両晋- > 『資治通鑑』晋紀を抄訳 299年-300年 恵帝の中期

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299年、張華が賈后に逆らえず、太子を幽閉

春、斉万年を捕らえ、2王が鄴県と長安に出鎮

資治通鑑 第083卷【晉紀五】 起屠維協洽,盡目章涒灘,凡二年。
孝惠皇帝上之下元康九年(己未,公元二九九年)
春,正月,孟觀大破氐眾於中亭,獲齊萬年。

春正月、孟観は氐族を、中亭で大破して、斉万年を獲えた。

『水経注』はいう。扶風の美陽県に、中亭水がある。


太子洗馬陳留江統以為戎、狄亂華,宜早絕其原,乃作《徙戎論》以警朝廷曰:「夫夷、蠻、戎、狄,地在要荒,禹平九土而西戎即敘(以下略)」朝廷不能用。

太子洗馬する陳留の江統は、戎狄が中華を乱すと考え、早くその原因を絶やせと考え、『徙戎論』で朝廷に警告した。
「そもそも夷蛮・戎狄は、地は要荒にあり。禹は九土を平げ、西戎は即ち叙した(以下略)」と、朝廷は用いられない。

はぶきます。2623頁より。
『徙戎論』は、むかし抄訳したけど、むかし過ぎて自分でも信用できない。
「江統伝」を訳し、『晋書』列伝26をコンプ


散騎常侍賈謐侍講東宮,對太子倨傲,成都王穎見而叱之;謐怒,言於賈後,出穎為平北將軍,鎮鄴。征梁王肜為大將軍、錄尚書事;以河間王顒為鎮西將軍,鎮關中。初,武帝作石函之制,非至親不得鎮關中;顒輕財愛士,朝廷以為賢,故用之。

散騎常侍の賈謐は、東宮に侍講する。賈謐は、太子に対して、倨傲である。成都王の司馬穎が、賈謐を叱った。賈謐は怒り、賈后に言いつけた。司馬穎を洛陽から出し、平北將軍とし、鄴県に鎮させた。

『考異』はいう。帝紀では、司馬穎は鎮北大将軍である。
ぼくは思う。この処置によって、八王の乱のとき、「成都王」が鄴県にいるという、曹操と劉備が合体したような奇妙なことが起こる。賈謐のしわざだったのね。

梁王の司馬肜を徵して、大將軍、錄尚書事とする。河間王の司馬顒を鎮西將軍として、関中に鎮させる。

八王のとき、司馬顒は長安にいる。着々と「持ち場」についてゆく。

はじめ晋武帝は、石函之制をつくった。至親でなければ、関中に鎮せないと。司馬顒は財を軽んじ、士を愛す。朝廷は、こんな司馬顒を賢者だとして、関中に用いた。

司馬顒は、安平献王・司馬孚の孫である。太原烈王・司馬カイの子である。はじめて司馬顒は、父の爵位をつぐ。咸寧3年、河間に改封された。司馬穎と司馬顒は方鎮にいて、阻兵する張本である。


夏、賈后が淫乱だが、張華が廃后を見送る

夏,六月,戊戌,高密文獻王泰薨。

夏6月の戊戌、高密文獻王の司馬泰が薨じた。

賈後淫虐日甚,私於太醫令程據等;又以簏箱載道上年少入宮,復恐其漏洩,往往殺之。賈模恐禍及己,甚憂之。裴頠與模及張華議廢後,更立謝淑妃。模、華皆曰:「主上自無廢黜之意,而吾等專行之,倘上心不以為然,將若之何!且諸王方強,朋黨各異,恐一旦禍起,身死國危,無益社稷。」

賈后の淫虐は、日に甚し。賈后は、太医令の程拠らを私する。また簏箱の載道にいる年少者を入宮させる。この入宮が漏洩するのを恐れて、往往にして(ことが済めば)殺す。賈模は、禍が己に及ぶのを恐れて、甚だ憂う。
裴頠と賈模および張華は、「賈后を廃して謝淑妃を更立しよう」と議する。

謝淑妃は、太子の司馬遹の母である。
『考異』はいう。賈后伝では、賈模と裴頠、王衍が廃后をはかる。王衍は悔いてやめたと。いま『晋書』裴頠伝にしたがう。

賈模と張華はいう。「主上(恵帝)には、賈后を廃黜する意がない。だがわれらが専行すれば、恵帝の意思とちがう。どうしよう。いま諸王は方強であり、朋党は各異である。ひとたび禍が起れば、身は死に国や危うい。社稷に益がない」と。

ぼくは思う。朋党がそれぞれ異なれば、派閥を形成して衝突することになる。諸王は、都督の権利はもらうが、人材までも配分してもらっていない。赴任してから自前で集めるために、10年ぐらいかかるだろう。八王の乱が、すぐに着火しなかったのは、その期間かも知れない。まあ、もう司馬倫は孫秀を見つけてしまっているが。


頠曰:「誠如公言。然中宮逞其昏虐,亂可立待也。」華曰:「卿二人於中宮皆親戚,言或見信,宜數為陳禍福之戒,庶無大悖,則天下尚未至於亂,吾曹得以估游卒歲而已。」頠旦夕說其從母廣城君,令戒諭賈後以親厚太子,賈模亦數為後言禍福;後不能用,反以模為毀己而疏之;模不得志,憂憤而卒。

裴頠「そのとおり。だが中宮はその昏虐を逞くし、乱は立ちて待つべし」と。

ぼくは思う。恵帝に逆らうのは良くないが、それ以前に賈后が、破綻の原因をつくっている。賈后を廃したほうが、まだマシだと。

張華「卿ら2人は、中宮において親戚である。発言は信じてもらえる。禍福之戒を陳べて、大悖をなくそう。天下はまだ乱に至っていない。われらができるのは、估游を以て卒歳するだけ」と。

胡三省はいう。張華は、危機せまる朝廷において郡臣のトップなのに、こんな余裕をかます。だから天は、趙王の司馬倫に手をかして、張華を殺させたのだ。

裴頠は、旦夕に従母の広城君に説き、賈后に「太子を親厚しろ」と戒諭させる。賈模もまた、しばしば禍福をいう。賈后は用いない。かえって賈模は、おなじ賈氏なのに賈后を批判したから、疎まれた。賈模は志を得られず、憂憤して卒した。

秋、賈氏の親戚・裴頠が、政乱を予感させる

秋,八月,以裴頠為尚書僕射。頠雖賈後親屬,然雅望素隆,四海唯恐其不居權位,尋詔頠專任門下事,頠上表固辭,以「賈模適亡,復以臣代之,崇外戚之望,彰偏私之舉,為聖朝累。」不聽。或謂頠曰:「君可以言,當盡言於中宮;言而不從,當遠引而去。倘二者不立,雖有十表,難以免矣。」頠慨然久之,竟不能從。

秋8月、裴頠を尚書僕射とする。裴頠は、賈后の親属だが、雅望は隆い。ただ四海は、裴頠が権位にいないことを恐れる。詔して裴頠に、門下事を専任させた。裴頠は上表して固辞した。

晋制では、侍中と給事黄門侍郎は、門下事を同じく管する。裴頠は侍中となり、門下事に専任した。これは賈后の意思である。

裴頠「賈模が死んだから、私を代わりにした。これでは、外戚之望を崇び、偏私之挙を彰したことになる。聖朝のために累す」と。賈后は聴さず。或者が裴頠にいう。「きみは中宮で言い尽くす(言い終わる)べきだ。発言が(賈后に)従われねば、遠く引いて去れ。意見が対立すれば、10表しても(禍いを)免れるのは難しい」と。裴頠は慨然として、ついに従わず。

史家はいう。張華と裴頠は、禄位を顧恋して、自分とその家を滅ぼした。


帝為人戇騃,嘗在華林園聞蝦蟆,謂左右曰:「此鳴者,為官乎,為私乎?」時天下荒饉,百姓餓死,帝聞之,曰:「何不食肉糜?」由是權在群下,政出多門,勢位之家,更相薦托,有如互市。賈、郭恣橫,貨賂公行。南陽魯褒作《錢神論》以譏之曰(中略)。

恵帝の人となりはバカである。

「戇」とはショウ。愚のこと。「騃」とは、ヤマイダレに疑のこと。

かつて恵帝は、華林園で、蝦蟆をきいた。左右に「この鳴声は、官か私か」と聞いた。ときに天下が荒饉するので、百姓は餓死した。恵帝は「なぜ肉粥を食わないか」という。

ぼくは思う。天下のものを2種に分節するとき、「官か私か」となる。わりに、おおくの価値観に関する情報を含んでいる気がする。恵帝の不用意な(とされる)言葉は。

これにより権限は群下にあり、政策は多門を出す。勢位の家は、更相・薦托し、互市のようだ。賈氏と郭汜は恣横して、貨賂は公行する。

ぼくは思う。恵帝がカラッポだから、

南陽の魯褒は『銭神論』をつくり、この風潮をそしる。はぶく。

『銭神論』の中身は、2629頁。


又,朝臣務以苛察相高,每有疑議,群下各立私意,刑法不壹,獄訟繁滋。裴頠上表曰:「先王刑賞相稱,輕重無二,故下聽有常,群吏安業。去元康四年大風,廟闕屋瓦有數枚傾落,免太常荀寓;事輕責重,有違常典。五年二月有大風,蘭台主者懲懼前事,求索阿棟之間,得瓦小邪十五處,遂禁止太常,復興刑獄。今年八月,陵上荊一枝圍七寸二分者被斫;司徒、太常奔走道路,雖知事小,而按劾難測,騷擾驅馳,各競免負,於今太常禁止未解。夫刑書之文有限而舛違之故無方,故有臨時議處之制,誠不能皆得循常也。至於此等,皆為過當,恐奸吏因緣,得為淺深也。」既而曲議猶不止,

また朝臣の任務は、苛察が相い高く、疑議があるたび、群下は私意を立て、刑・法の尺度は1つでなく、獄訟が多すぎる。裴頠は上表した。はぶく。
裴頠の上表があっても、刑法のかってな解釈はつづく。

