-後漢 > 『資治通鑑』 前漢の成帝期を抄訳・中(前22-14)

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前22、王鳳が死に、王譚でなく王音がつぐ

孝成皇帝上之下陽朔三年(己亥,公元前二二年)
春,三月,壬戌,隕石東郡八。
夏,六月,穎川鐵官徙申屠聖等百八十人殺長吏,盜庫兵,自稱將軍,經歷九郡。遣丞相長史、御史中丞逐捕,以軍興從事,皆伏辜。

春3月壬戌、隕石が東郡に8つ。
夏6月、頴川の鉄官の申屠聖ら180人が、長吏を殺した。9郡をめぐる。丞相長史と御史中丞が、討伐した。

秋,王鳳疾,天子數自臨問,親執其手涕泣曰:「將軍病,如有不可言,平阿侯譚次將軍矣!」鳳頓首泣曰:「譚等雖與臣至親,行皆奢僭,無以率導百姓,不如御史大夫音謹敕,臣敢以死保之!」及鳳且死,上疏謝上,復固薦音自代,言譚等五人必不可用;天子然之。初,譚倨,不肯事鳳,而音敬鳳,卑恭如子,故鳳薦之。八月,丁巳,鳳薨。九月,甲子,以王音為大司馬、車騎將軍,而王譚位特進,領城門兵。安定太守谷永以譚失職,勸譚辭讓,不受城門職;由是譚、音相與不平。

秋、王鳳が疾病。成帝は王鳳の手をとり、「もし王鳳が死んだら、平阿侯の王譚に次がせる」という。

師古はいう。成帝は「もし言うべきでない状況になったら」というが、これは「もし死んだら」という意味である。

王鳳は「私の後任は、御史大夫の王音のほうがよい」という。王鳳は死にぎわまで「私の兄弟の5人を用いるな。王音を用いろ」という。成帝はみとめた。
はじめ王譚は倨傲で、王鳳に仕えたくない。いっぽうで王音は、王鳳を敬った。ゆえに王鳳は、王譚でなく王音を薦めた。
8月丁巳、王鳳は薨じた。
9月甲子、王音を大司馬・車騎將軍とした。王譚の地位は特進で、城門の兵を領した。安定太守の谷永は、王譚が官職を失ったので、王譚に「王譚は辞譲せよ。城門の兵を領する官職なんて受けるな」という。

胡三省はいう。長安には12門ある。みな屯兵がいる。

これより、王譚と王音は不仲となる。

冬,十一月,丁卯,光祿勳於永為御史大夫。永,定國之子也。

冬11月丁卯、光禄勲の于永は、御史大夫となる。于永は、于定国の子である。130620

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前21、王駿が京兆尹、薛宣が御史大夫となる

孝成皇帝上之下陽朔四年(庚子,公元前二一年)
春,二月,赦天下。夏,四月,雨雪。
秋,九月,壬申,東平思王宇薨。

春2月、天下を赦した。夏4月、雪ふる。
秋9月壬申、東平思王の劉宇(宣帝の子)が薨じた。

少府王駿為京兆尹。駿,吉之子也。先是,京兆有趙廣漢、張敞、王尊、王章、王駿,皆有能名,故京師稱曰:「前有趙、張,後有三王。」
閏月,壬戌,於永卒。

少府の王駿が、京兆尹となる。王駿は、王吉の子である。
これより先、京兆の長官には、趙広漢、張敞、王尊、王章、王駿がつき、みな能名がある。京師は「まえに趙氏と張氏があり、のちに3人の王氏がある」とたたえる。

ぼくは思う。王莽の親族でない「王」氏は、じゃまである。区別するのが大変だ。魏晋だって、太原の王氏と、瑯邪の王氏を区別するのが難しい。

閏月壬戌、于永が卒した。

烏孫小昆彌烏就屠死,子拊離代立;為弟日貳所殺。漢遣使者立拊離子安日為小昆彌。日貳亡阻康居;安日使貴人姑莫匿等三人詐亡從日貳,刺殺之。於是西域諸國上書,願復得前都護段會宗;上從之。城郭諸國聞之,皆翕然親附。

烏孫で君主が死に、分裂した。西域の諸国は混乱し、さきの西域都護の段会宗を復任させてほしいと前漢に願った。成帝は、段会宗をふたたび西域都護とした。西域はなついた。

谷永奏言:「聖王不以名譽加於實效;御史大夫任重職大,少府宣達於從政,唯陛下留神考察!」上然之。

谷永は上奏した。「聖王は、名誉をもって、実効をくわえず。御史大夫の職務は、重大である。少府の薛宣は、政事がうまい」と。成帝は合意した。130620

ぼくは補う。王莽が25歳でした。

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前20、成帝が微行し、張放の家人を称す

春、成帝が微行して、張放の家人を称する

孝成皇帝上之下鴻嘉元年(辛丑,公元前二零年) 春,正月,癸巳,以薛宣為御史大夫。
二月,壬午,上行幸初陵,赦作徒;以新豐戲鄉為昌陵縣,奉初陵。

春正月癸巳、薛宣を御史大夫とした。
2月壬午、成帝は初陵にゆき、作徒を赦す。

師古はいう。徒人のうち、陵墓を建造する労役にある者。

新豊戲侯を昌陵県として、初陵に奉る。

上始為微行,從期門郎或私奴十餘人,或乘小車,或皆騎,出入市裡郊野,遠至旁縣甘泉、長楊、五柞,鬥雞、走馬,常自稱富平侯家人。富平侯者,張安世四世孫放也。放父臨,尚敬武公主,生放,放為侍中、中郎將,娶許皇后女弟,當時寵幸無比,故假稱之。

成帝は、はじめて微行した。

胡三省はいう。警蹕(貴人が通行する前の人払)をせず、微賤の者のように行動するから、「微行」というのだ。

近くでは、市裡や郊野に出入する。遠くでは、長安の周辺の県や、甘泉、長楊、五柞にゆく。「富平侯の家人」と自称した。富平侯とは、張安世の4世孫の張放のことである。張放の父・張臨は、敬武公主をめとる。

文頴はいう。敬武公主とは、成帝の姉である。臣瓚はいう。敬武公主とは、元帝の姉である。師古はいう。どちらも誤りである。『漢書』薛宣伝で、成帝は「兄嫁が、なぜ妹を殺すのだ」と怒った。王元后を兄嫁というのだから、敬武公主は元帝の妹である。
ぼくは思う。成帝から見ると、敬武公主はおばである。だから、張放と成帝が同世代である。ついでに、王莽の同世代である。
『地理志』はいう。敬武県とは、鉅鹿郡に属する。

