-後漢 > 『資治通鑑』 前漢の成帝期を抄訳・下(前13-07)

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前13、王商を病免し、梁王の劉立を処罰せず

孝成皇帝中永始四年(戊申,公元前一三年)
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤;大赦天下,三月,行幸河東,祠后土。 夏,大旱。四月,癸未,長樂臨華殿、未央宮東司馬門皆災。六月,甲午,霸陵園門闕災。
秋,七月,辛未晦,日有食之。冬,十一月,庚申,衛將軍王商病免。

春正月、成帝は、甘泉に行幸して、泰畤を郊する。天下を大赦する。3月、河東に行幸して、后土を祠する。

ぼくは思う。後嗣がほしいから、フルコースである。王莽が登場するまでの、スフィンクスのなぞなぞが、これである。

夏、おおいに日照。4月癸未、長楽の臨華殿、未央宮の東面にある司馬門がどちらも火災。6月甲午、霸陵園の門闕が火災。
秋7月みそか、日食あり。冬11月庚申、衛将軍の王商を病で免じた。

梁王立驕恣無度,至一日十一犯法。相禹奏「立對外家怨望,有惡言。」有司案驗,因發其與姑園子奸事,奏「立禽獸行,請誅。」太中大夫谷永上書曰:「(中略)《春秋》為親者諱。今梁王年少,頗有狂病,始以惡言按驗,既無事實,而發閨門之私,非本章所指(中略)」天子由是寢而不治。

梁王の劉立(劉武の8世孫)は、1日に11も法をおかす。梁相の禹は「劉立さまは、外戚に怨みがあり、王氏の悪口をいう」という。捜査すると劉立は、しゅうとめの園子と姦事をやる。憂死は「劉立は禽獣の行いをする。誅すべきだ」という。
太中大夫の谷永が上書した。「『春秋』では親しき者を諱む。

『公羊伝』閔公元年、斉仲孫がきた。斉仲孫とは、公子慶父である。なぜ公子慶父を、斉仲孫というか。これを外(血縁でない者)とするからである。なぜ外とするか。『春秋』は親しき者を諱むからである。
ぼくは思う。『公羊伝』は呼び方の話だけをしている。谷永はもっと拡大して、親属の処遇についてのべている。意味を拡張しすぎだろ。

いま梁王はわかく、狂病がある。だが有司による調査は事実でない。梁王を罰するな」と。成帝は、梁王を処罰しない。

是歲,司隸校尉蜀郡何武為京兆尹。武為吏,守法盡公,進善退惡,其所居無赫赫名,去後常見思。

この歳、司隷校尉する蜀郡の何武が、京兆尹となる。130621

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前12、張禹が王根に妥協し、朱雲が折檻する

災異について、谷永と劉向が解釈する

孝成皇帝中元延元年(己酉,公元前一二年)
春,正月,己亥朔,日有食之。 壬戌,王商復為大司馬、衛將軍。 三月,上行幸雍,祠五畤。 夏,四月,丁酉,無雲而雷,有流星從日下東南行,四面燿燿如雨,自晡及昏而止。 赦天下。秋,七月,有星孛於東井。

春正月ついたち、日食あり。正月壬戌、王商を大司馬・衛将軍にもどす。3月、雍に行幸して、五畤を祠る。
夏4月、雲がないのに雷がなる。

劉向はいう。雷と雲はセットである。君と臣、陰と陽と同じである。人君が天下をあわらまず、万民が君主から離れたいとき、雲がないのに雷がなる。
ぼくは思う。雲があるのに、雷がないのは、問題ないのにね。これと君臣の比喩は、どのようになるのだろうw

流星が日下から東南にゆく。四面で雨のように輝く。晡から昏の時間帯まで流星がある。天下を赦す。秋7月、星孛が東井の分野にでる。

上以災變,博謀群臣。北地太守谷永對曰:「(中略)臣願陛下勿許加賦之奏,益減奢泰之費,流恩廣施,振贍困乏,敕勸耕桑,以慰綏元元之心,諸夏之亂庶幾可息。」中壘校尉劉向上書曰:「(中略)謹案《春秋》二百四十二年,日食三十六,今連三年比食,自建始以來,二十歲間而八食,率二歲六月而一發,古今罕有(中略)」上輒入之,然終不能用也。

成帝は災変について、郡臣にきいた。
北地太守の谷永はいう。「百姓の経済状況を改善せよ」と。 中塁校尉の劉向はいう。「『春秋』242年で、日食は36回である。いま3年連続で日食があり、建始期より20年で8回の日食がある。2年6ヶ月に1回のペースである。古今でまれな頻度である」

胡三省は、どの日食なのかカウントする。はぶく。
ぼくは思う。242わる2.5=97。97わる36=2.7。つまり成帝期は、春秋期の3倍のペースで日食が起きている。まあ、日食がランダムに起こるとしても、「どの期間を切り取っても、均等に日食が起きる」ほうが、均等ではないので。つまり、コインはつねに、オモテとウラが交互に出るのではなく、偏るものなので、これで良いのだ。

成帝は聞き入ったが、活用できない。

ぼくは思う。劉向と谷永が、この時期のもっとも盛んな発言者なのね。


王商が死に、王立でなく王根が執政

紅陽侯立舉陳鹹方正,對策,拜為光祿大夫、給事中。丞相方進復奏「鹹前為九卿,坐為貪邪免,不當蒙方正舉,備內朝臣」;並劾「紅陽侯立選舉故不以實。」有詔免鹹,勿劾立。

紅陽侯の王立は、陳咸が方正だといって、対策の試験を受けさせ、光禄大夫・給事中にあげる。
丞相の翟方進はいう。「さきに陳咸を九卿となるが、貪邪だから免官された。方正として内朝の臣にするのは適切でない」と。さらに翟方進は「王立の選挙は、正しくない」という。陳咸は免官されたが、王立は処罰されない。

十二月,乙未,王商為大將軍。辛亥,商薨。其弟紅陽侯立次當輔政,先是立使客因南郡太守李尚占墾草田數百頃,上書以入縣官,貴取其直一萬萬以上,丞相司直孫寶發之,上由是廢立,而用其弟光祿勳曲陽侯根。庚申,以根為大司馬、驃騎將軍。

12月乙未、王商が大將軍となる。12月辛亥、王商が薨じた。弟の王立が輔政することなく、さらに弟の光禄勲する曲陽侯たる王根が輔政する。12月庚申、王根は大司馬・驃騎将軍となる。
王立が輔政しないのは、さきに王立が南郡太守の李尚に開墾した田を占有させ、丞相司直の孫宝に告発されたからだ。

