投身事孤;今主上為群小所逼,卿奈何欲使孤束手就刑邪!」

秋7月の丙申ついたち、陳シンは勒兵して雲龍門に入る。詔をもって三公の百僚および殿中を召す。戒嚴して司馬穎を討つ。

殿中とは、三部諸将である。

石超は鄴県に奔る。戊戌、大赦した。皇后の羊氏と太子の司馬覃を復する。己亥、司馬越は恵帝を奉じて、北征する。司馬越を大都督とする。前の侍中の嵇紹を徵して、行在に詣でさせる。

司馬乂が国に当たるとき、嵇紹は侍中となった。司馬乂が死んで、嵇紹は庶人におとされた。いま司馬穎を討伐するので、嵇紹はもどってきた。

侍中の秦准は嵇紹にいう。「いま往けば、安危は測りがたい。あなたに佳き馬はあるか」と。嵇紹は正色していう。「臣子が乘輿に扈衛するなら、死生はこれを以てす。佳き馬なんてどうするのか(逃げる手段なんて要らない)」と。

ぼくは思う。嵇紹が恵帝を守って死亡する。フラグである。

司馬越は、檄して四方の兵を召す。赴れる者は雲集する。安陽(魏軍)に至るころ、10余万である。鄴中は震恐した。司馬穎は、群僚に會して問計した。東安王の司馬繇はいう。「天子が親征する。釋甲・縞素して、出迎・請罪しろ」と。

司馬繇さんは、司馬穎の「群僚」に紛れてるのか。

司馬穎は従わず。石超に5万をつけ、拒戰させる。折衝將軍の喬智明は、司馬穎に「乘輿を奉迎せよ」と勧めた。司馬穎は怒った。「あなたは事に曉るいと名のって、身を投じて私に事えた(当初の宣伝文句と違うじゃないか)。いま恵帝は群小に逼られた。あなたはなぜ、私の手を束ねて、私を刑に就けるのか」と。

陳□□二弟匡、規自鄴赴行在,雲鄴中皆已離散,由是不甚設備。己未,石超軍奄至,乘輿敗績於蕩陰,帝傷頰,中三矢,百官侍御皆散。嵇紹朝服,下馬登輦,以身衛帝,兵人引紹於轅中斫之。帝曰:「忠臣也,勿殺!」對曰:「奉太弟令,惟不犯陛下一人耳!」遂殺紹。血濺帝衣。帝墮於草中,亡六璽。石超奉帝幸其營,帝餒甚,超進水,左右奉秋桃。穎遣盧志迎帝;庚申,入鄴。大赦,改元曰建武。左右欲浣帝衣。帝曰:「嵇侍中血,勿浣也!」

陳シンの2弟は、陳匡と陳規である。鄴県から行在に赴く。「鄴中は、みなすでに離散した」という。これにより司馬越は、あまり設備しない。11月己未、石超の軍が奄至する。乘輿は蕩陰で敗績した。

蕩陰は、漢代は河内、晋代は魏郡に属する。地名につき2696頁。

恵帝は傷頰され、3矢があたる。百官・侍御は、みな散じた。嵇紹は朝服で、下馬・登輦した。身を以て恵帝を衛る。兵人は嵇紹を轅中に引き、斫った。恵帝「忠臣だ。殺すな」と。兵人「太弟(司馬穎)の令を奉じる。ただ陛下1のみを犯すなと命じられている」と。ついに嵇紹を殺した。
嵇紹の血は、帝衣に濺した。恵帝は草中に墮ち、六璽を亡った。石超は恵帝を奉って営に幸かす。恵帝は餒が甚し。石超は水を進める。左右は秋桃を奉る。

モモは夏に熟して、皇帝に進御される。秋はモモの季節ではない。モモを奉ったのは、恵帝を恤れまないから。

司馬穎は、盧志に恵帝を迎えさせる。
11月の庚申、鄴県に入る。大赦して、建武と改元した。

左右は帝衣を浣いたい。恵帝「嵇侍中の血である。浣うな」と。

胡三省はいう。恵帝を愚かというのは誰だ。


陳□□、上官巳等奉太子覃守洛陽。司空越奔下邳,徐州都督東平王楙不納,越徑還東海。太弟穎以越兄北弟宗室之望,下令招之,越不應命。前奮威將軍孫惠上書勸越邀結籓方,同獎王室。越以惠為記室參軍,與參謀議。北軍中候苟晞奔范陽王虓,虓承製以晞行兗州刺史。

陳シン、上官巳らは、太子の司馬覃を奉じて、洛陽を守る。司空の司馬越は下邳に奔る。徐州都督する東平王の司馬楙は納れず。司馬越は東海に徑還する。太弟の司馬穎は、司馬越が、兄弟・宗室之望なので、下令して招く。司馬越は應命せず。

司馬越、司馬騰、司馬略、司馬模は、みな宗室のなかで称された。

前の奮威將軍した孫惠が上書して、司馬越に「籓方と邀結して、王室を同獎せよ」と勧めた。司馬越は、孫恵を記室參軍として、ともに謀議を参じた。北軍中候の苟晞は、范陽王の司馬虓に奔る。司馬虓は承制して、荀晞を行兗州刺史とした。