張臨は張放を生む。張放は侍中・中郎将となる。張放は、許皇后の妹をめとる。ときに成帝は、張放を寵愛するから、その名を借りたのだ。

三月,庚戌,張禹以老病罷,以列侯朝朔、望,位特進,見禮如丞相,賞賜前後數千萬。

3月庚戌、張禹が老病なので罷めた。列侯となり、月2回だけ朝見した。儀礼は丞相とおなじ。

夏、王音が安陽侯をもらう

夏,四月,庚辰,薛宣為丞相,封高陽侯;京兆尹王駿為御史大夫。
王音既以從舅越親用事,小心親職。上以音自御史大夫入為將軍,不獲宰相之封,六月,乙巳,封音為安陽侯。

夏4月庚辰、薛宣が丞相となり、高陽侯に封じられる。京兆尹の王駿が、御史大夫となる。
王音は、すでに從舅たちが、外戚として僭越なので、慎重に職務にとりくむ。王音は、御史大夫から將軍に入ったので、宰相としての封地を持たない。

胡三省はいう。将軍は、中朝の官である。だから「入」るもの。
胡三省はいう。公孫弘より以来、宰相となると、封地をもらえた。

6月乙巳、王音を安陽侯に封じる。

ぼくは思う。薛宣伝や王駿伝を読めば、この時代の雰囲気が分かるのだろうか。なんだか『資治通鑑』の記述が過疎っていて、雰囲気がつかめない。


冬,黃龍見真定。
是歲,匈奴復株累單于死,弟且糜胥立,為搜諧若鞮單于;遣子左祝都韓王呴留斯侯入侍,以且莫車為左賢王。

冬、黄龍が真定にあらわれる。
この歳、匈奴で復株累単于が死んだ。130620

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前19、キジが集まり、王音が成帝の微行を諫む

孝成皇帝上之下鴻嘉二年(壬寅,公元前一九年)
春,上行幸雲陽、甘泉。
三月,博士行大射禮。有飛雉集於庭,歷階登堂而雊;後雉又集太常、宗正、丞相、御史大夫、車騎將軍之府,又集未央宮承明殿屋上。車騎將軍音、待詔寵等上言:「天地之氣,以類相應;譴告人君,甚微而著。雉者聽察,先聞雷聲,故《月令》以紀氣。《經》載高宗雊雉之異,以明轉禍為福之驗。今雉以博士行禮之日大眾聚會,飛集於庭,歷階登堂,萬眾睢睢,驚怪連日,逕歷三公之府,太常、宗正典宗廟骨肉之官,然後入宮,其宿留告曉人,具備深切;雖人道相戒,何以過是!」

春、成帝は、雲陽、甘泉に行幸する。
3月、博士が大射礼をおこなう。

胡三省はいう。古代において、天子、諸侯、大夫、士は、みな大射の礼をやる。いま博士がやったのは、士バージョンの射礼である。

キジが庭に集まって、階段をのぼる。のちにキジが集まり、太常、宗正、丞相、御史大夫、車騎將軍の府に集まる。また、未央宮の承明殿の屋上にも集まる。車騎將軍の王音、待詔の寵らが上言した。

師古はいう。経術にくわしくて、(経術の技能を発揮すべく)詔を待つ者である。寵は、姓が記されていない。

「連日、キジがきて、三公の府にゆく。三公の府にゆく前に、太常と宗正の府にゆく。太常と宗正は、宗廟と皇族を管理する部署である。さきに、皇族がらみの部署にきたのだから(劉氏にとって)心配いらない」と。

後帝使中常侍晁閎詔音曰:「聞捕得雉,毛羽頗摧折,類拘執者,得無人為之?」音復對曰:「陛下安得亡國之語!不知誰主為佞諂之計,誣亂聖德如此者!左右阿諛甚眾,不待臣音復諂而足。公卿以下,保位自守,莫有正言。如令陛下覺寤,懼大禍且至身,深責臣下,繩以聖法,臣音當先誅,豈有以自解哉!今即位十五年,繼嗣不立,日日駕車而出,失行流聞;海內傳之,甚於京師。外有微行之害,內有疾病之憂,皇天數見災異,欲人變更,終已不改。天尚不能感動陛下,臣子何望!獨有極言待死,命在朝暮而已。如有不然,老母安得處所,尚何皇太后之有!高祖天下當以誰屬乎!宜謀於賢智,克己復禮,以求天意,繼嗣可立,災變尚可銷也。」

のちに成帝は、中常侍の晁閎をつかって、王音に詔した。「だれもキジを捕まえなかった。これが災異なのでは」と。王音はまたいう。「成帝は、亡国の語をいうな。左右のものが阿諛して、ほんとうのことを言わないなら、私がほんとうのことを言う。成帝は継嗣がなく、微行もする。継嗣がなければ、高祖の天下は、だれに属するか。継嗣をつくり、微行をやめないと災異は治まらない」と。

ぼくは思う。微妙に、漢新革命の伏線をはってる?


初,元帝儉約,渭陵不復徙民起邑;帝起初陵,數年後,樂霸陵曲亭南,更營之。將作大匠解萬年使陳湯為奏,請為初陵徙民起邑,欲自以為功,求重賞。湯因自請先徙,冀得美田宅。上從其言,果起昌陵邑。

はじめ元帝は倹約して、渭陵には民を徙さず、邑を起こさず。

元帝の永光4年にある。

だが成帝は、初陵(延陵)をつくる。数年後、覇陵の曲亭の南に、さらに陵墓をつくる。将作大匠の解万年は、陳湯に上奏させた。「わたくし陳湯は、初陵をつくるため、民を徙して邑を起こす。功績により、賞賜をもらいたいからだ」と。陳湯は、美しい田宅をもとめた。成帝はみとめて、昌陵邑をつくる。

胡三省はいう。解万年と陳湯が罪をえて、昌陵の建設がやめられる原因がここにつくられた。
ぼくは思う。成帝にこびて、解万年と陳湯は、陵墓とそれに付随する邑の建設を提案した。という理解でいいのかな。


夏,徙郡國豪桀貲五百萬以上五千戶於昌陵。
五月,癸未,隕石於杜郵三。六月,立中山憲王孫雲客為廣德王。
是歲,城陽哀王雲薨;無子,國除。

夏、郡国の豪桀のうち、資産が500万以上の者を5000戸、昌陵に徙した。5月癸未、杜郵に隕石が3つ。6月、中山憲王の孫・劉雲客を、廣德王とした。

中山王の血統について、中華書局版994頁。

この歲、城陽哀王の劉雲が薨じた。子なし。国のぞく。130620

ぼくは思う。このとき、王莽が27歳。王莽が30歳になる前に、なにかおもしろい事件が起こるのだろうか。王音によって、わりと安定しているのか。王音は、王莽のおじじゃない。微妙に血縁がとおい。

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前18、五侯が咎められ、許皇后が廃死する

春夏、成帝が五侯のぜいたくに怒る

孝成皇帝上之下鴻嘉三年(癸卯,公元前一八年)
夏,四月,赦天下。大旱。

夏4月、天下を赦した。おおいに日照した。

王氏五侯爭以奢侈相尚。成都侯商嘗病,欲避暑,從上借明光宮。後又穿長安城,引內灃水,注第中大陂以行船,立羽蓋,張周帷,楫棹越歌。上幸商第,見穿城引水,意恨,內銜之,未言;後微行出,過曲陽侯第,又見園中土山、漸台,像白虎殿。於是上怒,以讓車騎將軍音。商、根兄弟欲自黥、劓以謝太后。上聞之,大怒,乃使尚書責問司隸校尉、京兆尹,知成都侯商等奢僭不軌,藏匿奸猾,皆阿縱,不舉奏正法;二人頓首省戶下。又賜車騎將軍音策書曰:「外家何甘樂禍敗!而欲自黥、劓,相戮辱於太后前,傷慈母之心,以危亂國家!外家宗族強,上一身浸弱日久,今將一施之,君其召諸侯,令待府捨!」是日,詔尚書奏文帝時誅將軍薄昭故事。車騎將軍音藉稿請罪,商、立、根皆負斧質謝,良久乃已。上特欲恐之,實無意誅也。