『漢書』孫宝伝を見ると、事件の詳細があるらしい。


張禹が王根に妥協し、朱雲が折檻する

特進、安昌侯張禹請平陵肥牛亭地;曲陽侯根爭,以為此地當平陵寢廟,衣冠所出遊道,宜更賜禹它地。上不從,卒以賜禹。根由是害禹寵,數毀惡之。天子愈益敬厚禹,每病,輒以起居聞,車駕自臨問之。上親拜禹床下,禹頓首謝恩。禹小子未有官,禹數視其小子,上即禹床下拜為黃門郎、給事中。禹雖家居,以特進為天子師,國家每有大政,必與定議。

特進・安昌侯の張禹は、平陵の肥牛亭を、自分の墓所としたい。曲陽侯の王根は「肥牛亭は、平陵の寢廟にする。張禹は他をさがせ」という。だが成帝は、張禹に肥牛亭を与えた。
王根が張禹の悪口をいうが、ますます成帝は張禹を敬厚した。張禹が病気になるたび、みずから見舞った。張禹の小子に官職がないと、黄門郎・給事中にした。張禹は在宅だが、特進とは天子の教師であるから、張禹の私宅で国政が決まった。

ぼくは思う。王氏の協力なライバルの張禹。『漢書』列伝51・張禹伝。


時吏民多上書言災異之應,譏切王氏專政所致,上意頗然之,未有以明見,乃車駕至禹弟,辟左右,親問禹以天變,因用吏民所言王氏事示禹。禹自見年老,子孫弱,又與曲陽侯不平,恐為所怨,則謂上曰:「《春秋》日食、地震,或為諸侯相殺,夷狄侵中國。災變之意,深遠難見,故聖人罕言命,不語怪神,性與天道,自子貢之屬不得聞,何況淺見鄙儒之所言。陛下宜修政事,以善應之,與下同其福喜,此經義意也。新學小生,亂道誤人,宜無信用,以經術斷之。」上雅信愛禹,由此不疑王氏。後曲陽侯根及諸王子弟聞知禹言,皆喜說,遂親就禹。

ときに吏民は、おおく災異について上書した。王氏の専制にたいする批判に、成帝は合意した。成帝はこっそり張禹に上書を見せた。張禹は年老で、子孫がよわく、王根と不仲なので、王根に怨まれるのを恐れた。「災異は、王氏のせいじゃない」と。成帝は張禹を信愛するから、王氏を疑うのをやめた。

ぼくは思う。そんなに単純な成帝で良いのかねw 張禹の心のなかが、みょうに詳しく描写されていることが、ぎゃくに「ウソくさい」よね。

王根は、張禹の発言をよろこび、張禹と親しむ。

胡三省はいう。元帝は、蕭望之を教師とした。成帝は張禹を教師とした。元帝は、蕭望之を全面的に活用できず、許氏や史氏の外戚や、弘恭や石顕の宦官に妨害された。成帝は、張禹の発言をきき、王氏を疑うのをやめてしまった。蕭望之は滅びたが、張禹は滅びず、富貴となった。前漢の滅亡は、これが原因である。
胡三省はいう。成帝のとき、吏民は王氏をとがめたが、平帝末は吏民が王莽を歓迎した。なぜ吏民の世論はかわったのか。政治の体制が長く続けば、体制に従わずにおくのは難しい。
ぼくは思う。王鳳と王音という、見識ある人物が死んだので、いま王氏には人材がいない。だから王氏は批判されるのだ。平帝のとき、見識ある王莽サマがいる。だから王莽は歓迎されたのだ。
胡三省はいう。張禹の家は安全で、前漢の劉氏が危険となった。


故槐裡令硃雲上書求見,公卿在前,雲曰:「今朝廷大臣,上不能匡主,下無以益民,皆尸位素餐,孔子所謂『鄙夫不可與事君,苟患失之,亡所不至』者也!臣願賜尚方斬馬劍,斷佞臣一人頭以厲其餘!」上問:「誰也?」對曰:「安昌侯張禹!」上大怒曰:「小臣居下訕上,廷辱師傅,罪死不赦!」御史將雲下,雲攀殿檻,檻折。雲呼曰:「臣得下從龍逄、比干游於地下,足矣!未知聖朝何如耳!」御史遂將雲去。於是左將軍辛慶忌免冠,解印綬,叩頭殿下曰:「此臣素著狂直於世,使其言是,一可誅;其言非,因當容之。臣敢以死爭!」慶忌叩頭流血,上意解,然後得已。及後當治檻,上曰:「勿易,因而輯之,以旌直臣!」

もと槐裏令の朱雲は、

胡三省はいう。元帝期、朱雲は槐裏令となる。だが石顕に連座して、廃錮された。だから「もと」県令なのである。

公卿の前で成帝にいう。「侫臣を私に斬らせろ。安昌侯の張禹を斬らせろ」と。御史が朱雲を下がらせようとすると、朱雲が手すり(殿檻)を握るので、手すりが折れた。朱雲は「夏桀に仕えた関龍逢、殷紂に仕えた比干のように誅されても、私は張禹を殺せと言い続ける」という。

ぼくは補う。これが「折檻」の語源である。
関龍逢は、宮城谷『天空の舟』で、夏桀の臣として出てきた。
宮城谷昌光『天空の舟/小説・伊尹伝』を読む

左将軍の辛慶忌は、免冠して印綬をとき、叩頭した。「朱雲を殺さないで」と。成帝は朱雲を檻にいれた。

王元后の言うとおり、班伯が寵用される

匈奴搜諧單于將入朝;未入塞,病死。弟且莫車立,為車牙若鞮單于;以囊知牙斯為左賢王。

匈奴の単于が入朝する前に病死した。嚢知牙斯が左賢王となる。

北地都尉張放到官數月,復征入侍中。太后與上書曰:「前所道尚未效,富平侯反覆來,其能默虖!」上謝曰:「請今奉詔!」上於是出放為天水屬國都尉。引少府許商、光祿勳師丹為光祿大夫,班伯為水衡都尉,並侍中,皆秩中二千石,每朝東宮,常從;及大政,俱使諭指於公卿。上亦稍厭游宴,復修經書之業;太后甚悅。

北地都尉の張放は、北地に着任してから数ヶ月で、長安にもどって侍中となる。王元后は上書した。「前に私が(班伯を寵用せよと)言ったことが実現されていないのに、富平侯の張放をもどすなよ。張放を長安から出せ」と。張放は天水属国都尉となる。
少府の許商、光祿勳の師丹を、光祿大夫とする。班伯を水衡都尉とし、侍中をあわせる。3人とも、秩は中2千石である。東宮に朝見するたび、いつも従った。公卿への伝達を担当した。成帝は、遊宴よりも経書を好むようになる。王元后は悦んだ。