司馬虓はときに許昌に鎮する。


王浚が司馬穎から幽州を切り取る

初,三王之起兵討趙王倫也,王浚擁眾挾兩端,禁所部士民不得赴三王召募。太弟穎欲討之而未能,濬心亦欲圖穎。穎以右司馬和演為幽州刺史,密使殺浚。演與烏桓單于審登謀與浚游薊城南清泉,因而圖之。會天暴雨,兵器沾濕,不果而還。審登以為浚得天助,乃以演謀告浚。浚與審登密嚴兵,約并州刺史東贏公騰共圍演,殺之,自領幽州營兵。騰,越之弟也。太弟穎稱詔征浚,浚與鮮卑段務勿塵、烏桓羯硃及東嬴公騰同起兵討穎,穎遣北中郎將王斌及石超擊之。

はじめ(永寧元年)三王が起兵して趙王倫を討つとき、王浚は擁眾して兩端を挾む。部する士民に、三王の召募に赴かせない。太弟の司馬穎は、王浚を討ちたいが討てない。

胡三省はいう。司馬穎の兄弟は、兄弟同士で殺しあわない。王浚の罪をいって討ちたいなら、余力があったはずだ。なぜ王浚を討てないのか。
ぼくは思う。胡三省は、司馬穎に、本気で王浚を討つ心がなかったと言っているのだ。

王浚の心も、司馬穎を殺したい。司馬穎は、右司馬の和演を幽州刺史として、ひそかに王浚を殺させる。

和演と司馬穎は、ともに起兵して、司馬倫を殺そうとした。和演は、司馬穎の腹心である。

和演は、烏桓單于の審登とともに謀って、王浚を薊城の南清泉に游させ、この道中で殺そうとした。ちょうど天候が暴雨である。兵器は沾濕で、王浚を殺害できずに還った。審登は王浚が天助を得たから、和演の計画を王浚に告げた。王浚は、審登と密かに厳兵し、并州刺史する東贏公の司馬騰とともに、和演を囲んで殺した。王浚は、みずから幽州の營兵を領する。
司馬騰とは、司馬越の弟である。太弟の司馬穎は、稱詔して王浚を征伐する。王浚は、鮮卑の段務勿塵と、烏桓の羯硃と、東嬴公の司馬騰とともに、起兵して司馬穎を討つ。司馬穎は、北中郎將の王斌および石超が(王浚らを)撃つ。

8月、司馬繇が殺され、司馬睿が東海に逃げる

太弟穎怨東安王繇前議,八月,戊辰,收繇,殺之。初,繇兄琅邪恭王覲薨,子睿嗣。睿沈敏有度量,為左將軍,與東海參軍王導善。導,敦之從父弟也;識量清遠,以朝廷多故,每勸睿之國。及繇死,睿從帝在鄴,恐及禍,將逃歸。穎先敕諸關津,無得出貴人;睿至河陽,為津吏所止。從者宋興自後來,以鞭拂睿而笑曰:「捨長,官禁貴人,汝亦被拘邪?」吏乃聽過。至洛陽,迎太妃夏侯氏俱歸國。丞相從事中郎王澄發孟玖奸利事,勸太弟穎誅之,穎從之。

太弟の司馬穎は、東安王の司馬繇の前議(内容は下記)を怨んだ。

司馬穎は、司馬繇が司馬穎に、縞素で天子を迎えて、罪を請わせた議論を怨んだのだ。

8月の戊辰、司馬繇を收めて殺した。
はじめ司馬繇の兄・琅邪恭王の司馬覲が薨じると、子の司馬睿が嗣いだ。司馬睿は、沈敏で度量あり。左將軍となり、東海參軍の王導と仲が善い。王導は、王敦の從父弟である。王導は識量・清遠である。

王導は、東海汪の司馬越の軍事に参じた。

朝廷が多故なので(トラブルが多いので)いつも王導は、司馬睿に東海にゆけと勧めた。司馬繇が死ぬと、司馬睿は恵帝に従って鄴県にいたが、禍いが及ぶのを恐れて、逃歸しそう。司馬睿は先に勅して、諸關津に「貴人を出すな」と命じた。

関は道の要所、津は渡し場である。

司馬睿は河陽に至り、津吏に止められた。從者の宋興は後からきて、司馬睿を鞭拂して笑った。「舎長よ、官は貴人を禁じた(舎長ごときは対象でない)。汝もまた拘束されたのか」と。

舎長とは、守舎の長である。

津吏は通過を聽した。洛陽に至り、太妃の夏侯氏を迎えて、ともに東海に帰る。

元帝の中興は、ここに始まる。

丞相從事中郎の王澄は、孟玖の奸利事を發した。司馬穎に「孟玖を誅せ」という。司馬穎は従った。

上官巳在洛陽,殘暴縱橫。守河南尹周馥,浚之從父弟也,與司隸滿奮等謀誅之。事洩,奮等死,馥走,得免。司空越之討太弟穎也,太宰顒遣右將軍、馮翊太守張方將兵二萬救之,聞帝已入鄴,因命方鎮洛陽。巳與別將苗願拒之,大敗而還。太子覃夜襲巳、願,巳、願出走;方入洛陽。覃於廣陽門迎方而拜,方下車扶止之。復廢覃及羊後。