王氏の五侯は、奢侈をはりあう。成都侯の王商は、病気になったとき、避暑のために、成帝から明光宮を借りた。ここに川の水をひく工事をした。成帝は怒ったが、とがめない。
成帝が微行して、曲陽侯の王根の邸宅を見たら、白虎殿に似ていた。成帝は怒って、車騎将軍の王音をとがめた。王商と王根が「みずから黥刑と劓刑をやり、王太后にわびる」という。王音はいう。「外戚が身体を傷つけたら、王元后が悲しむ」と。
成帝は、文帝が薄昭を誅殺した故事に基づき、王氏を誅殺しようとする。
王音は罪を請うが、王商、王立、王根は、は斧を背負ってわびにくる。成帝は、王氏を罰さない。

ぼくは思う。自罰のパフォーマンスが過ぎるのが、王氏のあざといところ。自罰がひどいと、かえって成帝が彼らを罰することができないことを知っていて、これをやるのだ。王音は、まだ誠実に、節度のある謝りかたをしている。
王鳳-王音という、血縁よりは、キャラクターを継承した2人の外戚により、王氏の政治は保たれた。王音の死後に、ただのゼイタクをやるだけの王莽のおじたちは、雑魚キャラである。


秋,八月,乙卯,孝景廟北闕災。

秋8月乙卯、景帝の廟の北門が火災。

冬、許皇后が廃され、趙飛燕が愛される

初,許皇后與班婕妤皆有寵於上。上嘗游後庭,欲與婕妤同輦載,婕妤辭曰:「觀古圖畫,賢聖之君皆有名臣在側,三代末主乃有嬖妾。今欲同輦,得無近似之乎!」上善其言而止。太后聞之,喜曰:「古有樊姬,今有班婕妤!」班婕妤進侍者李平得幸,亦為婕妤,賜姓曰衛。

はじめ、許皇后と班婕妤は、どちらも成帝に寵愛された。成帝が班婕妤を同乗させると、「賢聖の君主は、名臣を同乗させた。三代の末主は、寵愛する嬖妾を同乗させた」と戒めた。王太后は「班婕妤は、古代の樊姫である」とよろこぶ。

張晏はいう。樊王は田をこのむ。樊姫は、禽獣の肉を食べない。樊姫のことは、楚荘王の記事にある。


其後,上微行過陽阿主家,悅歌舞者趙飛燕,召入宮,大幸;有女弟,復召入,姿性尤醲粹,左右見之,皆嘖嘖嗟賞。有宣帝時披香博士淖方成在帝后,唾曰:「此禍水也,滅火必矣!」姊、弟俱為婕妤,貴傾後宮。許皇后、班婕妤皆失寵。於是趙飛燕譖告許皇后、班婕妤挾媚道,祝詛後宮,詈及主上。

のちに成帝は微行して、趙飛燕をひろってきた。許皇后と班婕妤は、寵愛がおとろえた。趙飛燕におとしいれられた。

冬,十一月,甲寅,許後廢處昭台宮,後姊謁等皆誅死,親屬歸故郡。考問班婕妤,婕妤對曰:「妾聞『死生有命,富貴在天。』修正尚未蒙福,為邪欲以何望!使鬼神有知,不受不臣之訴;如其無知,訴之何益!故不為也。」上善其對,赦之,賜黃金百斤。趙氏姊、弟驕妒,婕妤恐久見危,乃求共養太后於長信宮。上許焉。

冬11月甲寅、許皇后は廃され、姉の許謁(平安剛侯の夫人)とともに誅された。許氏の親属は故郷の山陽に帰された。
班倢伃は裁かれたとき、「死生は命にあり、富貴は天にあり、と聴いています」という。成帝は班倢伃をゆるした。

『論語』で子夏が司馬牛にこたえた言葉。

趙飛燕の姉妹は、驕妒である。趙飛燕は姉妹とともに、王元后を長信宮で養いたいと求めた。成帝はゆるした。

廣漢男子鄭躬等六十餘人攻官寺,篡囚徒,盜庫兵;自稱山君。

広漢の男子・鄭躬らが、官府をおそう。130620

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前17、王譚が死に、王音と王商が和解する

冬、広漢太守の趙護が、鄭躬を鎮定する

孝成皇帝上之下鴻嘉四年(甲辰,公元前一七年)
秋,勃海、清河、信都河水湓溢,灌縣、邑三十一,敗官亭、民捨四萬餘所。平陵李尋等奏言:「議者常欲求索九河故跡而穿之。今因其自決,可且勿塞,以觀水勢;河欲居之,當稍自成川,跳出沙土。然後順天心而圖之,必有成功,而用財力寡。」於是遂止不塞。朝臣數言百姓可哀,上遣使者處業振贍之。

秋に、勃海、清河、信都で、黄河があふれた。県と邑31がひたる。平陵の李尋が上奏した。「むかしの流れを、むりに堤防で変更するから、黄河があふれるのだ」と。流れを塞ぐのをやめた。使者をだして、被災者の生業を支援し、財物をくばった。

廣漢鄭躬等黨與浸廣,犯歷四縣,眾且萬人;州郡不能制。冬,以河東都尉趙護為廣漢太守,發郡中及蜀郡合三萬人擊之,或相捕斬除罪;旬月平。遷護為執金吾,賜黃金百斤。

広漢の鄭躬は、4県をおかす。兵は1万人となり、州郡では制御できない。冬に、河東都尉の趙護を、広漢太守とする。広漢と蜀郡から3万を発して、旬月でたいらぐ。趙護は執金吾となった。

王譚が死に、王音と王商が和解する

是歲,平阿安侯王譚薨。上悔廢譚使不輔政而薨也,乃復成都侯商以特進領城門兵,置幕府,得舉吏如將軍。

この歳、平阿安侯の王譚が薨じた。成帝は、王譚を輔政させずに死なせてしまったことを悔いて、成都侯の王商を特進として城門の兵を領させ、幕府を置かせた。王商は、将軍のように、吏を挙げることができる。

ぼくは思う。五侯と微妙に血筋のはなれた王音が、車騎将軍として執政している。だから、五侯は、こうした「おためごかし」な待遇となる。じつは五侯がゼイタクをするのは、官職や権限が、いまひとつだからかも。