ぼくは思う。もう40歳なのに、母親の言いなりの成帝。


是歲,左將軍辛慶忌卒。慶忌為國虎臣,遭世承平,匈奴、西域親附,敬其威信。

この歳、左將軍の辛慶忌が卒した。辛慶忌は国のための虎臣であり、匈奴や西域になつかれた。130621

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前11、烏孫の小昆弥が殺され、漢家が優勢に

孝成皇帝中元延二年(庚戌,公元前一一年)
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。三月,行幸河東,祠后土。既祭,行遊龍門,登歷觀,陟西嶽而歸。 夏,四月,立廣陵孝王子守為王。

春正月、成帝は、甘泉に行幸して、泰畤を郊する。
3月、河東に行幸して、后土を祠する。祭祀が終わったら、遊龍門にゆき、歷觀にのぼり、西嶽(華山)にのぼって帰る。

晋灼はいう。歴観は、河東郡の蒲阪県にある。師古はいう。歴山の上に、観が建つ。ぼくは思う。フルコースの祭祀に、飽きてきたのだろう。

夏4月、広陵孝王の子・劉守を広陵王とする。

胡三省が広陵王の系譜をかく。


初,烏孫小昆彌安日為降民所殺,諸翎侯大亂。詔征故金城太守段會宗為左曹、中郎將、光祿大夫,使安輯烏孫。(中略)漢復遣會宗與都護孫建並力以備之。
自烏孫分立兩昆彌,漢用憂勞,且無寧歲。時康居復遣子侍漢,貢獻,都護郭舜上言(中略)。漢為其新通,重致遠人,終羈縻不絕。

烏孫の君主が、降伏した民に殺された。もと金城太守の段会宗が、烏孫を安集させる。段会宗と都護の孫建が力をあわせ、烏孫の治安を維持する。
烏孫が2つの昆弥に分裂してから、漢家が優盛である。康居もまた、侍子をよこす。都護の郭瞬が上言した。西域の羈縻は、絶えることがない。130621

ぼくは思う。『資治通鑑』が編纂された11世紀。漢族の外部が、とても重要。漢族でない者たちも中枢にいたり、領土を競う相手だったりする。彼らの来歴を知ることは、11世紀時点の問題関心としては、わりに大きいのかも。
『漢書』とか『三国志』だけを読んでいると、異民族は最後のほうのオマケである。『資治通鑑』ほどハデに分量を削るなら、もっと異民族の記事も削ってほしい。匈奴伝や西域伝にたいして、省略の仕方があまいような気がする。司馬光は同時代のために『資治通鑑』をつくり、ぼくは漢魏を知るために『資治通鑑』を読むから、ズレるのかな。

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前10、蜀郡の山が崩れ、劉向が漢の滅亡をいう

孝成皇帝中元延三年(辛亥,公元前一零年)
春,正月,丙寅,蜀郡岷山崩,壅江三日,江水竭。劉向大惡之,曰:「昔周岐山崩,三川竭,而幽王亡。岐山者,周所興也。漢家本起於蜀、漢,今所起之地,山崩川竭,星孛又及攝提、大角,從參至辰,殆必亡矣!」

春正月丙寅、蜀郡の岷山が崩れた。長江を3日ふさぎ、江水がかれる。

蜀郡の岷山について、胡注1038頁。

劉向はおおいに悪んでいう。「周代に岐山が崩れて、三川がふさがれ、幽王が滅亡した。

胡三省はいう。周幽王2年、三川がかれた。岐山がくずれた。師古はいう。三川とは、涇水、渭水、洛水である。のちに幽王は、犬戎に殺された。

岐山は、周家が興ったところである。漢家は蜀漢から興った。蜀漢で山がくずれ、川がふさがれば、漢家の滅亡を意味するのだ」と。

ぼくは思う。やだけど、おもしろいこという!!


二月,丙午,封淳於長為定陵侯。三月,上行幸雍,祠五畤。
上將大誇胡人以多禽獸。秋,命右扶風發民入南山,西自褒、斜,東至弘農,南驅漢中,張羅罔罝罘,捕熊羆禽獸,載以檻車,輸長楊射熊館,以罔為周阹,縱禽獸其中,令胡人手搏之,自取其獲,上親臨觀焉。

2月丙午、淳于長を定陵侯に封じる。3月、成帝は雍に行幸して、五畤を祠した。
成帝は胡人をひきい、禽獣を狩猟する。秋、クマをとった。成帝は、胡人が手でクマを縛るのを見物した。130621

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前09、成帝が劉欣を後嗣とし、谷永が死ぬ

孝成皇帝中元延四年(壬子,公元前九年)
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。

春正月、甘泉に行幸して、泰畤を郊する。

ぼくは思う。王莽が整理するまで、ほんとうに「後漢とは、かなり異なる祭祀」が継続されている。べつにそれが悪いと言うのではない。王莽の変革が、規模が大きいなあ、と言いたいのです。


哀帝は有能で、平帝の父は無能である

中山王興,定陶王欣皆來朝,中山王獨從傅,定陶王盡從傅、相、中尉。上怪之,以問定陶王,對曰:「令:諸侯王朝,得從其國二千石。傅、相、中尉,皆國二千石,故盡從之。」上令誦《詩》,通習,能說。佗日,問中山王:「獨從傅在何法令?」不能對;令誦《尚書》,又廢;及賜食於前,後飽;起下,襪系解。帝由此以為不能,而賢定陶王,數稱其材。

中山王の劉興(平帝の父)、定陶王の劉欣(哀帝)が来朝した。劉興は傅だけを従える。劉欣は、傅、相、中尉を従える。劉欣は「諸侯王が朝見するとき、その国の2千石を従えるという。傅、相、中尉は、みな国の2千石である。だから連れてきた(劉興より従者が多くなったが、私の過失ではない)」という。
劉欣は『詩経』を暗誦する。劉興は暗誦しておらず、『尚書』を途中で忘れる。食事の作法を、劉興が誤る。
成帝は、劉欣(哀帝)の才能を評価した。

是時諸侯王唯二人於帝為至親,定陶王祖母傅太后隨王來朝,私賂遺趙皇后、昭儀及票騎將軍王根。後、昭儀、根見上無子,亦欲豫自結,為長久計,皆更稱定陶王,勸帝以為嗣。帝亦自美其材,為加元服而遣之,時年十七矣。