三公尚書劉頌復上疏曰:「自近世以來,法漸多門,令甚不一,吏不知所守,下不知所避,奸偽者因以售其情,居上者難以檢其下,事同議異,獄犴不平。夫君臣之分,各有所司。法欲必奉,故令主者守文;理有窮塞,故使大臣釋滯;事有時宜,故人主權斷。主者守文,若釋之執犯蹕之平也;大臣釋滯,若公孫弘斷郭解之獄也;人主權斷,若漢祖戮丁公之為也。天下萬事,自非此類,不得出意妄議,皆以律令從事;然後法信於下,人聽不惑,吏不容奸,可以言政矣。」乃下詔:「郎、令史復出法駁案者,隨事以聞。」然亦不能革也。
頌迂吏部尚書,建九班之制,欲令百官居職希遷,考課能否,明其賞罰。賈、郭用權,仁者欲速,事竟不行。

三公尚書の劉頌は、上疏した。それを受けて詔が下った。「郎と令史のうち、法を出し、案を駁する者は、事に隨いて以て聞せ」と。だが、刑・法の乱れは改革されない。
劉頌は、吏部尚書に迂り、九班之制を建てる。百官の居職・希遷につき、能否を考課し、その賞罰を明らかにしたい。賈氏と郭氏は権力を用い、賈氏と郭氏に仕える者は(昇進を)速めたいので、劉頌の制度は、ついに行われず。

ぼくは思う。「天下は公とする」という儒教の価値判断と、皇帝は1つの家が占める(皇后の家を含む)実態は、対立する。その対立が、ロコツに出ている。皇帝と皇后の家を、機械的に人事考課したら、落第するに決まっている。人事考課の枠外にするから、統治は効率がわるい。だが、だからこそ皇帝制が存続できる。矛盾をかかえたまま、走るしかないのでは。


裴頠薦平陽韋忠於張華,華辟之,忠辭疾不起。人問其故,忠曰:「張茂先華而不實,裴逸民欲而無厭,棄典禮而附賊後,此豈大丈夫之所為哉!逸民每有心托我,我常恐其溺於深淵而餘波及我,況可褰裳而就之哉!」

裴頠は、平陽の韋忠を、張華に勧めた。

曹魏の邵陵厲公の正始8年、河東を分けて、汾水の北を平陽郡とした。

張華は韋忠を辟したが、韋忠は辞退して、疾で不起という。人は韋忠に理由を問う。韋忠「張茂先は、華だが実でない。裴逸民は、欲があり厭きない。

張華と裴頠のあざなである。ぼくは思う。張華は「華」やかであるとは、すごいことをいう。『世説新語』の世界ですか、ここは。

典礼を棄てて、賊の後ろに附す。これが大丈夫のやることか。裴頠は私に托してくれるが、私は(西晋の官界という)深淵に溺れて、余波を食らうのを恐れる。まして衣服をひろげる(官職につく)なんて」と。

ぼくは思う。裴頠の朝廷は、まったく評判がわるい。


關內侯敦煌索靖,知天下將亂,指洛陽宮門銅駝歎曰:「會見汝在荊棘中耳!」

関内侯たる敦煌の索靖は、天下が乱れそうだと知り、洛陽の宮門にある銅駝を指さした。「お前を荊棘のなかで見ることになる」と。

銅駝は、魏明帝の景初元年、長安から洛陽に徙された。


冬、賈后に逼られ、太子が声望を失う

冬,十一月,甲子朔,日有食之。

冬11月の甲子ついたち、日食あり。

初,廣城君郭槐,以賈後無子,常勸後使慈愛太子。賈謐驕縱,數無禮於太子,廣城君恆切責之。廣城君欲以韓壽女為太子妃,太子亦欲婚韓氏以自固;壽妻賈午及後皆不聽,而為太子聘王衍少女。太子聞衍長女美,而後為賈謐聘之,心不能平,頗以為言。及廣城君病,臨終,執後手,令盡心於太子,言甚切至。又曰:「趙粲、賈午,必亂汝家事;我死後,勿復聽入。深記吾言。」後不從,更與粲、午謀害太子。

はじめ広城君の郭槐は、賈后に子がないから、つねに賈后に「太子の司馬遹を慈愛せよ」と勧める。賈謐は驕縱であり、しばしば太子に無礼をする。廣城君は、つねに賈謐を切責した。

ぼくは思う。初めて吉川『三国志』を読んだとき、貂蝉を心配した。今では結末を知って(結末のみならず、関連する情報や、研究者による指摘も知って)冷静な分析対象になっている話でも、初めてのときはドキドキした。福原啓郎先生の『司馬炎』を読んだとき、晋恵帝の太子・司馬遹の最期にドキドキした。いま『資治通鑑』で該当部分を読んでる。あのドキドキがよみがえる。2008年に、昼間から石橋商店街のあたりで泥酔して、自分も前後不覚になるように仕向けて、読んだものだった。司馬遹が死ななければ、八王・永嘉の乱を防げたんじゃないかと。

広城君は、韓寿の娘を太子妃としたい。太子もまた、韓氏と婚姻して、自ら固めたい。韓寿の妻・賈午と、賈后は、太子と韓氏の婚姻をゆるさず。
太子は、王衍の少女をめとる。太子は、王衍の長女が美しいと聞く。賈后が、賈謐に王衍の長女をめとらせたと聞いた。太子の心は平らかでなく(不平を)言った。
広城君が病になり、終に臨む。広城君は賈后の手をとり、「賈后は太子に心を尽くせ」という。言は甚だ切至なり。また広城君はいう。「趙粲と賈午は、必ず賈氏の家事を乱す。私の死後は、彼らの意見を聞くな」と。賈后は従わず。

郭槐は妬狼であったが、死にぎわに娘の賈后に、正しい戒めをした。

賈后は、趙粲と賈午とともに、太子を害さんと謀る。

太子幼有令名,及長,不好學,惟與左右嬉戲。賈後復使黃門輩誘之為奢靡威虐,由是名譽浸減,驕慢益彰。或廢朝侍而縱游逸,於宮中為市,使人屠酤,手揣斤兩,輕重不差。其母,本屠家女也,故太子好之。東宮月俸錢五十萬,太子常探取二月,用之猶不足。又令西園賣葵菜、藍子、雞、面等物而收其利。又好陰陽小數,多所拘忌。

太子は幼くして令名あり。長ずるに及び、学を好まず、ただ左右と嬉戲する。賈后は、黄門の輩をやって、太子を奢靡・威虐にいざなった。これにより太子の名誉は浸減し、驕慢は益すゝ彰んである。或者は朝侍を廃して、游逸をほしいままにする。宮中に市をつくり、人に屠酤させ、手揣斤両する。輕重は差がない。
太子の母は、もとは屠家の娘である。

古代には娘は名門から選んだ。幽間の出身だが、淑妃になった者は、器量が良かったからである。ぼくは思う。この胡注は、なにを言いたいのか。太子の母が「賈后に嫉妬されるべき器量よし」ってことか。

ゆえに太子は、屠家の娘を好む。

ぼくは思う。男は多かれ少なかれマザコンであり、その種類と傾向、その分量が異なるだけ。太子は「母みたいな女」を好んだ。屈節のないマザコンである。

東宮の月俸は、銭50万である。太子はつねに2月分を探取(前借)し、これを用いても(浪費に)足らない。西園に葵菜、藍子、雞、面らを売らせて、利益をとった。また、陰陽・小数を好み、多くに拘忌された。

ぼくは思う。後漢の霊帝のように、ちょっと才能がある君主は、ついつい金儲けを楽しんでしまう。金儲けというのは、小手先だけでできるゲームみたいなものだから、お手頃な暇つぶしである。今日では、先進とされる文化圏が総出で、ゲームと暇つぶしをしている。
太子が売り物にしたものは、2633頁。
班固はいう。陰陽家は、けだし羲和の官から出た。胡三省はいう。太子は(陰陽の)禁忌を牽き、小数に泥み、人事を捨てて鬼神に任す。


洗馬江統上書陳五事:「一曰雖有微苦,宜力疾朝侍。二曰宜勤見保傅,咨讒善道。三曰畫室之功,可且減省,後園刻鏤雜作,一皆罷遣。四曰西園賣葵、藍之屬,虧敗國體,貶損令聞。五曰繕牆正瓦,不必拘攣小忌。」太子皆不從。中舍人杜錫,恐太子不得安其位,每盡忠諫,勸太子修德業,保令名,言辭懇切。太子患之,置針著錫常所坐氈中,刺之流血,錫,預之子也。

洗馬の江統は上書して、5事を陳べる。「1つ、微苦があっても、がんばって朝侍しろ。2つ、勤めて保傅に会い、善道を咨讒しろ。3つ、画室之功は、減省しろ。後園の刻鏤・雜作は、やめろ。

建物に絵画をつけたり、庭園にオブジェをつくったり。するな。

4つ、西園で葵や藍を販売するのは、国体を虧敗して、令聞を貶損する。

ぼくは思う。西晋という国体をそこね、太子の評判をそこねる。野菜を売って利益をあげることは、君主のやることではない。

5つ、正瓦を繕牆するのは、必ずしも小忌を拘攣しない」と。太子は従わず。
中舍人の杜錫は、太子がその地位を安定できないと恐れ、いつも忠諫を尽くす。太子に「德業を修め、令名を保て」という。言辞は懇切である。太子はこれを患い、杜錫がいつも座る氈中に針著をおく。針著が刺さって、杜錫は流血した。杜錫は、杜預の子である。

中舎人について、2633頁。
ぼくは思う。杜預が平呉したのに。杜預の子に対して、司馬炎の孫が、毛氈のなかに針をしこむなんて。これが「太子が保身するための演技」だとしても、ちょっとムゴい。本性と環境は、相互に影響する。太子は、もとの本性は、優れていたかも。しかし、賈后に疎まれ、狂ったふりを強いられる環境に身を置くことで、本性まで腐ってくる。環境から完全に独立した本性なんてないのだから。


太子性剛,知賈謐恃中宮驕貴,不能假借之。謐時為侍中,至東宮,或捨之,於後庭遊戲。詹事裴權諫曰:「謐,後所親暱,一旦交構,則事危矣。」不從。
謐譖太子於後曰:「太子多畜私財以結小人者,為賈氏故也。若宮車晏駕,彼居大位,依楊氏故事,誅臣等,廢後於金墉,如反手耳。不如早圖之,更立慈順者,可以自安。」後納其言,乃宣揚太子之短,佈於遠近。又詐為有娠,內蒿物、產具,取妹夫韓壽子慰祖養之,欲以代太子。