魏郡杜鄴時為郎,素善車騎將軍音,見音前與平阿侯有隙,即說音曰:「夫戚而不見殊,孰能無怨!昔秦伯有千乘之國而不能容其母弟,《春秋》譏焉。周、召則不然,忠以相輔,義以相匡,同己之親,等己之尊,不以聖德獨兼國寵,又不為長專受榮任,分職於陝,並為弼疑,故內無感恨之隙,外無侵侮之羞,俱享天祐,兩荷高名者,蓋以此也。竊見成都侯以特進領城門兵,復有詔得舉吏如五府,此明詔所欲寵也。將軍宜承順聖意,加異往時,每事凡議,必與及之。發於至誠,則孰不說諭!」音甚嘉其言,由是與成都侯商親密。二人皆重鄴。

魏郡の杜鄴は、郎となる。杜鄴は、車騎将軍の王音と、仲がよい。王音は、平阿侯の王譚と仲がわるかった。杜鄴は王音にいう。「むかし晋景公は、弟の公子鍼と仲がわるくて、『春秋』にそしられた。周公旦と召公奭は、私的な感情で怨みあわなかった。王音は、成都侯の王商と仲よくね」と。
王音はその発言をよろこび、成都侯の王商と親密となった。王音と王商は、どちらも(仲直りを斡旋してくれた)杜鄴を重んじた。130620

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前16、王莽が新都侯、趙飛燕が皇后となる

春、淳于長が、趙飛燕を皇后に推す

孝成皇帝上之下永始元年(乙巳,公元前一六年)
春,正月,癸丑,太官凌室火。戊午,戾後園南闕火。
上欲立趙婕妤為皇后,皇太后嫌其所出微甚,難之。太后姊子淳於長為侍中,數往來通語東宮;歲餘,乃得太后指,許之。

春正月癸丑、太官の凌室(氷室)で火災。正月戊午、戻后園の南門で火災。
成帝は、趙婕妤(趙飛燕)を皇后にしたい。王元后は、出自がいやしいので、皇后にしたくない。王元后の姉子の淳于長は、侍中である。後宮と口利きする。淳于長が1年余たのみ、王元后は趙倢伃を皇后にするのを許した。

ぼくは思う。王莽よりも、淳于長が先に出てきた。だが、ほぼ同じタイミングでの登場。2人はライバルなのね。


夏,四月,乙亥,上先封婕妤父臨為成陽侯。諫大夫河間劉輔上書,言:「昔武王、周公,承順天地以饗魚、鳥之瑞,然猶君臣示氐懼,動色相戒。況於季世,不蒙繼嗣之福,屢受威怒之異者虖!雖夙夜自責,改過易行,畏天命,念祖業,妙選有德之世,考卜窈窕之女,以承宗廟,順神祇心,塞天下望,子孫之祥猶恐晚暮!今乃觸情縱欲,傾於卑賤之女,欲以母天下,不畏於天,不愧於人,惑莫大焉!裡語曰:『腐木不可以為柱;人婢不可以為主。』天人之所不予,必有禍而無福,市道皆共知之,朝廷莫肯壹言。臣竊傷心,不敢不盡死!」

夏4月乙亥、成帝は、趙倢伃の父・趙臨を成陽侯とした。
諫大夫する河間の劉輔が上書した。「卑賤の趙倢伃を、皇后=天下の母にするなよ」と。

書奏,上使侍御史收縛輔,系掖庭秘獄,群臣莫知其故。於是左將軍辛慶忌、右將軍廉褒、光祿勳琅邪師丹、太中大夫谷永俱上書曰:「竊見劉輔前以縣令求見,擢為諫大夫,此其言必有卓詭切至當聖心者,故得拔至於此;旬月之間,收下秘獄。臣等愚以為輔幸得托公族之親,在諫臣之列,新從下土來,未知朝廷體,獨觸忌諱,不足深過。小罪宜隱忍而已,如有大惡,宜暴治理官,與眾共之。今天心未豫,災異屢降,水旱迭臻,方當隆寬廣問,褒直盡下之時也,而行慘急之誅於諫爭之臣,震驚群下,失忠直心。假令輔不坐直言,所坐不著,天下不可戶曉。同姓近臣,本以言顯,其於治親養忠之義,誠不宜幽囚於掖庭獄。公卿以下,見陛下進用輔亟而折傷之暴,人有懼心,精銳銷耎,莫敢盡節正言,非所以昭有虞之聽,廣德美之風!臣等竊深傷之,惟陛下留神省察!」上乃徙系輔共工獄,減死罪一等,論為鬼薪。

劉輔の上奏をみて、成帝は侍御史をやり、劉輔を掖庭の秘獄につながせた。郡臣はその理由がわからない。左將軍の辛慶忌、右將軍の廉褒、光祿勳する琅邪の師丹、太中大夫の谷永が、ともに上書した。「劉輔を釈放せよ」と。
成帝は、劉輔の死罪をやめて、宗廟の薪をとる3年の労務刑とする。

いよいよ王莽の登場

初,太后兄弟八人,獨弟曼早死,不侯;太后憐之。曼寡婦渠供養東宮,子莽幼孤,不及等比,其群兄弟皆將軍、五侯子,乘時侈靡,以輿馬聲色佚游相高。莽因折節為恭儉,勤身博學,被服如儒生;事母及寡嫂,養孤兄子,行甚敕備;又外交英俊,內事諸父,曲有禮意。大將軍鳳病,莽侍疾,親嘗藥,亂首垢面,不解衣帶連月。鳳且死,以托太后及帝,拜為黃門郎,遷射聲校尉。久之,叔父成都侯商上書,願分戶邑以封莽。長樂少府戴崇、侍中金涉、中郎陳湯等皆當世名士,鹹為莽言,上由是賢莽,太后又數以為言。

はじめ王元后には、兄弟が8人いた。弟の王曼だけが早死にして、侯爵にならない。

胡三省はいう。王鳳は、父の王禁を嗣いで、陽平侯となる。王崇は安成侯となる。庶弟5人は、同日に五侯となる。これで7人である。
ぼくは思う。豪奢をきそった庶弟5人は、政治的には小粒で、たいした事績がない。それもそのはずで、恩沢でおまけで侯爵をもらっただけなのだ。政治の責任は、王鳳が王音に嗣がせた。王音の死後、どのように実権がうつるか。王音と王莽のあいだに、どれだけのブランクがあるかを、見ておく必要がある。

王曼の寡婦の渠(王莽の母)は、東宮で養われる。子の王莽は、兄弟たちが将軍となり、五侯の子(王莽の従兄弟)が奢靡なのに、儒生のような服装である。王莽は、兄子(兄の王永の子・王光)をやしなう。
王鳳を看病した。王鳳が死ぬとき、王元后に「王莽をよろしく」というので、王莽は黄門郎、射声校尉となる。おじの成都侯の王商が上書して、封邑を分けてくれた。長樂少府の戴崇、侍中の金涉、中郎の陳湯は、当世の名士であるが、みな王莽をほめた。

ぼくは思う。中華書局版では、ちょうど1000頁で王莽が登場する。いま王莽は、30歳である。なにもかもキリがよい。
王莽をほめてくれた、戴崇、金渉、陳湯について、列伝があれば読まねば。戴崇はなさそう。金渉は金日磾の子孫。陳湯は列伝40にある。
胡三省はいう。『姓譜』によると、戴氏は宋戴公の子孫である。宋が戴を滅ぼし、戴の君主の子孫が、戴氏を名のったともいう。


五月,乙未,封莽為新都侯,遷騎都尉、光祿大夫、侍中。宿衛謹敕,爵位益尊,節操愈謙,散輿馬、衣裘振施賓客,家無所餘;收贍名士,交結將、相、卿、大夫甚眾。故在位更推薦之,游者為之談說,虛譽隆洽,傾其諸父矣。敢為激發之行,處之不漸恧。嘗私買侍婢,昆弟或頗聞知,莽因曰:「後將軍硃子元無子,莽聞此兒種宜子,為買之」。即日以婢奉硃博。其匿情求名如此!