このとき、劉欣の祖母・傅太后(元帝の妻)が来朝した。傅太后は、趙皇后と趙昭儀、驃騎将軍の王根に賄賂する。王根たちは、劉欣がつぎの皇帝にふさわしいと考えた。成帝は、劉欣を元服させた。劉欣は17歳である。

ぼくは思う。王根は、王氏が劉欣(哀帝)によって虐げられるのに、劉欣を推してしまった。賄賂されて、気分が良くなってしまった。政治的な力能はゼロで、肩書だけなんだろう。王鳳と王音だけが、政治ができた。


王氏の党与・谷永が死ぬ

三月,上行幸河東,祠后土。隕石於關東二。
王根薦谷永,征入,為大司農。永前後所上四十餘事,略相反覆,專攻上身與後宮而已;黨於王氏,上亦知之,不甚親信也。為大司農歲餘,病;滿三月,上不賜告,即時免。數月,卒。

3月、河東に行幸して、后土を祠する。隕石が関東に2つ。
王根が推薦したので、谷永は大司農となる。谷永は40余事について上書した。成帝の身と後宮のことばかり、反復して批判する。谷永は王氏の党与となる。成帝はこれを知るから、あまり谷永を親信しにあ。大司農になって1年余で、病没した。
病気になっても(公卿であれば)3ヶ月は罷免しないものである。だが成帝は(谷永が王氏の党与なので)即時に罷免した。数ヶ月で谷永は死んだ。130621

ぼくは思う。『資治通鑑』で長々と文書を引用されていた谷永は、王氏の党与という分類が、されていたのね。「良心的だから、有名無実の外戚とは距離をとる」というわけではない。谷永の批判の内容は、おそらくは当時としては正義であり、むしろ成帝の行動に問題がある。
成帝は、微行し、後嗣がなく、陵墓をむだにつくり、祭祀を過剰にした。王氏は、五侯が浪費をする。どっちもどっちだ。まさに王朝の末期という感じだ。つぎに、成帝と同世代の哀帝が改革を試み、つぎに成帝と同世代の王莽が改革を試みる。儒家皇帝の元帝のあとを、子で同世代の3人が次々に引き受けて、閉塞の打開を試みる。そういう時代なのです。

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前08、淳于長が死罪に、王莽が大司馬に

春、劉欣を皇太子とし、孔光が反対する

孝成皇帝中綏和元年(癸丑,公元前八年) 春,正月,大赦天下。

春正月、天下を大赦した。

上召丞相翟方進、御史大夫孔光、右將軍廉褒、後將軍硃博入禁中,議「中山、定陶王誰宜為嗣者」。方進、根、褒、博皆以為:「定陶王,帝弟之子,《禮》曰:『昆弟之子,猶子也。為其後者,為之子也,』定陶王宜為嗣。」光獨以為:「禮,立嗣以親。以《尚書‧盤庚》殷之及王為比,兄終弟及。中山王,先帝之子,帝親弟,宜為嗣。」上以「中山王不材;又禮,兄弟不得相入廟,」不從光議。

成帝は、丞相の翟方進、御史大夫の孔光、右將軍の廉褒、後將軍の朱博を禁中にめして、「中山王の劉興と、定陶王の劉欣のどちらを後嗣にすべきか」という。みな「劉欣は成帝の弟だ。『礼』の規定に、昆弟の子は、実子のようなものだ、とある。劉欣を成帝の子とせよ」という。

胡三省はいう。昆弟の子は、まるで子のように見る。弟の子を兄の後嗣とするのは、これを兄の子とすることに等しい。『公羊伝』成公15年はいう。仲嬰斉が卒した。これは公孫嬰斉である。なぜ公孫嬰斉というか。兄の後嗣だからである。兄の後嗣とするためには、云々。
ぼくは思う。『礼』の規定といいながら、『公羊伝』じゃないか。

孔光だけが「『礼』の規定では、血縁の親しい者を後嗣とする。『尚書』盤庚では、殷家において兄弟相続が行われた。中山王の劉興は、成帝の実弟である。劉興を後嗣とすべきだ」と。

胡三省はいう。孔光がひいた『尚書』は、いま(胡三省の時代)のテキストに見えない。けだし今文『尚書』からの引用だろう。

成帝はいう。「中山王の劉興は才能がない。また『礼』の規定では、兄弟はふたりとも廟に入れない」と。孔光の議論は退けられた。

胡三省はいう。父を「昭」として、子を「穆」とする。すなわち兄弟は、どちらも廟に入ることができない。
ぼくは思う。『礼』の規定とは、ひろく儒家経典のどこかから、根拠を持ってこれば良いらしい。そして、今日の科学と同じく、結論ありきで証拠を持ってくる。ただし持ってくるべき証拠の在庫がないことには、議論に参加する資格を得られない。


二月,癸丑,詔立定陶王欣為皇太子,封中山王舅諫大夫馮參為宜鄉侯,益中山國三萬戶,以慰其意;使執金吾任宏守大鴻臚,持節征定陶王。定陶王謝曰:「臣材質不足以假充太子之宮;臣願且得留國邸,旦夕奉問起居,俟有聖嗣,歸國守籓。」書奏,天子報聞。戊午,孔光以議不合意,左遷廷尉;何武為御史大夫。

2月癸丑、劉欣を皇太子とした。中山王のおじ・諫大夫の馮参を宜郷侯とした。中山国を3万戸ふやして(皇太子になれなかった不満を)慰めた。執金吾の任宏が、大鴻臚を守して、持節して劉欣をめす。劉欣は「私の才能では、太子宮に入る資格がない。藩王の邸宅に留まり、朝夕と成帝の起居を問います。

胡三省はいう。『記』はいう。周文王が世子となると、1日に3回、父の周王季に朝見した。周王季の安否を確認した。
ぼくは思う。劉欣は、じぶんを周文王になぞらえている! べつにこれは傲慢ではなかろう。印象にのこるフレーズは、君主にまつわるものがおおい。王莽が頻繁に言葉を引用するとき、聖人や先王にひっかかるのも、王莽が傲慢で簒奪を計画するから(だけ)ではあるまい。

成帝に後嗣が誕生したら、帰国します」という。
2月戊午、孔光は(劉欣を皇太子とすることに)合意しないので、廷尉に左遷された。何武を御史大夫とした。

ぼくは思う。孔光は、なんにでも逆らう。王莽との交際に「清潔」だからといって、王莽ばかりが虐げられたとは言えまい。孔光は、だれにでも反発する。後嗣の問題も、後出しじゃんけんで反対した。


孔子の子孫を殷家と見なし、三公を整備

初,詔求殷後,分散為十餘姓,推求其嫡,不能得。匡衡、梅福皆以為宜封孔子世為湯後,上從之,封孔吉為殷紹嘉侯。三月,與周承休侯皆進爵為公,地各百里。上行幸雍,祠五畤。