上官巳は洛陽いにて、殘暴・縱橫する。守河南尹の周馥は、周浚の從父弟である。

周浚は王渾に従って、伐呉の戦功があった。

周馥は、司隸の滿奮らと、上官巳を謀誅したい。事が洩れ、満奮らは死んだ。周馥はにげて免れた。
司空の司馬越は、太弟の司馬穎を討ちたい。太宰の司馬顒は、右將軍・馮翊太守の張方に2万をつけて、司馬穎を救わせる。恵帝がすでに鄴県に入ったと聞き、司馬顒は張方に「洛陽に鎮せよ」と命じた。上官巳は、別將の苗願とともに張方を拒むが、大敗して還る。太子の司馬覃は、夜に上官巳と苗願を襲う。上官巳と苗願は出て走する。張方は洛陽に入る。司馬覃は、廣陽門で張方を迎えて拜する。張方は下車して扶け(司馬覃の拝を)止める。また司馬覃と羊皇后を廃した。

劉淵が司馬穎を誘い、王浚と司馬騰を討つ

初,太弟穎表匈奴左賢王劉淵為冠軍將軍,監五部軍事,使將兵在鄴。淵子聰,驍勇絕人,博涉經史,善屬文,彎弓三百斤;弱冠游京師,名士莫不與交。穎以聰為積弩將軍。

はじめ、司馬穎は表して、匈奴の左賢王の劉淵を冠軍將軍とし、五部の軍事を監させ、

楊駿が輔政すると、劉淵は五部大都督となった。元康末、部人が反して出塞したことに座して、免官された。司馬穎が鄴県に鎮すると、表して五部の軍事を監させた。

劉淵に兵をひきいて鄴県に在らせる。劉淵の子は劉聡である。劉聡は驍勇・絶絕人。經史に博涉し、屬文を善くす。弓三百斤を彎く。弱冠で京師に游び、名士でともに交際しない者はない。司馬穎は劉聡を、積弩將軍とした。

ぼくは思う。八王のうちで匈奴の劉氏を使ったのが、司馬穎である。この設定は、とても効いてくる。


淵從祖右賢王宣謂其族人曰:「自漢亡以來,我單于徒有虛號,無復尺土;自餘王侯,降同編戶。今吾眾雖衰,猶不減二萬,奈何斂手受役,奄過百年!左賢王英武超世,天苟不欲興匈奴,必不虛生此人也。今司馬氏骨肉相殘,四海鼎沸,復呼韓邪之業,此其時矣!」乃相與謀,推淵為大單于,使其黨呼延攸詣鄴告之。

劉淵の従祖父の劉宣は、劉淵を大単于とする。呼延攸を鄴県にやり(司馬穎に)大単于に推したと告げた。

匈奴の歴史について、2699頁。


淵白穎,請歸會葬,穎弗許。淵令攸先歸,告宣等使招集五部及雜胡,聲言助穎,實欲叛之。及王浚、東嬴公騰起兵,淵說穎曰:「今二鎮跋扈,眾十餘萬,恐非宿衛及近郡士眾所能御也,請為殿下還說五部,以赴國難。」穎曰:「五部之眾,果可發否?就能發之,鮮卑、烏桓,未易當也。吾欲奉乘輿還洛陽以避其鋒,徐傳檄天下,以逆順制之,君意何如?」

劉淵は司馬穎に「歸って會葬したい」という。司馬穎は許さず。劉淵は、呼延攸を先に帰らせ、劉宣らに「五部および雜胡を招集しろ」と告げた。声では司馬穎を助けるといいつつ、じつは司馬穎から叛したい。劉氏は、王浚と東嬴公の司馬騰とともに起兵した。
劉淵は司馬穎にいう。「いま2鎮(幽州と并州)が跋扈する。衆は10余万。宿衛および近郡の士衆で御せないことを恐れる。殿下は還って五部に説き、国難に赴いてくれ」と。司馬穎「五部之衆は、果たして発せるか否か(劉淵が動員することができるか)。発せても、まだ鮮卑と烏桓には容易に当たれない。私は乘輿を奉じて洛陽に還り、その鋒を避けたい。徐ろに天下に傳檄して、逆順を制したい。君の意はどうか」と。

胡三省はいう。司馬穎が自分の力を見るに、幽州と并州の2鎮を制することができない。だから天下の兵に檄をやり、制圧をやりたいと。
ぼくは思う。司馬穎と劉淵が、何をパイと認識して、奪い合ったか。牽制をしあったか。それを分析すると楽しそう。「晋家の天下を鎮めるのは、お前の仕事だろうが」という劉淵と、「いやいや、ムリだから」という司馬穎。司馬穎は、任務を放棄しているように見える。これは劉淵の誘導がうまいのだろう。もし司馬穎が軽率に動けば、劉淵がつけこめる。。という話ではなかった。劉淵も戦うみたい。