5月乙未、王莽を新都侯とする。騎都尉、光祿大夫、侍中にうつる。財物を散じて、人脈をつくる。かつて侍婢を買った。昆弟が理由を聞いた。王莽はいう。「後将軍の朱博は、子がいない。この侍婢は子を産める(産みやすい)と聞いた。朱博にあげようと思って買ったのだ」と。王莽は侍婢を朱博にあげた。このように、真情をかくして、名声をもとめた。

6月、趙飛燕を皇后とし、劉向がいさめる

六月,丙寅,立皇后趙氏,大赦天下。皇后既立,寵少衰。而其女弟絕幸,為昭儀,居昭陽捨,其中庭彤硃而殿上髹漆;切皆銅沓,黃金塗;白玉階;壁帶往往為黃金釭,函藍田璧、明珠、翠羽飾之。自後宮未嘗有焉。趙後居別館,多通侍郎、宮奴多子者。昭儀嘗謂帝曰:「妾姊性剛,有如為人構陷,則趙氏無種矣!」因泣下心妻惻。帝信之,有白後奸狀者,帝輒殺之。由是後公為淫恣,無敢言者,然卒無子。

6月丙寅、趙氏を皇后にたてて、天下を大赦した。皇后になると、寵愛が少し衰えた。趙皇后の妹が寵愛されて、趙昭儀となる。趙昭儀は昭陽舎にいて、昭陽舎は装飾をつくす。趙昭儀は、姉の趙皇后を冤罪に陥れた。だれも諫言しない。趙昭儀も、子なし。

光祿大夫劉向以為王教由內及外,自近者始,於是採取《詩》、《書》所載賢妃、貞婦興國顯家及孽、嬖亂亡者,序次為《列女傳》,凡八篇,及采傳記行事,著《新序》、《說苑》,凡五十篇,奏之,數上疏言得失,陳法戒。書數十上,以助觀覽,補遺闕。上雖不能盡用,然內嘉其言,常嗟歎之。

光禄大夫の劉向は、『詩経』『書経』を根拠にして、あるべき賢貞な女性を『列女伝』にまとめた。

ぼくは思う。劉向の『列女伝』は、趙皇后と趙昭儀が、賢でも貞でもないから、編纂が動機づけられた。劉向が漢家を思いやり、災異を研究したのは、外戚の王氏のおかげだった。
劉向の業績は、漢家の滅亡の前兆とセットである。劉向は、皇族の一員として、漢家を重んじ、漢家のために学問を重んじる。皮肉だな。

劉向は『新序』『説苑』を成帝に献上して、戒めた。成帝は、テキストの内容をよろこぶが、戒めを実行に移さない。

昌陵制度奢泰,久而不成。劉向上疏曰:「臣聞王者必通三統,明天命所授者博,非獨一姓也。自古及今,未有不亡之國。孝文皇帝嘗美石槨之固,張釋之曰:『使其中有可欲,雖錮南山猶有隙。』夫死者無終極,而國家有廢興,故釋之之言為無窮計也。孝文寤焉,遂薄葬。棺槨之作,自黃帝始。黃帝、堯、舜、禹、湯、文、武、周公,丘□皆小,葬具甚微;其賢臣孝子亦承命順意而薄葬之。(中略)唯陛下上覽明聖之制以為則,下觀亡秦之禍以為戒,初陵之模,宜從公卿大臣之議,以息眾庶!」上感其言。

昌陵の制度(陵墓の建築計画)は、奢泰であり、久しく完成しない。劉向は上疏した。「夏殷周の3統は必ず通じる(交代する)。天命を授かる者は、1姓だけでない。滅亡しなかった国はない。

応劭はいう。「二王の後」と漢家をあわせて、三統となる。
ぼくは思う。二王の後を祭るということは、革命を肯定するに等しい。戦国期に形成された、三統(3すくみ)に基づいて、それぞれの君主を正統化するロジックは、前漢期にも生きている。ぼくが思っているほど、漢代においても、革命思想はタブーではないのかも。ところで、後漢末って、あんまり三統を言わないような気がする。もっぱら五行説になる。なぜだろう。五行説は、陰陽家が言い出しただけ。べつに革命思想の決定版ではない。むしろ、歴史的事実(と思われているもの)に基づく、三統説のほうが、説得力がありそうなのに。なお、三統暦は、劉歆がつくったらしい。

漢文帝は、張釈に戒められて、棺槨を質素にして、薄葬にした。棺槨は、黄帝がはじめた。堯舜禹、殷湯、周文、周武、周公は、みな薄葬であった。賢臣や孝子も、みな薄葬にするものだ。成帝も薄葬にして、建設コストを浮かせろ」と。
成帝は、劉向の意見に感じ入った。

秋、昌陵の建築をやめ、蕭何の子孫を封じる

初,解萬年自詭昌陵三年可成,卒不能就;群臣多言其不便者。(中略)
秋,七月,詔曰:「朕執德不固,謀不盡下,過聽將作大匠萬年言『昌陵三年可成』,作治五年,中陵、司馬殿門內尚未加功。天下虛耗,百姓罷勞,客土疏惡,終不可成,朕惟其難,怛然傷心。夫『過而不改,是謂過矣』。其罷昌陵,及故陵勿徙吏民,令天下毋有動搖之心。」

はじめ将作大匠の解万年は「昌陵を3年で完成する」というが、完成しない。
秋7月、成帝は詔した。「昌陵が完成できない。解万年は3年で完成するというのに、もう5年かかっている。昌陵をやめる。吏民を移住させて、建設に動員することもやめる」と。

胡三省はいう。昌陵を新たにつくることは辞める。成帝は、昌陵より前につくった初陵に、自分を葬らせることにしたのだ。


初,酇侯蕭何之子孫嗣為侯者,無子及有罪,凡五絕祀。高後、文帝、景帝、武帝、宣帝思何之功,輒以其支庶紹封。是歲,何七世孫酇侯獲坐使奴殺人,減死,完為城旦。先是,上詔有司訪求漢初功臣之後,久未省錄。杜業說上曰:「唐、虞、三代皆封建諸侯,以成太平之美,是以燕、齊之祀與周並傳,子繼弟及,歷載不墮(中略)」上納其言。癸卯,封蕭何六世孫南□長喜為酇侯。