太子の性は剛たり。賈謐はが中宮の驕貴を恃むのを知るが、太子は賈謐を假借できない。賈謐が侍中のとき、東宮に至る。あるとき太子は、賈謐を捨ておき、後庭で遊戲した。詹事の裴権が太子を諫めた。「賈謐は、賈后に親暱される。いちど交構すれば、事は危うくなる」と。太子は従わず。

詹事について、2633頁。

賈謐は太子を賈后にそしる。「太子は私財を蓄え、小人と結ぶ。これは賈氏にそなえるためだ。もし宮車が晏駕し、太子が帝位につけば、楊氏の故事に依拠し、私たちを誅する。賈后を金墉に廃する。これは手を反す(ほど太子にとって容易な)ことだ。早く図る(太子を殺す)のがよい」と。

胡三省はいう。賈后は楊駿を殺して、楊太后を廃した。賈后のしたことは、天地の容認しないこと。楊太后と賈后は、おばとめいの関係である。賈后の心は落ち着けない。
ぼくは思う。後漢の幼帝と、西晋の恵帝は似て非なる。後漢の幼帝は、皇太后の一族=外戚が強盛、皇帝が成人して外戚を排除、皇帝が皇后をめとり若死にする、というサイクル。皇太后と皇后の家は、時期的に「すれ違う」から、直接には対立しない。西晋の恵帝は、皇后の賈氏が、皇太后の楊氏を排除した。だから賈氏は、太子(つぎの皇帝=司馬遹)とその妃の一族によって、自分が排除されるのを恐れ、太子を殺した。後漢は皇太后と皇后が「すれ違う」ので世代が進んだが、西晋の賈氏は「自分の所行を報復される」ことを恐れて世代が進むのを妨げた。恵帝が30歳を越えても、幼帝なみに主体性がないのが原因。似て非なるなあ。
ぼくは思う。「みなが自分と同じことをしても、社会全体が成り立つ」ことをするのが、倫理的な振る舞いなんだと。賈后のやっていることは、この倫理の規範から逸脱するのだ。
ぼくは思う。太子の司馬遹は、彼自身が原因というより(彼は理想の太子とは程遠いかも知れないが)、楊氏と賈氏の対立の余燼をかぶって、身を焼かれてしまったような感じ。この事件において、司馬遹の主体性はないのか。

賈后はその発言を納れ、太子之短を宣揚した。詐って「妊娠した」といい、腹に蒿物と産具を入れた。妹夫の韓寿の子・韓慰祖を養って、恵帝の太子に代えたい。

於時朝野咸知賈後有害太子之意,中護軍趙俊請太子廢後,太子不聽。左衛率東平劉卞,以賈後之謀問張華,華曰:「不聞。」卞曰:「卞自須昌小吏,受公成拔以至今日。士感知己,是以盡言,而公更有疑於卞邪!」華曰:「假令有此,君欲如何?」卞曰:「東宮俊乂如林,四率精兵萬人;公居阿衡之任,若得公命,皇太子因朝入錄尚書事,廢賈後於金墉城,兩黃門力耳。」華曰:「今天子當陽,太子,人子也,吾又不受阿衡之命,忽相與行此,是無君父而以不孝示天下也。雖能有成,猶不免罪。況權戚滿朝,威柄不一,成可必乎?」賈後常使親黨微服聽察於外,頗聞卞言,乃遷卞為雍州刺史;卞知言洩,飲藥而死。

ときに朝野は、みな賈后が太子を害したいと知る。中護軍の趙俊は、太子に「賈后を廃そう」という。太子は聴さず。左衛率する東平の劉卞は、賈后之謀について張華に問う。

左衛率について、2634頁。

張華「聞いてない」と。劉卞「私は須昌県の小吏となり、張華の抜擢のおかげで、今日の地位になった。士は己を知る者に感じるもの。私が言葉を尽くしたのに、張華は私に本心を言ってくれないのか」と。

須昌県は、東平国にある。劉卞は、出身県の少吏であったが、張華にしたがって洛陽にきて、官職を歴任して左衛率になれた。

張華「もし賈后に(太子を害する)謀があったとして、きみはどうしたい」と。
劉卞「東宮の俊乂は林の如し。四率の精兵は1万人。張華は阿衡之任にある。もし張華が命じれば、太子は入朝して、録尚書事できる。賈后を金墉城に廃せる。2人の黄門を(太子が)動かすだけでできる」と。

東宮の俊乂とは、江統、潘トウ、王敦らは、みな東宮の官属である。ぼくは思う。東晋をかたむける王敦は、いま司馬遹の配下にもぐっているのか!

張華「いま天子(恵帝)は当陽であり、太子は人の子である。しかも私は、阿衡之命を受けていない。もし劉卞の意見を実行したら、君父(恵帝)がいないものとして、不孝を天下に示すようなもの。計画が成っても、罪を免れない。まして権戚(賈氏)は朝廷に満ちる。威柄は1つでない。計画が成ることも怪しい」と。賈后は、つねに親党に微服させ、外朝を聴察させる。劉卞の発言を聞いて、劉卞を雍州刺史とした。劉卞は、計画が洩れたと知り、飲薬して死んだ。

胡三省はいう。賈后は剛悍である。劉卞の発言を聞いた張華は、賈后にそれを報告しなかった。張華は必ずや賈后の手により殺されることになった。劉卞の発言は、じつは張華がもらしたに等しい。
ぼくは思う。張華をはじめとした西晋の重臣は、わりに「腰ぬけ」がおおい。なにか構造的な原因があるのか。史料の作成方法にくせがあるから、そう見えるのか。「みんな揃って腰ぬけ」って、ちょっと変だなあ。


12月、司馬遹が幽閉され、母と妻が殺される

十二月,太子長子_病,太子為_求王爵,不許。_疾篤,太子為之禱祀求福。賈後聞之,乃詐稱帝不豫,召太子入朝,既至,後不見,置於別室,遣婢陳舞以帝命賜太子酒三升,使盡飲之。太子辭以不能飲三升,舞逼之曰:「不孝邪!天賜汝酒而不飲,酒中有惡物邪!」太子不得已,強飲至盡,遂大醉。

12月、太子の長子である司馬_が病である。太子は、司馬_に王爵を求めたが許されない。

これは漢字がでない!2635頁。

司馬_は疾篤であり、太子は禱祀・求福した。賈后はこれを聞き、詐って「恵帝が不豫である」といい、太子を召して入朝させる。太子が入朝しても、賈后は会わずに、別室に置く。婢の陳舞に「恵帝の命で、太子に酒3升を賜る」といわせ、太子に全部を飲ませる。太子は3升も飲めない。陳舞は太子に逼った。「不孝だね。天(恵帝)は太子に酒を賜るが、飲まない。酒中に惡物があるのか」と。

胡三省はいう。臣子は君父を「天」とする。ゆえに君父から賜ったら「天賜」という。
「天子」は「天の子」という、『白虎通』の言葉に忠実すぎる、文字どおり過ぎる解釈が、この柔軟な使用法によって、覆ってしまう。恵帝は「天」なのかー。

太子はやむを得ず、強飲して全部のんだ。ついに大酔した。

後使黃門侍朗潘岳作書草,令小婢承福,以紙筆及草,因太子醉,稱詔使書之,文曰:「陛下宜自了,不自了,吾當入了之。中宮又宜速自了,不自了,吾當手了之。並與謝妃共要,刻期兩發,勿疑猶豫,以致後患。茹毛飲血於三辰之下,皇天許當掃除患害,立道文為王,蔣氏為內主。願成,當三牲祠北君。」太子醉迷不覺,遂依而寫之。其字半不成,後補成之,以呈帝。

のちに黄門侍郎の潘岳に書草をつくらせる。

潘岳は、赤族だからこれをやる。のちに天は、孫秀の手を借りて潘岳を殺す。ぼくは思う。潘岳は、天誅を加えられるべきことをやったのだ。

小婢の承福に、紙筆と(潘岳による)草稿をもたせる。太子は酔っているが、詔と称して、太子に草稿を書き写させる。
その文にいう。「陛下は自ら終われ。自ら終わらねば、私が入って終わらせよう。中宮も速やかに自ら終われ。自ら終わらねば、私の手で終わらせよう。謝妃とともに約束し、期を刻して(内外で)両發する。三辰之下で、茹毛・飲血せよ。皇天は、患害を掃除して、道文を立てて王とする。その母の蔣氏は内主となる。成功を願い、三牲を北君に祠えろ」と。

胡三省はいう。謝妃とは、太子の母である。謝妃との約束において、内外で同時に、行動を発するという。茹毛・飲血は、盟誓のこと。道文とは、司馬_のあざな。蒋氏とは、司馬_の母である。内主とは、皇后のこと。三牲とは、牛羊豕のこと。北君とは北帝である。
胡三省は、張華と裴頠が、賈氏を野放しにするからだ、という。

太子は酔迷して不覚である。ついに書き写した。その字は、なかば字形を成さない。賈后が補って完成させ、恵帝に提出した。

壬戌,帝幸式乾殿,召公卿入,使黃門令董猛以太子書及青紙詔示之曰:「遹書如此,今賜死。」遍示諸公王,莫有言者。張華曰:「此國之大禍,自古以來,常因廢黜正嫡以致喪亂。且國家有天下日淺,願陛下詳之!」裴頠以為宜先檢校傳書者,又請比較太子手書,不然,恐有詐妄。賈後乃出太子啟事十餘紙,眾人比視,亦無敢言非者。

12月壬戌、恵帝は式乾殿にゆき、公卿を召して入れる。黄門令の董猛は、太子の文書と、青紙の詔を示した。「司馬遹の書はこのようだ。いま死を賜う」と。遍く諸公王に示す。誰も何も言わない。
張華「これは國之大禍である。古代より、つねに正嫡を廢黜すれば、喪亂に至る。国家が天下をたもって日が浅い。陛下は(太子の実情を)詳らかにせよ」と。裴頠は、文書を伝えた者を検校すべきと考える。太子の手書を比較すると、筆跡がちがう。詐妄であることを恐れた。
賈后は、太子の書いた10余紙を出して、みなに見せた。敢えて「やっぱり筆跡が違うじゃん」と賈后に言う者はない。