淵曰:「殿下武皇帝之子,有大勳於王室,威恩遠著,四海之內,孰不願為殿下盡死力者!何難發之!王浚豎子,東嬴疏屬,豈能與殿下爭衡邪!殿下一發鄴宮,示弱於人,洛陽不可得而至;雖至洛陽,威權不復在殿下也。願殿下撫勉士眾,靖以鎮之,淵請為殿下以二部摧東嬴,三部梟王浚,二豎之首,可指日而懸也。」穎悅,拜淵為北單于、參丞相軍事。

劉淵「殿下は武皇帝の子である。大勳が王室にある。威恩は遠著である。四海之内は、だれが殿下が死力を尽くすことを願わないか(死力を尽くさなあかんやろ)。王浚の豎子,東嬴の疏属は、殿下とともに爭衡できる者か(余裕で勝てるやろ)。殿下がひとたび鄴宮を発して、人に弱を示せば、洛陽には到達できない。洛陽に到達しても、威權は殿下にもどらない。私は殿下のために、2部で東嬴をくじき、3部で王浚を梟しよう。2豎の首をひっかけよう」と。

ぼくは思う。劉淵が「私ば司馬穎のために働くから、司馬穎もやる気を出して」と誘ったのだ。胡三省はいう。司馬穎は敗れて権勢を失い、劉淵の言うとおりになった。

,可指日而懸也。」穎悅,拜淵為北單于、參丞相軍事。

淵至左國城,劉宣等上大單于之號,二旬之間,有眾五萬,都於離石,以聰為鹿蠡王。遣左於陸王宏帥精騎五千,會穎將王粹拒東嬴公騰。粹已為騰所敗,宏無及而歸。

劉淵は左國城に至る。

左国城について、2700頁。

劉宣らは「大単于」の号を劉淵に上る。2旬之間に、衆5万となる。離石(西河郡)に都して、劉聡を鹿蠡王とする。左於陸王の劉宏に精騎5千をつけ、司馬穎の將・王粹とあわさり、東嬴公の司馬騰を拒ぐ。王粹はすでに司馬騰に敗れて、劉宏も及ばずに帰る。

王浚が鄴県を陥落させ、恵帝は洛陽に逃亡

王浚、東嬴公騰合兵擊王斌,大破之。浚以主簿祁弘為前鋒,敗石超於平棘,乘勝進軍。候騎至鄴,鄴中大震,百僚奔走,土卒分散。盧志勸穎奉帝還洛陽。時甲士尚有萬五千人,志夜部分,至曉將發,而程太妃戀鄴不欲去,穎狐疑未決。俄而眾潰,穎遂將帳下數十騎與志奉帝御犢車南奔洛陽。倉猝上下無繼,中黃門被囊中繼私錢三千,詔貸之,於道中買飯,夜則御中黃門布被,食以瓦盆。

王浚と司馬騰は、兵を合わせて王斌を大破した。王浚は、主簿の祁弘を前鋒として、石超を平棘で破る。勝ちに乗じて進軍した。

平棘は、漢代は常山、晋代は趙国に属する。

祁弘の候騎は鄴県に至る。鄴中は大震して、百僚は奔走した。士卒は分散した。
盧志は司馬穎に「献帝を奉じて洛陽に還れ」という。ときに甲士は、まだ15千人いた。盧志は夜に部分し、暁に至って鄴県を発そうとした。程太妃は鄴県を恋しがり、去りたくない。司馬穎は狐疑して決さず。にわかに衆が潰れた。司馬穎は帳下の数十騎と盧志をひきい、恵帝の御犢車を奉じて、洛陽に南奔する。倉猝の上下は継なし。中黃門は、囊中に私錢3千を入れた。恵帝が借りて、道中で飯を買う。夜には中黃門の布被を御して、瓦盆で食す。

ぼくは思う。無惨な逃避行として、とても絵になります。


至溫,將謁陵,帝喪履,納從者之履,下拜流涕。及濟河,張方自洛陽遣其子羆帥騎三千,以所乘車奉迎帝。至芒山下,方自帥萬餘騎迎帝。方將拜謁,帝下車自止之。帝還宮,奔散者稍還,百官粗備。辛巳,大赦。

温県にいたり、謁陵しようとする。恵帝は履を喪い(くつを無くして)從者の履を納れる(従者のくつをはく)。下拜・流涕した。

恵帝の祖先は、温県の孝敬の人である。京兆尹の司馬防より上は、みな温県に葬られている。
ぼくは思う。「貴種流離譚」とは、ちょっと違うな。ともあれ、後漢の献帝もまた、こうして、うろついた。献帝は後漢のルーツたる、前漢の首都・長安から。恵帝は、西晋のルーツたる、曹魏の首都・鄴県から。流離することになった。

黄河をわたるに及び、張方が洛陽から、子の張羆に騎3千をつけ、恵帝の乗車をもって、恵帝を奉迎した。芒山のもとで、張方は自ら1万余騎で恵帝をむかえる。張方は拜謁するとき、恵帝は下車して自ら止めた。

ぼくは思う。張方は偉くなったものだ。生命を保護してくれる者は、出自がどうあれ、恵帝にとって尊ぶべき対象なのか。
胡三省はいう。夷王が下堂して、諸侯に会ったときよりも甚だしい。