はじめ、殷家の子孫を探したが、10余姓にちらばり、嫡流がわからない。

胡三省はいう。殷家は「子」姓である。子孫は宋国をつくるほか、孔氏、華氏、載氏、桓氏、向氏、楽氏などになる。

匡衡と梅福は、孔子の子孫を、殷湯の子孫とした。

胡注は中華書局版1042頁。注釈すべきは、なるほどおおい。

孔吉を殷家の子孫として、紹嘉侯とする。3月、紹嘉侯は、周家の子孫の承休侯とともに、公爵とする。地は100里ずつ。

初,何武之為廷尉也,建言:「末俗之敝,政事煩多,宰相之材不能及古,而丞相獨兼三公之事,所以久廢而不治也。宜建三公官。」上從之。夏,四月,賜曲陽侯根大司馬印綬,置官屬,罷票騎將軍官;以御史大夫何武為大司空,封汜鄉侯。皆增奉如丞相,以備三公焉。

はじめ、何武が廷尉となったとき。

『公卿表』によると、元延3年、何武は沛郡太守から、廷尉となる。この年の3月戊午、御史大夫となる。

何武は建言した。「宰相の人材は、古代に及ばない。だが丞相だけが、三公の職務をかねている。政事は久しく治まっていない。三公の官職を建てるべきだ」と。成帝はしたがう。夏4月、王根に大司馬の印綬をたまい、官属をおく。驃騎将軍の官職をやめさせた。

胡三省はいう。武帝がはじめて大司馬をおいたとき、将軍の号を冠させた。宣帝の地節3年、大司馬をおき、将軍の号を冠させない。印綬も官属もない。いま、大司馬の金印、紫綬、官属をあたえた。大司馬の官職を専らにし、将軍を兼務しない。
ぼくは思う。これまでは「大司馬」であることのみをもって、なにかをすることは、少なかったのだろう。印綬も官属もなくちゃ、大司馬であることによっては、なにもできない。

御史大夫の何武を大司空とし、汜郷侯とした。どちらも丞相なみに増奉した。三公が備わった。

秋、嚢知牙斯に張掖あたりの割譲を求める

秋,八月,庚戌,中山孝王興薨。

秋8月庚戌、中山王の劉興が薨じた。

ぼくは思う。ジャマだから、実質的には殺されたな。さすがに、武器で手は下されていなかろうが。増邑してごまかされても、そりゃダメージがでかい。増邑されるとは、「不満をもち、謀反の危険があるだろう」と、成帝に見透かされたに等しいから。それは「死ね」という意味である。


匈奴車牙單于死;弟囊知牙斯立,為烏珠留若鞮單于。烏珠留單于立,以弟樂為左賢王,輿為右賢王,漢遣中郎將夏侯籓、副校尉韓容使匈奴。

匈奴の車牙単于が死んだ。弟の嚢知牙斯がたつ。中郎将の夏侯藩、副校尉の韓容が、匈奴への使者にゆく。

ぼくは思う。王莽が単于になるのは、あと数年。王莽から降格されて怒り、王莽の国運を傾けた討伐をうけるのが、この嚢知牙斯である。ライバルは、おなじ時期にトップとなる。王莽は哀帝期にはブランクを抱えるけど。


或說王根曰:「匈奴有斗入漢地,直張掖郡,生奇材木箭竿,鷲羽;如得之,於邊甚饒,國家有廣地之實,將軍顯功垂於無窮!」根為上言其利,上直欲從單于求之,為有不得,傷命損威。根即但以上指曉籓,令從籓所說而求之。籓至匈奴,以語次說單于曰:「竊見匈奴斗入漢地,直張掖郡,漢三都尉居塞上,士卒數百人,寒苦,候望久勞,單于宜上書獻此地,直斷割之,省兩都尉士卒數百人,以復天子厚恩,其報必大。」

或者が王根にいう。「匈奴は漢地の張掖郡に入りこむ。もし張掖郡をまるまる漢地にできたら、漢家の辺境は豊穣となる。領地がひろがる。王根の功績もおおきい」と。王根は嚢知牙斯に「張掖郡あたりから出て行け」という。

ぼくは思う。王莽のはりあう嚢知牙斯は、王莽のおじから、このような侮辱的な要求をされていた。そりゃ、当初から喧嘩腰になるよね。

王根は、匈奴への使者・夏侯藩にも、説得をさせる。夏侯藩は単于にいう。「匈奴が張掖郡のそばにいるから、漢家では3都尉を設置して、士卒を配備せねばならない。寒いし疲れる。単于は土地を割譲しろ」と。

胡三省はいう。張掖両都尉で2つ。1つの治所は、日勒の沢索谷。2つめは居延。さらに3つめは、農都尉である。番和が治所である。


單于曰:「此天子詔語邪,將從使者所求也?」籓曰:「詔指也;然籓亦為單于畫善計耳。」單于曰:「此溫偶駼王所居地也,未曉其形狀、所生,請遣使問之。」籓、容歸漢;後復使匈奴,至則求地。單于曰:「父兄傳五世,漢不求此地,至知獨求,何也?已問溫偶駼王,匈奴西邊諸侯作穹廬及車,皆仰此山材木,且先父地,不敢失也。」籓還,遷為太原太守。單于遣使上書,以籓求地狀聞。詔報單于曰:「籓擅稱詔,從單于求地,法當死;更大赦二,令徙籓為濟南太守,不令當匈奴。」

嚢知牙斯はいう。「それは天子の言葉か。使者だけの言葉か」と。夏侯藩はいう。「天子の言葉である」と。単于はいう。「ここは匈奴の祖先・温偶駼王の居住地である。割譲できない」と。
夏侯藩と韓容は、いちど漢家に帰り、また匈奴に使者して、割譲をもとめた。交渉に失敗した。夏侯藩は済南太守となり、匈奴との交渉から外された。

ぼくは思う。ちょっと要求にムリがあるのでは。匈奴の嚢知牙斯に強硬なのは、王莽が始めたことではない。前漢のなかでも、ときに強硬、ときに懐柔である。成帝のとき、すでにムリを言っている。王莽の外交のミスとばかり、言えない。まあ軍事行動の巧拙と結果については、べつに議論されるべきだが。


冬、淳于長でなく王莽が、王根の後任に

冬,十月,甲寅,王根病免。
上以太子既奉大宗後,不得顧私親,十一月,立楚孝王孫景為定陶王,以奉恭王后。太子議欲謝;少傅閻崇以為為人後之禮,不得顧私親,不當謝;太傅趙玄以為當謝,太子從之。詔問所以謝狀,尚書劾奏玄,左遷少府;以光祿勳師丹為太傅。