ぼくは思う。「科学的な捜査」は、いつの時代も成立しない。先入観にゆがめられ、権力により歪められ。西晋の朝廷が愚かなのでなく、人間社会は、つねにそうなのだ。


賈後使董猛矯以長廣公主辭白帝曰:「事宜速決,而群臣各不同,其不從詔者,宜以軍法從事。」議至日西,不決。後見華等意堅,懼事變,乃表免太子為庶人,詔許之。於是使尚書和郁等持節詣東宮,廢太子為庶人,太子改服出,再拜受詔,步出承華門,乘粗犢車,車武公澹以兵仗送太子及妃王氏、三子_、臧、尚同幽於金墉城。王衍自表離婚,許之,妃慟哭而歸。殺太子母謝淑媛及A170母保林蔣俊。

賈后は、董猛に長広公主の言葉を矯めさせ、恵帝にいう。

長広公主は、武帝の娘。甄徳に下嫁している。

董猛「ことは速やかに決するべき。さもなくば郡臣の意見がズレてくる。もし詔に従わない者がいたら、軍法により従事すべき」と。議論は日が西するまでつづき、決まらず。

胡三省はいう。郡臣を脅したのだ。ぼくは思う。筆跡をチェックしたり、おどされた郡臣が、議論で「太子を殺すな」と抵抗したり。わりに西晋の朝廷は、機能しているのかも。後漢で「愚かな」政策判断がされるとき、ふつうに皇帝が数語で却下して終わりだ。

賈后は、張華らの(太子を無罪とする)意見が堅いので、事変を懼れた。
賈后は表して、太子を免じて庶人とした。詔は許した。

ぼくは思う。太子をいっきに殺すのは諦めたのだろう。

ここにおいて、尚書の和郁らに持節させ、東宮にゆかせる。太子を廃して庶人とした。太子は改服して出た。再拜して受詔した。歩いて(東宮の)承華門を出た。粗な犢車に乗る。東武公の司馬澹は、兵仗を以て、太子と妃の王氏(王衍の少女)と、三子の_、臧、尚を送り、みな金墉城に幽閉した。王衍は自ら表して(太子と)離婚し、許された。王妃は慟哭して帰する。

清談の禍は、何晏にはじあmる。何晏は、曹爽とともに禍福を同じくした。王衍のごとき者は、何晏に逮(およ)ばず。

太子の母・謝淑媛と、司馬_の母・保林蔣俊を殺した。131020

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300年、司馬倫が賈后を破り、益州が自立

正月、太子が許昌に幽閉され、王敦が見送る

孝惠皇帝上之下永康元年(庚申,公元三零零年)
春,正月,癸亥朔,赦天下,改元。
西戎校尉司馬閻纘輿棺詣闕上書,以為:「漢戾太子稱兵拒命,言者猶曰罪當笞耳。今遹受罪之日,不敢失道,猶為輕於戾太子。宜重選師傅,先加嚴誨,若不悛改,棄之未晚也。」書奏,不省。纘,圃之孫也。

春正月の癸亥ついたち、天下を赦して改元する。

日食の有無と日付について、2636頁。

西戎校尉司馬の閻纘は、棺を輿して、闕を詣でて上書した。

西戎校尉について、2636頁。

閻纘「前漢の戻太子は、稱兵・拒命する。戻太子の発言は、笞罪にあたる。いま司馬遹は罪を受けたが、彼は敢えて道を失わない。罪は戻太子よりも軽い。師傅を重選して、先に厳誨を加えろ。もし悛改せねば、その後に棄てても晚くない」と。書は奏され、省られず。閻纘は、閻圃の孫である。

閻圃は、漢献帝の建安20年にある。張魯のところにいたね。


賈後使黃門自首欲與太子為逆。詔以黃門首辭班示公卿,遣東武公澹以千兵防衛太子,幽於許昌宮,令持書御史劉振持節守之,詔宮臣不得辭送。洗馬江統、潘滔、舍人王敦、杜蕤、魯瑤等冒禁至伊水,拜辭涕泣。司隸校尉滿奮收縛統籌送獄。其系河南獄者,樂廣悉解遣之;系洛陽縣獄者,猶未釋。都官從事孫琰說賈謐曰:「所以廢徙太子,以其為惡故耳。今宮臣冒罪拜辭,而加以重辟;流聞四方,乃更彰太子之德也,不如釋之。」謐乃語洛陽令曹攄使釋之;廣亦不坐。敦,覽之孫;攄,肇之孫也。太子至許,遺王妃書,自陳誣枉,妃父衍不敢以聞。

賈后は黄門に自首させ、「太子とともに叛逆した」といわせる。詔して「黄門の首辞を公卿に班示せよ」と。東武公の司馬澹をやり、兵1千で太子を衛らせた。太子を許昌宮に幽閉した。

ぼくは思う。曹魏の皇帝も、許昌に幽閉された人がいたはず。漢献帝も、ここに幽閉されたんだっけw

持書御史の劉振に持節させ、太子を守らせる。

持書御史とは、治書侍御史である。

詔して、宮臣には太子を辞送させない。洗馬の江統、潘滔、舍人の王敦、杜蕤、魯瑤らは、禁を冒して、伊水に至る。拜辞・涕泣する。

ぼくは思う。太子の見送りに登場するから、さきに胡三省が、彼らを太子の与党ないし官属だと言ったのだ。

司隸校尉の満奮は、江統らを收縛し、籌して送獄した。この河南尹の獄に繋がれた者を、楽広がすべて解いた。洛陽県の獄に繋がれた者は、釈放されず。

楽広は河南尹である。だから河南の郡獄につながれた者を、楽広の権限で解放できた。
ぼくは思う。いくら河南尹でも、洛陽県の獄には手を出せないのね。

都官從事の孫琰は賈謐にいう。「太子を廃徙する所以は、太子が悪をなしたから。いま宮臣は、罪を冒して拝辞した。だが重辟を加え、四方に流聞する。太子之德を更彰することになる。釈放するほうがよい」と。

ぼくは補う。「太子を見送るやつがいた」ことが、彼らを捕らえておくことで明らかになり、忘れ去られない。すると「太子は悪をなさぬのでは」と疑うだろう。それは賈謐がこまる。

賈謐は洛陽令の曹攄に釈放させた。楽広もまた(かってに釈放したが)連座せず。王敦は王覧の孫である。曹攄は曹肇の孫である。

王覧は、曹髦の甘露元年にある。曹肇は、曹叡の景初2年にある。

太子は許昌にいたり、王妃に文書をおくる。みずから「誣枉(無罪)だ」という。王妃の父・王衍は、あえて聞かず。

丙子,皇孫A170卒。

正月の丙子、皇孫の司馬_が卒した。

病気ではない。帝紀では、司馬霖とする。だが、司馬_が正しい。ぼくは思う。「霖」なら、漢字が出るのに。


3月、孫秀が賈后を生かし、太子が殴殺さる

三月,尉氏雨血,妖星見南方,太白晝見,中台星拆。張華少子韙勸華遜位,華不從,曰:「天道幽遠,不如靜以待之。」

3月、尉氏(陳留)で血がふる。妖星が南方にある。太白が昼に見える。中台は星拆する。

県名の由来、『晋書』天文志との比較、『史記』天官書による注釈。2638頁。

張華の少子・張韙は、張華に遜位を勧めるが、張華は従わず。張華「天道は幽遠である。静かに待つのがよい」と。

ぼくは思う。張華は三公なのに、責任をとらない。
胡三省はいう。張華はいったい何を待つのか。ぼくは補う。結果から遡ると、殺されるを待っているとしか思えない。


太子既廢,眾情憤怒。有衛督司馬雅、常從督許超,皆嘗給事東宮,與殿中郎士猗等謀廢賈後,復太子。以張華、裴頠安常保位,難與行權,右軍將軍趙王倫執兵柄,性貪冒,可假以濟事。乃說孫秀曰:「中宮凶妒無道,與賈謐等共誣廢太子。今國無嫡嗣,社稷將危,大臣將起大事,而公名奉事中宮,與賈、郭親善,太子之廢,皆雲豫知,一朝事起,禍必相及,何不先謀之乎!」秀許諾,言於倫,倫納焉,遂告通事令史張林及省事張衡等,使為內應。

太子はすでに廃され、衆情は憤怒する。右衛督の司馬雅、常從督の許超は、どちらも東宮に給事した。殿中郎の士猗らと「賈后を廃して、太子を復そう」と謀る。

右衛督、常従督、殿中中郎は、みな二衛に属する。晋武帝は、はなはだ兵官を重んじた。殿中の軍校には、朝廷の清望の士をつけた。司馬雅は、宗室の疏属である(から殿中の軍校に就いてる)。
ぼくは思う。晋武帝は平和ボケと言われるが、宮中の兵官は、ポストが多くて細かいし、そこに良い人材を宛てる。まあこの充実ぶりが、さきに楊駿を殺すようなクーデターのリスクを生むのだが。

張華と裴頠は、安常・保位しており、ともに行権(廃后を計画)するのが難しい。右軍將軍する趙王の司馬倫は、兵柄を執り、性は貪冒である。假して濟事できそう。司馬雅と許超は、孫秀に説く。「中宮(賈后)は凶妒・無道である。賈謐らとともに太子を誣廢した。いま国には嫡嗣がいない。社稷は危うい。大臣は大事を起しそう。公名では(司馬倫と孫秀の派閥は)中宮に奉事して、賈氏と郭氏と親善である。太子之廢は、みな豫め知るという。一朝に事が起らば、禍いは必ず相い及ばん。なぜ(孫秀は)先んじて賈后に謀らないか」と。孫秀は許諾して、司馬倫にいう。司馬倫も(賈后を廃する)ことを納れた。ついに通事令史の張林と省事の張衡らに告げて、内応させる。

通事令史は、中書令史である。中書侍郎は、もとは通事郎である。官名を改めたが、まだ「通事」という言い方が残る。
陸機『恵帝起居注』によると、張林とは、黒山の張燕の曾孫である。


事將起,孫秀言於倫曰:「太子聰明剛猛,若還東宮,必不受制於人。明公素黨於賈後,道路皆知之,今雖建大功於太子,太子謂公特逼於百姓之望,翻覆以免罪耳,雖含忍宿忿,必不能深德明公,若有瑕釁,猶不免誅。不若遷延緩期,賈後必害太子,然後廢賈後,為太子報仇,豈徒免禍而已,乃更可以得志!」倫然之。