恵帝は洛陽の宮に還る。奔散した者が、稍よ還る。百官は粗に備わる。辛巳、大赦した。

拓跋氏が司馬騰と結び、劉淵を破る

王浚入鄴,士眾暴掠,死者甚眾。使烏桓羯硃追太弟穎,至朝歌,不及。浚還薊,以鮮卑多掠人婦女,命:「有敢挾藏者斬!」於是沈於易水者八千人。
東嬴公騰乞師於拓跋猗□以擊劉淵,猗□與弟猗盧合兵擊淵於西河,破之,與騰盟於汾東而還。

王浚は鄴県に入る。士衆は暴掠である。死者は甚だ衆い。烏桓の羯硃に、司馬穎を追わせた。朝歌に至るば、司馬穎には追いつかず。王浚は薊県に還る。鮮卑は多くが人の婦女を掠する。王浚は命じた。「敢えて挾藏する(かくす)者は斬る」と。ここにおいて、易水に沈んだ者は、8千人である。

胡三省はいう。王浚は進むが、勤王を成さず。ただ鮮卑と烏桓に、ほしいままに中華を乱させた。王浚は石勒に殺されるが、死ぬのが遅すぎた。
ぼくは思う。鮮卑に略奪させるために「隠したら斬る」と言ったのだ。なんというか、成果主義!遊牧民的!どちらも、ちょっと違うな。中華を食い物にして、幽州で独自の王権を立てようと、、なんて大げさに分析する対象ではないのか。

東嬴公の司馬騰は、拓跋猗_に師を乞い、劉淵を撃ちたい。猗_と弟の猗盧は、兵を合わせて劉淵を西河で破る。拓跋氏と司馬騰は、汾東で盟して還る。

ぼくは思う。八王の乱を知るため、と時期を区切っても、拓跋氏を知らねばならない。匈奴と拓跋氏は、この時点でどのくらいのライバル関係なのか。
胡三省はいう。これより拓跋氏は、しばしば兵で并州(司馬騰)を助ける。


劉淵聞太弟穎去鄴,歎曰:「不用吾言,逆自奔潰,真奴才也!然吾與之有言矣,不可以不救。」將發兵擊鮮卑、烏桓,劉宣等諫曰:「晉人奴隸御我,今其骨肉相殘,是天棄彼而使我復呼韓邪之業也。鮮卑、烏桓,我之氣類,可以為援,奈何擊之!」淵曰:「善!大丈夫當為漢高、魏武,呼韓邪何足效哉!」宣等稽首曰:「非所及也!」

劉淵は、司馬穎が鄴県を去ったと聞き、歎じた。「私の発言を用いず、逆に自ら奔潰した。真に奴才である。私は司馬穎とともに言葉を交わしたのだから、司馬穎を救わぬわけにはいかない」と。兵を発して、鮮卑と烏桓を撃とうとする。

ぼくは思う。司馬穎と匈奴の劉淵、王浚と司馬騰と鮮卑と烏桓。この組合せで、わりに分かりやすく、くっきり分かれて情勢が流れている。

劉宣らが諫めた。「晉人は奴隸として匈奴を使役する。いま司馬氏は骨肉で相殘する。これは天が司馬氏を棄てて、われら匈奴に呼韓邪の業を復させるのだ。鮮卑と烏桓は、われらの氣類である。援うべきだ。なぜ擊つのか」と。

鮮卑と烏桓は、東胡の種である。匈奴と同じく、北方の剛強の気質がある。だから同類というのだ。

劉淵「善し。大丈夫なら漢高や魏武でなければ。呼韓邪では足りない」と。劉宣らは稽首して「劉淵には及ばない」といった。

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304年冬、李雄と劉淵が王を称し、恵帝は長安に

冬10月、李雄が成都王となる

荊州兵擒斬張昌,同黨皆夷三族。

荊州の兵は、張昌を擒えて斬る。同党はみな夷三族。

去年、張昌は下儁山に逃れた。ここにいたり、つかまって殺された。ぼくは思う。なんとなく秋の末なんだろう。


李雄以范長生有名德,為蜀人所重,欲迎以為君而臣之,長生不可。諸將固請雄即尊位。冬,十月,雄即成都王位,大赦,改元曰建興。除晉法,約法七章。以其叔父驤為太傅,兄始為太保,李離為太尉,李雲為司徒,李璜為司空,李國為太宰,閻式為尚書令,楊褒為僕射。尊母羅氏為王太后,追尊父特為成都景王。雄以李國、李離有智謀,凡事必咨而後行,然國、離事雄彌謹。

范長生は名德があり、蜀人に重んじられる。李雄は范長生と君臣になりたい。范長生はいやがる。諸將は、固く李雄に即尊位を請う。
冬10月、李雄は成都王に即位した。大赦して「建興」と改元した。晉法を除き、法7章を約した。百官をおく(はぶく)。李雄は、李国と李離に智謀があるから、すべて2人に諮ってから行った。だが李国と李離は、李雄に事えること彌よ謹である。