はじめ酇侯の蕭何の子孫は、侯爵をつぐ。子なしや罪で、5たび絶えた。

中華書局版1006頁で、蕭氏の歴代の事情がある。

呂后、文帝、景帝、武帝、宣帝は、蕭何の功績を思って、爵位を嗣がせてきた。この歳、7世孫の蕭獲が、奴隷に殺人をさせた。杜鄴はいう。「唐堯と虞舜、周の三代は、みな諸侯を封建して、太平となった。燕国と斉国は、祭祀が絶えた。

胡三省はいう。太公望は斉国に封じられたが、田氏に滅ぼされた。召公奭は燕国に封じられたが、のちに滅びた。

功臣の蕭何を封じたなら、その子孫の祭祀を絶やすな」と。

胡三省はいう。前漢の功臣の爵位は、絶えた者がおおい。継承は難しいが、せめて功績がおもい者だけでも、祭祀を継続させようというのだ。
ぼくは思う。いわゆる先王や聖人のラインに、周室から、文王、武王、周公という3人も加わっているのがすごい。始祖1人だけではない。唐堯、虞舜、夏禹、殷湯は、それぞれ1人だけである。まあ禅譲者は、複数がランクインするのがおかしいのだけど。

成帝は、7月癸卯、蕭何の6世孫・蕭喜を酇侯とした。

中華書局版1007頁に、場所や爵位について、検討されてる。


立城陽哀王弟俚為王。
八月,丁丑,太皇太后王氏崩。
九月,黑龍見東萊。丁巳晦,日有食之。
是歲,以南陽太守陳鹹為少府,侍中淳於長為水衡都尉。

城陽哀王の弟・劉俚を城陽王とする。
8月丁丑、太皇太后の王氏(宣帝の王皇后)が崩じた。

ぼくは思う。元帝の王皇后との関係が、史料にどれくらい登場するのか。みたい。同姓だけど、べつに血縁ではないはず。

9月、黒龍が東莱にあらわる。9月丁巳みそか、日食あり。
この歳、南陽太守の陳咸が少府となる。侍中の淳于長が水衡都尉となる。130621

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前15、王音が死に、翟方進が御史大夫・丞相に

春、王音が薨じて、翟方進が御史大夫となる

孝成皇帝上之下永始二年(丙午,公元前一五年)
春,正月,己丑,安陽敬侯王音薨。王氏唯音為修整,數諫正,有忠直節。
二月,癸未夜,星隕如雨,繹繹,未至地滅。乙酉晦,日有食之。
三月,丁酉,以成都侯王商為大司馬、衛將軍;紅陽侯王立位特進,領城門兵。
京兆尹翟方進為御史大夫。

春正月己丑、安陽敬侯の王音 が薨じた。王氏のなかで、王音だけが修整であり、しばしば諫正して、忠直の節があった。

ぼくは思う。王音が死んでから、王莽がデビューするまでが、「政治力のおとる王氏が、ぎりぎり高い地位にいる期間」である。この期間は、7年間である。王莽は、綏和元年(前08)に、38歳で大司馬となる。

2月癸未、隕石がふる。乙酉みそか、日食あり。
3月丁酉、成都侯の王商が、大司馬・衛將軍となる。紅陽侯の王立は、位は特進、城門の兵を領する。
京兆尹の翟方進が、御史大夫となる。

ぼくは思う。王音が死んで、王氏がスキを見せるときに、翟方進が出てきた。翟方進は、前07年=王莽が大司馬となる前年に自殺する。つまり翟方進が、政治力のない王氏をおさえた。
のちに翟方進の子・翟義が、王莽に反乱してゆさぶる。つくづく、翟氏は王氏のライバルである。パズルのように、ピタッと活躍時期がすれちがうライバルである。


谷永が、成帝の全般を批判する

谷永為涼州刺史,奏事京師,訖,當之部,上使尚書問永,受所欲言。
永對曰:「元年,九月,黑龍見;其晦,日有食之。今年二月己未夜,星隕;乙酉,日有食之。六月之間,大異四發,二二而同月。(中略)建始、河平之際,許、班之貴,傾動前朝,熏灼四方,女寵至極,不可上矣;今之後起,什倍於前。(中略)今陛下棄萬乘之至貴,樂家人之賤事,厭高美之尊號,好匹夫之卑字,崇聚僄輕無義小人以為私客。(中略)今陛下輕奪民財,不愛民力,聽邪臣之計,去高敞初陵,改作昌陵,役百乾溪,費擬驪山,靡敝天下,五年不成而後反故。(中略)至於陛下,獨違道縱欲,輕身妄行,當盛壯之隆,無繼嗣之福。(後略)

谷永が涼州刺史となる。京師で上奏してから、涼州にゆく。成帝は尚書に、谷永の意見を問わせた。谷永はいう。
「黒龍と日食があるのは、災異である。許皇后と班婕妤が退けられ、後宮はトラブルがある。成帝は微賤な私客をかこう。初陵をつくり、くわえて昌陵をつかい、5年でも完成しない。天下の資財をムダにつかう。成帝は後嗣をつくらない」と。

ぼくは思う。成帝期の短所が集約されている。


帝性寬,好文辭,而溺於燕樂,皆皇太后與諸舅夙夜所常憂;至親難數言,故推永等使因天變而切諫,勸上納用之。永自知有內應,展意無所依違,每言事輒見答禮。至上此對,上大怒。衛將軍商密擿永令發去。上使侍御史收永,敕過交道廄者勿追;御史不及永,還。上意亦解,自悔。

成帝の性質は寛容であり、文辞をこのみ、燕楽におぼれた。王元后やおじの王氏たちは、日夜、成帝のことを憂う。ゆえに王氏は、谷永に切諫させ、成帝に改善をもとめた。だが成帝は、谷永の切諫をみて怒った。
衛将軍の王商は、ひそかに谷永を涼州に出発させた。成帝は、侍御史に谷永に捕らえさせたい。交道のうやまには(谷永を捕らえるのは侍御史の役割なので)谷永を追うなと勅した。

晋灼はいう。交道のうまやとは、長安から60里にある。延陵に近い。

侍御史は、谷永に追いつけず、長安にもどる。成帝は怒りが解けて、侍御史に谷永を追わせたことを、後悔した。

ぼくは思う。外戚の王氏は、成帝を制御できていない。成帝もまた、成帝自身を制御できていない。なんだか、末期症状だな。


王氏も翟方進も薛宣も、寵臣の張放を排除

上嘗與張放及趙、李諸侍中共宴飲禁中,皆引滿舉白,談笑大噱。時乘輿幄坐張畫屏風,畫紂醉踞妲己,作長夜之樂。侍中、光祿大夫班伯久疾新起,上顧指畫而問伯曰:「紂為無道,至於是虖?」對曰:「《書》云:『乃用婦人之言』,何有踞肆於朝!所謂眾惡歸之,不如是之甚者也!」上曰:「苟不若此,此圖何戒?」對曰:「『沉湎於酒』,微子所以告去也。『式號式呼』,《大雅》所以流連也。《詩》、《書》淫亂之戒,其原皆在於酒!」上乃喟然歎曰:「吾久不見班生,今日復聞讜言!」放等不懌,稍自引起更衣,因罷出。