事が起ころうとするとき、孫秀は司馬倫にいう。「太子は聡明・剛猛である。もし東宮に還れば、必ず人の制を受けない。司馬倫が賈后の党与であることは、道路は皆な知っている。いま大功を太子に建てても、太子は司馬倫が百姓之望に特逼したといい、翻覆して免罪してくれるかも知れない。

胡三省はいう。百姓は、太子の復帰を望む。司馬倫は(復帰を望む世論を)畏逼して(賈后を支持)きた。ゆえに賈后に背いて太子をもどし、せめて自ら免罪を求めようというのだ。

宿忿を含忍しても(賈后を裏切っても、太子は)明公を深く德としないのでは。もし瑕釁があれば、誅を免れないかも。遷延・緩期(計画を遅らせる)のがよい。賈后は必ずや太子を殺害する。その後で賈后を廃せば、太子のために報仇したことになる。禍いを免れるだけでなく、さらに志を得られる(司馬倫が執政できる)」と。司馬倫は同意した。

ぼくは思う。この孫秀のささやきが、西晋を乱す。孫秀がその役割を負っているが、まあ孫秀は小者である。わるいのは司馬倫だ。司馬倫の胸中の葛藤を、孫秀というキャラで切り出しているに過ぎない。


秀因使人行反間,言殿中人欲廢皇后,迎太子。賈後數遣宮婢微服於民間聽察,聞之甚懼。倫、秀因勸謐等早除太子,以絕眾望。癸未,賈後使太醫令程據和毒藥。矯詔使黃門孫慮至許昌毒太子。太子自廢黜,恐被毒,常自煮食於前;慮以告劉振,振乃徙太子於小坊中,絕其食,宮人猶竊於牆上過食與之。慮逼太子以藥,太子不肯服,慮以藥杵椎殺之。有司請以庶人禮葬,賈後表請以廣陵王禮葬之。

孫秀は人をつかって反間させた。「殿中の人は、賈后を廃して、太子を迎えたい」と言いふらす。

司馬雅、許超、士猗らが、殿中の人である。

賈后は、宮婢に微服させ、民間を聽察する。孫秀の流した噂を聞いて、甚懼した。司馬倫と孫秀は、賈謐らに「早く太子を除いて、衆望を絶やせ」と勧める。
3月癸未、賈后は太医令の程拠に、毒薬を和させる。詔を矯め、黄門の孫慮をゆかせ、許昌の太子に毒をもる。太子は自ら廢黜して、毒をもられるのを恐れる。つねに自らの前で食を煮させた。孫慮は劉振に告げ、劉振は太子を小坊中に徙し、食を絶たせる。だが、なお宮人は壁の上から、食糧を太子にわたす。孫慮は太子に逼って「薬を飲め」という。太子は肯服せず。孫慮は薬の杵椎で、太子を殺した。

『漢辞海』はいう。【椎】ものをたたく器具。つち。つちでうつ。胸をたたく(悲痛の表現)。「椎殺」つちで打ち殺すこと。『史記』魏公子伝にある。

有司は、庶人の礼で葬れと請う。賈后は表して、広陵王の礼で太子を葬った。

八王をカウントするとき、「広陵王」司馬遹は含まれないのだが。彼もまた、恵帝の主体性のなさと、司馬倫の陰謀によって殺された。同じ文脈で描かれても良いはず。


夏、司馬倫と司馬肜が賈后を庶人におとす

夏,四月,辛卯朔,日有食之。

夏4月の辛卯ついたち、日食あり。

趙王倫、孫秀將討賈後,告右衛佽飛督閭和,和從之,期以癸巳丙夜一籌,以鼓聲為應。癸巳,秀使司馬雅告張華曰:「趙王欲與公共匡社稷,為天下除害,使雅以告。」華拒之。雅怒曰:「刃將加頸,猶為是言邪!」不顧而出。及期,倫矯詔敕三部司馬曰:「中宮與賈謐等殺吾太子,今使車騎入廢中宮,汝等皆當從命,事畢,賜爵關中侯,不從者誅三族。」眾皆從之。又矯詔開門,夜入,陳兵道南,遣翊軍校尉齊王冏將百人排冏而入,華林令駱休為內應,迎帝幸東堂,以詔召賈謐於殿前,將誅之。謐走入西鐘下,呼曰:「阿後救我!」就斬之。

司馬倫と孫秀は、賈后を討とうとする。右衛佽飛督の閭和に告げ、閭和は従った。癸巳と丙夜の夜の一籌を期する。鼓聲に応じることにした。

晋制では、右衛佽飛督とは、虎賁2督である。佽飛とは、荊人のこと。長江にゆき蛟を斬った、古代の勇士である。漢代より、衛士の号につかう。
丙夜、夜に3鼓する。丙夜の1一籌とは、3更1点である。?

4月癸巳、孫秀は司馬雅をやり、張華に告げた。「司馬倫は張華とともに、社稷を匡し、天下のために除害したい。わたくし司馬雅に告げさせた」と。張華はこばむ。司馬雅は怒った。「刃が頸に加えられそうでも、そんなことを言うか」と。顧みずに出た。

胡三省はいう。張華は策略のある人物だったが、司馬雅の言葉と態度が悖るので、従わなかった。衆の賈后に対する怒りが収まらないことを知っており、また張華自身は賈后のために働いてきた。張華は(もう対処のしようがなく)自分の死を待ったのだ。

約束の時刻となり、司馬倫は詔を矯め、三部司馬に敕した。「中宮(賈后)と賈謐らは、わが(恵帝の)太子を殺した。いま車騎将軍を入れ、中宮を廢そう。

晋制の二衛には、前駆、由基、強弩の三部司馬がいる。
車騎将軍とは司馬倫。司馬倫は、車騎将軍を以て右軍将軍を領す。

命令に従った者は、賈后を廃し終えたら、関中侯を賜爵する。従わぬ者は三族を誅する」と。衆はみな従う。矯詔・開門し、夜に入る。兵を御道の南にならべ、翊軍校尉する齊王の司馬冏に1百人をつけ、排閤して入れる。華林令の駱休が内応する。

晋武帝の太康元年、翊軍校尉をおく。
華林令とは、華林園令である。曹魏は芳林園をつくり、のちに曹芳の諱をさけて華林とした。2640頁。

駱休は、恵帝を迎えて東堂にゆかす。詔を以て、賈謐を殿前に召して、誅したい。賈謐は西鐘の下に走入して「阿后は私を救え」と叫ぶ。賈謐は斬られた。

賈後見齊王冏,驚曰:「卿何為來?」冏曰:「有詔收後。」後曰:「詔當從我出,何詔也!」後至上閤,遙呼帝曰:「陛下有婦,使人廢之,亦行自廢矣。」

賈后は司馬冏に会って「何しにきた」という。司馬冏「詔があり賈后を收めろと」と。賈后「詔は私から出る。どこが詔やねん」と。
賈后は上閤に至り、遙かに恵帝を呼んだ。「陛下には婦人があるが、人をやって廃するという。これは自らを(恵帝が恵帝を)廃することでもある」と。

ぼくは思う。恵帝の存在感のなさは、徹底している。ここまで「傀儡」だった皇帝は、幼帝を除いては知らない。恵帝が黙っているだけでなく、恵帝をめぐる言論が、みな侮りまくっている。もの言わぬマネキンのような扱いだ。もし恵帝が口を開いたら、たちまち辻褄が合わなくなるような際どいことも、恵帝に仮託して平気でやるのだ。政敵同士の両方が。


是時,梁王肜亦預其謀,後問冏曰:「起事者誰?」冏曰:「梁、趙。」後曰:「系狗當繫頸,反系其尾,何得不然!」遂廢後為庶人,幽之於建始殿,收趙粲、賈午等付暴室考竟。詔尚書收捕賈氏親黨,召中書監、侍中、黃門侍郎、八座皆夜入殿。尚書始疑詔有詐,郎師景露版奏請手詔,倫等斬之以徇。

このとき、梁王の司馬肜もまた、その謀(廃后)に預る。賈后は司馬冏に問う。「事を起した者は誰か」と。司馬冏「梁(司馬肜)、趙(司馬倫)」と。賈后「イヌをつなぐなら、頭を繋ぐだけでなく、尾もつなぐべきだった。なぜをを繋がなかったか」と。

ぼくは補う。賈后「司馬氏というイヌを制御するには、頭である(冴えたキャラの)司馬倫だけでなく、尾である(冴えないキャラの)司馬肜も、味方に取り込んでおくべきだった」と。
胡三省は「司馬倫と司馬肜を先に誅しておくべきだった」と解釈する。

ついに賈后を廃して庶人とし、建始殿に幽閉した。趙粲と賈午らを収め、暴室で考竟に付した。

『晋志』はいう。暴室令は、光禄勲に属する。

尚書に詔して、賈氏の親党を收捕した。中書監、侍中、黃門侍郎を召して、八座を夜に入殿させる。はじめ尚書は、詔が詐りではと疑った。尚書郎の師景が、版を露にして、奏して手詔を請う。司馬倫らは師景を斬って徇わせる。

司馬倫が張華を殺し、執政する

倫陰與秀謀篡位,欲先除朝望,且報宿怨,乃執張華、裴頠、解系、解結等於殿前。華謂張林曰:「卿欲害忠臣邪?」林稱詔詰之曰:「卿為宰相,太子之廢,不能死節,何也?」華曰:「式乾之議,臣諫事具存,可覆按也。」林曰:「諫而不從,何不去位?」華無以對。遂皆斬之,仍夷三族。解結女適裴氏,明日當嫁而禍起,裴氏欲認活之,女曰:「家既若此,我何以活為!」亦坐死。朝廷由是議革舊制,女不從死。甲午,倫坐端門,遣尚書和郁持節送賈庶人於金墉;誅劉振、董猛、孫慮、程據等;司徒王戎及內外官坐張、裴親黨黜免者甚眾。閻纘撫張華屍慟哭曰:「早語君遜位而不肯,今果不免,命也!」