史家はいう。李氏たちは、君臣の分を守った。「盗賊にも道がある」というやつだ。
ぼくは思う。「司馬氏には道がない」となっているから、その対比が皮肉なのだ。


劉淵が漢王を称して、陳元達を用いる

劉淵遷都左國城,胡、晉歸之者愈眾。淵謂群臣曰:「昔漢有天下久長,恩結於民。吾,漢氏之甥,約為兄弟。兄亡弟紹,不亦可乎!」乃建國號曰漢。劉宣等請上尊號,淵曰:「今四方未定,且可依高祖稱漢王。」於是即漢王位,大赦,改元曰元熙。追尊安樂公禪為孝懷皇帝,作漢三祖、五宗神主而祭之。立其妻呼延氏為王后。以右賢王宣為丞相,崔游為御史大夫,左於陸王宏為太尉,范隆為大鴻臚,硃紀為太常,上常崔懿之、後部人陳元達皆為黃門郎,族子曜為建武將軍;游固辭不就。

劉淵は、左國城に遷都する。

『考異』はいう。下に「離石はおおいに飢えた。黎亭に遷った」とある。

胡族と晋家から劉淵に帰する者は、いよいよ衆い。劉淵は郡臣にいう。「むかし漢は天下にあること久長たり。恩は民に結ぶ。私は漢氏の甥で、約して兄弟となった。兄が亡べば弟が紹ぐ。また可ならずや」と。建国して国号を「漢」という。
劉宣らは尊號を請上する。劉淵「いま四方は定らず。高祖に依り漢王を称する」と。

『考異』はいう。『帝紀』で李雄と劉淵は、王を称する。どちらも11月で、恵帝が長安に入った後である。『華陽国志』はいう。李雄は10月に成都王を称し、べつの本では12月という。『三十国春秋』と『晋春秋』と『十六国春秋』は10月とする。いま10月に従う。
ぼくは思う。恵帝が長安に入った時期が「統一王朝としての晋家」が事実上は滅んだと見なされた時期か。また「四海」を定めていなければ、王号が似つかわしい。いきなり皇帝に飛ばないのだ。誰かみたいに。劉邦が故事であり、曹操や劉備も同じだろう。

漢王に即位して大赦した。「元熙」と改元した。宗廟と百官をおく。はぶく。


元達少有志操,淵嘗招之,元達不答。及淵為漢王,或謂元達曰:「君其懼乎?」元達笑曰:「吾知其人久矣,彼亦亮吾之心;但恐不過三、二日,驛書必至。」其暮,淵果征元達。元達事淵,屢進忠言,退而削草,雖子弟莫得知也。

陳元達は志操があり、劉淵か招くが答えず。劉淵が漢王となると、或者が陳元達に「君は劉淵を懼れないか」という。陳元達は笑った。「私は久しく劉淵の人となりを知る。彼もまた私の心に亮るい。ただ2-3日も過ぎずに、驛書が必ず至るのを恐れる」と。

ぼくは思う。劉淵と手の内を知り尽くしているから、冗談も言えるということか。漢王になって、マジですぐに最優先に徵されてしまったら、それは気まずいなーという話か。

その日の暮、果たして劉淵は陳元達を徵した。陳元達は劉淵に事える。しばしば進んで忠言し、退いて削草する。子弟と言えども(陳元達が劉淵になにを言ったか)知り得ない。

曜生而眉白,目有赤光,幼聰慧,有膽量,早孤,養於淵。及長,儀觀魁偉,性拓落高亮,與眾不群。好讀書,善屬文,鐵厚一寸,射而洞之。常自比樂毅及蕭、曹,時人莫之許也;惟劉聰重之,曰:「永明,漢世祖、魏武之流,數公何足道哉!」

劉曜は生まれたとき眉が白く、目に赤光あり。幼くして聰慧・膽量である。早くに孤で、劉淵に養われた。長じて、儀觀は魁偉で、性は拓落・高亮である。衆と群れず。讀書を好み、属文を善くし、鐵厚一寸でも射て洞く。つねに自らを、楽毅や蕭何・曹参に比するが、時人は認めてくれない。ただ劉聡だけが重んじた。「永明(劉曜)には、漢世祖・魏武の流がある。數公(楽毅や蕭何・曹参)はなんぞ道に足るや」と。

ぼくは思う。劉曜が洛陽で虐殺をやるのだ。その英雄?が、ここに用意された。晋家にとって複雑である。


洛陽にもどり、2王が体制を提案

帝既還洛陽,張方擁兵專制朝政,太弟穎不得復豫事。豫州都督范陽王虓、徐州都督東平王楙等上言:「穎弗克負荷,宜降封一邑,特全其命。太宰宜委以關右之任,自州郡以下,選舉授任,一皆仰成;朝之大事,廢興損益,每輒疇咨。張方為國效節,而不達變通,未即西還,宜遣還郡,所加方官,請悉如舊。司徒戎、司空越,並忠國小心,宜干機事,委以朝政。王浚有定社稷之勳,宜特崇重,遂撫幽朔,長為北籓。臣等竭力扞城,籓屏皇家,則陛下垂拱,四海自正矣。」

恵帝は洛陽に還る。張方は擁兵して、朝政を專制する。司馬穎は復た豫事できない。豫州都督する范陽王の司馬虓と、徐州都督する東平王の司馬楙らは上言した。「司馬穎は負荷を克たすな。降して1邑だけに封じ、特にその命を全うさせろ。