かつて成帝は、張放と、趙氏と李氏(どちら成帝の妻)と、禁中で宴飲した。侍中・光禄大夫の班伯は、「いまの光景は、殷紂が妲己と同じだ」という。

ぼくは思う。中華書局版1012頁で、典拠いろいろ。

成帝は「ながらく班伯に会わずにいた。今日は、班伯から善言を聞けた」という。張放らは悦ばず、更衣してくるといって罷りでた。

時長信庭林表適使來,聞見之。後上朝東宮,太后泣曰:「帝間顏色瘦黑。班侍中本大將軍所舉,宜寵異之;益求其比,以輔聖德!宜遣富平侯且就國!」上曰:「諾。」上諸舅聞之,以風丞相、御史,求放過失。於是丞相宣、御史大夫方進奏「放驕蹇縱恣,奢淫不制,拒閉使者,賊傷無辜,從者支屬並乘權勢,為暴虐,請免放就國。」上不得已,左遷放為北地都尉。其後比年數有災變,故放久不得還。璽書勞問不絕。敬武公主有疾,詔徽放歸第視母疾。數月,主有瘳,後復出放為河東都尉。上雖愛放,然上迫太后,下用大臣,故常涕泣而遣之。

ときに長信宮のの林表(官名)は、王元后に班伯のことを報告した。王元后は泣いた。「成帝は顔色が痩せて黒い。侍中の班伯は、兄の王鳳が推挙した者だ。班伯に成帝を補佐させるため、張放を就国させよう(長安から出そう)」という。成帝はみとめた。
王氏の五侯は、丞相や御史に吹きこみ、張放を過失を報告させた。丞相の薛宣、御史大夫の翟方進がいう。「張放は驕慢で、制度をやぶる。就国させるべきだ」と。

『考異』はいう。『漢書』叙伝によると、王音は丞相御史に風した。張放伝によると、丞相の薛宣と、御史大夫の翟方進が、張放の過失を上奏したと。
王音はこの歳の正月に死んでいる。翟方進は、3月に御史大夫となった。だから、王音は関係ない。張放では「成帝のおじの王氏たちが」とある。王音をふくまないから「おじたち」とだけ言うのだ。ぼくは補う。王音は同族だが、成帝のおじではない。

成帝はやむを得ず、張放を北地都尉とした。
成帝から張放への、ねぎらいの文書は絶えない。敬武公主が疾病になると、張放を長安にもどして、母・敬武公主の看病をさせた。数ヶ月して、また張放は河東都尉に出された。成帝は張放を手元におきたいが、王元后と大臣がせまるので、涕泣して張放を送り出した。

ぼくは思う。成帝は孤立した肯定として描かれる。この成帝の人望のなさは、なにが原因なんだろう。人望がなく描かれる事情は、どこにあるのだろう。


冬、翟方進が丞相、孔光が御史大夫となる

邛成太后之崩也,喪事倉卒,吏賦斂以趨辦,上聞之,以過丞相、御史。
冬,十一月,己丑,冊免丞相宣為庶人,御史大夫方進左遷執金吾。二十餘日,丞相官缺,群臣多舉方進者;上亦器其能,十一月,壬子,擢方進為丞相,封高陵侯。以諸吏、散騎、光祿勳孔光為御史大夫。

邛成太后が崩じると、

胡三省はいう。宣帝の王皇后である。父は王奉光で、邛成侯に封じられた。邛成太后とよんで、元帝の王太后と区別する。邛成は済陰郡である。

喪事に問題があり、成帝は、丞相と御史大夫の過失とした。
冬11月己丑、丞相の薛宣を庶人とした。御史大夫の翟方進を執金吾とした。20余日、丞相は空席である。郡臣が推薦したので、11月壬子、翟方進が丞相となり、高陵侯に封じられる。諸吏・散騎・光祿勳の孔光が御史大夫となる。

中華書局版1014頁によると、この任命のタイミングについて、史料たちが食い違う。


方進以經術進,其為吏,用法刻深,好任勢立威;有所忌惡,峻文深詆,中傷甚多。有言其挾私詆欺不專平者,上以方進所舉應科,不以為非也。
光,褒成君霸之少子也,領尚書,典樞機十餘年,守法度,修故事,上有所問,據經法,以心所安而對,不希指苟合;如或不從,不敢強諫爭,以是久而安。時有所言,輒削草蒿,以為章主之過以奸忠直,人臣大罪也。有所薦舉,唯恐其人之聞知。沐日歸休,兄弟妻子燕語,終不及朝省政事。或問光:「溫室省中樹,皆何木也?」光嘿不應,更答以它語,其不洩如是。

翟方進は、射策で甲科(よい評価)をもらい、郎となる。明経で挙げられ、議郎となった。職務の権限に任せて、人々を威圧したから、きらわれた。中傷された。
孔光は、褒成君の孔覇の子である。天子の心を感じとり、きびしく諫争しない。「温室にある樹木は、なんの種類か」と聴かれても、答えないほど口が堅かった。

ぼくは思う。王莽のデビュー直前にいた、翟方進。王莽が交際した孔光。2人の列伝も読まずには、おけない。


上行幸雍,祠五畤。
衛將軍王商惡陳湯,奏「湯妄言昌陵且復發徙;又言黑龍冬出,微行數出之應。」廷尉奏「湯非所宣言,大不敬。」詔以湯有功,免為庶人,徙邊。

成帝は雍に行幸して、五畤を祠る。

建始2年、五畤をやめた。いま京師がないから、泰畤をもどした。

衛將軍の王商は、陳湯をにくむ。王商は「陳湯は昌陵の建設を再開しろという。黒龍が冬に出たのは、成帝が微行するからだという」といった。廷尉は「陳湯は不敬だ」という。成帝は、陳湯には功績があるから、官職を免じて庶人とし、辺境に徙した。

ぼくは思う。王莽を推薦してくれたのは、陳湯さんなのに。


上以趙後之立也,淳於長有力焉,故德之,乃追顯其前白罷昌陵之功,下公卿,議封長。光祿勳平當以為:「長雖有善言,不應封爵之科。」當坐左遷巨鹿太守。上遂下詔,以常侍閎,侍中、衛尉長首建至策,賜長、閎爵關內侯。
將作大匠萬年佞邪不忠,毒流眾庶,與陳湯俱徒敦煌。

趙皇后が立ってから、淳于長は権力をもつ。さきに昌陵の中止を建白したので、封爵が検討された。光禄勲の平当はいう。「淳于長の提案は正しいが、封爵するほどでない」と。平当は鉅鹿太守に左遷された。淳于長は関内侯になる。
将作大匠の解万年は、侫邪で不忠である。陳湯とともに敦煌に徙された。

初,少府陳鹹,衛尉逢信,官簿皆在翟方進之右;方進晚進,為京兆尹,與鹹厚善。及御史大夫缺,三人皆名卿,俱在選中,而方進得之。會丞相薛宣得罪,與方進相連,上使五二千石雜問丞相、御史,鹹詰責方進,冀得其處,方進心恨。
陳湯素以材能得幸於王鳳及王音,鹹、信皆與湯善,湯數稱之於鳳、音所,以此得為九卿。及王商黜逐湯,方進因奏「鹹、信附會湯以求薦舉,苟得無恥。」皆免官。