冬10月甲寅、王根は病気で免官された。
成帝は、11月に楚王の劉囂(宣帝の子)の孫・劉景を(皇太子となった劉欣の後嗣として)定陶王とする。劉欣は、これ(定陶王の祭祀の継続)に感謝したいが、少府の閻崇は「劉欣は、もう私親(定陶王の家のこと)を顧みるな。感謝すべきでない」という。太傅の趙玄は「感謝してよい」という。劉欣は感謝をのべた。成帝は趙玄を劾奏して、少府に左遷した。

ぼくは思う。成帝の判断は、「もう劉欣は定陶王の血統ではない。皇帝の嫡流のなかの人間である」である。まあ、普通だわな。転職前を恋々としている転職者は、やめたまえ。

光禄勲の師丹を太傅とした。

初,太子之幼也,王祖母傅太后躬自養視;及為太子,詔傅太后與太子母丁姬自居定陶國邸,不得相見。頃之,王太后欲令傅太后、丁姬十日一至太子家,帝曰:「太子承正統,當共養陛下,不得復顧私親。」王太后曰:「太子小而傅太后抱養之;今至太子家,以乳母恩耳,不足有所妨。」於是令傅太后得至太子家;丁姬以不養太子,獨不得。

はじめ劉欣が幼いとき、祖母の傅太后が養育した。傅太后と母の丁姫は、定陶国邸にいて、劉欣にあえない。王元后のはからいで、傅太后は劉欣と会える。王元后は「傅太后は乳母の恩があるだけで、面会を妨げるほどでない(定陶国との結びつきが強くない)」。丁姫は劉欣と会えない。

ぼくは思う。傅太后と王元后は、どちらも元帝の妻。もと同僚。


衛尉、侍中淳於長有寵於上,大見信用,貴傾公卿,外交諸侯、牧、守,賂遺、賞賜累巨萬,淫於聲色。許後姊靡為龍雒思侯夫人,寡居;長與靡私通,因取為小妻。許後時居長定宮,因靡賂遺長,欲求復為婕妤。長受許後金錢、乘輿、服御物前後千餘萬,詐許為白上,立以為左皇后。靡每入長定宮,輒與靡書,戲侮許後,嫚易無不言;交通書記,賂遺連年。時曲陽侯根輔政,久病,數乞骸骨。長以外親居九卿位,次第當代根。侍中、騎都尉、光祿大夫王莽心害長寵,私聞其事。

衛尉・侍中の淳于長は、成帝に寵愛される。公卿や諸侯と交際する。牧守から賄賂をもらう。
許皇后の姉の許靡は、龍雒思侯の韓宝の夫人であるが、独居する。淳于長は、許靡と私通して、許靡を小妻とした。許靡は、淳于長に賄賂して、成帝の倢伃になりたい。淳于長は、許靡に「左皇后になれる」と偽った。許靡は長定宮に入るたび、許皇后をばかにした。許靡のかんちがいを、だれも指摘しない。
ときに曲陽侯の王根が、輔政するが、病気で辞職したい。淳于長は、王元后の姉子なので、王根の後任になりそう。侍中・騎都尉・光祿大夫する王莽は、淳于長が受ける寵愛をおもしろく思わない。淳于長が王根の後任になりそうだと、ひそかに王莽は聞いた。

ぼくは思う。きました、名場面。


莽侍曲陽侯病,因言:「長見將軍久病意喜,自以當代輔政,至對及冠議語署置。」具言其罪過。根怒曰:「即如是,何不白也」?莽曰:「未知將軍意,故未敢言!」根曰:「趣白東宮!」莽求見太后,具言長驕佚,欲代曲陽侯;私與長定貴人姊通,受取其衣物。太后亦怒曰:「兒至如此!往,白之帝!」莽白上;上以太后故,免長官,勿治罪,遣就國。

王莽は、王根の看病をして、「淳于長は、王根の病気を喜ぶ」という。王元后は、淳于長が許氏の姉と私通するから、淳于長を免官して就国させた。

初,紅陽侯立不得輔政,疑為長毀譖,常怨毒長;上知之。及長當就國,立嗣子融從長請車騎,長以珍寶因融重遺立。立因上封事,為長求留,曰:「陛下既托文以皇太后故,誠不可更有它計。」於是天子疑焉,下有司按驗。吏捕融,立令融自殺以滅口。上愈疑其有大奸,遂逮長系洛陽詔獄,窮治。長具服戲侮長定宮,謀立左皇后,罪至大逆,死獄中。妻子當坐者徙合浦;母若歸故郡。

はじめ、紅陽侯の王立は、輔政できない理由を淳于長にあると考えた。王立は、淳于長を怨毒していた。成帝は、王立の怨毒を知る。淳于長が就国するとき、王立の子・王融を、淳于長に従う車騎にほしがった。王立は(淳于長がわが子を取り立ててくれたので)淳于長を長安に残すよう願った。
成帝は(淳于長を怨むはずの王立が、淳于長を弁護するので)あやしみ、調査した。成帝は事情を知って、王立に王融を自殺させた。淳于長を洛陽の詔獄にいれて、きびしく取り調べた。淳于長は「許靡が左皇后になれる」とふざけた罪により、獄中で死んだ。

上使廷尉孔光持節賜廢後藥,自殺。丞相方進復劾奏「紅陽侯立,狡猾不閫,請下獄。」上曰:「紅陽侯,朕之舅,不忍致法;遣就國。」於是方進復奏立黨友後將軍硃博、巨鹿太守孫閎,皆免官,與故光祿大夫陳鹹皆歸故郡。鹹自知廢錮,以憂死。

成帝は、廷尉の孔光に持節させ、廃した許皇后に毒薬を与えた。
さらに丞相の翟方進が劾奏した。「紅陽侯の王立は狡猾なので、下獄すべきだ」と。成帝は「王立は私のおじだ。殺すのは忍びない。就国させる」という。翟方進は、王立の党友である後将軍の朱博、鉅鹿太守の孫閎を免官した。もと光禄大夫の陳咸とともに、朱博と孫閎は故郷に帰る。

胡三省はいう。朱博は杜陵の人。孫閎も京師の世家である。陳咸は沛郡の人。『漢書』翟方進伝によると、朱博と孫閎は免官された。陳咸だけが故郷に帰った。
胡三省はいう。元延元年、陳咸は光禄大夫を免じられたので「もと」という。