『考異』はいう。司馬虓伝はいう。鎮東将軍の周馥とともに、これを上言したと。周馥伝はいう。恵帝が長安より帰ったら、周馥は出て平東将軍となった。揚州を都督した。劉準に代わり、鎮東になったと。この表によると、張方はまだ生きている。けだし鄴県より洛陽に還ったときだろう。
ぼくは思う。司馬穎を要職から外すことで、かえって司馬穎の寿命を延ばしてやることができる。八王の乱とは、そういう時代である。

太宰(司馬顒)には、關右之任を委ねろ。州郡より以下、選舉と授任は、すべて司馬顒に仰成せよ。朝之大事は、廢興・損益は、すべて疇咨しろ。

胡三省はいう。関右の州郡では、司馬顒に選挙(人材採用)をさせてやれと。朝政も司馬顒に諮ってから実行せよと。

張方は國效の節であるが、変通に達せない。まだ張方は西還していない。郡に還らせろ。張方がに加えられた者は、すべて旧来にもどせ。

張方はもとは馮翊太守だった。へえ。

司徒の王戎、司空の司馬越は、どちらも忠國・小心である。機事を干させ、朝政を委ねろ。王浚は社稷之勳を定める。特に崇重して、幽朔を撫して、長じて北籓としろ。私たち2王もがんばる」と。

11月、張方が恵帝を長安に連れ去る

張方在洛既久,兵士剽掠殆竭,眾情喧喧,無復留意,議欲奉帝遷都長安;恐帝及公卿不從,欲須帝出而劫之。乃請帝謁廟,帝不許。十一月,乙未,方引兵入殿,以所乘車迎帝,帝馳避後園竹中。軍人引帝出,逼使上車,帝垂泣從之。方於馬上稽首曰:「今寇賊縱橫,宿衛單少,願陛下幸臣壘,臣盡死力以備不虞。」時群臣皆逃匿,唯中書監盧志侍側,曰:「陛下今日之事,當一從右將軍。」帝遂幸方壘,令方具車載宮人、寶物。軍人因妻略後宮,分爭府藏,割流蘇、武帳為馬帴,魏、晉以來蓄積,掃地無遺。方將焚宗廟、宮室以絕人返顧之心,盧志曰:「昔董卓無道,焚燒洛陽,怨毒之聲,百年猶存,何為襲之!」乃止。

張方は洛陽にいること久しい。兵士は剽掠して、殆んど竭くす。衆情は喧喧として、もう(張方が洛陽に)留まる意がない。張方は恵帝を長安に遷都させたい。恵帝および公卿に反対されるのを恐れた。恵帝を出して劫せるのを待った。恵帝に「謁廟しろ」というが、恵帝は許さず。
11月の乙未、張方は引兵・入殿する。張方の乗車に恵帝を迎える。恵帝は馳せて、後園の竹中に避けた。軍人は恵帝を引き出す。逼って上車させた。恵帝は垂泣して従う。張方は馬上で稽首していう。「いま寇賊は縱橫する。宿衛は單少である。陛下は私の塁に幸てほしい。私は死力を尽くして備え、虞れをなくす」と。ときに群臣は、みな逃匿した。ただ中書監の盧志だけが侍側する。

ぼくは思う。皇帝との関係でいうと、盧植や盧毓よりも、子孫の盧志のほうが圧倒的に濃密。もし盧植に「劉備の先生」という肩書がなければ、「涿郡の廬氏」といえば、だれもが「ああ盧志さんのところね」と思ったんだろう。

盧志「陛下は今日之事は、ひとえに右將軍(張方)に従え」と。恵帝はついに張方の塁にゆく。張方は、車を具え、宮人や寶物を載せた。軍人は妻に因り、後宮を略す。府藏を分爭し、流蘇や武帳を割いて、馬帴とした。魏晉以來の蓄積は、掃地して遺らず。

ぱくられた布について、2704頁。

張方は宗廟を焚こうとした。宮室は人が返顧する心が絶えた。盧志「むかし董卓は無道で、洛陽を焚燒した。怨毒之声は、1百年たってもまだある。なぜ董卓を踏襲するか」と。張方は放火をやめた。

帝停方壘三日,方擁帝及太弟穎、豫章王熾等趨長安,王戎出奔郟。太宰顒帥官屬步騎三萬迎於霸上,顒前拜謁,帝下車止之。帝入長安,以征西府為宮。唯尚書僕射荀籓、司隸劉暾、河南尹周馥等在洛陽為留台,承製行事,號東、西台。籓,勖之子也。丙午,留台大赦,改元復為永安。辛丑,復皇后羊氏。

恵帝は張方の塁に3日、停まった。張方は恵帝と、司馬穎と司馬熾らを擁して長安に趨る。王戎は出て郟県(頴川)に奔る。太宰の司馬顒は、官属・步騎3万をひきい、霸上で迎える。司馬顒は、前して拜謁した。恵帝は下車して止める。

ぼくは思う。恵帝はこればかりである。臣下の拝礼を「いやいや、もったいない」というのが、恵帝の持ちギャグとして流行るのだろうか。

恵帝は長安に入ると、征西府(司馬顒の居)を宮とした。ただ尚書僕射の荀籓、司隸の劉暾、河南尹の周馥らは、洛陽にいて留台となる。行事を承制し、「東台」「西台」と号する。荀藩は荀勖の子。