司馬倫はひそかに孫秀と、篡位を謀る。先に朝望を除き、かつ宿怨を報じたい。張華、裴頠、解系、解結らを殿前で執える。

孫秀と、張華ら「朝望」の対立は、元康6年にある。解結は解系の弟。孫秀は関中をみだし、解結は「孫秀を誅するべきだ」と議した。ゆえに孫秀は怨んでいる。

張華は張林にいう。張華「きみは忠臣を殺害したいか」と。張林は詔と称して、張華をなじる。張林「きみは宰相だが、太子が廃されるとき、死節しなかった。なぜだ」と。張華「式乾之議で、私の諫事は具存した。覆って按じろ」と。

ぼくは思う。張華は「太子を廃するなと、オレは抵抗したんだ。サボっていたんじゃない」と弁明している。セコいなあ。

張林「諫めたが(賈后は張華の意見に)従わず。なぜ宰相の位を去らないか」と。張華は答えられない。
ついに、みな斬られ、夷三族。
解結の女は、裴氏にとつぐ。裴氏は、解氏の嫁を殺したくない。解氏の嫁「わが解氏はこう(夷三族に)なった。どうして私が活きていられよう」と。また坐死した。これより朝廷は議して、旧制を変革して、娘は父母の家に連座せず、死なぬことにした。
甲午、司馬倫は端門に坐する。尚書の和郁に持節させ、賈庶人を金墉に送らせる。劉振、董猛、孫慮、程據らを誅した。

楊太后と太子の司馬遹が廃されたとき、「庶人」と書かない。賈氏だけを「庶人」と書くのは、史家が賈后の罪を正すためである。

司徒の王戎と、内外の官で張氏と裴氏の親党で黜免された者は、甚だ衆い。
閻纘は張華の屍を撫でて、慟哭した。「早くに君に宰相の官職を遜けといったのに、官職に残るから死を免れなかった。運命だなあ」と。

ぼくは思う。張華の意図が分かりにくい。張華を主人公とした物語を書けば、なにか見えるのだろうか。


於是趙王倫稱詔赦天下,自為使持節、都督中外諸軍事、相國、侍中,一依宣、文輔魏故事。置府兵萬人,以其世子散騎常侍荂領冗從僕射,子馥為前將軍,封濟陽王;虔為黃門朗,封汝陰王;詡為散騎侍郎,封霸城侯。孫秀等皆封大郡,並據兵權,文武官封侯者數千人,百官總己以聽於倫。倫素庸愚,復受制於孫秀。秀為中書令,威權振朝廷,天下皆事秀而無求於倫。

ここにおいて司馬倫は、詔と称して天下を赦す。自らを、使持節、都督中外諸軍事、相國、侍中とする。司馬懿や司馬昭が輔魏した故事に依拠する。

『晋志』はいう。丞相も相国も秦官であり、魏晋革命のとき、どちらも置かれず。だが恵帝ののち、司馬倫、司馬肜、司馬穎、司馬保、王敦、王導らがつく。人臣の官職ではない。司馬懿と司馬昭が就いたときも、人臣の官職ではなかった。

司馬倫は、府兵1万人をおき、世子たる散騎常侍の司馬荂を領冗從僕射とする。子たる司馬馥を前將軍とし、済陽王に封じる。司馬虔を黄門郎とし、汝陰王に封じる。司馬詡を散騎侍郎とし、霸城侯に封じる。

司馬倫の子たちの官職について、2641頁の最後。

孫秀らを大郡に封じ、兵権を並據する。文武の官で封侯された者は数千人。百官はすべて司馬倫に決裁をあおぐ。司馬倫は庸愚なので、ふたたび孫秀の制を受ける。孫秀は中書令となり、威権は朝廷を振わす。天下は、みな孫秀につかえ、司馬倫に求めない。

詔追復故太子遹位號,使尚書和郁帥東宮官屬迎太子喪於許昌,追封遹子A170為南陽王,封[A170]弟臧為臨淮王,尚為襄陽王。
有司奏:「尚書令王衍備位大臣,太子被誣,志在苟免,請禁錮終身。」從之。

詔して、もと太子の司馬遹に位號を追贈する。尚書の和郁に、東宮の官屬を帥いさせ、太子の喪を許昌に迎える。司馬遹の子・司馬_を追封して、南陽王とする。司馬_の弟・司馬臧を臨淮王とする。司馬尚を襄陽王とする。

孫秀の言うとおり、太子を賈后に殺させ、賈后を司馬倫が廃した。太子が握るべき権限が、司馬倫に転がりこんできた。ナイスな三段論法である。

有司は奏した。「尚書令の王衍は、大臣に備位しながら、太子が誣された。王衍の意志は免官だろうが、終身の禁錮とすべきだ」と。許可された。

相國倫欲收入望,選用海內名德之士,以前平陽太守李重、滎陽太守荀組為左、右長史,東平王堪、沛國劉謨為左、右司馬,尚書郎陽平束皙為記室,淮南王文學荀嵩、殿中郎陸機為參軍。組,勖之子;嵩,彧之玄孫也。李重知倫有異志,辭疾不就,倫逼之不已,憂憤成疾,扶曳受拜,數日而卒。

相國の司馬倫は、望(声望ある者)を收入したい。海内の名德之士を選用した。
さきの平陽太守の李重、滎陽太守の荀組を、左右長史とした。東平王の司馬堪、沛國の劉謨を、左右司馬とした。尚書郎する陽平の束皙を記室とした。淮南王文學の荀嵩、殿中郎の陸機を參軍とした。

官職や「束」姓の注釈は、2642頁。

荀組は、荀勗の子。荀嵩は、荀彧の玄孫。

胡三省はいう。荀勖は、晋初に佐命の臣であった。荀彧は、魏初に佐命の官であった。ぼくは思う。荀彧は「佐命」と割り切って良いのか。そのほうが荀勖との対句が美しくなるけれど。対句を重んじて、内容は二の次。まあ言語による注釈なんて、そんなもんだよね。
ぼくは思う。これと並行して『荀彧』という連載小説を書いてます。いま13回を考えているところ。袁術と袁紹が衝突するところ。あとから見返したら、懐かしめるのだろうか。

李重は、司馬倫に異志があるので、辭疾して就かず。司馬倫が逼るので、憂憤・成疾した。扶曳・受拜して、数日で卒した。

丁酉,以梁王肜為太宰,左光祿大夫何劭為司徒,右光祿大夫劉寔為司空。
太子遹之廢也,將立淮南王允為太弟,議者不合。會趙王倫廢賈後,乃以允為驃騎將軍、開府儀同三司,領中護軍。
己亥,相國倫矯詔遣尚書劉弘繼金屑酒,賜賈後死於金墉城。

4月の丁酉、司馬肜を太宰とした。左光祿大夫の何劭を司徒とした。右光祿大夫の劉寔を司空とした。

左右の光禄大夫について、2642頁の最後。新しい三公を、どちらも光禄大夫から連れてきたのだから、その胡注も長くなるというものだ。

太子の司馬遹が廃されると、淮南王の司馬允を太弟に立てようとする。議者は合わず。司馬倫が賈后を廃すると、司馬允は驃騎將軍、開府儀同三司、領中護軍となる。
4月の己亥、相國の司馬倫は矯詔して、尚書の劉弘に金屑の酒(毒酒)を継がせ、金墉城で賈后に賜った。

愍懐と諡し、皇太孫をたてる

五月,己巳,詔立臨淮王臧為皇太孫,還妃王氏以母之;太子官屬即轉為太孫官屬,相國倫行太孫太傅。
己卯,謚故太子曰愍懷;六月,壬寅,葬於顯平陵。
清河康王遐薨。

5月の己巳、詔して、臨淮王の司馬臧を皇太孫とした。妃の王氏を還して、皇太孫の母とした。太子の官属は、太孫の官属に転じた。相國の司馬倫は、行太孫太傅となる。

すでに恵帝の孫である。この世代まで、西晋の帝位は回らない。というか、恵帝の弟のときに西晋は滅びるのだ。

5月の己卯、もと太子を「愍懐」と謚する。6月の壬寅、顯平陵に葬る。
清河康王の司馬遐が薨じた。

秋、劉頌が病死し、司馬倫が九錫を受ける

中護軍淮南王允,性沉毅,宿衛將士皆畏服之。允知相國倫及孫秀有異志,陰養死士,謀討之;倫、秀深憚之。

中護軍する淮南王の司馬允は、性は沉毅。宿衛の將士は、みな司馬允に畏服する。司馬允は、司馬倫と孫秀に異志があるのを知る。ひそかに死士を養い、司馬倫を討ちたい。司馬倫は、司馬允をはばかる。

ぼくは思う。八王の乱らしくなってきた!やっぱり賈后が重石になっていた。賈后が外れてしまうと、収拾が付かなくなるのだ。


秋,八月,轉允為太尉,外示優崇,實奪其兵權。允稱疾不拜。秀遣御史劉機逼允,收其官屬以下,劾以拒詔,大逆不敬。允視詔,乃秀手書也,大怒,收御史,將斬之,御史走免,斬其令史二人。厲色謂左右曰:「趙王欲破我家!」遂帥國兵及帳下七百人直出,大呼曰:「趙王反,我將討之,從我者左袒。」於是歸之者甚眾。允將赴宮,尚書左丞王輿閉掖門,允不得入,遂圍相府。

秋8月、司馬允を太尉に転じて、外には優崇を示す。実はその兵権を奪った。

中護軍は兵を掌する。太尉に転じれば兵を掌さず。

司馬允は稱疾して拜さず。孫秀は、御史の劉機をやって司馬允に逼る。司馬允の官属をおさめ、拒詔を劾する。司馬允を大逆・不敬とする。
司馬允は詔を視て、詔が孫秀の手書だったので、大怒して御史を收め、斬ろうとした。御史は走免したので、その令史2人を斬る。司馬允は厲色して左右にいう。「趙王の司馬倫は、わが司馬氏を破る」と。ついに(淮南の)国兵および(中護軍の)帳下7百人を帥いて、直出する。
司馬允は大呼して「趙王が反したから討ちにゆく。私に従う者は左袒せよ」と。ここにおいて司馬允に帰する者は、甚だ衆い。