陳咸は廃錮され、憂死した。

ぼくは思う。王莽の父の代が、終わろうとしている。政敵の翟方進が、王氏の五侯の党与を、すべて片づけようとする。淳于長もまた、王元后との血縁によって権勢をもつのだから、攻撃対象である。
地味だった王莽だけが、血縁は五侯や淳于長と同じなのだが、翟方進の攻撃をくぐりぬける。地味だから、この世代交代=政権交代を、きりぬけることができる。


方進智能有餘,兼通文法吏事,以儒雅緣飾法律,號為通明相,天子器重之;又善求人主微指,奏事無不當意。方淳於長用事,方進獨與長交,稱薦之;及長坐大逆誅,上以方進大臣,為之隱諱,方進內慚,上疏謝罪乞骸骨。上報曰:「定陵侯長已伏其辜,君雖交通,《傳》不雲乎:『朝過夕改,君子與之。』君何疑焉!其專心壹意,毋怠醫藥,以自持。」方進起視事,復條奏長所厚善京光尹孫寶、右扶風蕭育,刺史二千石以上,免二十餘人。
函谷都尉、建平侯杜業,素與方進不平,方進奏「業受紅陽侯書聽請,不敬,」免,就國。

翟方進は、智能に余りあり、文法や吏事にも通じる。儒家の雅で、法家の律をかざる。「明相」と号され、成帝に重んじられた。よく成帝の意図を察知して、奏事は外れない。淳于長を用いるとき、翟方進だけが淳于長と親交がある。

胡三省はいう。淳于長が用いられたあとは、みな淳于長と交際した。だが、用いられる前から淳于長と親しいのは、翟方進だけである。

淳于長が大逆によって誅されると、成帝は(翟方進が淳于長と仲がよいので)翟方進に淳于長の誅殺を隠した。翟方進は内心ではじて、辞職を願う。成帝は「『論語』はいう。朝の過失を夕に改善すれば、君子はこれを許すと。翟方進は心配いらない」と。
翟方進はいう。「淳于長が厚善した人を免じろ。京兆尹の孫宝、右扶風の蕭育、刺史や2千石以上、20余人を免じろ」と。
函谷都尉する建平侯の杜鄴は、翟方進と仲がわるい。翟方進は進奏した。「杜鄴は、王立の文書を受けていた。不敬である」と。杜鄴を免じて、就国させた。

胡三省はいう。杜鄴伝によると、杜鄴と淳于長は仲がわるい。淳于長が就国するとき、王立は杜鄴に文書をあたえ、杜鄴を味方につけ、前のこと(淳于長が左皇后だと戯れたこと)を蒸し返すなと頼んだ。淳于長が関を出ると、淳于長の前の罪があばかれ、淳于長が洛陽の獄につながれた。丞相史が王立の文書を探し、杜鄴のもとで文書を見つけた。
服虔はいう。王立からの属請を受けたことが、杜鄴の不敬である。
ぼくは思う。人間関係がよく分かっていないので、整理せねば。


上以王莽首發大奸,稱其忠直;王根因薦莽自代。丙寅,以莽為大司馬,時年三十八。莽既拔出同列,繼四父而輔政,欲令名譽過前人,遂克己不倦。聘諸賢良以為掾、史,賞賜、邑錢悉以享士,愈為儉約,母病,公卿列侯遣夫人問疾,莽妻迎之,衣不曳地,布蔽膝,見之者以為僮使,問知其夫人,皆驚。其飾名如此。

成帝は、はじめに王莽が大姦(淳于長)を告発したから、彼の忠直をたたえた。王根は、王莽を自分の後任にすすめた。
王莽が大司馬となったとき、38歳である。王莽は賢良な者を掾にまねき、散財して士に与える。王莽の母が病めば、公卿や列侯は、見舞にゆく。王莽の妻が迎えたが、僮使と見誤られる。ボロさが賞賛され、名声が粉飾された。

翟方進と何武が、州牧を設置する

丞相方進、大司空武奏言:「《春秋》之義,用貴治賤,不以卑臨尊。刺史位下大夫而臨二千石,輕重不相準。臣請罷刺史,更置州牧以應古制!」十二月,罷刺史,更置州牧,秩二千石。

丞相の翟方進、大司空の何武は、州牧を設置させた。「『春秋』によると、貴きを用いて、賤しきを治める。

胡三省は、『春秋』の会盟の序列についていう。

刺史は太守よりも秩禄がひくい(秩禄の低い者が、高い者を治められない)。古制に応じて、州牧を設置せよ」と。

胡三省はいう。古制は9州である。1つは畿内で、8州には8伯がいる。諸侯の国を統べる。いま、これと同じように州牧をおいた。ぼくは思う。州牧とは、太守ではなく「諸侯国」を統べるのが原義である。

12月、刺史をやめて州牧をおき、州牧の秩を2千石とする。

劉向が太学の定員を増やし、劉向が死ぬ

犍為郡於水濱得古磬十六枚,議者以為善祥。劉向因是說上:「宜興辟雍,設庠序,陳禮樂,隆雅頌之聲,盛揖讓之容,以風化天下(中略)」。帝以向言下公卿議,丞相、大司空奏請立辟雍,按行長安城南營表;未作而罷。時又有言「孔子布衣,養徒三千人,今天子太學弟子少。」於是增弟子員三千人,歲餘,復如故。

犍為郡の水浜で、古石16枚が発見され、議者は善祥とした。劉向はいう。「辟雍と庠序をつくり、儒学の礼楽の勉強をさせ、天下を教化しろ」と。成帝は、公卿に議論させた。丞相と大司空は、辟雍を長安の城南につくれという。着手する前に、中止された。
ときに劉向は「孔子は無官のとき、3000人の門徒がいた。いま天子の太学は、弟子の定員が少ない」という。弟子を3000人に増員した。1年余で、もとの元帝期の1000人にもどした。

劉向自見得信於上,故常顯訟宗室,譏刺王氏及在位大臣,其言多痛切,發於至誠。上數欲用向為九卿,輒不為王氏居位者及丞相、御史所持,故終不遷,居列大夫官前後三十餘年而卒。後十三歲而王氏代漢。

劉向は、成帝に信頼された。つねに宗室を顕らかにするよう訟い、王氏および在位の大臣をそしって批判した。言葉はきついが、誠意のあらわれである。成帝は劉向を九卿にしたいが、王氏が丞相や御史を占めるので、劉向を九卿にできない。劉向は、大夫の官に30余年いて、卒した。劉向の死の13年後、漢新革命がおきた。130621