荀勖の朋は賈充の比す。晋初において貴顕たり。

11月の丙午、台に留まり、大赦した。年号を「永安」にもどす。辛丑、皇后に羊氏をもどす。

羅尚移屯巴郡,遣兵掠蜀中,獲李驤妻昝氏及子壽。

羅尚は巴郡に移屯する。兵をやり、蜀中を掠する。李驤の妻・昝氏と子の李寿を獲える。

12月、司馬熾を皇太弟とし、劉淵が并州を進攻

十二月,丁亥,詔太弟穎以成都王還第;更立豫章王熾為皇太弟。帝兄弟二十五人,時存者惟穎、熾及吳王晏。晏材質庸下;熾沖素好學,故太宰顒立之。詔以司空越為太傅,與顒夾輔帝室,王戎參錄朝政。又以光祿大夫王衍為尚書左僕射。高密王略為鎮南將軍,領司隸校尉,權鎮洛陽。東中郎將模為寧北將軍,都督冀州諸軍事,鎮鄴。

12月の丁亥、詔して司馬穎を成都王にもどして、還第させる。豫章王の司馬熾を皇太弟に立てる。恵帝には兄弟が25人いるが、このとき生存するのは、司馬穎と司馬熾と、呉王の司馬晏だけ。
司馬晏の材質は庸下である。司馬熾は沖いが、素より好學である。ゆえに太宰の司馬顒が、司馬熾を皇太弟に立てた。詔して、司空の司馬越を太傅とした。司馬顒とともに、帝室を夾輔する。
王戎は朝政を参録する。また光祿大夫の王衍を、尚書左僕射とする。高密王の司馬略を鎮南將軍として、司隸校尉を領させ、権限は洛陽を鎮する。

『考異』はいう。恵帝紀では、高密王の司馬簡とする。誤字だろう。2703頁。

東中郎將の司馬模を寧北將軍として、都督冀州諸軍事とし、鄴県に鎮する。

ぼくは思う。「鎮南」が洛陽にいる。荊州から、だいぶ後退したものだ。そして「寧北」が鄴県である。洛陽と鄴県の2都が、西晋の範囲であろう。鄴県がカギとなるのは、袁紹と曹操のときから、近くは成都王の司馬穎の前例がある。
胡三省はいう。司馬模の官位は、あちこちで異なる。東中郎将、北中郎将ともある。「安北」将軍が正しいか。2705頁。


百官各還本職。令州郡蠲除苛政,愛民務本,清通之後,當還東京。大赦,改元。略、模,皆越之弟也。王浚既去鄴,越使模鎮之。顒以四方乖離,禍難不已,故下此詔和解之,冀獲少安。越辭太傅不受。又詔以太宰顒都督中外諸軍事。張方為中領軍、錄尚書事,領京兆太守。

百官は、それぞれ本職に還る。州郡には苛政を除かせ、愛民を務本とする。清通の後、東京に還る。大赦・改元した。

胡三省はいう。阻兵を解き、道路は清めて開通した。恵帝が長安にいたから「東京に還る」というのだ。

司馬略、司馬模は、どちらも司馬越の弟である。王浚はすでに鄴県を去る。司馬越は、司馬模を鄴県に鎮させる。司馬顒は、四方が乖離して、禍難が不已なので、この詔(愛民のこと)を下して和解させる。少安を獲たいと冀う。司馬越は太傅を辞して受けず。また詔して、太宰の司馬顒は、都督中外諸軍事とする。張方は、中領軍・錄尚書事となり、京兆太守を領した。

東嬴公騰遣將軍聶玄擊漢王淵,戰於大陵,玄兵大敗。

東嬴公の司馬騰は、將軍の聶玄をやり、漢王の劉淵を撃つ。大陵(太原)で戦い、聶玄の兵は大敗した。

地形について、2706頁。
ぼくは思う。司馬騰も、わりに良いキャラだ。王じゃないのが残念だけど。新蔡王になれるらしい。あとから。


淵遣劉曜寇太原,取泫氏、屯留、長子、中都。又遣冠軍將軍喬晞寇西河,取介休。介休令賈渾不降,晞殺之;將納其妻宗氏,宗氏罵晞而哭,日晞又殺之。淵聞之,大怒曰:「使天道有知,喬晞望有種乎!」追還,降秩四等,收渾屍,葬之。

劉淵は、劉曜に太原を寇させる。泫氏、屯留、長子、中都をとる。

いずれも上党郡。唐代の潞州。2706頁。

また冠軍將軍の喬晞に西河を寇させ、介休をとる。

介休は、漢代は太原、晋代は西河に属する。唐代は汾州。

介休令の賈渾は降らず。喬晞は賈渾を殺した。賈渾の妻・宗氏を納れるが、宗氏が喬晞を罵って哭した。日に喬晞は宗氏を殺した。劉淵はこれを聞き、大怒した。「天道は知をあらしめる。喬晞は種あるを望むか」と。追って(戦地から)還し、喬晞の秩4等を降す。賈渾の屍を收めて葬る。131030

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