ぼくは思う。「甚だ衆い」ばかりだ。官僚とそれに属する者が、雪崩をうって、右から左、左から右へと移動している。それだけ皇帝の周囲、西晋の中枢がブレている。

司馬允は宮に赴きたいが、尚書左丞の王輿が掖門を閉して、入れない。ついに(司馬倫のいる東宮の)相府を囲んだ。

允所將兵皆精銳,倫與戰,屢敗,死者千餘人。太子左率陳徽勒東宮兵,鼓噪於內以應允。允結陳於承華門前,弓弩齊發,射倫,飛矢雨下。主書司馬眭秘以身蔽倫,箭中其背而死。倫官屬皆隱樹而立,每樹輒中數百箭,自辰至未,中書令陳淮,徽之兄也,欲應允,言於帝曰:「宜遣白虎幡以解鬥。」乃使司馬督護伏胤將騎四百持幡從宮中出。侍中汝陰王虔在門下省,陰與胤誓曰:「富貴當與卿共之。」胤乃懷空板出,詐言有詔助淮南王。允不之覺,開陣內之,下車受詔;胤因殺之,並殺允子秦王郁、漢王迪,坐允夷滅者數千人。曲赦洛陽。

司馬允のひきいる兵は精銳である。司馬倫は戦うが、しばしば敗れ、死者は1千餘人。太子左率の陳徽は、東宮の兵を勒して、鼓噪して司馬允に内応した。司馬允は承華の門前に結陳する。弓弩を齊發して、倫を射る。飛矢は雨下する。

『資治通鑑』なのに、胸が躍る展開。

主書司馬の眭秘は、身をもって司馬倫をおおう。箭が眭秘の背にあたり、眭秘は死んだ。

主書司馬は、司馬倫が相国の府に自ら置いた官職だろう。

司馬倫の官属は、みな樹に隠れて立つ。樹ごとに数百の箭があたる。辰から未の刻まで、矢がそそぐ。
中書令の陳淮は、陳徽の兄である。司馬允に応じたいので、恵帝にいう。陳準「白虎幡をだして戦闘を解かせろ」と。司馬督護の伏胤に、4百騎をひきいさせ、白虎幡をもち宮中より出た。

胡三省はいう。白虎幡は、軍を戦闘に進める旗だ。けだし陳準は、恵帝が庸愚(バカ)なので、騶虞幡と取り違えさせた。司馬倫の兵が白虎幡を見れば「恵帝が進撃を命じた」と考え、司馬允につっこむ。司馬允のほうが強いから、司馬倫は敗れる。こういう意図でないと「陳準が司馬允に応じる」とは言えない。陳準がミスったのではない。
さて次から、一気に司馬允の死に物語が向かいます。

侍中する汝陰王の司馬虔は、門下で省た。ひそかに司馬虔伏胤とともに誓った。「富貴はきみと共にしよう」と。伏胤は、空板(白紙の詔書)を懐から出して、詐って「詔により淮南王の司馬允を助ける」という。

胡三省はいう。もとより詔書などないが、白紙の詔書(空版)を出したのだ。

司馬允は詔がウソだと覚らず、陣を開いて司馬虔を入れた。下車して詔を受けた。伏胤は司馬允を殺した。司馬允の子である、秦王の司馬郁、漢王の司馬迪を殺した。司馬允に座して夷滅された者は数千人。洛陽だけで曲赦した。

天下をあまねく赦すのでないから「曲赦」という。


初,孫秀嘗為小吏,事黃門郎潘岳,岳屢撻之。衛尉石崇之甥歐陽建素與相國倫有隙,崇有愛妾曰綠珠,孫秀便求之,崇不與。及淮南王允敗,秀因稱石崇、潘岳、歐陽建奉允為亂,收之。崇歎曰:「奴輩利吾財爾!」收者曰:「知財為禍,何不早散之?」崇不能答。

かつて孫秀が小吏のとき、黄門郎の潘岳につかえ、しばしば潘岳に撻された。

孫秀は瑯邪の人。潘岳が瑯邪内史のとき、孫秀は少吏となった。潘岳に給して、狡点・自喜した。潘岳は孫秀の人となりを悪み、しばしば撻辱した。

衛尉の石崇の甥・欧陽建は、もとより司馬倫と仲が悪い。

欧陽建は司馬倫の罪悪を表した。元康6年にある。

石崇の愛妾は緑珠というが、孫秀は緑珠を求めた。石崇は孫秀に与えない。

緑珠は笛吹がうまい。『太平広記』は緑珠についていう。2644頁。

淮南王の司馬允が敗れると、孫秀は「石崇、潘岳、欧陽建が、司馬允を奉じて乱をなした」といい、彼らを收めた。石崇は歎じた。「孫秀のやつは、わが財産をねらい、私を捕らえた」と。收める者「財産が禍いをなすと知るなら、なぜ早く散じなかった」と。石崇は答えられず。

ぼくは思う。名台詞だが、なんだこの開き直りは。盗人のほうが、正当めいた発言をするなんて。それとも捕らえにきた者は、ただ役割を果たすのみで、孫秀の一派ではないのか。第三者なのか。
『考異』はいう。石崇伝では、石崇と欧陽建は、ひそかに孫秀の計画を知り、司馬允と司馬冏とともに、司馬倫を殺害しようとしたと。もし石崇が司馬允と同謀したなら、司馬允が敗れた時点でビビるべきだ。孫秀に捕らえられたとき、楼上で宴してたのはおかしい。孫秀が石崇をにくみ(司馬允との同謀を)でっちあげたのだ。
『晋書』石崇伝はいう。孫秀は緑珠をもとめ、石崇が断った。孫秀は怒り、司馬倫に「石崇を殺せ」と勧めた。石崇は楼上で宴をした。孫秀からの介士がきたと聞き、石崇は緑珠にいう。「緑珠のために私は罪を得た(孫秀に冤罪を着せられる原因は緑珠だ)」と。緑珠は泣いて「石崇の前で私は死のう」という。緑珠は楼上から飛び降りて死んだ。


初,潘岳母常誚責岳曰:「汝當知足,而乾沒不已乎!」及敗,岳謝母曰:「負阿母。」遂與崇,建皆族誅,籍沒崇家。相國倫收淮南王母弟吳王晏,欲殺之。光祿大夫傅祗爭之於朝堂,眾皆諫止倫,倫乃貶晏為賓徒縣王。

はじめ潘岳の母は、つねに潘岳を誚責した。「足るを知れ。乾没して已まざるか」と。

けだし潘岳が、時に乗じて利を射て、止めるのを知らぬのを諫めたのだ。
服虔はいう。「乾没」とは、成敗を射ること。如淳はいう。利を得るのが「乾」で、利を失うのが「没」である。

潘岳が孫秀に敗れると、潘岳は母に「母に負阿しておけば」という。

阿とは、従って安じて声を入れること。
ぼくは思う。母に負(たよって)阿(したがって)おけばと。

ついに石崇とともに、潘岳は、石崇と欧陽建とともに族誅された。石崇の家は、籍没された。
相国の司馬倫は、淮南王の同母弟・呉王の司馬晏を殺したい。光祿大夫の傅祗は、朝堂で司馬倫と争い、みな司馬倫を諫止した。司馬倫は、司馬晏を賓徒縣王(遼東属国)に降格した。

齊王冏以功遷游擊將軍,冏意不滿,有恨色。孫秀覺之,且憚其在內,乃出為平東將軍,鎮許昌。
以光祿大夫陳准為太尉,錄尚書事;未幾,薨。

齊王の司馬冏は、功により游擊將軍に遷る。だが司馬冏の意は満たず、恨色がある。孫秀はこれを覚り、在内にいる司馬冏を憚り、司馬冏を出して平東將軍とし、許昌に鎮させる。

『晋志』はいう。驍騎将軍、遊撃将軍は、漢代の雑号である。曹魏で置かれて中軍となる。死んだしに、領・護、左・右衛、驍騎、遊撃の6軍ができる。
司馬冏が許昌にいくのは、許昌で起兵して司馬倫を討つ張本である。ぼくは思う。八王の乱の火種が、着実に蓄えられていく。まるで伏線を張るためのような政局の流れである。

光祿大夫の陳准を太尉とし、録尚書事させる。幾くもなく薨じた。

孫秀議加相國倫九錫,百官莫敢異議。吏部尚書劉頌曰:「昔漢之錫魏,魏之錫晉,皆一時之用,非可通行。周勃、霍光,其功至大,皆不聞有九錫之命也。」張林積忿不已,以頌為張華之黨,將殺之。孫秀曰:「殺張、裴已傷時望,不可復殺頌。」林乃止。以頌為光祿大夫。遂下詔加倫九錫,復加其子荂撫軍將軍,虔中軍將軍,詡為侍中。又加孫秀侍中、輔國將軍,相國司馬、右率如故。張林等並居顯要。增相府兵為二萬人,與宿衛同,並所隱匿之兵,數逾三萬。

孫秀は「相国の司馬倫に九錫を加えろ」と議論した。百官は敢えて異議しない。吏部尚書の劉頌はいう。

ぼくは思う。『通鑑』において劉頌は、執政とは反対の意見を言う役割。この対立者がいないと、何が正しいのか分からない、まことに締まりのない物語となる。教訓も見えにくく、読んでて不安になる。

劉頌「漢魏と魏晋の革命の前に、九錫を賜ったのは、どちらも一時之用であり、通行すべきものでない。周勃、霍光は功績が至大だが、どちらも九錫の命を聞かず」と。

ぼくは思う。曹丕を「故事」に登録して、みなが真似してはいけない。王朝が存続できなくなる。ただでさせ、漢魏と魏晋の革命は、時期が近すぎるのだ。周勃と霍光が九錫をもらわないのは当然で、そのあとの王莽が作法を創設したのだから。
胡三省はいう。禅代して然る後に九錫がある。非常の典である。
胡三省はいう。周勃と霍光は、定策して漢室を安じた。だが九錫之命を聞かない。司馬倫と孫秀の姦謀(司馬倫に九錫)を批判しているのだ。

張林は積忿してやまず。劉頌が張華の党なので、殺そうとした。孫秀「張華と裴頠を殺して、すでに時望は傷んだ。もう劉頌を殺すべきでない」と。張林は、劉頌の殺害を止めた。劉頌は光禄大夫となった。