ぼくは思う。なに、この小説みたいな終わり方は。『資治通鑑』巻32は、これにて終了する。つぎは巻33。冒頭で成帝が死ぬので、このページにつなげてしまう。

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前07、翟方進が自殺して、成帝が崩じる

2月、丞相の翟方進が自殺する

孝成皇帝下綏和二年(甲寅,公元前七年)
春,正月,上行幸甘泉,郊泰畤。

春正月、成帝は甘泉に行幸し、泰畤を郊する。

二月,壬子,丞相方進薨。時熒惑守心,丞相府議曹平陵李尋奏記方進,言:「災變迫切,大責日加,安得但保斥逐之戮!闔府三百餘人,唯君侯擇其中,與盡節轉凶。」方進憂之,不知所出。會郎賁麗善為星,言大臣宜當之。上乃召見方進。還歸,未及引決,上遂賜冊,責讓以政事不治,災害並臻,百姓窮困,曰:「欲退君位,尚未忍,使尚書令賜君上尊酒十石,養牛一,君審處焉!」方進即日自殺。上秘之,遣九卿冊贈印綬,賜乘輿秘器、少府供張,柱檻皆衣素。天子親臨吊者數至,禮賜異於它相故事。

2月壬子、丞相の翟方進が薨じた。
ときに熒惑(火星)が心(明堂)にある。

解釈については『天文志』。天子はこの配置を悪むもの。

丞相府の議曹する平陵の李尋は、翟方進にいう。

胡三省はいう。議曹は、論議をするのが職務。公府から州郡まで、みな議曹をおく。

「災変は、さしせまる。丞相府には、官属が3百余人いる。翟方進は人材を選び、災変への対処を考えるべきだ」と。翟方進は憂い、どうしてよいか知らない。成帝は、災変を翟方進のせいにした。翟方進は自殺した。成帝は、翟方進を責めたことを隠して、ほかの丞相よりも手厚く弔った。

こまかな経緯と、どのように手厚いかは、中華書局版1052頁。


3月、成帝が未央宮で崩じる

三月,上行幸河東,祠后土。丙戌,帝崩於未央宮。
帝素強無疾病。是時,楚思王衍、梁王立來朝,明旦,當辭去,上宿供張白虎殿;又欲拜左將軍孔光為丞相,已刻侯印,書贊。昏夜,平善,鄉晨,傅褲襪欲起,因失衣,不能言,晝漏上十刻而崩,民間讙嘩,鹹歸罪趙昭儀。皇太后詔大司馬莽雜與御史、丞相、廷尉治,問皇帝起居發病狀;趙昭儀自殺。

3月、成帝は河東に行幸し、后土を祠る。3月丙戌、未央宮で崩じた。
成帝は壮健で、疾病がない。このとき、楚思王の劉衍、梁王の劉立が来朝していた。翌朝に辞去した。

臣瓚はいう。成帝は在位20歳で即位して、在位26年。45歳で死んだ。師古はいう。即位の翌年に改元したので、46歳で死んだのだ。
胡三省はいう。劉衍は、楚王の劉囂の子である。
ぼくは思う。梁王の劉立は、しゅうとめと交わる禽獣である。

成帝は、左將軍の孔光を丞相にしたい。すでに侯印と書贊は、作ってある。昏夜、病状が安定したから、起き上がった。衣服を手からおとし、言語を失った。昼の漏上10刻になって崩じた。
民間では、成帝の死の原因を、趙昭儀に帰した。王元后は、大司馬の王莽に詔して、御史、丞相、廷尉とともに状況を管理させ、皇帝の起居や病状を確認した。趙昭儀は自殺した。

ぼくは思う。『趙飛燕外伝』などがあるそうだ。


班彪贊曰:臣姑充後宮為婕妤,父子、昆弟侍帷幄,數為臣言:「成帝善修容儀,升車正立,不內顧,不疾言,不親指,臨朝淵嘿,尊嚴若神,可謂穆穆有天子之容者矣。博覽古今,容受直辭,公卿奏議可述。遭世承平,上下和睦。然湛乎酒色,趙氏亂內,外家擅朝,言之可為於邑!」建始以來,王氏始執國命,哀、平短祚,莽遂篡位,蓋其威福所由來者漸矣!

班彪の賛にいう。わたしのおばは、成帝の後宮の班倢伃である。しばしば私に言った。「成帝は酒食をこのみ、趙氏に乱され、外戚の王氏が朝廷を専権した」と。

成帝の人物評価、とくに前半のほめ言葉について、胡三省が『論語』から典拠をひいている。中華書局版1054頁。
ぼくが思うに、『論語』の定型句におとしこむほど(おとしこまねば、ならぬほど)ほめにくいのだ。具体的なエピソードをあげにくい。

建始より以来、王氏が国家の命運をにぎる。哀帝と平帝は、寿命がみじかい。王莽がついに簒奪した。漢家の威服は、成帝から衰えはじめたのである。

ぼくは思う。成帝に、漢新革命の始点を見いだしちゃったよ!そりゃ成帝は、『漢書』において、失格の皇帝として描かれるだろう。哀帝と平帝は、在位が短く、あまりキャラが立たない。成帝に、亡国の理由が上乗せされるだろう。


是日,孔光於大行前拜受丞相、博山侯印綬。
富平侯張放聞帝崩,思慕哭泣而死。
荀悅論曰:放非不愛上,忠不存焉。故愛而不忠,仁之賊也!

この日、孔光は大行(成帝)の前で、丞相と博山侯の印綬をもらう。
富平侯の張放は、成帝が崩じたと聞き、思慕して哭泣し、死んだ。
荀悦は張放について論じる。張放は成帝を愛さないのでない。忠がないのだ。ゆえに、愛するが不忠であった。張放は「仁の賊」である。

皇太后詔南、北郊長安如故。夏,四月,丙午,太子即皇帝位,謁高廟;尊皇太后曰太皇太后,皇后曰皇太后。大赦天下。

王元后は詔して、もとどおり長安の南北で郊させた。

胡三省はいう。永始3年、甘泉の泰畤、雍の五畤、汾陰の后土をもどして、長安の南北郊をやめていた。いま南北郊をもどした。
ぼくは思う。成帝は、南北郊を避けた。しかし王莽が残していくのは、南北郊である。甘泉などは、武帝期からのつながりが深い。どの祭祀を続けて、どの祭祀を辞めるかは、ソシュール的な意味で「恣意的」である。どういう恣意を発揮したのか、確認しないと。

夏4月丙午、太子の劉欣が皇帝に即位した。高廟に謁した。王皇太后を、王太皇太后とした。皇后を皇太后という。天下を大赦した。
『資治通鑑』哀帝期の抄訳につづく。130621

ぼくは思う。税務申告の振替休日で、まずは成帝期を追えた。

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