はじめ、少府の陳咸、衛尉の逢信は、翟方進よりも上位だった。翟方進は昇進がおそく、京兆尹となった。陳咸と逢信は、翟方進と仲がよい。御史大夫が空席になると、3人のなかから、翟方進が選ばれた。翟方進は丞相になった。陳咸は丞相になりたいので(嫉妬して)翟方進を詰責した。翟方進は、陳咸をうらむ。
陳湯は、王鳳と王音に重視された。

ぼくは思う。王鳳と王音は、やはり前任と後任の関係にある。五侯と違って、政治に実効がある。

陳咸と逢信は、どちらも陳湯と仲がよく、しばしば王鳳と王音にほめられ、九卿になれた。王商が陳湯を敦煌においだすと、

ぼくは思う。王商は、王鳳と王音が重んじた陳湯を、追放してしまった。五侯でない王鳳と王音のあとを、五侯の王商が継承するにあたり、派閥の転換が起きたらしい。まあ派閥なんて、敵の敵は味方という、あまりに単純なロジックが、リアルに効いてくる場所だから。

翟方進は上奏した「陳咸と逢信は、陳湯にくっついて官職を得たくせに、恥じていない」と。陳咸と逢信は免官された。

『考異』はいう。陳咸と逢信の免官は、翌年以後のことである。だが、陳湯と関係があるので、ここにまとめて『資治通鑑』に記した。


是歲,琅邪太守硃博為左馮翊。博治郡,常令屬縣各用其豪桀以為大吏,文、武從宜。縣有劇賊及它非常,博輒移書以詭責之,其盡力有效,必加厚賞;懷詐不稱,誅罰輒行。以是豪強懾服,事無不集。

この歳、琅邪太守の朱博が左馮翊となる。属県から、豪傑をもちいて、大吏とした。賞賜と刑罰が正しく行われて、豪強が支配にとりこまれた。130621

ぼくは思う。朱博は、王莽が女性を買ってあげた人。交際があるのだろう。瑯邪は、のちに赤眉が勃発するあたり。旧斉の文化圏は、なかなか旧秦の政治圏にとりこまれないのだ。

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前14、継嗣を得べく、祭祀の整理・節約をやめる

冬、甘泉の泰畤、汾陰の后土、雍の五畤をもどす

孝成皇帝上之下永始三年(丁未,公元前一四年)
春,正月,己卯晦,日有食之。
初,帝用匡衡議,罷甘泉泰畤,其日,大風壞甘泉竹宮,折拔畤中樹木十圍以上百餘。帝異之,以問劉向,對曰:「家人尚不欲絕種祠,況於國之神寶舊畤!且甘泉、汾陰及雍五畤始立,皆有神示氐感應,然後營之,非苟而已也。武、宣之世奉此三神,禮敬敕備,神光尤著。祖宗所立神祇舊位,誠未易動。前始納貢禹之議,後人相因,多所動搖。《易大傳》曰:『誣神者殃及三世。』恐其咎不獨止禹等!」
上意恨之,又以久無繼嗣, 冬,十月,庚辰,上白太后,令詔有司復甘泉泰畤、汾陰后土如故,及雍五畤、陳寶祠、長安及郡國祠著明者,皆復之。

春正月みそか、日食あり。
はじめ成帝は、匡衡の議論をもちい、甘泉の泰畤をやめた。おなじ日に、大風が甘泉の竹宮をこわした。成帝は怪異と思い、劉向にきいた。「庶人ですら家系を絶やしたくない。まして皇帝なら、祭祀の継続をつよく願う。甘泉の泰畤は、武帝や宣帝のときに、天や神との感応があって始められた。元帝のときから、貢禹、韋玄成、匡衡が祭祀を中止しろといい、祭祀のやりかたが動揺してきた。『易大伝』はいう。誣神はわざわいを3世に及ぼすと。貢禹が神に処罰されるだけでは、すまないかも」と。
成帝は後悔して、泰畤をやめたのが後嗣のない原因だと思った。
冬10月、王元后にいい、甘泉の泰畤、汾陰の后土をもどす。雍の五畤をもどす。長安の郡国廟も、著名におこなった。祭祀を、みな従来にもどした。

ぼくは思う。劉向は、祭祀を整理するのに反対なのね。


是時,上以無繼嗣,頗好鬼神、方術之屬,上書言祭祀方術得待詔者甚眾,祠祭費用頗多。谷永說上曰:「臣聞明於天地之性,不可惑以神怪;知萬物之情,不可罔以非類。諸背仁義之正道,不遵《五經》之法言,而盛稱奇怪鬼神,廣崇祭祀之方,求報無福之祠,及言世有仙人,服食不終之藥,遙興輕舉、黃治變化之術者,皆奸人惑眾,挾左道,懷詐偽,以欺罔世主。聽其言,洋洋滿耳,若將可遇,求之,蕩蕩如係風捕景,終不可得。是以明王距而不聽,聖人絕而不語。昔秦始皇使徐福發男女入海求神采藥,因逃不還,天下怨恨。漢興,新垣平、齊人少翁、公孫卿、欒大等皆以術窮詐得,誅夷伏辜。唯陛下距絕此類,毋令奸人有以窺朝者!」上善其言。

このとき成帝は継嗣がいないから、鬼神や方術をこのむ。詔して、祭祀や方術ができる者を、待詔にした。祭祀の費用がふくらむ。谷永が説いた。「儒学の『五経』では、鬼神や方術は迷信として退ける。徐福とかもウソだった」と。
成帝は谷永を善しとした。

冬、陳留と山陽で起兵がある

十一月,尉氏男子樊並等十三人謀反,殺陳留太守,劫略吏民,自稱將軍;徒李潭、稱忠、鍾祖、訾順共殺並,以聞,皆封為侯。
十二月,山陽鐵官徙蘇令等二百二十八人攻殺長吏,盜庫兵,自稱將軍;經郡國十九,殺東郡太守及汝南都尉。汝南太守嚴訢捕斬令等。遷訢為大司農。

11月、尉氏の男子・樊並らが謀反して、陳留太守を殺す。李潭、稱忠、鍾祖、訾順らが、樊並を殺したので、侯爵をもらった。
12月、山陽の鉄官の蘇令らが長吏を殺した。19の郡国をめぐり、東郡太守ち汝南都尉を殺す。汝南太守の厳訢が蘇令を斬って、大司農となる。

ぼくは思う。官爵のなさそうな者が侯爵になったり、太守から九卿にあがったり。反乱者を軍事的に鎮圧することは、とても功績がおおきい。つまりそれだけ、反乱が珍しかったのだ。まだ。


故南昌尉九江梅福上書曰(中略)上不納。

もと南昌尉した九江の梅福が上書した。成帝は納れず。130621

中華書局版1018頁から。成帝にたいする、まとまった批判である。これを独立して読めば、きっとおもしろい。当時の情勢に対する理解がわかるだろう。いまは通読が目的なので、はぶく。『漢書』梅福伝は、列伝37。きっとここに載っている。

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