『晋志』の光禄大夫をひく。2646頁。
『考異』はいう。『三十国春秋』では、司馬倫の党与が大怒して、劉頌を殺害しそう。劉頌は懼れて自殺したと。『晋書』劉頌伝では、劉頌は光禄となり、尋って病卒したと。いま劉頌伝に従う。

ついに下詔して、司馬倫に九錫を加える。子の司馬荂に撫軍將軍を加え、

胡三省はいう。撫軍将軍は、司馬昭が司馬炎に授けた官職で、ついに魏晋革命がおきた。司馬倫が世子に撫軍将軍を加えたのは、どこに意図があるのか。
ぼくは補う。司馬倫は、子の代に「革命」をやろうとしたと胡三省は仄めかしている。まあ司馬倫の代に「革命」は完了してしまうのだが。

司馬虔に中軍將軍を加え、司馬詡を侍中とした。孫秀に侍中、輔国將軍を加えた。相国司馬と右率はもとのまま。張林らは、みな顕要な官職に居る。
相府の兵を2万人に増やす。ともに宿衛を同じくす。隠匿する兵をあわせると、司馬倫の兵は3万をこえる。

九月,改司徒為丞相,以梁王肜為之,肜固辭不受。
倫及諸子皆頑鄙無識,秀狡黠貪淫,所與共事者,皆邪佞之士,惟競榮利,無深謀遠略,志趣乖異,互相憎嫉。秀子會為射聲校尉,形貌短陋,如奴僕之下者,秀使尚帝女河東公主。

9月、司徒を改めて丞相とし、梁王の司馬肜をこれにする。司馬肜は固辞して受けず。
司馬倫および諸子は、みな頑鄙・無識である。孫秀は狡黠・貪淫であり、孫秀とともに司馬倫に事える者は、みな邪佞之士である。ただ榮利を競い、深謀・遠略なし。志趣は乖異し、互相に憎嫉する。

司馬倫が「無識」というのが面白い。さんざん恵帝を脅かす権臣のような動きをするが、じつは司馬倫もまた恵帝と同じく、空虚な中心に過ぎない。ただ周囲が激しく動いているだけ。「空虚な中心」が2つあるせいで、政局が未曾有の混乱をするのだ。ふつうは、司馬倫のように本人が呆けていれば、簒奪なんてできない。

孫秀の子・孫会は、射聲校尉となる。形貌は短陋で、奴僕之下者のようだ。孫秀は孫会に、恵帝の娘・河東公主を尚らせた。

史家はいう。司馬倫と孫秀の已に頸にあり、乃ち望み非らざるを図ると。
ぼくは補う。司馬倫も孫秀も、けっきょく恵帝から簒奪するのだが。本人たちは、べつに簒奪まで計画したのでない。ただ政敵を、節操なく叩いていたら、簒奪するしかなくなった。高すぎる官爵を持つと、その器量のない者は、官爵に操られて、本人の意志に反した暴走を強いられる。


冬、賈后の親戚・益州刺史の趙廞が自立

冬,十一月,甲子,立皇后羊氏,赦天下。後,尚書郎泰山羊玄之之女也。外祖平南將軍樂安孫旂,與孫秀善,故秀立之。拜玄之光祿大夫、特進、散騎常侍,封興晉侯。

冬11月の甲子、皇后に羊氏を立てる。天下を赦した。羊皇后は、尚書郎する泰山の羊玄之の娘である。外祖は、平南將軍した楽安の孫旂であり、孫秀と仲が善い。ゆえに皇后に立てられた。羊玄之は光祿大夫、特進、散騎常侍を拝して、興晋侯に封じられた。

『晋志』光禄大夫について、2646頁。興晋郡は、唐代の河州の境におかれた。


詔征益州刺史趙廞為大長秋,以成都內史中山耿滕為益州刺史。廞,賈後之姻親也。聞征,甚懼,且以晉室衰亂,陰有據蜀之志,乃傾倉廩,賑流民,以收眾心。以李特兄弟材武,其黨類皆巴西人,與廞同郡,厚遇之,以為爪牙。特等憑恃廞勢,專聚眾為盜,蜀人患之。滕數密表:「流民剛剽,蜀人軟弱,主不能制客,必為亂階,宜使還本居。若留之險地,恐秦、雍之禍更移於梁、益矣。」廞聞而惡之。

詔して、益州刺史の趙廞を徵して大長秋とする。成都内史する中山の耿滕を益州刺史とする。

西晋は諸王の国に、内史をおく。漢制の王国の「相」みたいなもの。晋武帝の太康9年、諸王の国相を「内史」と改めた。

趙廞は賈后の姻親である。徵されたと聞き(連座を)甚だ懼れた。かつ晉室が衰亂するので、陰かに據蜀之志がある。倉廩を傾け、流民に賑し、眾心を收む。李特の兄弟に材武があり、李氏の党類は巴西の人で、趙廞と同郡である。趙廞は、巴西の人を厚遇して、爪牙とした。

李特の党類は、もとは巴氐である。趙廞もまた巴西の人であった。李特が入蜀した記事は、元康8年にある。

李特らは、趙廞の権勢を恃み、聚眾を専らにして盜をなす。蜀人は李特らを患う。
耿滕はひそかに表した。「流民は剛剽する。蜀人は軟弱で、主は客を制せない。必ず亂階をなす。(李特らを)本居に還らせよ。もし險地に留めれば、秦州と雍州の禍いが、梁州と益州にも波及しそう」と。趙廞は聞いて、耿滕をにくむ。

州被詔書,遣文武千餘人迎滕。是時,成都治少城,益州治太城,廞猶在太城,未去。滕欲入州,功曹陳恂諫曰:「今州、郡構犯日深,入城必有大禍,不如留少城以觀其變,檄諸縣合村保以備秦氐,陳西夷行至,且當待之。不然,退保犍為,西渡江源,以防非常。」滕不從。是日,帥眾入州,廞遣兵逆之,戰於西門,滕敗死。郡吏皆竄走,惟陳恂面縛詣廞請滕喪,廞義而許之。

益州は詔書をうけ、文武1千余人で耿滕を迎えた。このとき成都(内史)は少城で治し、益州(刺史)は太城で治す。趙廞は、まだ太城にいて去らない。

2つの城は、戦国秦の張儀がつくった。2647頁。

耿滕は益州に入りたい。功曹の陳恂が諫めた。「いま州と郡(趙廞と耿滕)は、構犯が日に深い。入城すれば必ず大禍ある。少城に留まり、その変を観るのがよい。諸県に檄して、村保を合せ、秦氐に備えろ。陣西夷が行至するのを待て。

李特はもとは巴氐である。蜀人が秦州の境界にうつした者を「秦氐」という。
「陣西夷」は、西夷校尉の陳総のこと。「行至」とは、陳総がきて西夷校尉の官職を領して、成都にくること。西晋の西夷校尉は汶山におかれた。他の方位は2647頁。

さもなくば犍為に退保して、江源県(蜀郡)を西渡し、非常を防げ」と。耿滕は従わず。この日、衆を帥いて益州に入る。趙廞が逆かい西門で戦う。耿滕は趙廞に敗死した。郡吏はみな竄走した。ただ陳恂は面縛して、趙廞に詣で、耿滕の死体を請う。趙廞は義として、死体を返却した。

廞又遣兵逆西夷校尉陳總。總至江陽,聞廞有異志,主簿蜀郡趙模曰:「今州郡不協,必生大變,當速行赴之。府是兵要,助順討逆,誰敢動者!」總更緣道停留,比至南安魚涪津,已遇廞軍,模白總:「散財募士以拒戰,若克州軍,則州可得;不克,順流而退,必無害也。」總曰:「趙益州忿耿侯,故殺之;與吾無嫌,何為如此!」模曰:「今非起事,必當殺君以立威。雖不戰,無益也!」言至垂涕,總不聽,眾遂自潰。總逃草中,模著總服格戰;廞兵殺模,見其非是,更搜求得總,殺之。

趙廞は兵をやり、西夷校尉の陳総をふせぐ。陳総は江陽に至り、趙廞に異志があると聞く。

ぼくは思う。せっかく劉禅を廃したのに、また益州が分裂する瞬間だ。鍾会とか姜維とかの事件の成果が、いま失われてゆく。西晋が分裂する。

主簿する蜀郡の趙模はいう。「いま益州と成都郡は不協である。必ず大変が生じる。速く行赴せよ」と。陳総は趙廞の兵とぶつかった。陳総「趙廞は耿滕に忿って殺したが、私は趙廞に嫌われていない。戦わなくて良い」と。趙模「なにボケてんの。趙廞は陳総を殺すよ」と。陳総は趙模のことを聞かず、自潰した。陳総が逃げるとき、趙模は陳総の服をきて格闘した。趙廞の兵が趙模を殺してから、「陳総じゃない」と気づいた。陳総は見つかって殺された。

胡三省の注釈は、26487頁。
『考異』はいう。『帝紀』はいう。趙廞は、犍為太守の李密、汶山太守の霍固を殺した。『華陽国志』をみると、この2人の太守は名がちがう。


廞自稱大都督,大將軍、益州牧,署置僚屬,改易守令。王官被召,無敢不往。李庠帥妹婿李含、天水任回、上官昌、扶風李攀、始平費他、氐苻成、隗伯等四千騎歸廞。廞以庠為威寇將軍,封陽泉亭侯,委以心膂,使招合六郡壯勇至萬餘人,以斷北道。

趙廞は、大都督・大將軍・益州牧を自称した。僚屬を署置して、守令(の人員)を改易した。

『晋春秋』では、太平元年と建号したという。

王官(西晋の官僚)は(趙廞に)召されても、敢えて往かず。李庠は妹婿の李含、天水の任回、上官昌、扶風の李攀、始平の費他、氐族の苻成、隗伯らを帥いて、4千騎で趙廞に帰した。趙廞は、李庠を威寇將軍とした。陽泉亭侯に封じて、委ねて心膂とした。6郡の壯勇な者を招合して、1萬余人となる。北道を断った。131023

ぼくは思う。趙廞が自立したのは、賈后の親戚として、連座するのを恐れたから。これも八王の乱が波及した結果である。八王の乱が、天下統一を壊したのだ。
「6郡」とは、天水や略陽のこと。「壮雄」は流民からあつめた。「北道」とは、関中から蜀地に入る道だ。ぼくは思う。ついに益州が自立してしまった。

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